正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり。抑(そもそも)地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、或(ある)いは地の下と申す経もあり、或いは西方等と申す経も候。しかれども委細にたずね候へば、我等が五尺の身の内に候とみえて候。さもやおぼへ候ことは、我等が心の内に父をあなずり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。譬えば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをはします。譬えば石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候わざりけるぞ。たゞし疑いある事は、我等は父母の精血変じて人となりて候へば、三毒の根本、淫欲の源なり。いかでか仏はわたらせ給うべきと疑ひ候へども、又うちかえしうちかえし案じ候へば、其のゆわれもやとおぼへ候。蓮はきよきもの、沼よりいでたり。せんだんはかうばしき物、大地よりをいたり。さくらはをもしろき物、木の中よりさきいづ。ようきひは見めよきもの、下女のはらよりむまれたり。月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。今正月の始めに法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし。今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。此をもってをもうに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来たるべし。法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし。(『平成新編御書』1551〜1552ページ)
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