900年頃にマジャール人(現在のハンガリー人の祖。これも東方出自の騎馬民族)の来寇を受けたりするが、スロヴェニアはケルンテン公国として概ね神聖ローマ帝国(=ドイツ帝国)の領域内にあった。1335年には支配者がオーストリアを領国化したハプスブルク家となり、このハプスブルク家の支配は実に第1次世界大戦での敗戦でオーストリア帝国が瓦解する1918年まで続くことになる。 この長いオーストリア支配のため、スロヴェニアはドイツ語文化圏の一部となった。首都リュブリャーナは本来ドイツ語でライバッハといい、また第2の都市マリボルはマールブルクという名前だった。そう、僕が住むマールブルクと同名である(そのためドイツのマールブルクには「ラーン川沿いの an der Lahn」、スロヴェニアのほうには「ドラウ川沿いの an der Drau」という形容詞が付く。ちなみに両都市は現在姉妹都市である)。 この間、16世紀の宗教改革はスロヴェニアにも及び、ルター派(プロテスタント)の教会が1561年に創設された。ラテン語のみだった聖書をドイツの口語に翻訳したルターに習い、この教会はスロヴェニア語で出版を行い、スロヴェニア語文学の礎となった。もっとも1620年以降、ハプスブルク家(フェルディナント2世)の支持を得たカトリック派の巻き返しにあい、プロテスタントはドイツに追放された。またオーストリアに対する農民叛乱も相次いだが、その都度鎮圧された。 1809年、オーストリアを破ったナポレオンはアドリア海沿岸をフランスの直轄領としたが、その際スロヴェニアも組み込まれ、リュブリャーナに県庁が置かれた。フランス革命にならい「法の下の平等」が謳われ、農地改革が行われて農奴が解放され(これは既にオーストリアにより1782年に行われていた)、農民は自分の土地を与えられた。またスロヴェニア語による初等教育も始まった。ナポレオンがロシアに敗れた1813年に再びスロヴェニアはオーストリアの支配下に組み込まれる。しかしこれはオーストリア支配に甘んじてきたスロヴェニア人にとっては画期的な出来事だった。 スラヴ主義の流行により、1855年にはスロヴェニア民族主義者によるドイツ系住民からの経済的自立運動が始まる。アントン・リンハルトによりスロヴェニア民族史が編まれたり、フランツェ・プレシェーレンといったスロヴェニア語によるロマン主義詩人も登場した。