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ここから転出して既に16年、あまりにほったらかしだと消される恐れがあるので、維持管理のための投稿。昨年はトルコに2回、イスラエルへ1回行けて、まずまず充実した年だった。本も出すことが出来てよかったよかった。加齢のため健康の方はますます注意しないといけなくなってきた
2024年02月08日
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維持のため約一年ぶりにログイン。 昨年(2022年)はコロナの影響もだいぶ落ち着いて、夏にトルコ、そして今年(2023年)3月にもトルコへ行けた。 仕事面は浮かず沈まずだが、新たなことに挑戦中。早く済まてすっきりしたい。 体調面では、加齢の影響もあるのか、口腔関係のトラブルが続く。
2023年04月02日
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久しぶりにログインしたら管理画面が変わっていた。 メンテナンスのためのログイン。 前回書き込みからまた1年近くが経過した。この間ワクチンを3回接種したが、コロナはいつ収まるんですかね。今はロシアのウクライナ侵略の方が注目されている感はあるが。 ここで日記を書いていた頃に比べても、恐ろしい時代になったもんだ。 今年は外国へ行けるだろうか。夏は行く予定が立ったのだが、仕事の都合で無理になった。
2022年04月29日
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あっという間に1年が経ってしまった。 放置するといきなりブログを消されてしまいそうな気がするので書き込み。 予想通りというかコロナは収束せず、政府の無能(というか無策あるいは放置)ぶりばかりが目立つ。出来るものならイスラエルやアメリカにワクチン接種に行きたいものだ。 当然ながら昨年3月から一切国外はおろか居住地からもほとんど出ていない。感染が下火になったと思われた昨年11月に一度だけ一泊二日で福岡へ出張した以外は、ほぼ居住地から出ていない(隣県に行くことは3回ほどあったが)。 次はいつ国外へ出られるだろうか。
2021年05月24日
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メンテナンスのため書き込み。 昨年2019年は春にギリシャとトルコ、夏にトルコとイスラエルへ行った(その他1月に韓国へ社員旅行)。仕事の方はまずは順調。健康は多少不安なこともあったが、問題ない。 今年はもうすぐ半分が終わりそうだが、3月にトルコへ行った。トルコでコロナ騒ぎが起きる直前のことでラッキーだった(当初ドイツへ行こうとしていたが、トルコにしておいて正解だった)。 4月から5月まで基本在宅勤務が続いていたが、6月から部分復帰している。今年の夏はトルコに行けるだろうか。
2020年06月05日
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今年も半ばが過ぎ、大きなイベントはほぼ終わった。 3月はギリシャ(とトルコ)へ行き、大変な目にもあったが、まあ良い旅行だったと思う。 7月はトルコ、8月はイスラエルへと二度出かけた。夏の間に二度出かけたのは初めてではなかろうか。その間仕事の方も忙しかったので、まあよく行かせてもらえたと思う。 自分もすっかり歳を重ねてきたが、そろそろ親の世話も真剣に考えないといけなくなってきた。
2019年10月03日
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何も書いてないといきなり消されそうな気がするので書き込み。 昨年は4回外国へ行ったが、今年も何度か行けそうだ(既に韓国へ行った)。来週からはギリシアとトルコへ行く予定。夏はトルコ・・・・かな?イスラエルは今年もないだろうか。
2019年02月27日
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11月:甲府、松山、大洲 1月末:台湾 2月:金沢 3月:キプロス 4月:ドイツ(ミュンヘン) 今後の予定 8月:トルコ
2018年04月23日
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ここの維持管理のために久しぶりに書き込み。一年近く書いてなかった。管理画面も変わったのね。 次はオーストリアかギリシアかスペインかイタリアに行きたい(研究上ではキプロスとイランか)。 メキシコとロシア(シベリア)からご招待いただいているが、正直急いで行きたいとは思えない。
2017年03月03日
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3月半ばに帰国した。15日間イギリスとドイツにいたが、その間15の博物館を見た。 久しぶりのドイツはやはり面白かった。永住したいとはあまり思わないが、数年くらいならまた住んでみたいと思う。難民騒ぎがどうこうと日本では報じられていたが、あまり影響は感じなかった(以前より多少警備が厳しくなったようには思う)。 イギリスは4回目か5回目だが、やはり面白い国だ。以前と少し印象が変わった気がする。以前はドイツ人に引きずられていたのかあまり好意を持っていなかったが、改めて行ってみるとイギリス人の方がドイツ人よりよほどフレンドリーな人たちだと思った(商売や仕事のこととはいえ)。あとドイツとイギリスの違いは、イギリスの女性は結構スカートを履いて(似合っているかはともかく)フェミニンな格好をするが、ドイツではスカートを履いている女性はほとんどいない。気候の違いもあるのだろうが。 イギリスでもドイツでも、寿司や日本食がいよいよ当たり前のようになっていて(もはやこうした食事から日本を連想する人は少ないのかもしれない)、日本食の店は待ちが出る程の盛況だった。ちなみにイギリスで一番美味しかったのはインドのビリヤニとモロッコのクスクス定食だった。ドイツではルール地方の郷土料理を食べた。やはり塩っぱいな。
2016年04月27日
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ドイツ留学中に書いていたこの日記(帰国後もしばらくこっちに書いていたが)、今は遺跡と化しているが、今週末から久しぶりにドイツ(イギリスも)へ行くことになったので記念カキコ。 むしろ本来の目的地はイギリスなのだが、せっかくなのでドイツへも寄ることに。寄るといいながらドイツにいる期間のほうが長い。 前にヨーロッパに行ったのは2011年の震災翌日からのスペインに行った際だが(中近東へは相変わらず毎年行っている)、ちょうどあの頃にシリアの内戦が始まったんだよな。翌年セルビアにも行ったが、あそこはあまりヨーロッパという感じはしなかった。 この5年で世界も日本もずいぶん様変わりした。欧州がどうなっているのか感じ取りたい。
2016年02月22日
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K君見てますか、最近こういうの買いました。日本に戻ったらやりませう。
2015年10月23日
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最近(ここ2年間以内)自分が関わった本の宣伝です(間接的な協力も含む)。
2015年10月22日
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今は他所でブログやっているが、そこでは過去の月別一覧を折り畳むことが出来ないので、7年も続けていると80行を超えるので、表示がびろーんと縦長になってしまう。 まあ下のほうは見なけりゃいいんだから気にすることもないのだが、そもそもブログ運営の方では7年も10年も同じとこでブログを続けるとかあまり想定していないのではないだろうか。 いずれここに帰ってくることもあるかもしれないが、あっちはあっちで非常に重要な日々の記録になったので消されるのが怖いなあ。こっちは過去の懐かしい思い出と、若気の至りの恥ずかしい記録ということで、やはり消されて欲しくないものだ。
2015年04月18日
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最近ここをほったらかしていると思って久しぶりにログインして、このブログの開設日時を見たら、2003年10月5日とあるではないか。今日でちょうど11年か。 確か夏に長いことトルコに行っていた間にライコス日記が消滅してしまい、こっちに移ってきたんだっけな。ここはもう6年くらい遺跡になっているので、機能していたのは2003年から2008と5年間だったわけだ。移転先でももう6年経ったのか。うーむ。 最近はツイッターだ顔本だとあるけど、ブログはなお一定のニーズがあるのか、無くならないですね。
2014年10月05日
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最近入手した本の中から。多すぎて忘れてしまったものもあるので全部ではない。
2014年05月02日
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今別の所でブログを続けているわけですが、月別のリストがいい加減だらーんと長くなりすぎて見にくくなってきた。 そろそろ引っ越し時だろうか。と言ってここに戻ることはあまり考えてないわけですが。 ここは画像をいちいち小さめに加工しないとアップ出来ないのが面倒くさい。あそこは自動的にサムネールを作ってくれるので日記への挿入がしやすいのがいいですな。
2014年01月07日
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半年に一度くらいはこちらにも書き込んでみるテスト。 新館のほうがいいかげん使いづらくなって来たのでこっちに戻ってもいいのだが・・・・挿入する画像が使いにくい。 楽天でお友達登録している人(たぶん30人以上いたと思う)で、今も楽天でブログを続けている人はたったの4人。なんたる凋落ぶり。というかブログ自体がもうオワコンなのだろうか。
2013年08月05日
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2012年12月16日
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今年入手した本の抜粋。全部載せようとしたら字数が多すぎると怒られたのでまずは半分。ふくろうの本図説ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶/根津由喜夫【RCP】価格:1,890円(税込、送料別)【送料無料】 トルコ・イスラーム都市の空間文化 / 浅見泰司 【単行本】価格:2,940円(税込、送料込)【送料無料】古代のシナゴーグ [ フロヴァルト・ギル・ヒュッテンマイスター ]価格:3,045円(税込、送料別)【送料無料】食はイスタンブルにあり [ 鈴木董 ]価格:1,325円(税込、送料別)【送料無料】 図説イスタンブル歴史散歩 / 鈴木董 【全集・双書】価格:1,890円(税込、送料込)【送料無料】地球の歩き方(A 25(2012〜2013年) [ ダイヤモンド・ビッグ社 ]価格:1,890円(税込、送料別)【送料無料】戦国の軍隊 [ 西股総生 ]価格:1,470円(税込、送料別)
2012年12月14日
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このブログを放置(遺跡化)して長いが、来年10月で楽天ブログに移転して10年になるようだ。あれからいろいろありました。 それ以前の大塚日記やライコスの頃(文章だけはどれかのパソコンに保存している)を入れると、僕のブログ歴は10年以上ということになるか。 時代はSNSでブログはオワコンな感じですが(楽天の自社ブログサービスへの仕打ちを見れば明らかですが)。
2012年12月14日
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ときどき更新しないと、いきなり日記ごと消されそうな気がするので更新。
2012年09月27日
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r;;;;ミミミミミミヽ,,_ ,i':r" `ミ;;, 彡 ミ;;;i 彡 ⌒ ⌒ ミ;;;! ,ゞi" ̄ フ‐! ̄~~|-ゞ, ヾi `ー‐'、 ,ゝ--、' 〉;r' `,| / "ii" ヽ |ノ 't ト‐=‐ァ / どじょうより ,____/ヽ`ニニ´/ チンパンジーのほうが r'"ヽ t、 / 良かっただろ / 、、i ヽ__,,/ パンダもついてきたし / ヽノ j , j |ヽ |⌒`'、__ / / /r | {  ̄''ー-、,,_,ヘ^ | ゝ-,,,_____)--、j / \__ / | "'ー‐‐--
2012年01月25日
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運営が「やれ」というもんだから何がなんだか分からないまま楽天プロフィールというのを作ってみた。いきなりブログの過去記事消されたりしたらかなわないので。 10年近く掲示されていたプロフィールも、せっせと作っていたリンク集も一瞬で消えた。はかないものよ。 現在利用している他のSNS(何とは言いませんが)とここは絶対にリンクさせないのでよろしく。他のSNSでも交流したい方はメッセージを送ってください・・・・って、それも無くなっちゃったんだよな。
2012年01月12日
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あまり意味のない、最近買った本、入手した本の紹介。 【中古】afb【古本】坂の上の雲と日本人/関川夏央価格:290円(税込、送料別)
2011年12月12日
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楽天日記から掲示板やブックマーク、足あと記録の機能がなくなるんだそうだ。 理由はツイッターとかミクシィ、フェイスブックの利用が広がっているかららしい。そういうのと連動させたくない利用者だっているだろうに。楽天日記利用者同士で足跡をたどったりして交流していた頃が懐かしいね。 この調子じゃいつの間にか過去日記を全部消されたりしかねないから、そろそろここの過去記事を別の場所に保管しておくかな。膨大な量だから大変そうだ。
2011年12月11日
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2011年06月07日
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私も家族も無事です。 明日から二週間のスペイン旅行の予定でしたが、それどころではなくなりそうです。
2011年03月11日
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※「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。ここは遺跡です。 あまり意味の無い、最近買った本の紹介(楽天アフィリエイトに出て来るもののみ)。 お、検索すると洋書も出てくるようになったじゃないか。でも僕はここに出ている価格よりももっと安く買った。
2011年01月27日
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最近買った本、もらった本のリスト(日本語の本のみ)。買ったものはほとんどアマゾンで買っている。この中に僕が一部執筆した本が一冊含まれている。中世ローマ帝国価格:609円(税込、送料別)
2010年09月10日
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「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。移転先はこちら↓アルタクセルクセスの仮王宮 最近買った本の紹介。外国の本が表示できないのは仕方あるまい。買っている場所は漫画はブックオフ、外国の本や中古本(本屋で見つからない絶版本)はアマゾン(日本とドイツのアマゾン)が中心。新しい本はあまり買わなくなっているなあ。本屋さんが苦しいわけだ。
2010年05月05日
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「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。移転先は↓ですアルタクセルクセスの仮王宮 写真を試しにいくつかアップしてみる。Jugemだと写真登録の際自動的にブログの幅に合わせた大きさにしてくれるのだが、楽天は自分でいじらないといけないようだ。幅は400から500pxくらいが適当か。自動的に調整してもらえるなら楽天復帰もやぶさかではないのだが。
2010年03月04日
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「アルタクセルクセスの王宮」は移転しました。移転先は↓アルタクセルクセスの仮王宮です。 楽天はアフィリエイトがあるのがいいけど、ブログに画像を貼り付けたりするのが手間がかかって面倒ですね。 最近買った本、もらった本などの紹介。
2010年03月04日
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金曜はイスラムの休日(礼拝日)、土曜はユダヤ教の安息日のため、お休みしています。 イスラエル滞在の様子を書いている、移転先の新ブログはこちら↓アルタクセルクセスの仮王宮 ここで宣伝です。 石器時代からイスラム教登場までの中近東やシルクロード(西部)の歴史がヴィジュアル豊富に概観出来、お購めやすい価格になっております。 私も一部担当しました。市販される本の執筆は初めてです。
2009年08月14日
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今年の夏もイスラエルに来ています。 去年より滞在期間が半分になり、また観光に出かけることも少ないと思われますが、興味のある方は移転先のブログをご笑覧あれ。↓アルタクセルクセスの仮王宮 昨年の写真(エルサレム) ブログ記事に写真を貼り付けるのは、やはり楽天よりjugemの方が楽に思う。
2009年08月12日
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突如久々の復活です。といってもこのブログに戻る訳ではないですが。 全く放ったらかしにしていたアフィリエイト、最近なぜだか売り上げがなかなか好調です。まだ楽天で買い物すらしたことが無いのですが。お買い上げ下さった皆様にお礼申し上げます。 すけべ心を起こしてこっちに復帰しちゃおうかなと思わないでも無いですが、しばらくは新王宮で続けます。移転先↓アルタクセルクセスの仮王宮(宣伝)最近のお勧め、というか自分も少しは関わっている本。 最近もらった本↓
2009年05月26日
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王の王、世界の王、四方の王、大王フシャールシャーの息子アルタフシャサは告げる: 楽天が気に入らないので引っ越します。移転先は、 アルタクセルクセスの仮王宮です。「仮王宮」としているのは、王宮の「秘宝」である過去記事をまだここに残しているためです。データ移植どうしよう。 これからも楽天にログインして楽天リンクの皆さまのところにお邪魔するかと思いますが、新記事はもうここには書かないと思います。またスパムがひどいようならここのコメント欄と掲示板も閉鎖します。連絡は新ブログのほうにお願いします。 以前に比べ極端に短い記事になると思いますが、今後ともよろしくご愛顧下さい。
2008年12月15日
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楽天を見限ってブログ移転を模索中です。うざい広告のついているサブページを表示させないため、メインページ(ブログ部分)の部分のみしか表示されていません。 Leadcoreさんのお勧めに従い、JUGEMブログへの移転を計画中。というかすでにページは確保してありますが、まだ記事はありません。ここの過去記事を移すのが面倒なのでしばらくはこのページも保存しておきますが、そのうち突然無くなるかもしれません。 引っ越しの際は正式に告知します。なお楽天リンクの方々には移転報告にあがることはないので、お許し下さい。
2008年12月03日
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なんかページのサブの欄の一番上に勝手にPR欄が取り付けられてるんですけど・・・・。 気色の悪い西田敏行演じる猪八戒みたいな顔のおっさんの笑顔とか(競馬予想のページらしい)、FXがどうたらこうたらとかが入れ替わり立ち替わり表示されている。しかもどうしてこうろくでもないページばかりなんだ(僕は何が嫌いって賭け事と株が大嫌いである)。 「これを外したければ楽天の有料ページ使え」ってことかね。 もういい加減にしてくれ。引っ越しを真剣に考えよう。このページの過去日記を保存するだけでも大仕事だぞ、こりゃ・・・・。そういや保存機能も付いてなかったな、楽天日記には。 ブログを新規に始める皆さん、楽天は使わない方がいいみたいですよ。
2008年11月27日
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最近ご無沙汰していた考古学関係のニュース紹介。といっても自分の興味関心に従って選んでいるので西アジア限定、しかも時代もニュースソースサイトも限られていますが。1.「塩人間」発見の鉱山の操業停止が決定。 オーストリアとイタリアの国境の高山氷河で発見された「アイスマン(氷人間)」は有名だが、イランのザンジャンという所では15年ほど前に「塩人間」(真空カプセルに保存されているが、首だけなので結構えぐい)なるものが発見され話題になった。テヘランの北西25kmにある岩塩鉱山からはおよそ1700年前のものとみられる人間の遺体が見つかったが、塩分のおかげでミイラ化し、髪の毛や耳たぶの金のイヤリングの穴はもちろん、羊毛などの持ち物もしっかりと残っていた。 見つかった遺体数は6人分になり、研究者は採掘の停止と遺跡としての保存を求めていたが、イラン鉱業省は2007年にも操業の10年延長を決めていたが、急転して採掘中止と遺跡公園としての保存が決まったという。 それはいいのだが、結局この遺体になった人たちはこんな山の中で何をしていたのだろうか?岩塩を採掘していたのだろうか。似たような塩漬けミイラの例はオーストリアのハルシュタット(ヨーロッパの鉄器時代の示準遺跡として有名)やデュルンベルクなどにもある。2.「最古のヘブライ文字」見つかる? 僕も今年の夏はイスラエルでの調査に参加したが、そのイスラエルからのニュース。エルサレム近郊のエラーで調査しているヘブライ大学のヨセフ・ガーフィンケル氏らは、紀元前1000年頃の土器に(墨で?)書かれた「最古のヘブライ文字」を発見したという。土器の年代は一緒に出土したオリーブだかブドウだかの放射性炭素年代で測定したそうだ。5行にわたる文面はきわめて短く、判読も難しいようだが、「王」「奴隷」「士師」などの言葉が読み取れるという。 それは結構なのだが、当時はヘブライ文字もアラム文字もフェニキア文字も分化していなかったのではないかと思ったりするのだが、同氏によると、ヘブライ語でしか使われない動詞とかが文中に登場するのだという。へえ。もちろんこの意見に不承諾の学者も多い。 このチームが調査しているエラーの砦の遺跡は、当時統一国家形成に向かっていたイスラエルと、その最強の敵であるペリシテ人の領域の境にあり、有名なダビデとゴリアテの一騎打ちもここで行われたそうなのだが、最近もこの調査団の「旧約聖書の記述通りの、2つの城門がこの遺跡から発見された」というニュースがある。聖書にあまり興味のない僕には「はあそうですか」としか言えないのだが。3.フェニキア人のDNA ベイルート大学の研究チームが、現在の地中海沿岸諸国に住む人から採取したDNAを分析したところ、17人に一人からフェニキア人のDNAが発見されたという。聖書の記述どうこうはともかく、こういう「フェニキア人の島女房」みたいな下世話なニュースは僕も好きですな。 まあフェニキア人の交易活動を考えれば当たり前と言えば当たり前のニュースだが、地域により濃淡(出現頻度の高低?)があって、フェニキア人の故地であるレバノンはもちろんだが、キプロス、スペイン、シチリア島、モロッコでは濃く、イタリア本土、ギリシャ、チュニジアでは割合薄いようだ。あれ?チュニジアにはカルタゴがあったのに、ローマ帝国に皆殺しか売り飛ばされたせいかな? モロッコではフェニキアの遺跡はまだあまり調査されておらず、僕の知り合い(ドイツ人)などドイツ考古学研究所がモロッコでの調査を進めているところだが、DNAからはフェニキア人の大西洋進出が先に裏付けられたことになる。ところでこの手のニュースでいつも思うんだけど、このDNAの拡散がどうしてフェニキア人に帰されるのだろうか?アラブの大征服とかオスマン帝国の遠征による移住の結果とは関係ないのかな?4.アッシリア総督の宮殿を発見! アッシリア帝国というと、紀元前7世紀に西アジアをほぼ統一した史上最初の大帝国だが(その分滅亡も早かった)、その総督のものと思われる宮殿がトルコ南西部ディヤルバクル県のズィヤーレット・テペにおけるトルコ・アメリカなどの合同調査により発見された。 アッシリア粘土板文書?の記録によると、紀元前882年、アッシュルナシルパル2世の治世、この地にはトゥシャンという名の総督がいたことが伝わっているが、その記録よろしく壁画が描かれ床暖房施設を備えた豪華な宮殿、そして銅製の容器20点などが発見されたという。また墓も見つかっており、印章や象牙製品、装身具などが豊富に副葬されており、匹敵する類例はアッシリア本国(今のイラク北部)のアッシュルやニムルードに限られるという。5.カトナでまたまた大発見 シリアのテル・ミショルフェ遺跡(古代名カトナ)では、ドイツのチュービンゲン大学による再調査ですでに未盗掘の王墓から豪華な副葬品などが発見されている(シリア、イタリアとの合同調査だが、いいものはドイツ隊の担当部分からばかり出て来るので紛争になっていると聞く)。僕もドイツ隊による発見についての講演を聴いたことがあり、来年10月からシュトゥットガルトにあるヴュルテンベルク州立博物館で特別展が予定されている。 今年の調査では最近(1980年代)まで人が住んでいたミショルフェ村の民家の下に眠る青銅器時代(紀元前1400年頃)の宮殿(王墓はその一角の地下室から発見された)が調査された。宮殿の壁は、極めて稀なことであるが高さ5m以上も残っており、また二階分の床が崩落して堆積していることが確認された。つまり少なくともこの宮殿は三階建てであり、その高さの日干し煉瓦(西アジアでは木材は貴重品である)建築物の重量を支えるには少なくとも深さ3m以上の地下基礎壁が必要になるという。またこの宮殿跡からは完全に残っている部屋のアーチ状の入口や、宮殿内の井戸に落ち込んだ木製の梁材が腐らずに保存された状態で発見された。梁材はほぞ穴まで残る遺存状態である。 また面白いのはこの宮殿の一室からゾウの骨が発見されていることで、おそらくカトナ王の狩りの成果を誇示するため展示された、あるいは王の宴会の料理として出された可能性があるという。シベリアの氷漬けマンモスの試食の限りでは、象の肉はあまり美味しくないということだが。今でこそシリアの多くは乾燥地帯で、大型野生獣は生息していないが、青銅器時代までは湿地帯などにゾウの一種(アフリカゾウやアジアゾウとは別種らしい)が生息し、エジプトのファラオなどが狩りに来ていたという。象牙目当ての人間による狩猟や気候の変化で、シリアゾウはその後間もなく絶滅した。6.ヒッタイト帝国の都の調査 ステップ地帯の交易都市として栄えたカトナ(上記)を紀元前1340年頃に滅ぼしたのは、北から攻め込んできたヒッタイト帝国だったが、その都ハットゥッシャは現在のトルコ中部、ボアズキョイの遺跡にあたる。 1906年以来ドイツ隊による発掘調査が進められ(本格的な考古学調査は1932年から)、五代目にあたる現在の発掘隊長は僕の知り合いである(同時期に同じ大学にいた)。今年の調査では紀元前1300年頃の建物の火災層の下から70点以上の完全な土器が発見されたという。 それ自体も珍しいことだが、土器の器形そのものもかなり異様なものである。写真右端の壺、なんだこれ?注ぎ口から下の部分だけ見れば、ヒッタイトの遺跡にはよくあるタイプの壺(水差し)だが、注ぎ口の部分の牛の頭は異様である。おそらく注ぎ口は牛の口にあたる小さな穴だけだと思うが、肝心の中身(水、ビールなどなど)はどうやって中に入れるのだろう?それとも日本の埴輪のように置いていただけなのだろうか。
2008年11月26日
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23日は勉強会に参加。結構飲んだ。 24日は今年は誕生日を一人で迎えるというS君に付き合って、映画を見に行く。フランス映画「Disco」(ファビエン・オンテニエンテ監督)である。 (あらすじ) フランス北部の港町、ル・アーヴル。主人公ディディエ・「トラヴォルタ」(フランク・デュボスク)は生活破綻者で、定職もなく、別れたイギリス人の妻?には一人息子ブライアンにも会わせてもらえず、同居する母にがみがみ言われ、さえないジャージ姿で母のお使いの買い物に行くだけが日課の毎日である。 そんなとき、地元のクラブ経営者ジャクソン(ジェラール・ドパルデュー)がディスコダンスの大会を企画する。かつて(70年代から80年代初頭)ディスコのスターだったディディエにも、参加するよう促す。賞品はオーストラリアへのペアチケット。ディディエは少しは父親らしいところを見せようと、息子のためにオーストラリア旅行券獲得を目指して大会出場を決意する。 ディディエはかつて3人でダンスチーム「ビー・キング」(直訳すると「蜂の王」か?)を組んでいた港湾労働者のウォルターと、セールスマンのヌヌイユを説得する。今は「普通の大人」になっている二人は、20年のブランクを経て、ディディエのペースに乗せられチームを再結成する。 新しい振付を習うため、ディディエはバレエ教室に出向くが、そこで美しいインストラクターのフランス(エマニュエル・ベアール)と出会い、一目ぼれする。紆余曲折をへながらダンス大会の予選を勝ち進む中、ディディエは息子にいいところが見せられるのか。そして恋の行方は・・・・・。(感想) あらすじを見ても分かるようにベタなストーリーで、結構あらすじが読めてしまのだが、そういうのを抜きにしても面白い(愉快な)映画だった。70年代後半~80年代前半の時代をリアルタイムで知る人は勿論(観客の多くはそういう年代の人だった)、若い人にも楽しめると思う。まあヨーロッパではずっと「80年代ブーム」が続いてるしね(日本の昭和30年代ブームとはまた性格が違うんだろうけど)。 さえない中年男がダンスで奮起して、美しいインストラクターとの恋・・なんてのは「Shall we dance?」とよく似ているが、主人公ディディエはもう滅茶苦茶な人である。全然空気が読めないというか、自分の世界に生きていて、こうと決めたら自分の思うままに突き進んでいく。傍から見ている分には面白いが、実際こういうのが周りにいたら迷惑だろうなあとは思うのだが。 ラストだけは意外に空気を読んだりしていて、この辺はアメリカ映画とは違うところかなと思う。 ところで、ディディエの年齢は40歳くらいということになっているが、この物語が現在の話だとすると年齢のつじつまが合わなくなる。演じている俳優の役柄の年齢も実年齢より10歳くらい若く設定されているが、この物語は今から10年くらい前の話でないと年齢的なつじつまが合わない。30代の僕は「サタデーナイト・フィーヴァー」なんてうろ覚えなだけだし、当時ディスコでブイブイ言わせていたのなら今は50歳くらいじゃないとおかしいんじゃないだろうか。 まあ僕は歴史専攻だからつまらない詮索をしたが、見る人が元気をもらえること請け合いの映画だと思う。・・・・・・・ 映画から帰ると、全身の関節が痛い。どうも熱があるようだ。僕は元気ではなく風邪をもらってしまったようだ。早めに対処したので熱は一晩で引いた。
2008年11月24日
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最近ブログがアルバム帳と化している件 というわけで写真の羅列と簡単なコメント。 とある洋館。1930年竣工 岡山名物(僕は見たことがない) 機織り機?いや、1930年代の○○機。 怪獣 「ジュラシックパーク」あるいは「ナイトミュージアム」 群れる「みつば虫」 マンモスだぁ! はじめ人間ギャートルズの家(マンモスの牙と骨で出来た家。ウクライナ出土) テポドン(うそ)
2008年11月09日
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最近読んだ本で面白かったものを紹介。日本語の本に限ってある。 それにしても小説全然読んでないな。何かお勧めのものありませんかね?1・自壊する帝国 佐藤優という人は一時ずいぶんマスコミに登場していたので知っていたが、この人の書いたものは初めて読んだ。しかしまあすげー面白いじゃないですか。翻訳家の米原万里(故人)とか元NHKの手嶋龍一の本を初めて読んだときの感激に似ている。そういえば手嶋氏と佐藤氏は書く内容も似ているが。僕は陰謀論は大嫌いだが、こうした確かな裏付けのある国際情勢ものは大好きである。 ムネオ疑惑でこの人が左遷されたとき「ムネオはどうでもいいがこの人はもったいない」という感想を僕はブログ(いまは無きライコス日記)に書いた。しかしそのおかげでこうしてこの人の書くものが読めるのだが、この人のこだわる「国家」である日本にとっていいことなのか悪いことなのか。 書かれていることは「ふむふむ」と頷くことばかりである。後輩にやはり外務省で専門官になった人がいるが、僕には語学力や筆力があってもとても務まりそうにないやと思うことしきりである。僕はものぐさで人付き合いが億劫だし(酒は好きだが)、こう言ってはなんだが人が好いのでうっかり騙されやすい。ソ連共産党に限らず、官僚(キャリア組)の世界というのは誰が言ったか伏魔殿のようなところだと思う。 佐藤氏はそうした世界で生きてきた人である。その書くことは傾聴に値し、全国民必読ではないかと思うくらいなのだが、そうした情報操作がなされる世界で生きてきた癖で、彼自身の書くものが情報操作の一環なんてことはないんだろうね?2.ノモンハンの夏 これまた半藤一利の本は初めて読んだ。僕は歴史をなりわい(といってもそれでは食えてないですが)にしているが、日本近代史には疎い方である。ただノモンハン事件については、大分以前に五味川純平「ノモンハン」を読んだことがあったので、大体の成り行きは知っている。 この本はヨーロッパで第二次世界大戦が勃発するのと同時期(1939年)に発生した、日本とソ連(正確にはその保護国である満州国とモンゴル)国境での武力衝突と、その政治・外交的背景を描いている。暴走する辻政信少佐ら日本軍の参謀将校、大戦を前に互いに疑心暗鬼の独裁者スターリンとヒトラー、ソ連軍の戦車に火炎瓶一本で立ち向かわされる日本兵の苦闘、無力な日本の政治、反英・親独に熱狂する日本国民・・・などなどが、時に筆者自身の義憤のこもった筆致で描かれる。半藤氏は文芸春秋の編集者だった当時に辻政信(なんと戦犯としての訴追を遁れたばかりか、戦後国会議員にまでなっている)に会っていたそうだ。へえ。 この当時のソ連もドイツも独裁国家で、責任(権力)が一か所に集まりすぎていた。対する日本はよく「軍国ファシズム」などといわれるものの、最前線で敢闘した軍人たちが敗戦の責任を負わされて更迭され自決を強いられる一方で、本当の責任者(権力者)が責任を取らされない、不思議な国だった。無責任体制という点では奇しくも上に挙げた佐藤氏が描く末期のソ連共産党に似ているかもしれない。今の日本は大丈夫なんでしょうね?? 惨めに敗北した日本のダメっぷりを描く点では五味川純平「ノモンハン」と共通するが、より大局的な観点から描かれている。さらに、五味川版の頃には公開されていなかったソ連側の資料が現在はあるので、独裁者による粛清におののきながら戦うソ連側にも目は向けられていて(死傷者の数ではソ連軍のほうが甚大だった)、日本に限らず息の詰まる時代だったことが想像できる。 日独防共協定を結んでいた日本はドイツにあっさり裏切られ、ノモンハンでの戦いの最中に独ソ不可侵条約を結ばれてしまう。その二年後に日本はソ連と不可侵条約を結ぶが、その直後にドイツはソ連との条約を無視してソ連に侵攻する。挙句の果てに、1945年にソ連は日本との不可侵条約を破って侵攻し、日本人多数が犠牲になった。ドイツやソ連が悪辣すぎるとはいえ、日本外交は何をやっていたのだろうか。いや、今はどうなんだろう。 最後の「人は歴史から学ばないということを痛感させられる」という言葉が重い。 少々気になったのはドイツに関する記述で、駐日ドイツ大使の姓が「オットー」になっていたり(Ottだから最後の音は伸ばさないと思う)、マンシュタイン、ボック、ハルダーらの将軍の肩書が元帥になっていたり(前二者はノモンハンの翌1940年に元帥になったが、ヒトラー暗殺計画に加わったハルダーは元帥になっていない)などである。まあ些細なことです。3.琉球の王権とグスク 安里進 これはまあ僕の専門に近いかな。巨大グスク(城)や浦添ようどれ(王墓)の発掘調査・整備を手がかりに、考古資料を使いながら沖縄における国家形成・王権の発達を探った実証的な研究が、コンパクトにまとめられている。お買い得。 「おもろさうし」を研究した伊波普猷以来、琉球を統一したのは15世紀初頭の尚巴志で、それ以前は島内各地に豪族(按司)が戦国時代さながらに割拠していたというのが通説になっていたが、考古学調査を手がかりに、それ以前の13世紀には全島の統一的な王権が成立していたのではないかとする。しかもその背後には躍動する大陸(中国や朝鮮半島)との交易があるという。しいて日本の国家形成論(日本に統一的な国家が成立した時期をめぐり、「七・五・三論争」と呼ばれる)で例えるなら、3世紀に国家形成がなされたというようなものか。 島という限られた空間の中での国家形成モデルとその分析手法は、対象とする時代も地域も違うとはいえ、僕にもとても参考になる。しかも琉球王の遺骨を納めた石櫃を飾る彫刻の文様がイスラム起源だとは、なんとも刺激的ではないか。やはり13世紀は面白い。 沖縄行きたい。4.メロヴィング王朝史話 オーギュスタン・ティエリ これもまあ専門に近いと言えば近いが、研究書ではない。史書を基にした物語である。 しかしただの史書を読むのとは違い、登場人物が生き生きと描かれている、今日的な歴史叙述からすれば学問的ではないのかもしれないが、逆に人間の物語としての歴史の叙述としてははるかに面白いし、ある種の真実を衝いているのではないだろうか。この本を読んでいると、人間の行動に感情がナマなむき出しの時代という印象を受ける。時代性というものか。 メロヴィング朝(5世紀末~8世紀半ば)というのは現在のベルギーからフランス北部辺りを本拠地とした、初期中世の王朝である。ローマ帝国はよそから来た征服者であるから、フランスの地に成立した最初の地生えの国家であるといえ、この本が書かれた当時、つまり国民国家を目指していた当時(19世紀)のフランスでは一時もてはやされた。しかし困ったことに、メロヴィング家の起源はゲルマン系のフランク族であり、むしろ隣国のドイツに縁がある。困ったフランス人(ナポレオン3世)は、代わりにフランス地元の太祖・英雄として、ローマ人に抵抗したケルト(ガリア)人ウェルキンゲトリクスを持ち上げるようにのだが、それはまた別の話。 メロヴィング朝は日本でいえば大和朝廷(王権)の時代である。どちらも国家形成の時代であるといえる。メロヴィング朝がキリスト教を受け入れたのと同様、大和朝廷は仏教を国の礎にしようとした。メロヴィング朝がビザンツ帝国(さらにはその向こうのイスラム文明)を意識せざるを得なかったのと同様、日本は中国文明の影響下にあった。ユーラシアの東西両端に成立した国家であるこの両者を比較研究して、何か面白いことがいえないかと以前から企んでいるのだが、まだ果たせずにいる。・・・・・・・ とまあこんなところだが、国家とか、ロシア(ソ連)とか、微妙に共通するテーマがあるな。我ながら読書の幅が狭いことよ。
2008年11月06日
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(引用開始)小室哲哉容疑者 世界進出で挫折…借金も15億円超11月4日15時0分配信 毎日新聞 数々のミリオンセラーを世に送り出した希代の音楽プロデューサーが地に落ちた。著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺容疑で4日午前、大阪地検に逮捕された小室哲哉容疑者(49)。90年代、Jポップ界に「小室ブーム」を巻き起こし、長者番付にも名を連ねた小室容疑者だが、最近は15億円以上の借金を抱えていたという。転落の原因の一つとなったのは世界進出の挫折だった。【藤田剛、林田七恵】(中略) 98年1月、小室容疑者は「アジアに総合娯楽事業を」との触れ込みで、香港に音楽制作会社「ロジャム・エンターテインメント」を設立した。中国や香港、台湾などのアーティストをプロデュースし、アジアでの市場開拓が狙いだった。 当時、小室容疑者はJポップ界の頂点をすでに極めていた。TRFや安室奈美恵さん、華原朋美さんらの曲を次々にミリオンヒットさせ、96年の高額納税者番付は芸能界トップの全国4位。推定年収は20億円と言われた。次の目標はアジア、欧米へと向き、ロジャム社がその足がかりとなるはずだった。(中略) 結局、小室容疑者は04年、持ち株をすべて売却し、会長職を辞任。経営からの撤退を余儀なくされた。「小室は香港の事業に数百億円をつぎ込み、ばく大な損失をこうむったらしい」と話す関係者もいる。 海外に重点を置いてからは、国内の小室人気も陰りを見せる。00年以降は目立ったヒット曲が生まれず、消費者はすでに「小室サウンド」に飽き始めていた。01年には吉本興業と契約したが、大きな実績も残せず、07年に契約を解消した。 一方、小室容疑者の派手な生活や事業への投資は続き、借金ばかりが増えていった。小室容疑者関連のイベント企画会社「トライバルキックス」が、サッカーJ1「大分トリニータ」のスポンサー料を滞納したり、離婚した前妻への慰謝料の未払いが発覚するなどスキャンダルも続発。最近ではロサンゼルスの豪邸や高級外車などをすべて売却し、年間2億円を超えるヒット曲の印税収入も、大半が債権者に差し押さえられていたという。 ◇小室プロデューサーが手がけた主な曲◇■「My Revolution」(86年、渡辺美里)■「Get Wild」(87年、TM NETWORK)■「EZ DO DANCE」(93年、trf)■「恋しさと せつなさと 心強さと」(94年、篠原涼子)■「WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント」(95年、H Jungle With t)■「DEPARTURES」(96年、globe)■「I’m proud」(96年、華原朋美)■「CAN YOU CELEBRATE?」(97年、安室奈美恵)※敬称略。( )内は、提供年、提供アーティスト(引用終了) これはびっくりした。マケインがオバマを大逆転して大統領に当選!!というニュースよりも驚きですよこれは。 とはいえ、後知恵とは言え、なんとなくこういう事件を起こすんじゃないかという気もしてたんだけど。 僕は邦楽のCDは買ったことがないけど、世代としては全く「小室世代」に属するんじゃないかと思う(歳サバ読みすんなとかいうツッコミはなしということで)。普通にテレビを見ていたら嫌でも耳に入って来ていたし、研究室でも割合CDとか買ってた人がいてダビングとかさせてもらってたもんな。最近じゃ音楽なんてCD買うもんじゃなくてインターネットや携帯でダウンロードするもんなのだろう。作曲家とかもうからないんだろうな。著作権ビジネスというのも今的といえばそうだ。 ドイツに留学したばかりの頃に行っていた語学学校には台湾から交換留学で来た女子大生がたくさんいたが、僕に「TKサイコー」とか言っていたのを思い出す。TKってなんじゃそれ?と聞き返したら小室哲哉のことだった。彼女たちみたいなのを哈日族(ハーリーズー)とかいうそうだけど、それだけ外国でも人気があったということなんだろう。 それが逆に転落へのきっかけになったというのなら皮肉なものだ。やっぱり中国ビジネスはリスクも大きいのかね(ちょっと違うか)。ていうか本人の生活態度とかに問題があったのか。・・・・・・・ たぶんもうすぐ黒人初のアメリカ大統領(予定者)が誕生するんだろうけど、なんかケネディと同じ運命をたどるんじゃないかという気が・・・・。ぼそり。
2008年11月04日
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学会発表した。出来は今一つ(二つ?)。 やはり原稿を用意して話さないと駄目か。パワーポイントに頼りすぎるのも敗因。 その後はたくさん酒を飲んだ。
2008年11月02日
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Oktoberfest im OktoberPatrouillenschiff mit HubschrauberFlugabwehrmaschinengewehr ZPU-2Panzerabwehrwaffe ручной противотанковый гранатомёт-7Sturmgewehr Автомат Калашникова образца 1974 года Ein Linienschiff (1930-1960)SchiffsdieselmotorGuan Yu-Schrein in China Town我が家 meine Wohnung (Wohnung der 60er Jahren)我が別荘 auch meine Wohnung (vorgeschichtliche Grubenhäuser)
2008年10月18日
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日本代表だめかもしれんね。・・・・・・・ 僕は多年トルコに行き来しているが、そこで「日本人か?」と聞かれることは最早ほとんどなく、大抵東南アジアか中央アジアの国名が挙がる。トルコ人とは似ても似つかない僕のモンゴロイド顔からそうした地域が挙がるのだろうが、東南アジアは僕が日に焼けて黒くなっているせいとして、中央アジアのほうは僕の話す流暢だがやや拙いトルコ語のせいだろうか。中央アジアにはトルコ語と同系統の言語を話す民族が広く分布している。 特に「オズベキ」に似ていると言われたことが何度かある。「オズベキ」とは日本では通例「ウズベク」と称される、中央アジアのウズベク人のことである。トルコ人にとって最も身近なモンゴロイドの代表が、ウズベク人なのだろうか。 ウズベキスタン共和国は、サッカー日本代表の国際試合などで耳にするほかは、日本人にとって馴染みが薄い。この国は隣接する中央アジアの国々(トルクメニスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)とともに1991年にソヴィエト連邦から独立した。「一衣帯水」という言葉があるが、内陸国であるこの国は隣国(旧ソ連諸国とアフガニスタン)も全て内陸国という稀有な二重内陸国で、そういう意味では島国の日本から最も「遠い」かもしれない。 ウズベキスタンは面積44万平方キロ(日本の1.1倍)で、世界で4番目に大きい湖だったアラル海から、中国の国境に程近いフェルガナ盆地までの東西120kmに及ぶ国土がある。その多くはキジルクム(「赤い砂」)など砂漠に覆われているが、アラル海に注ぐアム川沿いや、点在するオアシス、そしてフェルガナ盆地などは対照的に肥沃であり、人口2700万と中央アジア諸国で最多の人口を擁する。国民の約4割が18歳以下ときわめて「若い」国でもある。 「ウズベキスタン」という国名は「ウズベク人の国」という意味だが(ウズベク人は少数民族として中国やアフガニスタンにも居る)、ウズベク人は全国民の7割程で、かつてのロシア帝国やソ連支配の名残でロシア人が5%いる。またウズベキスタンの西端1/3はカラカルパク自治共和国となっているが、同じトルコ系ながらウズベク人よりモンゴロイド形質が強いカラカルパク人は、国民全体の2%に過ぎない。 東部のフェルガナ地方では、旧ソ連時代に画定された隣国タジキスタンやキルギスとの国境が複雑に入り組んでいるが、それはこの地域の多様な民族構成を反映している。そもそも「ウズベク人」という民族概念は、近世の部族名を20世紀になってこの地のトルコ系民族の総称として採用したもので、例えば古都サマルカンドやブハラではトルコ系のウズベク語とペルシア系(印欧語)のタジク語の両方を話すバイリンガルが普通だった。公式にはウズベキスタンのタジク系国民は5%程度ということになっているが、タジク人の主張ではもっと多く、政府により少数派のタジク人は弾圧されているという。 乾燥しているウズベキスタンでは、夏は雲一つない青空が広がり降水は無い。灌漑などで水を得れば豊かな実りが得られるが、ソ連時代の計画経済の名残で、耕地面積の8割が国家主導の綿花栽培にあてられ、食料自給率は低い。また灌漑による大規模な自然改変の影響で、流入水量が減少したアラル海の縮小が進んで現在はかつての面積の四分の一になり、干上がった湖底に漁船が放置される死の光景が広がり、漁業は壊滅した。他方独立以来の経済改革により外資を導入し、金、天然ガス、ウランなどの地下資源開発が進んでいる。地下資源輸出額は金が最多であるが、最近開発が進む天然ガスはパイプラインを通じてヨーロッパなどに輸出されている。 ウズベキスタンでは古くは中期旧石器時代(ネアンデルタール人)の遺跡が発見されている。紀元前2000年前後には南部のオアシス地域に都城を伴う高度な文明が出現した。一方同じ頃北部にはアンドロノヴォ文化が及んだが、この牧畜民はのちに騎馬を利用した遊牧民になり、オアシス地帯の農耕・都市民とステップ地帯の遊牧民という、この地域を特徴付けていた二つの生態が成立する。 この地域は古代にはソグディアナあるいはバクトリアと呼ばれたが、紀元前6世紀頃に西アジアを統一したアケメネス朝ペルシアの支配下に入った。西方の西アジア文明、そして東方の中国文明の中間という位置により、ユーラシア大陸のほぼ中央にあたるこの地は、「シルクロード」と通称される東西交易の主役となる。 アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアのアレクサンドロス大王は、紀元前328年にこの地に遠征して越冬し、当地の豪族の娘ロクサネを最初の正妻に迎えている。アレクサンドロスの東方遠征とともにヘレニズム(ギリシャ)文明がこの地に伝わる。紀元前240年にはギリシャ系支配層によるバクトリア王国が成立、インド北部まで勢力を伸ばし、そこで仏教はヘレニズム文化と融合して優れた偶像芸術を持つことになる。 紀元前140年頃から、東方から遊牧民である月氏(中国の史書での呼称。印欧語族)がこの地に移って来る。紀元前1世紀にはクシャン朝を樹立してインド北部にまで進出し、カニシカ王は仏教を保護した。 一方中国を統一した前漢も西方への関心を持つようになり、中国の史書は張騫が探検した、馬と葡萄を豊富に産する「大宛国」について伝えているが、この大宛とはフェルガナ地方のことである。東西交渉は活発になり、仏教やその美術はこの地を通って中国へ伝わり、さらに6世紀には日本に伝来することになる。 交易と農耕の富に恵まれていたが故に、この地は様々な民族の支配を受けることなった。5世紀半ばには東方から騎馬民族エフタルが現れ、それを追うように6世紀にはやはり東方から突厥が出現し、この地のオアシス都市を支配した。「突厥」とは中国史書での呼称であるが、「テュルク」すなわちトルコの音写である。7世紀初め、仏教の経典を求めて天竺に旅立った玄奘三蔵は、この地を通ってインドに辿り着いた。 やがて突厥が分裂して中国の唐王朝の勢力が及ぶようになり、この地に住むペルシア系のソグド人たちは、商魂たくましく中国との交易に従事した。しかし中央アジアに勢力を伸ばしていたイスラム教徒のアラブ軍(アッバース朝)に751年のタラス川の戦いで敗北し、またソグド人安禄山が起こした反乱で国内が混乱したため、唐の中央アジア支配は後退した。この地にはゾロアスター(拝火)教徒のほか、ユダヤ教徒、仏教徒やキリスト教ネストリウス派もいたが、以後はイスラム化が進んでいく。 アラブ人たちはこの地を「マーワラーアンナフル」(川の向こう側)と呼んでいた。アッバース朝が衰えると、819年にブハラを都とするサーマン朝が分離独立した。「知の鉱脈」と謳われたブハラはバグダッドなどと並ぶイスラム世界の中心地となり、ブハーリー(ハディース=預言者ムハンマド言行録の編者)、イブン・シーナ(医学・博物学者)などを輩出する。 サーマン朝は地元のペルシア系官僚や東方遊牧民出身のトルコ系軍人を重用したため、ペルシア語文学が隆盛する一方、トルコ系軍人が実権を握り、その西方移住が促進された。サーマン朝はカラ・ハン朝に代わられ(999年)、ついで現れたセルジューク朝は11世紀にアム川を越えてペルシア、さらに小アジア(現在のトルコ共和国の領域)へと進出してゆく。1141年にセルジューク朝を破ったホラズム朝もまたトルコ系である。 1219年、東方からチンギス・カン率いるモンゴル軍が侵攻してホラズム朝を滅ぼし、中央アジア全域を支配下に収めた。1227年にチンギスが死んだ後、モンゴル帝国は分割され、この地はチンギスの次男チャガタイの子孫が継承するチャガタイ・ウルス(国)の領土となった。モンゴル帝国もトルコ系軍人・官僚を重用したため、中央アジアのトルコ化はさらに進んだ。 1336年4月にシャフリサブズで生まれたティムールは、チャガタイ・ウルスの一部将から身を起こし、一代で中央アジア・西アジアを制覇した。故郷近くのサマルカンドに都したティムールやその孫ウルグベクは、碧いタイルも鮮やかな壮麗な建築物を数多く建設したが、その王朝は数代で分裂・衰退した。 それに乗じてこの地を征服したのが、北方のトルコ系遊牧民ウズベク族(シャイバーン朝)である。ウズベク(オズ・ベク)とはトルコ語で「真の君主」くらいの意味だが、その名はチンギス・カンの子孫で敬虔なイスラム教徒君主ウズベク・ハンに因むとされる。1512年にウズベク族はティムール朝のバーブルを破って中央アジア支配を確立した(敗れたバーブルはインドに転進しムガル帝国を樹立する)。 しかしウズベク族は内部抗争や南方のペルシア、北方のカザフ族との戦いで疲弊し、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドを拠点とする小ハン(王)国に分裂した。 中央アジアでこうした盛衰が繰り返される間に、世界情勢は大きく変わっていた。シベリアを征服したロシアが南下して中央アジアを窺うようになる一方、インド支配を確立したイギリスもまた中央アジアに関心を持つようになった。産業革命による紡績業の発達やアメリカ南北戦争の混乱による綿花の品薄感が、両帝国をして綿花栽培の盛んな中央アジアに目を向けさせた。 イギリスがアフガニスタンで手を焼くのをしり目に、1860年代からロシアは中央アジア征服に乗り出す。かつて無敵を誇った遊牧民の騎兵もロシア軍の火器には勝てず、敗れた各ハン国は1876年までに全てロシアの支配下に置かれた。 ロシアはタシュケントにトルキスタン総督府をおいて植民地経営を進め、綿花増産を強制し、鉄道を建設した。伝統の崩壊を危惧したウズベク人の反乱は容易に鎮圧され、ジャディードと呼ばれる知識人たちは、ロシアやオスマン(トルコ)帝国、日本などに習いトルコ民族の統一・近代化を目指す運動を始めた。第一次世界大戦中の1916年にはロシア支配に反対するバスマチ蜂起が発生し、さらに翌年にはロシア革命が起きたが、ジャディードたちの多くは革命で成立した社会主義ソヴィエト政権に合流した。 1924年にソ連内の一国としてウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が成立、1929年にはタジクと分離した。ソ連の独裁者スターリンの下では、1930年代に「民族主義者」の烙印を押されたウズベク人が多数粛清された。第二次世界大戦中はスターリンに敵性国民とみなされたドイツ人、高麗(朝鮮)人、タタール人などが前線に近い地域からこの地に強制移住させられ、現在も少数民族として残っている。 1959年にウズベク人シャラフ・ラシドフがウズベク共産党第一書記に就任し、20年以上その地位にあったが、その下では縁故主義や汚職がはびこった。ラシドフは中央からの綿花増産指令も嘘の達成報告で乗り切った。ソ連は綿花大増産を「社会主義の勝利」として宣伝し、その褒賞としてウズベキスタンには資本が分配され、1977年には中央アジアで唯一の地下鉄が首都タシュケントに開通している。 ラシドフの死から3年後の1986年、ソ連ではミハイル・ゴルバチョフ書記長による改革が始まってウズベク共産党の偽装や汚職が明るみになり、指導部が総入れ替えされた。改革でソ連政府の権威が弱まると、1989年にはフェルガナ地方で民族紛争が発生した。その結果イスラム・カリモフがウズベク共産党第一書記に任命された。 しかしソ連は崩壊し、1991年にウズベキスタンは独立した。カリモフはそのまま大統領に就任し、国民投票を根拠に、憲法の規定に背いて現在まで任期を延長し続けている。外交ではロシアから離れて西側に接近する姿勢を見せ、2001年以降のアメリカによるアフガニスタンでの「対テロ戦争」にも協力し、アメリカ軍やドイツ軍の駐留を認めた。国内でも1999年や2004年にイスラム原理主義勢力によるテロが起きている。 2005年5月、アンディジャンで反政府暴動が発生し、当局による発砲で市民数百人が死亡したといわれる。非難声明を出した欧米の姿勢に対抗して、ウズベキスタンはアメリカに米軍の駐留延長拒否を通告、同年11月に米軍は撤退した(ドイツ軍は今も駐留)。同月ロシアと軍事同盟を締結、また上海協力機構にも加盟して、ロシアや中国との関係強化に乗り出している。
2008年10月15日
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我ながら珍しいことに、自分のホームページで宣伝。 昨日から東京・池袋(サンシャインシティ・文化会館7階)の古代オリエント博物館で特別展が開催されています。この展覧会について詳しくはこちら↓ 古代エジプトの美展 日本各地を巡回している展覧会だそうですが、東京近辺在住のみなさま、ふるってご来場ください。 先に行われた「吉村作治のエジプト発掘展」は大盛況のうちに終わったが、こちらは対照的に落ち着いてこじんまりとした印象はあるものの、精巧な名品が数多く並んでいる。・・・・・・・ 果たして「日本文明」というのが存在するのかどうか分からないが、仮に弥生時代以降だとしてもおおよそ2000年、しかも長い年月でその相貌を大きく変えている。「日本史を研究するには室町時代以降だけで十分」と喝破したのは柳田国男だったか徳富蘇峰だったか、とにかくずいぶんと変化している。 それに引き換え古代エジプト文明は3000年の長きにわたり、頑固なまでにそのスタイルを維持し続けた。言い換えれば、彼らにとってその美術はすでに究極の域に達していて、何ら変更すべきことがなかったのかもしれない。変化のスピードが今よりゆっくりしていた古代のこととはいえ、それにしても3000年とは恐れ入る。 よく「中国四千年」というが、実際に連続性があるかは疑問もある。しかしエジプトでは確実に連続性が意識されていた。まあ現代のエジプトとはまったく違うのだが。 僕はエジプトが専門ではないのだが、過去にいくつか古代エジプト関係の日記を書いているので、その中で反響があったものをいくつかリンクで紹介しておく。↓ミイラで得る幸福な来世ブサイクなクレオパトラ? 「3000年前の美女」をめぐる争い ・・・・・・ びっくりする訃報が続いたので切り貼りメモ。(引用開始)三浦元社長 移送先ロスの留置場で自殺10月11日19時9分配信 毎日新聞 【ロサンゼルス吉富裕倫】米ロサンゼルスの日本総領事館によると、81年のロス銃撃事件で殺人と共謀の容疑でロス市警に逮捕された元輸入雑貨販売会社社長、三浦和義容疑者(61)=日本では無罪確定=が10日午後9時45分(日本時間11日午後1時45分)ごろ、市警本部の留置場の独房でTシャツ姿で首をつっているのを係官に発見された。搬送先の病院で死亡が確認された。(中略) 事件は、日本で03年に無罪が確定した元社長が発生から約27年後の今年2月、旅行先のサイパン滞在中、ロス市警が88年に取っていた逮捕状で逮捕され、米国で再び訴追手続きが進むという異例の展開を見せた。(中略) 元社長は一貫して無罪を主張。同じ事件で再び罪に問うことを禁じる「一事不再理」を主張し、サイパンで人身保護請求を申し立てたが、現地の地裁はこれを棄却。ロス郡地裁も9月、殺人容疑の逮捕状は無効としながら、殺人の共謀罪での訴追続行を認めた。 また、ロス郡地裁に求めていた逮捕状取り消しも実現せず、元社長は拒んでいたロス移送に同意した。(引用終了) 何も死んでしまうことはないだろうに・・・。(引用開始) ナチス称賛のオーストリア極右党首、ハイダー氏が交通事故死10月11日19時18分配信 読売新聞 【ウィーン=石黒穣】ナチスを称賛した発言などで知られる、オーストリアの極右政党・未来同盟党首イェルク・ハイダー氏が11日、交通事故で死亡した。 58歳だった。 警察によると、州知事を務める南部ケルンテン州で運転中の公用車が横転、頭や胸を強く打ち、病院で死亡が確認された。 1950年、北部の町でナチス青年組織出身の両親の下に生まれた。ウィーン大で法学博士を取得。86年に36歳で自由党党首に就任。排外主義を掲げ、ヒトラーの雇用政策礼賛など、親ナチス発言を連発した。 99年の総選挙で同党を躍進させ、国民党との連立政権を実現。欧州連合(EU)諸国は、自由党の政権入りに反発して交流制限などの制裁に踏み切り、ハイダー氏は党首を辞めた。(引用終了) これまた予想外の末路・・・・。オーストリアの暴れん坊がこういう形で世を去るとは思わなかった。
2008年10月11日
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夕方S君と映画を見に行く。ドイツ映画「Mein Fuehrer」(邦題:「わが教え子ヒトラー」)である。ドイツ語圏の映画で、タブーとされてきた「(動く)人間ヒトラー」が初めて登場し話題となったのは2004年の「Der Untergang」(「ヒトラー最期の12日間」)だったが、これはさらに一歩踏み込んで、ヒトラーを扱ったコメディとして話題となった。漫画ではヒトラーを茶化した作品はだいぶ前からあり店頭にも並んでいるが(どれもこれもドイツ的ギャグというか、なんか内容が汚らしいんだよね)、映画では初めてだろう。 監督は「Alles auf Zucker!」などのコメディ作品があるダニー・レヴィだが、彼自身はユダヤ系ドイツ人である。主演は「Das Leben der anderen」(「善き人のためのソナタ」)で主演したウルリッヒ・ミューエだが、彼は惜しくも昨年7月にガンのため急逝したためこの映画が遺作となった。(あらすじ) 第二次世界大戦末期の1944年12月。首都ベルリンをはじめドイツの町の多くが空襲で廃墟と化し、ナチス・ドイツの敗勢は覆うべくもなかった。宣伝相ゲッベルス博士(ジルヴェスター・グロート)はドイツ国民を鼓舞すべく、久々に計画されている総統ヒトラー(ヘルゲ・シュナイダー)の年頭演説に賭けていた。しかし敗北と裏切りの連続で人間不信に陥ったヒトラーには往年の迫力も気力も感じられない。 ゲッベルスは一計を案じ、かつてヒトラーに演説法を指導した有名な俳優のグリューンバウム教授(ウルリッヒ・ミューエ)に再び演説指導させることにする。グリューンバウムはユダヤ人で、ザクセンハウゼン強制収容所に入れられていた。最初は断ったグリューンバウムだが、家族を呼び寄せることを条件に承諾する。 指導などいらない、ユダヤ人に用などないと最初は言っていたヒトラーだが、グリューンバウムの指導を受けるうち、彼にだけはその内面を見せるようになる。一方、迫害を受けるユダヤ人同胞のため、隙を見てヒトラーを殺そうとしたグリューンバウムだが、独裁者の孤独な内面に接するうち、二人の間には奇妙な友情のようなものが生まれていた。ヒトラーも演説にやる気を起こす。 1945年1月1日、演説の時間が迫るが、ゲッベルスのこの計画にはさらに裏があった。そしてハプニングから、演説は思いもかけぬ方向へ・・・。(感想) うーん。期待しすぎたのか、正直あまり面白くなかった。「(ドイツにとって長年のタブーだった)ヒトラーを笑い飛ばす」という意図は分るのだが、あまりに単純に戯画化しすぎてしまっているように思う。コメディなんだから時代考証とかは言いっこなしなのだが、ヒトラーがチャップリン演じる「独裁者」そのままであるというか、あまりヒトラーに見えないというか。むしろもっと真に迫ったヒトラー像を出したり、冷酷・残酷な面を示したりしてブラックさがあれば「面白い」のだが。十分「滑稽」ではあったが。ドイツ人にコメディは無理なのか、あるいは題材がヒトラーではこれが限度なのか。出てくるヒトラー・ネタは大体想像の通りだった。実際のヒトラーはこの当時にはパーキンソン病が進行していたという証言もあるが、ラジオ演説を除きほとんど人前に出なくなっていた。現実は陰惨である。 むしろヒトラーの周りの人々(ナチ党員)の描写や、ドイツ人の特性ともいうべき書類主義、官僚主義の描写が面白かった。ヒトラーに最も心酔し後追い自殺までしたゲッベルスが実はヒトラーを利用することしか考えてなかったり、戦後のニュルンベルク裁判で罪を認め、長年「良いナチ」の一人とされていたシュペアー軍需相が一番ヒトラーに忠実だったりと、おそらく意図的なキャラクターの作り替えが随所に見られる。ナチスとかあの時代のことを知っていればそれなりに楽しめるし、知らなくても単なるコメディとして楽しむこともできるかもしれない。 大真面目・大仰で歴史の教科書でも読まされているような「Der Untergang」と併せて見ると、面白さは際立つかもしれない(キャストは親衛隊長官ヒムラー役のウルリッヒ・ネーテンだけが共通している)。それともこのコメディは、戦後ドイツで繰り返されてきた(左右を問わず)生真面目な「ナチスを振り返る」風潮そのものを、連中は道化だよと風刺する意図があるのだろうか。 まあそういう意味で画期的な作品ではあるのだが、もっとも驚いたのはベルリンの中心部にある旧博物館(現在はギリシャ・ローマ時代の遺物を展示)の前で、沿道に鉤十字の旗を振る群衆で満ち溢れるヒトラーの行進を撮影したことだろうか。よく当局が許可したね。それともCGなのだろうか。 麻生現首相が民主党をナチスみたいだと評したり、亀井静香が小泉元首相(引退するそうですが)をヒトラーにたとえたり、民主党の国対委員長が現代日本の風潮をナチスの勃興期になぞらえたりしている。この人たちがどれだけナチスのことをよくご存知なのかは知らないが(まあ皆さんナチスが実際に存在した時代に生まれてはいらっしゃるんでしょうが)、ドイツ人の前でそういうたとえは使わないほうがいいですよ。 悪という点では人後に落ちないとはいえ、60年前に滅んだ他国の政権が、我が国の選良(ぷぷ)によってこうも引き合いに出されるとは、ナチス、そしてヒトラーは伝説と化して永遠に生き続けるのだろうか。単純に殺した人の数(戦争除く)で比較するなら毛沢東やスターリンのほうが多いんだけどね。
2008年09月30日
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・・・あっ、そう・・・・・。 ↑こういうの書いてる人たくさんいるんだろうな。 しかしまあ「あ、っそう」くらいの感想しか出てこない。福田(前)首相がやめると言い出したときは確かに驚いたが。しかしまあ麻生さんに代わって何か変わるんですかね。それをいうなら民主党政権になってもねじれ国会が逆転するだけでさほど変わらないんじゃないかと思うのだが。それにしても3年で首相が3人交代か。なんか昭和10年代を見ているような。 イスラエルでは金の絡んだ汚職を追及されていたエフード・オルメルト首相が、僕がイスラエルに発つ前日に9月での退陣と与党党首辞任を発表し、先日後継党首に女性のリヴニ外相が選出されたばかり。連立交渉が順当にいけばこの人が第四次中東戦争(1973年)当時のゴルダ・メイール(メイアー?)以来の女性首相になるわけだが、女性といいながらなかなか強面そうな人だそうで、中東和平が好転する目はないという観測だそうだ。 ドイツでは大連立の与党SPD(社民党)のクルト・ベック党首が今月はじめに突然2年務めた党首の辞任を発表。この人はラインラント・プファルツ州の州首相を14年も務めている人だが、州の外での人気は芳しくないのか、世論調査では知名度も支持率も低空飛行で、このままでは来年の総選挙でメルケル首相を擁する連立相手のCDU(キリスト教民主同盟)に大きく水をあけられしまいそうだった。 そこで来年総選挙では自分が党の顔である連邦首相の候補にならず、シュタインマイアー外相(官僚→シュレーダー前首相の補佐官という経歴なので、連邦議会に議席がない)に譲らざるを得なくなった。そのついでに「党首やーめた」と言い出したそうだ。辞任の理由のひとつにマスコミによるミスリードを挙げていたが、マスコミ嫌いなところなどは福田前首相あるいは小沢さんに似ているかもしれない。 どこの政治家も似たようなもんか。世界は金融不安だそうだが(僕はそれ以前に金欠だが)、経済はもはや政治でどうこう出来やしないんだろうな。
2008年09月24日
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