第7官界彷徨

第7官界彷徨

五味文彦先生の平家物語その3


 今週のNHkラジオ講座、五味文彦先生の「平家物語」は、大事な重盛が死んでも、楽しそうな後白河上皇が気に入らない清盛。あまつさえ、重盛の知行国を平家以外に渡してしまった朝廷に、怒る清盛のクーデターです。

 重盛に先立たれ、心細くなった清盛は、福原に行って引きこもってしまいます。
「法印問答」
 11月7日の夜に大地震が起こり、陰陽師の安倍泰親が内裏に参り、天下に変事が起きる占いが出ているといいます。
 14日になると清盛は何を思ったのか、数千騎の軍を率いて都に上ります。
 何ごとかと人々が騒ぐ中、関白基房に「清盛は基房を滅ぼすつもりだ」との忠告もあり、帝もそれを聞いて涙を流すのでした。
 15日、清盛は朝廷を恨んでいるにちがいないと聞いて、法皇は驚き、真偽を確かめるために、信西の子静憲法師を使者に立てて、清盛を訪ねさせます。

 清盛は、法皇への不満を言います。
・重盛の喪中なのに八幡で歌舞を奉じたこと、重盛は院に尽くしたのに、悲しみの様子が見られない。
・重盛の知行地だった越前国を、嫡子維盛から取り上げたこと。
・中納言の欠員に、清盛の婿の藤原基通を推薦したのに、関白基房の子を取り立てた。
・鹿ヶ谷の密謀は法皇もかかわっていた。

 静憲法師は、鹿ヶ谷に加わっていたので
「龍の髭を撫で、虎の尾を踏む心地」だったが、ひるまずに
 清盛の官位も栄達も、すべて功績に対しての君意のたまもの、それでも不満があるのか。と言い返します。
♪あな怖し、入道のあれほど怒り給ふに、ちとも騒がず返事うちして、立たれけるよとて、法印を褒めぬ人こそなかりけれ♪

「大臣流罪」
 法印は帰ってこのてんまつを話せば、法皇も納得します。同じ
16日、清盛は思っていたことを実行に移します。
 関白、太政大臣以下、公卿殿上人43人の官職を奪って追放。
 関白藤原基房は鎮西へ流罪。基房は世に絶望して鳥羽のあたりで出家。遠流の人が途中で出家すると、約束の地まで行かなくても良いという決まりに基づき、備前国国府あたりに留めおかれます。
 関白の座には清盛の女婿基通が大抜擢され、人々はあきれ果てるのでした。

 太政大臣藤原師長は尾張国へ配流。(生きていたのね、頼長の子!)
 保元の乱の時には父悪左府頼長の縁者として兄弟4人が流され、兄弟3人は配所でなくなり、この方は土佐の畑で九年を過ごし、長寛2年8月に召し還されたのです。
 師長は詩歌管弦の道にすぐれ、琵琶の名手。
「罪なくして配所の月を見んといふことをば、心ある際の人の願ふことなれば、、、」と動じなかった。

 あるとき、師長は熱田神宮に参詣。琵琶を弾いて奉納します。
 すると、熱田神宮の宝殿が震動し、師長は
「平家の悪行なかりせば、今、この瑞相をばいかでか拝むべき」と感動の涙を流したということです。

 てなわけで、平家の公卿、平氏に親しい公卿たちが朝廷を支配します。

「行隆」は、清盛クーデター後の悲喜劇。
 江判官遠成と子息の家成は、平家の処罰を逃れるために頼朝をたよろうとしたが、それもできず、平家の軍勢に囲まれ、家に火を放って割腹自殺。

 前左少弁行隆という人は、二條院の時には職もあったが、この十数年は失職していて、衣食も十分でない暮らしをしていた。
 清盛から召され、何もしていないのに、誰かの告げ口か、恐れつつ、車を借りて参ると、法皇の元に出仕するように言われ、米や使用人、牛、車などを贈られたので、
♪死にたるひとの生き返りたる心地して、よろこび泣きをぞせられける♪
 17日には5位に任ぜられ、元のように左少弁に復帰した。51歳、それも一時の栄華であった。

 今週は、ここまででした。
 この「行隆」という人こそ、平家物語を書いた、信濃前司行長という人の父親なんだそうです。
「一時の栄華」とは、行隆は公卿になる前に亡くなってしまい、行長は出家を余儀なくされる。

 平家物語の成立
 行長は、父の行隆の日記をもとに、平家物語を書いたと考えられる。
 ここにこの段を入れたのは、これからは父の日記を使って行くのだ、という意味合いらしい。

 行長は父に連れられて九条兼実に仕え、その子よしすけにも仕えたのちに世を憂い出家。
 哀れに思った慈円が行長を援助し、書かれたのが平家物語。

 信濃前司行長という人の人生も、ドラマだったんですね~!

2012年7月29日
さてNHKラジオ第2放送、古典講読の時間。五味文彦先生の平家物語。
 一週間が早い事はやいこと。

 「法皇流され」私の本では「法皇御遷幸」
 (多くの反対派を処罰した清盛)
 同じ20日に後白河法皇の御所を軍勢で囲みます。
 平治の乱の時のように、御所に火をかけ、人々を焼き殺すという噂が流れ、局の女房や女童子なども逃げ出してしまった。
 そこへ宗盛が現れ「早くお出ましを」と促します。
 法皇は成親、俊寛のように遠国流しにするつもりか、何の罪も無いのに」
 と言うと、宗盛は
「そうではありません。しばらくは世を鎮めるために、鳥羽へお移りしていただきたいと、父入道が申しております」
 と言います。
 「それなら供をせよ」
 と法皇が言いますが、宗盛は清盛を怖れて従いません。
 法皇は重盛が生きていたら、守ってくれただろうに、と思うのでした。

 車に乗れば、公卿殿上人の供は一人もなく、北面の下郎と力者だけ、あとに乳母の尼御前がつくだけでした。
 その法皇の車を、多くの町の人が見送り、あの7日の地震は、こういうことの予兆だったのかと、涙を流すのでした。

 鳥羽では誰一人御前に訪れる人もない中、信西の子の静憲法師は清盛の所に行き、法皇を鳥羽に訪ねたいと願い出ると、早く行くように、と許されます。
 鳥羽に言った静憲は、尼御前から
「昨日の朝、御所でお食事を召されたのち、夕べも今朝も何も召し上がらず、お休みにもならないのです」
 と聞かされて、
「平家の悪行もここまで、滅びる日も近いことでしょう。神仏の加護もこちらに」
 涙を抑えて慰めるのでした。

「城南の離宮」
 ♪百行の中には孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治むといへり♪
 孝行息子の高倉天皇は、鳥羽の後白河院にひそかに手紙を出します。
 「こんなことになるのなら、位を返上して山林流浪の行者にでもなってしまいたい」

 法皇のご返事は
「そのようなことはお考えなされますな。あなたが皇位におられることだけが、ただ一つの頼みです」
 帝はそのお返事を顔に押し当てて、涙はとまらないのでした。

 後白河院政の中心だった人たちは相次いで世を去り、残るのは出家してしまった人たちだけ。
 清盛は、一連の処分が済むと、あとは帝に一任するとして、福原に帰ってしまいます。

 23日、宗盛は参内してこのことを申し上げれば、天皇は冷たくあしらうのでした。宗盛は、何の相談もなく始まったクーデターに困惑するばかりなのでした。

♪法皇は城南の離宮にして、冬も半ば過ごさせ給へば、射山の嵐の音のみ烈しくて、寒庭の月ぞさやけき。
 庭には雪降り積もれども、跡踏み付くる人もなく、池にはつらら閉じ重ねて、群れいし鳥も見えざりけり。
 大寺の鐘の声、遺愛寺の聞きを驚かし、西山の雪の色、香炉峰の望を催す。
(中略)
 年去り年来りて、治承も4年になりにけり♪

☆なぜ法皇が鳥羽に流されたかといえば、清盛は比叡山などと法皇との接点を警戒したらしい。しかし、鳥羽には三井寺系の寺社があり、のちに法皇とつながっていくらしい。

平家物語のつづきです。第4巻に入ります。
「厳島御幸」
 治承4年正月1日、法皇のいる鳥羽には、清盛を恐れて3が日の間、参上する人もいないのでした。
 しかし、信西の子息の桜町少納言成範、弟の左京大夫なが範さまが参内なさった。

 20日には春宮の着袴の儀が行われたが、法皇は鳥羽院にとどめ置かれたままだった。

 2月21日、病でもないのに高倉帝が退位され、東宮が即位して安徳天皇となられた。
 新しい帝は今年3歳。
 三種の神器は高倉帝の御所から新帝の御所に移され、
「入道相国、夫婦ともに外祖父外祖母とて、准三后の宣旨をかうぶり」
 六波羅は上皇、宮家の御所同然の華やぎ。
 高倉院が安徳天皇を支える形で、高倉院政が成立します。

 今週はこのあたりまででした。
 ひとくちコラムは「女房」について。
 藤原定家の姉の健御前は、後白河上皇の后、建春門院に仕えた女房でした。
 そこには、23人の女房、36人の番という女性がおり、60人もの女房がお仕えしていたそうです。

 堀田善衛の「定家明月記私抄」によれば、
 頼朝の死んだ正治元年、1月11日、5歳年長の姉健御前が、八条院で他の女房達と「喧嘩口舌」して、院を飛び出して定家の所に転がり込んでくる、、、という記述が。
 この姉は12歳の時から高倉天皇の母である建春門院に仕え、平家の世の盛りを見た人。
 老後には「建春門院中納言日記」なる回想録を書いているそうです。
 定家には禁色を許された11人の姉妹がおり、これがすべて後宮の女房として宮仕えをしていて、定家の力になってくれていたそうです。
 中でも同腹の5歳違いの健御前とは、一番仲が良かったらしいです。

 建春門院滋子さまの所で働いている女房の中に、定家くんの姉がいると思うと、なんだか楽しいですね♪
 そしてまた、平家の栄華と滅亡、頼朝の鎌倉幕府とその死、などの動乱の時代に、家業(和歌)と家族を守りつつ、政治と距離をおいて、貧乏しながらも生き続けた定家たちの存在、、に、興味津々です。


2012年8月5日
今回は治承4年、高倉上皇の厳島御幸と、その間に行われていた平氏打倒のはかりごと(以仁王の乱)
「厳島御幸」つづき

 3月上旬、高倉上皇が厳島に御幸することになりました。八幡・賀茂・春日神社が御幸始めの定番なのに、なぜ厳島神社なのかと、人々は不審がり、山門の大衆も怒っているので少し延期になったが、高倉院は母の建春門院がその成長を祈願した厳島信仰のもとで育ち、それを中心に院政を行おうとしていたのです。

 高倉上皇は厳島の旅の途中、鳥羽の後白河法皇を訪ねようと思い、宗盛に清盛にお伺いをたてたほうがいいか聞くと、宗盛は大丈夫だというので、19日、鳥羽を訪ねます。
(これは平家物語の脚色で、日程から見て訪ねていないそうです。虚構の対面であるし、宗盛が仕切るのも不自然)

♪弥生も半ば過ぎぬれど、霞に曇る有明の月はなほ朧なり。越路を指して帰る雁の、雲居に音信れ行くも、折節あはれに思し召す。未だ夜のうちに鳥羽院へ御幸なる♪

♪上皇は今年二十、明け方の月の光にはえさせ給ひて、玉体もいとど美しうぞ見えさせましましける。
 御母儀、故建春門院に、いたく似参らせ給ひたりしかば、法皇は先ず、故女院の御こと思し召し出でて、御涙塞き敢へさせ給はず。
 両院の御座、近くしつらはれたり。♪

 26日、上皇は厳島神社に着き、清盛の最愛の内侍の宿が皇居になります。
 大日如来を祀る大宮、毘沙門天を祀る客人、中宮、厳島神社のそれぞれの宮に参り、神主の佐伯景廣、国司の藤原有綱に位を授けます。

 29日にお帰りの旅立ちをし、天候の様子などで長引いたものの、供のひとたちと、ひとときの楽しい旅をなさったのでした。

 2日、備前、6日は福原のあちこちを見て、頼盛の山荘にも行き、7日、福原を発ち寺井へ。
 8日、迎えの公卿たちと合流して、西八条へお帰りに。

 この時の厳島詣での様子については
「高倉院厳島御幸記」に詳しく書かれていて、作者は源通親というけど、書かれたのは平家物語の後らしい。

 22日、新帝の即位の式が執り行われました。
 大極殿は焼けてしまってないので、九条兼実の言葉に従い、紫宸殿で行われ、安徳帝が即位。

 蔵人の定長が、この即位の様子を厚紙10枚ほどに書き記して、入道の北の方に届ければ、時子はたいそう喜んでそれをみたのでした。

「源氏揃へ」
 以仁王の説明から入ります。
 一院の第2皇子の以仁王は、加賀大納言季成卿の娘で、高倉に住んでいたので高倉の宮といいます。
 文雅の才もあり、太子になっても良いほどなのに、建春門院にそねまれて、押しこめられてしまっています。
 治承4年には、30歳になっていました。

 其の頃、入道頼政がこの宮を訪れ、怖いことをいいます。
「太子にもなるべき方が、30歳になっても宮に押し込められているのは、心憂しとはお思いになりませんか。ご謀反を起こして平家を倒し、鳥羽に押しこめられている法皇をお助けなさって、宮も皇位につくべきです!」

 令旨さえ下されば、諸国の源氏も喜んで馳せ参づることでしょう、と言って、京都から摂津、河内、大和、近江、、、、陸奥まで、諸国の源氏を名を並べ立てます。

 50人ほど名を挙げた中に、木曾義仲、伊豆の頼朝、陸奥の義経などの名もあるのです。

 そして、以仁王は挙兵を決断
 まず、新宮の十郎義盛を蔵人になさり、行家を改名して令旨の使いとして東国へ下されます。
 4月28日、都を発って、近江より始め、美濃、尾張の源氏に伝えて歩くうちに、5月10日には伊豆の頼朝の所にたどりつきます。

 今週はこのあたりまででした。
 頼政は、自分や息子たちの官位が上がらなかったのを恨んでいたらしい。平家の世なので仕方ないけど。(次回、名馬木の下をめぐっての宗盛の仕打ちなど)
 以仁王とは和歌や管弦つながりだったみたいね。

2012年8月12日
 今週は以仁王の乱のその後でした。

 源頼政の進言により、平家を討べしとの令旨が、各地の源氏に発せられ、熊野では本宮が平家、新宮と那智が源氏というふうに分かれたのです。
 本宮の別当湛増は、破れて本宮に戻り、以仁王の反乱を告げるべく、使いを都の平氏に送ります。

「いたちの沙汰」(後白河院のようす)
 鳥羽の御所でいたちが騒いだため、後白河院は仲兼を呼び、阿倍泰親に占ってもらうよう使いに出します。
 答えをもらって帰ってきた仲兼は、警備が厳しくて中に入れないので、築地の破れから中に入り、床下から入って、答えを上皇にお渡しします。

 そこには
「3日のよろこび、3日の嘆き」と書いてありました。
 喜びは、宗盛の進言により、法皇が都に戻されたこと。
 嘆きは、熊野の別当からの知らせで、以仁王の乱がバレてしまった事でした。

「信連合戦」(以仁王のようす)
 以仁王は不安に思っていたところ、頼政から手紙が届きます。謀反が露見してしまったので、追っ手が来る前に三井寺に入るように、とのことでした。
 そこで、仕えていた侍の中に、長谷部信連というものがいて、このままでは見つかってしまうので女房装束で逃げるようにと進言、以仁王は女房装束に市女笠に扮装して逃げたのでした。

 残った信連が片付けをしていると、宮の愛用していた「小枝」という笛が残されていたので、信連は急いで追いかけて渡します。
 宮は「自分が死んだらこの笛を棺に入れよ」と言い、信連にこれからは供をするようにと言うのですが、信連は、御所から逃げたと言われるのは武士としては口惜しいので、、、と一人引き返します。

♪信連その夜の装束には、うす青の狩衣の下に萌葱匂の腹巻を著て、衛府の太刀をぞ帯いたりける。
 三条表の総門をも、高倉表の子門をも、共に開いて待ちかけたり。♪

 やがて検非違使の役人たちがやってきたので、信連は「宮は物詣でにおでかけだ」と言いますが、納得されず、信連は獅子奮迅の働きをするも、捕えられてしまいます。

 六波羅に連行された信連を、宗盛は河原で処刑をといいますが、清盛の処分は伯耆の日野に遠流と決まりました。
 のちの源氏の世に、信連は梶原景時に仕え、その折り、この時のことを語ったために、頼朝に召し抱えられたのだそうです。

 かつて壬申の乱の折り、大海人皇子が吉野に逃れた時に、少女の姿をとったように、高倉の宮以仁王も、そのようにして逃げたのでした。
♪知らぬ山路を、終夜はるばると分け入らせ給ふに、何時習はしの御事なれば、御足より出づる血は、砂を染めて紅の如し。
 夏草が茂みを中の露けさも、さこそは所せう思し召されけめ。
 かくして暁方に三井寺へ入らせおはします。♪

 大衆(だいしゅ)はたいそう喜んで、法輪院に御所をしつらえたのでした。。

  頼政は、なぜ謀反を起こそうと考えたのか。それは平宗盛が「言いまじきことを言い、すまじき事をした」ためといいます。

 その一つに、頼政の子の仲綱が「木の下」という名馬を持っていて、その噂を聞いた宗盛が、一度見たいと言います。見せればほしいと言われるので、今はいないと言って断っても、一日に何度も催促の使いが来ます。
 頼政はこれを聞き、「それほど欲しがっているのなら、六波羅へお届けせよ」と言ったのです。

 仲綱は仕方なく手放しますが、歌を書き添えます。
*恋しくば来ても見よかし身に添ふるかげをばいかに放ちやるべき
 影=鹿毛(の馬)
 これは、伊勢物語の
*恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
 を踏んであるらしい。

 ところが宗盛は、歌の返事もしないで、木の下の尻に「仲綱」という焼き印を押させて厩に収めます。
 そして名馬を見たいと言う客人が来ると、仲綱を引き出せ、と言っていたぶるのでした。

 父の頼政は
「どうせ泣き寝入りとあなどって、こんな振る舞いをするのだ。いつか、好機をうかがおう」

 これにつけても、宗盛に比べれば、小松の重盛の立派さよ!
 ということで、まいこんだ蛇にまつわる重盛の気の使い方、など。
 その蛇は、仲綱から郎党の競(きおう)に渡され、捨てられたところ、重盛から良い馬を褒美として下された、というエピソード。

 16日の夜、頼政、その子の仲綱たちは、館に火を放ってから、三井寺の以仁王のところに集合します。

 頼政の侍に滝口競というものがいて、遅れてしまってまだ留まっているというので、宗盛は「なぜ供をしないで残ったのか」と聞きます。
 そして
「朝敵頼政に同心する気か、それとも当家に奉公する気か」と聞かれて、競は、涙を流しつつ、朝敵に同心はできない、と答えます。

 日の暮れになり、競は申し上げるには
「頼政は三井寺に入ったと分かりました。おそらく夜討ちをかけてくるでしょうが、それを返り討ちにしてみせましょう。ところで、良い馬を持っていましたのに、取られてしまいました。馬を一頭お下がり下さいませんか」

 といいますと、宗盛は「もっともだ」といって、白葦毛の煖廷(なんりょう)という秘蔵の名馬に立派な鞍をつけて下されます。

 競は妻子を秘かに家から去らせ、家に火を放って三井寺へ向かいます。

 六波羅では、この火を見てひしめきあいます。
 宗盛が「競はあるか」と訪ねると「いない」という返事。誰か追いかけて討て」と命じても、競の弓にかなわないと、誰も追う者はいないのでした。

 三井寺では、なかなか来ない競の噂をしていたところ、頼政が「いまに来るわ」と言っていると、競が現れ
「六波羅の煖廷をせしめてまいりました」と言います。
 自分の名馬木の下を奪われた仲綱は喜んで、煖廷の尾を切り取り、焼き印を押して馬を六波羅に返します。

 馬屋に戻った煖廷を宗盛が見ると、
「平宗盛入道」と焼き印がはっきりと目に入ったのでした。
 躍り上がって怒ったけれど、煖廷の尾も生えず、焼き印も消えないのでした。

 今週は、ここまででした。
 平家物語は、宗盛を悪く書いているので、今の所平家びいきの私は複雑な気分。
 杉本秀太郎さんの「平家物語」では、宗盛は美男の競を男色の相手として自分に仕えるよう、誘ったと、(八坂流?の本)には書いてあるらしい。
 それで、秘蔵の名馬を譲ったりする謎がとけてきます。
 競は、のちの狂言の太郎冠者そのものの働きなんですって!

2012年8月19日
今週の「平家物語」は、以仁王を掲げて三井寺に結集した人たちの様子です。

「山門牒状」
 三井寺の大衆たちは、詮議の上、今こそ仏法のために清盛の暴悪をこらしめる時だ、として、南都北嶺の僧たちに、自分たちに合力してほしいと、牒状を送ることにします。

 牒状とは、
 公的文書で身分が上から下へは「符」
         下から上へは「解」
          横の関係は「移」
  上下も横も明らかでない場合は「牒」と言うのだそうです。

 延暦寺に送った牒状には
「清盛が仏法を破滅させようとしている今、以仁王が入山した。延暦寺とは二つに分かれているけれど、同じ天台宗、鳥の左右の翼のように、または車の両輪のようなもの。是非とも合力してほしい。」

 山門の大衆はこれを見て
 当山の末寺でありながら、鳥の左右の翼とは、また車の二つの輪に似たりとは奇怪な、、、と怒って、大衆たちの結束を固め、また清盛からは米や絹が届けられます。

 南都興福寺への牒状には、王法を守るため、朝政を乱す清盛を討つ為に合力してほしい、と書かれており、興福寺の大衆は会議の上、諸国の受領に仕えていた卑しい身分の正盛から、忠盛の代でやっと昇殿を許され、清盛に至っては藤原氏や上皇をないがしろにして政治を執り行っている、末寺に下知して軍を集めて合力しよう、という結論になり、期待してほしいという返事を出します。

「大衆揃へ」
 三井寺では、比叡山には断られたし、遠い南都の興福寺からはまだ返事が来ない、このままではあぶない、夜のうちに六波羅の焼き討ちをしようと会議をします。

 そこに反対意見が出ます。
 平家に近い、阿闍梨の真海が、平家の味方をするわけではないが、このように少ない軍勢では平家を打ち負かすのは難しい、よく計画を練って勢力を整えてからにするべきだ、と長々と語ります。

 そこに阿闍梨の慶秀が、他の寺をあてにせずに、進むべき。天武天皇はわずか17騎で戦におもむき、各地の軍勢を集めて大友皇子を滅ぼしたという故事もある、夜も更けてしまった、急いで進軍すべきと勇ましいことを言います。

 そして大将軍の源頼政を先頭に、老僧や武士などがたいまつを持って如意が嶺に向かいます。

 三井寺では、以仁王が来てから、平家が攻めて来る時のために、掘を掘ったり逆茂木を植えたりして通りづらくしてあったので、掘りに橋をかけたり逆茂木を抜いたりしているうちに、夜がしらじらと明けてしまいました。

 夜討ちならば平家にも勝つことができようが、昼のいくさではどうしようもない。
 というわけで、それぞれが三井寺に引き返します。
 若大衆悪僧たちは、これも阿闍梨真海の長演説のせいだと、さんざんに斬りつけるのでした。
 真海は怪我をして六波羅に駆け込みますが、六波羅にはすでに大軍が集まっていて、少しも動じる気配はないのでした。 

 以仁王は、この寺だけではどうしようもないと、23日の明け方に三井寺を出て南都に落ちていかれたのでした。
 その時には「蝉折れ」「小枝」という、2つの笛を携えて。

 阿闍梨慶秀は、宮の前に鳩の杖をついて参り、「どこまでもお供をしたいけれど、もう80歳を越えて歩くのも心もとないので、弟子の俊秀をお供させます。」
 と涙を流します。
 この俊秀というのは、平治の乱の折りに六条河原で義朝の手によって討ち死にをした、相模の国の住人、須藤利通の遺児であり、「自分の後継者として育ててきたものです。どうぞどこまでもお連れください。」という言葉に、宮も涙をおさえきれないのでした。

 それにしても、いろいろな人がからんでくる平家物語って、すごい作品だなあと思います。 

2012年8月26日
 今週のNHKラジオ第2放送、五味文彦先生の「平家物語」は、宇治の平等院へこもった以仁王を攻める平家の「橋合戦」と南都興福寺へ逃れゆくも、途中で討たれる以仁王の「宮御最期」でした。
 いよいよ戦記物らしい場面の登場です。

「橋合戦」
 宮は三井寺から宇治へ行く途中で6度も落馬します。前の夜にろくろく寝ていないからでした。橋板を3間はがして追っ手対策をしたのち、ようやく休みます。

 六波羅はただちに追手の大軍をさしむけます。その数2万8千余騎。
 宇治橋がはがされていることに気付いて後ろに知らせる間もなく、先陣は200騎ほどが川に落ちて流されます。
 川をはさんで六波羅軍と頼政軍との閧の声や矢を射るなどして、宮の僧兵但馬が平家の矢の中を橋の上から進み出て「矢切の但馬」の武者ぶりを披露。続いて筒井浄妙、慶秀に仕えていた一来法師の活躍などが描かれ、それを敵も味方もやんややんやと見物するのです。

 しかし、橋の上の合戦はらちがあかず、侍大将忠清は、増水した宇治川を渡るのに、淀の一口(いもあらい)まで迂回する方法を、総大将の知盛にはかります。

 そこに、下野の国の足利忠綱が言うには、利根川を渡すのに「馬筏」を組む坂東武者のやりかたを告げると、真っ先に川に入り、3百余騎がこれに続きます。
 足利忠綱は、細かく指示をします。

♪強き馬をば上手に立てよ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ばうほどは、手綱をくれて歩ませよ。はづまば、かいくぐって泳がせよ。手を取り組み、肩をならべて渡すべし河中で弓引くな。敵射るとも相引きするな♪
 そうして3百余騎は、一騎も流さず川を渡り切ったのでした。

 総大将の知盛は、これを見て「渡せや渡せ」と号令。2万8千余騎は、川を渡るのでした。
 ところが、その中に

♪いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の官兵、馬筏押し破られ水におぼれて6百余騎ぞ流れける。萌黄、緋、赤、いろいろの鎧の、浮きぬ沈みぬゆられけるは、神南備山の紅葉葉の、峰の嵐に誘はれて、龍田河の秋の暮れ、、、、、♪

 平家物語は、武者たちの鎧の色もまた聞かせどころなのです。

 それを見て伊豆守源仲綱(名馬木の下の持ち主で、頼政の嫡子)が歌を詠みます。
*伊勢武者は皆緋おどしの鎧着て宇治の網代に懸かりぬるかな

 仲綱について、鴨長明が書いているそうですので、ネットからの引用をします。あとでなおすかも。

=仲綱のこういう歌
「淋しさはかねて降りにし山里にならはしがほの今朝の初雪」
……寂しいものは 以前から雪が降っていた山里に 慣れた様子で降っている今朝の初雪だ。

に対して大弍入道(藤原重家 歌人)が

「こんな(まちがった)言葉を歌に詠むような人を、(たとえその人がほかに)百も千もの秀れた歌を詠んだとしても、
どうして(ちゃんとした)歌人といえようか。(そんな人は歌人ではない)
まったく不快な事だ。」と評しました。

つまり、「前から降っていた」と上の句で言いながら、下の句で「初雪」と言っているのが、矛盾しているということでしょう。
このあとに続けて「人に聞き合わせないから、まちがうのだ」と言っています。=

 このころ、伊勢にいた鴨長明は、都の事変を気にしつつ暮らしていたようです。

「宮御最期」
 平家の大軍が川を渡って平等院の中になだれ込んできたので、宮を奈良に向かって逃がし、そのあいだに渡辺党や三井寺の大衆がとどまって防ぎます。

 頼政は70歳を越え、膝を痛めたので、自害の覚悟で門の中に入ります。次男の兼綱はその時間の引き延ばしのために、平家の軍勢とたたかい討ち死に。
 頼政は、信頼の厚い渡辺唱を呼び、西に向かって手を合わせ、
*埋もれ木の花さくこともなかりしに身のなる果てぞかなしかりける
 という歌を残して首を討たせます。
 唱は、首を直垂の袖に包み、石にくくりつけて宇治川の深みに沈めたのです。

 平家方の飛騨守景家という百戦錬磨のつわものは、宮は南に落ちて行かれたと思い、いくさには加わらず4、5百騎の馬で南へ追いかけると、30騎ばかりで落ちていく宮に追いつきます。
 射かけると、宮の左の腹に当たり宮は落馬します。
 宮を守ってきた三井寺の僧たちは討ち死にします。

 宮の乳母子の宗信が、そこを逃げて隠れていると、「浄衣を着た死人の首のないのを戸板に載せて運んでいるのを見ます。
 その死体には
「自分が死んだら棺に入れて欲しい」と宮が言っていた秘蔵の笛が腰にさされていたのです。

 今週はこのあたりまででした。死人がいっぱい!
ちょっと長くなりますが、ういきより源頼政について引用します。興味のある方はごらんください。

=摂津国渡辺(現大阪市中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。参河守頼綱の孫。従五位下兵庫頭仲正(仲政)の息子。母は勘解由次官藤原友実女。兄弟に頼行・光重・泰政・良智・乗智、姉妹に三河(忠通家女房。千載集ほか作者)・皇后宮美濃(金葉集ほか作者)がいる。藤原範兼は母方の従弟、宜秋門院丹後は姪にあたる。子には仲綱・兼綱・頼兼・二条院讃岐ほか。
 永久・元永年間(1113-1120)、国守に任ぜられた父に同行し、下総国に過ごす。保延年間、父より所領を譲られる。白河院判官代となり、保延二年(1136)、蔵人となり従五位下に叙せられる。
 保元元年(1156)七月、保元の乱に際しては後白河院方に従い戦功を上げたが、行賞には預らなかったらしい(平家物語)。
 同四年十二月、平治の乱にあって平家方に参加、再び武勲を上げる。以後漸次昇進し、治承二年(1178)十二月、平清盛の奏請により武士としては異例の従三位に叙された。同三年、出家するが、平氏政権への不満が高まる中、治承四年四月、高倉宮以仁王(もちひとおう)(後白河院第二皇子)の令旨を申し請い、翌月、平氏政権に対し兵を挙げる。三井寺より王を護って南都へ向かうが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、同年五月二十六日、宇治川に敗れ平等院に切腹して果てた。薨年七十七。

 歌人としては俊恵の歌林苑の会衆として活動したほか、藤原為忠主催の両度の百首和歌(「丹後守為忠朝臣百首」「木工権頭為忠朝臣百首」)、久安五年(1149)の右衛門督家成歌合、永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、同年の建春門院北面歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、同年の右大臣兼実家百首など、多くの歌合や歌会で活躍した。藤原実定・清輔をはじめ歌人との交遊関係は広い。また小侍従を恋人としたらしい。
 『歌仙落書』『治承三十六人歌合』に歌仙として選入される。
 鴨長明『無名抄』には、藤原俊成の「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」、俊恵の「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」など高い評価が見える。自撰と推測される家集『源三位頼政集(げんのさんみよりまさしゅう)』(以下『頼政集』と略)がある。詞花集初出。勅撰入集五十九首。=

2012年9月2日
 今週のNHKラジオ第2、五味文彦先生の「平家物語」は、以仁王の乱のその後、「若宮御出家」「鵺=ぬえ」「三井寺炎上」でした。
 これで卷の4が終わりです。

「若宮御出家」
 乱を収めた平家の武士たちは、宮、頼政の係累のもの、渡辺党、三井寺の大衆など五百人あまりの首を切って太刀や長刀の先につけて凱旋します。

 首実検するにも、宮の首は知っている人がいないので治療をした医者が呼ばれますが、病気だと言って来ないので、宮の御子を生んだ女房が呼ばれます。
 この女房が、首を一目見て袖で顔を被って涙を流したので、宮の首と分かります。

 以仁王はたくさんの御子をもうけていました。
 八条の女院のところに三位の局との間にできた7歳の若宮と5歳の姫がおりました。
 清盛は弟の頼盛を使者にして、この若宮を差し出すようにとつたえます。八条の女院は断ったものの、再三の催促についに若宮を差し出します。

 六波羅では、この宮を見て宗盛が清盛に命乞いをし、若宮は仁和寺の御室に入れられます。
 この宮はのちに東寺のトップになられたのでした。

 奈良にいたもう一人の若宮は乳母の讃岐守重秀(季)が出家をさせ北国へ下ったのを、木曾義仲が上洛のおりに主にしようと還俗させ、都にのぼったので、木曽が宮、または還俗の宮ともいうのです。
 後には、嵯峨野の野依のあたりに住まわれたので、野依の宮とも申されます。

*この血筋の人たちは、こうして政治に利用されてきたのが当然みたいな歴史があるのね。
 ちなみに、杉本秀太郎さんの平家物語によれば、昭和20年昭和天皇を仁和寺に入れようとの動きもあったのですって。
 頭を丸めて恭順の意を表する、、、って、、、アメリカさんに通じたかどうか疑問だけど*

 今度の以仁王の謀反により、平家に味方した高僧たちにはたくさんの報償があたえられ、また宗盛の子の清宗は三位に昇進します。いまだ12歳なのですが、これは藤原氏以外では例のない早いご出世でした。
 高倉宮以仁王と頼政の追討の功によるものでした。

「鵺=ぬえ」
 ここでは、保元、平治の乱で功績があったものの官位にめぐまれなかった頼政が昇進したのは
*人知れぬ大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな
 で昇殿を許され、そのまましばらく四位でいたのを

*上るべき便りなき身は木のもとに しひを拾ひて世を渡るかな
 で、三位に上れたのでした。

 和歌だけでなく、近衛院のころ、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴く声は鵺に似たものを退治、二条院の時には「鵺」を退治したことでも知られる勇敢な武将でした。

 その後、伊豆の国をもらい、子息の仲綱を受領にして、自らは丹波の五箇の庄、若狭の東宮河を知行していたのですが、無謀な謀反を起こし、宮も我が子も子孫も亡くしてしまわれたのでした。















© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: