全4615件 (4615件中 1-50件目)
近鉄奈良駅で電車に乗る前にペットボトルを買いたかったのですが、特急券を買うのにちょっと手間取り「京都で買えばいいよね」と愛する奈良に別れを告げて無事指定の席に座ることが出来ました。不思議にいつも空席が多い特急電車。このときも3分の1くらいの乗車率でした。良かった!(後で思えば近鉄さんにも我々乗客にも!)座れば思い出すことは奈良での楽しい思い出ばかり。大体の目的は果たせたけど、唯一行けなかった弥勒石。「いいよね、次回の宿題ってことで。来年は弥勒石に絶対行こう。飛鳥寺からゆっくり農道を歩いてもいいし」「次は橿原神宮前で軽も車を借りれば車でも行けるかも」「来年じゃなくて今年の秋でも行けるかも」なんて次の旅に心を遊ばせていると、ゆっくりめのアナウンスが「ただいま、人との接触事故がありました。急ブレーキがかかりました。お気をつけください」と言い、ゆっくりとした感じで電車が停止しました。同時に窓の外を綿毛のようなものが大量にふわふわとふってきました。あれは何だったんでしょう。そのときはボロギクのような綿毛の多い植物が生えている場所かな?鳥の羽毛みたいな気もする。ひかれた犬の毛?接触事故というけど。アナウンスは「警察の到着を待っています」というのが何回もあり、結構長かった。その後「警察が到着しての確認中です」というのも長かった。何時に京都につくかとは言わなかった。車掌さんが何回か回ってきて「電気は止まっていますがトイレは使えます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」とは言うけど詳しいことは何も言わなかった。「接触事故と言ったけど救急車の音が聞こえないね」「新幹線間に合わないかもね」「仕方ないね」「のどが渇いたね」「やっぱり奈良でペットボトル買ってくれば良かったね」「そのうちもらえるかも」などと言っているうちに、オレンジ色の消防署の人らしき男性たちが「体調の悪い方はいませんか」と聞きに来てくれて、こちらは(ご親切にありがとうございます。大丈夫です)の会釈。同じ車両の人で、何度も前の方に様子を見に行くらしい中年男性が一人いたけど、声の大きな人やヒステリックな人は一人もいなくて良かった!そのうち、京都着のおおよその時間がアナウンスされ、それがまた遅くなったりして、予約した新幹線には乗れなさそうに。「遅延証明出るのかね」「出ないかもね。海外だと半日遅れでもみんな問題にしない国もあるし」「新幹線の券をもう一回買い直すつもりでいるしかないかもね」と、あきらめの早い千葉県人。そのうちに点検も終わって、京都まで行く乗客は、西大寺で橿原神宮前から来た特急に乗り換えるというアナウンス。西大寺の乗り換えはリュックに荷物の行列でぞろぞろ歩くと難民気分。西大寺から電車は快適に進み、京都駅に着いたのは新幹線の時間5分前。走って転んだりしたら大変なので、次の新幹線にしようと思ったけど、乗れるかも!と新幹線改札口のお兄さんに聞いたら、「すぐに行ってください」とのこと。あわてて停まっていた新幹線に飛び乗り、中を歩いていると、どうも別の状況で新幹線の発車が遅れているらしい。友だちが駅員さんに「ペットボトルを買いに降りてもいいですか」と聞いたら即、却下され、間もなく新幹線は走り出しました。それにしても、喉が渇いて死にそう!奈良のいつものパン屋さんで買った美味しいサンドイッチも、喉を通らないかも。と思ったら、友達のリュックから、ならまちの果物屋さんで買った美味しい和歌山のみかんが出てきました!それを食べたら、喉の乾きはすっかりおさまり、家に帰るまで水分を補給したいとは思いませんでした。けれど、たとえ街なか移動でも、油断しないで必ず水は持つこと!を痛感しました。何が起きるかわかりません。踏切事故の方は、60代の男性だったと、ネットのニュースで知りました。どんな事情の人だったんだろう。誰にも温かい居場所がありますように、と神仏に祈らずにはいられません。
2026年02月23日
最終日。前の日に予約の7分前に朝ご飯を食べに行ったら、テーブルの準備はしてあったけど、誰も出てこなくて、しばらくして「早かったので」とお運びの女性が出てきた。食事の予約は7時から9時の間というので8時にしたので、少々早くても良いかと思ったのだけど。友だちが「そういえば〇〇(ヨーロッパの国)に行ったとき、予約時間まで誰も来なかった。日本でもパートさんが時間で働いてるのかも」というので、この日は8時の予約より10分遅れて行った。嬉しいことに茶粥が出た!部屋に帰って地元のテレビをみていたら、奈良国立博物館で始まる展示の説明をしていた。都大路とならまちぶらぶら、という何もない予定だったので、ラッキー!しかし待てよ、いつも月曜日に博物館、図書館、美術館まどの前で泣いてきた私の人生!休みかもね。だったらその前で記念写真を撮るだけでもいいよね。負け組はこだわらないのが生き延びるコツ。チェックアウトを済ませて、前の夜に買ったみかんの入ったリュックをフロントさんに預けて、まずは、1日目も2日目も夜早く閉まっていた和菓子屋さんへ行ってみました。そうしたら、なんと!まだ1月だというのに、修二会、お水取りのお菓子、糊こぼしを売っていたのです。大喜びしてお菓子を確保、少し歩いてくるので、とお願いして買ったお菓子を預け、大好きな都大路を歩きはじめました。「さすがに月曜日の午前中は誰もいないね」「日本人は働きに行ってるだろうし」などと歩いていたら、何と、興福寺さまを過ぎる前から、奈良公園の向こうに人と鹿たちの集団が!いやあ、どうしたことでしょう。老若男女、家族連れ、グループ、世界の国から集まった人たちが楽しそうに鹿と戯れています。気のせいか、鹿に接近するのは、どこの国の人も男性が6:4くらい多いみたい。みんな少年に帰ったみたいに楽しそう。鹿も物慣れた様子でゆっくり移動。国立博物館は、やっぱり休館日でお掃除の人や内部のなにかの工事の車などが入っていました。すごく内容を薦めて語っていた奈良のNHKさん、「今日は休館日です」ってひとこと付け加えて欲しかったわ。仕方ないので看板の前で記念撮影をして、ベンチに座り、鹿と人との様子を眺めました。これが、けっこう楽しくて、人々がここを立ち去らない理由なのかも、と思いました。少しして、春日大社の参道を下って興福寺さまの五重の塔の裏に出ました。宝物館に入ろうかと思いましたが、完成してからまだ中に入ったことがない東金堂に。建物が新しいので荘厳さには欠けますが、大きくて立派、他の建物も建立当時はこんなだったんだろうなあと、司馬遼太郎が「爛熟の長安を真似た奈良は、長安の都が冷凍保存されたものと言える」平城京に思いを馳せました。南円堂さまで御朱印を戴こうと思っていましたが、御朱印求めてすごい行列!あきらめて、お賽銭をあげて今年の平安を願いました。いつもの美味しいパン屋さんでパンを買い、和菓子を引き取って、いよいよ近鉄奈良駅を後にします。新幹線への乗り継ぎの京都駅では、1時間ほどの時間の余裕があるので、そこでいつものように、平宗の柿の葉寿司を買い、おみゃげも買う予定でした。
2026年02月19日
朝食をきちんと食べていたのでお腹も空かず、飲まず食わずで明日香村をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、私たちの車は最後の目的地、甘樫丘にたどりつきました。疲れていたけど欠かせない場所。冬枯れのさっぱりとした道を登って行きます。気持ちははやれど、気を引き締めてゆっくりと、この日最後の行程を転んだりしないように上がります。1日中晴れていたので空気は3月みたいに心地よく「斉明が私たちのために用意してくれた最高の状態」の展望台が待っていました。展望台のベンチに座って、持っていたみかん、おせんべい、甘いお菓子を食べてひと息つきました!前の晚ならまちの果物屋さんで買った和歌山みかんの美味しかったこと!眼下を見れば、最初に行った向原寺が見えます。反対側に行けば飛鳥寺。田んぼ道を歩く人たち。多分あのへんにある弥勒石。本当は、難波宮方向に沈む夕陽を拝みたかったのだけど、車を6時までに飛鳥から近鉄奈良駅まで持っていかなければならないので、急ぎ帰途に。高速の側道を行く途中、何度も渋滞に合い、外は真っ暗、それでもしっかり指示してくれるナビは本当にありがた山です。最初に奈良でレンタカーを借りた頃、芋峠や志貴皇子の御陵を訪ねた時に、沈黙が異常に長く「奈良のナビは信頼できない」なんて悪口言ってごめんなさいです。20分遅れでレンタカー会社に到着。受付のお姉さんの帰宅時間が遅れるかと途中で電話を入れたりして心配していたのですが、他のスタッフの方も皆さん快く迎えてくれました。疲れていたのでまっすぐホテルに帰ることにして、柿の葉寿司を買い、コンビニでパンとカップスープを買って夕食にしました。お風呂に入ってすぐに爆睡!
2026年02月15日
万葉文化館に車を置いて、隣接の亀形造形物に。説明解説をしてくださる方がいて、ありがたく説明を聞きました。2000年に道路(施設内の?)拡張工事の時に発見されたそうです。確かに亀の形の石造物。上からの樋状のものから水が流れてくるらしい。水は下の方に流れ下っていくらしい。真新しく見える後方の石積みは、斉明のいた当時のもので、石神神宮のあたりの石だそうです。斉明が作った狂心の溝を通って運ばれて来たらしい。ここで斉明は祈ったり占ったりしたのだろうか。当時の為政者は、天変地異、疫病、人々を苦しめる災害は自分の行う政治が悪いから天の怒りをかうのだという考えで、神には命さえも捧げるつもりで祈ったに違いありません。なんと純粋な斉明!石造物の後ろには、きれいに整備された竹林が続いており、亀形石造物の真上あたりに、写真で見る形そのままに有名な酒船石がありました。ここから水が流れ落ちていったに違いないと思わせる位置です。見上げれば空は雲一つない快晴で、1月なのに吹く風が心地よいって・・・!斉明が迎えてくれたに違いありません!案内所の方に、目指す弥勒石の場所を聞いたところ知っていなくて、明日香村の地図をいただきました。万葉文化館から道に出て、大体あの辺だろうと思う方向をしばらく眺めましたが、その場所に行き届くための道が見つかりません。今回の奈良旅の目的の初詣もしたいので、聖徳太子の生誕地といわれる、橘寺さまに車を走らせました。山門のところの受付の女性に「弥勒石」の在り処を聞いてみましたが、知らないので拝観している間に調べてくださる事になりました。橘寺さまは去年来たときと同じように静かな佇まいで迎えてくれました。本堂に上がらせていただき初詣。御本尊さま、幾つもの仏様を拝ませていただきました。目の前で、同じ高さの仏様を拝ませていただく、平城京の仏様と違う、飛鳥の御仏の優しさにすごく癒やされました。良い香りのお線香を買いました。山門の受付の女性が弥勒石の場所を調べてくださってあり、地図のこの辺、ということを聞きましたが、入る道が地図になく、近くに行けばわかるかも、と車を走らせました。甘樫丘と弥勒石の大体の場所の映像の記憶が頼りです。甘樫丘のそばを通る道沿いに入り口を探しましたが見つからず、最初の右折出来る道を入り、そこを右にまた入ったら飛鳥川の甘樫丘側の川辺の道でした。農道ですが轍の跡があるので進みました。2台ほど車が来たので、抜けられるだろうとひと安心。そして川の向こうを見ると、弥勒石の小屋が!もっと良く見て、何なら拝んでくれば良かったのに、まっすぐ行って川を渡る道があったらそこから行けるに違いないと期待は大!人生何度も見通しが甘いための苦渋をなめ、苦汁を飲んできたのに反省もなく、ますます細くなる道を進みました。(10分弱かも^^;)やっと、信号があり川を渡る橋のある道に出たので橋を渡り、飛鳥川の反対岸を進みましたが、道は狭まるばかり。車を洗っている男性がいたので、弥勒石って知ってますか?と聞いたら「知らない。この先は農道だから道はないよ」とのことでした!甘樫丘にも登りたいし、車を返しに行かなければならないし、弥勒石の姿は見たので、良しとしよう、とあきらめる事にしました。けれど、あきらめきれず、甘樫丘に行く道で、もう一度亀形石造物の前の通りで車を停め、田んぼ道を少し歩いてみました。あの辺りだろうとの見当はついて、向こうからあぜ道を来る人もいるので、行ってみたかったけど、ものすごく疲れていたので、甘樫丘をめざしました。お昼は抜きだった!?
2026年02月13日
次は、飛鳥寺さまに。しばらく古墳がマイブームだったので久しぶりです!でも、あの周辺を通るときは、いつも懐かしく心の中で大仏様に手を合わせ、また奈良に行けば必ず行く甘樫丘の展望台でも、まずは飛鳥寺さまがあそこ!と確認して国見を始めるのが常の私たちです♪ 駐車場に車を停め、まずは前のお店で「蘇」を買おうとしましたが、無くて残念!蘇を最初に親しく思ったのは山岸凉子先生の日出処の天子で、厩戸の母の穴穂部間人皇女が宴の膳の采配をしていて「蘇も器に盛ってね」とはしゃいでいるシーンを見てからです。いじけた長男の厩戸とかわいい弟を慈しむ母の温かいホームドラマシーン! 久しぶりの飛鳥寺さま、飛鳥大仏さまも変わらぬ無表情?で迎えてくださいました。かわったと言えば説明をしてくださるお坊様が、お若い方に変わったこと。よどみなく、豪華絢爛の飛鳥寺の伽藍配置、建立時から大仏さまが遭遇された数々の災難、槻の木の広場での中大兄と鎌足の出会い、乙巳の変のことなど話されて、感激しました。若い人にちゃんと引き継がれている!帰りに、香りの良いお線香を買い、この旅のちょっとした目的でもある、弥勒石の場所を聞いてみました。弥勒石は、飛鳥川の川岸のそばにある大きな石で、由来、用途は不明なれど、近年、足のご利益があると明日香村の人々の信仰を集めている、との噂。私たちも自分の足で歩ける日のタイムリミットがひたひたと迫ってくるお年頃なので、今回、新年でもあるし弥勒石に初詣をして、いっぱい拝んで来ようと目論んでいたわけです。飛鳥寺さまの受付の方に弥勒石の在り処を聞くと、入鹿の首塚の先、徒歩12分くらいです。と教えてくださいました。この時に、自分の足で歩いていけば良かったのですが、車の快適さに慣れた、なまけ心に負けて、車で行くことに。この判断が、奈良旅で毎回起きるさすらいの旅、弥勒石彷徨のはじまりとなったのでした。車は飛鳥寺さまから万葉文化館へ。絵葉書やお菓子を買い、ひと息ついてから隣接の亀形石造物と酒船石に向かいます。
2026年02月11日
斉明ファンクラブの私たち。熱量はそれぞれですが、国語の教科書にあった志貴皇子の歌なんかは好みが同じだと思う。そして、斉明の二人の息子、中大兄と大海人、天智と天武と壬申の乱の前後のことも、どうせふたりとも斉明の息子じゃん!♪とは思うのですが、やはり、母の斉明の心をまじめに引き継いだと思われる天智を好ましく思えてしまいます。先日、昔のノートに司馬遼太郎「街道をゆく」のメモがあって、白村江のことが書いてあったので、その1の1「湖のみち・韓の国紀行」をUNEXTで見てみました。司馬遼太郎は右翼のおぢさんが好きな本だと思い、読んだことがなかったのですが、最初から飛ばしています。土を踏む、風に聞く、声と出会う、そしてはるかな時を見る。近江、雨の日は雨のふるさと 粉雪の日は粉雪のふるさと近江というこのあわあわとした琵琶湖畔を走る湖西の道古代、朝鮮半島から来た人々の跡を辿る。楽浪の滋賀。司馬は北小松という漁村で、渡来人が伝える石組み技術の痕跡を見る。面が摩耗した石の深い溝。千基ほど残る6世紀後半の古墳の中の石組みにも、朝鮮半島から伝わる技術が。(私の心の声・おお、これは斉明の「たぶれごころのみぞ」と酷似ではないか!)日本民族はどこから来たのか、と思うと司馬は日本人の血液の中に朝鮮半島から来た血がしたたり落ちていると想像する。そして、ソウルを訪ねる。思い出の中に、兵隊だったときに貨車の扉をそっとあけ、高麗青磁や李朝の痕跡を家々の瓦に探した自分も。ソウルでは、1910年から45年までのつらい記憶。それでも日本から来たというと歓迎してくれた人々。秀吉軍が上陸した村は3世紀半後の朝鮮戦争で米軍の爆撃で消滅していた、などなど様々な出会い。秀吉軍の武将で、自分の兵と共に秀吉軍と戦った「沙也可」が、王から土地を貰い一族が今も暮らす村「友鹿洞・ゥロクトン」も訪ねる。彼は今なお4000余人の子孫から慕われ法要には各地から子孫が集まる。田んぼに囲まれた村のたたずまいは、日本の田園風景そのままだと、司馬は感動する。百済、新羅の古都を訪ね帰国した司馬は、滅亡した百済の王族の墓が近江で祀られていることを知る。田のあぜ道を行くと鬼室神社。社殿は神楽舞台のよう。百済から帰国の敗残の日本人たちは、700人の百済人を日本に亡命させた。天智はこの百済の王族を文部大臣として重用、人々は今も祭を続ける。司馬はこの事例を、日本歴史の誇るべき点のいくつかのうち、第一としても良い、と書く。前置きが長くなりましたが、天智の株がますます上がった街道をゆく、でした!日本と朝鮮半島をつなぐ洋上の街道を思う司馬は、『朝鮮人は冬に来たと確信する。冬になると風が日本に向かって吹くからである。われわれの中に、朝鮮からの血液が混じるのは、この風がもたらしたものに違いない』と書く。ところで、純血の日本人っていたら博物館行きだと思うけど、自分は純血種を言い張るヘイトする人たちの中には司馬のファンも多いでしょうに、何考えてんだかね。
2026年02月07日
車はラク!ナビのいう通りに進んで、桜井から割とすぐに懐かしい甘樫丘が見えて来て、右折すれば向原寺さまの豊浦宮跡でした!あとで地図を見たら、豊浦駐車場というものがあり、そこに車を停めれば甘樫坐神社さまにも歩いて行けたのでしたが、とにかく道が狭く車を置く場所もない(としか思えなかったので)私だけ車を降りて向原寺さまの門前で記念撮影。他の車の道を塞ぐといけないので、大急ぎでその場所を離れました。飛鳥に来ると必ず行く甘樫丘、そこから難波宮の方向に沈む夕陽を見るときに、真下に見えていた豊浦の集落。もっとゆっくりしたかったです。車は甘樫丘バス停の前を通り、次の目的地、飛鳥水落遺跡に向かいます。以前も来たのですが、やはり中大兄が初めて作った水時計とのことで、よく見たかったのです。時を掌握するのは権力者の象徴で、その漏刻からの鐘の音に合わせて、眼の前に広がる飛鳥の宮の人々が動いていたということ。中大兄は、母斉明天皇が力を尽くした、百済の応援が失敗に終わり、母を亡くし白村江の戦いで新羅に敗れたあと、国内の政治の充実に力をそそぎ、東アジアの国々とは平和的外交に力を尽くした、ということで今まであまり関心のなかった天智が、ちょっと私の中で株を上げて来ているのです。水落遺跡は、柱の跡に座り良さそうな高さの柱がのどかな日差しを浴びていました。眼の前の田んぼの向こう、飛鳥宮跡の広々とした景色は、なかなか良いものでした。 二百メートルくらい先に石神遺跡があり、ここは饗宴施設だったとのこと。地方の豪族や、北の蝦夷などをもてなし、この飛鳥の朝廷の新しい文化や技術を見せつけたらしい。大きな井戸の遺跡が、残っていました。北方や新羅の壺などがここで発掘されたそうです。韓国時代劇「善徳女王」の春秋(チュンジュ)も少年の頃に飛鳥に来ていたらしいので、ここに来たのかも、と思いました。のちに高句麗、百済を破り三韓統一をなしとげた新羅の武烈王です。日本書紀には、日本に来た時の彼の様子を、眉目秀麗なイケメンだったと書いてあるそうです♪
2026年02月02日
2日目 ホテルは素泊まりで7500円くらいなのですが、朝食を予約して、包丁裁きの上手な美しい奈良の朝ごはんを頂きました。9時過ぎ、予約してあった駅前のレンタカー屋さんに。スタッフさんがキビキビと注意事項を説明してくださり、行先は飛鳥だというと、良い道を教えてくれました。まずは裴世清が上陸した桜井市に行くので、ナビに近くの公共施設を入れてもらいました。他人の車は運転できない私と違い、友達は初めての車でも平気!この特技には感謝しかないです。奈良から桜井へ、去年行った山の辺の道を左に見て車はすいすいと桜井を目指します。目標は仏典が初めて上陸した仏教伝来の地、河川敷公園。ナビに入れた公共施設はあったのですが、それから先が見当たらない。高速?の側道下の道は一方通行で、駐車場もなく、人影もなく行きつ戻りつ、畑にいたおじいさんに「馬の置物のある公園」を聞くと、知らないと言うのです。日曜日、講師の先生らしき人を先頭にしたグループの姿も見かけましたが、車を停められず聞くことも出来ず、焦りました。もう一度、一番最初の場所に行き、道端に車を置いて歩いて探したところ、やっと仏教伝来の地の立派な石碑を見つけ、その近くに可愛い馬たちを発見!思っていたより小さくてペンキもハゲハゲで、したが、裴世清を出迎えた75頭の馬たちの装束が当時と同じようにあって、感激でした。河川敷の土手の壁に、裴世清が来た時の歓迎の様子が描かれていました。鴨がいっぱいいる初瀬川・大和川にかかる橋の真ん中まで行って川下を眺めると、裴世清が乗った船が、ここを遡って来たのだ!ということが実感され、ま正面に二上山の姿が霞んで見えるのも感動でした。来ることが出来て、本当に良かったです。近くの畑のおじいさんも知らなかった場所ですが、日本が初めて世界とつながった場所として、すごい、記念すべき場所なのだと思いました。良かった!良かった♪と車に乗り込み、次は裴世清の通った道であろうとされる道を走り、推古天皇が裴世清を待つ豊浦宮跡の向原寺に向かいます。この道は、少し迂回しており、どうも、荒れた野山ではなく、少し賑やかな町らしき様相のある海石榴市などを経由、当時の世界一番の国の使節にこの国は極東の野蛮な国ではないと思わせたかった模様です。
2026年01月31日
1日目 京都駅で新幹線を降り、まっすぐ歩いて近鉄京都駅。suikaが使えないので、切符購入。近鉄奈良行があったので、迷わず乗って奈良にすっかり慣れた私たち。懐かしい近鉄奈良駅について、まずは駅近くの宿に。もう部屋の準備はできているとのことで(橿原神宮駅前のホテルはチェックインが遅くて部屋に入れなかった)リュックを部屋に置き、早速東大寺さまの大仏様に表敬訪問の初詣。入場料が惜しくてずっと大仏殿の拝観してなかったのです。何しろ最近コッている古墳や御陵、神社は無料なので。でも、維持費もかかるでしょうし、たまには寄付のつもりで、(心おきなくいっぱいお願いしよう)と今回は大仏様を拝観。その前に、あいも変わらず都大路の大賑わいに遭遇。日本人は修学旅行生。外国人はさまざまな国の人。私は、毎日韓国ドラマを見ているので、韓国語が聞こえると嬉しくなってしまう。けれど、韓国語だとわかるだけで、会話ができないので話しかけられないのがもどかしい。鹿たちは物慣れた様子で、鹿せんべいをくれる人だけに寄っていく。本当にどこの国の人も鹿が大好きで、鹿も安心しきっている様子を見られるのも嬉しい。大仏殿は、やはり大きくて荘厳で、重機などなかった時代に、よくもこんなものを作ったものだと感心しました。大仏様の花瓶?にアゲハチョウの飾りがついていて、それも素晴らしく素敵でした。奈良に来たら、必ず来たい場所になったかも♫そしてこの場所に立ってみると、大仏建立から始まった、この場所でのさまざまな出来事、1180年、反平氏勢力の拠点だった奈良の寺社を攻撃した、平重衡の南都焼討で、大仏殿も焼け落ちました。貴族たちにとって、このショックは大きく、平家滅亡の遠因になったと言われています。1181年、後白河法皇は東大寺の復興を開始。1195年、東大寺の再建を支援してきた源頼朝は、3月12日の落慶法要に妻政子、息子、娘を伴い参列、その時、警護の兵と僧兵たちとの間で、一触即発の事態がおきたとか。大イベントの間のトラブル、色々、現場からは以上です!みたいに伝えられていますが、現場に立つと、どんなふうだったのかなあと、想像してしまいます。次に春日大社の参道を下り、ならまちに行きました。いろいろな絵の描いてあるカップ酒があったら買いたいという友と、醸造元の酒粕で作った奈良漬が買いたい私との意見が合ってついでに昼呑みのできる酒屋さんを目指したのですが、ふたりとも相当疲れていて、ちょっと手前で犬の散歩のをぢさんに道を聞いたら、「その先ですけど、5時で終わりだと思いますよ」とのこと。残念だけどあきらめて、以前テレビで見た昼呑み屋さんで夕食の予定だったので、ならまちを歩いて宿へ。ここで斉明が出てくるんですけど、いつも、斉明が、良い天気にしてくれるんです!まだ1月だというのに、春のようなそよ風。猿沢池の周囲のベンチでゆったりと過ごす人たち。私たちも、とても良いそぞろ歩きができました。宿に帰って一息ついてから、すぐそばの昼呑みもしているというお店に。テレビで見た、おでん食べながらのお酒が旨そうだったので、おでんは絶対たべるつもりで。奈良のおでんって、どんな味だろう、薄味に違いない、と思ったら、炭のように真っ黒の大根、はんぺん、さつま揚げが出てきてびっくり!しかも、見た目のとおりすごくしょっぱくて、がっかり。口直しに甘い和菓子を食べようと、奈良ではいつも行く萬勝堂さんに行ったら、もう閉まっていて、近くのお店でクリーム大福と、果物屋さんでみかんを買って帰りました。和歌山のみかんで、これはすごく美味しい、良いみかんでした。奈良に行くと、せっかく来たのだからと半日でもあちこち回ったのですが、今回は体力も考えて、そのあたりを散策、ならまちぶらぶら歩きも良かったです。それでも、疲れて爆睡しました!
2026年01月30日
2026年1月17日、「斉明を歩く会」という名前の友と私は、東京駅新幹線乗り場近くの弁当屋「祭」前で待ち合わせて、今年の奈良の旅に出発しました。寒いかもしれないけど、初詣気分で気楽に行ってみようかという感じです。テーマは、飛鳥の復習、大体の場所は行ったので、今まで行った場所を辿るつもりで、まあ、お正月らしい和菓子でもあれば、という程度でしたが、直前にユーチューブでいつも参考にしている「飛鳥古代史チャンネル」の梅前佐紀子さんが、人気講師来多村多加史先生と「裴世清の上陸地」を訪れた動画がアップされていて、それは、小野妹子が聖徳太子の失礼な手紙を持っていって怒られたけど、結局隋の皇帝煬帝の返書を持った裴世清と帰って来た場所の紹介でした。国交を開くには、何十年もの日本側の働きかけがあったみたいで、裴世清が来たのは妹子が行った最初かは、知りません。裴世清は難波の湊?に一ヶ月半も待たされ、それは大和川を遡るには水深が浅く、浚渫作業をしていたそうです。そして、仏教伝来の碑のある桜井市に上陸したそうです。その場所の公園には、新羅の博物館にある飾り馬(頭・胴・尻)に飾りをつけた馬、の姿を模した馬が置かれているということ。その馬が75頭並んで裴世清を迎えたそうです。喜多村先生のお話がとても面白く「そうだ!ここから豊浦宮で待つ推古のところに行く、裴世清の道を辿ろう!」という事になりました。1日目は、近鉄奈良駅近くのいつもの宿に荷物を置き、奈良公園、東大寺に表敬訪問。2日目は、トヨタレンタで車を借り、桜井市の飾り馬のある公園から豊浦宮跡の向原寺、中大兄の漏刻跡、地方の豪族を従わせるための饗宴施設の石神遺跡、飛鳥宮跡、飛鳥寺、斉明が祈った2000年発掘の亀形石造物、聖徳太子が生まれたとされる橘寺、斉明が荼毘に付された川原寺跡、いつまでも歩けるようにと現代の飛鳥人が拝みに来る弥勒石、そして最後に蘇我氏の邸宅があった甘樫丘。3日目は、奈良公園とならまちをぶらぶら、お土産を買う、という予定にしました。
2026年01月25日
大混雑の都大路を下り、興福寺宝物館でお土産を。観光土産というより、ちゃんとした名産品などがそろっています。お線香、和三盆、など軽いものを買いました。去年は工事の準備中で、見納めだと思いじっくり眺めた塔は、すっぽりと覆われて、大修理の完成後にまた来れるだろうかと思い感傷的に。次に九番札所の南円堂に。パワースポットなので色々お願いしたのですが、何をお願いしたのか忘れてしまいました。ならまちの入り口辺りで、お土産を買い、いつもの和菓子屋さんでちょっと日持ちするお菓子を買いました。最近のならまちは、慣れたせいか割と好き。いつものパン屋さんで、遅いお昼用のパンを買いました。近鉄奈良駅に戻り、電車に乗れば大好きな奈良とお別れです。京都について近鉄京都駅で柿の葉寿司を買いました。思えば今回、奈良で柿の葉寿司を一度も食べてなかった!三食柿の葉寿司でもいいくらい、好きなのに。今回の斉明を歩く会、お天気にも恵まれ(斉明がついているのでいつも好天♪)予定した所はすべて行けて、大成功の旅でした。私たちの大好きなまほろばの奈良が、あのままずっと守られていきますように、願ってやみません。
2025年05月01日
大満足の斉明天皇を歩く会最終日。ホテルのバイキングは、焼きたてトーストに並んでいる人がいたのは、家での日常が懐かしいのかもね、なんて横目で見ながら、私も、茶粥に奈良漬、白湯に蒸し野菜、など、普段通りの粗食。目が欲しくて取ったトッピングしたドーナツは、中にジャムが注入してあって美味しかったのでおかわり!♪支払いは済ませてあったのでドアのカードを返しただけの一瞬の「お世話になりました」の挨拶でホテルを出ました。以前はアジア系のスタッフさんたちと、ちょっと別れを惜しむやりとりがあったのに、営業用のコストカットがサービスカットになっていたようなのがちょっと不満。でも、カンファタブルな居場所さえ提供してくれれば、それ以上望むこともありません。橿原神宮前駅から近鉄奈良駅をめざします。3日目は、以前は行くお店や施設を予定していたのですが、もう、適当に歩いて確認したのは京都行の電車の時間くらい。懐かしい近鉄奈良駅に降り立ち、まずは東大寺めざして都大路を歩きはじめたら、すでに人と鹿がいっぱい!95%くらいが外国人で日本人は5%くらい。進むほどに人と鹿の数が増えて、むくつけき毛唐(失礼!)の大男が鹿にひざまずいて鹿せんべいをあげている姿や、アジアの女性が鹿となんども頭を下げて挨拶している図、様々な人種の人と鹿が触れ合い動物園のような姿が展開されていました。みんなにこにこ、優しい笑顔。鹿も、場馴れしていて、急な動きはせず、人間相手に余裕です。これではネットなどで評判を呼ぶのもわかります。世界平和そのものの人波は東大寺さまの門前まで同じ密度。奈良漬を買い、次は大修理中の興福寺さまに向かいます。
2025年04月26日
上野公園にも古墳があるというので、行ってみました。場所は、上野駅公園口改札から動物園に向かってまっすぐ歩く途中、左側、正岡子規記念球場の隣の交番の隣、すぐそばです。緑の木々に被われた、いい感じの階段のわきに説明板がありました。《摺鉢山古墳》その形状がすり鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円形式の古墳と考えられている。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。とのことです。上にはベンチがいくつか置かれていて、見上げると大樹の枝が空いっぱいに広がって、その効果か、すぐ下を歩く大群衆のさざめきも遠くに聞こえるような、なかなか良いところでした。昔、私の直系尊属が、駒込の親戚で書生をしていた時、関東大震災があり、駒込のおばあさんを背負って上野公園に逃げた、と話していた事を思い出し、上野といえばお花見と博物館のイメージが強かったのですが、明治維新の上野戦争、東京大空襲、現代の食料配布、・・・逃げて来た人たちを受け入れた上野のお山の懐の深さ、みたいなものを、この古墳のたたずまいに感じて、ちょっと近い歴史をしみじみ感じてしまった私でした。
2025年04月26日
なぜか好き嫌いがはっきりしていて、本を読むのは好きだったのに、女の子たちに人気?だった?堀辰雄は、読んだことも無いし、読みたいとも思わなかった。先日、青空文庫で堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の菖蒲池古墳のあたりを読んで、たまたま古墳がマイブームという事もあって、堀辰雄らしき主人公が、大和路に惹かれ、特に菖蒲池古墳の屋根型をした2つの石棺に感じた古代人の生と死の感情なんかが、すごくいいと思ってしまった。蘇我氏の本拠地、甘樫丘の外れにほどちかい場所にある菖蒲池古墳、そして小山田古墳は、馬子と毛人の墓だったらいいな♪と思っています。今年の斉明天皇を訪ねての2日目の終わりに、菖蒲池古墳のあたり(そばまでは行けなかったけど)を、ちょっとリサーチしてきました。菖蒲池古墳は、甘樫丘展望台の図にも描かれているし、いろいろな地図にも記されているのです。以下にメモとして、堀辰雄の文章をコピペしておきます。もっと早くに読んでおけば良かった!堀辰雄の大和路。高校の教科書に載っていたと友だちが言っていました!私は、記憶にありません。《そうやって君と一しょにはじめて見たその菖蒲池古墳、――そのときはなんだか荒(すさ)んだ、古墳らしい印象を受けただけのように思っていましたが、だんだん月日が立って何かの折にそれを思い出したりしているうちに、そのいかにもさりげなさそうに一ぺん見たきりの古墳が、どういうものか、僕の心のうちにいつも一つの場所を占めているようになって来ました。――いわば、それは僕にとっては古代人の死に対する観念をひとつの形象にして表わしてくれているようなところがあるのでありましょう。いつごろからそういう古代人の死の考えかたなどに僕が心を潜めるようになったかと云いますと、それは万葉集などをひらいて見るごとに、そこにいくつとなく見出される挽歌(ばんか)の云うに云われない美しさに胸をしめつけられることの多いがためでした。このごろ漸(ようや)くそういう挽歌の美しさがどういうところから来ているかが分かりかけて来たような気がします。 先ず、古代人の死に対する考えかたを知るために、あの菖蒲池古墳についてかんがえて見ます。あの古墳に見られるごとき古代の家屋をいかにも真似たような石棺様式、――それはそのなかに安置せらるべき死者が、死後もなおずっとそこで生前とほとんど同様の生活をいとなむものと考えた原始的な他界信仰のあらわれ、或いはその信仰の継続でありましょう。しかし、僕たちが見たその古墳のように、その切妻形の屋根といい、浅く彫上げてある柱といい、いかにもその家屋の真似が精妙になってきだすのと前後して、突然、そういう立派な古墳というものがこの世から姿を消してしまうことになったのです。これはなかなか面白い現象のようです。勿論、それには他からの原因もいろいろあったでしょう。だが、そういう現象を内面的に考えてみても考えられないことはない。つまり、そういう精妙な古墳をつくるほど頭脳の進んで来た古代人は、それと同時にまた、もはや前代の人々のもっていたような素朴な他界信仰からも完全にぬけ出してきたのです。》
2025年04月22日
2日目の予定は、車を置き遅い昼食を食べてから山の辺の道を北か南へ歩く、というものでした。というわけでおやつ程度の食品しか持っていなかったのですが、食事予定の所のメニューがけっこう重くて高くて、普段粗食の私たちには不向きと判断。私のイメージでは、佐倉の歴博の古代米カレーみたいなものがあると良かったんだけど。仕方なく、プリンとおせんべいと飲料水を買ってお昼代わりにすることにして、南方向に出発しました。お彼岸明けの日差しは夏みたいに暑くて、寒い春に縮こまっていた体は消耗しきり。案内板があちこちにあり、迷う不安はなかったのですが、日差しの強さに参ってしまい、すれ違う人たちのさざめきを聞きながら、ついつい無口になる私たちでした。たまに見つけた木陰で休み、御陵の大きな濠にいる鴨やカイツブリ?鵜たちの漁を様子を眺めたりしてゆっくり歩いているうちに、日よけの布を屋根みたいにしてあり、丸木の椅子のある休憩場所があったので、そこで一休みしたかったのですが、そこはすでに「上流奴婢」のグループの皆さんでいっぱいで「下級奴婢」の私たちは仕方なくほど近い場所の田んぼのわきに生えている小さな木の陰に腰をおろしました。(奴婢は韓国歴史ドラマ好きな私の憧れ。友だちはせめて采女になりたいと思っているらしい・采女の袖吹き返す明日香かぜ、のイメージ)イワシの頭も信心から、みたいに、景行天皇御陵のそばのこの場所は斉明が遠くから来た私たちに送ってくれたご褒美の場所のように思えました。景観としては山の辺の道随一の場所かも。木陰が日差しから私たちを守ってくれ、心地よいそよ風が吹いてきました。近くには巻向遺跡、耳成山、畝傍山、箸墓古墳、天香久山、土屋文明先生と上村孫作くんがこだわった愛する明日香の集落も!遠くに金剛山系、葛城山、目の前には山の辺の道を行き交う人たちの姿。友だちが、背負ってきた、愛媛の友人が丹精込めて作ったというオレンジを剥いてくれました。生き返った思い!買ってきたプリンのカラメルソースの焦げも美味しかったし、けっこう長い時間、その場で過ごすことが出来ました。何もしないでただただ古代からある、その場で時を過ごすことができるってなんて贅沢で素晴らしいことか!と思います。先へ行かず、今回はここで引き返し、帰りは飛鳥資料館に寄り、山田寺跡の出土品を見せてもらいました。まだ時間があったので、菖蒲池古墳と小山田古墳の周囲を偵察して帰ってきました。お昼は中途半端だったのに、お腹もすいていなかったので、コンビニで卵サンドと春雨サラダ、ノンアルアサヒドライを買って夕食にしました。友だちは何食べたんだったかな?
2025年04月20日
川原寺跡の感動のままに桜井方面に向かい、山田寺跡をめざします。山田道に入りそこねて引き返したりしたものの、車は早い。現在の山田寺の建物が見えて来て心は逸ります。広い広い空間。抜けるような青い空。以前に書きましたように、蘇我毛人(と書くとどうしてもあの、日出処の天子の人の良い毛人の顔が浮かんできてしまう)の弟か弟の子かといわれる蘇我倉山田石川麻呂が641年に発願したという山田寺の跡。石川麻呂は入鹿暗殺の乙巳の変に中大兄皇子側につき(皇極・斉明天皇の弟の)孝徳天皇の下大臣になるが、649年、異母弟蘇我日向の讒訴により自害。山田寺の造営は中止されたもののまもなく再開。娘の生んだ孫娘二人が天武の妃になっており、685年天武14年の石川麻呂37回忌には国をあげて?の法要が行われたと記録にあるらしい。何と言っても石川麻呂は男子が途絶えた天武朝の後をつなぐ持統女帝、元明女帝の祖父であるわけです。持統天皇の援助を受け豪華を極めた山田寺には1023年(11世紀はじめ)藤原道長が先祖供養に訪れ「言葉に尽くせないほどの豪華さである」と書き残したとか。あれ?道長は1028年に死去したので、山田寺を訪れたのは1023年じゃないですね。あとで御堂関白記に書いてあるかどうか、調べてみましょう。(蔵書自慢!(^_^;)ところが、道長が訪れて間もなく(11世紀はじめ)土石流に襲われた山田寺は、大きな被害を受け再建が困難に。その後鐘楼の鐘を他所に移し、興福寺の僧兵に御本尊を奪われてしまったり、(私の好きな興福寺さま、なんてことを!)貴族の政治から武士の時代、また明治維新の廃仏毀釈の頃は・・・?この広々とした美しい空間に流れた荒々しい時間を思うと、感慨しきりです。桜井市には、歴史的な場所にはAR体験ができるらしく、ここ、山田寺跡もスマホをかざすと当時の建物がその場所の画面に映し出されるとのこと。やってみましたが、不慣れなため、インストールがうまく出来ませんでした。今まで前を素通りしていた飛鳥資料館に、昭和になって発掘された山田寺の東面回廊の復元した実物があるとのことで行ってみました。昭和になって発掘されたそれは、土石流に埋まったままの回廊が、屋根瓦ごとそのまま姿をあらわしたものです。他にもさまざまな出土品が展示されています。かかわった皆さんの感動が伝わってくるような、すごい展示でした。飛鳥資料館、また行ってみたいです。この日は、山の辺の道の帰りで、暑さでヘロヘロだったので。
2025年04月18日
山の辺の道を大幅にカットし、まずは聖徳太子の橘寺へ。ずっと以前、日出処の天子に夢中になって、友達と3人で来たことがあります。それ以来。あの時と変わらず、きれいで、豊かで、おだやかで素晴らしいお寺でした。桜も満開。目ざとい友達が、ルリタテハを発見。私も見ることができました。小さめの体ですごいスピード。それからイソヒヨドリご夫妻の声も。周辺の田畑や草はらは、たくさんの命を育んでいる場所でした。本堂で拝ませていただいてから、お向かいの川原寺跡に。斉明天皇は661年 1月新羅に滅ぼされた百済救援のため九州に出航(善徳女王で春秋や金庾信様が大活躍!) 7月福岡県朝倉宮で崩御 10月7日福岡より帰りの出航 10月23日難波津帰着 11月7日飛鳥川の川原にて殯をする。斉明天皇の夫舒明天皇の宮があった場所の飛鳥川のこちら側に斉明天皇の飛鳥川原宮があり、斉明天皇の鎮魂のためにその場所に、子の天智天皇が川原寺を建てた、ということかな?ともかくはるばる九州から運んできた遺体?を焼いた飛鳥川の川原は、今回、私たちが外せない場所でした。風は微風、雲一つない青空、ここでも、斉明が「よく来てくれました」と最高のサービスをしてくれているようでした。足元にはすみれ、たんぽぽの群落、薄紫の辛夷と花桃が満開で、見晴るかす飛鳥川の川原(田んぼ)はいつまで見ていても見飽きないくらいでした。広い広い礎石しかない川原寺跡地、というのがいいのです!すっかり満足した私たちは、次に山田寺跡に向かいました。山田倉石川麻呂の血族たちの、数々のドラマの場所です。
2025年04月17日
去年、土屋文明先生が萬葉紀行で和銅三年平城京遷都の折に人々が古里を偲んでふり返った場所、及び彼らの目に見えた場所を山の辺の道を歩いて確定した文章を読み、私たちは、文明先生の足跡を探ったのでした。そして、衾田陵のあたりで文明先生が藤原京と飛鳥をみはるかした感慨を私たちも味わうことが出来、山の辺の道は素敵だ!と思い、今年も2日目は山の辺の道を歩こう、と思っていたのですが、山田寺にもぜひ行きたい気分、それは、斉明天皇の子や孫たちが関わった歴史が深くたくさんあると知ったからでした。山田寺は641年蘇我蔵山田石川麻呂が発願して造営が始まりました。石川麻呂は、乙巳の変で功臣となります。649年謀反の疑いで自刃。造営中止。石川麻呂の次女、越智郎女は中大兄の妃になり 3人の子を生む大田皇女 天武妃 大津皇子を生む鵜野讃良 天武妃 草壁皇子を生む建皇子 8歳で夭逝 祖母の斉明天皇がかわいがった663年 天智2年、塔の工事始まる石川麻呂の死後も山田寺の造営が進められたのは天武・持統の後ろ盾があったと推定される。というわけで、斉明天皇を歩く会としては、山田寺訪問を除外するわけにはいかなくなったのでした。
2025年04月16日
お腹もいっぱいになったし、大満足の1日目でした。大活躍の車を駐車場に入れ、チェックインしてお風呂に入って寝るばかりです。ホテルの経営者が代わり、少しお高くなりました。フロントにいた人たちの人数が減り、売店も縮小。奈良土産をここで買って着替えなんかと一緒に自宅に発送するつもりでしたが。フロントも以前いたアジア系の人たちが、すごく気が利いていて親切だったのですが、若い日本人の人ばかりで、丁寧だけどまだ業務に慣れてない感じ。昔のドラマ「ハケンの品格」はその業務の一流プロの誇りを持ってる派遣社員の話だったような気がするけど、あれから、もっともっと働く内容も待遇も落ちてきているような気が・・・備品やサービス、人件費、会議の議題はコストカットが第一みたいなご時世をひしひしと感じました。でも、特に要望はない私たち。静かで暑くもなく寒くもなく、お風呂に入れて安眠できればそれだけで十分です!気に入っている朝のバイキングも、コストカットされてる?かと心配でしたが、奈良漬も茶粥もあったしオシャレな若い人好みのパン食に合う献立もあったし、スタッフの皆さんの気配りも感じられ、ゆっくり食事が出来て良かったです。
2025年04月13日
その店に初めて行ったのは、奈良でレンタカーを借りた時でした。土屋文明先生が天武・持統の飛鳥から吉野への古代の道を探し山登りスタイルで歩き回られていた頃の本「萬葉紀行」(これは戦前に書かれ、空襲でゲラが消失したものの、一緒に万葉の旅をしていた上村孫作さんの所に残っていたものを出版、ベストセラーになったものらしい)の古代の道の候補のひとつにある芋峠に行こうという無謀な計画を立てたのです。以前に書いたのですが、地図通りに芋峠に行こうとしたところ、運転する友のスピードと私の指示が合わず、車はほそい細い壺阪山の急坂急カーブを登り、大和の男が難波の女の所に行ったのはこんな道?と伊勢物語を思い出した峠を越えた日。けっこう無謀なコースだった気がしますが、イノシシも落石もなく無事いろいろお参りもしたのですが、とにかく大変でした。飲まず食わずで車を走らせ、喉が渇いたので入った一軒の町中華。コーラを飲んでホテルで食べる夕飯用のお弁当を作ってもらったような気がする。(コロナで外食は出来ないと思い込んでいた)そこに、中学1年生かと思われる痩せた男の子がいて、たどたどしい日本語でレジ係をしていたのです。家族経営のようなお店でお父さんが鍋を振るい、お母さんが接客です。えー大丈夫かしらこの子。言葉が話せなくて悪ガキにいじめられたら、お父さんお母さんは守ってあげられるかしら。それ以上に、お客の誰もいないこの店、経営やっていけるかしら。旅先で知らない男の子の心配をする私たちでした。心惹かれた何かのひとつに、実はそのお父さんの料理が、本格的ですごく美味しかったからです。おやつに買った胡麻団子は作りたてはアツアツ、食べ残した翌朝は固い本物のお餅でした。それで、毎年のようにそのお店に寄りました。お客さんの入りはボチボチ。時間によっては奥の席で男の子を始め幼い妹たちも交えて家族の晩餐の時もあり、微笑ましかったです。それで今年も行ってみました。「やってるかなあ」「つぶれてたりして」そうしたら駐車場はいっぱい。席もけっこう埋まっていて、混む時間帯だったようです。注文を取りに来た男の子を見て、目を疑いました。去年は特に気が付かなかったのですが、立派な若者になっていました。「あの子だよね」「他にいないもんね」友達はタンメン、私は味噌ラーメンを注文。お父さんの味は本格派でコクがあり、本当に美味しかったです!そのうちお父さんの味で腕を振るうのかもね。頼もしや!
2025年04月12日
奈良の1日目は、橿原神宮前駅に着いてレンタカーを借りたのが2時くらい。飛鳥の地図にない場所への不安もあったのに、最初の宮内庁に治定された斉明天皇の陵墓、東ケンノウ古墳にも難なく着き、予定外の草壁皇子の岡宮天皇陵墓にもお参りでき、近代史?のドラマ束明神古墳にもお参りすることが出来ました!「最高じゃん!」「完璧じゃん!」これもみな私たちへの斉明天皇の愛としか思えず、ハイタッチした私たちでした!もちろん、レンタカー会社のお姉さんが選んでくれた「飛鳥に強い」働き者の軽自動車のお陰でもあります。「はいは~い行きますよ~プップップッそうですよ、ここ曲がってねププ」ナビの合図も聞き分けられるようになった私たちは、定番の甘樫丘を目指します。 甘樫丘の思い出は、何と言っても真っ暗な道を車を置いた場所がわからず彷徨したときのことがありますが、今ではすっかり甘樫丘ツウの私達です。 足下燈に灯ともす頃、坂道を登って行くと大学の先生と学生たちらしいグループが下りてくるのに出会いました。思い起こせば素晴らしい先生たちが揃った環境が用意されていたのに、頭がどこか別の方向を向いていた勿体なかった日々。 甘樫丘では、長い春の日が沈んでいくまでを心ゆくまで眺めることが出来ました。何度も来た飛鳥の集落の、神社やお寺、歩いた道など懐かしい場所が俯瞰できます。 春霞が景色をやわらかく包み、風の流れでうごく霞の濃淡が、近くの、遠くの集落や山々をはっきりさせたりうすぼんやりさせたりと、夢の世界のようでした。 金剛山系に沈む夕日も、じっくりゆっくり見ることができ、最高の1日の終わりでした!
2025年04月12日
岡宮天皇(草壁皇子)の御陵から、さて、本命の束明神古墳はどこ?と探すと道の三叉路?の案内板に束明神という文字が。ちょっと頼り無げな細い急坂です。畑の人に聞きそびれ、そこを越えると下りへ。道は狭い坂道で、家が建て込んでいます。私が車を下りて、丁度庭にでていた奥さんに尋ねると,もの慣れた様子で、この先は車では行けない、いま来た所の集会所の庭に停めて歩いていくように、とのこと。どの家も立派で植栽なども手入れの行き届いたきれいな集落でした。お邪魔しますと挨拶すると皆さん親切に挨拶を返してくださいました。YouTubeで見た、お寺さんの門の閉まっていた場所に到達!ここだここだ!と石段を上がって行くと、春日神社の山門?がありました。そして、かの、束明神古墳が!真弓丘陵南東部に築造された古墳時代末期の古墳。丘陵の尾根を切断、八角形の可能性のある古墳で、石棺は家の形をしているらしい。橿原考古学研究所の前庭に復元されたものがあります。被葬者と思われる草壁皇子は天武の第2皇子681年持統3年皇太子に683年没758年岡宮御宇天皇に地元の人は昔から草壁さんと呼んで敬愛していたが、江戸末期陵墓治定を忌避した村人により墳丘が破壊された。人々の動きに、ドラマを感じます。皆さん、奈良の時代から、なにやらゆかりのある一族の人たちだったのかも知れない。
2025年04月11日
斉明天皇に別れを告げて、束明神古墳を目指します。奈良到着一日目の半日足らずで、斉明天皇陵、束明神古墳、そして甘樫丘の夕日、それから町中華の夕食、を「ゆっくり」堪能したいので、草壁皇子の陵と宮内庁が治定した岡宮天皇の御陵は行けない予定でした。ナビに住所 高市郡高取町佐田、を入れます。古墳が入っていない奈良のナビ、しかし住所で行くと、かくも優秀なことか。田んぼ道を登って行くと千葉では珍しくなったキセキレイが一羽、私たちを翻弄するように電線の上や田んぼのあぜ道や、溝に下りたり果ては道の真ん中にじっとしたり、して、目の敏い友が「ほらあっち、ほらほらこっち」と騒ぐので、道の真ん中に車を止めて大騒ぎ。それにしても束明神古墳、どこだろうね~?と見回すと、左側の小高い場所の開けたところに、宮内庁の御陵の囲いが。あれっ!あれは束明神古墳ではない。何?田んぼ道の先に民家が2,3軒。農道に車を止めさせてもらい、行ってみると神社の鳥居。これが噂の春日神社?でもYouTubeで見たのと違う。古墳もない。脇道チャレンジャーの友が脇道を行くのでついていくと、なんと、岡宮天皇の真陵がありました!実は予定外だった草壁皇子の陵。母持統の期待を一身に背負って、お疲れ様でした!お参り出来て良かった!
2025年04月11日
車は奈良の細道でも平気な軽自動車。運転は、どんな道でも平気な友で、助手席は人間ナビを自認する私。橿原神宮前駅前を出発して、まずはナビに高取町を指示。斉明天皇陵といわれる車木ケンノウ古墳は奈良県高市郡高取町車木にあり、ナビには入っていません。懐かしい飛鳥の集落を見ながら行った高取町は、明るい広々とした町でした。そこからナビに調べてあった住所、高取町車木281を入れてみます。軽自動車は、はいはーい!と言いながらここを曲がってねあそこを曲がってね、と言いながら、「このあたり」と私たちを開放してくれました。なんと、YouTubeのお姉さん先生が訪ねた集落の細道の先、何度も見て学習した駐車場の景色がそこにありました。昭和18年頃、天武持統の飛鳥から吉野への道を探っていた伊藤千代子の恩師、土屋文明先生が奈良の友人の下村君と吉野からの帰り、壺阪山駅からヘロヘロになって歩き奉った、斉明天皇の陵に、なんかよくわからないままに、橿原神宮前駅から30分足らずで着いてしまった!「斉明がさ、よく来たね~!って褒めてくれてんだよ。」「ぜーんぜん迷わなかったもんね!」風もなく青い空の下、大きな木々にまもられて、深紅の藪椿の花に彩られ、麓から九十九折の階段を5分ほど上がると、まず左側に大田皇女の御陵が。なんか、安心してゆっくりとそこに居られる、という感じでした。頂上にある斉明天皇の御陵は、遺言どおり、幼くして亡くなった孫の建皇子と合葬。誰もいない静かな素晴らしい御陵でした。載っている地図は少ないし、行けるかどうか分からなかったのに、お参りできて本当に良かったです!昔から土地の人たちからは「天皇山」と呼ばれ親しまれていたらしい。これからもずっと守られていてほしいと思いました。駐車場の車のそばで鶯の声を聴きながら、日差しに包まれて、レンタカー屋のお姉さんにいただいたお餅を食べました。白いのと草餅と両方あって、どちらもすごく美味しかったです!私が斉明だったら、牽牛子塚よりここがいいなあ、と思うかも。
2025年04月10日
新幹線内でお弁当を食べ、とにかく午後に我らが斉明天皇の車木ケンノウ古墳に表敬訪問せねばならない、我らにとっての一大イベントが控えているので、気もそぞろ。京都で降りて、我らが愛する近鉄特急の切符も、ホーム案内のお兄さんの優しい指示のもと無事買えて、座ろうとしたら、私たちの席に中年紳士の先客がくつろいでいました!あれっ?関東の田舎モンなので上方の方には低姿勢で「あのう、私たちは別の席でもかまわないんですが、(空席あるし)この席は私たちの席みたいな気が・・・」これ以降の経緯は茫然自失。号車を間違えていた私たちは、にこやかな上方のをぢさまに笑って頭を下げ、手を振って別れたのでした!乗り換えもなく目指す橿原神宮前駅へ。以前はホテルでチェックインしたのですが、まだダメだったので、レンタカー屋さんへ行くと、懐かしいお姉さんが待っていてくれました♪心配性のお姉さんは、最初に出会った時に芋峠に行くという私たちに、青ざめて、落石、イノシシ、地元の人は誰もいかない絶対ダメ!と言い、夕飯予約聞いたらコロナだからどの店もやってない、というのが忘れられない思い出!この日も、別の意味で心配性のお姉さんの話を聞いたのですが、お姉さん情報は、これまでにしておきます。お姉さんは、梅が枝餅ほどあまくなく、梅が枝餅よりやわらかい(美味しい、私好み)のあんこのお餅を買っておいてくれてありました。私たちは成田山の米屋のピーナツ最中をおみやげにあげました。
2025年04月10日
奈良に行くときは、いつも斉明がついていてくれる、が合言葉の私たち。1日目、猫の直虎がニャーニャー言う声で飛び起きたら、寝坊していた。いつもは朝早く目覚めて仕方ないお年頃なのに。慌てて各部屋に置いた丼にカリカリを山盛りにし、水も洗面器などに大量に。息子は犬のフェスティバルの帰りに来ると言うけど信用できない。準備しておいたリュックを背に、モノレール駅の階段を上がっていたら、降りてくるおじさんがなぜか大きな声で独り言「今度のは1番線から出るんだ!」と言うので確認したら、いつもは2番線なので1番線だった!出発から、猫とおじさんを斉明がツカワシてくれたのだ、と斉明の愛を実感したのでした。友と東京駅の駅弁屋「祭」の前で無事合流。桜の弁当とノンアルアサヒスーパードライで乗車。丹沢の方の山並みが春霞で霞んでいても天気は斉明天皇が用意してくれた快晴でした。しかも、静岡あたりからは、数日前に降った雪が富士山の裾野をけっこう下の方まで真っ白に!素晴らしい写真が撮れました。1日目は、高取町に行き、宮内庁から治定されている斉明天皇の陵、車木ケンノウ古墳と、草壁皇子の本当の陵ではないかと思われている束明神古墳に行く予定です。斉明天皇陵といわれる牽牛子塚古墳が、なんとライトアップされているとか。以前工事中の時に見に行きましたが、あのピカピカは馴染めません。牽牛子塚古墳は宮内庁に治定されなかったので、発掘が出来て、斉明天皇の陵墓である可能性が高いようだけど。それは良かったけど、お墓をライトアップする神経にぞっとします。このニュースで怒っていたら、友達の息子が「前に大阪の維新が仁徳天皇陵を電飾すると言い出し、反対が多くてやめた」と教えてくれたそうです。奈良の維新は牽牛子塚古墳を観光客の見世物に呼ぶつもりなんでしょうか。
2025年04月09日
剛腕の斉明天皇に憧れる私たち二人は、今年も斉明を尋ねる旅を計画しました。右翼に間違えられると付き合いきれないので、斉明ファンクラブなどという名にしていましたが、やはり正式?名称を決めようという事になり「斉明を歩く会」にしました。去年はお水取りに合わせたので、今年は少しあと、にしようと、お彼岸明けくらい。私は、田舎の2軒のお墓参りとお寺が拝みに来る応対などで結構忙しく、けれど準備万端その日を迎えました。新幹線、ホテル、レンタカーの予約は、気の利く秘書をしていた友の昔取った杵柄です。友が言うには、ホテルに予約の電話したらまず、使用言語で振り分けられたのでびっくりした、とのこと。インバウンドとやらの波が、飛鳥の古代にまで押し寄せてきていたら、どうしよう(^_^;)ところで、大満足で帰宅したあと、私は思わぬ撹乱を!百日咳のような咳が続き、なかなか治りません。暑かったり寒かったり、認めたくはないけど、やっぱり無理はできないお年頃かもね。
2025年04月09日
終活をしていたら、詩を書いていた日々の同人誌が出てきてびっくり!すっかり忘れていた人たちの名前も懐かしや♪こんなのもありました!「廓ことば」昔 街のはずれに街が作られたそこは花街廻れば大門の見返り柳おはぐろどぶに灯火うつす賑わいに紛れ女たちはふるさとの訛りをすてて廓の女になった津軽の女は口重く廓ことばをつかう津軽の野に立ちのぼる陽炎のにおいを失くしてふるさとを忘れた廓の女になる近江の女はなつかしく廓ことばをつかう江戸に下った誇りをもって初めてまとう絹の冷たさもゆかしく振舞う廓の女になる廓ことばの「わちき」はわたし女からふるさとを奪い心を奪う不条理にも疑いにも目をそらし考えを持たない女を作る今も街のはずれに街がうまれる立ち並んだ文化住宅で妙に腰を低くして女たちがつかう標準語に似せた言葉たちふるさとの訛りを忘れたそれは現代の廓ことば得意気に街に反乱する語尾だけが長く残るそのことばことばからはじまる精神の画一化この新興住宅街におはぐろどぶはないがわたしひとり背筋の凍る思いで跳ね橋の番屋の暗い陰を凝視しているのだ「齢」三十とか四十とか五十とかいう数は中年女の疲れた皮膚や世間ずれした心や人生の澱のようなものが連想させられて私の一番嫌いな数だだけど三百とか四百とか五百とかいう齢は少しもみにくくはない三百歳の女は きっと永遠のいのちを持つ美しい女肌にたるみやしみはなくてほっそりとしてたくましくはたちの女とはちがう何でも知っている女の自信にあふれて男の心を射すくめるだろう私もほしい永遠を新鮮に生きられる心と身体をたった四十年生きただけでこんなに疲れ 汚れてしまったのだもの*今読み返すと、何をそんなに年を取ることに焦っていたのかと笑えてしまいます!
2024年05月21日
2023年6月19日月曜日、奈良の旅の3日目最終日です。美味しい料理が並ぶ朝食バイキングの中から茶粥チョイスの地味な朝食を食べて、満足のホテルに別れを告げ、近鉄橿原神宮前から近鉄奈良駅に向かいます。降り立った奈良。まだ10時前の登大路は日本人は殆どいなくてハイテンションの海外のお客さんがすでにいっぱい。私たちは迷わず春日大社さまを目指します。正確には万葉植物園。実は、伊藤千代子の恩師、土屋文明先生の萬葉紀行の最後に、「防人と豆」という章があり、上総国天羽郡の防人の歌道の辺の茨の末に這ほ豆のからまる君を放れか行かむ天平勝寶七年二月九日、大伴家持が難波で諸国の防人の歌をチェックした際に選んだという。文明先生は、ここに歌われた豆とはどんな豆かと探した結果、大豆の一種であろうと大豆捜索。いろいろなタネを集めてご自分で栽培したりした様子が細かく、しかも防人たちへの思い深く書かれていて上総生まれの私と友は大感激。上総の野や海岸に蔓のある大豆を探そうと、一年前に取り組み始めました。もちろんお遊びですけど。去年の秋、早速木更津の海岸で友が小さなサヤをつけた野ダイズを発見。でも、蔓がなければ「からまる君」にならない。次に友が上総湊の野原で、蔓のある野アズキを発見。蔓があるけど文明先生のおっしゃるダイズではない。そうだ、万葉植物園に行こう!と、お水取りに合わせて奈良の旅を計画、なんと、お水取りは見学中止だったけど、まさか無いだろうと思っていたこの歌のプレートと茨とノマメが、ちゃんと万葉植物園にあったのです。しかし寒い季節、ノアズキとされていたマメは、葉も蔓も枯れて、乾いた小さなサヤがついているだけでした。そうか、多くの万葉学者、植物学者たちが出した結論は、ノアズキだったんだ!尊敬する文明先生が、探した大豆。先生が満州からきた配給の大豆から色の黒い豆を選んで疎開先で蒔いて洪水で流されてしまったのは大豆だったけど・・・。 でも、とにかく枯れたものではなく、緑の葉や蔓のあるときに(できれば花のある時に)もう一度来てみて、同じものを上総の野山で探そう、という事になり、今日のこの日、期待に胸いっぱいになりながら、やってきた万葉植物園。月曜日なのでお休みかと心配でしたが、そういえば3月に来たときも月曜日でした。 蔓のあるアズキ・ササゲ、が他の立派な有名な万葉植物の中で育っていました。 しかし、やっぱりノダイズ論も捨てきれません。天羽郡生まれの友は、自分はどんな学者よりも地元民なんだから、大豆説を支持すると言います。 (軟弱な私は、ツルのあるササゲの「十六ササゲ」のタネを買い、これが這う豆のノマメに近いのではないかと、友にも分けて、この夏栽培しました。風情が似てるかと思って。秋田の方では似たようなてんこ豆というのがあるそうです)続く。
2023年09月28日
まだ昼飯前の2日めです!吉野宮滝跡近くにいたをぢさんに吉野山への道を教えてもらったのは「郵便局前を左に引き返し、しばらく行くと青(緑?赤?)の大きな橋があるので、そこで吉野川を渡り、道なりにどんどん行くのが吉野山への迷わない道になる。」という道。教えていただいてナンですが、宮跡と宮滝については素っ気なかったをぢさんは、とても丁寧積極的に細かく教えてくれたのでした! 有り難うございました!豊かな吉野川は、今も人々の避暑地のような感じ。広い河原には沢山のテントが張られ、水遊びの人々で大賑わいでした。そうだ、今日は日曜日だった!教えていただいた通りに大きな橋を渡ると、道はだんだんに登りになっていきます。細くて曲がりくねった道を上がっているうちに、運転している友だちが、見たことがある、というお宮を過ぎると、すぐに目的地の下千本駐車場に着きました。広い駐車場に結構な数の車が停まっています。いいなあ、奈良の人はいろんな所に遊びに行けて・・・ ラッキーな事にシーズンオフなので駐車場代も無料でした!「斉明が、よく来たね!と歓迎してくれてる」どこまでも斉明の愛に包まれている私たちです。坂道の吉野山。帰り道は下りにしたい、という考えから、下の千本に車を停め、適当な所まで行って、また戻って来る、というつもりでいたのですが、車を下り少し歩いたら梅雨の中休みの太陽がギラギラと照りつけ、今まで車という文明の利器に守られていた私たちの体は、実は登りや暑さに弱い、という軟弱なものだったことを思い知らされました。 「行ける所まで車で行こう」となんでも容易きに流れる思いは同じ。人さまの迷惑を気にもしつつ、車で登ることにしました。 歩いている人が少なくて良かったけど、道がせまくて、休みのお店が多く車を停める所がありません。 結局、中千本駐車場に車を停め、少し下って金峯山寺様まで行くことにしました。 ずっと前に金峯山寺に来た時に、清少納言と仲の良かった藤原行成が金峯山寺の扁額を書いた、と思いこんでいて、それを探したけど無くて、お坊さまに聞いたりして困らせた思い出が。 結局わが小野家の道風さまの間違いでした! 行成が扁額書いたのは、一条帝の清涼殿のでしたね! その前に金峯山寺のお坊さまと話したのは、最初に行った時に巨大な梨の木の柱を教えていただいた時で、あまりの大きさに感激して「触ってもいいですか?」と言って触ったこと。 とにかく、金峯山寺さまが大好きで、何度も行っていることをアピールしたい私。 今回も、とにかく大きくて立派で、梨の柱にも会えたし、小野家の東風さまの扁額にも会えたし、仏様たちのたたずまいに、ほんとに癒やされました。 お参りに来ているみなさんの上に時間がゆっくり流れている感じ。あまりに素敵すぎて写真を撮るのも忘れました。写真を撮っても、この立派さは写せない気がします。 今回の吉野山でもうひとつ目的があったのは、噂に聞いた「くずバー」というものを売っているかと思ったこと。葛とフルーツを固めた見た目はアイスバーふうで、室温でも溶けないらしい。 かねはな堂のアイスバーというんですけど。 しかしシーズンオフで半分以上のお店が休業中。アイスバーにも巡り会えませんでした。 お昼の時間もだいぶ過ぎたので、開いていたお店で柿の葉寿司と温かい葛うどんセットでお昼。とても美味しかったです。 帰りに吉水神社もちょっとのぞいてみたけど、世界遺産という拝観料つきの中には入りませんでした、以前来た時に、なんかチャチなパワースポットというもの(細い木を組んだもので、五芒星みたいなものをぶら下げてアヤシイ感じ)を作ってあって、もしかして世界遺産になるような歴史があるんだったら、それを汚してるみたいな商売っ気が嫌だったから。 その時は若い人たちで賑わってたけど、今回は日曜日だというのに誰も来ていませんでした。そういえば、ここの神主さんが長野にアベ神社というのを建てているとテレビで見ましたが、細い木を組んだお休みどころ(四阿ふう)、なぜ長野なのかわかりませんが。 以前来たときは「らち被害者」のご家族の皆さんが来ていて署名活動をしていたことを思い出しました。 仲の千本で車に乗り、車の偉大さに感謝しながら、ゆっくりと吉野山を下り、帰り道はナビちゃんが絶対間違えないように「橿原神宮前駅」を指定。まさか芋峠を越えないよね、とドキドキしながら指示通りに走ると、車は立派な道を通り(多分国道) 新芦原トンネルという所を通って帰って来ました。 反省としては、やはり吉野は下千本駐車場に車を停めるのが良さそうです。でも花の季節には大渋滞だろうから、大混雑の公共交通機関で行きましょう! スタンドに寄り給油、近くのコンビニに行き、夕飯を買って車を返しました。この町にすっかり馴染んでしまった私たち。 ホテルの売店で買い物をしている時に、「アイスバーって知ってます?」とホテルのお姉さんに聞いたら「ありますよ」「えーっ!」というおまけ付き。 アイスのケースみたいなのに入っていたそれは、数種類のフルーツ入があり、友はブルーベリー、私はフルーツミックスを食べました。 すごく美味しかったけど、満腹になってしまうので食事前には向かないかな?おやつにピッタリ。 こうして、長い長い奈良旅の2日めは終わりました!
2023年08月28日
吉野への峠を越える時に高取城跡という案内板を何度も見かける。 司馬遼太郎の「街道を行く」の大阪堺から今井町、壺阪山、高取山という道。You Tubeで見たら、高取城というのは、豪壮な山城で、複雑な石垣と漆喰の美しい城が、江戸時代に存在していたが、明治維新の廃藩置県で取り壊されたのだそうです。 今は苔むした石垣だけが残るらしい。 明治という時代は、何という罪深い時代だったんだろうと思う。昔、学校では素晴らしい、世界に追いつけ追い越せの維新だったと教わったけど。 千股の観音さまにお参りして、ここがなぜか懐かしいのは、お堂の中に我が実家の宗派である日蓮宗のお題目本や井桁橘の紋が入った何やかやが置いてあるのを見たからです。 他にもいろいろあって、ゾロアスター教の火の神みたいなのもあり、何でもアリなのかも。この前来たときも暑いさ中なのにみずみずしい切りたてのお花が活けられてあって、住民の皆さんに愛されているんだなあと、ほっこりします。 千股川を横に、国道?を左に曲がると、観光客、釣り客の宿や定食屋、石屋、材木屋など、大きな家が増えて来ます。遡るこの川は吉野川。 左手に津風呂湖の案内板が出てきて、土屋文明先生が吉野宮滝の場所を探して幾度も通われた津風呂も近そう。 万葉の歌と地図でしか知らない憧れの吉野宮滝って、もっと急峻な山深い渓谷のような場所かと想像していたけど、川はゆったりと大きく、船遊びも楽しそう。 何となく、大海人たちが逃げて隠れ住んだイメージを持ってしまっていた。 郵便局があったので、そのあたりに車を停めたら「停めるな」と言ってきたをぢさんに、吉野宮滝と宮跡に行きたいんですけど、と言ったら親切に教えてくれたけど、それは「宮跡は発掘調査はしたが、また埋め戻して何もない」とのことでした。 がっかりして、まあ、このあたりって事でいいね、と納得した私たち。 車をUターンしたら、目の前に「史跡宮滝遺跡」という大きめの石碑が。そしてそのそばに柿本人麻呂の万葉歌碑がありました。「エッ!ここじゃん!」長歌があって、反歌もありました。・見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまた還り見む 持統天皇の行幸の折に人麻呂が詠んだ歌だそうです。 斎藤茂吉の「万葉秀歌」には、湯原王のこの歌が載っています。・吉野なる夏実の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして 湯原王は我らが贔屓にしている志貴皇子の第2皇子で、光仁天皇の兄弟。 斎藤茂吉は「夏実は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。」と書き、付け加えて(土屋氏に新説ある)としているので笑ってしまいます。 土屋文明先生は菜摘の場所を探して万葉親友の上村くんと一緒に、これも行きつ戻りつしておいでなので、付け加えておかないとうるさいと思われたんでしょうね! ともあれ、広々とした吉野宮滝のあたりを確認して、私たちの車は吉野山目指して快調に発進したのでした。(まだ昼ご飯前!)
2023年08月20日
川上坐神社から吉野へ行くのですが、さて、奈良のナビはどの道を教えてくれるのか、行くにせよ戻るにせよ、ナビの教えてくれる通りにしようと思い、ナビが迷わないように「吉野宮滝」を入れてみました。登り方向を向いている車を、できれば引き返してどこかのトンネルつきの大きな道を行きたかったけど。 しかし、ナビはまっすぐ進めと指示を出しました。また芋峠か! 去年の同じ頃、どこに行きつくのか、先の見えない不安で必死に下ったこの道を、今度は余裕で登ってみたいという気持ちもあり、私たちは素直に従う事にしました。 斉明女帝が私たちに用意してくれた素晴らしいうす曇の中、もう知っている道、という余裕で去年は、あんなに狭くて急に思えた道も、案外広く見えました。 登って行くと古道の指標板がありました。 去年は焦っていて、読んだけど頭に入らなかった犬養孝氏の説明板もあります。 「古道芋峠道」 犬養孝 万葉の大和路より明日香村大字岡のあたりから吉野へ歩いてゆくのには、普通飛鳥川をさかのぼって大字稲渕・栢森と登りつめて、芋峠が吉野郡との境となって、これから吉野郡上市の町へと下るのである。 芋峠までくれば、吉野の山々を一つ一つ数えることができる。空気も国原とはとみに変った感である。 昭和のはじめごろまでは、まだ旧道であった。飛鳥川の東岸をゆく道は、栢森から左に曲って登ってゆく道で、峠のところで新道と合している。 持統女帝の吉野行幸道は、地形状況からいって、この道をゆくのがきわめて自然と思われる。 と、断定されている。 我らが土屋文明先生が、ああでもないこうでもないと行きつ戻りつまた行きつした、いとおしい峠越え。 栢森1600m,芋峠1000mの古道小峠、天武、持統の歩いた古道が続いています。 道の曲がり角、川の途中には様々な鳥たちの声がこだましています。涼しい風に吹かれながらほっとひと息、古代の人たちの必死の行幸に思いを馳せました! 車は細い登りを快調に登り、峠につき、下ります。 そしてまた千股の観音堂にお参りしました。 長屋王がこのあたりで歌を詠んだらしい。 そういえば、稲渕近くの峠を朝風峠と呼ぶのを聞いて、安易な名前!(だって一時期日本各地で誕生した新地名の、安易なつけかたをちょっとばかにしていたので)と思ったんだけど、宇治間山朝風寒し旅にして 衣貸すべき妹もあらなくにの、朝風からだったんでしょうね。東夷の末裔が、失礼いたしました!
2023年08月12日
青梅雨やどこに行っても少数派 と、少数派を自認の私ですが、昨今はどうでもいい事で敵を作りたくない気分で、あんまりよそさまの事に感想など述べないようにしていますが、まあ、個人的な旅のメモとして書いておきます。 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の実生の屋根に感動したのですが、後日ネットで、そっくりな屋根を見てしまったのです!何百倍も立派な! それは、太宰府天満宮の建て替えに伴う仮の本殿で、金ピカ立派、その屋根の上に木や草花の植え込みが・・・ 色々な場所の施設をてがけた、有名な中堅建築家の方が設計したそうです。 この仮殿は三年後には取り壊すそう。 まあ、イベント会場の植栽は皆、終わったら廃棄したり別の場所で再利用したりするんでしょうが、なんとなく、ね。 あの奥飛鳥の古い社の、鳥や虫や植物たちが時間とともに作った実生の屋根を見てしまったので、なんか姑息な感じがして・・・人間の傲慢さというか・・・ という、少数派の感想でした。
2023年08月06日
旅の2日目は、まず請安先生の墓参りが出来てラッキーなスタート。「私たちはツイてる!何がって最強の斉明がツイてる!」怖いもん無しです!道は去年の芋峠彷徨を逆に行く一本道。見慣れた道を登って行くと、ほどなく日本で一番長い名前という、飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の階段が左に見えて来ました。車を止めて身支度をします。去年のほぼ同じ日、あまりの暑さと果てしなく続く階段に、登るのを躊躇、今回の旅の2つ目の目的は、若き日の斉明が皇極天皇と言った若き日に、雨乞いをしたというこの神社に表敬訪問することです! 昨日、飛鳥坐神社で、「私たち(老女)でも石段登れますか?」と聞き、大丈夫であろうという感触を得たので、勇気りんりんです!しかも、斉明が用意してくれた曇り空!♪ 私たちには人生の歩ける時間が少ないので、這ってでも登ろうという決意の元、登山用の夏のスパッツを家で探したらなくて、冬の防寒用の毛糸のスパッツをリュックに入れてきました。 ズボンの裾が邪魔になるといけないという用心深い私です。 神社の前の道に車を止めて写真を撮っていた、お爺さんと青年は、祖父とお孫さんでしょうか?スパッツを履いて身支度をしている私たちを見て「上まで上がるんですか?」とあきれ顔。「はい、行ってきまーす!」とゆっくり登りました。上はどんな風になっているのかなあ、夏草が茂っていたら進めないかも、と思いつつ上がって行くと、涼しい夏木立の下、割と難なく登れました。 3日くらい前の大雨の跡が残っていたけど、それも「あの雨の日じゃなくて良かったよね。」と、全てに斉明の愛を感じてしまう私たちです! ほどなく、本殿の前に到着!草は刈り込まれてあって、気持ちの良い広場でした!「来ましたよ!」 感動したのは、狛犬さんの両隣に、立派な羽釜が設えられていた事です! 上総丘陵生まれの友が「高宕山の上にもお釜があるよね」 そうそう、五百メートル以上の山のないわが故郷、房総半島の山は、標高は低いものの、海抜ゼロメートルから登りに入る?ので結構急な山があるんですよ。 私も登った時、高宕山頂で、茶色い水を湛えた羽釜を見ました。 友が言うには、旱の年にはこの山頂の釜の水を貰ってきて、麓の田んぼに撒いて祈るのだそうです! 本殿の前でひと息ついていると、色々な鳥の声が聞こえて来ます。滅多にない闖入者に警戒している子育て中の鳥たちかも。 いろいろな命を育んでいる太古の社の素敵さ! 本殿の向かいに、高貴な人の客殿というべきか、人々のおやすみ処というべきか、子どもたちが夏休みの宿題をやったような、はたまた草刈りのおぢさんたちが一休みできそうな、なんだか懐かしい建物がありました! その屋根の上を見てびっくり!周囲の高い木々から落ちた実から、巳れ生え、実生の若木が、3メートル位の大きさになって生え揃っているのです! なんと豊かな命の社!心洗われる思いでした!奥飛鳥の飛鳥川の川上に坐ます太古の神様の社! 登って来て本当に良かったです! 心配していた階段の下りも、注意深くゆっくり降りれば大丈夫! ところで、この神社の客殿に、そっくりなものを、後日ネットで見てしまった私です!
2023年07月29日
斉明教の友だちから電話が来て、なんと、私たちが辿った奥飛鳥の道を、電動自転車で走ってユーチューブにアップしている人がいる、との情報。 南渕請安先生の墓にも行っているという。 梅前佐紀子という人の「奥飛鳥をめぐる ②」 見てみました!知ってる、知ってる!知ってる道をたどっています。6月に私たちが朝風峠から見た風景も。他の場所のも見てみましたが、正確に伝えようとしている点と飛鳥愛があふれていて、なかなかいい感じの人でした!次回明日香に行くときは、この人のユーチューブを参考にさせてもらおうと、意見が一致!♪ さて、請安先生の墓の道を教えてくれたおばあさんは、「学生さんと先生とか、よくお見えになりますよ」「そうですね、この道の入り口のこのあたりに案内板でもあれば、と思っていた所ですよ」と、一年越しで間違えていた私たちに、優しい奈良のひと! よその家の庭先のような道をたどって行った先の突き当り、細い道だから気をつけて、と言われた通りの場所に神社の鳥居があり(談山神社の分社らしい)その奥に立派な請安先生のお墓がありました。 顕彰碑、なども大正とかけっこう近代のものが。 明日香村が建てたらしい解説には「推古天皇16年(608)遣隋使学問僧として派遣された南淵請安は在唐32年、舒明天皇12年(640)帰国し、中大兄皇子、中臣鎌足らに「周孔の学」すなわち儒教を教えた。」 とあります。 行くときは小野妹子の遣隋使船に乗り、帰りは唐になっていたんですね。 中大兄皇子や鎌足を育て、大化の改新の精神的裏付けを与えたのでしょう。 何より感動するのは、地元明日香、稲渕のみなさんが、今でも「請安先生」と呼んで慕っていること。 この旅の第一の目的、請安先生のお墓参りが出来て、本当に良かったです!
2023年07月25日
2日目 梅雨の最中というのに雨は降らなかったけど、うす曇。我らが斉明天皇が(私たちは、2人斉明教の信者なのです)リベラルの皆さんは天皇というと引いてしまう人もいそうだけど、私は明治維新以降の天皇制がヘンなだけだと思っている。 維新はキライ! 我らが斉明が、曇空を用意してくれたのではないかと、勝手に解釈した。 なぜかといえば、去年の奈良旅の二日目に、南渕請安先生のお墓マイラーをしようとしたら、あまりに暑くて断念したという経緯があるからです。 9時半頃宿を出て、橿原神宮前から勝手知ったる明日香村を走り抜け、一路請安先生のお墓のある明日香村稲渕へ。ナビが悩むといけないので目的地は明日香村稲渕とだけ入れました。 水を満々と湛えた豊かな田んぼが広がり、そのうちにやけに車が多いなあと思っていたら、飛鳥の飛び石のある川近くで、マラソン大会や田植え大会?が開かれているのでした。 去年畑のおじさんに請安先生のお墓の在り処を聞いた所にきて、もうここも勝手知ったる稲渕集落。去年のおじさんいるかなあ、などと思いつつ、去年おじさんが駐車オッケーと教えてくれた道路脇に車を止め、心は逸ります! 爽やかな風、曇り空、最高のコンディションです! 去年引き返した真っすぐの登り坂に行こうとしたところ、なんと、金網の頑丈な扉が道を塞いでいます。害獣よけの扉で開放厳禁、しかも1メートル位の高さで土砂や落ち葉、倒木などが扉の向こうに積もっています。 今回の旅の一番の目標だったのに、よほど縁の無い請安先生! この南淵請安先生は、遣隋使船で随に渡り、30年勉強して帰ってきてから、この稲渕で塾を開き、中大兄皇子や中臣鎌足たちに随や唐の知識を教えたのだそうです。 去年、奈良に来る時に、友だちが眺めていた明日香の地図に「南淵請安先生の墓」というのを発見!全然知らない人なのに地図に載ってる!というわけで、俄然興味が湧いたのでした。村の人から今も「請安先生」と呼ばれている請安先生! あきらめて帰ろうとしたとき、散歩帰りのおばあさん(同年代)が来たので、あきらめきれない友が「あのう、請安先生のお墓を訪ねて来たんですが、道が通行止めで行けないのですが、脇道とかないでしょうか?」 と聞くと、その人は「請安先生のお墓ならこの道を行った所ですよ」と、今までよその家の庭に入る道だとばかり思っていた所を指差しました!「ええーっ!」
2023年07月13日
1日目のハイライト、甘樫丘から二上山に沈む夕日を見る!もうすでに勝手知ったる明日香村!去年の丁度同じ頃、甘樫丘に沈む夕日を見ようとして、待ったけど雲がかかってよく見られず、おまけにその後、車を停めた駐車場が分からなくなり、暗い見知らぬ道を必死で歩いた、という甘樫丘彷徨を体験した私たちは、正しい駐車場を目指して車を走らせます。 ところが、私が正しい駐車場と思い込んでいたのは「駐輪場」で、広い駐車場は民間のものでした。去年の遠い駐車場が、一番管理された正しい駐車場。しかし、そこに駐車すると、展望台までに結構な距離の尾根道を歩かねばなりません。 甘樫丘展望台に一番近い場所に車を停めた私たちは、懐かしい甘樫丘を登り始めます。すでに足元を照らす照明も点灯、途中誰にも会わなかったので、ちょっと心細かったけど、展望台に着くと、数人の人がいたのでほっとしました。 甘樫丘の陰になった集落は暗くなり、飛鳥寺と周辺の家々の屋根はまだまだ明るい夏至近くの沈まない太陽に照らされています。何時間か前に行った飛鳥坐神社の森、それを取り巻く白い道、植えたばかりの田んぼには水が張られ光っています。太古を思わせる景色が広がって、ずっと見ても見飽きない素晴らしさでした。 反対側に行ってみると、遠くに二上山がくっきりと見え、近くに畝傍山、もっと近くには田植えをしたばかりの田んぼ。ため池が幾つもあるのでしょうか、水の豊富な豊かな農地が広がっているのが見えます。 展望台には、また数人が登ってきて、皆さんゆったりと夕日を眺めたり写真を撮ったりしています。 すごく立派なカメラを持ったおぢさんが、ガクアジサイの花を真剣に撮っているのが面白かったです。きっと、甘樫丘の夕日は、見飽きているんでしょうね。 でも、この日の夕日は、本当に素晴らしかったです。冥土の土産になりました! 日も沈んでしまい、みなさんが下り始めたので、私たちも名残りを惜しみつつ、甘樫丘を下りました。 夕食は、この前行った台湾料理屋さんに行くことにしました。日本語がまだ不自由な少年がその母といたお店です。まだあるかな?と心配して行ってみると、黄色い提灯がにぎやかに点灯されていて、あの少年がすっかり大きくなって働いていました。お母さん、若くなったみたい!♪ 友だちは中華丼、私は酸辣麺を食べました。唐辛子が辛かったけど本場の味。また食べに行きたいな! ホテルの駐車場が満車だったので、その前の駐車場に車を入れ(フロントでスタンプ押してもらうと無料)1日目が終わりました! 飛鳥坐神社も古代の神社の姿を彷彿とされ、大伴夫人の墓もすぐわかったし、甘樫丘は最高だったし、すごく充実の1日でした!
2023年07月07日
1日目 東京駅10時過ぎ発の新幹線ひかり号に乗車。東京駅で駅弁を買い、その時の混雑と外国人の多さにびっくり。 座って少し落ち着いてから、会計係の私が、専用の大きながま口を出して、三万円を徴収。二人で六万円。ここよりおやつや食事、交通費、拝観料その他雑費はこの財布から出すことになります。 翌日行く予定の飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の階段を登れるかどうかを、そこを管理している飛鳥坐神社さまに聞かねばならないし、甘樫丘は日暮れまでに登りたいし、で時間がもったいないので、昼食は新幹線の中で済ませます。 近鉄京都駅で、来るたびに買っていた和菓子屋さんのご夫婦がいたら、多分あるであろう「水無月」を一つづつ買おうと思って楽しみにしていたのに、ケーキ屋さんになっていた。残念。 切符の買い方も慣れました♪ 橿原神宮駅行きの特急を待っていたら、豪華列車の「あおによし」が到着したので記念撮影。 去年の同じ頃、道を聞いた、平城京跡の踏切番のおじさんいるかな~?なんて思っていたら、この線は中を通らないのでした。 行き倒れになりそうに暑かったあの日。「もう一生行きたくない場所だよね」と、友と私の意見は一致したのでした。 まだ早かったけど橿原神宮駅前のホテルでは、チェックインさせてくれたので、リュックを部屋に置き、ひと息ついてからすぐそばのレンタカー屋さんに。去年のお姉さんの代わりの人がいました。 1日目半日と、翌日1日借りる予定です。 友だちは、どんな?車でもすぐ慣れて自分の車のように乗りこなせるので、自分の車以外は運転できない私は、尊敬してしまいます。 まずは、懐かしい明日香村に行き、飛鳥坐(あすかいます)神社さまへ。大好きな飛鳥寺さまにほど近い、そこは小山のそばの囲いなどない人々の暮らしに密着した、素敵な場所でした。 まずは石段を登ってご本殿に。しみじみ立派!まさに飛鳥のお宮です。 その後、下の社務所に行き、ご朱印をいただき、私たちのようなもの(老女)でも飛鳥川上坐神社の階段を登れるでしょうかと聞いてみました。 「けっこう多くの方が登られているようですよ」との答えを聞き、勇気りんりんに湧いてきた私たちでした! その後、飛鳥坐神社さまから徒歩10分という大伴夫人の墓に行きました。歩いて行こうかと思ったのですが、少し歩いて、やっぱり車がラク!という事になり、車で。 大伴夫人は藤原鎌足の母です。 道の傍にあるその墓はこんもりとした小山。大きさは、千葉の鹿野山神野寺そばのアクル王の胴塚と同じくらいで、外観もそっくりでした。 墓マイラーも出来て良かったです! その後、近くの万葉文化館に行きました。ここで、素敵な日本画の万葉集の絵葉書を買うのです。 万葉集の絵がついた文房具もいっぱいあります。 のどが渇いたので冷たいものをいただいて一休み。友だちは亀フロート、私は花手水ソーダ。亀フロートはサンプルは茶色の上に緑のカメが乗っていてそそられなかったけど、すごく美味しかったみたい。なんでカメ?と思ったけど亀石由来でしたね。 花手水は、水色のソーダの中に食用のお花が浮いていて、すごくきれい。味は爽やかで美味しかったです。 館内では仏教を国に広める時代の映像も見られて、ちょうど来るとき新幹線の中で日出処の厩戸王子の話をしていた時に思い出した「善信尼」の行いなども見られて良かったです。 そしていよいよ、二上山に沈む夕日を見に甘樫丘を目指します。
2023年07月04日
去年の6月と今年の3月に奈良に行った時、できなかった事が幾つかあり、この春の1,お水取りを見られなかった は、仕方ないので諦めるとして去年の夏の2,南渕請安先生の墓の近くまで行ったのに暑くて断念した事3,飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の、階段の下まで行ったのに登れなかったは、やっぱり、思い残し切符のままではいけないと、梅雨のさなかの6月半ば過ぎに、再び奈良旅行を計画しました。思い残し切符というのは、こまつ座の井上ひさしの戯曲で、宮沢賢治の銀河鉄道に人生の「思い残し切符」を持った乗客が乗り合わせる話です。 友は息子に「奈良が好きだねえ」と言われ、私は恥ずかしながら、と打ち明けたブログ友のいもこちゃんに「だって、奈良に住みたいって言ってたじゃん。それを思えば何日でも行けばいいよ」と励まされ「そうだった!」と意を決して決行したのでした。 予定は 1日目・新幹線でお弁当。橿原神宮の宿に荷物を預けてレンタカーを借りる。 飛鳥坐神社に行き、飛鳥川上坐神社の階段は、私たちでも登れるか聞く。 近くの大伴夫人の墓にお参り(藤原鎌足の母) 万葉文化館で絵葉書を買う。甘樫丘で二上山に落ちる夕日を見る 2日目・明日香村稲渕にある南渕請安先生の墓参り 飛鳥川上坐神社の階段を登り、皇極女帝(後の斉明天皇)が雨乞いをした場所を確認 吉野宮滝を確認。吉野山散策。 3日目・近鉄奈良に行き、万葉植物園のノマメの様子を見る。奈良公園、興福寺散策、 できたら、ならまちで和菓子を買う。 以上の予定を立てました。 友も私も家庭的に超多忙の中、我らが斉明が用意してくれた、またとない好天の日に出発したのでした!
2023年06月27日
春の奈良旅最終日の終わりは、万葉植物園で思いがけない土屋文明先生の「ノマメ」との出会い。奈良国立博物館(奈良博)でお水取りの展示を見たこと、公園で3・13重税反対集団申告の皆さんと、天理市の市議さんと出会った事などなど、いろいろ書いたのですが、なぜかアップされずに消えてしまい。3回ほど書き直したのに消えてしまったので、力尽きて短歌だけ書きます。デザイン変更からやりなおしてみたら、無事アップできました!「ふたたびの奈良」短歌・お水取りの余韻の残る二月堂階にはだらに残る白灰・シルクロードの昔を思う登大路に衣装さまざま海外の客・鹿角のカチューシャつけて足早に歩むは東欧の若きカップル・花の寺般若寺に点る平和の灯折鶴たちに見守られ在り・人々の思いあつめて登大路「重税反対」の隊列が行く・志貴皇子の社と聞きて尋ねゆく奈良豆比古神社は民たちの神・土屋文明の「萬葉紀行」を頼みとし高円山の峠を越える・尋ね行きし田原西陵その裏の小山に向かい在りし日偲ぶ俳句・カリカリを山盛りにして春旅に・土屋文明の足跡春の明日香村・早蕨はまだと知りつつ野に探す・野に菫久米邦武の神道論・春の奈良宿で爪切るおんな旅・志貴皇子の御陵初蝶呼べば消ゆ・御朱印帳椿書き添え若き僧
2023年06月10日
土屋文明先生の「萬葉紀行」を頼りにNHKラジオ古典購読の鉄野昌弘先生の万葉集で得た知識を基に、志貴皇子を尋ねた旅も三日目の最終日。 3月13日は北西の風が冷たく感じられる日でした。半日しかないので、春日大社に行く予定を立てました。チエックアウトをして、荷物をホテルに預けて出発。 登大路はすでに結構な混雑でした。 春日大社は有名なのに何十年も来たことがなかったので、本殿への道もあやふや。でも、人々の流れの後をついていくと、それらしき広い参道が。 海外の観光客は家族連れが多く、いろいろな世代の人がいます。外国から来た少年たちは鹿さんに煎餅をやるのがブームらしい。旅行ガイドに書いてあるのかな? 全部一度にあげてしまい鹿さんが困っていたり、怖がり少年は数匹の鹿に取り囲まれて泣き声を上げたり、普段見たことのない海外の子どもたちの様子も、なーんだ、日本の子どもとおんなじじゃん!と、面白かったです。 本殿近くに行くと、ロープが張られ、人だかりが。近くにいた人が「今日は天皇陛下の使者が御供え物を持ってくるので、一般の人は本殿の参拝はできないそうですよ」 と教えてくれました。 上の空だったので気が付かなかったけど、帰りに見たら立て看板がありました。 特に本殿に行かなくてもいいと思ったら、向こうの方に平安装束のようなものを身に着けた人たちが並んでいます。その人達の行列が動き始め、こちらに向かって進んできました。 一般ピープルの前を通って本殿に向かうようです。 その人達の隊列は、幾つかに分かれ、参内傘を持った白服の人や緑の服の人は、白足袋に草履、黒い服の人、赤い服の人は黒い木の沓。白馬の轡を持つ人は赤い服に草履、弓を持ち青い服の人は黒い沓、など本格的な行列でした。 白馬は、灰色の斑が入ったかわいいお馬さんでした。トレーナーを来た男の人と、若い人が二人、箒と袋を持ってお馬さんの脇を歩いていたのは、お馬さんのお世話係だったらしい。 こんな厳かな行列を写真撮っていいのかしら、と思っていたら、ほとんど全員がスマホを向けていて、立派なカメラの人も結構いたので、私も真似して写真撮りました。 そこから引き返し、万葉植物園に行きました。さすがに他の万葉植物園とは違い、万葉集の歌の碑とともに、植物が植えられています。 季節的に何もないかと思っていましたが、梅、桃、椿など木の花が賑やかに咲き、本格的な春になったら、さぞ充実した植物園であろうと思われました。 そこで、なんと、土屋文明先生こだわりの「上総の防人の歌」に歌われた「野マメ」があったのです!
2023年05月16日
塔の茶屋さんからならまちに移動。お土産センターみたいな所に土屋文明先生のあられ酒を探しに行ったんだけど売ってなくて、(帰宅してから観光ガイドを見たら醸造元さんの広告を発見。ならまちの賑わいに目をそむけてガイドをスルーしていた(^_^;))夕食用に平宗本店で柿の葉寿司を購入、車に戻って、奈良坂の奈良豆比古神社に向かいました。 ここは、御神体に志貴皇子が祀られているとのことで、是非ともお参りしたかったのです。 まずは広い駐車場がある、手前の般若寺さまに駐車。 花の寺ということで、境内の水仙や満開の梅、桃、杏に群がる鳥たちを見ていると、思いがけない出会いがありました。 昔、平和の集いで知った、福岡県星野村の原爆の灯。広島で被爆したらしい叔父さんを探しに行った山本達雄さんが、遺骨の代わりにヒロシマの火を桐の懐炉につけて持ち帰った歌劇を見ました。 各地に移されたその火が般若寺さまの花壇の中にも移されて、子どもたちの折鶴に守られて大切にされていたのです。 般若寺さまでは句会も盛んに行われているようで、花壇のそこここに句碑が建っている、素敵なお寺でした!コスモスの頃にまた来たい! 奈良豆比古神社までは、歩くと少しあるとのことで、車で行ってみました。 パワースポットになっているという大楠は後ろの方。京都と奈良の往還の道にあるこの神社は、抑圧された人たちの信仰を集め、権力から遠くにあった志貴皇子の優しさが、人々に慕われる由縁だったのだと思う。 帰り道、奈良監獄を遠目に見て、歴史的建物が取り壊されなくて良かったけど、星野リゾートがホテルにするとの事だけど、どんなふうになるのか、想像もつかない。 トヨタに車を返し、柿の葉寿司は買ってあるので、またコンビニでカップスープ。友だちは缶チューハイ、私はカルピスソーダを買って帰りました。
2023年05月07日
白毫寺さまから高円山の峠を越えて志貴皇子の御陵・田原西陵に行き、実は土屋文明一行は、駅前で買った「あられ酒」なるものを飲んだりしたのでその真似もしたかったんだけど、(しかし考えてみれば飲めない私と運転担当の友とでは、実現しようもない事でした。 高円山をぐるりと回り(交差点の名前などをメモしておくべきだった!) ならまちの外れ、南城町の塔の茶屋さんへ。 このお店は、うん十年前、花も恥じらう女子大生だった私たちが初めて奈良の茶粥の美味しさを知った店。 当時は興福寺さまの塔のそばにあり、割と最近民家の中のこの場所に移転したとか。 昔は観光ガイドを見て知ったのだけど、今は観光ガイドにも載せていない。でも、茶粥弁当、手の込んだ奈良の食材を沢山盛り合わせてあって、お店の人にも親切にしていただき、冥土の土産になりました。 行って本当に良かったです! さて、そこで、うん十年前の旅を思い出してしまいました。時間の彼方に忘れていた記憶も、お互いの覚えていることをつなぎ合わせると、結構思い出せるものです。 季節は今回と同じ頃、馬酔木が咲いていて修学旅行生がいっぱいいました。 1日目は、京都に行き、清水寺や金閣寺、祇王寺など観光名所めぐり、宿の予約の知恵もなく、駅前の観光案内所で紹介されたのは、寂光院さまの前の坊?の実行院さま。 多分平家物語がマイブームだったのかも。大原の里に泊まれて感動でした。 2日目は京都の観光地をめぐり、夜は、すっかり忘れていたけど、友が覚えていて言うには、豊中の私の兄の家に泊まったのでした。兄は独身で、東京からの長期出張中で借り上げ社宅みたいな所。家財道具が完備されていて、自分たちでご飯を炊いて柴漬けで朝ごはんを食べたような気が。 3日めは奈良に行き、不便な国鉄で、法隆寺(斑鳩の白い道を歩くのが夢だった)に行き薬師寺、唐招提寺、春日大社、東大寺、そして塔の茶屋さんでの茶粥弁当!全然疲れず、いろいろな所に行きました。 そしてその夜、1日に一本だけある東海道本線大阪から東京までの各駅停車に乗ったのでした。 確か、真夜中の12時頃に大阪を出て、翌日のお昼ごろに東京駅着。 友だちが、「朝は温かいご飯の駅弁を食べたい!」と、すごくこだわっていたのを覚えています。 温かいお弁当も無事に買って食べ、通勤通学のラッシュの様子を眺めたり、旅人気分を満喫しました。 今思えばものすごい強行軍だったのに、疲れた記憶が全然ありません。若かった! あれから、2人とも人生の荒波に揉まれて今まで過ごしてきたけど、また、大好きな奈良の旅ができるなんて、結構良い人生だったかもしれない、と、塔の茶屋さんの茶粥弁当で思い出した大昔の旅でした!
2023年05月07日
白毫寺のお庭の歌碑の説明文に、志貴皇子を悼む笠金村の歌高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しにとともに『今あなたがこの歌碑に向かはれる時、その直線上、約三kmの彼方、高円山の裏側に志貴皇子のお墓(春日宮天皇陵)も又、奇しき因縁である。』との説明文がありました。 行った人のYou Tubeを見ると、ナビは正確に教えてくれなかったと言っていたので、方向だけ分かればよいと思い、田原農産物直売所だったか、道の駅だったか、を目的地にして車を走らせました。 土屋文明先生はバスで言ったと書いてあるので、バス停があるかと気をつけて見ていたのですが、見当たらず、頼りにするのは萬葉紀行のこの記述だけ。『今私達がバスで登っている道は、古い鉢伏峠の道ではなく、近年開かれたらしい新道である。バスの通るのも無理はない。私は一寸落胆したのであるが、又、考へて見れば鉢伏峠の道といふのも果して奈良の御代のままの道であるか否かは確かめようもないやうだ。旧道の跡に再び新道が出来、新道かへって旧道となる例もあるからと自ら慰めて居るうちに、バスは山道を出ぬけて谷の開けた所へ来た。即ち大和田原の地である。田原西陵の参道入口はすぐ間もなくであったが、私達は東陵までこのバスで行き、かへりに参拝する方が良いといふ車掌の言のままに、御前を通過して東陵の方へ進んだ。 東陵は即ち志貴皇子の皇子たる光仁天皇の御陵である。』 確かに峠を越えて道は下り坂になった。期待とたどり着けるかという不安で胸は高鳴る。すると、友達が「あった!」と声をあげ、車が止まった。道端に、宮内庁と書かれた御陵の案内板。下りて見ると、You Tubeで300メートルと言っていた参道が続いている。 入口には葉っぱを茂らせた大きなサルトリイバラの木!参道の両側から覆うような馬酔木の並木。 「私達を待っていてくれたのね。呼ばれてる気がして、すぐわかったもん」 足早に御陵に近づくと、友達が「あっ!ルリタテハ!」 私は確認出来なかったけど、ルリタテハは田んぼの木橋の裏などで冬越しをするらしい。迎えに来てくれたんだ!と感激! 御陵はきれいに掃除され、巨大な杉の木に守られて、その後ろに志貴皇子が眠っているであろう雑木林の小山があった。 周囲はきれいな茶畑と田んぼの景色が広がっていて、人家や人の気配は全くなく、志貴皇子らしい静かな素敵な御陵だった。 ずっとその場にいたかったけど、お昼を予約してあったので、光仁天皇陵にも行かず、高円山をぐるりと一周するルートでならまち方面の雑踏に帰ってきました。
2023年04月28日
宿は一昨年、明日香村、西の京などに行った時と同じ、近鉄奈良駅徒歩3分ほどの手軽な安い所、最低限のサービスつきで清潔なのが何より。 二日目はいよいよ、もう一つの目的地、志貴皇子の御陵を探します。 伊藤千代子の恩師、土屋文明先生の「萬葉紀行」だけが頼り。 というのは、どの観光マップにも志貴皇子の別荘があった白毫寺から志貴皇子の御陵、田原西陵は地図の切れ目で、載ってないのです。 萬葉紀行によれば『昭和十五年三月十一日、大軌電車の奈良終点に下りた四人、田原の春日宮天皇御陵に参拝のためであった。よい塩梅に三十分許りで田原行きのバスが出るといふので、昼にはまだ大分間があるが駅前でうどんを食ひ、早めに昼食をすませて置く。塩水に浮かべ出した如き大和うどんにもお陰で此の頃は大分慣れてきた。あられ酒の小さい壜を買ったものもある。 バスは博物館横を通り公園を横断して右折し、高畑白毫寺経て高円山にかかる。』 宿のそばで予約しておいたレンタカーを借り、これだけを頼りに、まずは志貴皇子の別荘があったという白毫寺に。 車は、すでに混雑の登大路の外国人観光客や修学旅行生を見ながら右折。飛鳥小学校、奈良教育大学などをスムーズに進みます。 ところが、白毫寺町に入ってから、住宅の行き止まり路地に入り込み、戻るのも冷や汗ものの30分ほどを費やし、やっと抜け出して、少し先の駐車場に停めたら、すぐに白毫寺の階段がありました。 続く石段に、登れるかしらと不安でしたが、足に優しい緩やかさに登っていくと、ヒヨドリ、ウグイス、あと聞き慣れない小鳥たちの欣喜雀躍の声が響いています。左右に満開の椿、梅の花、桃の花、階段の途中で振り返れば、奈良の町が遠く近くに見えます。 白毫寺は素敵な椿のお寺でした!但し、大伴家持が、友と酒を酌み交わして遊んだのはこのあたりで、萩の花が咲き乱れていたというので、秋には萩のお寺になるのでしょう。 お参りに来ていた人たちは、皆静かに、志貴皇子が毎日眺めたであろう奈良の町や今の世は、その周辺に観光客がひしめいているであろう伽藍を見渡したり、五色椿、白毫寺椿、辛夷、などの咲く庭を散策していました。騒々しい人たちがいなくてそれも良かった!一番騒がしかったのは私達だったかも・・・反省! 志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、天武、持統の政権が天智系の皇子たちをことごとく排除した後、天武系の皇子が全員亡くなり、結果、志貴皇子の子が光仁天皇となり、次の桓武が盤石の政権を作った、という感じかな?今の皇室の祖になるらしい。 光仁天皇から重く用いられた大伴家持は、万葉集の重要な位置に志貴皇子と湯原王の歌を載せる。・石走る垂水の上の早蕨の萌いづる春になりにけるかも・むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも・采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたづらに吹く
2023年04月26日
2023年3月、友と奈良東大寺のお水取りを見に行く計画を立てました。俳句・カリカリを山盛りにして春旅に (留守番猫の餌)・土屋文明の足跡春の明日香村・さわらびはまだと知りつつ野に探す 10:03 東京駅発ひかり507号に乗車、なぜひかりかといえば、大人の休日倶楽部で割引切符を買うのには、ひかりでないとダメなのです。そしてなぜかいつも空いている。 いつも(という程頻繁ではないのですが)時間を有効に使おうと東京駅で駅弁を買い、新幹線の中で食べるのがいつもなのですが、今回は私がお蕎麦ブームになっていて、その情報から、12:37分に着いた京都駅コンコースのにしんそばで有名な松葉さんで昼食。私好みの百合根蕎麦♪ 少し並んだけど割とすぐに食べられました。 すぐに近鉄奈良行きに乗り、宿に荷物を置かせてもらおうと思ったら、チェックイン出来たので身軽になってまずは二月堂のお水取り現場を下見。 勝手知ったる登大路には、初めて見る風景が広がっていてびっくり!それは、シルクロードの昔を思わせるような、さまざまな国の海外観光客の群れ! 鹿たちの営業も大繁盛! 大仏様をスルーして、まずは二月堂へ直行!下見をしてから茶店の龍美堂さんでわらび餅でお茶、お土産に行法味噌を買う、というのが午後の予定でした。 ところが、ものものしい竹囲い、立て札を見ると見学は不可、とのこと。警備の人に聞くと、相当離れた所では見られるが、とのこと。 とにかくお茶を、と龍美堂さんに行ってみると、もうお店を閉めるとのこと。急いで行法味噌を買い、二月堂の仏様を拝んできました。石段に昨日のお松明の灰が少し積もっているのが、お水取りの日らしい風景でした。 一番の目的のお水取りが見られなくて残念だったけど、人波に疲れてしまい宿に帰ることにしました。 ・東大寺湯屋の空ゆく落花かな 宇佐美魚目 の景色が見たくて、湯屋の側の道を、大仏殿方面の喧騒を聞きつつ歩いて帰り、下り坂だから歩いて宿まで帰ろうかとも思ったのですが、バスを待つことに。待っても待っても来ないバス。三月はじめの陽射しなのに異様に熱く体力を消耗しそうだったけど、奈良に来ている喜びで、どんな試練にも耐えられる私達でした! 夕食を食べに行くのも面倒なので、春日ホテル前の平宗で柿の葉寿司を買い、隣のコンビニで菓子パンとカップ春雨スープを買いました。宿の周辺にもお水取りの行灯が飾られており、近くの和菓子屋さんでお水取りの、白と紅の椿、糊こぼしを食べられたので、まあ満足の一日目でした! しかし、奈良公園周辺の外国人観光客の群れは、凄かった。あの人たちが私たちの明日香に流れて来ませんように!古都奈良の将来を憂えてしまう観光客の感想です。
2023年04月25日
新春の晴れ着姿の人たちに混じりて歩む能楽堂への道門松に紅梅の枝挿されたる能楽堂の正門くぐる演目は新年目出度き竹生島弁財天の天女の舞も明治維新の王政復古を疑問視の恩師の言葉蘇りくる伊勢神宮が国の神社の中心となるは明治になりてと知りぬ「神道は古俗」と書きて追われたる久米邦武の再評価願う竹生島杜人の見せたる宝箱怪しけれども温もりのあり地の神と渡来の神の壮絶戦手塚治虫は「火の鳥」に描く千駄ヶ谷の鳩森八幡カップ咲きのバラの溢れる花手水あり
2023年04月17日
郵政民営化の時に近所のポストが無くなり、今回、最寄りの 郵便ポストが、またもや撤去されて、とうとう郵便局まで行かなければならなくなりました!・ままごとの我に声かけ走り行きし郵便屋さんの赤い自転車・横長の墨書の手紙わが知らぬ遠き父祖の地の住所書かるる・事務的にポスト撤去の紙貼られまた遠くなる郵便ポスト・民営化で近くのポスト撤去されし記憶ふたたび郵政の劣化・ポストでの集配回数も間引かれて土曜休日配達はなし・水曜までに投函せねば週内に手紙届かぬ郵政となる・速達なら明日届きますと説明の窓口の人も契約社員そして何と、ある会の会計を引き継ぎ、先日普通預金に入金しに行ったのですが、日曜日で紙幣だけしか入金出来ず、月曜日に硬化数百数十円を入金した所、手数料としてその普通預金から110円引かれてびっくり!知らない所で、どんどん怪しげになる、この国!2023年1月のこと。
2023年01月31日
秩父路を行く藪陰の大文字草の残り花密かに咲くを慈しみ見る晩秋の秩父路ゆけば古峠に野の観音の小さきが立つ「獅子の時代」に平沼銑次が入りゆく山国秩父にコミューンのあり「恐れながら天朝様に敵対す」困民党蜂起は十月晦日負債農民の集会は森に隠されて秩父困民党の組織化すすむ佐久平へ抜ければ友ら待つ筈と風も木々たちも歌う凱歌を踏みしめる唐松落ち葉の柔らかさ敗走の彼らへのはなむけとして困民党は暴徒ならずと書き残す手紙・俳句に遺言までも(2022年10月30日作)
2023年01月21日
牽牛子塚古墳での感激は、石の女王斉明天皇が、私たちの難行苦行を評価してくれたみたいな、いい気分になってしまった私たち。 平城京跡で炭水化物の軽いお昼を済ませ(コーヒー党の友だちはアイスコーヒーだったかも)遣唐使船のそばでせんとくんと記念撮影などしてから、踏切番のをぢさんが教えてくれたとおり、道を横切って行ってみると、目の前にバス停がありました! 良かった!と時刻表を見ると1時間に1本しかなくて、04分発、時間を見ると8分くらい、仕方ない、あと1時間待つしかないね!などと言っていたら、あらら、バスがやってきて止まりました。西大寺駅行き!早速乗り込み、「ついてる!斉明がバスを遅らせてくれたんだよ」 私たちはコソコソと確認しあいました。ちょっと強気になったものの、バスは私たちが歩いた道ではない方に進み、あまつさえ大阪の方に行きそうな大通りを進み、線路の上の陸橋まで渡って向こうに行ってしまいます。でも、あの炎熱地獄を歩くよりマシ!大阪に行ったら新幹線に乗ればいいんだし!と自分を励ましながら乗っていると、陸橋を渡ったバスは右に曲がり、線路に沿って走っていきます。 着いた場所は西大寺駅の広めのバスターミナルで、来た時に、こちら側に降りれば、バスに乗って平城京跡に行けたのでした! その2週間後くらいに大和西大寺の、私たちが最初に歩いた方の駅前で、安倍首相の暗殺事件が起きたのでびっくり! すぐ来た電車に乗り込んで、大騒動の飛鳥の旅は終りました。京都でいろいろお土産を買おうかと思ったけど、飛鳥の素朴さに浸った3日間を過ごした私たちは、小洒落た京都があんまり好きじゃなくなってしまっていて、あまり欲しい物がなく、柿の葉寿司を買い、新幹線までの時間が余ってしまったので、駅のお姉さんに乗車券を1時間前のに替えてもらい、帰ってきました。 あれから、古代史熱はますます高まり、あの3日間の困難を乗り切らせてくれた斉明は、私たちの守り神のような気になってきました。 といっても、怪しい宗教ではなくて、その昔、日出処天子を夢中になって読んで、聖徳太子崇拝になったのと同じ程度。 ところで、藤原京の長屋王邸から(暑くなければ)徒歩15分くらいの大和西大寺駅前で行われた元首相殺害事件。参議院選挙では自民党が圧勝したものの、あれよあれよという間に、あまり知られていなかった様々な怪しいカルトとの関係が表面化し、多分、地元奈良県市町村が1番ショックが大きいのではないかと思われます。 それに危機感を持ったのではないか、と思うのですが、我らの斉明の大事な聖地、牽牛子塚古墳に、8月20日、自民党「飛鳥古京を守る議員連盟」(県会議員のグループ?)が現地視察、揃って写真なんか撮っちゃって、斉明の石室なんか説明させて見学しちゃって「飛鳥・藤原世界文化遺産登録の早期実現を図る」んだそうです! 奈良県知事、橿原市長なんかに感謝のコメントをツイッターに書いてたのを発見! やめてくれませんか! 来年の地方議員選挙に向けての地元票の確保? あの飛鳥が、世界文化遺産なんかになったら、物見遊山のお客と観光業者が主役の村になってしまいます!金儲けとカルトに汚れた政治家の穢れが飛鳥に充満しそう!石の女王、斉明が本気で怒るよ! 奈良のツバメたちの貴重な餌場でありねぐらである藤原京跡に、大型バス駐車場なんか建てられちゃいそう! 昔だったら、学者さん、考古学者や文学者の皆さんは、全員、そんなの許さないと思うし、今だって反対の学者さんが多いと思うんだけど。 なので、斉明教の私たちは、飛鳥の世界遺産反対の狼煙を上げることにしました!私たちには誰より強い斉明が付いてる!
2022年08月29日
全4615件 (4615件中 1-50件目)