全4588件 (4588件中 1-50件目)
終活をしていたら、詩を書いていた日々の同人誌が出てきてびっくり!すっかり忘れていた人たちの名前も懐かしや♪こんなのもありました!「廓ことば」昔 街のはずれに街が作られたそこは花街廻れば大門の見返り柳おはぐろどぶに灯火うつす賑わいに紛れ女たちはふるさとの訛りをすてて廓の女になった津軽の女は口重く廓ことばをつかう津軽の野に立ちのぼる陽炎のにおいを失くしてふるさとを忘れた廓の女になる近江の女はなつかしく廓ことばをつかう江戸に下った誇りをもって初めてまとう絹の冷たさもゆかしく振舞う廓の女になる廓ことばの「わちき」はわたし女からふるさとを奪い心を奪う不条理にも疑いにも目をそらし考えを持たない女を作る今も街のはずれに街がうまれる立ち並んだ文化住宅で妙に腰を低くして女たちがつかう標準語に似せた言葉たちふるさとの訛りを忘れたそれは現代の廓ことば得意気に街に反乱する語尾だけが長く残るそのことばことばからはじまる精神の画一化この新興住宅街におはぐろどぶはないがわたしひとり背筋の凍る思いで跳ね橋の番屋の暗い陰を凝視しているのだ「齢」三十とか四十とか五十とかいう数は中年女の疲れた皮膚や世間ずれした心や人生の澱のようなものが連想させられて私の一番嫌いな数だだけど三百とか四百とか五百とかいう齢は少しもみにくくはない三百歳の女は きっと永遠のいのちを持つ美しい女肌にたるみやしみはなくてほっそりとしてたくましくはたちの女とはちがう何でも知っている女の自信にあふれて男の心を射すくめるだろう私もほしい永遠を新鮮に生きられる心と身体をたった四十年生きただけでこんなに疲れ 汚れてしまったのだもの*今読み返すと、何をそんなに年を取ることに焦っていたのかと笑えてしまいます!
2024.05.21
2023年6月19日月曜日、奈良の旅の3日目最終日です。美味しい料理が並ぶ朝食バイキングの中から茶粥チョイスの地味な朝食を食べて、満足のホテルに別れを告げ、近鉄橿原神宮前から近鉄奈良駅に向かいます。降り立った奈良。まだ10時前の登大路は日本人は殆どいなくてハイテンションの海外のお客さんがすでにいっぱい。私たちは迷わず春日大社さまを目指します。正確には万葉植物園。実は、伊藤千代子の恩師、土屋文明先生の萬葉紀行の最後に、「防人と豆」という章があり、上総国天羽郡の防人の歌道の辺の茨の末に這ほ豆のからまる君を放れか行かむ天平勝寶七年二月九日、大伴家持が難波で諸国の防人の歌をチェックした際に選んだという。文明先生は、ここに歌われた豆とはどんな豆かと探した結果、大豆の一種であろうと大豆捜索。いろいろなタネを集めてご自分で栽培したりした様子が細かく、しかも防人たちへの思い深く書かれていて上総生まれの私と友は大感激。上総の野や海岸に蔓のある大豆を探そうと、一年前に取り組み始めました。もちろんお遊びですけど。去年の秋、早速木更津の海岸で友が小さなサヤをつけた野ダイズを発見。でも、蔓がなければ「からまる君」にならない。次に友が上総湊の野原で、蔓のある野アズキを発見。蔓があるけど文明先生のおっしゃるダイズではない。そうだ、万葉植物園に行こう!と、お水取りに合わせて奈良の旅を計画、なんと、お水取りは見学中止だったけど、まさか無いだろうと思っていたこの歌のプレートと茨とノマメが、ちゃんと万葉植物園にあったのです。しかし寒い季節、ノアズキとされていたマメは、葉も蔓も枯れて、乾いた小さなサヤがついているだけでした。そうか、多くの万葉学者、植物学者たちが出した結論は、ノアズキだったんだ!尊敬する文明先生が、探した大豆。先生が満州からきた配給の大豆から色の黒い豆を選んで疎開先で蒔いて洪水で流されてしまったのは大豆だったけど・・・。 でも、とにかく枯れたものではなく、緑の葉や蔓のあるときに(できれば花のある時に)もう一度来てみて、同じものを上総の野山で探そう、という事になり、今日のこの日、期待に胸いっぱいになりながら、やってきた万葉植物園。月曜日なのでお休みかと心配でしたが、そういえば3月に来たときも月曜日でした。 蔓のあるアズキ・ササゲ、が他の立派な有名な万葉植物の中で育っていました。 しかし、やっぱりノダイズ論も捨てきれません。天羽郡生まれの友は、自分はどんな学者よりも地元民なんだから、大豆説を支持すると言います。 (軟弱な私は、ツルのあるササゲの「十六ササゲ」のタネを買い、これが這う豆のノマメに近いのではないかと、友にも分けて、この夏栽培しました。風情が似てるかと思って。秋田の方では似たようなてんこ豆というのがあるそうです)続く。
2023.09.28
まだ昼飯前の2日めです!吉野宮滝跡近くにいたをぢさんに吉野山への道を教えてもらったのは「郵便局前を左に引き返し、しばらく行くと青(緑?赤?)の大きな橋があるので、そこで吉野川を渡り、道なりにどんどん行くのが吉野山への迷わない道になる。」という道。教えていただいてナンですが、宮跡と宮滝については素っ気なかったをぢさんは、とても丁寧積極的に細かく教えてくれたのでした! 有り難うございました!豊かな吉野川は、今も人々の避暑地のような感じ。広い河原には沢山のテントが張られ、水遊びの人々で大賑わいでした。そうだ、今日は日曜日だった!教えていただいた通りに大きな橋を渡ると、道はだんだんに登りになっていきます。細くて曲がりくねった道を上がっているうちに、運転している友だちが、見たことがある、というお宮を過ぎると、すぐに目的地の下千本駐車場に着きました。広い駐車場に結構な数の車が停まっています。いいなあ、奈良の人はいろんな所に遊びに行けて・・・ ラッキーな事にシーズンオフなので駐車場代も無料でした!「斉明が、よく来たね!と歓迎してくれてる」どこまでも斉明の愛に包まれている私たちです。坂道の吉野山。帰り道は下りにしたい、という考えから、下の千本に車を停め、適当な所まで行って、また戻って来る、というつもりでいたのですが、車を下り少し歩いたら梅雨の中休みの太陽がギラギラと照りつけ、今まで車という文明の利器に守られていた私たちの体は、実は登りや暑さに弱い、という軟弱なものだったことを思い知らされました。 「行ける所まで車で行こう」となんでも容易きに流れる思いは同じ。人さまの迷惑を気にもしつつ、車で登ることにしました。 歩いている人が少なくて良かったけど、道がせまくて、休みのお店が多く車を停める所がありません。 結局、中千本駐車場に車を停め、少し下って金峯山寺様まで行くことにしました。 ずっと前に金峯山寺に来た時に、清少納言と仲の良かった藤原行成が金峯山寺の扁額を書いた、と思いこんでいて、それを探したけど無くて、お坊さまに聞いたりして困らせた思い出が。 結局わが小野家の道風さまの間違いでした! 行成が扁額書いたのは、一条帝の清涼殿のでしたね! その前に金峯山寺のお坊さまと話したのは、最初に行った時に巨大な梨の木の柱を教えていただいた時で、あまりの大きさに感激して「触ってもいいですか?」と言って触ったこと。 とにかく、金峯山寺さまが大好きで、何度も行っていることをアピールしたい私。 今回も、とにかく大きくて立派で、梨の柱にも会えたし、小野家の東風さまの扁額にも会えたし、仏様たちのたたずまいに、ほんとに癒やされました。 お参りに来ているみなさんの上に時間がゆっくり流れている感じ。あまりに素敵すぎて写真を撮るのも忘れました。写真を撮っても、この立派さは写せない気がします。 今回の吉野山でもうひとつ目的があったのは、噂に聞いた「くずバー」というものを売っているかと思ったこと。葛とフルーツを固めた見た目はアイスバーふうで、室温でも溶けないらしい。 かねはな堂のアイスバーというんですけど。 しかしシーズンオフで半分以上のお店が休業中。アイスバーにも巡り会えませんでした。 お昼の時間もだいぶ過ぎたので、開いていたお店で柿の葉寿司と温かい葛うどんセットでお昼。とても美味しかったです。 帰りに吉水神社もちょっとのぞいてみたけど、世界遺産という拝観料つきの中には入りませんでした、以前来た時に、なんかチャチなパワースポットというもの(細い木を組んだもので、五芒星みたいなものをぶら下げてアヤシイ感じ)を作ってあって、もしかして世界遺産になるような歴史があるんだったら、それを汚してるみたいな商売っ気が嫌だったから。 その時は若い人たちで賑わってたけど、今回は日曜日だというのに誰も来ていませんでした。そういえば、ここの神主さんが長野にアベ神社というのを建てているとテレビで見ましたが、細い木を組んだお休みどころ(四阿ふう)、なぜ長野なのかわかりませんが。 以前来たときは「らち被害者」のご家族の皆さんが来ていて署名活動をしていたことを思い出しました。 仲の千本で車に乗り、車の偉大さに感謝しながら、ゆっくりと吉野山を下り、帰り道はナビちゃんが絶対間違えないように「橿原神宮前駅」を指定。まさか芋峠を越えないよね、とドキドキしながら指示通りに走ると、車は立派な道を通り(多分国道) 新芦原トンネルという所を通って帰って来ました。 反省としては、やはり吉野は下千本駐車場に車を停めるのが良さそうです。でも花の季節には大渋滞だろうから、大混雑の公共交通機関で行きましょう! スタンドに寄り給油、近くのコンビニに行き、夕飯を買って車を返しました。この町にすっかり馴染んでしまった私たち。 ホテルの売店で買い物をしている時に、「アイスバーって知ってます?」とホテルのお姉さんに聞いたら「ありますよ」「えーっ!」というおまけ付き。 アイスのケースみたいなのに入っていたそれは、数種類のフルーツ入があり、友はブルーベリー、私はフルーツミックスを食べました。 すごく美味しかったけど、満腹になってしまうので食事前には向かないかな?おやつにピッタリ。 こうして、長い長い奈良旅の2日めは終わりました!
2023.08.28
吉野への峠を越える時に高取城跡という案内板を何度も見かける。 司馬遼太郎の「街道を行く」の大阪堺から今井町、壺阪山、高取山という道。You Tubeで見たら、高取城というのは、豪壮な山城で、複雑な石垣と漆喰の美しい城が、江戸時代に存在していたが、明治維新の廃藩置県で取り壊されたのだそうです。 今は苔むした石垣だけが残るらしい。 明治という時代は、何という罪深い時代だったんだろうと思う。昔、学校では素晴らしい、世界に追いつけ追い越せの維新だったと教わったけど。 千股の観音さまにお参りして、ここがなぜか懐かしいのは、お堂の中に我が実家の宗派である日蓮宗のお題目本や井桁橘の紋が入った何やかやが置いてあるのを見たからです。 他にもいろいろあって、ゾロアスター教の火の神みたいなのもあり、何でもアリなのかも。この前来たときも暑いさ中なのにみずみずしい切りたてのお花が活けられてあって、住民の皆さんに愛されているんだなあと、ほっこりします。 千股川を横に、国道?を左に曲がると、観光客、釣り客の宿や定食屋、石屋、材木屋など、大きな家が増えて来ます。遡るこの川は吉野川。 左手に津風呂湖の案内板が出てきて、土屋文明先生が吉野宮滝の場所を探して幾度も通われた津風呂も近そう。 万葉の歌と地図でしか知らない憧れの吉野宮滝って、もっと急峻な山深い渓谷のような場所かと想像していたけど、川はゆったりと大きく、船遊びも楽しそう。 何となく、大海人たちが逃げて隠れ住んだイメージを持ってしまっていた。 郵便局があったので、そのあたりに車を停めたら「停めるな」と言ってきたをぢさんに、吉野宮滝と宮跡に行きたいんですけど、と言ったら親切に教えてくれたけど、それは「宮跡は発掘調査はしたが、また埋め戻して何もない」とのことでした。 がっかりして、まあ、このあたりって事でいいね、と納得した私たち。 車をUターンしたら、目の前に「史跡宮滝遺跡」という大きめの石碑が。そしてそのそばに柿本人麻呂の万葉歌碑がありました。「エッ!ここじゃん!」長歌があって、反歌もありました。・見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまた還り見む 持統天皇の行幸の折に人麻呂が詠んだ歌だそうです。 斎藤茂吉の「万葉秀歌」には、湯原王のこの歌が載っています。・吉野なる夏実の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして 湯原王は我らが贔屓にしている志貴皇子の第2皇子で、光仁天皇の兄弟。 斎藤茂吉は「夏実は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。」と書き、付け加えて(土屋氏に新説ある)としているので笑ってしまいます。 土屋文明先生は菜摘の場所を探して万葉親友の上村くんと一緒に、これも行きつ戻りつしておいでなので、付け加えておかないとうるさいと思われたんでしょうね! ともあれ、広々とした吉野宮滝のあたりを確認して、私たちの車は吉野山目指して快調に発進したのでした。(まだ昼ご飯前!)
2023.08.20
川上坐神社から吉野へ行くのですが、さて、奈良のナビはどの道を教えてくれるのか、行くにせよ戻るにせよ、ナビの教えてくれる通りにしようと思い、ナビが迷わないように「吉野宮滝」を入れてみました。登り方向を向いている車を、できれば引き返してどこかのトンネルつきの大きな道を行きたかったけど。 しかし、ナビはまっすぐ進めと指示を出しました。また芋峠か! 去年の同じ頃、どこに行きつくのか、先の見えない不安で必死に下ったこの道を、今度は余裕で登ってみたいという気持ちもあり、私たちは素直に従う事にしました。 斉明女帝が私たちに用意してくれた素晴らしいうす曇の中、もう知っている道、という余裕で去年は、あんなに狭くて急に思えた道も、案外広く見えました。 登って行くと古道の指標板がありました。 去年は焦っていて、読んだけど頭に入らなかった犬養孝氏の説明板もあります。 「古道芋峠道」 犬養孝 万葉の大和路より明日香村大字岡のあたりから吉野へ歩いてゆくのには、普通飛鳥川をさかのぼって大字稲渕・栢森と登りつめて、芋峠が吉野郡との境となって、これから吉野郡上市の町へと下るのである。 芋峠までくれば、吉野の山々を一つ一つ数えることができる。空気も国原とはとみに変った感である。 昭和のはじめごろまでは、まだ旧道であった。飛鳥川の東岸をゆく道は、栢森から左に曲って登ってゆく道で、峠のところで新道と合している。 持統女帝の吉野行幸道は、地形状況からいって、この道をゆくのがきわめて自然と思われる。 と、断定されている。 我らが土屋文明先生が、ああでもないこうでもないと行きつ戻りつまた行きつした、いとおしい峠越え。 栢森1600m,芋峠1000mの古道小峠、天武、持統の歩いた古道が続いています。 道の曲がり角、川の途中には様々な鳥たちの声がこだましています。涼しい風に吹かれながらほっとひと息、古代の人たちの必死の行幸に思いを馳せました! 車は細い登りを快調に登り、峠につき、下ります。 そしてまた千股の観音堂にお参りしました。 長屋王がこのあたりで歌を詠んだらしい。 そういえば、稲渕近くの峠を朝風峠と呼ぶのを聞いて、安易な名前!(だって一時期日本各地で誕生した新地名の、安易なつけかたをちょっとばかにしていたので)と思ったんだけど、宇治間山朝風寒し旅にして 衣貸すべき妹もあらなくにの、朝風からだったんでしょうね。東夷の末裔が、失礼いたしました!
2023.08.12
青梅雨やどこに行っても少数派 と、少数派を自認の私ですが、昨今はどうでもいい事で敵を作りたくない気分で、あんまりよそさまの事に感想など述べないようにしていますが、まあ、個人的な旅のメモとして書いておきます。 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の実生の屋根に感動したのですが、後日ネットで、そっくりな屋根を見てしまったのです!何百倍も立派な! それは、太宰府天満宮の建て替えに伴う仮の本殿で、金ピカ立派、その屋根の上に木や草花の植え込みが・・・ 色々な場所の施設をてがけた、有名な中堅建築家の方が設計したそうです。 この仮殿は三年後には取り壊すそう。 まあ、イベント会場の植栽は皆、終わったら廃棄したり別の場所で再利用したりするんでしょうが、なんとなく、ね。 あの奥飛鳥の古い社の、鳥や虫や植物たちが時間とともに作った実生の屋根を見てしまったので、なんか姑息な感じがして・・・人間の傲慢さというか・・・ という、少数派の感想でした。
2023.08.06
旅の2日目は、まず請安先生の墓参りが出来てラッキーなスタート。「私たちはツイてる!何がって最強の斉明がツイてる!」怖いもん無しです!道は去年の芋峠彷徨を逆に行く一本道。見慣れた道を登って行くと、ほどなく日本で一番長い名前という、飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の階段が左に見えて来ました。車を止めて身支度をします。去年のほぼ同じ日、あまりの暑さと果てしなく続く階段に、登るのを躊躇、今回の旅の2つ目の目的は、若き日の斉明が皇極天皇と言った若き日に、雨乞いをしたというこの神社に表敬訪問することです! 昨日、飛鳥坐神社で、「私たち(老女)でも石段登れますか?」と聞き、大丈夫であろうという感触を得たので、勇気りんりんです!しかも、斉明が用意してくれた曇り空!♪ 私たちには人生の歩ける時間が少ないので、這ってでも登ろうという決意の元、登山用の夏のスパッツを家で探したらなくて、冬の防寒用の毛糸のスパッツをリュックに入れてきました。 ズボンの裾が邪魔になるといけないという用心深い私です。 神社の前の道に車を止めて写真を撮っていた、お爺さんと青年は、祖父とお孫さんでしょうか?スパッツを履いて身支度をしている私たちを見て「上まで上がるんですか?」とあきれ顔。「はい、行ってきまーす!」とゆっくり登りました。上はどんな風になっているのかなあ、夏草が茂っていたら進めないかも、と思いつつ上がって行くと、涼しい夏木立の下、割と難なく登れました。 3日くらい前の大雨の跡が残っていたけど、それも「あの雨の日じゃなくて良かったよね。」と、全てに斉明の愛を感じてしまう私たちです! ほどなく、本殿の前に到着!草は刈り込まれてあって、気持ちの良い広場でした!「来ましたよ!」 感動したのは、狛犬さんの両隣に、立派な羽釜が設えられていた事です! 上総丘陵生まれの友が「高宕山の上にもお釜があるよね」 そうそう、五百メートル以上の山のないわが故郷、房総半島の山は、標高は低いものの、海抜ゼロメートルから登りに入る?ので結構急な山があるんですよ。 私も登った時、高宕山頂で、茶色い水を湛えた羽釜を見ました。 友が言うには、旱の年にはこの山頂の釜の水を貰ってきて、麓の田んぼに撒いて祈るのだそうです! 本殿の前でひと息ついていると、色々な鳥の声が聞こえて来ます。滅多にない闖入者に警戒している子育て中の鳥たちかも。 いろいろな命を育んでいる太古の社の素敵さ! 本殿の向かいに、高貴な人の客殿というべきか、人々のおやすみ処というべきか、子どもたちが夏休みの宿題をやったような、はたまた草刈りのおぢさんたちが一休みできそうな、なんだか懐かしい建物がありました! その屋根の上を見てびっくり!周囲の高い木々から落ちた実から、巳れ生え、実生の若木が、3メートル位の大きさになって生え揃っているのです! なんと豊かな命の社!心洗われる思いでした!奥飛鳥の飛鳥川の川上に坐ます太古の神様の社! 登って来て本当に良かったです! 心配していた階段の下りも、注意深くゆっくり降りれば大丈夫! ところで、この神社の客殿に、そっくりなものを、後日ネットで見てしまった私です!
2023.07.29
斉明教の友だちから電話が来て、なんと、私たちが辿った奥飛鳥の道を、電動自転車で走ってユーチューブにアップしている人がいる、との情報。 南渕請安先生の墓にも行っているという。 梅前佐紀子という人の「奥飛鳥をめぐる ②」 見てみました!知ってる、知ってる!知ってる道をたどっています。6月に私たちが朝風峠から見た風景も。他の場所のも見てみましたが、正確に伝えようとしている点と飛鳥愛があふれていて、なかなかいい感じの人でした!次回明日香に行くときは、この人のユーチューブを参考にさせてもらおうと、意見が一致!♪ さて、請安先生の墓の道を教えてくれたおばあさんは、「学生さんと先生とか、よくお見えになりますよ」「そうですね、この道の入り口のこのあたりに案内板でもあれば、と思っていた所ですよ」と、一年越しで間違えていた私たちに、優しい奈良のひと! よその家の庭先のような道をたどって行った先の突き当り、細い道だから気をつけて、と言われた通りの場所に神社の鳥居があり(談山神社の分社らしい)その奥に立派な請安先生のお墓がありました。 顕彰碑、なども大正とかけっこう近代のものが。 明日香村が建てたらしい解説には「推古天皇16年(608)遣隋使学問僧として派遣された南淵請安は在唐32年、舒明天皇12年(640)帰国し、中大兄皇子、中臣鎌足らに「周孔の学」すなわち儒教を教えた。」 とあります。 行くときは小野妹子の遣隋使船に乗り、帰りは唐になっていたんですね。 中大兄皇子や鎌足を育て、大化の改新の精神的裏付けを与えたのでしょう。 何より感動するのは、地元明日香、稲渕のみなさんが、今でも「請安先生」と呼んで慕っていること。 この旅の第一の目的、請安先生のお墓参りが出来て、本当に良かったです!
2023.07.25
2日目 梅雨の最中というのに雨は降らなかったけど、うす曇。我らが斉明天皇が(私たちは、2人斉明教の信者なのです)リベラルの皆さんは天皇というと引いてしまう人もいそうだけど、私は明治維新以降の天皇制がヘンなだけだと思っている。 維新はキライ! 我らが斉明が、曇空を用意してくれたのではないかと、勝手に解釈した。 なぜかといえば、去年の奈良旅の二日目に、南渕請安先生のお墓マイラーをしようとしたら、あまりに暑くて断念したという経緯があるからです。 9時半頃宿を出て、橿原神宮前から勝手知ったる明日香村を走り抜け、一路請安先生のお墓のある明日香村稲渕へ。ナビが悩むといけないので目的地は明日香村稲渕とだけ入れました。 水を満々と湛えた豊かな田んぼが広がり、そのうちにやけに車が多いなあと思っていたら、飛鳥の飛び石のある川近くで、マラソン大会や田植え大会?が開かれているのでした。 去年畑のおじさんに請安先生のお墓の在り処を聞いた所にきて、もうここも勝手知ったる稲渕集落。去年のおじさんいるかなあ、などと思いつつ、去年おじさんが駐車オッケーと教えてくれた道路脇に車を止め、心は逸ります! 爽やかな風、曇り空、最高のコンディションです! 去年引き返した真っすぐの登り坂に行こうとしたところ、なんと、金網の頑丈な扉が道を塞いでいます。害獣よけの扉で開放厳禁、しかも1メートル位の高さで土砂や落ち葉、倒木などが扉の向こうに積もっています。 今回の旅の一番の目標だったのに、よほど縁の無い請安先生! この南淵請安先生は、遣隋使船で随に渡り、30年勉強して帰ってきてから、この稲渕で塾を開き、中大兄皇子や中臣鎌足たちに随や唐の知識を教えたのだそうです。 去年、奈良に来る時に、友だちが眺めていた明日香の地図に「南淵請安先生の墓」というのを発見!全然知らない人なのに地図に載ってる!というわけで、俄然興味が湧いたのでした。村の人から今も「請安先生」と呼ばれている請安先生! あきらめて帰ろうとしたとき、散歩帰りのおばあさん(同年代)が来たので、あきらめきれない友が「あのう、請安先生のお墓を訪ねて来たんですが、道が通行止めで行けないのですが、脇道とかないでしょうか?」 と聞くと、その人は「請安先生のお墓ならこの道を行った所ですよ」と、今までよその家の庭に入る道だとばかり思っていた所を指差しました!「ええーっ!」
2023.07.13
1日目のハイライト、甘樫丘から二上山に沈む夕日を見る!もうすでに勝手知ったる明日香村!去年の丁度同じ頃、甘樫丘に沈む夕日を見ようとして、待ったけど雲がかかってよく見られず、おまけにその後、車を停めた駐車場が分からなくなり、暗い見知らぬ道を必死で歩いた、という甘樫丘彷徨を体験した私たちは、正しい駐車場を目指して車を走らせます。 ところが、私が正しい駐車場と思い込んでいたのは「駐輪場」で、広い駐車場は民間のものでした。去年の遠い駐車場が、一番管理された正しい駐車場。しかし、そこに駐車すると、展望台までに結構な距離の尾根道を歩かねばなりません。 甘樫丘展望台に一番近い場所に車を停めた私たちは、懐かしい甘樫丘を登り始めます。すでに足元を照らす照明も点灯、途中誰にも会わなかったので、ちょっと心細かったけど、展望台に着くと、数人の人がいたのでほっとしました。 甘樫丘の陰になった集落は暗くなり、飛鳥寺と周辺の家々の屋根はまだまだ明るい夏至近くの沈まない太陽に照らされています。何時間か前に行った飛鳥坐神社の森、それを取り巻く白い道、植えたばかりの田んぼには水が張られ光っています。太古を思わせる景色が広がって、ずっと見ても見飽きない素晴らしさでした。 反対側に行ってみると、遠くに二上山がくっきりと見え、近くに畝傍山、もっと近くには田植えをしたばかりの田んぼ。ため池が幾つもあるのでしょうか、水の豊富な豊かな農地が広がっているのが見えます。 展望台には、また数人が登ってきて、皆さんゆったりと夕日を眺めたり写真を撮ったりしています。 すごく立派なカメラを持ったおぢさんが、ガクアジサイの花を真剣に撮っているのが面白かったです。きっと、甘樫丘の夕日は、見飽きているんでしょうね。 でも、この日の夕日は、本当に素晴らしかったです。冥土の土産になりました! 日も沈んでしまい、みなさんが下り始めたので、私たちも名残りを惜しみつつ、甘樫丘を下りました。 夕食は、この前行った台湾料理屋さんに行くことにしました。日本語がまだ不自由な少年がその母といたお店です。まだあるかな?と心配して行ってみると、黄色い提灯がにぎやかに点灯されていて、あの少年がすっかり大きくなって働いていました。お母さん、若くなったみたい!♪ 友だちは中華丼、私は酸辣麺を食べました。唐辛子が辛かったけど本場の味。また食べに行きたいな! ホテルの駐車場が満車だったので、その前の駐車場に車を入れ(フロントでスタンプ押してもらうと無料)1日目が終わりました! 飛鳥坐神社も古代の神社の姿を彷彿とされ、大伴夫人の墓もすぐわかったし、甘樫丘は最高だったし、すごく充実の1日でした!
2023.07.07
1日目 東京駅10時過ぎ発の新幹線ひかり号に乗車。東京駅で駅弁を買い、その時の混雑と外国人の多さにびっくり。 座って少し落ち着いてから、会計係の私が、専用の大きながま口を出して、三万円を徴収。二人で六万円。ここよりおやつや食事、交通費、拝観料その他雑費はこの財布から出すことになります。 翌日行く予定の飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の階段を登れるかどうかを、そこを管理している飛鳥坐神社さまに聞かねばならないし、甘樫丘は日暮れまでに登りたいし、で時間がもったいないので、昼食は新幹線の中で済ませます。 近鉄京都駅で、来るたびに買っていた和菓子屋さんのご夫婦がいたら、多分あるであろう「水無月」を一つづつ買おうと思って楽しみにしていたのに、ケーキ屋さんになっていた。残念。 切符の買い方も慣れました♪ 橿原神宮駅行きの特急を待っていたら、豪華列車の「あおによし」が到着したので記念撮影。 去年の同じ頃、道を聞いた、平城京跡の踏切番のおじさんいるかな~?なんて思っていたら、この線は中を通らないのでした。 行き倒れになりそうに暑かったあの日。「もう一生行きたくない場所だよね」と、友と私の意見は一致したのでした。 まだ早かったけど橿原神宮駅前のホテルでは、チェックインさせてくれたので、リュックを部屋に置き、ひと息ついてからすぐそばのレンタカー屋さんに。去年のお姉さんの代わりの人がいました。 1日目半日と、翌日1日借りる予定です。 友だちは、どんな?車でもすぐ慣れて自分の車のように乗りこなせるので、自分の車以外は運転できない私は、尊敬してしまいます。 まずは、懐かしい明日香村に行き、飛鳥坐(あすかいます)神社さまへ。大好きな飛鳥寺さまにほど近い、そこは小山のそばの囲いなどない人々の暮らしに密着した、素敵な場所でした。 まずは石段を登ってご本殿に。しみじみ立派!まさに飛鳥のお宮です。 その後、下の社務所に行き、ご朱印をいただき、私たちのようなもの(老女)でも飛鳥川上坐神社の階段を登れるでしょうかと聞いてみました。 「けっこう多くの方が登られているようですよ」との答えを聞き、勇気りんりんに湧いてきた私たちでした! その後、飛鳥坐神社さまから徒歩10分という大伴夫人の墓に行きました。歩いて行こうかと思ったのですが、少し歩いて、やっぱり車がラク!という事になり、車で。 大伴夫人は藤原鎌足の母です。 道の傍にあるその墓はこんもりとした小山。大きさは、千葉の鹿野山神野寺そばのアクル王の胴塚と同じくらいで、外観もそっくりでした。 墓マイラーも出来て良かったです! その後、近くの万葉文化館に行きました。ここで、素敵な日本画の万葉集の絵葉書を買うのです。 万葉集の絵がついた文房具もいっぱいあります。 のどが渇いたので冷たいものをいただいて一休み。友だちは亀フロート、私は花手水ソーダ。亀フロートはサンプルは茶色の上に緑のカメが乗っていてそそられなかったけど、すごく美味しかったみたい。なんでカメ?と思ったけど亀石由来でしたね。 花手水は、水色のソーダの中に食用のお花が浮いていて、すごくきれい。味は爽やかで美味しかったです。 館内では仏教を国に広める時代の映像も見られて、ちょうど来るとき新幹線の中で日出処の厩戸王子の話をしていた時に思い出した「善信尼」の行いなども見られて良かったです。 そしていよいよ、二上山に沈む夕日を見に甘樫丘を目指します。
2023.07.04
去年の6月と今年の3月に奈良に行った時、できなかった事が幾つかあり、この春の1,お水取りを見られなかった は、仕方ないので諦めるとして去年の夏の2,南渕請安先生の墓の近くまで行ったのに暑くて断念した事3,飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の、階段の下まで行ったのに登れなかったは、やっぱり、思い残し切符のままではいけないと、梅雨のさなかの6月半ば過ぎに、再び奈良旅行を計画しました。思い残し切符というのは、こまつ座の井上ひさしの戯曲で、宮沢賢治の銀河鉄道に人生の「思い残し切符」を持った乗客が乗り合わせる話です。 友は息子に「奈良が好きだねえ」と言われ、私は恥ずかしながら、と打ち明けたブログ友のいもこちゃんに「だって、奈良に住みたいって言ってたじゃん。それを思えば何日でも行けばいいよ」と励まされ「そうだった!」と意を決して決行したのでした。 予定は 1日目・新幹線でお弁当。橿原神宮の宿に荷物を預けてレンタカーを借りる。 飛鳥坐神社に行き、飛鳥川上坐神社の階段は、私たちでも登れるか聞く。 近くの大伴夫人の墓にお参り(藤原鎌足の母) 万葉文化館で絵葉書を買う。甘樫丘で二上山に落ちる夕日を見る 2日目・明日香村稲渕にある南渕請安先生の墓参り 飛鳥川上坐神社の階段を登り、皇極女帝(後の斉明天皇)が雨乞いをした場所を確認 吉野宮滝を確認。吉野山散策。 3日目・近鉄奈良に行き、万葉植物園のノマメの様子を見る。奈良公園、興福寺散策、 できたら、ならまちで和菓子を買う。 以上の予定を立てました。 友も私も家庭的に超多忙の中、我らが斉明が用意してくれた、またとない好天の日に出発したのでした!
2023.06.27
春の奈良旅最終日の終わりは、万葉植物園で思いがけない土屋文明先生の「ノマメ」との出会い。奈良国立博物館(奈良博)でお水取りの展示を見たこと、公園で3・13重税反対集団申告の皆さんと、天理市の市議さんと出会った事などなど、いろいろ書いたのですが、なぜかアップされずに消えてしまい。3回ほど書き直したのに消えてしまったので、力尽きて短歌だけ書きます。デザイン変更からやりなおしてみたら、無事アップできました!「ふたたびの奈良」短歌・お水取りの余韻の残る二月堂階にはだらに残る白灰・シルクロードの昔を思う登大路に衣装さまざま海外の客・鹿角のカチューシャつけて足早に歩むは東欧の若きカップル・花の寺般若寺に点る平和の灯折鶴たちに見守られ在り・人々の思いあつめて登大路「重税反対」の隊列が行く・志貴皇子の社と聞きて尋ねゆく奈良豆比古神社は民たちの神・土屋文明の「萬葉紀行」を頼みとし高円山の峠を越える・尋ね行きし田原西陵その裏の小山に向かい在りし日偲ぶ俳句・カリカリを山盛りにして春旅に・土屋文明の足跡春の明日香村・早蕨はまだと知りつつ野に探す・野に菫久米邦武の神道論・春の奈良宿で爪切るおんな旅・志貴皇子の御陵初蝶呼べば消ゆ・御朱印帳椿書き添え若き僧
2023.06.10
土屋文明先生の「萬葉紀行」を頼りにNHKラジオ古典購読の鉄野昌弘先生の万葉集で得た知識を基に、志貴皇子を尋ねた旅も三日目の最終日。 3月13日は北西の風が冷たく感じられる日でした。半日しかないので、春日大社に行く予定を立てました。チエックアウトをして、荷物をホテルに預けて出発。 登大路はすでに結構な混雑でした。 春日大社は有名なのに何十年も来たことがなかったので、本殿への道もあやふや。でも、人々の流れの後をついていくと、それらしき広い参道が。 海外の観光客は家族連れが多く、いろいろな世代の人がいます。外国から来た少年たちは鹿さんに煎餅をやるのがブームらしい。旅行ガイドに書いてあるのかな? 全部一度にあげてしまい鹿さんが困っていたり、怖がり少年は数匹の鹿に取り囲まれて泣き声を上げたり、普段見たことのない海外の子どもたちの様子も、なーんだ、日本の子どもとおんなじじゃん!と、面白かったです。 本殿近くに行くと、ロープが張られ、人だかりが。近くにいた人が「今日は天皇陛下の使者が御供え物を持ってくるので、一般の人は本殿の参拝はできないそうですよ」 と教えてくれました。 上の空だったので気が付かなかったけど、帰りに見たら立て看板がありました。 特に本殿に行かなくてもいいと思ったら、向こうの方に平安装束のようなものを身に着けた人たちが並んでいます。その人達の行列が動き始め、こちらに向かって進んできました。 一般ピープルの前を通って本殿に向かうようです。 その人達の隊列は、幾つかに分かれ、参内傘を持った白服の人や緑の服の人は、白足袋に草履、黒い服の人、赤い服の人は黒い木の沓。白馬の轡を持つ人は赤い服に草履、弓を持ち青い服の人は黒い沓、など本格的な行列でした。 白馬は、灰色の斑が入ったかわいいお馬さんでした。トレーナーを来た男の人と、若い人が二人、箒と袋を持ってお馬さんの脇を歩いていたのは、お馬さんのお世話係だったらしい。 こんな厳かな行列を写真撮っていいのかしら、と思っていたら、ほとんど全員がスマホを向けていて、立派なカメラの人も結構いたので、私も真似して写真撮りました。 そこから引き返し、万葉植物園に行きました。さすがに他の万葉植物園とは違い、万葉集の歌の碑とともに、植物が植えられています。 季節的に何もないかと思っていましたが、梅、桃、椿など木の花が賑やかに咲き、本格的な春になったら、さぞ充実した植物園であろうと思われました。 そこで、なんと、土屋文明先生こだわりの「上総の防人の歌」に歌われた「野マメ」があったのです!
2023.05.16
塔の茶屋さんからならまちに移動。お土産センターみたいな所に土屋文明先生のあられ酒を探しに行ったんだけど売ってなくて、(帰宅してから観光ガイドを見たら醸造元さんの広告を発見。ならまちの賑わいに目をそむけてガイドをスルーしていた(^_^;))夕食用に平宗本店で柿の葉寿司を購入、車に戻って、奈良坂の奈良豆比古神社に向かいました。 ここは、御神体に志貴皇子が祀られているとのことで、是非ともお参りしたかったのです。 まずは広い駐車場がある、手前の般若寺さまに駐車。 花の寺ということで、境内の水仙や満開の梅、桃、杏に群がる鳥たちを見ていると、思いがけない出会いがありました。 昔、平和の集いで知った、福岡県星野村の原爆の灯。広島で被爆したらしい叔父さんを探しに行った山本達雄さんが、遺骨の代わりにヒロシマの火を桐の懐炉につけて持ち帰った歌劇を見ました。 各地に移されたその火が般若寺さまの花壇の中にも移されて、子どもたちの折鶴に守られて大切にされていたのです。 般若寺さまでは句会も盛んに行われているようで、花壇のそこここに句碑が建っている、素敵なお寺でした!コスモスの頃にまた来たい! 奈良豆比古神社までは、歩くと少しあるとのことで、車で行ってみました。 パワースポットになっているという大楠は後ろの方。京都と奈良の往還の道にあるこの神社は、抑圧された人たちの信仰を集め、権力から遠くにあった志貴皇子の優しさが、人々に慕われる由縁だったのだと思う。 帰り道、奈良監獄を遠目に見て、歴史的建物が取り壊されなくて良かったけど、星野リゾートがホテルにするとの事だけど、どんなふうになるのか、想像もつかない。 トヨタに車を返し、柿の葉寿司は買ってあるので、またコンビニでカップスープ。友だちは缶チューハイ、私はカルピスソーダを買って帰りました。
2023.05.07
白毫寺さまから高円山の峠を越えて志貴皇子の御陵・田原西陵に行き、実は土屋文明一行は、駅前で買った「あられ酒」なるものを飲んだりしたのでその真似もしたかったんだけど、(しかし考えてみれば飲めない私と運転担当の友とでは、実現しようもない事でした。 高円山をぐるりと回り(交差点の名前などをメモしておくべきだった!) ならまちの外れ、南城町の塔の茶屋さんへ。 このお店は、うん十年前、花も恥じらう女子大生だった私たちが初めて奈良の茶粥の美味しさを知った店。 当時は興福寺さまの塔のそばにあり、割と最近民家の中のこの場所に移転したとか。 昔は観光ガイドを見て知ったのだけど、今は観光ガイドにも載せていない。でも、茶粥弁当、手の込んだ奈良の食材を沢山盛り合わせてあって、お店の人にも親切にしていただき、冥土の土産になりました。 行って本当に良かったです! さて、そこで、うん十年前の旅を思い出してしまいました。時間の彼方に忘れていた記憶も、お互いの覚えていることをつなぎ合わせると、結構思い出せるものです。 季節は今回と同じ頃、馬酔木が咲いていて修学旅行生がいっぱいいました。 1日目は、京都に行き、清水寺や金閣寺、祇王寺など観光名所めぐり、宿の予約の知恵もなく、駅前の観光案内所で紹介されたのは、寂光院さまの前の坊?の実行院さま。 多分平家物語がマイブームだったのかも。大原の里に泊まれて感動でした。 2日目は京都の観光地をめぐり、夜は、すっかり忘れていたけど、友が覚えていて言うには、豊中の私の兄の家に泊まったのでした。兄は独身で、東京からの長期出張中で借り上げ社宅みたいな所。家財道具が完備されていて、自分たちでご飯を炊いて柴漬けで朝ごはんを食べたような気が。 3日めは奈良に行き、不便な国鉄で、法隆寺(斑鳩の白い道を歩くのが夢だった)に行き薬師寺、唐招提寺、春日大社、東大寺、そして塔の茶屋さんでの茶粥弁当!全然疲れず、いろいろな所に行きました。 そしてその夜、1日に一本だけある東海道本線大阪から東京までの各駅停車に乗ったのでした。 確か、真夜中の12時頃に大阪を出て、翌日のお昼ごろに東京駅着。 友だちが、「朝は温かいご飯の駅弁を食べたい!」と、すごくこだわっていたのを覚えています。 温かいお弁当も無事に買って食べ、通勤通学のラッシュの様子を眺めたり、旅人気分を満喫しました。 今思えばものすごい強行軍だったのに、疲れた記憶が全然ありません。若かった! あれから、2人とも人生の荒波に揉まれて今まで過ごしてきたけど、また、大好きな奈良の旅ができるなんて、結構良い人生だったかもしれない、と、塔の茶屋さんの茶粥弁当で思い出した大昔の旅でした!
2023.05.07
白毫寺のお庭の歌碑の説明文に、志貴皇子を悼む笠金村の歌高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しにとともに『今あなたがこの歌碑に向かはれる時、その直線上、約三kmの彼方、高円山の裏側に志貴皇子のお墓(春日宮天皇陵)も又、奇しき因縁である。』との説明文がありました。 行った人のYou Tubeを見ると、ナビは正確に教えてくれなかったと言っていたので、方向だけ分かればよいと思い、田原農産物直売所だったか、道の駅だったか、を目的地にして車を走らせました。 土屋文明先生はバスで言ったと書いてあるので、バス停があるかと気をつけて見ていたのですが、見当たらず、頼りにするのは萬葉紀行のこの記述だけ。『今私達がバスで登っている道は、古い鉢伏峠の道ではなく、近年開かれたらしい新道である。バスの通るのも無理はない。私は一寸落胆したのであるが、又、考へて見れば鉢伏峠の道といふのも果して奈良の御代のままの道であるか否かは確かめようもないやうだ。旧道の跡に再び新道が出来、新道かへって旧道となる例もあるからと自ら慰めて居るうちに、バスは山道を出ぬけて谷の開けた所へ来た。即ち大和田原の地である。田原西陵の参道入口はすぐ間もなくであったが、私達は東陵までこのバスで行き、かへりに参拝する方が良いといふ車掌の言のままに、御前を通過して東陵の方へ進んだ。 東陵は即ち志貴皇子の皇子たる光仁天皇の御陵である。』 確かに峠を越えて道は下り坂になった。期待とたどり着けるかという不安で胸は高鳴る。すると、友達が「あった!」と声をあげ、車が止まった。道端に、宮内庁と書かれた御陵の案内板。下りて見ると、You Tubeで300メートルと言っていた参道が続いている。 入口には葉っぱを茂らせた大きなサルトリイバラの木!参道の両側から覆うような馬酔木の並木。 「私達を待っていてくれたのね。呼ばれてる気がして、すぐわかったもん」 足早に御陵に近づくと、友達が「あっ!ルリタテハ!」 私は確認出来なかったけど、ルリタテハは田んぼの木橋の裏などで冬越しをするらしい。迎えに来てくれたんだ!と感激! 御陵はきれいに掃除され、巨大な杉の木に守られて、その後ろに志貴皇子が眠っているであろう雑木林の小山があった。 周囲はきれいな茶畑と田んぼの景色が広がっていて、人家や人の気配は全くなく、志貴皇子らしい静かな素敵な御陵だった。 ずっとその場にいたかったけど、お昼を予約してあったので、光仁天皇陵にも行かず、高円山をぐるりと一周するルートでならまち方面の雑踏に帰ってきました。
2023.04.28
宿は一昨年、明日香村、西の京などに行った時と同じ、近鉄奈良駅徒歩3分ほどの手軽な安い所、最低限のサービスつきで清潔なのが何より。 二日目はいよいよ、もう一つの目的地、志貴皇子の御陵を探します。 伊藤千代子の恩師、土屋文明先生の「萬葉紀行」だけが頼り。 というのは、どの観光マップにも志貴皇子の別荘があった白毫寺から志貴皇子の御陵、田原西陵は地図の切れ目で、載ってないのです。 萬葉紀行によれば『昭和十五年三月十一日、大軌電車の奈良終点に下りた四人、田原の春日宮天皇御陵に参拝のためであった。よい塩梅に三十分許りで田原行きのバスが出るといふので、昼にはまだ大分間があるが駅前でうどんを食ひ、早めに昼食をすませて置く。塩水に浮かべ出した如き大和うどんにもお陰で此の頃は大分慣れてきた。あられ酒の小さい壜を買ったものもある。 バスは博物館横を通り公園を横断して右折し、高畑白毫寺経て高円山にかかる。』 宿のそばで予約しておいたレンタカーを借り、これだけを頼りに、まずは志貴皇子の別荘があったという白毫寺に。 車は、すでに混雑の登大路の外国人観光客や修学旅行生を見ながら右折。飛鳥小学校、奈良教育大学などをスムーズに進みます。 ところが、白毫寺町に入ってから、住宅の行き止まり路地に入り込み、戻るのも冷や汗ものの30分ほどを費やし、やっと抜け出して、少し先の駐車場に停めたら、すぐに白毫寺の階段がありました。 続く石段に、登れるかしらと不安でしたが、足に優しい緩やかさに登っていくと、ヒヨドリ、ウグイス、あと聞き慣れない小鳥たちの欣喜雀躍の声が響いています。左右に満開の椿、梅の花、桃の花、階段の途中で振り返れば、奈良の町が遠く近くに見えます。 白毫寺は素敵な椿のお寺でした!但し、大伴家持が、友と酒を酌み交わして遊んだのはこのあたりで、萩の花が咲き乱れていたというので、秋には萩のお寺になるのでしょう。 お参りに来ていた人たちは、皆静かに、志貴皇子が毎日眺めたであろう奈良の町や今の世は、その周辺に観光客がひしめいているであろう伽藍を見渡したり、五色椿、白毫寺椿、辛夷、などの咲く庭を散策していました。騒々しい人たちがいなくてそれも良かった!一番騒がしかったのは私達だったかも・・・反省! 志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、天武、持統の政権が天智系の皇子たちをことごとく排除した後、天武系の皇子が全員亡くなり、結果、志貴皇子の子が光仁天皇となり、次の桓武が盤石の政権を作った、という感じかな?今の皇室の祖になるらしい。 光仁天皇から重く用いられた大伴家持は、万葉集の重要な位置に志貴皇子と湯原王の歌を載せる。・石走る垂水の上の早蕨の萌いづる春になりにけるかも・むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも・采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたづらに吹く
2023.04.26
2023年3月、友と奈良東大寺のお水取りを見に行く計画を立てました。俳句・カリカリを山盛りにして春旅に (留守番猫の餌)・土屋文明の足跡春の明日香村・さわらびはまだと知りつつ野に探す 10:03 東京駅発ひかり507号に乗車、なぜひかりかといえば、大人の休日倶楽部で割引切符を買うのには、ひかりでないとダメなのです。そしてなぜかいつも空いている。 いつも(という程頻繁ではないのですが)時間を有効に使おうと東京駅で駅弁を買い、新幹線の中で食べるのがいつもなのですが、今回は私がお蕎麦ブームになっていて、その情報から、12:37分に着いた京都駅コンコースのにしんそばで有名な松葉さんで昼食。私好みの百合根蕎麦♪ 少し並んだけど割とすぐに食べられました。 すぐに近鉄奈良行きに乗り、宿に荷物を置かせてもらおうと思ったら、チェックイン出来たので身軽になってまずは二月堂のお水取り現場を下見。 勝手知ったる登大路には、初めて見る風景が広がっていてびっくり!それは、シルクロードの昔を思わせるような、さまざまな国の海外観光客の群れ! 鹿たちの営業も大繁盛! 大仏様をスルーして、まずは二月堂へ直行!下見をしてから茶店の龍美堂さんでわらび餅でお茶、お土産に行法味噌を買う、というのが午後の予定でした。 ところが、ものものしい竹囲い、立て札を見ると見学は不可、とのこと。警備の人に聞くと、相当離れた所では見られるが、とのこと。 とにかくお茶を、と龍美堂さんに行ってみると、もうお店を閉めるとのこと。急いで行法味噌を買い、二月堂の仏様を拝んできました。石段に昨日のお松明の灰が少し積もっているのが、お水取りの日らしい風景でした。 一番の目的のお水取りが見られなくて残念だったけど、人波に疲れてしまい宿に帰ることにしました。 ・東大寺湯屋の空ゆく落花かな 宇佐美魚目 の景色が見たくて、湯屋の側の道を、大仏殿方面の喧騒を聞きつつ歩いて帰り、下り坂だから歩いて宿まで帰ろうかとも思ったのですが、バスを待つことに。待っても待っても来ないバス。三月はじめの陽射しなのに異様に熱く体力を消耗しそうだったけど、奈良に来ている喜びで、どんな試練にも耐えられる私達でした! 夕食を食べに行くのも面倒なので、春日ホテル前の平宗で柿の葉寿司を買い、隣のコンビニで菓子パンとカップ春雨スープを買いました。宿の周辺にもお水取りの行灯が飾られており、近くの和菓子屋さんでお水取りの、白と紅の椿、糊こぼしを食べられたので、まあ満足の一日目でした! しかし、奈良公園周辺の外国人観光客の群れは、凄かった。あの人たちが私たちの明日香に流れて来ませんように!古都奈良の将来を憂えてしまう観光客の感想です。
2023.04.25
新春の晴れ着姿の人たちに混じりて歩む能楽堂への道門松に紅梅の枝挿されたる能楽堂の正門くぐる演目は新年目出度き竹生島弁財天の天女の舞も明治維新の王政復古を疑問視の恩師の言葉蘇りくる伊勢神宮が国の神社の中心となるは明治になりてと知りぬ「神道は古俗」と書きて追われたる久米邦武の再評価願う竹生島杜人の見せたる宝箱怪しけれども温もりのあり地の神と渡来の神の壮絶戦手塚治虫は「火の鳥」に描く千駄ヶ谷の鳩森八幡カップ咲きのバラの溢れる花手水あり
2023.04.17
郵政民営化の時に近所のポストが無くなり、今回、最寄りの 郵便ポストが、またもや撤去されて、とうとう郵便局まで行かなければならなくなりました!・ままごとの我に声かけ走り行きし郵便屋さんの赤い自転車・横長の墨書の手紙わが知らぬ遠き父祖の地の住所書かるる・事務的にポスト撤去の紙貼られまた遠くなる郵便ポスト・民営化で近くのポスト撤去されし記憶ふたたび郵政の劣化・ポストでの集配回数も間引かれて土曜休日配達はなし・水曜までに投函せねば週内に手紙届かぬ郵政となる・速達なら明日届きますと説明の窓口の人も契約社員そして何と、ある会の会計を引き継ぎ、先日普通預金に入金しに行ったのですが、日曜日で紙幣だけしか入金出来ず、月曜日に硬化数百数十円を入金した所、手数料としてその普通預金から110円引かれてびっくり!知らない所で、どんどん怪しげになる、この国!2023年1月のこと。
2023.01.31
秩父路を行く藪陰の大文字草の残り花密かに咲くを慈しみ見る晩秋の秩父路ゆけば古峠に野の観音の小さきが立つ「獅子の時代」に平沼銑次が入りゆく山国秩父にコミューンのあり「恐れながら天朝様に敵対す」困民党蜂起は十月晦日負債農民の集会は森に隠されて秩父困民党の組織化すすむ佐久平へ抜ければ友ら待つ筈と風も木々たちも歌う凱歌を踏みしめる唐松落ち葉の柔らかさ敗走の彼らへのはなむけとして困民党は暴徒ならずと書き残す手紙・俳句に遺言までも(2022年10月30日作)
2023.01.21
牽牛子塚古墳での感激は、石の女王斉明天皇が、私たちの難行苦行を評価してくれたみたいな、いい気分になってしまった私たち。 平城京跡で炭水化物の軽いお昼を済ませ(コーヒー党の友だちはアイスコーヒーだったかも)遣唐使船のそばでせんとくんと記念撮影などしてから、踏切番のをぢさんが教えてくれたとおり、道を横切って行ってみると、目の前にバス停がありました! 良かった!と時刻表を見ると1時間に1本しかなくて、04分発、時間を見ると8分くらい、仕方ない、あと1時間待つしかないね!などと言っていたら、あらら、バスがやってきて止まりました。西大寺駅行き!早速乗り込み、「ついてる!斉明がバスを遅らせてくれたんだよ」 私たちはコソコソと確認しあいました。ちょっと強気になったものの、バスは私たちが歩いた道ではない方に進み、あまつさえ大阪の方に行きそうな大通りを進み、線路の上の陸橋まで渡って向こうに行ってしまいます。でも、あの炎熱地獄を歩くよりマシ!大阪に行ったら新幹線に乗ればいいんだし!と自分を励ましながら乗っていると、陸橋を渡ったバスは右に曲がり、線路に沿って走っていきます。 着いた場所は西大寺駅の広めのバスターミナルで、来た時に、こちら側に降りれば、バスに乗って平城京跡に行けたのでした! その2週間後くらいに大和西大寺の、私たちが最初に歩いた方の駅前で、安倍首相の暗殺事件が起きたのでびっくり! すぐ来た電車に乗り込んで、大騒動の飛鳥の旅は終りました。京都でいろいろお土産を買おうかと思ったけど、飛鳥の素朴さに浸った3日間を過ごした私たちは、小洒落た京都があんまり好きじゃなくなってしまっていて、あまり欲しい物がなく、柿の葉寿司を買い、新幹線までの時間が余ってしまったので、駅のお姉さんに乗車券を1時間前のに替えてもらい、帰ってきました。 あれから、古代史熱はますます高まり、あの3日間の困難を乗り切らせてくれた斉明は、私たちの守り神のような気になってきました。 といっても、怪しい宗教ではなくて、その昔、日出処天子を夢中になって読んで、聖徳太子崇拝になったのと同じ程度。 ところで、藤原京の長屋王邸から(暑くなければ)徒歩15分くらいの大和西大寺駅前で行われた元首相殺害事件。参議院選挙では自民党が圧勝したものの、あれよあれよという間に、あまり知られていなかった様々な怪しいカルトとの関係が表面化し、多分、地元奈良県市町村が1番ショックが大きいのではないかと思われます。 それに危機感を持ったのではないか、と思うのですが、我らの斉明の大事な聖地、牽牛子塚古墳に、8月20日、自民党「飛鳥古京を守る議員連盟」(県会議員のグループ?)が現地視察、揃って写真なんか撮っちゃって、斉明の石室なんか説明させて見学しちゃって「飛鳥・藤原世界文化遺産登録の早期実現を図る」んだそうです! 奈良県知事、橿原市長なんかに感謝のコメントをツイッターに書いてたのを発見! やめてくれませんか! 来年の地方議員選挙に向けての地元票の確保? あの飛鳥が、世界文化遺産なんかになったら、物見遊山のお客と観光業者が主役の村になってしまいます!金儲けとカルトに汚れた政治家の穢れが飛鳥に充満しそう!石の女王、斉明が本気で怒るよ! 奈良のツバメたちの貴重な餌場でありねぐらである藤原京跡に、大型バス駐車場なんか建てられちゃいそう! 昔だったら、学者さん、考古学者や文学者の皆さんは、全員、そんなの許さないと思うし、今だって反対の学者さんが多いと思うんだけど。 なので、斉明教の私たちは、飛鳥の世界遺産反対の狼煙を上げることにしました!私たちには誰より強い斉明が付いてる!
2022.08.29
最終日、多彩なメニューの朝食バイキングなれど、相変わらず茶粥・奈良漬・三輪素麺の炭水化物の朝食を済ませ、ホテルの売店で貰った段ボール箱に買ったお土産、使わない衣類、貰った資料などを詰めて発送お願い。自分へのお土産はスヌーピーが鹿の角つき奈良のパーカーを着ているぬいぐるみです!♪ やりきった!(明日香村予定制覇!)という満足感いっぱいに、名残りを惜しみながら平城宮跡めざして、橿原神宮駅から大和西大寺駅へ。 近鉄さんは本数がいっぱい。 平城宮跡は、3回ほど来ているのですが、1回は源氏の会で貸切バス、2回は同じく源氏の会のグループでタクシーで来て、なんか車を降りたら。すぐ遣唐使船と朱雀門広場があったような。 友だちも、夫と来た時に、車で降りたらすぐだったという記憶。 近鉄さんの電車の窓から、朱雀門も見えるし、旅行ガイドの地図でも、中の施設は丁寧だけど・・・ 大和西大寺の駅で降り、どっちかな~と気楽に駅周辺地図を見ると左側に行くと平城宮跡、とあります。 ものすごい暑さの中、駅前広場は工事中で、広場のほぼ全体でオレンジの柵やフェンスの中で小さいユンボが掘削中?通行人はひっきりなしで、交通整理のおぢさん大変です! 暑い中、親切に道をあけてくれたので「をぢさん、ありがとう!」この時は電車の涼気がまだ残っていて、その先に炎熱地獄が待っているとは思いもしないし、ましてや、その何週間か後にこの現場で日本中を揺るがす?あの事件が起きるとは思ってもいない私たちでした。 商店街を少し行けば、すぐに平城京があると思いこんでいたのに、歩いても歩いても住宅街が途切れません。熱風と地面の照り返しで10分歩いただけでヘロヘロ。途中溜池があり、そばにバス停があったので時間を見たら、3時間おきくらいしかなかったし、行き先が全然関係ない場所みたいだった。人に聞こうにもそのあたりに誰もいないし、とにかく、あっちの方に間違いない・・はず、「しっかし、車は偉いね!」働き者の軽自動車を懐かしく思い出す私たちでした。 そうこうしているうちに右の方に民家ではない建物が見えてきました。平城京の資料館らしきもの。しかし、入って聞こうにも、その中は異様に広くて遠くて、聞きに行ってまた道路に戻るだけで消耗し倒れそうです。 ふらふらになりながら歩いて行くと、やっと!平城宮跡に辿り着きました。遠くに建設途中の何かの建物があり、小さかったけど近づくと巨大。右側にヨシ原があり、野鳥に詳しい友だちが「ギョウギョウシの声がするよ」と言います。余裕じゃん! 暑さと喉の乾きで死にそうになった時、右側に休憩所があったので、そこで休むことにしました。 風が吹き抜けてひと息ついて、自動販売機があったのでコーラを買って飲みました。ベンチが固かったけど、立ち上がりたくないくらい疲れました。「でも変だよね~前に来た時は朱雀門と遣唐使船があったんだけど」 反対側から来てしまったようです。それなら、帰りはもっともっと遠い? とにかく前に進まねば。休んで水分補給も出来たので少し元気を取り戻し、暑くて人もほとんどいない広大な砂利道を歩いて行くと、立派な大極殿が。 そこで記念写真を撮り、進んで行くと電車が走っているのが見えました。案内のおぢさんがいます。暑い中、悪いと思いながら聞いてみました。 「この先に、駅に行くバス停などは、ありますか?」 すると、向こうに道路があり、そこに西大寺駅行きのバス停があるとのこと! ほっとひと安心!地獄に佛のような優しいおぢさんにお礼を言って、進んで行くと普通の踏切があって、電車の近づくカンカンカンという音が聞こえました。 バスもあるという朗報に元気を貰い、朱雀門を越えると広場があり、ここも広くて、おそろいの黄色い帽子の遠足の小学生たちが小さく見えます。彼らの乗るバスが並んでいて羨ましい。 あまりに広くて体験コーナーや平城京のいろいろが分かる施設(お店の並んでる反対側)まで行けませんでした。 お昼を食べようとしたけど、適当なお店がなく、この前テレビで令和の中西進さんがコーヒー飲んでたお店で、うどんを食べました。 お土産を買うつもりでホテルで荷物を送りリュックを空にしたんだけど(荷物がなくて灼熱の徒歩を耐えられたんだけど)特にめぼしい物はなく、帰ることにしました。
2022.08.22
牽牛子塚古墳のピカピカの案内板がすぐ見つかりましたが、そこには駐車場が無く、道端に何台かの車が停まっていて、それは道路下の畑に来た賑やかなグループの人たちのものらしい。前を見たら、懐かしい、農民連さんの広い敷地が。なぜ懐かしいかといえば、子育て中、農民連さんの共同購入したり、夏休み田んぼ体験なんかに子どもを連れて行ってお世話になったりしたから。「あら~懐かしい。ご挨拶ついでに車を置かせてもらおうかしら?」なんて言ってたのですが、ずっと奥に車が1台停まっているだけ。道路際にちょうど軽が1台停められる場所があったので、そこに停めて、案内板の示す方向に歩きはじめました。そこで選択を誤ったのは、私が先になったこと。 思えば友も私もネズミのシッポの末っ子で、あらゆる場面で先を歩くのに慣れていないのです。友だちは自立した面も多いけど、私は特に先頭が苦手。 500メートル?だったかの道は草ぼうぼうで、うす暗く、虫や長虫が潜んでいそう。ツチノコがいても不思議じゃない。そして何かの臭い。毛物のような堆肥のような、右は土手になっていて、そこには幾つもの穴が空いていて、横穴墓地じゃないかと思うとゾー!臭いは、思い返すと昔、子どもとカブトムシやクワガタを取りに行った林の臭いに似ているような気もします。 車を停めた時に、下に農地が広がっていて、その先の開けた所に目指す古墳があるみたいだったけど、その降り口に紐が張られており「私有地につき通り抜け禁止」の札があったので、案内板の示すこの道を来たんだけど、もう進めない。あっちに行けば良かった!「もうだめ、引き返して田んぼの道を行こう」 と大騒ぎの私に、「大丈夫だよ、ほら、もうすぐだよ、明るくなってきたじゃん!」 友だちは、割と平気。 地に足がつかないで、ぴょんぴょん歩きの私。大急ぎでこのおぞましい場所を突破せねば!の一心で小走りに駆け抜けた私に、明るい、一年中で1番日の永い季節の夕日を浴びて、一本の草も生えていない、きちんと管理された古墳が、白い布を被せられてそこにありました。 なんと、前には広場があって、テントも張ってあったような・・・ ここに来る人たちは、どの道を来たの? 斉明天皇に「やっと着きましたよ~会いたかった~」とご挨拶。 この牽牛子塚古墳は、牽牛子=あさがお塚古墳と昔から言われていたらしい。 ネット検索したら 巨大な凝灰岩をくり抜いて、左右に2つの石室と八角形の天井を持つ合葬古墳。667年2月、天智天皇は母の斉明天皇と妹の間人皇女を合葬、妹の太田皇女をその前に葬ったと記録に在り、これがそれではないかと。 帰りは田んぼの方から来た人に「上の道路に行くのにここを行っていいですか」と聞いたら「大丈夫ですよ」というので、田んぼの道から帰りました。 あの裏の道は、歩きたくない場所だけど、あの場所に生息している多くの生き物たちの為に、あの草ぼうぼうのままにしてやっておいてほしいと思います。 「牽牛子塚古墳、行けてよかったね~」「斉明が、よく来たね~って言ってるね。斉明を味方につけて、私たちは最強だね」 何の裏付けもないけど、大満足の私たちでした。 さすがの永い日も暮れた飛鳥の村を車を走らせて行くと、あらっ!焼肉屋さんラーメン屋さん、お寿司屋さん、どの食べ物屋さんもピカピカに灯がついてウエルカム! え~食べられるじゃん!何でも! ホテルに帰って、まだ温かいお弁当を食べました。青椒肉絲と、2種類の何だかと漬物、美味しかったです!ご飯が多すぎたので「この次も、またあの母子の食堂に行こうね、ご飯は少なめにして、って頼もうね」と意見が合った2人でした!
2022.08.18
明日香村の地図で見ると、通り過ぎた道以外では牽牛子塚古墳に大回りになりそう。Uターンするために、道路に面した食堂の広い駐車場を使わせてもらうことにしました。そこでふと、飲まず食わずの半日ですごく喉が渇いていることを思い出しました。「Uターンだけじゃ悪いから、飲み物だけでも飲まない?」 と提案。「飲み物だけでもいいですか?」と聞きに行ったら、日本語が不自由らしい少年が「大丈夫です」と言い、そこで私がひらめいたのは、ここでお弁当を作って貰ってホテルで食べよう、という案。 レンタカー会社のお姉さんの「コロナだからどこも食事断られますよ」の呪文に囚われている私たち。 「お弁当作って持って帰れますか?」と聞くと少年は調理場の母らしい人に聞き、母らしい人の「大丈夫ですよ」の答え。 ひとまずコーラを頼んだあと、少年が指差すメニュー表には、ちゃんとお弁当もあった!♪友だちが青椒肉絲にしたので、私も同じお弁当を頼みました。 大きなコップに入った氷たっぷりのコーラの美味しかった事!何時間ぶりかの水分! お弁当制作にはけっこう時間がかかっていたので、私たちはすごくゆっくり休憩時間を取ることが出来ました! 私は、母と息子らしいその2人の事を考えました。きっと、母が先に日本に来て、ようやく落ち着いて店も持てたので息子を呼び寄せたのではないかしら? 不景気な日本での、2人のこれからの幸せを祈らずにはいられません。 母親奮闘のお弁当は熱々で、ずっしりと重く、値段も安くて申し訳ないくらいでした。 今夜の食料もゲット!私たちは意気揚々と元来た道を戻り、用心深く左折して行きました。そして目的地の牽牛子塚古墳の案内板にすぐ到着! 私は牽牛子塚古墳を全く知らなかったのですが、今年、BSTBSの「関口宏の1番新しい古代史」という番組で今、宮内庁が管理している斉明天皇陵は斉明の陵ではなく、この牽牛子塚古墳の内部が「やすみしし=世界の全ての方角を治める天皇」の八角形をしていて、斉明天皇陵であろうと研究が進んでいる、と知ったからです。 朝鮮半島有事に、百済救済のために中大兄皇子とともに出動した斉明は筑紫の地で亡くなりました。その墓とされている場所は、昭和18年に土屋文明が飛鳥から吉野越えの峠を幾つも歩いた折に、足を伸ばしています。 明治以前は地元の人たちが言い伝えなどをもとに守っていた陵を、明治維新で権威づけに急に天皇陵を整備したりしたのかもしれない。そこで、伝えられていたものと陵の主が違うということもあったのかも知れない。そういえば、まだ誰の陵か特定されてないものも幾つかあるようだけれど、そのあたりはよく知りません。
2022.08.17
今度の旅は6月後半だったので、1番の心配は梅雨の末期の大雨。もし豪雨だったりしたら室内で長く過ごせる場所、として万葉文化館も行程に入れていた。去年来たときには次に法隆寺に行くつもりで、時間が迫っていたので、私が大急ぎで万葉かるたと絵葉書を買っただけだった。今回は友だちもきれいな絵葉書を買いたいとのこと。 万葉文化館の途中で、友だちが旅の情報誌で知ったという飛鳥駅近くの葛切り屋さんに行ってみました。ちょっと行ったり来たりしたけど、目指すおしゃれな葛切り屋さんを見つけ、軽い夕食を食べられるか調査。何しろ、レンタカー屋さんのお姉さんが「今はどこも予約なしでは無理」と言っていたので。 お店の人に聞いたら軽いものなら大丈夫そうだったので、ラストオーダーの時間を聞き、後で来る事にして、まず、万葉文化館に行ってみました。 ナビが元気に案内してくれるので、慣れた道を引き返す感じで万葉文化館へ。 幸いな事に、万葉の女性たちを描いた日本画展の初日で、入館料も割引でした!最初、この文化館の建っている場所から発掘された遺構の説明をボランティアの方にしていただいた。よく覚えていないけど、日本で最初に作られた貨幣「冨本銭」の工場?跡もあったらしい。冨本銭が切断されずにつながったまま(扁平のブドウ状?)出てきたとか。 これは貨幣として流通はせずに、まじないやお守りのように使われたとか。 次に万葉の人たちを描いた日本画展を見ました。知っている絵、知らない絵、みんな大きくきれいで、ため息が出るほどでした。 目の大きな現代美人ふうの絵も、意外と古いものだったりして(50年前とか)芸術っていいものは古びないものなんだなあ、と思ったり。 衣装の色の綺麗さ、人物の傍に描かれたさまざまな季節の植物たちの緻密な美しさに堪能しました。 私は大伯皇女の・わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし のシュッとした立ち姿の絵に感動。売店でこの絵の絵葉書を買いました。 館の中には、ほかにこの地の歴史を人形であらわした常設展示もありましたが、効果音や照明の点滅がうるさくて、足元も暗いし、日本中どこに行っても(あんまり行かないけど)必ずある、この手のケレン味いっぱいの展示は苦手なので、急ぎスルー。 ずっと飲まず食わずで、さすがに喉が乾いたので飲み物を買いたいと思って聞いたら自動販売機は外にあり、施設内では飲食不可、とのこと。 中のレストランで何か飲もうと思ったら、もうオーダー終了とのことでがっかり。 とりあえず、ミュージアムショップで、さっき見た絵もいっぱいあるきれいな絵葉書、飛鳥の風景が描かれた紙布みたいなもので出来ているブックカバーなどを購入して満足。友だちは絵葉書が買えて満足。冨本銭の瓦せんべい風のも買ったみたい。余談ですが、子どもの頃から虫歯だらけだった私は瓦せんべいをお湯に浸して食べていました。今もそうやって食べてます。甘くて大好き! 「ソフトクリームも食べようか」 と、期待して再訪した葛切り屋さんでは、6時までオッケーと言っていたのに、お姉さんが掃除なんかはじめていて、出来たて葛切りもソフトクリームも、もう出来ない、買えるのはお土産だけ、とのこと。お土産も高いものばっかりで(本物の葛だろうから理解出来ますが)残念! 友だちが「牽牛子塚古墳行くよね」と聞くので、「行きたいけど、疲れてるから次でもいいよ」とは答えたのですが、この春「関口宏の1番新しい古代史」で、斉明天皇の陵ではないかと言われている牽牛子塚古墳の事を知ってから、すっごく行きたいと思っている場所。 そこで、明日香村の地図で確認、飛鳥駅を右に見て、最初の道を右に曲がると、踏切があるという、その先にあるという牽牛子塚古墳を目指した私たちでした。 だけど、この日の体験から思うに、どうもスピード感覚が合わないみたいな私たち。普段車を運転する時のスピードが違うのかもね。多分、私は遅い。「そこ右ね!」と言った時には、友の運転する軽自動車は、線路の向こうに行くための貴重な踏切のある道をビュン!と行き過ぎてしまっていたのでした!
2022.08.15
次の高松塚古墳周辺地区は、昔、あの色鮮やかな壁画が発見された時に見に来たはずだけど、土の坂を登ったのは、あれは藤ノ木古墳だったか・・・? どんなだったか記憶にないけど、多分その頃とは全く違っているはず。 それでも案内標識が沢山あって、迷わず到着。土曜日の午後だったけど、幸いな事に駐車場も空いていて、高松塚古墳目指して歩きはじめました。ふだんあんまり暑いとか寒いとか言わない私ですが、草原を吹き抜ける、普段は心地よいはずの風が、熱風! 壁画館に入り、壁画のレプリカを見、御朱印?をいただき、壁画の印刷された一筆箋を購入。 有名な高松塚古墳はきれいな青草が茂り、外の姿を見るだけでも美しい古墳でした。しかし、あまりの暑さに傍まで上がる元気が出ません。 前を拝んで通り過ぎ、墓マイラーとしての目的地、文武天皇陵まで、行けるか!一人だったら引き返したかもしれないけど、友だちが「せっかく来たんだから行こうよ」と言ったような気がする(フラフラで妄想かも) 二人は黙って油照りのグランドふうの場所を文武陵目指して歩きました。今度は、たまに吹いてくる風が涼しく感じられる場所。 途中、ちょっとした木陰の見晴らし台があり、屋根もベンチもあるので、休みたいと思ったのですが、先客がいたのでやめました。 そのすぐ先に御陵の裏口のようなものがあり、右が田んぼ。左にぐるりと回って行くと、文武天皇の御陵の正面につきました。 「やっと着きましたよ~!来ましたよ~!」 墓マイラーの人って、尋ねて辿りついた時、案外こういうつぶやきをするのかもね。 御陵は、いわゆる普通の御陵の形。きれいに整って静かなたたずまいが、いい感じでした。 ホッとして周りを見回すと、前の田んぼに、天武・持統陵と同じように、ここも植えられたばかりの稲がそよいでいました。 稲田の向こうにある畑には果樹園があり、緑色のぶどうの房が沢山下がっていました。 墓マイラーの3番目、文武天皇陵に行けて、満足し、帰りは見晴らしの良い休憩所に先客がいなかったので、少し涼んでほっとひと息つきました。 思えば、お昼の食堂で冷たい水をコップ2杯飲んだだけで、またもや飲まず食わずだった・・・ような。水分を持ち歩く習慣をつけねば。 休憩所で2人の会話「でもさ~文武って、なんか軟弱な感じがするよね」「大体、軽皇子って名前だけでも軽そう!」 関口宏の古代史の熱心な視聴者になってしまい、急に古代史に詳しくなってしまって、つい、いろいろ言ってしまうのでした! そして元気に駐車場に向かったのでした!
2022.08.13
にゅうめんと柿の葉寿司の昼食でエネルギー補給したので、2日目の行程をこなすべく、野口駐車場前という場所に向かいます。 その近くに天武・持統の陵があるのです。友だちは以前、夫と古代史好きの息子と行ったことがあるそうですが、私は行った事がないので、今回、ぜひ行ってみたい場所でした。 野口駐車場前の交差点を通り過ぎ、やっぱり通り過ぎたような気がするので引き返しましたが、また野口駐車場に戻ってしまいます。もう一度引き返して注意深く左折した道の右側に看板があり、もう少し先にありそう。 少し先に行くと突き当りの広めの道に出ましたが「こっちだろう」と左折したら、またもや野口駐車場前交差点につながる道に出てしまいました。 再び野口駐車場前を目指して進み、注意深くさっきの細めの道を曲がり、突き当たった広めの道を、今度は右に行ったところ、すぐ先に、「あった、あった」と、前に来た事のある友だちが御陵発見! 野口駐車場前彷徨ののちに、辿り着きました。 道からよく見える場所に、雲ひとつない空の下、暑い夏の陽を浴びてそこにありました。 周囲の田んぼの稲はまだ植えたばかり。前の駐車スペースの脇には、栄養たっぷりのようなウメモドキの白い花が咲いていました。隣の畑にはトマトやインゲンが立派に育っていました。掃除が行き届いていて、暑いけど涼し気な佇まいの御陵でした。 十数人の市民グループふうの人たちがやってきて、先生らしき人が説明を始めたので、聞きたかったけど、ものすごい暑さ!急ぎ車に逃げ込んで、次の目的地、高松塚古墳と文武の御陵を目指します。 あら?墓マイラーらしきお参りのシーンが皆無でした! ひと時代を築いた天武と持統の墓。墓マイラー2か所目、無事お参り完了です。 1か所目の請安先生の墓みたいな感動が無かったのは、地元の人との交流がなかったのと、とにかく暑かったせいかも。
2022.08.12
この旅の計画を考えていた時、芋峠に行く道を探って、明日香村の地図を見ていた友だちが、地図の外れにある「南淵請安先生の墓」というのを見つけたのが、墓マイラーになろうとした発端だった。 地図に堂々と「先生の墓」とある。 友だちは名前や、この人が中大兄皇子や鎌足の先生だったことを知っていたみたいだけど、そんな大昔の人が現代の地図に「先生の墓」とある事に、私たちは興味を持ちました、きっと今も先生と呼ばれているような気がする。集落の人たちが誇りと敬愛を持って。「だってさあ、中大兄や鎌足の先生なのに、政治家じゃないんだよ、学者先生だったんだ!」 私たちは、コースが全く逆になった南淵請安先生の墓を目指して、芋峠から明日香を目指して下り始めました。 少し行くと右側に、日本一名前の長い神社「飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社」がありました。続く石段は先が見えないくらい高く続いています。 斉明が皇極の時に雨乞いをしたらしい。 この旅の前の文献漁りで、なぜか斉明に親近感が湧いた私たちは、登りたかったけど、這えば登れたけど下りを思うと躊躇して、下で記念撮影だけ。 社の後ろの方に軽トラくらいの車道があるといいなあ、と希望的観測(また行くつもりです)。 飛鳥川に沿った道はもう、現代。関西大学飛鳥文化研究所というものを向こう岸に見て、もうそろそろのはず、と請安先生の案内板くらいあるだろうと注意して見ていましたが、見当たりません。引き返して橋を渡り、きれいな関西大学の研究所のそばまで行きましたが、それらしいものは見つからず、もう一度道路(芋峠に続く奈良県道15号線)に戻りました。 地図に書いてあるほどだから、案内板が無い筈はない、との思い込み。それでも無いなんて!あきらめやすい私は再び「やめようよ、帰ろうよ」コールをしたような気がする。 道端に車が数台停まっている場所があり、その反対側の道に車を停めた友だちが、ちょっと聞いてくる、と降りて行きました。左側の畑にお爺さんが座って休んでいます。 川沿いの車は、子どもたちの飛鳥川遊びのグループだったみたい。 そのお爺さんは、ゆっくり丁寧に「引き返して橋を渡って左にしばらく行くと、右側に請安先生の墓という石碑がある。そこから上がると、もっと立派なお墓がある」と教えてくれたらしい。 言われた通りに行くと、右側に「請安先生の墓」が、多くの小さな墓石に囲まれて立っていました。車を停めて上の墓所まで行こうとしていたら、近くのおぢさん2人組が、ここに止めるといい、と親切に自分の車を動かして場所を作ってくれました。 おぢさん!ありがとう! 坂の入り口にある請安先生の墓の花生けには、千股の観音堂と同じように、切ったばかりのような菊や菖蒲の花が活けられていました。写真を撮ったりしていると、さっきの畑のお爺さんが自転車で通りました。「お爺さん、お昼食べに帰って来たのかね」「それとも私たちが無事着いたのか見に来てくれたのかも」ところで・・・南淵の3人のお爺さんの協力もあったのに、その墓所の上りのだらだら坂に怖れをなした私たちは(とにかく、ものすごく暑かった!)その「おくつきどころ」まで到着出来ず、引きかえしてしまいました。 帰宅してネットで見たら、石の柵に囲まれた涼し気な場所の写真がありました。 しかし、自分たち飛鳥墓マイラーの記念すべき1か所目は、南淵請安先生の墓、ということで認定!♪ 何となく達成感に浸った私たちは満足して、飛鳥川に沿って道を下り、勝手知った石舞台の傍の食堂に着きました! そして、去年の秋と同じにゅうめんと柿の葉寿司1個のお昼を食べ、友だちは飛鳥の「蘇」を購入。 ひと息ついて時計を見たら、まだ1時過ぎでした。 朝から飲まず食わず、3時間半くらいの大冒険でした! 万が一遭難した時の為に、次はペットボトルの水や携行食を少しは用意すべきだと山岳部の私は反省。
2022.08.09
・土屋文明の「万葉紀行」読みしより憧れて来し芋峠行・ナビの言う信号間違え登りゆけば急坂急カーブの壺坂峠さて、思いがけず壺坂峠を越えてしまった私たちですが、昭和18年の土屋文明の飛鳥から吉野への峠越えの最初が壺坂峠越えだったことを帰宅してから知り、ちょっと嬉しくなりました。 壺坂峠を越えて麓の道に出ると、ナビが元気に案内を始めました。左です!広い道に車が沢山走っています。 馬佐を越え、世尊寺を越え(壺坂峠越えの文明は、ここで昼食)私たちの軽自動車は、あっという間。ナビがまた指示をします。左です。 集落を2つほど過ぎると、少し上りになってきました。少し行くと右側に小さな観音堂がありました。車を停めてみると、扉の中に大きな仏様がおいででした。きれいに掃除され、外の花活けには切り取ったばかりのようなみずみずしい花が供えられています。千日草や小菊と一緒に小ぶりのひまわりも活けられていました。観音堂の左側には手入れの行き届いた吉野杉の美林が広がっており、道路脇の2本にテイカカズラの白い花が満開でした。この場所に来た人の目を楽しませてくれるために、切らずに残してくれてあるようで、感動しました。 お堂に比べて大きな仏様が祀られており、朱色の褪せた幕には井げたに橘の模様が。後ろにあるお題目は我が家にもある日蓮宗の御本尊。こんな場所で懐かしいものに出会ったと思ったら、ゾロアスター教のような仏様や、別の宗派の印刷物も!世界の人類、みな兄弟みたいな感じかも。 後で知ったのですが、ここは千股という集落で、長屋王が吉野に行くときに、このあたりで歌を詠んだそうです。万葉集巻1-75 宇治間川朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに私も、長屋王の悲劇とウクライナの戦争を思い歌を作りました。・長屋王が歌詠みしとう千股なる観音堂にひまわりの咲く千股を越えると、道は急な登りになり、道幅も狭まってきました。レンタカー屋さんのお姉さんの言った「クマもイノシシも出る」「崖崩れや落石もある。行かない方がいいですよ」が頭をよぎる。今にして思えば、そう恐ろしくも無い気がするけど。 軽自動車一台がやっとの細い道、時々ある急カーブ、左は千仞の谷、右は崩れそうな山。前から車が来たらどうしようもありません。 そしてまたもや黙りこくっているナビ。 車はどんどん登って行きます。友だちは前方注意して運転してるせいか、結構平気みたい。 そのうちに私はナビの画面の緑色の道の先の方に、黒だったか赤だったかの大きな☓が道を塞いでいるのを発見してしまいました!えー行き止まり?行き止まりで帰るにしても、方向転換出来なかったらどうするの?こんな山の中で!そこで私は提案しました。「行き止まりだったら大変だから、途中でターンできる場所があったら、そこから引き返そうよ」この重大局面にあっての提案に、友だちは乗り気薄くて、「ターン出来る場所あったらね。大丈夫だよ。行ける所まで行こうよ」と言います。 思うに、橿原神宮前駅で、告げられた目的地「芋峠」に私たちの車を連れて行くために、考えてくれていた健気なナビちゃん! 幸か不幸か、狭い峠道でターン出来る場所もなく、車はズンズン登ってゆき、飛鳥川の源流を見たい!なんて思っていた事も忘れ果て、水音なんて全く聞こえない高みにたどり着き、沈黙していたナビがようやく口を開き「芋峠付近に到着しました。これで案内を終わります!」太い緑の道と終りの☓は消え、画面には髪の毛のように細い道が続いているばかりでした。 やっと着いた!友だちは「全然怖くなかった」というけど、私は本当に怖かったです。この芋峠行き、2人とも夢中で覚えていない事も多く、再確認のために、もう一度同じルートで行こう、と友だちが提案してますので、今や私は大乗り気です! ナビから開放されて、現金な私は、変わり身も早く、早速車から降りて道を歩くと、明日香村の立てた「芋峠」の方向を示す立て札がありました。 これは、こころ旅で火野正平さんが写真撮っていた芋峠の看板じゃないんだけど、道はもっと広かったし、あの人たちが行ったのはどこだったんだろう? 峠近くから少し車で下ると、犬養孝氏の、これが天武・持統の吉野に通った古道であろう、という説明板があり、もう少し下ると、吉野杉を切り出す人たちの重機なども見えてきて、やっと人心地ついた私でした。・美しき吉野杉林下りゆきて犬養孝の案内板に会う
2022.08.07
2日目、ホテルを出発してナビには「芋峠」と指示。何しろまずは墓マイラーとしての第一番墓所「請安先生の墓」のある南淵集落から芋峠を越えて吉野へ、の行程だからです。 橿原神宮から飛鳥へ、左折すれば石舞台、という信号でナビが「この信号を左です」と言うのに、ついつい直進してしまい、まあ、次の信号を左折すればいいや!と強気の2名! 私たちの住んでいる所は、ほとんどが条里制みたいに道路が走っているので、次の信号で・・と思ったのですが、なぜかナビが黙ってしまいました。仕方なく勝手に次の信号を左折したのですが、どうも違うみたい、もう一度来た道へ戻ってみようと戻りました。 このあたり、友人も私も記憶があいまいで、確か左に橘寺らしきお寺があったのは記憶しています。 (後日、奈良県の道路地図を買って検証する予定です) 元の道に出て流れに乗って進んで行くと、ナビが元気に指示を出しはじめました。道路の大きい看板には直進には壷阪寺の文字があり、ナビはそこに行かせたがっているようです。芋峠の文字はどこにもありません。 しかし、見知らぬ道路でのナビの頼もしさは、幾度も経験があるのでナビに従う事にしました。 広かった道が狭くなり、大型車も走っていたのに車が徐々に少なくなるのですが、ナビの指示は直進です! そのうちに、急坂、急カーブの道になりました。そして小さな軽自動車はぐんぐん高みを目指して進んで行きます。たまに降りてくる車があるので、行き止まりではなさそうでホッとしたり、ナビの地図では道路を示す太い緑の線が頼もしく私たちをいざないます。 この上りで私は相当肝を冷やし(つぶす?)ていました!もしUターンできる場所があれば、そこから来た道を戻って石舞台の左折からやりなおしたい! チャンスが訪れました!なんと急坂の山の中に広い駐車場が出現!30台くらいの車が停まっています。壷阪寺の駐車場でした。こんなに車があるんだったら、向こうには広い道があるに違いない。今まで来た道はひどすぎる!と人心地がつき、前に進みました。 ちょっと登って下を見ると、壷阪寺の立派な屋根が見えました。お里沢市の壺坂霊験記の壷阪寺です。今も信仰を集めているみたい。 まもなく壺坂峠を越え、道は下りになりましたが、広く明るい道どころか、どうも誰も使わなくなっている道らしい。朽ちた落ち葉の道に出来ている轍も、新しいものはない。道は狭く、引き返すのは不可能。ナビは壷阪寺の上りから沈黙! 左は崖で修行出来そうな滝もあります。右は川の流れがあるらしく底の方に流れの音がします。道幅は軽自動車がやっと通れるくらい。暗くて湿った感じ。でも、いつかは吉野に出るのは間違いないはずなので、勇気を出して進みました。 途中、山菜採りか山仕事らしい軽トラが登る方向に停車しているのを見て、下から登って来たんだ!とひと安心! 最初の集落に出てホッとしていたら、ナビが元気よく指示を出し始めました。確かに、一本道じゃあ指示の出しようがないよね。「次の信号を左折です」保育園や農協の直売所があったような気がする。 さて、私たちは思ってもいなかった壺坂峠を越えてしまったのですが、直木孝次郎紹介の土屋文明が昭和18年に飛鳥から吉野への峠越えをした記録に、「1日目は藤原宮跡から橘を通って壺坂山の麓に宿を取った。幾つもある峠のうちで、1番距離が短い峠越えで、翌日は早朝出発して昼前には世尊寺につき、ここが吉野寺の跡であろうという先生の考え・・」とあり、思いがけず壺坂峠を越えたのは、私たちの収穫でもありました。
2022.07.29
前日は疲労困憊して、2人とも爆睡!目覚めると、この日も晴れで、まだ5時過ぎでしたが、広い大和の青空が広がっていました。 旅の予定を立てる時に、例年なら梅雨の真っ只中、豪雨被害の荒れ模様の3日間も覚悟して、天候の都合で、大きな建物で一日飛鳥を楽しめる場所、1・橿原考古学研究所付属博物館 2・万葉文化館 3・平城宮跡、という案も考えていたのですが、天気予報を見れば3日間とも快晴!「今日も晴れ!大和の神々が私たちに付いてる!」畝傍山の方を見て友だちが叫びました!すっかり疲労回復したので、かねてからの予定通り、朝食前に橿原神宮にお参りに行くことにしました。 フロントで道順を聞くと、ホテルからの簡単な地図をコピーしてくれて「まっすぐ行けば大きな鳥居があります」とのこと。 朝の爽やかな空気を吸って、気持ちよく歩いて行きました。前日の考古学研究所付属博物館(畝傍御陵駅)に行った時も気づいたのですが、この橿原神宮前でも、家々の小さい庭や道路脇の花壇に植えられている草花の美しいこと!花も葉もびっくりするほど色鮮やかで、例えばお花屋さんで売っている供華用の小菊、あれと同じ姿、形のものが、民家の窓下のプランターに植えてあったりするのです。特殊技術があるみたい。 色々な花々を愛でながら歩いて行っても、大きな鳥居になかなか辿りつきません。 散歩しているをぢさんに聞いたところ、一本道を間違えていたようです。野球場の所まで戻って右に行ってください、とのこと。 周囲を注意深く見ながら行くと、大きな立派な鳥居があり、散歩や参拝の人たちが見えてきました。ラジオ体操をしているグループや、お掃除をしている神社の人もいます。 広くて大きくて初めて見たくらいの立派なお宮で、参道の両側の木々が皆大木で、カラス、アオサギ、シラサギなどが悠然と飛んでいます。オオルリ、ウグイスは声だけ聞こえます。 鳥たちまでも余裕! そこに平安貴族のような姿かたちの宮司さんらしき人が歩いて来ました。友だち(ミーハー)が早速近づいて「写真撮らせて頂いても良いですか」と言ったので、私は恥ずかしかった。 合歓の木が沢山花をつけていて、蕾も沢山あり、その下に美智子妃の歌碑がありました。 ・遠つ世の風ひそかにも聴くごとく樫の葉そよぐ参道を行く 橿原神宮なので樫の葉、という言葉も入れて、歴史の重みも爽やかさも入れて、上手! 神宮は畝傍山をご神体にしているらしい。裏に池があったので行ってみました。大きな池で、白や紫の菖蒲が咲いて、鯉や鮒がいっぱいいて、ゲンゴロウやミズスマシ、カメ、さまざまな命たちの楽園になっています。向かいの松林はシラサギやゴイサギ、カワウのコロニーになっていて、ゆっくり旋回するもの、どこかに飛んでいくもの、帰ってくるもの、動きが優雅なのは、食べ物は前の池にいっぱいいるし、伝統的に広くて安全な場所での暮らし方が引き継がれているのかも。 盤洲干潟のカワウ(海岸にいるけどカワウだと専門家が言ってました)の貧弱なコロニーを思い出し、里心がついた私でした! 橿原神宮の早朝散歩に行けて、本当に良かったです。 帰って朝食。ホテルのバイキングは和洋華のものが揃っていて、フルーツも沢山で、茶粥さえ食べられればいいと思って、あまり期待していなかったのですが、予想外の充実ぶりでした。 かくいう私は、茶粥に刻み奈良漬(これがすごく美味しかった)三輪そうめんくらいの炭水化物系粗食。 先日テレビで星野リゾートの社長がホテルの集客について話していてサービス第一で発展した事業が他のホテルにも広がって「今はどこのホテルも、そうひどい所はない」と言っていたけど、そうらしい。 車は地下の駐車場に入れてあり、駐車代500円で出庫。 南淵請安先生の墓を目指して、墓マイラーの旅が始まりました! 車なので、ものすごく気軽に、飲み物も持たず身軽に出かけたのですが、反省として、何があるかわからないので、飲み物と携行食くらいは持っていた方が良さそう!つづく
2022.07.27
奈良盆地から吉野に行く峠は7つ。東から関戸峠・細峠・竜在峠・芋峠・壺阪峠・芦原峠・今木峠の順。細峠は元禄元年(1688)松尾芭蕉が越え、その行程は初瀬から三輪・多武峰を経て臍峠(ほそとうげ)に至って竜門に下る。「笈の小文」に・雲雀より空にやすらふ峠哉と♪芭蕉から百年近く後の明和9年(1772)本居宣長がほぼ同じコースを辿っているが、宣長は竜在峠から細峠に行かずに滝畑に下り千股に宿泊したそうです。さて、土屋文明先生の峠越えの3日目は三茶屋から、津風呂、ぐるりと回って前日西から東へ行った平尾を南から北へ通過、細峠に向かう。上りに苦労しつつ細峠を越え、尾根伝いに竜在峠へ。前日の雨が斑雪となっていて、文明は天武(大海人)の「み吉野の耳我の嶺に時なくぞ雪はふりける・・・」を思い「耳我の嶺が「多武峯と吉野の界、今の細峠、竜在峠一帯の重畳たる所謂横嶺を言ふものであろう」というという説を立てる。この日は険しい近道を、細川の上流の上村に下り、川に沿って明日香に出た。細川は人麻呂歌集の・ふさ手折り多武の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒ける(1704)にあり、飛鳥川の支流。4日目は高取町清水谷の宿を出発して芦原峠に。文明は「芦原峠の道は、6,7年前に出来たという昭和の新道が旧道や明治新道の上に、大きく迂回して通じていた」と書く。 直木孝次郎は「いま、5万分の1の地図を見ると、峠の下に長いトンネルが出来ており、その西側に曲がりくねった山道が描かれている。先生が辿られたのは、この道であろう」と。 峠を越えると尼谷の集落、芦原を過ぎて檜垣本に。吉野川に沿って平地が開け、川の向こうが吉野の中心のひとつ、下市町。文明は吉野川の流れをよく見るために国道を3キロ以上歩く。 持統天皇の吉野宮の所在地を、通説(宮滝)に反して六田から大淀、檜垣本のあたりではないかと考えたのは、この時ではないかと直木孝次郎は書く。 それから文明たちは電車に乗って下市田へ、そこから今木峠へ行ったそうです!そして、まだまだ・・・ 文明たちは再び電車に乗って壺阪山の一つ手前の市尾で降り、往復4キロ歩いて越智岡にある斉明天皇陵を訪ねた!のだそうです。同行の上村氏の回想では「あの道はずいぶん辛かった」そうです! 6日間の土屋文明の峠越え、一番知りたい芋峠が出てこないんですけど!最後に気がついたのですが、芋峠は、前に行ったので、この旅では行かなかったんだそうです!では、お弟子の直木孝次郎先生ご紹介の土屋文明先生の歌を・汗たりて多武の山霧の中をのぼるただ古へを恋ひ思ふより同行の上村氏への思い・かたくなに交りて来し老二人今日掘る疋田のすみれ四種類・吾が門に入りがたき馬酔木送り来ぬ君はのんきで吾を困らす平群谷 戦死した年若い友人に・戦の国に赴く一日の暇この平群谷恋ひて遊びき・二十年の交りの最後平群谷にあそびて君は戦ひ死にき明日香・崩れたる山田の道にふと思ふ明日香は若しや崩処(あすか)ならずや・かぎりなく大和を思ふ小さなるこの明日香をぞかぎりなく思ふ大和恋・立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし・古へを時に貴み時に貶しこの国やまか
2022.07.25
2日目の予定は、橿原神宮前から明日香村を抜けて、南淵請安先生の墓にお参りしてから芋峠を通って吉野へ。吉野では何も見ずに引き返して、石舞台の前の売店で友が「蘇」を買い、天武・持統の御陵、高松塚古墳、文武の御陵などに行き、余裕があれば飛鳥駅の向こうの牽牛子塚古墳にも行ってみたい、という感じでした。 TBSBSの「関口宏の一番新しい古代史」という番組で新羅と戦った百済の応援のために、中大兄皇子と筑紫に出かけた斉明天皇が現地で崩御し、今は宮内庁が斉明の御陵としている所ではなく、牽牛子塚古墳が斉明の御陵の可能性が高いと言われている、と説明していて、なぜかその御陵を墓マイラーの数に加えたかったわけです。 この旅のテーマを墓マイラーの旅にしようとしたのは、友だちが明日香村の地図で見つけた南淵請安先生の墓。私は名前も知らなくて、緒方洪庵なんかの名前の印象から江戸時代の人かと思っていました。友だちが言うには、小野妹子と一緒に遣唐使に行った人、とのこと。大化の改新でもいろいろ教えた人ではないか、と。しかも、今なお先生と呼ばれるって・・・素敵!ということで「請安先生の墓」をまず第一の目標にしたのです。先生の墓は明日香村から芋峠を越え吉野に抜ける道!名前も知らなかった請安先生について、ウイキさんなどで調べてみました。南淵請安(生没年不明)飛鳥時代の学問僧。飛鳥川上流の明日香村稲淵に住んだ、南淵漢人と称される漢系渡来氏族出身の知識人。608年、遣隋使小野妹子に従い8人の留学生の一人として隋に留学、32年間、隋の滅亡から唐の建国までを見聞して舒明12年、640年帰国。塾を開き、隋・唐の知識を日本に伝えた。中大兄皇子と中臣鎌足は請安の塾に通う道すがら、蘇我氏打倒の計画を練ったと言われる。請安の伝えた知識が大化の改新に伝えた影響は大きいが、彼自身が新政府に関わった痕跡はないという。 そうか~請安先生は政治家じゃなくて学者先生だったんだな~とますます感動したのでした! 学者先生といえば、伊藤千代子の恩師、土屋文明の続・万葉紀行も、明日香から吉野に抜ける峠への憧れを昔ふうの文章で楽しげに綴ってあって、まだ見ぬ峠道へのあこがれは増すばかりです! あら?土屋文明の「続・万葉紀行」のコピーがどこかに行ってしまったので、直木孝次郎の「わたしの法隆寺」に、土屋先生と峠越えの事が書いてあるので、ご紹介します。山本有三、斎藤茂吉、からの紹介で土屋文明に短歌の指導を受けた直木孝次郎は、山本有三が「土屋は、大和の盆地と吉野地方をむすぶ峠は七つあるが、七つとも歩いて越えたと自慢していたよ」といわれたのが記憶に残っている。土屋先生が大和の風土にどんなに打ち込んでおられたか、がよくわかる。と書いている。 土屋文明の越えた七つの峠の行程も書いてあるので、メモしておきます。1943年3月、土屋文明は奈良市疋田に住むアララギ会員上村孫作氏と明日香と吉野を結ぶ峠を踏破する旅に出る。1日目・藤原宮跡から磐余・山田をまわって明日香に入り、橘から文武天皇安古岡上陵に出、間道をたどって壺阪寺の麓の高取町清水谷の宿に。2日目・清水谷の宿から壺阪寺の横を通り、壺阪峠を越える。下ると田口・馬佐の集落。馬佐から道を東に取って比曽寺跡の世尊寺に昼前着く。ここは、吉野寺と推定される場所で、そうだとすると明日香から吉野への最短の道は壺阪峠越え。土屋文明がまず先に壺阪越えを選んだ理由がこれになる。 比曽から先は、更に東に進み、増原・千股・志賀・佐々羅など由緒ありげな集落を通り、平尾を経て中龍門村に宿泊。今は吉野町になっていて地名は竜門岳しか残っていないらしい。芋峠まで行きたかったけど、疲れたのでこの辺で終了。つづく
2022.07.23
私の「山岳部」は理由が無くもない高姿勢。学生時代、同好会が沢山出来てワンゲル同好会なども幾つかありました。でも、山岳部は学校が認めた、予算も部室も備品もあって、先生(教授)も時々参加する、歴史ある山岳部の誇り。その実態は軟弱だけど、友人と初めての町など、どこかに出かけた時に、私が「あっち」というと目的地に着くという妙な自信があり、その時必ず「山岳部だから」と威張った日々が所違えど今に続きます。 甘樫丘の麓を歩き始めて、左側には飛鳥川の流れ、その向こうには車がビュンビュン通る道。飛鳥川には水鳥の親子がいました。子どもは2羽。「ほかの子は他の獣に喰われちゃったのかもね」「まあ獣の命をつないでくれたかも」なあんて話しながら行ったのですが、車のライトとたまにある外灯の光以外真っ暗。 もうそろそろ車を停めた場所に着いても良いだろうと思っても、着きません。道の端に梅の畑があり、完熟梅の良い香りが漂っています。 もう絶対着いても良さそうだと思っているうちに、甘樫丘の尾根のほうが途切れてもう丘が無くなっているように見える場所に来たのに、駐車場はありません!山岳部の自信が揺らぎ、引き返した方がいいかも、と思い始めました。私の記憶では、甘樫丘の一番初めの駐車場に停めたのです。でも、その根拠は「あっちから来て一番はじめの駐車場」だけ。あっちはどっちだか、確証もなく。人家はなく、誰にも会わず、交番もなく、ましてや人に聞こうにも肝心の車を停めた駐車場がどこか分からないので、聞きようがありません。友だちの覚えている情報は「車椅子対応の駐車場だった」ということ。 「戻ろうか」とちょっと引き返したのですが、今までの行程、あの歩いた距離をまた戻る体力が尽きた感あり。 思えば長い長い一日でした! 朝起きて、9時台発の新幹線に乗るため快速に乗っていたら友だちからラインが来て「一大事!乗るつもりだった特急が休み!快速もなくて一番早いのが各駅停車で千葉まで行って特急に乗り換えるしかない。今、各駅に乗ってる」 書くと長いので割愛しますが、友だちは乗った特急の車掌さんの機転で東京駅でなく品川まで特急で行き、東京駅から新幹線に乗って行った私と品川駅で合流したのでした! そして京都から近鉄で畝傍御陵前駅に行き、橿原考古学研究所付属博物館で長い長い古代への旅を楽しみ・・・ もう、ヘトヘト・・・ 引き返してすぐ、車5台くらいの小さな駐車場があり、そこに地図のついた看板があったので、スマホのライトで見て再確認。どう考えても引き返さずに行くのがいいとの山岳部のカンで、先に進む事にしました。 本当にこれでいいのか、不安は募ります。その時見た看板の地図には、もっと先にある車椅子対応駐車場が書いてなかったのです。左の端はスペースの都合で途切れていた! とにかく歩くしかない!とカラ元気を出して歩いて行くと、真っ暗な前方に、淡い丸い輪のようなものが見えます。自転車の車輪のようにも見え、誰か来るのかと思ったら、輪がもう一つ。「あの駐車場の入り口かも!」 急いで行くと、甘樫丘にもあった小さな素敵な灯籠が、並んで私たちを迎えてくれました。駐車場には、私たちの可愛い軽自動車が、ポツンと待っていました!軽い気持ちで小さいバッグで何も持たずに出かけ、飲まず食わずの甘樫丘彷徨は、これにて終了! やれやれ、と乗り込めば、車はラクチン♪ それから30分後にはホテルの温泉大浴場で一日の疲れを癒やしていた私たちだったのでした!
2022.07.22
去年もレンタカーを借りて奈良の町を回ったので、明日香村は慣れたもの。ナビの指示を受けることもなく、甘樫丘に到着。 最初にあった駐車場に無意識に停めたのが悲劇の始まり。 登ってみると、去年とは違う場所で、BSのこころ旅で火野正平さんがお手紙を読んだ展望台。みかん園の石碑もありました。新しい場所を知ったので満足したけど、見晴らしがあまり良くないので、去年の展望台に行く事にして、尾根道を歩いて行きました。 コシアブラらしい雑木が密集している場所や道に覆いかぶさるように木が茂っている場所などは、もう暗くなって外灯が点っていたけれど、何のその、二上山に沈む夕日を見て、大津皇子の墓参りの代わりにしようと、墓マイラーの決意は固かったのです。 着いた展望台からは、豊浦宮の方向の向こうに畝傍山、その向こうに二上山が見えます。雲が出てきましたが、夕日はまだ高く、二上山に沈む瞬間は、どんなに素晴らしいだろうと待つことにしました。 ちょうど土曜日で、毎週聞いているNHKラジオ古典講読の日。今年は鉄野昌弘先生の万葉集なので、万葉集がマイブームになっています。 本放送の時間は過ぎていたけれど、スマホの聴き逃しで甘樫丘の展望台で、二上山を見ながら、なんと、大津皇子と大伯皇女の回を聞くことが出来たのです!なんと素晴らしい時間だった事でしょう! 万葉集 大伯皇女の歌105番 わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ちぬれし106番 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ 全部聞き終わった頃、雲が山の端にかかり、入り日の瞬間は見られそうにないので、帰る事にしました。薄暗くなって、来た尾根道をまた引き返すのは危険なような気がしたので、こちらの展望台の下の道は去年来たので足元もちゃんとしているし、木もそう茂っていないと知っていたからです。 急いで下って道に出て、車を停めた場所に行こうと私が右の方に行こうとした所、友だちが左だと言います。「尾根道を向こうから来てこっちの展望台に来たんだから、右だよ。私は山岳部出身だから方向は間違えない」と言い張る私の案が通って?甘樫丘のふもとの道を歩きはじめました。もう、真っ暗。つづく
2022.07.20
2022年6月18日から、2泊3日の奈良の旅をしました。前年の秋にも行ったのですが、その時に入手した明日香村の地図に、南淵請安先生の墓、とあるのを友人が見つけ、今回は墓マイラーの旅をすることにしました。2日目のハイライトは、請安先生のお墓に参ってから、天武・持統が通った飛鳥から吉野への道、芋峠を越えることに。伊藤千代子の恩師、土屋文明の続・万葉紀行を読み、その峠越えの足跡もちょっと辿る予定です。1日目東京駅から新幹線で京都、近鉄京都駅から畝傍御陵前駅下車、憧れの橿原考古学研究所付属博物館へ。特別展は出雲の至宝。大きな見返り鹿の埴輪が迎えてくれました。沢山の収蔵品を堪能。駅に戻り、宿泊地の橿原神宮前駅に。駅前のホテルでチェックインしてから、近くのレンタカー屋さんに。友達が予約したのですが、その時にいろいろ明日香の情報を教えてくれたり、また、私たちが借りる前日に、彼女がコロナワクチンを打つため、発熱などで車を出せないと困る、と思案の末、前日に車を取りに来てほしい。料金は1日分で、前日から乗ってもかまわない、との話になったのです。友だちが「すごくいい人」との印象を持ったので、私たちは成田の米屋の水ようかんと、木更津煎餅をお土産に持参。お姉さんからは橿原市で有名な美味しいシュークリームをいただき感激。お姉さんに美味しい食事のお店を聞くと「とんでもない、コロナのせいで、予約してないと食べられるお店はない」とのこと。ホテルの近くにコンビニがあってお弁当も買えるとのことなので、夕食はコンビニで何か買うことに。 明日は芋峠に行く予定だと言うと、お姉さんは「とんでもない。落石があるし、クマやイノシシも出るし、行く人なんかいませんよ」とのこと。 かわいい軽自動車を借りて、折角なので甘樫丘に行き、二上山に沈む夕日を拝んで大津皇子の墓に参った事にしよう、と甘樫丘を目指しました。 つづく
2022.07.18
最近勧められて、1月から購読を始めた「赤旗」紙に、浅尾忠男さんの訃報が載っていた。その作品しか知らないけど、言葉を介して真っ直ぐに生きた人!大河ドラマ「獅子の時代」は、菅原文太扮する会津藩士平沼銑次が、将軍慶喜の弟昭武の随臣としてパリ万博に行くところから始まる。そして、パリで知った「自由・平等・博愛」の精神を日本に根づかせようと願うが、明治維新の矛盾に突き当り、最後に秩父の山中で困民党軍に「会津の先生」と呼ばれ、ともに戦うのです!浅尾忠男さんの「秩父困民紀行」から、いくつかメモしておきます。「風布晩秋譜」晩秋は秩父路のどこで どう道を取り違えたのか蜂起へのつのるおもいに勇み足のぼくらは風のやまとよばれる村をたずねて迷いこんだ違沢という名の谷間から風の息も鳥の声もとだえた坂道をのぼりつめさがしあてた ちいさな山のちいさな峠の金比羅神社は赤い鳥居とちいさな祠文久二年奉納の句額の墨文字は風雨にながされてここは 困民党風布組の結集地五十余歳の中川庄蔵と四十余歳の大野庄助と三十余歳の大野福次郎と二十余歳の大野苗吉と十九歳の田島宇市とつどう百数十人白鉢巻 白襷股引き 草鞋ばきが踏みにじる明治圧政の枯れ葉の音と おそれながら天朝様ニ 敵対スルカラ加勢シロ とささやきかわしたしわがれた民権の声色と風のやまからやまへ 村から村へ蜂起へのつのるおもいに光る風となって自由の峠を駆けぬけるかれらを追って晩秋は秩父路の塞神峠から風布・蕪木へ迷わず駆けくだり荒川をわたるぼくらの勇み足も またとどまることなく
2022.01.15
友だちが谷川俊太郎の最新詩集の詩を書いた手紙をくれたのでメモしておきます。「永遠が恵む」永遠が恵む束の間の音古楽器の辿る木版の道に時の流れを遡り咲き誇る今日の花々「虚空へ」2021年9月
2021.12.21
病気や不慮の事故は別として、大体の家族は年齢順に亡くなるのが普通だったけど、コロナ禍で、思いがけず若い人が亡くなっている事が報じられています。上野千鶴子さんのお一人様の老後、自宅で一人で死ぬことの心構えと素晴らしさが、多くの人に支持されたのが、ほんの一年前なのに。あの余裕さえなくなった今の状況。 コロナではないのですが、コロナの時代に、私は2人の親族を看取り、葬式を出しました。はじめの1人は、一昨年、台風15号が房総半島を襲ったあと、次に想像もできない台風が来るとのテレビ報道の時に倒れ、救急搬送。それから病院との連絡で携帯電話と家の電話を枕元に置いて寝る毎日が始まりました。病人1の場合 上野千鶴子さんが書いているように、どんなに元気でも最後は病院生活になり、その期間は平均8ヶ月という、その平均の8ヶ月で亡くなりました。 治る事を考えて、老人施設やリハビリつき病院など、いろいろな選択肢を考えて調べたり下見に行ったりしましたが、田舎なので選択肢が少なく、だんだんに衰弱、救急病院から示された療養型病院は暗くて地味な1か所だけでした。当時はできる限りの事をしたので、今は特に後悔はないけれど、一つあるとすれば、回復のために、と心臓のペースメーカーを入れたことです。他の臓器が弱っているのにペースメーカーは無理だったようで、本人を苦しませてしまいました。病人2の場合 病人1の葬儀、新盆、などをしなくてはならず、病人2を老人施設のショートステイに預けたのですが、夜間スタッフ2人体制、1人は看護師という話だったのに、夜間、若い女性スタッフ1人の時に、転倒骨折し、かかりつけの病院で入院手術、コロナで大変になっている時に受け入れてもらい、感謝しつつの3ヶ月の入院でした。病人1が最期に入った療養型病院が、死ぬのを待っているような所だったので、少しでも楽しい時間を過ごさせたいと、転院先は、療養型病院ではなく、介護保険を使った施設に入れることにしました。 特別養護老人ホームが決まるまで、そこでリハビリしながら待つ人が多い、という、老健施設を探し、幾つも下見に行き、申し込みの段階になって、ソーシャルワーカーさんから「本人が飲んでいる難病の薬が高価過ぎて、老健には入れない」との情報が。そういう決まりなのだそうです。思いがけない事で絶句! その間、特別養護老人ホームも、幾つも申込みをしました。どこも応対の人は親切で、建物もきれいでしたが、空きはなく、倒れて骨折という経過で断られるところもありました。(要点だけ書こうと思ったのに、長くなってしまいました。今日はここまで)
2021.08.11
友達が短歌の会に入ったというので、もう読まない短歌の本をあげることにした。何冊か選んでいるうちに長塚節が、足尾銅山の鉱毒被害を詠んだ長歌を見つけた。自分用にメモしておく事にした。明治三十四年長歌鉱毒地被害民の惨状を詠づる歌一首並反歌下つ毛の足尾の山は、まがつみのうしはく山か、その山に金掘るなべに、かなけ水谷に漲りをちこちの落合ふ川の、大舟の渡瀬川に、時分かず流れ注げば、その川のうるはす極み、あら金の土滲みとほり、八つ子持つ芋も子持たず、蚕飼ふ桑も芽ぐまず、水田には蘆生ひしげり、くが田には萱し靡けば、安らけく住みにし民も、過ぎへなむたどきを知らに、父母は阿子に離れて、壮丁はも妹に別れて、うき雲のさ迷ひ行けば、たまり水止まるものも、ありへにし家にも居かねて、煙だに下に烟べば、世の中にまさしき人の、同胞の嘆くを見れば、いかで吾仇にはあらめやと、益荒雄の鋭心起し、家わすれ身もたな知らず、国統ぶる司の門に、つばらかに聞えあぐれど、大君の任のまにまに、きくといふ司人やも、正耳はしひにけらしも、もも足らず八十たび申せど、かへり見ることもあらねば、飯に飢て恨み泣けども、すべもあらぬかも反歌いかならむ年の日にかも毛の国の民の嘆きの止む時あらむ
2021.05.29
コロナ騒動ですっかり忘れていたけど、今日はローザ・ルクセンブルクの命日だった。ウイキさんからの紹介では1871年3月5日、ポーランドのザモシチで生まれ、1919年1月15日、白テロルに倒れる。全然関係ないけど、先日、大阪府長がコロナ陽性者の数が増えたことを「ガラスの天井を突き破った」と、とんでもない自分の無知をバラしてしまったけど、アメリカ大統領になれなかったヒラリー・クリントンにもあったガラスの天井。戦争に反対し自由と豊かな暮らしをすべての人々に与えるために果敢に闘い、捕えられ殺されたローザにも、ガラスの天井はあったのだろうと思われてならない。本人は全然自覚してなかったかもしれないけど。コロナ籠もりの日々、久しぶりにローザの獄中からの手紙を読んでみる事にする!
2021.01.15
柳美里さんが全米図書賞翻訳文学部門賞に輝いた「JR上野駅公園口」!この本が日本で発表された事も知らないでいたのに、米国で評価された話題の本ということで、恥ずかしながら私も本屋さんの入荷を待って購入!今は鬼滅の刃を抑えて売れ筋1位だという。恥ずかしい日本の私。 ところで、柳美里さんのツイッターにしつこく絡んでくるヘイトの人がいる。 その内容は・本名を書け ・迷惑だから日本から出ていけというような稚拙なものだけど、しつこいし、柳美里さんが「本名です。日本で生まれ日本語で小説を書いています。20歳から税金を払っています」と丁寧に書いても聞く耳持たない。 どこかで見たフレーズだと思ったら、香山リカさんのところに嫌がらせする、安倍、百田、あと、名前忘れたけど美容外科の医者の信奉者たちと文言が同じだった。どこにも同じ言い方するらしい。 柳美里さんは受賞後・TIMEが選ぶ今年の100冊・パウエルズブックスが選ぶ今年最高の翻訳文学 に選出され、それから続々と国際的評価が高まっている。柳美里さんのツイッターも世界中が見ている。日本の総理がステーキ食べたのもすぐに全世界に広がった。 あの恥ずかしいヘイトの人物たちの言動も世界に広まっているんだなあ、と恥ずかしい日本の私。ああいう人たちに「それはいけない恥ずかしい事です」と分からせるには、どうしたらいいんでしょうね。そういえば昨日あたり、コロナ対策で大忙しの愛知県知事が名古屋市長のことを「何を言っているのか、理解できない、話にならない」と言ってましたね。
2020.12.18
長い文章が苦手になってしまい、俳句は短くていいなあと思う。テレビの俳句講座なんかを見ると、好感持てる句がいっぱい。それで、自分では作れないくせにやたら目が肥えてしまい、ネットで自作の句をアップしている人の多くが、言葉を弄んでいるみたいに思えて仕方ないので、なるべく見ないようにしている。そんな私は、池田澄子さんの句が好き。・じゃんけんで負けて蛍にうまれたの・天気地気こぼれそめたる実むらさき・冬の蚊のさびしさ大工ヨゼフほど・カメラ構えて彼は菫を踏んでいる・青草をなるべく踏まぬように踏む
2020.12.04
いつの間にか一年が経ってしまいました。岩波「図書」2020年11月号に、長谷川櫂さんが九相図からの俳句を紹介されているので、メモ。・骸骨の上を粧ひて花見かな 鬼貫鬼貫(おにつら=1661-1738)は兵庫県伊丹市の人。芭蕉より17歳若く、芭蕉の没後44年生きた長命の人だそうです。 花見の女たちはあでやかに化粧し美しい花衣をまとっているが、死んでしまえばみな骸骨。鬼貫は九相図を思い浮かべたにちがいない、と。 九相図は人が死んでからやがて野辺の土となり果てるまでを九つの絵にしたもので、日本でも鎌倉、室町時代に盛んに描かれたらしい。 魂は死後どうなるのか。死を出発点とする幻想の死後の世界は、地獄極楽図。九相図も地獄極楽図も、生は常に死とともにある、という自覚を促す。 文学も死を度外視できない。すぐ隣で息をひそめる死によって、詩歌も小説もいよいよ照り輝くという残酷な仕掛けを備えている。 ということで、俳人山田洋さん(1934-2018)の句が紹介されている。・よく生きてよき塵となれ西行忌・癌の芽を摘みて涼しき体かな・夏痩せや地獄草紙の鬼に似て・この旅に生きてはいけぬ花野あり・帰るなら眠れる山へ帰りたく・わが余生丸ごと俳句花の春コロナ禍で、つい、死と隣り合わせという言葉に敏感になる昨今です。
2020.10.29
11月1日は秩父困民党蜂起の日。 大河ドラマ「獅子の時代」で会津藩士平沼銑次の最後の場面が秩父困民党での戦いだった。その後、井出孫六の「秩父困民党群像」を読み、ますます心惹かれて、秩父の山を歩いた。 その頃作った詩が出て来たので、再掲。「かんのん」十文字峠から急な下りを行けば小さなずんぐりとした野の観音がたっている北へ向かうこの道は佐久平へ向かう敗残の道むかし重税に苦しめられ娘を売りそれでも食べていけなくて自由と平等を求めて秩父困民党を組織した男たちがいた彼らは憲法を作り小さな民主政府を作って明治政府に対抗したここ奥秩父の木や草や花たちがそれぞれの領分でのびのびと生きているように人間だって自由に生きていい筈だ彼らはあちこちで政治や経済や歴史を学ぶ集まりを持ったアダム・スミス、モンテスキュー、ジャン・ジャック・ルソー新しいことを学ぶとき人はいつも青春だから十代から七十代までの ここ奥秩父の農民たちが山の深さに守られて青春の時を共に過ごした彼らの希求の思いがあまりに強かったので西洋から来たその思想は政府の高官よりも早くそして深く農民たちの胸に落ちた彼らの掲げる自由自治元年の旗のもと民権思想はここから燎原の火のように日本各地に広がるべきだったこの国はそれから数十年の歳月と他民族をも巻きこんだ沢山の無残な死とふたつの大きな戦争を経なければ奥秩父の農民たちに追いつくことができなかった敗残の農民たちはすでに政府軍によって閉ざされていた関東平野に抜ける道を避け信州へ向かう峠を越える時は十一月のはじめ柔らかいから松の落ち葉の道は彼らにとって過酷だったふるさとからのせめてものはなむけか五里観音に別れを告げる彼らの胸にともに学んだ青春の日々が浮かぶ「法の精神」「民約論」この敗残の道は未来へと続く道だから決して敗北とは思わずに佐久平に向かって胸を張って進んだはずだ
2019.11.01
NHKラジオ古典講読(成蹊大学名誉教授浅見和彦先生)「方丈記」が最終章(段?)になりました。今も人気の秘密は宗教論かもね。長明自身はそれほど仏道修行に熱心ではなかったと書いているけれど。最後の部分にもうすぐ三途の川に行くと書いてある。先生の言によれば、三途の川には奪衣婆という婆さんがいて死者の着物を剥ぐという、そこに懸衣翁(?)という爺さんがいてはぎとった衣をもらい受け、放り上げる、 罪人の衣は穢れの重みで落ちる 善人の衣は落ちないという審判の場所らしい。 たまたまカラマーゾフの兄弟を読み始めているのですが、新進論客として頭角をあらわしたイワンは、神なんかいない。死後の世界で生きている時の罪を審判されるなんてことはない、という論。 アレクセイは、神の存在を信じ、最後の審判は、ある、と言う。 イワンを熱烈支持するスメルジャコフは、死んだあとに罪を問われることはない、という考えに傾倒していく。 というのを、YouTubeの読書会というので聞いて、古今東西、宗教論というのは人々を熱くするものなのかも、と思った次第です。方丈記も宗教論なんでしょうね。では、方丈記、最終章。『それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。』そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。 「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」』 前半は五大災厄、後半は方丈の庵の充実生活。 三界とは、欲界・欲望に捉われた世界 色界・欲望を脱却するがものの形はある 無色界・欲望も色もない悟りの世界三界は心ひとつで変わってくる。心が平安でなければ、象、馬(乗り物)七珍(宝物)、宮殿楼閣もつまらないもの。自分はさびしい一間の住まいを愛している。 そもそも、一生の月影が傾いていく。残った命は西の山に月が隠れていくようなものだ。「余算の山の端にちかし」 山の端・山と空の接する山の方 山ぎは・山と空の接する間 枕草子の春はあけぼの ようよう白くなりゆく山ぎは (少し明るくなって)秋は夕ぐれ 夕日のさして 山のは (が近づいてみえる) 清少納言は山ぎはと山のはを見事に観察してつかいわけている。 長明はここで、山の端に命が近づいていって、たちまちに三途の川に向かおうとしている。 三途 三つの途(づ) 地獄、血の途、刀途 脱衣婆と懸衣翁のいるところ。 そういう所に自分も行くことになる。 執着してはいけない、それが仏の道なのだから、今、この草の庵を愛するのも、してはいけないという執着心そのものだろうか。「閑寂に着するもさばかりなるべし」 この部分は方丈記の文章が揺れている。書き写すうちに「さはりなるべし」の方が意味が分かると書き写しているものもある。 しかし「わかりやすいから良い」とするのは、古典では決して良いことではない。 静かな暁に、この理に気づいて、心を二つに割って自分の心に聞いてみる。 世間から逃れて山の中で暮らすのは、仏道修行のためのはずだ、それなのにお前は姿は出家の形なのに、心は汚濁にまみれているのではないか。 住処はそのまま維摩の修行と同じだけれど、行いは周利槃得に及ばない。 (周利槃得とは、釈迦の弟子で、自分の名を忘れるほど愚かな男だった。釈迦は塵と垢を除く仕事を与えた。その積み重ねのおかげで彼は悟りの境地に達したという。) 今の自分は、前世の行いの影響を受けているのか(仏道をおろそかにしたか) もう一人の自分が問いかけても、心は何も答えることができない。 ただ、傍らに舌根をやといて 「請わなくてもやって来てくれる、不請の阿弥陀仏」の御名を三回唱えて終わった。 六根・目、耳、鼻、心、舌 六つの身体の器官を清らかにして、仏の教えを聞き、実践する。 修験者が山に登るときの「六根清浄」も、同じ。 建暦二年、弥生のつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にてこれを記した。 以上が方丈記でした。
2019.07.24
NHKラジオ古典講読「方丈記」方丈の庵は、何の不足もない。長明の隠遁生活のまとめ部分。『それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』 人が友として選ぶのは、富のある人、いろいろ分け与えてくれる人を大事にする。情け深くて正直な人は、選ぶ基準にない。 糸・弦楽器 竹・管楽器 友にするのは楽器と自然が良い。 奴は報酬が多く、口利きしてくれる人を好み、心安く静かな人を選ばない。そうなってくると、奴を持つのも大変になる。だったら、自分が奴の役をすれば良い。 自分が奴婢になれば、自分のことは自分の身でする。疲れて嫌な時もあるが、人を使うより楽だ。 歩くべき時は自分の足で歩く。体を使ってしまった方が良い。 自分の身体を使い、二つの事が出来る。手の奴、足の乗り物、体が苦しい時は休み、元気な時は使う、使うといっても無理はしない。 歩き、体を動かすことは体に良い。無駄に休んでいては良くない。人を頼らず自分で動け。(800年前に、運動の良さを語る長明!) 衣食についても同じである。 藤の衣、麻の夜具、野べのヨメ菜、峰の木の実、命をつなげるくらいで十分だ。 人と付き合わなければ姿を恥じることもない。 食べ物が少ないので美味しくいただく。 こういう楽しみは、富める他人に言うのではない。ただただ自分の事として言っている。それは賀茂の頃と今の自分を比較してのことだ。 人との交流を断つという長明と比べて 隠遁者として並び称される、西行、兼好はどんな言葉を残しているか。 西行は。友といられることを願っていた。山家集・もろともにかげをより来る人もあれや(人がいるといいなあ)月の漏りくる笹の庵に・さびしさにたえたる人のまたもあれな(いたらいいなあ)庵並べん冬の山里兼好は徒然草12段、13段で友人論を「友だちというのは難しい、そんなことより書物を友とするのが一番だ」と書くが、私歌集では・年ふれば問い来ぬ人もなかりけり世の隠れ家と思ふ山路を131番 (=聞き間違いで不正確かも)(隠れ家なのに人が絶えないでうるさい)といいつつ・山里は問はれるよりも問ふひとの帰りてのちはさびしかりけり132番 と、人恋しさを歌っている。
2019.07.14
紫式部日記講座に行きました。 今までのおさらいとして九月十三日・彰子皇子出産三日目は中宮職主催の祝賀会。衣装も調度も白くして多くの人々がお祝いに集まった。十五日・五日目の祝いは道長主宰。十五日の月がくもりなくおもしろき。白砂を敷つめた庭にかがり火が映え、女房達は白い衣装に銀の刺繍や綾織りなど工夫を凝らして集まる。食器もみな銀製。集まった人たちの家来たち、道長家の家来たち、皆喜びの御相伴。十六日は月齢の満月だった。『またの夜、月いとおもしろく、ころさへをかしきに、若き人は舟にのりて遊ぶ。色々なるをりよりも』さまざまな色の装束よりも、皆が白一色なので姿や髪形がはっきり見える。 道長妻明子さまの兄弟経房(清少納言のところにきて枕草子を広めた)、道長五男教通(倫子の子)が誘い、道長の甥の兼隆が棹をさす。 残った女房たちは少し羨ましいのか外を眺めて座っている。 北の陣に車がたくさん来たと誰かが言ってきたのは、天皇付きの女房達が来たのだった。 名前をあげるが詳しくは知らない人たちなので間違っていることもあるだろう。 舟の人たちもいそぎ降り、殿が歓待して身分に応じて贈りものをあげた。 十七日は七夜の産養い。主催は天皇。通雅(清少納言が仕えた故定子さまの兄伊周さまの長男十七歳)が朝廷からのお祝いの目録を使いとして持ってきた。道長からはお使いへの贈り物もあったに違いない。 周囲は大騒ぎをしているが、産後の彰子の様子を見に行くと、弱弱しくも美しいひとりの若い女性であった。 行事は前回と大体同じで、来たメンバーが少し違う。 中宮からの禄、朝廷からの禄を人々は次々と受け取る。皇子に乳つけをした橘三位(一条天皇の乳母)にはいつものような女の装束、織物の細長、白金の衣函、それを包むものなどみな白いものや銀糸のものなど貰ったらしいがよく見ていない。 八日目の夜からは白い衣装が終わり、人々はまた平常の衣装になった。 九日目の夜は、道長長男頼通(十七歳)主催の祝賀行事。 白い御厨子一対に威儀の膳を載せたのも道長の時の倍ほど。精巧な工夫を凝らしてあり、一つ一つ取り立てては表しつくせないほどなのが残念である。(豪華さを見せつけられ、だんだんに覚めてきた式部)『こまのおもとといふ人の、恥見はべりし夜なり』 (紫式部が、まずいけど、あえて書いちゃうとき「はべり」を使う、とか。) 十月十余日まで、中宮は御帳からお出にならなかった。私は御帳台の西側の中宮の御座所に夜も昼も控えていたが、道長が夜も昼も若宮の様子を見に来て、疲れて寝ている乳母の懐を探るので、気の毒に思える。首も座らぬうちなので危ないと思えるが、若宮のおしっこをかけられてぬれた衣服をかわかして喜ぶ道長。 彼は将来にわたって政権を安定させるために、次の手を考える。それは具平親王(村上天皇第七皇子、式部の父や夫はその漢詩サロンの仲間で、源氏物語の最初の読者だったらしい)の姫と道長の長男頼通との縁談だった。「親しい関係の人だろうが、どう思うか」と道長が聞いてきた。私は具平親王と道長は合わないのではないかと、賛成ではない、と思ってはっきりしたことは言わなかった。 若宮と対面のために帝の行幸が近いので、土御門のうちを一段と手入れをして美しく飾り立てる。長寿の菊を各地から集めた様子は、老いも退散しそうな様子なのに、若やげないのはなぜだろう。 めでたい事、素晴らしいことを見聞きするにつけても、もの憂くてとても苦しい。欲求や未練を持つことは極楽往生をさまたげる罪なのに。 夜が明けて、呆然と庭を眺めていると、渡り鳥が楽しそうに遊んでいるが・水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世を過ぐしつつ (私も同じだ。傍目にははなやかな宮仕えに浮ついた日々を過ごしているけれど、この土御門で地に足をつけているわけではない)連日の祝賀の饗宴に小野宮右大臣実資の「小右記」は九夜事「称物忌之由不参入、毎夜・・・」自分としては義理でつきあっているので、毎夜毎夜、もう嫌だ。自分は物忌みと称して帰ってしまった。と書いているそうです。 実資はそのほかの道長の誘いにも気が向かないときは参加しなかったらしい。 彼の強みは小野宮家だけが宮中行事のあれこれのアンチョコを持っていたこと。宮中のことで分からない時は、彼に聞くしかなかった。当時は宮中行事=国の政治そのものだったらしい。
2019.07.12
全4588件 (4588件中 1-50件目)