第7官界彷徨

第7官界彷徨

私の宮沢賢治


=賢治の字「下ノ畑ニ居リマス」と=
 10年くらい前に早池峰登山の帰りに宮沢賢治の記念館に行きました。開館前の早い時間についてしまったので、外で待っていた時に、庭の手入れをしているお婆さんと話をしました。当時83歳?とか言ってましたが、若く見えていきいきと仕事をしていました。

 花壇の植物は、自分たちで決めて植えること、苗の手配や肥料、植え方などは花巻農林学校で世話をしてくれるということでした。
「私たちがその年に植えたい花を相談して決めるんだよ」と、佐藤さんというそのおばあちゃんは誇らしげに教えてくれました。

 今日の東京新聞「筆洗」は、宮沢賢治の事でした。

『教育学者の斎藤孝さんは、宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」の詩が好きだという。』
 という書き出しです。

『<この四カ年が・わたくしにどんなに楽しかったか・わたくしは毎日を・鳥のやうに教室で歌ってくらした・誓って言ふが・わたくしはこの仕事で・疲れをおぼえたことはない>
 この一節は大學で教える斎藤さんの実感と重なる。

(中略)
 斉藤さんは「教育力」(岩波新書)で教育の基本原理を「あこがれにあこがれる関係づくり」と結論づける。
 新しい世界にあこがれて学んでいる人は魅力を放つ。その人のあこがれ力に触発された人は自分も学びたくなる。

 だから先生は「教えることの専門家であると同時に、学ぶことの専門家であらねばならない」という。
(中略)
 新任の未熟な先生でも一人前になろうと学ぶ情熱があれば、子ども達には魅力があり、信頼関係を築くことができる。(そういえば、新卒で初めて担任したクラスが一番印象に残っていると先生も言ってますね)

(中略)
 宮沢賢治は先の一節の後に
<諸君はこの颯爽たる・諸君の未来圏から吹いて来る・透明な清潔な風を感じないのか>と綴る。
 先生に充実感があって、初めて説得力のある問いかけとなる。』

 と。

 以前、宮沢賢治の教え子の皆さんが賢治の思い出を話したドキュメンタリーがあり、見ましたが、賢治は時々授業をしながら自分の世界に入ってしまうこともあったらしいです。それを生徒達は全幅の信頼を持って見守っていたような・・・・。

 大いに自分の夢や知識を語っていたのでしょうね。花巻を訪れたとき、黒板に白いチョークで書かれた「下ノ畑ニ居リマス」の字が印象的でした。賢治が耕した畑は、そのときも青々と農作物が植えられていました。






2008年3月
 先日、東京新聞日曜版、宇野亜喜良さんの「奥の横道」に「土神が釜に沈めしひきがえる(漢字)」という句が書かれていました。

 青山のギャラリーで、「100葉の賢治展」というグループ展が企画されて、彼は「土神ときつね」を選んだそうです。
 実は、私も賢治の作品の中では「土神ときつね」が一押し。というか、人々に知られた作品のどれもがすきなんですが、この「土神ときつね」はまた一つの賢治の世界を作っているような気がするのです。

 宇野さんは書いています。
「どうしても思うのは賢治の作品はどこか異国的で、しかもどこと限定できない、いわば虚構の異国のような気がします。
 「銀河鉄道の夜」にしても、登場人物たちはジョバンニやカンパネルラというラテン系の名前ですが、全体的に仏教的な無情が漂っているし「オッペルと象」の、サンタマリアをあがめる象にしても、国籍不詳感があります。

「イーハトーヴ」という地名だって、岩手という日本語地名をエスペラント風な表記にしてしまうような人だから、想像の中のもうひとつの国家願望の強い人だったのではないかと思えてきます。」

☆と書かれています。そして
「ぼくは「土神ときつね」という話を選びました。美しい女の樺の木をめぐって、狐と土神の恋の争いがモチーフです。狐のダンディズムと、土神のバーバリズムの対立なのです。」
 とのこと。

 私はこのお話で初めてツアイスの望遠鏡の名前を知りました。
 きつねはこんな気障なやつです。
「夏のはじめのある晩、きつねはハイネの詩集をもって樺の木のところに遊びに行ったのでした。したておろしの紺の背広を着、赤がわのくつもキッキッと鳴ったのです。」
 それから、恒星と惑星のうんちくを語ります。樺の木は
「まあ、あたしいつか見たいわ。」
「それはりっぱですよ。ぼく水沢の天文台で見ましたがね」
「まあ、あたしも見たいわ」
「見せてあげましょう。ぼく実は望遠鏡をドイツのツアイスに注文してあるんです。」

 土神はそんな二人の様子を見て、せつながってばたばたします。
 「まるで頭から青い色のかなしみをあびてつったたなければなりませんでした。」と書いてあります。

 この悲しい2人の恋の行方は、土神が
「いきなりきつねを地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ4、5、へん踏みつけました。それからいきなりきつねの穴のなかにとびこんで行きました。なかはがらんとして暗く、ただ赤土がきれいにかためられているばかりでした。
 それから、ぐったり横になっているきつねの死がいのレーンコートのポケットに手を入れてみました。そのポケットのなかには茶いろな「かもがや」の穂が2本入っていました。土神はさっきからあいていた口をそのまま、まるでとほうもない声で泣きだしました。
 そのなみだは雨のようにきつねにふり、きつねはいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んでいたのです。」

 という、苦しい恋の残酷な結末です。
 でも、いろいろな季節や時間でそれぞれ違う森の描写は、ほんとにほんとに美しいのです。「おきなぐさ」「ひのきとひなげし」なんかもこういう描写がいっぱいですね。


2008年5月
さて、昨日のエゴの木のことですが、微量の毒性を利用して、魚とりにも使ったみたいです。宮沢賢治の「毒もみの好きな署長さん」の使ったのもエゴの木だと思いこんでいましたが、山椒の木でした!

 ちょっとご紹介します。

「さてこの国のだい1条の
「火薬を使って鳥をとってはなりません。
 毒もみをして魚をとってはなりません」
 というその毒もみというのは、何かといいますと、
 さんしょうの皮を春の午の日の闇夜にむいて、土用を2回かけて乾かし、うすでよくつく、その目方1貫目を、天気のいい日に、もみじの木を焼いてこしらえた木灰700匁とまぜる、それを袋に入れて水の中へ手でもみ出すことです。
 そうすると魚はみんな毒をのんで、口をあぶあぶやりながら、白い腹を上にしてうかびあがるのです。」

 これを取り締まるのは、署長さんの役目なのですが、新しい署長さんは、毒もみが好きで、なんと、裁判にかけられて死刑判決を受けます。

「いよいよ大きな曲がった刀で、首を落とされるとき、署長さんは笑っていいました。
「ああ、おもしろかった。おれはもう、毒もみのことときたら全く夢中なんだ。いよいよこんどは地獄で毒もみをやるかな」
 みんなはすっかり感服しました。」

 このお話はこれで終わりになっています。宮沢賢治ってアナーキーな人だったんでしょうか。

2009年4月
 井上ひさしの「わが蒸発始末記」の感想より
 彼は、18歳の夏から21歳の春まで、大学を休学して母のいる釜石にいたそうです。いろいろな仕事をしたそうですが、中でも本屋の店員は、配達するべき本を全部読まないと配達しなかったのが店主にばれて首になったとか。
 そのあと、釜石と遠野の間に国立療養所ができると聞き、職安に行ってそこに就職したのですがその理由は「そこならずっと本を読んでいられる」というもの。

 しかしそこでは看護婦さんの給料計算と麻雀と野球に明け暮れたそうです。
 翌年、花巻療養所で「岩手県国立療養所野球大会」があり、選手の井上ひさしも行きました。そして花巻国立療養所の玄関の住所表示を見てびっくりしたそうです。

「そこには、「花巻市下根子○○番地」とあったのだ。
(宮沢賢治のあの下根子とはここだったのか)
 わたしはあちこちに点在する松の疎林を眺めながら、心の中で大声をあげていた。
(賢治が毎日のように眺め暮らした下根子の風景を、いまおれが眺めている。なんという奇跡であろうか)
(この風景のどこかに羅須地人協会があるはずだ、この下根子のどこかからあのくらかけ山が見えるはずだ。「額はきざみその眼はうつろ/夜とあけがたに草を刈り/冬も手織の麻を着て/70年を数へた人」すなわち野の師父が、いまもそのへんを歩いているかもしれない。そして、賢治がイギリス海岸と名付けた北上川河原はこの近くだろうか)
 わたしは東に向かって歩きはじめ、しきりに口のなかで
(いかりのにがさまた青さ/4月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ)
 と、「春と修羅」の一節を呟いていた。19歳のにきびの青年はそのときとても涙もろくなっていたので、<風景はなみだにゆすれ>て歪んで見えていた。」

☆そんな若い日から再婚後までのいろいろな随筆がいっぱい入っていて、「お買い得!」なんて書いたら著者が嫌がるかしら?でも多分おもしろがってくれるかも。
 抱腹絶倒のエピソードもありますが、長くなるのでこの辺で。

2009年4月
 清水眞砂子さんの「そしてねずみ女房は星を見た」の感想
 宮沢賢治の「春と修羅」
 清水さんは
「私が詩のなかでも、とりわけおそれて近づけないでいた「春と修羅」にようやく一歩を踏み入れたのは、30にもなろうというころで、ああ、ここにすべてはあったのか、とふるえを覚えたものでした。「春と修羅」で、私は自分が賢治の生き方や思想と同時に、その表現に強く惹かれていることに気づきはじめました。

 賢治は一方で「まことのことばはここになく」とうたい、この世の深い闇に目をこらしながら、同時に赤子のような初々しさをもって、世界をみていた。それはまさに成熟というほかなく、これほどの成熟を人は二十代後半で手にするものなのかと息を呑みます。」

☆感性という言葉で片付けるのは好きではないんですが、清水眞砂子さんの感性ってすごいです!この中には13の子どもの文学が紹介されています。今日紹介した3つ以外は知らないものばかりです。日本の作家では、宮沢賢治のほかに長谷川摂子さんの「人形の旅立ち」というのもありました。
 作品ともども楽しみに読んでいきたいと思っています。



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