第7官界彷徨

第7官界彷徨

千葉なでしこ9条の会


9条世界会議@2008.5 幕張メッセ

2007年6月  発足 コンセプトは憲法9条を守るためのかわいい女たちの会
         代表S、ヨッチー 事務局 ローザ
          若葉平和と文化のつどいに参加(3名)
2008年4月  つつじまつり     
     5月  メーデーにてタペストリーお披露目
     5月  9条世界会議(幕張)に参加(7名)
     5月  アースデイ千葉に参加
2008年6月
 今日は地域の9条の会に行きました。そこにはまだ入っていないんですが、毎月学習会をしているそうです。「米軍によるイラク市民無差別殺戮を証言した海兵隊員」のDVDを見てみたくて参加しました。

 講師は荻野仁司さん。テレビ朝日の記者(カメラマン?)だった田保寿一さんとともに、今年3月にワシントンDCの記者クラブと、近くの大学で行われた50人の帰還兵の証言をビデオに撮って来た、市民活動家です。

 荻野さんは、坂崎幸之助を10歳若くして、髪は坂崎さんより短めの黒髪、というイメージの優しそうな方でしたが、平和への思いは確固たるものがあり、また、イラクやアメリカの現状や今後についても、すごくしっかりした分析力と見通しを持った方でした。
 司会の千葉卯京さんが「荻野さんは学者でもジャーナリストでもない、普通の市民です」と紹介していましたが、普通の市民が報道機関より以上の能力を持ってきたということに、大いに喜ぶ私でした!

 荻野さんは1960年に生まれ、政治的無関心無気力世代の方だったそうですが、イラクで人間の盾となった木村牧師が、イラクの子どもたちと約束したサッカーボールを届けに行くとき、2003年に同行。病院で劣化ウラン弾の被爆の実態を見てしまった。
 そして、戦後60年たって、まだ自国の被爆者の完全救済もできていないのに、新たな被爆者を作ることに加担している日本に対してもいきどおりを覚えたそうです。

 2005年、イラクの病院の先生が長崎に来た時に、その時の写真を持って会いに行き、子どもたちの安否を聞いたところ、2003年に病院で出会った子どもたちは、全員亡くなっていたそうです。

 そのとき、日本は被爆の体験を生かして、世界に平和を訴えてかかわって行くべきと、気がついたそうです。

 今年3月、Winter Soldier(かつては平和を願うベトナム帰還兵の会)が、50人の帰還兵の証言を聞く会を開催、そのとき、ジミーマッシーという海兵隊の帰還兵の自宅を訪ねて、証言をしてもらったもが、今回見せてもらったDVDです。

 ジミーは、アメリカ政府のプロパガンダによって、精神を病んでいるという宣伝をされている人だそうですが、詳しく、自分たちの行ったことを話してくれていました。

 人々は、9、11があり、翌年の3月20日に開戦と思っているが、ジミーは9、11の3週間後にはすでにイラクのファルージャに行っているそうです。
 彼の仕事は「橋を作る人」橋を壊して、ファルージャ総攻撃の前にファルージャが孤立するように工作していたのです。

 そして開戦、彼はイラク人の殺戮に加わり、選択肢は「狂う」か「合理化」する(機械的になる?)の2つしかなかった、といいます。
 市民はテロリストの可能性があると教えられ、ある距離まで近づくイラン人は、たとえ幼児でも殺さなければならなかったと。

 アメリカの若者は学校に行くために殆どが借金を背負っており、卒業しても不景気で就職口がない。海兵隊に入ることを勧められると、貧しい若者はとびつくのだそうです。
 ジミーは、昼間は気を紛らわせていられるが、夜になると殺したイラン人の顔が浮かんで来て逃げられない。
 子どもの頃に見た夢は楽しいものだったのに、今見るのは悪夢ばかり。
 もし、海兵隊に誘われたあの日に戻れたら、自分は躊躇なく別の道を行っただろう、と語っていました。

 仲間たちから「ガンホー」(神風特攻隊みたいなもの)と呼ばれていたジミーは、カルバラという町でホテルを接収した際、そのホテルのオーナーと友人になり、いろいろな米軍のしたひどいことを聞いた。
 ある日、押し寄せる人々の波が二つに分かれ、まん中に幼い子どもを抱いた若い父親が立っていた。「インシュリンがないと子どもが死んでしまう」という父親に、ジミーは医務官に電話をかけたが、イラン人に与えるインシュリンはないと言われた。
 ジミーはその子に「薬がないから死ね」と宣告しなければならなかった。

 カルバラでモーゼを見たジミーは反抗的態度を隠さなくなり、2005年、5月、本国に送還された。

 借金を返すために気軽に軍隊へ入る若者が多いが、人を殺してPTSDになるとわかっていたら、絶対軍隊へは入らなかった、とジミーは言う。

 イラク人の苦しみ、それと同じように危害を加える側のアメリカ兵も同じように苦しんでいる。ひとたび戦争を起こせば、その憎しみの連鎖は広く、長く広がっていく。

 大統領がオバマになっても、アメリカはイラクから手を引く事はないだろう、というのが、荻野さんの見方です。カリフォルニア州と同じくらいの広さのイラクに、アメリカは60の軍事基地を建設する予定だそうです。(沖縄化)
 そこは治外法権なので、戦争がはじまれば、アメリカはそこからよその国へ軍用機を飛ばして攻撃をしかけます。攻撃されたよその国からは、イラクへ向けて攻撃がされます。

 さて、この30時間の帰還兵の証言の時に、「デモクラシーナウ」(?)のキャスターが「9、11の時には、こぞって、すべての局が1週間の間、飛行機が突っ込む映像を流し続けた。これはメディアによって世論が作られ、政府のプロパガンダによって、18,9歳の若者が鼓舞されてイラクに出かけ、PTSDになって今苦しんでいる。
 もし、今日のこの証言を、米国のメディアが、一週間流し続ければ、戦争を止めさせることができる」
 と語ったそうです。
 残念ながらそういうことはなく、日本からの取材も田保さん、荻野さんを入れて4人だけだったそうです。

 田保寿一さんは、30時間に及ぶ証言、イラクでの取材、アメリカのピースウオークでの取材など、たくさんの映像を撮ってあるそうです。
 この証言も、まとめる予定だそうですが、反米の彼は大学時代にフランス語を取ったため、英語が苦手だそうで、翻訳が大変なんだそうです。

 イラクからの情報をニュースステーションなどに送っていた彼は、高遠菜穂子さんたちの事件の折り、国内世論に押されたテレビ朝日が、イラク情勢に対して及び腰になり、社内で浮いてしまって退職したのだとか。

 これからは田保さんのような、気骨と情熱のあるジャーナリストの出番ではないでしょうか?大いに期待したいものです。荻野仁司さんともども、これからのいろいろなことを日本にいる私たちに教えてもらいたいと思います。

2008年7月
 平和行進に参加
  炎暑の1日、今日は平和行進に参加して来ました。列の左のほう写真の緑色のタペストリーがなでしこ9条のです!
 集合場所に行ったら、やけに騒がしいので何かと思ったら、右翼の街宣車が3台ほどお出迎え。それから1キロくらいの間、こちらの先導車の前について、北朝鮮の核問題について述べていました。おおむね私たちと同じ考えなので、一緒に歩けばいいのにね、と言いつつ行進。
「アメリカの核ばかり追求しないで、北朝鮮の核も追求しろ」という意味のことを言っていました。
 今日の平和行進では、ローザは本コースを歩き、代表のヨッチーは、花見川の網の目コースを歩きました。花見川では、商店街を署名をもらいながら歩いたそうです。そこで、悦ちゃんが、一人で平和の仏像を作っている未知の女性と出会い、展覧会にきてくださいと誘われたそうです。
 平和行進といえば、永瀬清子さんの詩に、「畑仕事をしていたら、平和行進が通った、あとをついて町外れまで一緒に歩いた」というのがあって、これを日記に書いたときにKUMAさんが見つけて、初めてアクセスしてくれました。

 ところで、昨日の愛川欽也のパックインジャーナル、(夜のアド街の駅弁特集も見たけど)田岡俊次マイラブが、明日発売のアエラに書いたことを話していました。

 1ヶ月ほど前、房総はるか沖で、20人乗りの漁船が転覆したんですけど、風は10メートル、波は2メートルで、漁船が転覆するような状況ではなかった、ので、おかしいと思い調べたという話です。

 3人が救助され、4人?が遺体でみつかり、あとは行方不明。遺品のジャンパーを抱いて泣いていたおかあさんの姿がテレビに映っていました。

 この時、NHKでは専門家が「三角波」の怖さを語っていたとのことで、メディアは全て「三角波」が起きて急に転覆した、と決めつけた。
 でも、この専門家は田岡さんの質問に「三角波のメカニズムを聞かれたので答えただけ」と。

 この船、第58寿和丸で助かった人の証言では、「昼食後エンジンを止めて休憩していたところ、2回の衝撃があり、船はみるみるうちに転覆した」とのこと。
 6、5キロの場所に居た僚船は、レーダーに映らなくなったので、見に行ったら転覆していた、その状況では「当て逃げ」されたな、と思ったそうです。

 寿和丸はボートを引いていたが、助かった3人はそのボートに乗って助かった、それでは、三角波だとすると、ボートはなぜ大丈夫だったのか?
 また、現場から流れた多量の油の流れもおかしい。

 そして、田岡さんの推理では、潜水艦にぶつけられたとすると、全ての謎が開明できるんだそうです。

 潜水艦が他の船の存在を知るのは、エンジン音やスクリュー音、この場合、エンジンを切って停泊していた漁船の存在に気がつかない。
 そして潜望鏡かレーダーを上げた時が最初の衝撃で、あわてて潜水しようとすれば尾翼が当たる、それが2度目の衝撃。

 もし、潜水艦が当て逃げしたとすれば、と田岡さんが調べたそうです。この場所は佐世保、横須賀、からハワイに行く体験コース。
 日本の自衛隊の潜水艦は、該当するものがないが、アメリカの「ヘレナ」という潜水艦が横須賀で油圧系統の修理中ということがわかった。
 ふだんはまっすぐ佐世保に行く潜水艦だそうです。

 コメンテーターの皆さんは、
「NHKはじめ全てのメディアの放送が「三角波のせい」で終わってしまった。しかし、日本政府はアメリカ海軍にもきちんと問い合わせるべきではないか」と言っていました。
 番組では、数々の潜水艦事故のことを挙げていましたが、ハワイ沖のえひめ丸をはじめ、あちこちで起きていて、甑島でジョージワシントンの当て逃げで2人が亡くなったときも、当て逃げをしてグアムで修理中にバレたんだそうです。
 日本政府は、アメリカに聞いてみるくらいしてもいいんじゃないでしょうかね。

2008年8月
 原水禁世界大会に、代表のS、ヨッチーと、Nさんが参加します。同じ大会に参加にために来日した、ヨッチーの旧来の友人、インドの平和運動家のIさんと学生さん(学生会議の委員長の女子学生)のお二人をお迎えして、10日に交流会をもちますIさんはインド南部の水田地帯の大学の先生です。ヨッチーはIさんのお宅を一度訪問したことがあります。その時は村長さんも来て歓迎してくれたとか。

2010年3月
 今日は、「なでしこ9条」の皆さんと、幕張方面でお花見をしました。桜は3分咲きくらいでしょうか。まず、幕張で一番高いビル、昔の幕張プリンス、今は「東京ベイ幕張」という所の47階、中華の「太陽楼」さんで、ランチバイキング。
 数十品目が用意されていましたが、大体食べ慣れたものしか食べない保守的な私です。ギョーザ、シュウマイ、ビーフン、など。飲み物はプーアール茶、ジャスミン茶。安くて美味しかったです。何よりのお薦めは、眼下に広がる景色と遠景。
 お店の人が教えてくれたのは、東京スカイツリー。よく見えましたよー。やっぱり周辺の建物と比べるとすでにものすごく高いのが分かりました。またスカイツリーの成長を見に来たいと思いました。

 そののち、写真の「千葉市花の美術館」に行きました。庭園にはチューリップやポピーが沢山咲いていましたが、建物の中ではもうアジサイやガーベラがいっぱいで、きれい、きれいでした。
 ここでのお薦めは、モネの部屋。パリのオランジュリー美術館みたいに、モネの壁画ふう睡蓮があるのです。久しぶりに見ることができて感動でした。 

 そののち、珍しい所に行きました。それは、ゴミ消却施設に出来たスケートリンクと温水プール。スケートリンクなんて利用する人がいるのかしらと思っていたのに、オリンピックの影響や春休みのせいか、親子連れでいっぱい。芋を洗うような混雑。
 リンクの中にコーンで囲った場所があり、そこでは相当上手な子どもたちがスピンなどの練習をコーチに教わっていました。こういう所で次の世代が育っているのかも。

 前の市長が大散財した箱ものがいっぱいの市ですが、これもその一つかな、でも、作ってしまったものは仕方ないので是非ともたくさんの子どもたちが有効に利用してほしいと思いました。

 平和憲法を守ろうというなでしこさんたちが集まって、食べたり楽しんだりして、またファイト!の気持ちを新たにした一日でした。




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