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2023年02月14日(火)曇曇り空。北風が吹いて寒い。今回歩くのは、嘉永3年(1850年)板「麹町永田町外桜田絵図」のうち、現在の千代田区霞が関1~2丁目に当たる地区。09:15 西幸門前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第10回 】を歩き始める。切絵図の「大岡越前守」は西大平藩(現在の愛知県岡崎市)大岡家(譜代)上屋敷。跡地に「大岡越前守忠相(ただすけ)屋敷跡」解説板がある。大岡家は旗本だったが、忠相は8代将軍吉宗により江戸町奉行に登用され、その後寺社奉行を経て、最終的には寛延元年(1748年)1万石を領する大名になった。江戸時代を通じて、江戸町奉行から大名になったのは忠相だけである。切絵図の「上杉弾正大弼(だんじょうのたいひつ)」は米沢藩上杉家(外様)上屋敷。桜田門交差点の「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」解説板には、江戸時代初期に制作された「江戸図屏風」が描かれ、当時の藩邸とその周辺の様子を窺える。切絵図の「松平安芸守」は広島藩浅野家(外様)上屋敷、「松平美濃守」は福岡藩黒田家(外様)上屋敷。現在、広島藩上屋敷跡地は総務省と国土交通省、福岡藩上屋敷跡地は外務省の敷地になっている。外務省敷地の北側と東側の石垣は、かつての福岡藩上屋敷のもの。広島藩上屋敷と福岡藩上屋敷の間の坂道は「霞が関坂」。中世の頃、ここに奥州街道の関所「霞が関」が置かれていたともいわれる。福岡藩上屋敷南側の坂道は「潮見坂」。かつては眼下に日比谷入江を望むことができたため、この坂名が付けられたという。09:45 虎ノ門交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第10回 】はここで終わり。西幸門前交差点 → 虎ノ門交差点 : 2.1 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 23.2 km )
2023.02.14
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2023年07月22日(土)曇今日、気象庁から関東甲信の梅雨明けが発表された。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「飯田町駿河台小川町絵図」のうち、現在の千代田区神田神保町1~3丁目・一ツ橋2丁目・神田錦町1~3丁目に当たる地区。08:15 南堀留橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第23回 】を歩き始める。神田神保町1~3丁目。切絵図の日本橋川に「俎板橋(まないたばし)」が架かる。江戸時代初期からある橋名で、当初は俎のような木の板を渡しただけの橋だったことに由来するという説と、近くにあった台所町に由来するという説がある。現在の橋には「俎橋」のプレートが掲げてある。切絵図に「木下太七郎」とある。5代将軍徳川綱吉の侍講(君主に学問を講じること)を務めた朱子学者 木下順庵が拝領した屋敷で、太七郎はその子孫。順庵の門下は「木門(もくもん)」といわれ、6代将軍家宣・7代将軍家継を支えた新井白石などがいる。切絵図に「裏神保小路」とある辺りが、現在の神保町交差点。一筋南に「表神保小路」もある。神保の名前は、表神保小路の南側にある「神保伯耆守」の屋敷に由来する。神保家は旗本。元禄年間(1688~1704年)この地に950坪の敷地の使用を、幕府から許可されたという。一ツ橋2丁目。切絵図に「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」とある。洋学教育・外交文書の翻訳・外交折衝を担う機関。幕府により洋学所として計画され、安政3年(1856年)蕃書調所に改称して九段下に開設された。文久2年(1862年)当地へ移転してきた。神田錦町1~3丁目。切絵図に「板倉主計頭(かずえのかみ)」とあるのは、上野国(現在の群馬県)安中藩板倉家上屋敷。のちに同志社英学校を設立する新島襄は、天保14年(1843年)藩士の子としてこの屋敷の長屋で生まれた。上屋敷跡地に建つ学士会館の一角には「新嶋襄先生生誕之地」碑があり、近所の公園は「錦三・七五三太(しめた 新島の幼名)公園」と名付けられている。09:15 神田警察署前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第23回 】はここで終わり。南堀留橋 → 神田警察署前交差点 : 5.1 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 65.3 km )
2023.07.22
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2010年「歩きつなぎの旅」に費やした日数 26日( 584.5km)内訳 1.中国一周徒歩旅行 6日( 193.2km) 2.北陸縦断徒歩旅行 6日( 195.1km) 3.支線の旅 14日( 196.2km) 日帰り 14日 泊りがけ 12日 (宿 9泊) (友人宅 1泊)交通費・宿泊費の合計 119,090円
2010.12.31
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2006年05月04日(木)快晴04:30起床、外は濃い霧。アルファ米・登山用中華丼・インスタント味噌汁で朝食、中華丼はあんまり美味くない。05:35出発。国道7号線に出る、朝早いため交通量はまだ少ない。できるだけ7号線を避け旧道・脇道を使って、今日は青森県境まで歩く。長坂入口に「羽州街道」を示す国土交通省の標柱、7号線と旧街道の分岐に設置されているようだ。少し行くと長坂一里塚跡。07:00JR奥羽線早口駅でひと休み。08:00奥羽線下川沿駅、大学1年の夏に泊まった駅。その時は木造の古い駅舎だったが、現在は貨車を改造した黄色い駅舎。当時を思い起こさせるものを何ひとつ見つけることができない。霧が晴れてくる。10:00マックスバリュ釈迦内店で食料調達。昼食休憩のため近くの神社へ・・・と、目の前を鶏くらいの鳥が駆け抜ける、なんと雉が2羽。大館市郊外とは言え、こんな人里に野生の雉・・・。パンとフルーツジュース。釈迦内を過ぎると国道7号線を行くしかない、北へ向かう車線は渋滞してノロノロ運転。大きなザックを背負って歩く自分を、車内から物珍しげに眺めている・・・見世物になっているようで、なんかイヤな感じ。11:40奥羽線白沢駅でひと休み、矢立温泉まであと10km。7号線に戻ると渋滞は解消している。午後になって南風が強い。寺沢・長走・陣場の集落では国道を避けて集落の道を歩く、ここにも「羽州街道」の標柱。14:00矢立温泉に到着。旅の最後の1泊は温泉、かなり古い(と言うよりボロい)湯治宿。部屋の準備がまだなので、何はさておき温泉にはいる。鉄分で赤サビ色の湯、舐めると塩っぱい・・・疲れた足腰に効き目がありそう。この日の宿泊客は10人以上。夕食にはキリタンポのお椀も、1泊夕食付6000円。21:00就寝。下糠沢→矢立温泉:32.6km(東北一周徒歩旅行累計610.8km)
2006.05.04
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2013年01月20日(日)晴れたり曇ったり05:00 起床。おにぎりとインスタント味噌汁の朝食。06:15 「ビジネスホテル オルビス」を出発する。国道269号線を南へ。今日は冷え込みが緩んでいる。07:20 薩英戦争砲台跡、ひと休みする。解説板によると、石垣は当時のもの。それに引き替え、レプリカ砲身の台座がすごくチンケ。もっと「それらしく」作ればいいものを・・・・・。付近は公園になっていて、BBQサイトや東屋・トイレがある。十分野営できそう。ミカンがたわわに実る。08:10 登尾集落を歩いていると、看板が目に留まる。「南大隅町駅伝大会 第6中継所 登尾集会施設前 期日 平成25年1月20日」。今日、駅伝があるらしい。大川集落を過ぎる頃から、中継所に係員や選手の姿を見掛けるようになる。白バイも走っている。「駅伝、何時からですか」、係員に尋ねてみる。「10時に伊座敷スタートです」。今のペースで歩けば、ちょうど10時頃、伊座敷に着く。09:55 伊座敷のスーパー前、太鼓保存会がスタンバイしている。飲み物を調達して待っていると、花火の音がして間もなく、ランナー達が白バイに先導され駆け抜けて行く。消防署員の服を着た若い男が「どちらからですか」、「東京からです」、「歩いて?」。歩き旅の説明をする。道は国道269号線から県道68号線に変わる。マンホールのデザインは「佐多岬」。峠の西方トンネルに上る途中、切り通しのコンクリート崖を、サルが10匹ほど逃げて行く。トンネルを抜け、11:25 石の椅子と椰子の木だけのロードサイドパーク。パンとジュースで昼食休憩にする。晴れたり曇ったり、はっきりしない天気。12:45 大泊。無茶に急な峠を越え、佐多岬へ向かう。道路脇には椰子や蘇鉄が並び、南国ムードを盛り上げている。ここを通るのが北緯31度線。カイロ・ニューデリー・ニューオリンズ・シャンハイ・カラチと同緯度とのこと。同じ緯度でも気候はずいぶん異なるように思う。岬の駐車場には車が数台。トンネルを抜け遊歩道を進むと・・・・・、「関係者以外 立入禁止」の看板。無視して更に進むと、展望台とレストハウスの解体工事中で、岬の突端にある「佐多岬」の標柱までは行けなくなっている。14:15 釈然としないまま、引き返すしかない。15:00 今日の宿「民宿 内山」に到着。他に客はいないそうだ。高台にある宿の窓からは、田尻の海岸がよく見える。風呂を済ませ、部屋のコタツでのんびり。宿の夕食はボリューム満点、刺身が美味い。21:00 就寝。「民宿 内山」、2食付 6000円。根占川南→田尻:37.1km(九州一周徒歩旅行累計 666.8km)
2013.01.20
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2025年11月22日(土)快晴快晴。歩きめぐり日和。今回歩くのは、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」のうち、現在の新宿区戸山1~3丁目・西早稲田2~3丁目に当たる地区。07:25 東戸山小学校前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第96回 】を歩き始める。戸山1~3丁目。江戸時代、戸山一帯は尾張藩徳川家(61.95万石 御三家)の下屋敷で、「戸山荘」と呼ばれた。切絵図には「戸山 尾刕(州の異字体)殿」とある。明治維新後 跡地は陸軍用地として利用され、現在は戸山公園・戸山ハイツ・学習院女子大学・戸山高校などになっている。尾張藩下屋敷の時代には広大な池泉回遊式庭園が造られ、水戸藩徳川家(35万石 御三家)の小石川後楽園と並ぶ名園として知られた。池を掘った残土で造成された築山「玉円峰」が、現在も戸山公園に残っていて、「箱根山」(標高44.6m)と呼ばれている。西早稲田2~3丁目。神田川に架かる「面影橋」は、切絵図には「姿見橋」とある。橋名の由来については、戦国時代の武将の娘の於戸姫(おとひめ)が、数々の悲劇を嘆いて川に身を投げた時に詠んだ和歌から名付けられたなど、諸説ある。「甘泉園公園」を訪れる。安永3年(1774年)この地が清水徳川家(賄料10万石 御三卿)の下屋敷になり、回遊式の大名庭園が造られた。当時は茶の湯に適した湧水があり、これが園名の由来。切絵図には「清水殿」とある。明治時代には横浜正金銀行頭取の相馬永胤が邸地を取得、邸宅と庭園を構えた。その後、早稲田大学の付属施設を経て、現在は公園として開放されている。甘泉園公園に隣接する「水稲荷神社」を訪れる。創建年代は不詳。元禄15年(1702年)神木の根元から霊水が湧き出し、これが眼病に効くとして評判になったことから、水稲荷神社と改名した。安永8年(1779年)には境内に、古墳を利用した富士塚「高田富士」が築かれた。昭和38年(1963年)早稲田大学との土地交換により、水稲荷神社は旧社地から500mほど北西の現在地へ遷座。この際 新しい境内に富士塚が復元されたが、別当寺「宝泉寺」は旧地に残った。切絵図には旧社地に「水稲荷社」「高田冨士」「別當 宝泉院」とある。切絵図に「高田馬場」とあり、跡地の一隅に「高田馬場跡」解説板がある。寛永13年(1636年)に造られた馬場は、旗本たちの馬術の練習場だった。元禄7年(1694年)堀部武庸(たけつね、安兵衛)が、当地で行われた決闘における助太刀で活躍したことが評判となり、播磨国赤穂藩浅野家(5.3万石 外様)に仕官した。水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」がある。「穴八幡宮」を訪れる。社伝によると、康平5年(1062年)源義家が奥州平定の帰途に八幡神を祀ったのが始まりとされる。寛永18年(1641年)宮守の庵を造る際、境内に横穴が見つかり中から金銅の御神像が現れたことから、以降 穴八幡宮と呼ばれるようになった。3代将軍徳川家光による崇敬が篤く、穴八幡宮は江戸城北の総鎮護に、慶安2年(1649年)には将軍家の祈願所になった。切絵図には「穴八幡」「別當 放生寺」とある。09:30 馬場下町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第96回 】はここで終わり。東戸山小学校前 → 馬場下町交差点 : 8.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 366.9 km )
2025.11.22
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2011年08月14日(日)曇時々晴04:40 起床、おにぎりとジュースで朝食。05:35 「ペンション 風の谷」を出発する。今日も国道279号線を北上する。湿度が高く風もない。横浜の町をはずれて人家がなくなり周りが樹林になると、虻が数匹まとわりついてくる。ヌンチャクのようにタオルを振り回して追い払っても、Tシャツの上から刺されてしまう。こいつらには毎夏ひどい目に遭わされている。昨日も似たような場所を歩いたが、虻の襲来はなかった。襲ってきそうな場所は分かるけれど、出ないこともある。時間帯や気象条件によって、出たり出なかったりするのだろうか。未だにその法則性をつかめていない。集落が近くなると、すーっといなくなる。06:40 有畑を過ぎる。人家が途絶えると、また虻の襲来。車を運転しているひとの目には、タオルを振り回して歩く男の姿がどのように映るのだろう・・・・・。あまり考えたくない。07:55 中野沢。天気予報で言っていた通り、上空が雲に覆われてくる。日差しに焼かれながら歩かなくて済むし、日陰を探さずに休憩もできる。昨日までの2日間の晴天で、すでに腕が赤く日焼けしている。金谷沢付近、国道の反対側を6~7台の自転車旅行の列が追い越してゆく。自転車は徒歩の3倍、バイクは自転車の3倍の距離を1日に移動できる。けれど達成感という物差しで計ったなら、自転車は徒歩の3分の1、バイクは自転車の3分の1だろうと思う。10:10 大曲のコンビニで昼食を調達。ここで279号線を離脱し、近道の農道に入る。5kmほど直線的な道が続く。倉庫の軒下でサンドイッチとポカリスエットの昼食休憩。セイタカアワダチソウの向こうに恐山がそびえる。車の来ないのどかな農道が終わり、11:50 新田名部川を渡る。土手のベンチに寝転んで休憩。むつ市郊外をかすめ、国道279号線に復帰する。13:10 椛山を歩いていると、巨大なガラスケースに納まった五重塔の模型に出くわす。2階建の建物と同じ高さがある。ウン百万円はかかっていそう。趣味で作ったものもここまでくると、ひとに見せたくなるらしい。コンビニで食料・飲料を調達、14:35 その隣にある今日の宿「民宿 汽船荘」に到着する。女将さんは「お風呂がまだぬるいけど」と言うが、そのほうが体をクールダウンできていい。入浴後、洗濯を済ませる。夏の徒歩旅行では、夕方宿に頼んでカモノハシ水筒2本(ポカリスエット1Lと水1L)を冷凍してもらい、翌朝この氷2Lとペットボトルの水1Lをザックに入れて出発する。晴れた日だと3Lをすべて飲んでしまうのだが、今日はポカリスエットがまだ大分融け残っている。夕食は幕の内弁当と稲荷寿司、20:00 就寝。夜中、雷鳴と稲光。外は雨になる。「民宿 汽船荘」、素泊3500円。横浜→川代:35.8km(北海道一周徒歩旅行累計101.8km)
2011.08.14
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2020年09月20日(日)船首部分に手摺を取り付ける。手摺は 1mm x 2mm のウォルナット材を船首の形状に曲げ、4枚貼り合わせて製作。フォクスルデッキ(船首楼甲板)にタンガニーカ材を張る。索止め・ハッチ・梯子等の艤装を、フォクスルデッキに取り付ける。
2020.09.20
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2024年11月03日(日)快晴文化の日。秋晴れの特異日なので、快晴である。今回歩くのは、嘉永7年(1857年)板「目黒白金図」のうち、現在の港区白金1~2丁目に当たる地区。07:30 清正公前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第64回 】を歩き始める。切絵図に「高野寺」とある。江戸時代まで高野山には学侶方・行人方・聖方の三派があり、元禄9年(1696年)行人方(寺院の俗務に従事した人々)江戸在番所触頭(ふれがしら、行人方を統轄する役目を担う)の白金高野寺として、浅草から白金台町(現在の港区白金)へ移転してきた。白金高野寺は区画整理のため、1920年に現在の杉並区へ移転した。地価の高い跡地には、濃い緑に囲まれて三菱商事の迎賓施設 白金ゲストハウスが建っている。9年前の2015年に訪れた時は竹中工務店の迎賓施設 白金竹友クラブだった。服部時計店創業者の邸宅「旧服部金太郎邸(ハットリハウス)」を訪れる。切絵図には「上杉弾正少弼(しょうひつ)」とあり、出羽国米沢藩上杉家(外様)の下屋敷だった。初代藩主の上杉景勝は上杉謙信の養子。米沢藩は明治維新まで上杉家が13代続いた。土地と建物は 2014年にシンガポールの不動産会社が購入、2023年 大京に売却された。「建築計画のお知らせ」は出ていない。切絵図に「織田安芸守」とあるのは、大和国芝村藩織田家(外様)の上屋敷。芝村藩織田家は、信長の末弟長益(有楽)の四男長政を藩祖とする。織田家の大名は4家あるが、いずれも小藩だった(大和国芝村藩1万石、丹波国柏原藩2万石、大和国柳本藩1万石、出羽国天童藩2万石)。芝村藩上屋敷の跡地は、宇和島藩主だった伊達侯爵家が 1911年に取得して屋敷を構えた。戦後 東京都の白金職員住宅が建てられたが、2015年に訪れた時は広大な空地になっていた。2028年 この空き地に都立新国際高校が開校する計画で、今年9月から工事が始まっている。「三光坂」を下る。切絵図には「三鈷サカ」とある。坂下の専心寺(切絵図には「センシンジ」とある)にかつてあった三葉の松が、仏具の三鈷に似ていたことから三鈷(さんこ)坂と呼ばれるようになり、それが変化して三光坂になったというのが、坂名の由来として有力という。切絵図にある「立行寺(りゅうぎょうじ)」を訪れる。旗本の大久保忠教(ただたか、通称 彦左衛門尉)が 寛永7年(1630年)麻布市兵衛町(現在の港区六本木)に創建。寛文8年(1668年)火災に遭ったため、現在地へ移転した。別名を大久保寺という。境内に忠教の墓がある。「松秀寺」を訪れる。切絵図には「日限地蔵尊 松秀寺 遊行寺ト云」とある。日限(ひぎり)地蔵尊とは「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。秘仏なので非公開らしい。遊行寺とあるのは、時宗(松秀寺は時宗の寺院)の総本山遊行寺(神奈川県藤沢市)のことと考えられる。08:20 四之橋(しのはし) 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第64回 】はここで終わり。清正公前交差点 → 四之橋 : 3.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 225.9 km )
2024.11.03
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