全1716件 (1716件中 1-50件目)

2026年08月01日(土)晴今日の東京の最高気温は36.5℃ で、4日連続の猛暑日。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」と安政4年(1857年)板「東都小石川絵図」のうち、現在の文京区大塚1~2丁目・小日向4丁目に当たる地区。08:00 護国寺前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第116回 】を歩き始める。大塚1~2丁目。切絵図に「安藤長門守」とあるのは、陸奥国磐城平藩安藤家(5万石 譜代)の下屋敷。安藤家は藩主の不行跡により、宝暦6年(1756年)美濃国加納藩(6.5万石 )から減封され、磐城平藩への転封を命じられた。磐城平藩安藤家5代藩主信正は、安政7年(1860年)老中に就任して公武合体を主導したが、文久2年(1862年)坂下門外の変(尊王攘夷派の水戸浪士による襲撃事件)に遭って負傷。老中を罷免され、5万石から3万石へ減封を命じられた。下屋敷跡地には現在、お茶の水女子大学・跡見学園女子大学・筑波大学付属高校などがある。小日向4丁目。「茗荷坂」を下る。かつてこの近辺で茗荷の栽培が盛んだったことに、坂名は由来する。坂の途中東側、慶長7年(1602年)創建の「林泉寺」を訪れる。切絵図には「林泉寺 シハラレ地蔵」とある。願掛けの際に地蔵を縄で縛り、叶うと解くという「しばられ地蔵」で知られる。茗荷坂下の東側、切絵図にある「深光寺(じんこうじ)」を訪れる。寛永16年(1639年)創建。ここには「南総里見八犬伝」などで知られる、江戸時代後期の戯作者滝沢馬琴の墓がある。嘉永元年(1848年)82歳で死去。墓石には「著作堂隠誉蓑笠居士」とある。「釈迦坂」を上る。坂の東側に徳雲寺があり、釈迦の石像が見えたことに、坂名は由来する。切絵図に「徳雲寺」とある。寛永7年(1630年)創建。かつて境内に椎の大木があったため、元禄年間(1688~1704年)5代将軍徳川綱吉が御成りになった際、椎木寺と名付けたと伝わる。「藤坂」を下る。坂下南側の傳明寺(通称 藤寺)に、坂名は由来する。切絵図には「傳明寺 藤寺ト云」とある。寛永元年(1624年)創建。慶安3年(1650年)3代将軍徳川家光が鷹狩りの帰りにこの地を訪れた際、庭一面の藤を見て藤寺と呼んだことが、通称の由来と伝わる。08:45 茗台中学校 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第116回 】はここで終わり。Tシャツは汗でぐっしょり。護国寺前 → 茗台中学校 : 3.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 444.0 km )
2026.08.01
コメント(0)

2026年07月18日(土)曇曇り空。東京では梅雨がまだ明けていない。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の文京区大塚4~5丁目に当たる地区。07:40 護国寺西交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第115回 】を歩き始める。大塚公園にある「住好稲荷社」を訪れる。江戸時代、この地には伊勢国桑名藩松平家(11.3万石 親藩)の下屋敷があり、その邸内社が稲荷社の起源と伝わる。桑名藩下屋敷が、切絵図には「松平越中守」とある。下屋敷跡に残っていた社は荒廃していたが、明治43年(1910年)地元住民によって再興された。切絵図に「本傳寺」「波切不動 通玄院」とある。本傳寺の創建は元和年間(1615~24年)とされる。本傳寺の境内にある「波切不動堂」は、かつては少し離れた通玄院(本傳寺の塔頭、現在の大塚3丁目交差点付近にあったが、明治時代に本傳寺へ併合)と同じ敷地にあったが、明治時代末から大正時代頃に現在地へ移転した。通玄院は波切不動の別当寺だった。切絵図にある「富士見坂」を下り、護国寺へ向かう。かつて坂上から富士山がよく見えたことに、坂名は由来する。「護国寺」は、生母である桂昌院の発願を受けた5代将軍徳川綱吉により、元和元年(1681年)に建立された。切絵図には「神霊(齢の誤字)山 護国寺」とある。護国寺には江戸時代の建造物が数多く残っている。元禄10年(1697年)に建立された「観音堂(本堂)」、元禄4年(1691年)に建立された「薬師堂」、元禄14年(1701年)に建立された「大師堂」、江戸時代中期に建造された「仁王門」などがある。護国寺の東隣り、切絵図に「筑波山 護持院」とある。元禄元年(1688年)5代将軍綱吉が神田橋門外(現在の千代田区神田錦町)に建立。享保2年(1717年)に起きた火災によって焼失したため、護国寺の隣りに移転した。明治維新後、護持院は廃仏毀釈により廃寺。明治6年(1688年)跡地は皇族専用の墓所「豊島岡(としまがおか)墓地」となった。08:35 護国寺前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第115回 】はここで終わり。護国寺西交差点 → 護国寺前 : 4.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 440.7 km )
2026.07.18
コメント(0)

2026年07月04日(土)曇東京では梅雨空が続いている。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の豊島区南池袋2~4丁目・雑司が谷1丁目に当たる地区。07:45 大鳥神社 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第114回 】を歩き始める。「法明寺」を訪れる。弘仁元年(810年)威光寺として創建、正和元年(1312年)法明寺に改称したとされる。切絵図には「東養坊 法明寺」とある。東養坊は法明寺の塔頭だったが、大行院と改称した後、法明寺に合併された。梵鐘は享保17年(1732年)に鋳造されたもの。鬼子母神堂(豊島区雑司が谷)は法明寺の境外堂である。切絵図にある「本立寺(ほんりゅうじ)」を訪れる。元和4年(1618年)創建。境内に吉原の遊女6代目高尾太夫の墓所がある。播磨国姫路藩(15万石 譜代)の藩主榊原政岑(まさみね)が、高尾太夫を身請けするなど、倹約令を無視する行動を取ったことから、8代将軍徳川吉宗の怒りを買い、寛保元年(1741年)榊原家は越後国高田藩(15万石)への懲罰的な転封を命じられた。「雑司ヶ谷霊園」を訪れる。この辺りには享保4年(1719年)以降、将軍家の鷹狩りに使う鷹の飼育・訓練施設「御鷹部屋」と、その運営にあたる鷹匠や役人の拝領屋敷「御用屋敷」があった。切絵図には「御鷹部屋 御用屋敷」とある。明治7年(1874年)跡地には東京府によって共同埋葬墓地が開設された。「清立院」を訪れる。寛喜年間(1229~32年)頃に清龍寺として創建されたと伝わり、延宝年間(1673~81年)清立院に改称した。切絵図には「清龍寺 三嶽 カサモリイナリ」とある。三嶽は山号の御嶽山のこと。石段脇に「かさもり 薬王菩薩安置 清立院」と刻まれた石標がある。境内には瘡守薬王菩薩を祀る社があり、皮膚病に御利益があるとされる。「寶城寺(ほうじょうじ)」を訪れる。天正年間(1573~92年)創建。元禄15年(1702年)現在地に移転した。切絵図には「寶成(城の誤字)寺 雨コイ日蓮」とある。門柱脇に「祈雨日蓮大菩薩」と刻まれた石標があり、雨乞いの寺として信仰されたという。09:00 護国寺西交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第114回 】はここで終わり。大鳥神社 → 護国寺西交差点 : 5.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 436.7 km )
2026.07.04
コメント(0)

2026年06月13日(土)晴東京では7日に梅雨入りしたが、今日は中休み。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の豊島区高田1~2丁目・雑司が谷2~3丁目に当たる地区。07:55 肥後細川庭園前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第113回 】を歩き始める。高田1~2丁目。「氷川神社」を訪れる。社伝によると、貞観年間(859~877年)の創建といい、在原業平(825~880年)も参拝したと伝わる。旧下高田村(現在の豊島区高田・雑司が谷・目白付近)の鎮守として信仰を集めていた。切絵図には「氷川社」とある。切絵図にある「南蔵院」を訪れる。室町時代初期の創建と伝わる。3代将軍徳川家光が鷹狩りの際、しばしば休憩所としてを利用したという。また、初代三遊亭圓朝(1839~1990年)により創作された「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。「日無坂」を上る。樹木が生い茂って日光も差さず、昼でも薄暗い坂道だったことに、坂名は由来する。切絵図には「ヒナシサカ」とあり、坂の東側には武蔵国岩槻藩大岡家(2.3万石 譜代)下屋敷、西側には常陸国宍戸藩松平家(1万石 親藩)下屋敷があった。切絵図にある「金乗院」を訪れる。創建は天正年間(1573~92年)とされる。江戸五色不動の目白不動明王が祀られているが、これは昭和20年(1945年)に新長谷寺(しんちょうこくじ、現在の文京区関口にあった)が戦災に遭って廃寺となり、金乗院へ移されたものである。雑司が谷2~3丁目。法明寺(豊島区南池袋)の飛地境内にある「鬼子母神堂」を訪れる。切絵図には「鬼子母神」とある。永禄4年(1561年)に清土(せいど、現在の文京区目白台)で鬼子母神像が掘り出され、天正6年(1578年)現在地に像を祀る草堂が建立されたという。鬼子母神堂の本殿は、寛文4年(1664年)安芸国広島藩(42.6万石 外様)2代藩主浅野光晟(みつあきら)の正室自昌院の寄進により建立されたもの。08:55 大鳥神社 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第113回 】はここで終わり。肥後細川庭園前 → 大鳥神社 : 4.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 430.9 km )
2026.06.13
コメント(0)

2026年06月06日(土)曇予報によると来週の東京では、曇りや雨が続くらしい。梅雨入りが近い。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の文京区目白台1~2丁目に当たる地区。08:00 胸突坂下 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第112回 】を歩き始める。胸突坂の西側、「水神神社」を訪れる。創建年代は不詳。神田上水の関口大洗堰を守護するため祀られた。切絵図には「八幡宮 水神社」とあり、かつては椿山八幡宮と水神神社の2社があったが、現在は水神神社だけが祀られている。切絵図に「細川越中守」とあるのは、肥後国熊本藩細川家(54万石 外様)の抱屋敷と下屋敷。寛永9年(1632年)加藤家2代藩主忠広(初代藩主清正の3男)が改易となり、細川忠利(忠興の3男)が熊本へ入封。廃藩置県まで12代に渡り細川家が熊本藩を治めた。切絵図の細川屋敷前に「鶴 亀」とあるのは、2株の老松(鶴の松・亀の松)。一帯の旧町名「高田老松町」は、この松に由来する。明治15年(1882年)細川侯爵家は抱屋敷跡地に本邸を構えた。現在は肥後細川庭園・和敬塾(旧細川侯爵邸がある)・永青文庫(細川家伝来の文化財を収蔵展示)などになっている。目白台運動公園がある辺りには、江戸時代、播磨国安志藩(あんじはん)小笠原家(1万石 譜代)の下屋敷があった。切絵図には「小笠原信濃守」とある。安志藩は享保元年(1617年)の立藩から廃藩置県まで、7代に渡り小笠原家が治めた。「清土(せいど)鬼子母神堂」を訪れる。雑司ヶ谷(豊島区)の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像は、永禄4年(1561年)にこの地で掘り出され、境内にある「星の井」という三角形の井戸で清められたと伝わる。切絵図には「鬼子母神出ケン井」とある。「清戸坂(きよとざか)」を上る。中清戸(現在の清瀬市)に御鷹場があり、将軍が鷹狩りに通う道が造られた。これが清戸道(現在の目白通り)で、護国寺から清戸道へ上る坂というのが、坂名の由来とされる。切絵図に「雑司ヶ谷清土村百姓町」とある。「幽霊坂」を上る。かつて坂の西側に本住寺があり、坂道から寺の墓地が見えたことに、坂名は由来するという。切絵図に「ユウレイサカ」「本住寺」とある。江戸時代、坂の東側には旗本屋敷が建ち並んでいたが、明治34年(1901年)その跡地に日本女子大学が開学した。切絵図に「大岡主膳正(しゅぜんのかみ)」とあるのは、武蔵国岩槻藩大岡家(2.3万石 譜代)の下屋敷。宝暦6年(1756年)大岡家が岩槻へ入封。廃藩置県まで8代に渡り大岡家が岩槻藩を治めた。跡地には日本女子大学附属豊明小学校などがある。「豊川稲荷神社」は岩槻藩大岡家下屋敷の邸内社が起源と伝わる。08:50 肥後細川庭園前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第112回 】はここで終わり。胸突坂下 → 肥後細川庭園前 : 3.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 426.1 km )
2026.06.06
コメント(0)

2026年05月23日(土)曇曇り空。今朝の東京の最低気温は12℃で、肌寒い。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の文京区関口2丁目に当たる地区。07:45 椿山荘前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第111回 】を歩き始める。椿山荘(ちんざんそう)がある場所は、江戸時代、上総国久留里藩黒田家(3万石 譜代)の下屋敷だった。初代藩主直純が上野国沼田から久留里へ入封したのは寛保2年(1742年)のこと。以降、廃藩置県まで9代に渡り黒田家が久留里を治めた。切絵図には「黒田豊前守」とある。明治11年(1878年)山県有朋が久留里藩下屋敷を購入、椿山荘と命名して趣味の作庭を行った。この地は南北朝時代から椿が多く自生し、椿山(つばきやま)と呼ばれる景勝地だった。大正7年(1918年)椿山荘は藤田財閥の総帥藤田平太郎に譲渡され、戦後、藤田興業の所有となった。目白坂を下る。切絵図に「目白坂」「目白不動 別當 新長谷寺」とある。この地には、大和の長谷寺(はせでら)の秀算僧正によって元和4年(1618年)に再興された新長谷寺(しんちょうこくじ)があった。寛永年間(1624~44年)3代将軍徳川家光が新長谷寺の本尊の不動明王像に目白不動(五色不動のひとつ)の号を授けたことに、目白の地名は由来する。昭和20年(1945年)新長谷寺は戦災に遭って廃寺となり、本尊の目白不動は金乗院(現在の豊島区高田)に移された。目白坂の途中北側、「正八幡(しょうはちまん)神社」を訪れる。切絵図には「八幡宮」とある。創建年代は不詳。関口台の鎮守として祀られている。神田川沿いの遊歩道を歩く。江戸川公園の辺りに、かつて「神田上水取水口大洗堰」があった。江戸時代、神田上水(江戸市中へ給水する上水道)へ分水するため、神田川の水位を上げる堰が設けられた。切絵図にその堰が描かれている(上の流れが神田上水、下の流れが神田川)。胸突坂下の東側に「関口芭蕉庵」がある。切絵図には「水神 別當」とある。延宝5年(1677年)から延宝8年(1680年)まで、松尾芭蕉は神田上水の改修工事に携わり、この地にあった水番屋に住んでいたと伝わる。後に芭蕉を慕う人達が庵を建てたのが、関口芭蕉庵の始まりとされる。胸突坂の途中東側に「蕉雨園」がある。切絵図では「松平丹後守」と5人の武家の名前が記されている。松平丹後守とあるのは、駿河国小島藩松平家(1万石 譜代)下屋敷。明治30年(1897年)に田中光顕(後に宮内大臣・伯爵)が当地に建てた邸宅が、蕉雨園である。現在は講談社が所有している。08:15 胸突坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第111回 】はここで終わり。椿山荘前 → 胸突坂上 : 1.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 422.9 km )
2026.05.23
コメント(0)

2026年05月16日(土)晴晴天。日差しは夏のよう。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の文京区目白台3丁目・関口3丁目に当たる地区。08:05 護国寺南交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第110回 】を歩き始める。目白台3丁目。切絵図に「松平出羽守」とあるのは、出雲国松江藩松平家(18.6万石 親藩)下屋敷。寛永15年(1638年)松平直政が初代藩主に就いた。直政の祖父は徳川家康、2代将軍秀忠は叔父、3代将軍家光は従弟。松平家は廃藩置県まで松江藩を治めた。「腰掛稲荷神社」を訪れる。切絵図には「コシカケイナリ」とある。3代将軍徳川家光が鷹狩りに訪れた際、この地で切株に腰掛けて休憩、傍らの小祠を拝したと伝わる。近くに「弦巻稲荷神社」があり、切絵図に「子育立頼淵イナリ」とあるが、これらが小祠と関係があるのかは不明。「鉄砲坂」を下る。目白台から音羽谷へ下る急坂。江戸時代、崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)があったことに、坂名は由来する。切絵図には「鉄炮サカ」「的場」とある。関口3丁目。鉄砲坂の南、切絵図に「斉藤伊豆守」とあるのは、旗本斎藤利時(家禄 5000石)の屋敷。明治時代、跡地に鳥尾小弥太子爵(長州藩出身 陸軍中将)が屋敷を構えた。戦後 マレーシア大使館を経て、現在は関口台公園として開放されている。切絵図に「松平大炊頭(おおいのかみ)」とあるのは、常陸国宍戸藩松平家(1万石 親藩)上屋敷。天和2年(1682年)水戸藩(35万石 御三家)2代藩主徳川光圀が、弟の松平頼雄に1万石を分与して宍戸藩を立藩させた。宍戸藩9代藩主頼徳は、天狗党の乱の鎮圧失敗の責任を追及され、元治元年(1864年)切腹を命じられ、藩は改易された。現在、跡地には東京カテドラル聖マリア大聖堂が建っている。08:45 椿山荘前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第110回 】はここで終わり。護国寺南交差点 → 椿山荘前 : 2.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 421.0 km )
2026.05.16
コメント(0)

2026年05月02日(土)快晴快晴。予報によると、今日の東京の最高気温は28℃まで上がるらしい。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」のうち、現在の文京区小日向2~3丁目・音羽1~2丁目に当たる地区。07:50 江戸川橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第109回 】を歩き始める。神田川に架かる「江戸川橋」を渡る。かつて神田川の中流域(関口大洗堰~飯田橋付近)が江戸川と呼ばれていたことに、橋名は由来する。切絵図にも「江戸川橋」とあり、南側を流れるのが神田川(江戸川)、北側を流れるのが神田上水。音羽の北に位置する護国寺は、元和元年(1681年)5代将軍徳川綱吉が建立したもので、のちに将軍家の祈願寺となった。江戸川橋から真っ直ぐ護国寺へ続く道(現在の音羽通り)は、将軍御成道として整備された。音羽の地名は、桂昌院(綱吉の生母)付きの奥女中音羽に護国寺の門前町が与えられたことに由来する。「今宮神社」を訪れる。元禄10年(1697年)桂昌院の発願により、京都の今宮神社の分霊を勧請、護国寺内に創建された。明治維新後の神仏分離により、現在地へ遷座。元々この地には田中八幡という神社があったが、別の場所へ遷座した。切絵図には「田中八幡 別當 西蔵院」とある。今宮神社の脇、切絵図にある「八幡坂」を上る。坂名は田中八幡に由来する。切絵図の八幡坂上に「御賄組(おまかないぐみ)」とあるのは、江戸城内の台所で扱う食料品や日用品の供給を担当する賄方の御家人が拝領した屋敷地。切絵図と現在の地図と比べて見ると、往時の短冊形の地割りがそのまま残っているのがわかる。切絵図にある「大日坂」を下る。坂の途中の「妙足院」に、かつて大日堂があったことに坂名は由来する。切絵図には「明息寺 大日如来」とある。安政4年(1857年)板「東都小石川絵図」に「ハツトリサカ」とある「服部坂」を上る。かつて坂上に服部権太夫の屋敷があったことに、坂名は由来する。服部家は家禄300石の旗本。切絵図にも「服部権太夫」とある。「小日向神社」を訪れる。明治2年(1869年)服部権太夫の屋敷跡地に、田中八幡(今宮神社の遷座により移転)と氷川神社(日輪寺の蓮華山から移転)を合祀して建立された。田中八幡は貞観3年(861年)創建、氷川神社は天慶3年(940年)創建とされる。切絵図に「戸田淡路守」とあるのは、美濃国・三河国大垣新田藩戸田家(1万石 譜代)下屋敷。大垣新田藩は美濃国大垣藩(10万石 譜代)の支藩だった。現在、下屋敷跡地には拓殖大学文京キャンパスがある。「鼠坂」を下る。切絵図には「子(ネ)ツミサカ」とある。坂名の由来については諸説あり、狭くて急なのでネズミしか通れないような坂だからという説が広く知られる。08:45 護国寺南交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第109回 】はここで終わり。江戸川橋交差点 → 護国寺南交差点 : 4.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 418.2 km )
2026.05.02
コメント(0)

2026年04月15日(水)晴れたり曇ったり04:15 起床。パンとジュースの朝食。05:15 「鹿嶋シティホテル」を出発する。曇り空。県道18号線を30分ほど歩き、国道124号線に出て南へ向かう。今日はほぼ1日中、この124号線を歩くことになる。国道124号線は鹿島臨海工業地帯にアクセスする道路なので、道幅が広く、大型車の通行が多い。歩道も十分な広さがある。06:15 鹿嶋市から神栖(かみす)市に入る。神栖市は県庁所在地でもない地方都市なのに、国道沿いに巨大なホテルが何棟も建っている。そんな中で、昔ながらの旅館の広告看板が目を引く。調べてみると、「ビジネス旅館 扇屋」は2食付 和室6畳 1人 8250円。「おふくろの味 大勝旅館」は営業しているのか不明。「旅館 菊屋」も営業しているのか不明。巨大ホテルに客を奪われて、旅館は苦戦している模様。09:45 コンビニで飲料を調達。国道沿いに「鈴嘉(すずか)旅館」の広告看板がある。09:50 太田南。ここで国道124号線を離れ、旧道の国道124号線に入る。旧道は、かつてこれが国道だったのかと思うような長閑な道。クルマはたまにしか通らない。日差しが強く、日陰を選んで歩く。先ほどの看板にあった鈴嘉旅館の近くを通る。調べてみると、創業が明治15年。平日素泊 シングル 6000円、平日2食付 シングル 9500円から。周りに何もない。利根川で釣りをする人が泊まるのだろうか。自分の旅のスタイルでは、縁がなさそう。11:00 パンとジュースで昼食休憩。12:05 仲新田。国道124号線に復帰する。13:50 利根川河口に架かる「銚子大橋」を渡る。全長 1209m。 歩道は片側(東側)だけ。橋の途中に茨城・千葉の県境がある。14:15 今回の旅の終点 JR総武線 銚子駅に到着する。2泊3日で108.3km 。14:57 発の電車に乗り、四街道で乗り換え、17:30 自宅に帰り着く。運賃 2090円。足の裏と甲が「大破」。回復には時間が掛かりそう。日焼けも予想以上。鹿嶋市宮中 → 銚子駅 : 36.0 km( 茨城県南東部~千葉県東部累計 108.3 km ) ( 東日本支線の旅累計 1357.8 km )
2026.04.15
コメント(0)

2026年04月14日(火)曇のち晴04:30 起床。パンとジュースの朝食。「さわや旅館」を発つ。06:14 大洗駅発の鹿島臨海鉄道に乗り、06:26 鹿島旭駅で下車。運賃 420円。06:30 昨日の続きを歩き始める。県道114号線に出て南へ。昨日とは逆、北寄りの追い風が吹いている。地図には県道114号線に「メロンロード」とある。茨城県はメロンの生産日本一。旬は5~6月らしい。道の両側に畑が広がっているが、メロンが実っている畑は見当たらない。露地栽培ではなく、ハウス栽培なのだろうか。露地では盗難に遭ってしまうのかも。起伏のある地形に従い、県道114号線はアップダウンを繰り返す。県道18号線へ進んでもアップダウンが続いたが、北浦湖岸に出ると平坦に変わる。北浦は鹿島灘と霞ケ浦の間に位置し、南北に細長く伸びる湖。08:35 鹿島臨海鉄道の高架を1輌編成が行く。県道18号線には十分な幅の歩道が確保されているが、人がほとんど通らないと思われる区間は、雑草が伸び放題になっている。今は枯草が多いれけど、これから新緑が繁ってきたら、通行が困難になりそう。雲が晴れて、日射しが強くなり始める。日焼けが心配。10:15 高台から「鹿行(ろっこう)大橋」が見える。北浦に架かる橋で、平成の大合併以前に存在した鹿島郡と行方(なめかた)郡をつないだから「鹿行」。全長 415m 。10:30 コンビニで飲料を調達。11:10 パンとジュースで昼食休憩。11:30 県道18号線は鉾田市から鹿嶋市に入る。「鹿嶋市」が「鹿島市」ではないのは、1995年(平成7年)合併により市制施工した際、既に佐賀県に鹿島市(1954年市制)が存在していて、重複を避けたため。12:10 「北浦大橋」が見える。北浦に架かる橋で、全長 1296m 。県道18号線は北浦湖岸を離れ、鹿嶋市街へ入る。15:05 「鹿島神宮」を参拝。東海道を歩いた時に立ち寄った熱田神宮や豊川稲荷と同様の規模の神社を想像していたが、なんだか「こぢんまり」している。参拝者は疎らだし、門前の商店街も営業していない店舗が多い。コンビニで食料・飲料を調達、15:30 今日の宿「鹿嶋シティホテル」に到着する。ワンルームマンションをビジネスホテルに転用したような仕様。狭いユニットバスに浸かる。日焼けした腕に、湯が沁みて痛い。足裏の状況は「中破」程度。かなり傷んでいる。夕食は豚ロース焼肉弁当・イワシ塩焼。19:00 就寝。「鹿嶋シティホテル」、素泊 4182円。鹿島旭駅 → 鹿嶋市宮中 : 35.8 km( 茨城県南東部~千葉県東部累計 72.3 km ) ( 東日本支線の旅累計 1321.8 km )
2026.04.14
コメント(0)

2026年04月13日(月)曇時々晴東武鉄道とJRを乗り継ぎ、06:48 JR常磐線 内原駅で下車。運賃 1970円。今回の徒歩旅行は、2泊3日で千葉県銚子市のJR銚子駅まで歩く予定。距離は約108km 。07:00 内原駅から歩き始める。曇り空。国道50号線(新道)を越え、杉崎町で旧道の国道50号線に出る。ここから700mほどの区間は、2008年11月の【 関東外周山つなぎの旅 59日目 】で歩いたところだが、当時の記憶は全くない。旧国道は新国道に合流、交通量が格段に多くなる。07:45 水戸インターチェンジの国道50号線出入口。クルマ優先の構造なので、初めて歩く者には迷路のようだ。08:10 「大塚池」。ここで国道50号線は、水戸市街地へ向かう道とバイパス道に分かれる。市街地への道を行く。水戸市中心部を歩く。黄門さん通りに「徳川光圀公像」。光圀は家康の孫で、常陸国水戸藩(35万石 御三家)の2代藩主だった。09:45 水戸駅。市街地を抜け、国道51号線を行く。郊外の風景は何処も同じ。農地に宅地が点在する。10:15 パンとジュースで昼食休憩。12:10 国道51号線は涸沼川(ひぬまがわ)橋を渡り、水戸市から大洗町に入る。南へ向かうようになってから、向かい風の南風を感じる。51号線を離れ、県道16号線を行く。高台から太平洋が見える。路肩にクリが落ちている。昨秋のものが、未だに残っているらしい。13:45 鹿島臨海鉄道 涸沼駅。無人駅だが、涸沼観光センターが併設されている。この辺りから鉾田市。鹿島臨海鉄道沿いに県道114号線を行く。15:10 今日の終点・鹿島臨海鉄道 鹿島旭駅に着く。15:41発の電車に乗り、15:53 大洗駅で下車。運賃 420円。スーパーで食料・飲料を調達、16:30 今日の宿「さわや旅館」に到着する。足裏の状況は「小破」程度。ゆっくり風呂に浸かる。夕食は助六寿司・ニシン糀漬・キャベツの塩サラダ。19:30 就寝。「さわや旅館」、素泊 4000円。内原駅 → 鹿島旭駅 : 36.5 km( 茨城県南東部~千葉県東部累計 36.5 km ) ( 東日本支線の旅累計 1286.0 km )
2026.04.13
コメント(0)

2026年04月04日(土)曇予報によると、昼頃から花散らしの雨が降るらしい。今回歩くのは、万延元年(1860年)板「礫川牛込小日向絵図」のうち、現在の文京区水道1~2丁目・関口1丁目と新宿区改代町・赤城下町・中里町・天神町・山吹町に当たる地区。07:25 中之橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第108回 】を歩き始める。北側を流れる神田上水と南側を流れる神田川(江戸川)に挟まれた地区が、切絵図には「水道町」とある。水道町の住民は神田上水の管理を請け負い、定浚(じょうざらい、河川の定期的な土砂ざらい)を負担していた。徳川家康は天正18年(1590年)の江戸入府後、市中の飲料水を確保するため上水道の整備を命じ、小石川上水が開かれ、後に神田上水へと発展した。明治34年(1901年)神田上水は飲料水への利用を終え、現在、上水道跡は「巻石通り」になっている。切絵図に「関口」とある。関口の町名の由来には諸説あり、そのひとつに、神田上水へ分流するため神田川の水位を上げる堰が設けられたことに因るとする説がある。安政4年(1857年)板「雑司ヶ谷音羽絵図」に、その「関口大洗堰」が描かれている。切絵図に「御持筒組」とあるのは、幕府の鉄砲部隊の屋敷があった地区。番方(武官のこと、文官は役方)である持組には、鉄砲部隊の持筒組と弓部隊の持弓組があった。持筒組・持弓組は有事の際、将軍の身辺護衛を任務としていた。「渡邊坂」を下る。坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったことに、坂名は由来する。切絵図には「渡部源蔵」とある。渡邊家の家禄は500石。寛文7年(1667年)この地に御書院番屋敷を拝領、幕末まで200年の間 渡邊屋敷はこの地にあった。書院番は将軍の馬廻衆(親衛隊)として、江戸城の警備や将軍の護衛などを担当した。「天神町北野神社」を訪れる。江戸時代初期、旗本大友義乗が太宰府天満宮を勧請して屋敷内に祀った天神と、大友屋敷跡地に旗本大橋隆慶が3代将軍徳川家光から拝領して屋敷内に祀った菅原道真像が、神社の起源とされる。天神町の町名は、この神社に由来するという。切絵図には「天神」ではなく「イナリ」とだけある。嘉永年間(1848~55年)頃、住民の信仰が稲荷神に帰し、稲荷社と称されるようになったためといわれる。境内には「豊玉稲荷神社」が祀られている。08:35 江戸川橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第108回 】はここで終わり。中之橋 → 江戸川橋交差点 : 5.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 414.2 km )
2026.04.04
コメント(0)

2026年03月21日(土)快晴東京では19日、気象庁がサクラの開花を発表した。今回歩くのは、万延元年(1860年)板「礫川牛込小日向絵図」のうち、現在の新宿区新小川町・筑土八幡町・津久戸町・白銀町・赤城元町・築地町・水道町・西五軒町・東五軒町に当たる地区。07:35 新隆慶橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第107回 】を歩き始める。「筑土(つくど)八幡神社」を訪れる。神社の起源は、嵯峨天皇の時代(809~823年)にあると伝わる。その後、慈覚大師円仁(794~864年)が東国を訪れた際、筑紫宇佐の宮土を取り寄せて礎とし祠を祀ったことから、筑土と名付けられたという。切絵図に「筑土明神 八幡宮」とあるのは、江戸城田安台近くにあった田安明神が、元和2年(1616年)江戸城拡張工事に伴い筑土八幡宮の隣接地に移転、筑土明神と呼ばれたことによる。昭和29年(1954年)筑土明神は千代田区九段北へ再移転。筑土八幡だけが現在地に鎮座している。「赤城神社」を訪れる。正安2年(1300年)上野国赤城山麓の豪族大胡彦太郎重治が牛込へ移住した際、上野国赤城神社の分霊を勧請、牛込早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町)に創建したと伝わる。弘治元年(1555年)大胡宮内少輔勝行が現在地に遷座。勝行の時代から、大胡氏は牛込氏と称した。切絵図には「赤城明神 等覚寺」とある。等覚寺は赤城明神の別当。神田川に架かる「石切橋」は、切絵図に「石切ハシ」とある。架けられたのは寛文年間(1661~73年)とされる。かつてこの周辺に石工職人が住んでいたことに、橋名は由来するという。往時はこの辺りで最も幅の広い橋だったため、大橋とも呼ばれたという。切絵図に「馬場」とある。東西の五軒町の町名は、ここが小日向馬場の築造を請け負った5人に支給された土地だったことに由来する。馬場の跡地は、道路で囲われた東西約25m南北約250mの区画として、現在も往時の地割りまま残っている。東五軒町では早咲きのサクラが満開。神田川に架かる「中之橋」は、切絵図に「中ノハシ」とある。上流の石切橋と下流の隆慶橋の中間に位置することが、橋名の由来とされる。昭和40年(1965年)頃まで、神田川の中流域に当たるこの付近では、神田川は江戸川と呼ばれていた。切絵図にも「江戸川」と記されている。08:50 中之橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第107回 】はここで終わり。新隆慶橋 → 中之橋 : 5.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 408.3 km )
2026.03.21
コメント(0)

2026年03月14日(土)晴今日からJR東日本が運賃を値上げ。片道170円が200円になった。今回歩くのは、万延元年(1860年)板「礫川牛込小日向絵図」のうち、現在の文京区後楽1~2丁目に当たる地区。07:45 飯田橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第106回 】を歩き始める。切絵図に「川路左衛門尉」とあるのは、幕臣 川路聖謨(としあきら)の屋敷。嘉永6年(1853年)聖謨は海岸防禦御用掛に就任。長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉を担当、安政元年(1854年)伊豆下田で日露和親条約を締結した。現在、跡地には日建設計後楽園ビルなどがある。切絵図に「御勘定奉行 山内(誤刻、正しくは竹内)下野守」とあるのは、幕臣 竹内保徳(たけのうち やすのり)の屋敷。文久元年(1861年)保徳は外国奉行に就任、遣欧使節正使として欧州各国を歴訪。日本に開港を迫る6ヵ国との交渉により、開港の5ヵ年延期に成功した。現在、跡地には住宅金融支援機構本店ビルがある。切絵図に「水戸殿」とあるのは、常陸国水戸藩徳川家(35万石 御三家)上屋敷。寛永6年(1629年)初代藩主頼房が、現在の東京ドームシティ・小石川後楽園・中央大学後楽園キャンパス・礫川(れきせん)公園などがある広大な土地を、邸地として拝領した。明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火後、松原小路(江戸城内)にあった水戸藩上屋敷が小石川へ移転した。「小石川後楽園」は上屋敷内に造られた回遊式築山泉水庭園。初代藩主頼房が築造、2代藩主光圀により整備され完成した。神田川に架かる「隆慶(りゅうけい)橋」は、切絵図に「立慶橋」とある。橋名は、江戸時代初期の武将・書家の大橋重保(のちに龍慶と号した)に由来する。重保は豊臣秀頼の右筆を務め、豊臣滅亡後は徳川家に旗本として召し上げられ、2代将軍秀忠・3代将軍家光に右筆として仕えた。寛永12年(1635年)牛込に所領を与えられ、家光の命により隆慶橋を架けたと伝わる。「小石川諏訪神社」を訪れる。明徳元年(1390年)牛天神北野神社の別当龍門寺の梅本坊乗観が、信州諏訪大社より分霊を勧請して創建したと伝わる。切絵図には「諏訪社」「牛天神 龍門寺」とある。08:20 新隆慶橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第106回 】はここで終わり。飯田橋交差点 → 新隆慶橋 : 2.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 403.3 km )
2026.03.14
コメント(0)

2026年03月07日(土)快晴夜間に降った雨で路面が濡れている。今回歩くのは、万延元年(1860年)板「礫川牛込小日向絵図」のうち、現在の新宿区神楽坂1~6丁目・神楽河岸・揚場町・下宮比町に当たる地区。07:35 神楽坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第105回 】を歩き始める。切絵図にある「行元寺(ぎょうがんじ)」は、鎌倉時代末期の創建と伝わる。天明3年(1783年)境内で「神楽坂の仇討」があった。父親殺しを討ったのは百姓の冨吉で、その後、旗本に召し抱えられて侍になったという。安政4年(1857年)頃、境内の一部が遊行地となり、ここから神楽坂の花柳界は発祥したとされる。明治40年(1907年)行元寺は品川区西五反田へ移転した。切絵図に「本多修理(しゅり)」とあるのは、旗本 本多家(家禄 9000石)の屋敷。10代当主忠寛は、元治元年(1864年)天狗党の乱の鎮圧に志願して出兵、さらに江戸警備などで功績を挙げたことから加増。大名に取り立てられて三河国西端藩(1.05万石 譜代)の初代藩主となった。「善国寺」を訪れる。何故か、門前をアルパカ2頭が散歩中。調べてみると、神楽坂上で「アルパカふれあいランド」が営業している。切絵図には「善國寺 毘沙門天」とある。文禄4年(1595年)馬喰町(現在の中央区日本橋馬喰町)に創建、寛政5年(1793年)現在地へ移転した。善国寺の本堂前に置かれているのは狛犬ではなく、嘉永元年(1848年)に周辺住民から奉納された石虎。虎は毘沙門天の使いとされる。本尊の毘沙門天は、江戸時代から「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めた。切絵図に「牡丹屋舗」とあるのは、岡本彦右衛門の拝領屋敷があった場所。享保元年(1716年)徳川吉宗の8代将軍就任に伴って紀州から江戸へ出てきた彦右衛門は、家伝の薬「熱湯散」の販売を手掛け、拝領屋敷で牡丹を栽培して将軍に献上、屋号を牡丹屋彦右衛門と改めた。宝暦年間(1751~64年)彦右衛門は咎めを受けて家財を没収され、地所は大奥女中らの拝領町屋となった。切絵図にある「神楽坂」を上る。坂名の由来については、近くの神社で奉納される神楽がこの地まで聞こえたとか、祭礼の神輿が通る際に神楽が奏でられたなど、諸説ある。神楽を奉じたとされる近隣の神社は、穴八幡宮・若宮八幡宮・市谷八幡宮・津久戸明神八幡宮・赤城明神が挙げられる。「軽子坂」を下る。切絵図には「軽子サカ」とある。軽子とは、軽籠(かるこ、縄で編んだもっこ状の籠)で荷物を運ぶ人足のこと。かつて飯田濠には船着場があり、荷揚げした物資を江戸市中へ運搬する軽子がこの近辺に多く住んでいたことに、坂名は由来する。神楽河岸・揚場町の町名は、この荷揚場に由来する。下宮比町の町名は、旗本 久世家(家禄 3500石)の屋敷にあった宮比神社に由来する。切絵図に「久世右馬吉(うまきち)」とあるのが、その久世家と考えられる。明治40年(1907年)宮比神社は筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町)へ遷座、その境内社となって現在に至る。08:20 飯田橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第105回 】はここで終わり。神楽坂上 → 飯田橋交差点 : 2.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 400.7 km )
2026.03.07
コメント(0)

2026年02月21日(土)快晴快晴。予報によると、今日の東京の最高気温は15℃まで上がるようだ。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「市ヶ谷牛込絵図」のうち、現在の新宿区市谷田町1~3丁目・市谷砂土原町1~3丁目・市谷船河原町・若宮町・袋町・岩戸町に当たる地区。07:35 長延寺坂下 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第104回 】を歩き始める。市谷田町1~3丁目・市谷砂土原町1~3丁目。「浄瑠璃坂」を下る。切絵図には「浄瑠理坂」とある。坂名の由来については、坂上に操り人形浄瑠璃の芝居小屋あったため、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であるためなど、諸説ある。「愛敬稲荷神社」を訪れる。茶ノ木稲荷神社(市谷亀岡八幡宮の境内社)の分霊を勧請したものという。切絵図の「愛敬稲荷社」は広い境内を有しているが、現在の社殿は狭小庭先サイズ。往時の稲荷社を、個人が復活させて祀っているのかも知れない。「歌坂」を上る。切絵図には「ウタサカ」とある。坂名の由来については、地形が善知鳥(うとう、海鳥の一種)の口ばしに似ていて「うとう」が「うた」に転じた、江戸時代初期に酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷が坂の東側にあったなど、諸説ある。譜代大名の酒井雅楽頭家は上野国前橋藩(15万石)、のちに播磨国姫路藩(15万石)を治めた。市谷船河原町・若宮町。切絵図にある「逢坂(おうさか)」を下る。奈良時代に都から赴任した役人がこの地の娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢の中、再びこの坂で娘に逢ったという物語に、坂名は由来するという。しかし、この物語は江戸時代の創作で、大坂と呼ばれていた坂道を逢坂と書いて悲恋物語に仕立てたもの、ともいわれる。「庾嶺(ゆうれい)坂」を上る。江戸時代初期、坂の近くに美しい梅林があり、2代将軍徳川秀忠が鑑賞するためこの地を訪れた際、中国の梅の名所である大庾嶺に因んで命名した、と伝わる。切絵図では「シンサカ」となっている。「神楽坂若宮八幡神社」を訪れる。切絵図には「若宮八幡宮」とある。文治5年(1189年)源頼朝が奥州征伐の際に戦勝を祈願、平定後に鎌倉鶴岡八幡宮の若宮八幡を勧請したと伝わる。文明年間(1469~87年)には太田道灌が江戸城鎮護のため再興させたという。袋町・岩戸町。「光照寺」を訪れる。切絵図には「光照院」とある。この地は牛込城跡とされる。天文年間(1532~55年)牛込氏は小田原北条氏の家臣となり、牛込城を築いて居城とし、牛込地域(現在の新宿区北東部)を領有した。天正18年(1590年)に北条氏が滅んで徳川家康が江戸に入封すると、牛込氏は徳川家に仕え、幕末まで旗本として存続した。光照寺は慶長8年(1603年)の創建、正保2年(1645年)に牛込城跡とされる現在地へ移転してきた。「地蔵坂」を下る。坂上の光照寺に鎌倉時代製作とされる木造地蔵菩薩坐像があり、安産子育地蔵として信仰され、この地蔵が坂名の由来とされる。08:20 神楽坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第104回 】はここで終わり。長延寺坂下 → 神楽坂上 : 3.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 397.8 km )
2026.02.21
コメント(0)

2026年02月14日(土)快晴風は弱く、快晴。歩きめぐり日和。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「市ヶ谷牛込絵図」のうち、現在の新宿区市谷鷹匠町・市谷左内町・市谷八幡町・市谷長延寺町に当たる地区。07:45 鰻坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第103回 】を歩き始める。「市谷亀岡八幡宮」を訪れる。文明11年(1479年)太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請した。「亀岡」の名は「鶴岡」に対して付けられたという。寛永13年(1636年)の江戸城外堀完成後、市谷御門内(現在のJR市ヶ谷駅付近)から現在地に遷座した。切絵図には「茶ノ木稲荷社」「市ヶ谷八幡宮」「別當 東圓寺」とある。江戸時代、市谷亀岡八幡宮は市谷八幡宮と称していた。八幡宮の石段途中にある「茶ノ木稲荷神社」は、八幡宮が遷座してくる前からこの地に鎮座していた。東圓寺は八幡宮の別当寺だったが、明治維新後、神仏分離令により廃寺となった。かつての市谷八幡宮には「時の鐘」があった。江戸の町では9ヶ所に時の鐘を置き、人々に時刻を知らせていた。明治時代に入ると改暦により定時法が導入され、不定時法を用いる時の鐘は撤廃されていった。八幡宮の銅製の鳥居は文化元年(1804年)に建立されたもの。「左内坂」を上る。切絵図には「左内坂」「佐内坂町」とある。元和年間(1615~24年)名主の島田左内がこの周辺の傾斜地に町屋を拓いたことに、坂名と町名は由来する。島田家は明治時代に至るまで名主を務め、代々の当主は島田左内を名乗ったという。切絵図に「定火消御役屋敷 本多寛司」とあるのは、万治元年(1658年)に幕府が江戸に創設した常設の消防組織である定火消の屋敷。創設当初、定火消屋敷は4組(市谷左内坂・麹町半蔵門外・飯田町・お茶ノ水上)で、消火の対象は武家屋敷が中心だった。各組の長である火消役には4000石以上の旗本が任命され、与力6騎・同心30人・臥煙(がえん、火消人足)約100人を配置。火事に備えて定火消屋敷に常駐した。切絵図に名前のある本多寛司は、家禄7000石の旗本。火消役を務めていた。「定火消発祥の地」解説柱がある。「長延寺坂」を上る。かつて坂上にあった長延寺に、坂名は由来する。切絵図に「長延寺」とあり、文禄3年(1594年)の創建。明治時代末頃に廃寺となった。現在、跡地は都営団地になっている。08:15 長延寺坂下 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第103回 】はここで終わり。鰻坂上 → 長延寺坂下 : 1.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 394.4 km )
2026.02.14
コメント(0)

2026年02月03日(火)快晴今日は節分。暦の上では明日から春なのだろう。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「市ヶ谷牛込絵図」のうち、現在の新宿区横寺町・箪笥町・細工町・北町・中町・南町・納戸町・払方町に当たる地区。07:35 東京メトロ神楽坂駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第102回 】を歩き始める。横寺町・箪笥(たんす)町。「朝日坂」を上る。かつて坂の近くに泉蔵院という寺があり、その境内の北野神社が朝日天神と俗称されたことに、坂名は由来する。切絵図には「泉蔵寺」「ヨコ寺町」とあるが、泉蔵院は廃寺になり、残っていない。「弁天坂」を下る。坂下の南蔵院の境内にあった弁天堂に、坂名は由来する。切絵図には「南蔵院」「御箪笥町」とある。江戸時代、この辺りには幕府の武器を司る具足奉行組同心・弓矢鑓奉行組同心の屋敷があった。幕府では武器を総称して箪笥と呼んだ。細工町・北町・中町・南町。切絵図に「御細工町」とある。江戸時代、この辺りには幕府の御細工方同心の屋敷があった。細工方は幕府の職人で、馬具・武器・諸道具の細かな木工・金工・革細工を行っていた。切絵図に「御徒(おかち)組」とあるのは、幕府の下級武士である御徒組の御家人が住んでいた地区。御徒組は徒歩で行動する武士で構成され、普段は江戸城内の警備や将軍が外出する際の先導・護衛を務めた。この地区には「北御徒町」「中御徒町」「南御徒町」の3町があった。納戸町・払方町。切絵図に「御納戸町」とあるのは、納戸役同心の拝領地。幕府において納戸役は、将軍などの衣服や調度品、将軍と大名・旗本の間で交わされる献上品や下賜品である金銀・諸物品の管理事務を担っていた。切絵図に「拂方町」とあるのは、納戸役のひとつ払方御納戸同心の拝領地。払方御納戸は、将軍が褒美として大名や家臣に与える下賜品の手配を担っていた。中央部が谷になっている「鰻坂」を、下って上る。坂がウナギのように曲がりくねっていることに、坂名は由来する。切絵図には「ウナギサカ」とある。08:15 鰻坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第102回 】はここで終わり。神楽坂駅 → 鰻坂上 : 2.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 392.5 km )
2026.02.03
コメント(0)

2026年01月24日(土)快晴今朝の東京の最低気温はマイナス1.3℃ 。風が無いのが救いだが、かなり寒い。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「市ヶ谷牛込絵図」のうち、現在の新宿区市谷山伏町・南山伏町・北山伏町・南榎町・榎町・東榎町・矢来町に当たる地区。07:35 市谷柳町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第101回 】を歩き始める。市谷山伏町・南山伏町・北山伏町。切絵図に「山伏丁」とある。江戸時代初期、この近辺に大聖院(現在の新宿区新宿6丁目)の山伏・修験者が多く住んでいたことに、町名は由来する。「焼餅坂」を上る。坂名の由来は、かつてこの辺りに焼餅を売る店があったためという。切絵図には「ヤキモチサカ」とある。切絵図に「林大學頭(だいがくのかみ)」とあるのは、朱子学をもって幕府に仕えた林家が、元禄11年(1698年)に拝領した屋敷。林家では3代鳳岡(ほうこう)以降、当主が代々大学頭に任ぜられ、学問・法制・外交などを所掌した。屋敷跡地に残る「林氏墓地」では、林家の祖である羅山とその一族・子孫の墓石81基が保存されている。南榎町・榎町・東榎町。切絵図に「榎町」とある。町名の由来は、かつてこの地に榎の大木があったためとされる。「両社稲荷神社」を訪れる。元和年間(1615~24年)に創建された際、稲荷神とともに赤城神を合祀したことから両社稲荷と称された。切絵図には「稲荷」とだけある。矢来町。切絵図に「酒井若狭守」とあるのは、若狭国小浜藩酒井家(10.35万石 譜代)上屋敷。寛永5年(1628年)酒井忠勝(当時は武蔵国川越藩酒井家2代藩主)が3代将軍徳川家光からこの地を拝領、寛永11年(1634年)には加増転封されて小浜藩酒井家初代藩主となった。現在の矢来町全域が小浜藩邸だった。屋敷の周囲に竹矢来を巡らせていたことに、町名は由来する。「矢来公園」には「小浜藩邸跡」「杉田玄白生誕地」と刻まれた石標がある。「解体新書」の刊行で知られる玄白は、享保18年(1733年)小浜藩医の三男としてこの藩邸で生まれた。明治時代、小浜藩邸跡地に旧小浜藩当主の酒井伯爵が邸宅を構えた。明治時代後期の地図に「酒井邸」とある。現在、伯爵邸跡地は「矢来町ハイツ」(みずほ銀行社宅)の敷地になっている。ハイツ南側に残る石垣は、小浜藩邸外周の遺構とされる。ハイツ北側の「秋葉神社」は、小浜藩邸に鎮座していた邸内社を、酒井家が地元に贈与したもの。切絵図に「大御番組(おおごばんぐみ)」とある。大番組は老中支配下の幕府直轄軍事組織で、旗本の常備兵力により編成された。戦時には先陣を切る部隊、平時には江戸城・江戸市中と幕府要地の警護を担った。08:50 東京メトロ神楽坂駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第101回 】はここで終わり。市谷柳町交差点 → 神楽坂駅 : 5.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 390.3 km )
2026.01.24
コメント(0)

2026年01月11日(日)曇今朝8時の東京の気温は13.9℃ 。南寄りの風が強く、寒さを全く感じない。今回歩くのは、安政4年(1857年)板「市ヶ谷牛込絵図」のうち、現在の新宿区市谷仲之町・市谷加賀町1~2丁目・市谷薬王寺町・二十騎町・市谷甲良町・市谷柳町に当たる地区。07:40 念仏坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第100回 】を歩き始める。切絵図にある「中根坂」を下って上る。この坂は中央部分が低い。かつて坂の西側に旗本中根家の屋敷があったことに、坂名は由来する。中根家の家禄は6000石。切絵図に「中根市之丞」とある。文久3年(1863年)長州藩による外国船砲撃の責任を問うため、中根市之丞正聖は幕府の問責使として馬関(現在の山口県下関市)に派遣されたが、長州藩により暗殺された。切絵図に「此邊加賀屋敷ト云」とある。江戸時代初期、この地に加賀藩(102.5万石 外様)3代藩主前田光高の正室大姫(3代将軍徳川家光の養女)の屋敷があった。現在の町名「市谷加賀町」は、この屋敷に由来する。大姫の死後、幕府は跡地を公収、多くの旗本に土地を分割して与えた。「薬王寺坂」を上る。かつてこの地にあった薬王寺に、坂名は由来する。現在の町名「市谷薬王寺町」も、この寺に由来する。切絵図には「薬王寺」とあるが、明治維新の時に廃寺となり、坂名・町名にだけにその名を残している。切絵図の薬王寺の西隣り「浄栄寺」を訪れる。元和2年(1616年)創建、寛永11年(1634年)現在地へ移転した。梵鐘は元禄9年(1696年)に鋳造されたもの。山門は江戸時代後期の建築と推定されている。文人・狂歌師の太田南畝は浄栄寺を「甘露門」と称し、度々会合を催していた。「銀杏(いちょう)坂」を上る。かつてこの坂の北側にあった旗本久貝(くがい)家の屋敷で銀杏稲荷を祀っていたことに、坂名は由来する。久貝家の家禄は5500石。切絵図に「久貝因幡守」とある。安政7年(1860年)久貝因幡守正典は桜田門外の変で吟味役を務めたが、吟味に不手際があったとされ、文久2年(1862年)3500石に減封された上、免職隠居となった。切絵図に「二十キクミ」とある。当地には先手組(さきてぐみ)与力2組(20騎)の屋敷があり、俗に牛込二十騎町(現在の新宿区二十騎町)と称した。先手組1組には与力10騎が配置され、彼らには乗馬が義務付けられた。与力は旗本を補佐するために配属され、身分は御家人。江戸城下の治安維持の役割を担い、町与力が文官であるのに対し、組与力の先手組は武官だった。切絵図に「市谷甲良(こうら)屋敷」とある。甲良氏は幕府作事方棟梁の家系で、建物の建築・修理を行った。幕末、近藤勇がこの一角に天然理心流の道場「試衛館」を構え、門弟には土方歳三・沖田総司などがいた。跡地に「試衛館跡」標柱がある。現在の町名「市谷甲良町」は、甲良氏に由来する。08:35 市谷柳町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第100回 】はここで終わり。念仏坂上 → 市谷柳町交差点 : 4.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 385.0 km )
2026.01.11
コメント(0)

2026年01月03日(土)快晴快晴。今朝の東京の最低気温はマイナス0.5℃ 。昨夜降った初雪が、少しだけ日陰に残っている。今回歩くのは、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」のうち、現在の新宿区原町1~3丁目・若松町・余丁町・河田町に当たる地区。07:45 牛込弁天公園前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第99回 】を歩き始める。「天祖神社」を訪れる。慶長年間(1596~1615年)天照皇大神宮を勧請して創建したと伝わる。江戸時代には神明宮と称し、切絵図にも「神明宮」とある。神門は、弘化2年(1845年)氏子らにより建立されたもの。明治6年(1873年)天祖神社と改称した。「幸国寺」を訪れる。切絵図には「幸國寺」とある。寛永7年(1630年)創建。右側に門番が控える番所を備えた山門は、江戸時代後期の建築と推定されている。幕末から明治時代初頭に、田安徳川家(賄料10万石 御三卿)の屋敷門を移築したものと伝わる。切絵図に「水野土佐守」とあるのは、紀伊国新宮藩水野家(3.5万石 譜代)の下屋敷。代々水野家は紀州藩徳川家(55.5万石 御三家)の御附家老(おつけがろう)を務め、身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。御附家老は将軍の命令で派遣され、政務や軍事の補佐役だが、将軍直属の監視役という性格が強かった。跡地には現在、成城中学・高校がある。切絵図に「尾刕(州の異字体)殿」とあるのは、尾張藩徳川家(61.95万石 御三家)の抱屋敷。抱屋敷とは、幕府から拝領した屋敷ではなく、大名が町人などから自費で購入した土地に建てた屋敷のこと。跡地には現在、東京女子医大病院がある。切絵図に「小笠原左京大夫」とあるのは、筑前国小倉藩小笠原家(15万石 譜代)の下屋敷。明治維新後、旧小倉藩主小笠原伯爵の屋敷になった。跡地には現在、昭和2年(1927年)竣工のスパニッシュ様式の旧小笠原邸があり、スペイン料理レストラン「小笠原伯爵邸」として営業している。「団子坂」を渡る。かつて付近一帯は低湿地だったため、この坂はいつも泥んこで、歩くたびに泥団子のようになったことに、坂名は由来する。切絵図には「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。「馬の首団子坂」は団子坂の別名。「抜弁天(ぬけべんてん)厳島神社」を訪れる。応徳3年(1086年)源義家が奥州征伐へ向かう際、この地から安芸の厳島神社に戦勝を祈願、征伐の帰途に創建したと伝わる。境内を南北に通り抜けでき、義家が鎮定の苦難を切り抜けた弁天社であることから、抜弁天の通称で呼ばれるようになった。切絵図には「抜弁天 別當 二尊院」とある。別当寺の二尊院は廃寺。「出世稲荷神社」を訪れる。長禄元年(1457年)太田道灌により創建、大永6年(1526年)現在地へ遷座したとされる。江戸時代には粟津稲荷あるい朝日稲荷と呼ばれ、切絵図には「稲荷社」とだけある。社殿脇には正徳年間(1711~13年)銘の手水鉢がある。「金(こん)弁財天」を訪れる。創建年代・由緒などは不詳だか、この地にあった丹後国宮津藩松平家(7万石 譜代)下屋敷(切絵図には「松平伯耆守」とある)の池の畔に祀られていた弁財天ともいわれる。狛犬の位置には、とぐろを巻いた狛巳(狛蛇)がいる。切絵図に「松平佐渡守」とあるのは、出雲国広瀬藩松平家(3万石 親藩)の下屋敷。広瀬藩は出雲国松江藩(18.6万石 親藩)の支藩だった。明治時代、跡地には尾張徳川家の分家である徳川義恕(よしくみ)男爵が屋敷を構えた。戦後にホテル「河田町会館」・フジテレビ本社などを経て、現在は高級賃貸住宅「河田町ガーデン」になっている。急階段の「念仏坂」を訪れる。切絵図には「念佛坂」とある。坂名の由来は、かつて坂の近くに昼夜念仏を唱える老僧がいた、屈曲して危険な坂だったので仏名を念じて往来する人がいた、などの説がある。09:00 念仏坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第99回 】はここで終わり。牛込弁天公園前 → 念仏坂上 : 5.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 380.8 km )
2026.01.03
コメント(0)

2025年「歩きつなぎの旅」に費やした日数 35日( 315.7 km )内訳 1.東日本支線の旅 5日( 172.4km ) 2.江戸切絵図歩きめぐり 30日( 132.3km ) 3.その他 1日( 11.0km ) 日帰り 32日 泊まりがけ 4日( 宿 1泊 ) ( テント 1泊 )交通費・宿泊費等の合計 22,620円2025年の「江戸切絵図歩きめぐり」は、港区・渋谷区・新宿区を歩きました。
2025.12.31
コメント(0)

2025年12月20日(土)旋回砲台柱(Swivel stock)・ミズンチャンネル(Mizzen channel)等を製作、左右両舷側に取り付ける。0.39mm 厚の航空ベニヤで船名のアルファベットを製作、船尾と飾台に取り付ける。完成。
2025.12.20
コメント(0)

2025年12月13日(土)晴れたり曇ったり今年の歩き納め。今朝の東京の最低気温は2.9℃ 。この冬はじめて、手袋をする。今回歩くのは、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」のうち、現在の新宿区弁天町・早稲田南町・喜久井町に当たる地区。07:40 弁天町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第98回 】を歩き始める。切絵図にある「宗参寺(そうさんじ)」を訪れる。天文13年(1544年)豪族の牛込氏により創建されたという。室町時代に牛込氏は小田原北条氏の家臣となり、牛込城(現在の新宿区袋町の光照寺付近)を築いて牛込地域(現在の新宿区北東部)を領有した。豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡した後、牛込氏は徳川家に仕え、幕末まで旗本として存続した。宗参寺には牛込氏歴代の墓所がある。また、江戸時代前期の儒学者・兵学者である山鹿素行(やまが そこう)の墓所がある。切絵図に「同(牛込)馬場下横丁」とある。夏目漱石は、慶応3年(1867年)夏目家の五男三女の末っ子として、この町に生まれた。夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主の家柄で、生活は豊かだった。夏目坂下に「夏目漱石誕生之地」碑と解説板がある。切絵図にある「誓閑寺」を訪れる。寛永7年(1630年)創建。寛文6年(1666年)現在地へ移転した。梵鐘は天和2年(1682年)に鋳造されたもの。切絵図にある「来迎寺」を訪れる。寛永8年(1631年)創建。境内には延宝4年(1676年)銘の庚申塔がある。「知立(ちりゅう)神社」を訪れる。江戸時代、この近辺は美作国津山藩松平家(10万石 親藩)の下屋敷で、切絵図には「松平越後守」とある。江戸城鍜治橋門内(現在の千代田区丸の内)の津山藩上屋敷で祀られていた邸内社を、明治17年(1884年)旧津山藩下屋敷へ移転した。松平家がこの地を去った後も、地元町会が神社を受け継いでいる。切絵図に「根来(ねごろ)組」とある。幕府の鉄砲百人組には伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、ここは根来組の牛込弁天町組屋敷。与力20騎が同心100人を束ねていた。根来組を構成していたのは、紀州根来(現在の和歌山県岩出市)の出身者とされる。現在、組屋敷跡地はに早稲田小学校がある。宗参寺の飛地境内に祀られている「宗参寺弁天堂」を訪れる。入口の門柱には「大辨財天」、切絵図には「弁天社」とある。江戸時代この地区が「牛込弁天町」と呼ばれていたのは、この弁天堂に由来する。現在の町名も、弁天町である。切絵図にある「浄輪寺」を訪れる。慶長17年(1612年)創建。寛永12年(1635年)現在地へ移転した。墓地には江戸時代前期の和算家関孝和の墓所がある。孝和は円周率算出の研究をしたことで知られる。08:40 牛込弁天公園前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第98回 】はここで終わり。弁天町交差点 → 牛込弁天公園前 : 3.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 375.5 km )
2025.12.13
コメント(0)

2025年12月10日(水)クォーターデッキの一部に甲板の上張りをする。材料は 0.5mm 厚 x 3mm 幅のタンガニーカ板材。舵輪(Steerling wheel)・羅針儀箱(Binnacle)・ミズンマスト(Mizzen mast)・ミズントップセイル係柱(Mizzen topsail sheet bitts)・ミズンピンレール(Mizzen pin rail)を製作、船体に取り付ける。
2025.12.10
コメント(0)

2025年12月02日(火)薄曇今朝の東京の最低気温は9.5℃ 。あまり寒さを感じない。今回歩くのは、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」のうち、現在の新宿区馬場下町・西早稲田1丁目・戸塚町1丁目・早稲田鶴巻町・早稲田町に当たる地区。07:30 馬場下町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第97回 】を歩き始める。馬場下町・西早稲田1丁目・戸塚町1丁目。「宝泉寺」を訪れる。創建は平安時代ともいわれる。江戸時代には水稲荷神社の別当寺を担い、切絵図には「別當 宝泉院」「水稲荷社」「高田冨士」とある。昭和38年(1963年)早稲田大学との土地交換により、水稲荷神社と富士塚は500m ほど北西へ移転したが、宝泉寺はこの地に残っている。境内の梵鐘は正徳元年(1711年)の鋳造。切絵図に「井伊掃部頭(かもんのかみ)」とあるのは、近江国彦根藩井伊家(30万石 譜代)の下屋敷。万延元年(1860年)に桜田門外の変で16代藩主直弼(なおすけ)を暗殺された彦根藩は、文久2年(1862年)この事件を理由として10万石を減封されて石高が20万石になった。明治7年(1874年)大隈重信が彦根藩下屋敷跡地に別宅を購入、明治15年(1882年)東京専門学校(現在の早稲田大学)を開設した。明治17年(1884年)大隈は雉子橋(現在の千代田区九段南)にあった本邸を早稲田に移した。早稲田大学に隣接して「大隈庭園」がある。江戸時代、ここには彦根藩井伊家と讃岐国高松藩松平家(12万石 親藩)の下屋敷があった。切絵図を見ると、彦根藩下屋敷の「井伊掃部頭」はあるが、高松藩下屋敷は載っていない。大隈は早稲田に本邸を移した際、下屋敷の大名庭園を和洋折衷に改修した。早稲田鶴巻町・早稲田町。「天祖神社」を訪れる。創建年代は不詳。天和2年(1682年)牛込榎町(現在の新宿区榎町)から現在地へ遷座したと伝わる。江戸時代には神明宮・神明神社と称していた。切絵図には「神明社」とある。08:30 弁天町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第97回 】はここで終わり。馬場下町交差点 → 弁天町交差点 : 5.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 371.9 km )
2025.12.02
コメント(0)

2025年11月30日(日)黒く塗装した1mm 厚 x 2mm 幅のウォールナット板材で、ウェイストレール・シアーレール・ドリフトレールを製作、舷側に取り付ける。1mm 厚 x 1mm 幅・2mm 幅・4mm 幅のウォールナット板材でキャッピングレールを製作、黒く塗装してブルワーク上端に取り付ける。黒く塗装した2mm 厚 x 3mm 幅のウォールナット板材で、レールスタンチョン(手摺支柱)とティンバーヘッドを製作、キャッピングレールに取り付ける。黒く塗装した1.5mm 厚 x 4mm 幅のウォールナット材を加工して手摺を製作、レールスタンチョンに取り付ける。
2025.11.30
コメント(0)

2025年11月22日(土)快晴快晴。歩きめぐり日和。今回歩くのは、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」のうち、現在の新宿区戸山1~3丁目・西早稲田2~3丁目に当たる地区。07:25 東戸山小学校前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第96回 】を歩き始める。戸山1~3丁目。江戸時代、戸山一帯は尾張藩徳川家(61.95万石 御三家)の下屋敷で、「戸山荘」と呼ばれた。切絵図には「戸山 尾刕(州の異字体)殿」とある。明治維新後 跡地は陸軍用地として利用され、現在は戸山公園・戸山ハイツ・学習院女子大学・戸山高校などになっている。尾張藩下屋敷の時代には広大な池泉回遊式庭園が造られ、水戸藩徳川家(35万石 御三家)の小石川後楽園と並ぶ名園として知られた。池を掘った残土で造成された築山「玉円峰」が、現在も戸山公園に残っていて、「箱根山」(標高44.6m)と呼ばれている。西早稲田2~3丁目。神田川に架かる「面影橋」は、切絵図には「姿見橋」とある。橋名の由来については、戦国時代の武将の娘の於戸姫(おとひめ)が、数々の悲劇を嘆いて川に身を投げた時に詠んだ和歌から名付けられたなど、諸説ある。「甘泉園公園」を訪れる。安永3年(1774年)この地が清水徳川家(賄料10万石 御三卿)の下屋敷になり、回遊式の大名庭園が造られた。当時は茶の湯に適した湧水があり、これが園名の由来。切絵図には「清水殿」とある。明治時代には横浜正金銀行頭取の相馬永胤が邸地を取得、邸宅と庭園を構えた。その後、早稲田大学の付属施設を経て、現在は公園として開放されている。甘泉園公園に隣接する「水稲荷神社」を訪れる。創建年代は不詳。元禄15年(1702年)神木の根元から霊水が湧き出し、これが眼病に効くとして評判になったことから、水稲荷神社と改名した。安永8年(1779年)には境内に、古墳を利用した富士塚「高田富士」が築かれた。昭和38年(1963年)早稲田大学との土地交換により、水稲荷神社は旧社地から500mほど北西の現在地へ遷座。この際 新しい境内に富士塚が復元されたが、別当寺「宝泉寺」は旧地に残った。切絵図には旧社地に「水稲荷社」「高田冨士」「別當 宝泉院」とある。切絵図に「高田馬場」とあり、跡地の一隅に「高田馬場跡」解説板がある。寛永13年(1636年)に造られた馬場は、旗本たちの馬術の練習場だった。元禄7年(1694年)堀部武庸(たけつね、安兵衛)が、当地で行われた決闘における助太刀で活躍したことが評判となり、播磨国赤穂藩浅野家(5.3万石 外様)に仕官した。水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」がある。「穴八幡宮」を訪れる。社伝によると、康平5年(1062年)源義家が奥州平定の帰途に八幡神を祀ったのが始まりとされる。寛永18年(1641年)宮守の庵を造る際、境内に横穴が見つかり中から金銅の御神像が現れたことから、以降 穴八幡宮と呼ばれるようになった。3代将軍徳川家光による崇敬が篤く、穴八幡宮は江戸城北の総鎮護に、慶安2年(1649年)には将軍家の祈願所になった。切絵図には「穴八幡」「別當 放生寺」とある。09:30 馬場下町交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第96回 】はここで終わり。東戸山小学校前 → 馬場下町交差点 : 8.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 366.9 km )
2025.11.22
コメント(0)

2025年11月20日(木)1mm 厚・2mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせ、6mm 厚のラダー(Rudder 舵)を製作する。ヒンジ(Hinge 蝶番)を製作する。材料は0.2mm 厚の真鍮板。ヒンジは薬品で黒染めする。
2025.11.20
コメント(0)

2025年11月15日(土)晴少し雲があるが、歩きめぐり日和。今回歩くのは、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」のうち、現在の新宿区新宿5~7丁目に当たる地区。07:45 花園小学校前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第95回 】を歩き始める。新宿の総鎮守「花園神社」を訪れる。寛永年間(1622~44年)旧社地が旗本屋敷に取り込まれ、幕府に訴えたところ、尾張藩(61.95万石 御三家)下屋敷の一部である現在地を拝領、遷座した。切絵図には神社の記載がないが、尾張藩下屋敷は「尾刕(州の異字体)殿」と載っている。「西光庵」を訪れる。文化12年(1815年)の創建。切絵図には「西光寺」とある。ここには尾張徳川家14代藩主慶勝の墓所がある。慶勝は尾張藩の支藩である高須藩(3万石 親藩)の出身で、高須4兄弟の長男。弟には尾張藩15代藩主茂徳(もちなが)、陸奥国会津藩(23万石 親藩)藩主松平容保(かたもり)、伊勢国桑名藩(11.3万石 親藩)藩主松平定敬(さだあき)がいる。「西向(にしむき)天神社」を訪れる。安貞2年(1228年)創建と伝わる。切絵図に「西向天神」「不二」とある。天保13年(1842年)に富士塚が築造されたが、明治時代に撤去された。現在 天神社南隣りの天神山児童遊園にある富士塚は、大正14年(1925年)に再建されたもの。天神社北隣りの「大聖院」は、明治維新による神仏分離まで、西向天神社の別当寺だった。境内に中世の板碑「紅皿の碑」がある。紅皿は、太田道灌の「山吹の里」伝説に登場する少女。「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」で知られる。道灌の死後、紅皿は尼となってこの近辺に庵を建て、死後その地に葬られたという。切絵図に「松平佐渡守」とあるのは、出雲国広瀬藩松平家(3万石 親藩)下屋敷。広瀬藩は出雲国松江藩(18.6万石 親藩)の支藩。明治時代に下屋敷跡地は旧加賀藩主前田侯爵家の別邸となり、当時の地図に屋敷が記されている。現在は新宿イーストサイドスクエアなどが建っている。「久左衛門坂」を上る。切絵図には「久右(左の誤記と思われる)エ門坂」とある。この坂道を開いたのが、徳川家康の江戸入府以前から当地に住んでいた島田久左衛門だったことに、坂名は由来する。09:05 東戸山小学校前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第95回 】はここで終わり。花園小学校前 → 東戸山小学校前 : 5.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 358.9 km )
2025.11.15
コメント(0)

2025年11月10日(月)スターンギャラリーの外枠を取り付ける。材料は、黒く塗装した2mm 厚 x 4mm 幅のウォールナット板材を加工。スターンギャラリーにシアーレール・ウェイストレール等を取り付ける。材料は、黒く塗装した1mm 厚 x 2mm 幅のウォールナット板材を加工。曲線部分は 0.39mm 厚の航空ベニヤを加工。
2025.11.10
コメント(0)

2025年11月04日(火)晴06:03 JR横須賀線 東戸塚駅下車。運賃 740円。今日は東海道歩きの最終区間、 日本橋まで歩く予定。06:15 品濃(しなの)。今年5月8日の【 東日本支線の旅 37日目/東海道 13日目 】の続きを歩き始める。快晴。今朝の横浜の最低気温は10.4℃ 。歩いていれば、寒さを感じない。06:20 「品濃一里塚」。東西の両塚が現存する。06:30 「境木地蔵」。地蔵堂の建立は 1659年(万治2年)、泥棒除けに御利益があるという。ここまでが相模国。ここからが武蔵国。07:05 「保土ヶ谷宿」。本陣は1軒。苅部家が務めた。跡地に通用門が残っている。苅部家の祖先は小田原北条氏の家臣といわれ、1601年(慶長6年)幕府の命により保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を拝命。1870年(明治3年)に本陣が廃止されるまで、11代にわたり三役を務めた。08:10 「神奈川宿」。宿場が設置されたのは 1601年(慶長6年)。本陣は2軒。神奈川本陣は石井家、青木本陣は鈴木家が務めた。解説板があるだけで、遺構はない。ここから3.8kmほど、単調な国道15号線を歩くことになる。08:30 あんぱん休憩。09:10 東海道は国道15号を離れ、生麦の旧道に入る。1862年(文久2年)この旧道で、薩摩藩島津久光の行列に遭遇したイギリス人3名を薩摩藩士が殺傷する「生麦事件」が起きた。「生麦事件碑」「生麦事件発生場所」解説板がある。10:15 「松尾芭蕉句碑」。1694年(元禄7年)郷里の伊賀に帰る芭蕉を、門人たちが川崎宿のはずれで見送った。別れを惜しむ芭蕉が詠んだ句が「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」。この5か月後、芭蕉は大阪で没した。10:35 「川崎宿」。1623年(元和9年)宿場が設置された。本陣は2軒(かつては3軒)。上の本陣は佐藤家、下の本陣は田中家が務めた。解説板があるだけで、遺構はない。10:45 「六郷橋」。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いを前にした徳川家康が、多摩川に「六郷大橋」を架橋させた。橋は何度か架け直されたが、1688年(貞享5年)の洪水により流失して以降、再建されなかった。1709年(宝永6年)川崎宿の本陣・問屋を務める田中休愚が、多摩川の渡船「六郷の渡し」を川崎宿が請け負う許可を幕府から得たことにより、宿場の繁栄をもたらす基礎を築いた。多摩川を渡る。ここまでが神奈川県。ここからが東京都。国道15号線を行く。11:30 あんぱん休憩。12:30 「鈴ヶ森刑場跡」。1651年(慶安4年)幕府により開設。丸橋忠弥(由井正雪の乱)・八百屋お七・天一坊などが、この地で処刑された。東海道はここで国道15号線を離れる。13:10 「品川宿」。 1601年(慶長6年)宿場が設置された。本陣は1軒(江戸時代前期には2軒あった)。本陣は鶴岡家・鳥山家など度々入れ替わった。跡地には石標・解説板がある。品川宿は遊郭としても栄え、吉原と双璧をなした。品川宿を出ると、また国道15号線。都心のビジネス街・繁華街を行く。休憩する場所もなく、歩き続けるしかない。13:45 「高縄大木戸跡」。東海道の江戸府内入口の木戸は、1710年(宝永7年)に札の辻(現在の港区芝)から移転してきた。現在、東側の石垣が保存されている。品川駅前・銀座などは外国人観光客で混雑していて、通行の邪魔。15:05 「日本橋」に到着する。京都三条大橋から 492.8 km 。JR新日本橋駅 15:18 発の総武線に乗り、15:35 自宅に帰り着く。運賃 170円。足掛け3年、延べ14日、交通費・宿泊費 74640円の旅だった。国府津 → 品濃 : 38.5 km( 東海道累計 492.8 km ) ( 東日本支線の旅累計 1249.5 km )
2025.11.04
コメント(0)

2025年10月30日(木)2mm 厚 x 4mm 幅のウォールナット板材でハッチの枠を製作、クォーターデッキビームに取り付ける。クォーターデッキの一部に、1mm 厚のウォールナット板材で甲板の下張りをする。甲板下張りにミズンマスト用を穴を開け、ミズンチャンネルを取り付ける。
2025.10.30
コメント(0)

2025年10月25日(土)曇このところの東京は、曇り空と雨降りばかり。今日も肌寒い。今回歩くのは、文久2年(1862年)板「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」のうち、現在の新宿区新宿1~4丁目に当たる地区。07:55 新宿4丁目南交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第94回 】を歩き始める。「天龍寺」を訪れる。天和3年(1683年)に牛込納戸町(現在の新宿区納戸町)から現在地へ移転してきた。ここには江戸三名鐘のひとつとされる「時の鐘」がある(他のふたつは上野の寛永寺と市谷の亀岡八幡宮)。現在の梵鐘は3代目、明和4年(1767年)の鋳造。かつて境内に池があり、渋谷川の源流のひとつだった。切絵図の天龍寺にも池と川が描かれている。切絵図に「内藤新宿」とあるのは、元禄11年(1698年)に幕府から設置が許可され、翌年開設された宿場。信濃国高遠藩内藤家(3.3万石 譜代)下屋敷の一部がその用地に当てられたことに、宿場名は由来する。日本橋から2里弱の距離にあり、甲州街道の最初の宿場になった。切絵図の内藤新宿の西端に「追分」とあるのは、甲州街道と青梅街道の分岐点。甲州街道はここで南に折れてから西へ、青梅街道は直進して西へ向かう。現在、新宿3丁目交差点の一角に、「新宿原標 ここが追分」と記された円形の絵地図がある。「太宗寺」を訪れる。慶長元年(1596年)頃に開かれた草庵が起源とされる。高遠藩内藤家の菩提寺で、歴代藩主の墓所が置かれた。境内にある江戸六地蔵のひとつ「銅造地蔵菩薩坐像」は正徳2年(1712年)の造立。「閻魔像」で知られ、切絵図にも「太宗寺 エンマ堂」とある。「成覚寺(じょうかくじ)」を訪れる。文禄3年(1594年)創建と伝わる。切絵図には「成覚院」とある。境内の「子供合埋碑」は、内藤新宿で死んだ飯盛女(遊女、子供ともいう)の供養碑。黄表紙といわれるジャンルを開拓し、寛政元年(1789年)に没した戯作者恋川春町の墓所がある。「正受院」を訪れる。文禄3年(1594年)創建。切絵図には「正受院 三途川老婆」とある。境内の「奪衣婆像」は咳止めに霊験があるとされ、幕末頃には江戸中から参詣者を集めた。頭から綿を被っているのは、祈願の御礼に綿を奉納する習慣があったためで、「綿のおばば」とも呼ばれる。切絵図に「百人組」「二十五キト云」とある。百人組は幕府の鉄砲隊で、伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、各組100人の同心で構成された。二十五騎組は現在の新宿1丁目に屋敷があり、与力25騎(他の3組は20騎)が同心を束ね、屋敷地は「二十五騎町」と呼ばれるようになった。08:55 花園小学校前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第94回 】はここで終わり。新宿4丁目南交差点 → 花園小学校前 : 3.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 353.6 km )
2025.10.25
コメント(0)

2025年10月20日(月)2mm 厚のウォールナット板材でロッジングニー(Lodging knee 肘材)を製作、クォーターデッキビーム(Quarter deck beam 後甲板梁)に取り付ける。
2025.10.20
コメント(0)

2025年10月13日(月)曇スポーツの日。曇り空。今回歩くのは、文久2年(1862年)板「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」のうち、現在の渋谷区千駄ヶ谷1~6丁目に当たる地区。07:30 仙寿院交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第93回 】を歩き始める。切絵図に「紀伊殿」とあるのは、紀州徳川家(55.5万石 御三家)の抱屋敷(かかえやしき)。抱屋敷とは、幕府から拝領した屋敷ではなく、大名が自費で購入した土地に建てた屋敷。明治10年(1877年)徳川宗家が紀州屋敷の跡地に本邸を構え、世間からは「千駄ヶ谷御殿」と呼ばれた。当時の徳川宗家当主は16代家達(いえさと)。明治17年(1884年)家達は公爵に叙され、明治20年(1887年)には明治天皇が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に行幸した。現在、徳川公爵邸の跡地には東京体育館などがある。「鳩森(はとのもり)八幡神社」を訪れる。貞観2年(860年)慈覚大師(円仁)が正八幡宮として奉ったことが縁起と伝わる。切絵図には「千駄ヶ谷八幡宮 別當瑞圓寺」とある。境内には寛政元年(1789年)築造の冨士塚がある。標高は6mほど。頂上近くには富士山の溶岩が配置されている。「聖輪寺」を訪れる。神亀2年(725年)行基菩薩の開基と伝わる。切絵図には「聖輪寺 観音」とある。行基菩薩の作といわれる本尊の如意輪観音像があったが、空襲に遭って焼失した。寺の南側の「観音坂」の名前は、聖輪寺の如意輪観音に由来する。「千壽院」を訪れる。正保元年(1644年)徳川家康の側室養珠院(お萬の方)の発願により創建された。養珠院は、紀州徳川家初代藩主頼宜(家康の十男)と水戸徳川家(35万石 御三家)初代藩主頼房(家康の十一男)の生母。切絵図には「千壽院 新日暮シト云」とある。江戸時代、この地の風景が谷中(現在の台東区)の日暮里(にっぽり)に似ていたことから、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれた。08:50 新宿4丁目南交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第93回 】はここで終わり。仙寿院交差点 → 新宿4丁目南交差点 : 6.5 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 349.8 km )
2025.10.13
コメント(0)

2025年10月10日(金)2mm 厚 x 3mm 幅のウォールナット板材を曲げてキャンバー(Camber 反り)を付け、クォーターデッキビーム(Quarter deck beam 後甲板梁)を製作。フレームに取り付ける。2mm 厚 x 3mm 幅のウォールナット板材でカーリング(carling 部分的縦梁)を製作。クォーターデッキビームに取り付ける。
2025.10.10
コメント(0)

2025年10月04日(土)曇一時晴朝の空気がひんやり。今回歩くのは、元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の新宿区信濃町・大京町・霞ヶ丘町に当たる地区。07:45 長善寺前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第92回 】を歩き始める。信濃町・大京町。信濃町の町名は、かつてこの地に永井信濃守尚政の下屋敷があったことに由来する。尚政は2代将軍徳川秀忠の近習となり、大坂の陣で戦功を挙げた。寛永10年(1633年)下総国古河藩から加増移封され、山城国淀藩永井家(10万石 譜代)の初代藩主となった。切絵図を見ると、この近辺に永井姓の大名・旗本5家の屋敷がある。「永井肥前守」とあるのは、美濃国加納藩永井家(3.2万石 譜代)下屋敷。「永井遠江守」とあるのは、摂津国高槻藩永井家(3.6万石 譜代)下屋敷。他に「永井若狭守」「永井鉄弥」「永井金三郎」とある。切絵図に「本庄宮内大輔(くないたいふ)」とあるのは、美濃国高富藩本庄家(1万石 譜代)下屋敷。5代将軍徳川綱吉の近習として仕えた本庄道章が、宝永6年(1709年)陣屋を高富に移して高富藩初代藩主となった。現在、下屋敷跡地には慶応義塾大学病院がある。霞ヶ丘町。切絵図に「六道辻」とある。かつてこの周辺は御家人屋敷や組屋敷が集まる一画で、道が六差路になっていたため六道辻と呼ばれた。場所は現在の神宮外苑軟式野球場の辺りになるが、六差路の痕跡は残っていない。切絵図に「御焰焇蔵(ごえんしょうぐら)」とある。幕府の火薬庫があったところで、火薬の製造と管理を担っていた。切絵図では近くに「御鉄炮場」とある。ここで御先手組や百人組が射撃練習を行っていた。明治19年(1886年)日比谷練兵場に代わる練兵場として「青山練兵場」が設置され、御焰焇蔵と御鉄炮場の跡地はこの敷地に取り込まれた。現在、御焰焇蔵の跡地には国立競技場がある。08:30 仙寿院交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第92回 】はここで終わり。長善寺前 → 仙寿院交差点 : 3.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 343.3 km )
2025.10.04
コメント(0)

2025年09月30日(火)黒く塗装した1mm 厚・2mm 厚のウォールナット板材を加工、クォーターギャラリー上部を製作する。黒く塗装した0.5mm 厚 x 3mm 幅のタンガニーカ板材を、長さ3mmにカットしてウロコ状に加工、クォーターギャラリーの屋根に取り付ける。
2025.09.30
コメント(0)

2025年09月23日(火)晴秋分の日。東京ではこの数日、ようやく朝晩が涼しくなった。今回歩くのは、元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の新宿区四谷4丁目・内藤町に当たる地区。07:35 愛住公園 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第91回 】を歩き始める。「茗荷坂」を上る。江戸時代後期まで坂下付近が茗荷畑だったことに、坂名は由来する。元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」には坂名が記されていないが、嘉永7年(1854年)板「牛込市谷大久保絵図」には「ミヤウカ坂」とある。切絵図に「内藤駿河守」とあるのが、信濃国高遠藩内藤家(3.3万石 譜代)の下屋敷。元禄4年(1691年)高遠藩内藤家初代藩主として内藤清枚(きよかず)が入封した。明治維新後、広大な下屋敷跡地は農業振興を目的とした内藤新宿試験場を経て、明治39年(1906年)皇室庭園である「新宿御苑」が開園。昭和24年(1949年)一般公開された。切絵図に「大木戸」とある。元和2年(1616年)甲州街道から江戸市中への出入口として、江戸幕府によって石垣と木戸が設置された。当初は夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792年)以降は木戸が撤去された。「四谷大木戸跡」碑がある。切絵図に「玉川御上水 御改場」「水番」とある。承応2年(1653年)江戸に飲料水を供給する玉川上水が完成。水番所では水質保持・水量管理を担い、地中の木樋や石樋を用いて市中に配水した。玉川上水開削の由来を記した「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」がある。「多武峯(とおのみね)内藤神社」を訪れる。この神社は高遠藩内藤家下屋敷の邸内社を起源とする。境内の「駿馬塚」解説板には、内藤家が徳川家康から広大な邸地を拝領した経緯が、伝説として記されている。「田安鎮護稲荷神社」を訪れる。この社は田安徳川家(御三卿)下屋敷の邸内社だった田安稲荷神社と、大和国柳生藩柳生家(1万石 譜代)下屋敷の邸内社だった鎮護稲荷神社が合祀されたもの。切絵図に「田安殿」「桺(柳の旧字体)生但馬守」とある。「長善寺」を訪れる。天正3年(1575年)に開かれた草庵が起源とされる。通称「笹寺」。2代将軍徳川秀忠が立ち寄った際、境内に笹が多く繁っているのを見て名付けたと伝わる。切絵図には「長善寺 笹寺ト云」とある。08:15 長善寺前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第91回 】はここで終わり。愛住公園 → 長善寺前 : 2.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 339.7 km )
2025.09.23
コメント(0)

2025年09月20日(土)フレームとティンバーの不要部分をカットする。ブルワーク内側に1mm 厚 x 4mm 幅のウォールナット板材を張る。ブルワーク上端の右舷・左舷3ヶ所ずつに、クォーターデッキのガンポートを製作する。1.5mm 厚 x 7mm 幅のウォールナット板材を加工して4枚貼り合わせ、6mm 厚のスターンポストを製作。インナースターンポストに取り付ける。
2025.09.20
コメント(0)

2025年09月13日(土)曇一時小雨曇り空なので、暑さはしのげる。今回歩くのは、元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の新宿区片町・住吉町・市谷台町・富久町・舟町・愛住町に当たる地区。07:40 合羽坂下交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第90回 】を歩き始める。片町・住吉町・市谷台町・富久町。切絵図にある「合羽(かっぱ)坂」を上る。かつてこの辺りは湿地で、坂下に池があり、大雨が降るとカワウソが現れることがあったという。これを周辺の住民が河童と勘違いしたことに、坂名は由来する。河童が転じて合羽になった。切絵図に「安養寺」とある。その北側の「安養寺坂」を上る。安養寺は天正2年(1574年)創建。市谷佐内町富士見坂辺りにあったが、明暦2年(1656年)尾張藩上屋敷の囲い込みにより寺地明け渡しとなり、現在地へ移転した。「自證院」を訪れる。寛永17年(1640年)尾張藩2代藩主徳川光友の正室千代姫の生母お振りの方を供養するため創建された。寛政12年(1800年)尾張藩から堂宇の寄進があり、使われたヒノキに節目が多かったことから「ふし寺」「瘤(こぶ)寺」とも呼ばれるようになった。切絵図には「自證院 俗ニ コブ寺ト云」とある。舟町・愛住町。「暗(くらやみ)坂」を上る。坂の左右に樹木が繁って暗かったことに、坂名は由来する。切絵図には「クラヤミサカ」とある。切絵図にある「西迎寺(さいこうじ)」を訪れる。延徳2年(1490年)太田道灌の菩提を弔うため江戸城紅葉山に創建。寛永年間(1624~44年)江戸城拡張工事に伴い現在地に移転した。西迎寺境内の「阿弥陀如来坐像」は、元禄7年(1694年)造立の青銅製。像高が237cm 、台座高が135cm ある。梵鐘は貞享3年(1686年)鋳造の銅製、総高150cm 。切絵図にある「全勝寺」を訪れる。天正6年(1578年)麹町に創建。元和5年(1619年)現在地に移転した。全勝寺には江戸時代中期の尊王思想家である山県大弐の墓所と記念碑がある。著書で尊王論を説いたり幕政批判を行ったりしたため捕えられ、明和4年(1767年)伝馬町の獄舎で刑死した。08:35 愛住公園 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第90回 】はここで終わり。合羽坂下交差点 → 愛住公園 : 4.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 336.8 km )
2025.09.13
コメント(0)

2025年08月23日(土)曇時々晴東京は今日で6日連続の猛暑日である。今回歩くのは、元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の新宿区四谷本塩町・市谷木村町・四谷坂町・四谷三栄町・荒木町に当たる地区。07:25 四谷見附交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第89回 】を歩き始める。外堀通りの「高力(こうりき)坂」を下る。坂上の幕臣高力家の屋敷に高力松という有名な松があり、坂名はこの松に由来する。高力家は家禄3000石の旗本。切絵図には「高力主税助(ちからのすけ)」とある。切絵図に「尾張殿 市ヶ谷御上屋舗」とあるのが、尾張藩徳川家(61.95万石 御三家)上屋敷。慶長12年(1607年)徳川家康の九男義直が入封、尾張藩が成立した。明治4年(1871年)広大な上屋敷跡地は兵部省が接収、陸軍用地となった。現在は防衛省の庁舎が置かれている。「比丘尼(びくに)坂」を下る。かつて坂の近くに尾張家の別邸があり、そこに剃髪した老女がいたことに、坂名は由来するという。藩主の代替わりに伴い失職した御殿女中は比丘尼と呼ばれた。切絵図の坂下に「尾刕(州の異字体)藩中」とあるのが、これがその別邸かも知れない。「桝箕(ますみ)稲荷神社」を訪れる。元和年間(1615~24年)坂町の鎮守として創建。当初は真須美稲荷という社名だったと伝わる。「坂町坂」を上る。切絵図に「坂丁(町)」とあるが、坂名はない。町名(四谷坂町)に因んで坂町坂と呼ばれるようになったのは、明治時代になってから。切絵図に「松平範次郎」とあるのは、美濃国高須藩松平家(3万石 親藩)の上屋敷。元禄13年(1700年)尾張藩2代藩主徳川光友の次男松平義行が入封、尾張藩の支藩として高須藩は成立した。切絵図の松平範次郎は、10代藩主義建(よしたつ)の通称。高須藩上屋敷の中央部分は谷になっていて、流れの出口に土橋を築いて堰き止めることにより、「策(むち)の池」という大池を擁する回遊式庭園が造られた。明治維新後、跡地は松平子爵邸を経て、料亭や茶屋が建ち並ぶ花街に変貌した。現在、策の池は埋め立てられて小さな池になってしまった。畔に「津の守(つのかみ)弁財天」を祀っている。高須藩上屋敷の邸内社を起源とする「金丸稲荷神社」を訪れる。玉垣に刻まれた寄進者に「四谷三業組合」「料亭 にしき美」「芸妓屋 竹春」などとあり、花街の名残りが見られる。「津の守坂」を下る。坂の西側に上屋敷があった高須藩松平家では、歴代藩主の多くが武家官位に摂津守を称した。坂名はこれに由来する。08:40 合羽坂下交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第89回 】はここで終わり。四谷見附交差点 → 合羽坂下交差点 : 5.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 332.6 km )
2025.08.23
コメント(0)

2025年08月20日(水)0.5mm 厚と1mm 厚のウォールナット板材を加工してクォーターギャラリーの窓枠を製作、ギャラリー外板に取り付ける。板材は白く塗装したものを使う。
2025.08.20
コメント(0)

2025年08月13日(水)曇時々晴ここ数日、東京では猛暑がひと休み。今回歩くのは、元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の新宿区須賀町・左門町・四谷1~3丁目に当たる地区。08:05 観音坂下 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第88回 】を歩き始める。「戒行寺坂」を上る。坂名の由来は切絵図に記されている「戒行寺」で、現在も坂の北側にある。戒行寺は、天明7年(1787年)に火付盗賊改方となった旗本長谷川平蔵宣以(のぶため)の家の菩提寺で、境内に供養碑がある。火付盗賊改方は、放火・強盗・賭博などの重罪を取り締まった。切絵図にある「西応寺」を訪れる。西応寺には最後の剣客といわれた榊原鍵吉の墓がある。御家人の家に生まれた鍵吉は、幕末期に講武所剣術師範役を務め、明治20年(1887年)には明治天皇の前で名刀同田貫を用いて兜割りを成功させたと伝わる。切絵図にある「勝興寺」を訪れる。勝興寺には御様御用(おためしごよう 刀剣の試し切り役)を務めた山田浅右衛門(代々の当主が名乗った名前)の6代吉昌と7代吉利(吉年)の墓がある。山田家は斬首刑の執行役も兼ね、安政の大獄に際し吉利が吉田松陰・橋本佐内らを斬首したとされる。「須賀神社」を訪れる。寛永11年(1634年)赤坂清水谷の稲荷社が現在地に遷座、寛永14年(1637年)日本橋大伝馬町の牛頭天王社を合祀した。切絵図には「稲荷山 宝蔵院 天王社」とある。宝蔵院は別当寺、稲荷山はその山号。明治元年(1868年)神仏分離で須賀神社と改称した。「円通寺坂」を上る。坂名の由来は切絵図に記されている「円通寺」で、現在も坂の西側にある。「於岩稲荷田宮神社」を訪れる。切絵図には「於岩イナリ」とある。先手組同心田宮家の邸内社を起源とし、文政8年(1825年)に鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が初演され、信仰を集めた。明治12年(1879年)於岩稲荷は火事で焼失、京橋区(現在の中央区)新川へ移転した。昭和27年(1952年)現在地に於岩稲荷田宮神社が再建されたため、四谷と新川に2つの於岩稲荷田宮神社が存在する。「本性寺」を訪れる。切絵図には「毘沙門天 本性寺」とある。境内には北向毘沙門堂があり、毘沙門天像が安置されている。御堂と像は5代将軍徳川綱吉の側室瑞春院殿から寄進されたもの。御堂は江戸城本丸にあったものといわれ、建造年代は元禄年間(1688~1704年)とされる。切絵図に「松平佐渡守」とあるのは、出雲国広瀬藩松平家(3万石 親藩)上屋敷。寛文6年(1666年)松江藩初代藩主松平直政(徳川家康の孫)の次男近栄(ちかよし)が3万石を分与され、松江藩(18.6万石 親藩)の支藩として広瀬藩は立藩した。跡地は四谷中学校になっている。08:50 四谷見附交差点 。切絵図に「四ツ谷御門」とある。甲州街道から四ツ谷御門への道は防衛上の理由でクランク状。大正2年(1913年)に四谷見附橋が完成するまで、路面電車もクランク状に走っていた。【 江戸切絵図歩きめぐり 第88回 】はここで終わり。観音坂下 → 四谷見附交差点 : 3.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 327.3 km )
2025.08.13
コメント(0)

2025年08月10日(日)1mm 厚のウォールナット板材を加工、クォーターギャラリーのフレームに外板を張る。ギャラリー下部は黒く塗装したウォールナット板材で製作する。
2025.08.10
コメント(0)

2025年08月02日(土)曇台風9号の接近により、明け方まで雨が降っていた。今回歩くのは、元治元年(1864年)板「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の新宿区南元町・若葉1~3丁目に当たる地区。07:50 JR信濃町駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第87回 】を歩き始める。南元町。「一行院 千日谷会堂」を訪れる。切絵図には「一行寺」とある。創建は慶長年間(1596~1615年)。開基は徳川家に仕えた武将の永井直勝。一行院では千日毎に永井家の供養を行ったことから千日寺と号し、付近一帯の谷地形の町は千日谷と称されるようになった。「出羽坂」を上る。江戸時代、坂上の高台に旗本永井家の屋敷があった。幕末頃の当主は永井直次で、家禄は7000石。切絵図には「永井金三郎」とある。明治維新後、永井家の屋敷跡地に出雲国松江藩(18.6万石 親藩)の藩主松平定安の三男直亮(なおあき)伯爵の屋敷が移転してきた。定安の武家官位が出羽守だったことに、坂名は由来する。若葉1~3丁目。「鉄砲坂」を上る。切絵図には「テツホウサカ」とある。坂名は由来は、この辺りにあった鉄砲組屋敷。切絵図では坂下の北側と南側に「御持クミ」「御持組」とある。持組は幕府の組織で、将軍直衛の弓・鉄砲隊。切絵図にある「西念寺」を訪れる。徳川家康の関東入府に従った服部半蔵正成(まさしげ)が、非業の死を遂げた松平信康(家康の嫡男)を供養するため、麹町清水谷(現在の千代田区紀尾井町)に庵を設けたことから西念寺は始まる。正成の没後に西念寺は完成。寛永11年(1634年)江戸城拡張に伴い、清水谷から現在地に移転した。西念寺は服部家の菩提寺で、境内に正成の墓がある。半蔵は服部家当主が代々受け継ぐ名で、いわゆる服部半蔵として知られているのは正成である。「東福院坂」を下る。坂の西側にあり、切絵図にも記されている「東福院」に、坂名は由来する。坂の東側の「愛染院」には、江戸時代中期の国学者塙保己一(はなわ ほきいち)の墓がある。保己一は7歳で失明したにもかかわらず、国学・国史を主とする一大叢書「群書類従」を編纂した。08:30 観音坂下。「観音坂」の坂名は、切絵図にもある「真成院」の潮踏観音に由来する。江戸時代以前、四谷周辺が海原を思わせる原野だったことから潮踏の里と呼ばれ、潮踏観音の名前の由来と伝わる。【 江戸切絵図歩きめぐり 第87回 】はここで終わり。信濃町駅 → 観音坂下 : 2.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 324.1 km )
2025.08.02
コメント(0)

2025年07月30日(水)1mm 厚と1.5mm 厚のウォールナット板材を加工、船尾側面にクォーターギャラリーのフレームを製作する。
2025.07.30
コメント(0)

2025年07月26日(土)快晴昨日と今日、東京は猛暑日である。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「今井谷六本木赤坂絵図」と元治元年板(1864年)「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」のうち、現在の港区元赤坂1~2丁目に当たる地区。07:35 赤坂警察署前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第86回 】を歩き始める。切絵図に「紀伊殿」とあるのは、紀州徳川家(55.5万石 御三家)中屋敷。初代藩主は、元和5年(1619年)に駿府藩から転封した徳川家康の十男頼宣(よりのぶ)。8代将軍吉宗と14代将軍家茂(いえもち)は紀州徳川家の出身。明治維新後 紀州藩中屋敷は政府が接収、帝室(現在の皇室)に献上された。明治6年(1873年)失火により皇居が焼失した際には明治天皇がこの地に移り、明治21年(1888年)に新皇居(明治宮殿)が落慶するまでの間 皇居としていた。現在 元赤坂2丁目のほぼ全域が、仙洞御所・秋篠宮邸・三笠宮邸・高円宮邸などのある赤坂御用地と、隣接する迎賓館赤坂離宮で占められている。「豊川稲荷東京別院」を訪れる。三河国西大平藩大岡家(1万石 譜代)中屋敷内で祀られていた豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)を、明治20年(1861年)現在地に移転して東京別院となった。切絵図では旧社地に「大岡紀伊守」、現社地に「定火消御役屋舗 米津小太夫」とある。米津小太夫は家禄4000石の旗本で、嘉永7年(1854年)から赤坂御門外で火消役を務めていた。「弾正坂」を下る。坂の西側に上野国吉井藩松平家(1万石 親藩)の屋敷があり、代々の藩主が弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったことに、坂名は由来する。弾正台は律令制下の官庁のひとつで、弾正大弼はその次官。切絵図には「松平左兵衛督(さひょうえのかみ)」とある。切絵図にある「紀伊国坂」を上る。坂名の由来は、坂の西側にあった紀州徳川家の中屋敷。坂上の「迎賓館東門」は、紀州徳川家中屋敷の通用門を移築改修したものという。明治時代前期 中屋敷跡地に赤坂仮皇居が置かれた際には、この門が仮皇居の正門として使われた。「鮫河橋(さめがはし)坂」を下る。切絵図には「鮫ヶ橋坂」とある。かつてこの辺りは低湿地で、湧き水を集めた鮫河が、赤坂の溜池に流れ込んでいた。坂名の由来は、この流れに架かっていた鮫河橋とされる。「安鎮坂」を上る。坂名は由来は、かつて近くにあった安鎮(珍)大権現とされる。坂上は「権田原(ごんだわら)」。切絵図には「安チン坂」「ゴンダ原」とある。08:15 JR信濃町駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第86回 】はここで終わり。赤坂警察署前 → 信濃町駅 : 3.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 321.5 km )
2025.07.26
コメント(0)

2025年07月20日(日)スターンギャラリーの窓枠を製作、船尾外板に取り付ける。直線部分は0.5mm 厚と1mm 厚のウォールナット板材を加工。曲線部分はフレキシブルビーチを加工。材料は白く塗装したものを使う。
2025.07.20
コメント(0)
全1716件 (1716件中 1-50件目)