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「毎日更新」読レポ第2093カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 大規模エンカウンター・グループ「パーソンセンタード・ワークショップ」 ロジャーズが十数名単位の小グループによるベーシック・エンカウンター・グループに最も熱中したのは、西部行動科学研究所にいた1964年から1968年にかけてである。ベーシック・エンカウンター・グループは西海岸を中心とした人間性回復運動の一つの柱になった。1968年、66歳の時のロジャーズは、25名のスタッフを引き連れて「人間研究センター(Center for Studies of the Person)」を設立した。西部行動科学研究所のエンカウンター・グループ部門だけが大きくなりすぎてバランスが悪くなり、居心地がよくなくなったのだ。 人間研究センターという終の住処を設立し自らも70歳を迎えると、ロジャーズはいよいよ、数十名から百数十名という大規模な集団によるパーソンセンタード・ワークショップに取り組むようになった。これは、さまざまな国から集まった、主義、思想、人種、慣習などの異なる人々が、お互いの違いを認め、その独自性を尊重しながらも理解し合い、共に生活する一つのコミュニティの形成を目指したものである。 『パーソナル・パワー』(Rogers,1977)第8章には、パーソンセンタード・ワークショップの実際がくわしく記されている。あるワークショップは136名のメンバーにより16日間の集中的ワークショップ。ロジャーズによればこのワークショップは、それまで彼がおこなったあらゆる試みの中で、最も徹底的に人間中心の仕方でおこなわれた。その計画段階から個人間の交流、コミュニティの形成というどの局面をとっても、人間中心の実践の典型例となった。 いくつかのエピソードを紹介しよう。ロジャーズが案内書を作成して別のスタッフに送ったところ、批判的な反応が返され、3度目の書き直しでようやくOKが出た。参加費を各自の状況に応じて自分で決めてもらったところ、必要額に達しない。そこで応募者にワークショップの経済状況を説明して20%の増額を要請するとほとんどの人が了承し、無理な人は手紙や電話で理由を知らせてきた。 スタッフは開始後3日半の簡単なスケジュールだけを決め、全体の内容や計画は参加者自身が決めた。小グループが動かないことにロジャーズが焦りと責任を感じてそれを率直に打ち明けると、メンバーの自己表現が促進された。ある日のコミュニティ・ミーティングでは、スケジュールに縛られることへの疑問が出され、その後の計画を一切立てないまま終わる。次にいつ集まるのかすらわからず、ワークショップの続行が危ぶまれたが、ロジャーズが部屋に戻るとすでに100人のメンバーが集まっていた。暫定的に議長を設けて議事を進める方法は最後までとらなかった。まとまらなくても形に縛られず、各自の直観を生かしてみなが満足できる道を探したのである。 あるメンバーが提案者も明記せずコミュニティ・ミーティングを招集したところ、猛烈な批判や攻撃を浴びた。しかしそこで傷ついたメンバーにコミュニティ全体の注目が集まったのをきっかけに、コミュニティが一つになれた。こんな様子である。イメージがつかめただろうか。 ワークショップをどのように展開するかの決定は、終始、参加者の手に委ねられた。「決定権」は個人が握り、個々の人の意思決定からコミュニティ全体での意思決定がおのずと生まれている。その結果コミュニティは、個々人が相互に密接につながった一つの生命体のような動きをみせている。さらにワークショップ解散後も、それぞれの参加者の持ち場で、そこで得た気づきが生かされている。あたかも発酵菌か触媒のように、家族、教育、産業、精神衛生、政治などの分野で世界136ヵ所において影響を及ぼした。 PCA(パーソンセンタード・アプローチ)は、革命を直接目的とした社会運動をおこすためのスローガンではない。それは、ワークショップに参加した一人一人の人間が、それぞれの持ち場で個人がより大きな決定権を持つ方向へと改革運動を起こしていき、それが自然発生的かつ連鎖反応的に広がっていくことを目指したものである。1970年代半ばにおこなわれた大規模ワークショップには、合宿であったにもかかわらず、つねに75人から800人が参加した。 大規模なグループでは、一人の発言が重要である。一人がポツリと話した非常に個人的な言葉―それを聞いた多くの参加者は、そこに、自分自身が語られているように思う。そらは、まさに自分のことだ、と。どんな大人数のワークショップでも、こうした雰囲気がその基盤にあったのである。と著者は述べています。 パーソンセンタード・ワークショップでは、簡単なスケジュールだけを決め、全体の内容や計画は参加者自身が決めさせた。ワークショップをどのように展開するかの決定は、終始、参加者の手に委ねる。それは、「決定権」は個人が握り、個々の人の意思決定からコミュニティ全体での意思決定がおのずと生まれてくるからである。その結果コミュニティは、個々人が相互に密接につながった一つの生命体のような動きをみせているのであるようだ。 私も川づくりでの小さな話し合いのミーティングファシリティターを14年間、試行錯誤でおこなった来たが、中盤からは、参加者一人一人の発言をどんな些細なことも肯定的に受容的に受け止めことで、市民や河川管理者、河川技術者の参加者が一つになって、お互いを尊重しながら、言いたいことを言いながら行ううちに、一つのここで言われている一つの生命体のようなコミュニティとなっていった。 ある参加者は、「自分の話しを受け止めてくれて、このワークショップに参加して良かった」と言ってくれました。一人一人に「決定権」があるという意識は、一人一人の参加者の話を他のメンバーも肯定的に受容することだと思う。
2024.06.03
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「毎日更新」読レポ第2092カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 59歳ロジャーズの夢想 もっとも、ロジャーズの「政治」への関心は、60代後半から70代に突然わいてきたものではない。ロジャーズが50歳の時に書かれた「人間関係の集団間の関係におけるコミュニケーションの危機への対応」という論文がある。後の『オン・ビカミング・ア・パーソン』にも収録されているので、ロジャーズ自身お気に入りの論文の一つであることは間違いない。この論文の中でロジャーズは、当時冷戦状態にあったアメリカとソビエトの大統領同士のエンカウンター・グループをおこなうことができたら、と夢想している。 少し想像してみてほしいのだが、心理療法的な方向づけを持つ国際的なグループがロシアの指導者のところに行って、次のように話したとしよう。「私たちはあなたの見解とそれにもまして重要なアメリカ合衆国に対するあなた方の態度と感情を純粋に理解したいと思っています。もし必要であれば、私たちの述べる状況があなたが考えている状況と一致するまで、あなたの見解や感情をまとめてみたり、間違いがあればまとめ直してみたいと思っています」。そしてその次に、今度はアメリカの指導者にも同じことをしたらどうだろうか。そう想像してほしい。もしも両国の指導者が相手を罵倒せず明確に自分の感情を語ることでき、二人がそれぞれの考えをできるだけ広く公開することができたとするならば、それはとても大きな効果がもたらされるのではないだろうか。 1989年、84歳の時に人間研究センターで「ピース・プロジェクト(Peace Project)」を始める34年前のことである。と著者は述べています。 ロジャーズは、50歳の時の冷戦状態にあったアメリカとソビエトの大統領同士のエンカウンター・グループをおこなうことができたら、と夢想していた。もし、アメリカとソビエトの大統領同士のエンカウンター・グループをおこなったら、とても大きな効果がもたらされるのではないだろうかと夢想していた。おそらく、その夢想がロジャーズが84歳の時に人間研究センターで「ピース・プロジェクト(Peace Project)」を始める動機になったのだろう。 相手を罵倒せず明確に自分の感情を語ることができ、お互いにその感情を伝えてお互いに肯定的に受容していけば、対立や誤解、思い込みは減少していくと思う。今のロシアとウクライナやイスラエルとガザなどの戦争と言う名の大量殺人には至らなかったような気がする。私は、お互いの感情を純粋に使え合えば、少しはお互いの誤解や思い込みが徐々に解けたたと思う。
2024.06.02
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「毎日更新」読レポ第2091カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 エンカウンター・グループへの没頭(2/2) ロジャーズ著『エンカウンター・グループ(Caarl Rogers on Encounteer Group)』(Rogers,1970)に登場する参加者は言う。「私は前よりもオープンで、自発的になりました。私は前より自由に自分自身を表現できます。私は前よりも共感的になり、自分を抑えることもできるようになりました。自信もつきましたし、家族や友人や職場の同僚との関係の中で、私は前よりもずっと正直になりました。自分のほんとの感情をオープンに語ることができるようになったんです」 このように、ベーシック・エンカウンター・グループで参加者が体験する「変化」とは、決して特定の方向に「導く」ような性質のものではない。実情をよく知らない方が「エンカウンター・グループなどの自己啓発セミナー」といった表現を用いるの目にすることがあるが、エンカウンター・グループと自己啓発セミナーのい間には、参加者の自発生や主体性を主とするか、トレーナーの権威を主とするか、という根本的な違いがある。筆者も独自の工夫を加えたベーシック・エンカウンター・グループを毎年2回開催している(気づきと学びの心理学研究会アウエアネス http://morotomi.net/)と著者は述べています。 ロジャーズのエンカウンター・グループに参加した人は、「私は前よりもオープンで、自発的になりました。私は前より自由に自分自身を表現できます。私は前よりも共感的になり、自分を抑えることもできるようになりました。自信もつきましたし、家族や友人や職場の同僚との関係の中で、私は前よりもずっと正直になりました。自分のほんとの感情をオープンに語ることができるようになったんです」。これは、参加者を決して特定の方向に「導く」ような性質のものではない、ベーシック・エンカウンター・グループでないと述べている。 私も今以上に自発的になり、前より自由に自分自身を表現して、共感性を磨きたい。残念ながら、日本の人の多くは、職場では、残念ながら、主体性が低下しているのが実状です。やらされ感はびこっています。一度、ベーシック・エンカウンター・グループを体験するといいかもしれません。その前に、安全な発言や表現の環境が必要です。ミーティングファシリテーターをやっていてそう感じました。
2024.06.01
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「毎日更新」読レポ第2090カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 エンカウンター・グループへの没頭(1/2) 1963年、大学を辞めて自由になったロジャーズは、カリフォルニア州ラホヤの、美しい海を一望できる邸宅に移り住み、解放された気分でベーシック・エンカウンター・グループの実践に夢中に取り組んでいく。 ベーシック・エンカウンター・グループは、通常13名から50名ぐらいの人が集まって、1重の円になって座る。それぞれが自由に自分の気持ちを語り、聴いている側はそこで自分の中に湧き起こってきた気持ちをもとにかかわっていく。参加者の対人関係と個人の豊かな成長に焦点を当てたグループである。テーマもなく、課題も目標もなく、何の構造化もされていないことから非構造的エンカウンター・グループと呼ばれることもある。日本で國分康孝が創始した構造グループ・エンカウンター・グループと対比される時のみ、「非構造的」と呼ばれるが、本来の名称はベーシック・エンカウンター・グループである。 ロジャーズはたちまちにして世界のエンカウンター・グループ運動を代表する人物となった。幼少期、「抑圧家族」で育ったロジャーズは、喜怒哀楽を自由に表現することに困難を感じていたが、エンカウンター・グループにかかわっていく中で自分を解放していったのである。と著者は述べています。 ロジャーズは、大学を辞めてから、ベーシック・エンカウンター・グループの実践に夢中に取り組んでいた。ベーシック・エンカウンター・グループは、通常13名から50名ぐらいの人が集まって、1重の円になって座る。それぞれが自由に自分の気持ちを語り、聴いている側はそこで自分の中に湧き起こってきた気持ちをもとにかかわっていく。参加者の対人関係と個人の豊かな成長に焦点を当てたものであり、ロジャーズは、幼少期、「抑圧家族」で育ったので喜怒哀楽を自由に表現することに困難を感じていたが、エンカウンター・グループにかかわっていく中で自分を解放していったのである。 ベーシック・エンカウンター・グループは、つまり、私は、1対1のカウンセリングでなく、自分の中になかなか言葉化できなっかたもが、複数でのそれぞれの語りの刺激により、なかなか言葉化できなっかたものが、次第に自分の中に湧き上がり言葉化して自分が解放される気分の自由になっていくのだろうな。
2024.05.31
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「毎日更新」読レポ第2089カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 ロジャーズの「政治哲学」(5/5) 『パーソナル・パワー』を発刊時点で72歳。70歳を超えているというのに、世界中を駆け巡り、人種や宗教などの問題にかかわる紛争や葛藤が存在している場所に出かけていき、大規模エンカウンター・グループをおこなった。その功績を讃えられた後も、ノーベル平和賞の候補にまでなったのである。ファーソンはこう言っている。 カール・ロジャーズは政治の上では知られていない。彼の名前はカウンセリング技法、パーソナリティ理論、科学哲学、心理療法、研究、エンカウンター・グループ、学習者中心授業などの創始者として広範に喝采を博したことで思い出されやすい。(中略)しかし、私は最近彼の社会へ及ぼした累計的影響は(中略)当代の社会革命家の一人であると言つてもよいと政治的人物としてとらえるようになった。(Farson,1974) ロジャーズの「静かなる革命」は「人間関係の革命から始まる革命」である。 現代社会においても最も強く必要とされているのは、「関係の革命」である。「関係の革命」を通しての「人間の革命」である。「他者を支配し制御しようとする関係」から、「他者をその内側から理解し受け止めていく関係」への変革である。 こうした「関係の変革」が生じるならば、その関係にある個々人の「自分自身との関係」も変わり始める。一人一人が自分自身を何かのパターン(型)にはめて制御しようとするのを止めて、自分の内側深く、内臓感覚的な知恵とつながり始める。一人一人が、より深く自分自身であろうとし、既存の型(パターン)に従って思考し行動するのをやめる。さまざまな概念を絶えず内側の内臓感覚的な体験に突き戻し相互作用させつつ新たな何かを生み出しながら生きていく。それが新たな文化や社会の創出へつながっていくのである。 一人一人が、より自分らしく、ユニークで、創造的である社会をつくっていくことは、この世界の至るところで、他者をその内側から理解していく関係性を構築することから始まるのである。と著者は述べています。 ロジャーズは70歳を超えても『パーソナル・パワー』を発刊そて、世界中を駆け巡り、人種や宗教などの問題にかかわる紛争や葛藤が存在している場所に出かけていき、大規模エンカウンター・グループをおこなって、ノーベル平和賞の候補になる政治革命的な活躍している。ロジャーズは「他者を支配し制御しようとする関係」から、「他者をその内側から理解し受け止めていく関係」への変革へと働きかける。 その変革は、一人一人が自分自身を何かのパターン(型)にはめて制御しようとするのを止めて、自分の内側深く、内臓感覚的な知恵とつながり始め、一人一人が、より深く自分自身であろうとし、既存の型(パターン)に従って思考し行動するのをやめて。さまざまな概念を絶えず内側の内臓感覚的な体験に突き戻し相互作用させつつ新たな何かを生み出しながら生きていくものである。 ようは、私は、他者と対話の刺激を通して、自分自身の概念パターンを手放して、自分自身の中の自分と対話して湧き上げる、なかなか言葉になりにくいが、他者の刺激で次第に自分の中で湧いて来る言葉が言葉化して新しエナジーになり新しい創造性が生まれて、新しいモノを生み出すのであろう。概念パターンを手放して、新しい創造性が生まれていく活動をロジャーズは、続けていったのであろうと思う。
2024.05.30
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「毎日更新」読レポ第2088カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 ロジャーズの「政治哲学」(4/5)ロジャーズはまた、心理療法における政治を大きく変化させた出来事として、面接の録音と逐語録の公開を挙げている。ロジャーズ以前の心理学は、密室の中でおこなわれる秘密の行為であった。しかし、ロジャーズが当時開発されたばかりの録音装置を面接室に設置し、『カウンセリングと心理療法』において、ハーバード・ブライアンという仮名のクライアントとの面接の逐語記録を公開したことにより、心理療法の脱神秘化は一挙に推し進められた。これ以来、心理療法の公開性への動きが高まり、クライアントは自分に合う流派を選択できるようになった。秘密の中で守れていたセラピストの権威や絶対性は譲り渡され、クライアントに多くの決定権が与えられたのである。 ロジャーズにとっては日々の臨床で自明となっていたことが、実は、カウンセリングや心理療法における「政治」を転嫁させるという大きな意味を持っていたことに、先の学生とのちょっとしたやりとりをきっかけに自覚した。それ以降「政治の転嫁」「パワーと意思決定の主体の転嫁」はロジャーズのライフワークとなる。と著者は述べています。 ロジャーズは、今まで密室の中でおこなわれていた心理学に風穴あけて心理療法を脱神秘化は一挙に推し進められた。それは、当時開発されたばかりの録音装置を面接室に設置し、『カウンセリングと心理療法』において、ハーバード・ブライアンという仮名のクライアントとの面接の逐語記録を公開した。それにより、秘密の中で守れていたセラピストの権威や絶対性は譲り渡され、クライアントに多くの決定権が与えられたのである。 それにより、カウンセリングがスピリチュアルと思われていていていたことが、公開で根拠のあるものえとロジャーズは昇華したのである。 今は、数知れない心理療法の流派が発生して、クライアントに数知れない選択ができるようになった。クライアント毎に合う、合わないコトがあるがそれぞらに合う選択ができるようになった。これは、ロジャーズのおかげです。まさしき、クライアント中心主義である。
2024.05.29
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「毎日更新」読レポ第2087カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 ロジャーズの「政治哲学」(3/5) セラピストからクライアントへの「意思決定の主体」や「パワー・バランス」の転換ということに、ロジャーズは徹底的にこだわって仕事をおこなってきた。「クライアント中心のアプローチの政治とは、クライアントをコントロールしたり、クライアントに代わって意思決定することなどのすべてを、意識的に放棄し回避することである」とロジャーズは言う。「クライアント中心」とは本来、あらゆる心理療法において重んじられるべき「自己決定の尊重」という社会的・政治的理念なのであった。「クライアント中心のアプローチの政治とは、クライアントをコントロールしたり、クライアントに代わって意思決定してやることを、すべて意識的に放棄し回避することである。これはクライアントによる自己所有の促進であり、その達成を可能に諸方策を意味している。意思決定の主体が誰であり、その決定に対する責任を誰が担うのかを明確にしているのである。そこでは政治的にクライアントが中心とされている」(Rogers,1977) 何の説明も要しないほど明快な言葉である。クライアントがどのような人生を選択するべきか、セラピストの応答が正しいか否か、決定や評価の最終的権威はクライアントに置かれたのである。ファーソンもいうように「ロジャーズのアプローチは、我々に人間としての尊厳を与えるやり方」である。「相手にとって何がよいか知っていると思い込んでいるセラピストからクライアントを最も保護するもの」である。「クライアント中心」とは元来、単なる心理療法の一流派ではない。あらゆる心理療法において尊重されるべき「自己決定」という社会的政治的な理念なのである(Farson,1974)と著者は述べています。 ここでは、クライアント中心が政治的である意味を述べている。いかにクライアント中心が人間としての尊厳での自己決定を尊重しているかをロジャーズは述べている。 それは、「クライアント中心のアプローチの政治とは、クライアントをコントロールしたり、クライアントに代わって意思決定してやることを、すべて意識的に放棄し回避することである。これはクライアントによる自己所有の促進であり、その達成を可能に諸方策を意味している。意思決定の主体が誰であり、その決定に対する責任を誰が担うのかを明確にしているのである。そこでは政治的にクライアントが中心とされている」のである。 私も様々な心理療法があるがそのまえに、上記のようにクライアンがト中心である自己決定を尊重することであり、カウンセラーやセラピストは、クライアントをコントロールしたり、クライアントに代わって意思決定してやることを、すべて意識的に放棄して、クライアントの自己決定を尊重することを元にするべきと思う。そうしなければ、ほんとうのクライアントの自己変容にはならないと思う。カウンセラーやセラピストは、その促進が役割のように思う。 私がやってきた話し合いのファシリテーターと同じである。相手のなかにあるモノを引き出す主体性の促進である。
2024.05.28
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「毎日更新」読レポ第2086カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 ロジャーズの「政治哲学」(2/5) それは「権力と統制」にかかわる概念であり、故意であるか否かにかかわらず、巧妙な手段や戦略や駆け引きを使って、権力と統制を求め他者にそれを及ぼすか、あるいはそれを共有したり放棄したりするか、ということにかかわる概念である。それはまた、「意思決定の力の所在はどこにあるか」にかかわる概念であり、他者や自己を規制し統制するような意思決定を誰がおこなうか、にかかわる概念である。この意味での「政治」とは、「権力や統制や意見決定権を獲得し使用したり、共有したり、放棄したりする過程」なのである。 『カウンセリングと心理療法』依頼、ロジャーズは一貫して、クライアントが自分で悩み苦しみ、方向性を見出していくプロセスを大切にしてきた。 児童相談研究所に勤務していた30代半ばの頃、なかなかうまくいかず、中断もやむなしと考えていた女性のクライアントから「先生、ここでは大人のためのカウンセリングはおこなっていなのですか」と問われて、「やっておますよ」とロジャーズが答えると、それまでの彼女が話していた不毛な「ケース・ヒストリー」とはまったく違ったほんとうのセラピィがそこから始まった。その結果、夫婦関係が改善されたばかりでなく、息子の問題行動も消えていった。クライアント中心療法の誕生につながったこの「決定的な学習体験」でロジャーズは「なにか傷ついているか、どこに向かえばいいのか、どの問題が重要なのか、そしてどのような経験が深く隠されているのか知っているのはクライアント自身であること、したがって、セラピストは自分の賢明さを誇示する必要はなく、クライアントが進んでいくプロセスを信頼するべきであることを身をもって知った」。この体験からロジャーズは、一貫して、カウンセリングの中心はクライアントであり、パワー(力)と意思決定の主体は、クライアントに与えるべきである、との姿勢を固持してきた。と著者は述べています。 ここでは、ロジャーズが、一貫して、クライアント中心にいたたかが述べられている。児童相談研究所に勤務していた30代半ばの頃に、女性のクライアントから「先生、ここでは大人のためのカウンセリングはおこなっていなのですか」と問われてとがきっかけで、その女性親に対してカウセリングをおこなて、今までの不毛な「ケース・ヒストリー」とはまったく違ったほんとうのセラピィがそこから始まっていき。夫婦関係が改善されたばかりではなく、息子の問題行動もきえていった。それが、ロジャーズの一貫してクライアントの中心療法をつらぬく始まりだった。 私もこの項を読んで、さまざまな心理療法があるが、それ以前にクライアント自身での「自分が改善したい」との思いが湧いてこないと、どんな心理療法でも改善ができないと思う。 人任せでなく、自分自身で改善したい、成長したいという思いを湧き上がらせてあげることが大事であると思う。それは、ロジャーズが言っているよに「なにか傷ついているか、どこに向かえばいいのか、どの問題が重要なのか、そしてどのような経験が深く隠されているのか知っているのはクライアント自身である」と述べた入ることからも、クライアント自身が、「自分が改善したい」との思いが湧いてこないと深く隠されたことがのか顕在化されてこないからです。もちろん、最初からクライアント自身での「自分が改善したい」との思いがある人もいますが。人任せの人は、カウンセリングの前にクライアント自身での「自分が改善したい」との思いなるように働きかけることです。それには、クライアントとカウンセラー間の信頼関係が重要です。
2024.05.27
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「毎日更新」読レポ第2085カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 ロジャーズの「政治哲学」(1/5) 『パーソナル・パワー―個人のうちなる潜む力とその革命的なインパクト』(Carl Rogers on Pesonal Powr:Inner Strength and its Revolutionary Inpact)(Rogers,1977)は、ロジャーズが自らのすべての仕事の意義を「政治」という観点でとらえ直した本である。 「カウンセリングのロジャーズが政治?どういうこと?立候補でもしたっけ?」そう思われた方もいるかもしれない。ロジャーズが自分の仕事の「意義」を「政治」という視点からとらえ直したことが、その後の彼の仕事を大きく変えたのである。 そのきっかけは、ある大学院生から「クライアント中心療法の政治についての質問」をうけたことにある。ロジャーズが「クライアント中心療法に政治などないよ」と答えると、その大学院生はゲラゲラ笑いだした。ロジャーズはたずねた。「なぜそういう質問をしたの?」。学生は次のように答えたという。「臨床心理学のエキスパートになろうと3年間大学院で頑張りました。正確な診断を下すことを学んだのです。クライアントの態度と行動を変化させる種々の技法を学んできました。解釈と指導という名前の巧妙に操作する仕方も学びました。その後先生の著作を読み始めたのですが、僕が学んできたことすべてが反対なのです。先生は力(パワー)は自分にはなく、相手の中にあるとおしゃり続けてきました。先生は、僕が3年かけて築きあげた権力と統制の関係を完全に逆転させてしまったのです。それなのに先生は、クライアント中心療法には何の政治もないとおっしゃるんですか!」 ロジャーズは率直であり、どこまでも柔軟である。聞き流しても仕方ない一学生との、このちょっとしたやりとりで、大きな気づきを得て、それが後の仕事の流れを変えていくことにつながったのである。この出来事をきっかけにロジャーズは、「自分はその専門家としての活動を通じて、実はずっと、ある政治を実践してきたのだが、そのことを十分に認識していなかった」と自覚し始めた。もちろん、ここでロジャーズが言う、「政治」は、いわゆる政党政治ではない。心理学的・社会的用法におけるそれである。と著者は述べています。 ロジャーズはある大学院生からの「クライアント中心療法の政治についての質問」を受けた。その大学院生は、「クライアントの態度と行動を変化させる種々の技法を学んできました。解釈と指導という名前の巧妙に操作する仕方も学びました。その後先生の著作を読み始めたのですが、僕が学んできたことすべてが反対なのです。先生は力(パワー)は自分にはなく、相手の中にあるとおしゃり続けてきました。先生は、僕が3年かけて築きあげた権力と統制の関係を完全に逆転させてしまったのです。」と言った。 ロジャーズは、「自分はその専門家としての活動を通じて、実はずっと、ある政治を実践してきたのだが、そのことを十分に認識していなかった」と自覚し始めて、その後のロジャーズは、ロジャーズが言う、「政治」は、いわゆる政党政治ではない。心理学的・社会的用法において活動へと変化していた。 それは、私はロジャーズは上下関係など関係なく、率直であり、どこまでも柔軟である思考をもっていたからだと思う。まさしく、自己生成論、人間変化の論です。その自己生成論、人間変化は、率直であり、どこまでも柔軟である思考をもつことで変化して自己成長していくのだと思う。年齢を重ねると、自分の成功体験などから、ついつい自分の正しさに執着ぎみになる。まずは、自分の正しさを横に置いて、相手の話を肯定的に受容することです。自分の正さと相手の話しを受容して聞いたコトとを置いて、自分で選択することです。それには、相手の話を肯定的に受容することです。肯定的に受容とは、正しとか間違いとかの一切をもたずに相手の話しを受け取ることです。キャッチボールみたいなものです。
2024.05.26
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「毎日更新」読レポ第2084カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第7章 「静かなる革命」 「静かなる革命家」 ロジャーズの後期、パーソンセンタード・アプローチ時代にロジャーズの片腕として彼を支えたリチャード・ファーソンは、ロジャーズを「静かなる革命家」(the quiet(クワェド) revolutionary(レボウショウナリ))」と呼んでいる。それはロジャーズが、人間関係のパワー(権力)の問題について大転換をはかったからである。ロジャーズは、心理療法やカウンセリング、、教育、福祉、結婚、親子、夫婦……ありとあらゆる場面で、一人一人が持つ潜在的な力をを最大限に発揮できるようにお互いのパワー(権力)を平等に認める関係を実現しようとした。リチャード・ファーソンは自著『静かな革命家 カール・ロジャーズ』(Farson,1974)において、「人間は自分の生活の方向を決めることができるもだし、またそのようにするべきである」という一貫したテーマの下、企業、教育、医療、教会、福祉といった多くの領域において、権威への従順を打破し、「参画」という方向での変革の基礎づくりをした「現代の重要な社会革命家の一人」としてロジャーズを描いている。まったく、的確である。その功績を評価されて、ロジャーズは死の直前にノーベル平和賞にもノミネートされていたのだから。 筆者の考えでは、この「関係の転換」が、ロジャーズの3つめの功績である。 筆者はつまるところ、次の3点が、ロジャーズの「三大功績」であると考えている。①ロジャーズの第1の功績 人がその内側で、内臓感覚的体験につながることで、あらゆる通念や内的な束縛から自らを解放し、より自由に、より自分らしくなっていくロジャーズの自己生成論、人間変化の理論(本書第2章、第3章)②ロジャーズの第2の功績 深い傾聴論。カウンセリング・心理療法により他者の自己生成、人間変化の援助・促進の理論(本書第5章・第6章)③ロジャーズの第3の功績 静かなる革命。心理療法やカウンセリング、教育、福祉、結婚、親子、夫婦といったあらゆる場面での関係性の転換によって、一人一人が自分の持つ可能性を最大限に発揮でくるような関係性の探究と著者は述べています。 ロジャーズの功績をロジャーズの片腕のリチャード・ファーソンは、自著『静かな革命家 カール・ロジャーズ』(Farson,1974)において、「人間は自分の生活の方向を決めることができるもだし、またそのようにするべきである」という一貫したテーマで多くの領域において、権威への従順を打破し、「参画」という方向での変革の基礎づくりをした「現代の重要な社会革命家の一人」としてロジャーズを描いている。 ロジャーズの死の直前には、ノーベル平和賞にもノミネートされていた。 ロジャーズの功績を著者は、「①あらゆる通念や内的な束縛から自らを解放し、より自由に、より自分らしくなっていく自己生成論、人間変化の理論」「②深い傾聴論。カウンセリング・心理療法により他者の自己生成、人間変化の援助・促進の理論」「③あらゆる場面での関係性の転換によって、一人一人が自分の持つ可能性を最大限に発揮でくるような関係性の探究」をしたと述べています。 私も「①あらゆる通念や内的な束縛から自らを解放し、より自由に、より自分らしくなっていく自己生成論、人間変化の理論」「②深い傾聴論。カウンセリング・心理療法により他者の自己生成、人間変化の援助・促進の理論」「③あらゆる場面での関係性の転換によって、一人一人が自分の持つ可能性を最大限に発揮でくるような関係性の探究」をしたが、この本でわかってきた。自分が、心理学を勉強するうちに「言葉にならないけども、言葉にされたがっている暗黙の何か」を言葉化している。私の中にも特に「①あらゆる通念や内的な束縛から自らを解放し、より自由に、より自分らしくなっていく自己生成論、人間変化の理論」が、うんうんです。人はあらゆる通念や内的な束縛から自らを解放し、より自由に、より自分らしくなっていく自己生成論、人間変化の理論が、ほんとの人間の新しいモノを生むと思う。悩んでこんがらがってる人は、あらゆる通念や内的な束縛から自らを解放してください。やがて、徐々に悩みがしだいに減少していきます。
2024.05.25
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「毎日更新」読レポ第2083カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「内側からの革命」ーロジャーズとジャンドリンが共に取り組んだ何か(4/4) ロジャーズの言う「内臓感覚的思考」、そして深い「傾聴」は、人をして、既定の文化、パターン、倫理の固定化から解き放ち、自由にする。内臓感覚的な「まだ言葉にならないけども、言葉にされたがっている暗黙の何か」に触れてそれを言葉にしていくことで、人はより自由になる。新たな文化、倫理、パターンを創出していく。その人自身も変化し、フレッシュになり、生命力に満たされていく。ひいては、それは人類の進化につながっていく。 ロジャーズの「傾聴」及びそれにより可能になる「内臓感覚的思考」の持つ本質的な意味を、ジェンドリンはこのような広い文脈でとらえる。それはジャンドリン自身も、哲学的著作やTAE、フォーカシングなどで、この同じ課題に取り組んできたからである。その意味で、ロジャーズとジェンドリンは、子弟というよりも同志であり、相互に影響をもたらしあいながら「ひとつ」のことをなしとげてきた仲間である。 それは、筆者の言葉で言えば、「内側からの革命」である。 リチャード・ファーソンは、カウンセリング、教育、福祉、結婚、親子、夫婦といったあらゆる場面で、一人一人が持つ潜在的な力を最大限に発揮できるような人間関係を可能にした点に着目してロジャーズを「静かなる革命家」と呼んだ。 「内臓感覚的思考」「直接体験しつつ考える思考」と「傾聴」の組み組み合わせは、人をして、その内側の「言葉にされたがっているけども、言葉にならない暗黙の何か」に触れさせ語らしめることで、その人の固定化された文化、パターン、倫理の束縛から解放する。より自由に、より生き生きとさせる倫理のパターンの刷新と創出に向かわしめる。ロジャーズとジャントリンが共に取り組んだこの共通の課題に着目して、筆者は二人を「内側からの革命家」と呼んでおきたい。と著者は述べています。 ロジャーズの言う「内臓感覚的思考」、そして深い「傾聴」は、人をして、既定の文化、パターン、倫理の固定化から解き放ち、自由にする。その内臓感覚的には、「まだ言葉にならないけども、言葉にされたがっている暗黙の何か」に触れてそれを言葉にしていくことで、人はより自由になる。新たな文化、倫理、パターンを創出していく。そして、このロジャーズやジャンドリンはカウンセリング、教育、福祉、結婚、親子、夫婦といったあらゆる場面で、一人一人が持つ潜在的な力を最大限に発揮できるような人間関係を可能にしたと、リチャード・ファーソンは、言い、ロジャーズを「静かなる革命家」と呼んだ。 私もこの本をよんでいるうちに、確かに「まだ言葉にならないけども、言葉にされたがっている暗黙の何か」に触れることで、自由になる感覚があったことを思い出した。私流に言うと「自分の中の自分と対話する」ことで、新たなひらめきが、生まれて来ている。 昨日も水辺スタッフトレーニングで、新たに伝えなければならないものが、浮かんで来た。それをわかりやすく伝えるにはと、自分と対話していくうちに、自分の頭の中にイメージが浮かび、図式化することが出来た。始めは、友人からの言葉の投げかけからですが。その友人はロジャーズみたいな役割だっただろうな。 人は、誰かの言葉の動機から「自分と対話する」ことで、新たなことが生まれていく。まあ、何度も何度も繰り返しての中ですが。
2024.05.24
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「毎日更新」読レポ第2082カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「内側からの革命」ーロジャーズとジャンドリンが共に取り組んだ何か(3/4) むしろ届いたのは、実践である。ロジャーズの言葉は届かなくても、ロジャーズが聴衆の前でオープン・カウンセリングを始めると、それは届いた。聴衆の眼前でロジャーズが傾聴していると、今まさにクライアントが変化していくのがわかった。より自由に、自分らしくなり、内面的な広がりを見せ、美しくなっていくのだ。内面における社会的な束縛(定型的思考)から解放され、より自由になり、もっと自分らしくなっていった。人間は深く傾聴されると、このように変化するのだ、という実例をロジャーズはデモンストレーションで見せた。しかし、その大きな価値を社会の側が理解できなかった。 ロジャーズの傾聴の持つ本質的な意味を理解するには、既存の言葉に頼ってはダメで、新しいターム(意味や使い方)をつくることが必要になる。ジェンドリンはそれをやってきた。ロジャーズのやり方で深く傾聴されていると、人はみな、自分の内側の深いところに触れ始める。内側の深いところ、内側のexperiencing(エクリンピング:経験する)に触れ、直接意識を向けながら、語るようになる。 すると人はその内側の深いところに、何か、語られたがっているもの、まだ言葉にならないけれども語られたがっている「暗黙の何か」があることに気づく。 人はその「暗黙の何か」を語る。言葉にする。しかし、内側の暗黙の何か、experiencing(エクリンピング:経験する)を言葉として語る、というのは、ただexperiencing(エクリンピング:経験する)を映し出す、というのではない。言葉にされることで、言葉にされた当のexperiencing(エクリンピング:経験する)は、すでにほかのものに変わっている。展開されているのだ。 言葉にされることで、言葉にされたがっていた暗黙の何かは、変わる。これが、人間が変化する時に、起きることなのだ。その繰り返しの中で、人は、通常の意味や言葉を超えて先に進んでいける。新たな文化が生まれる。 重要なのは、こうした、これまで認識されていなかた「直接の体験過程による思考(TO think (テイク)with direct(ダイレクト)experiencing(エクリンピング:経験する))」(Gendlin,2002)である。ロジャーズの傾聴は、人をして「直接の体験過程による思考」「内側で流れている暗黙の何かによる思考」をせしめるパワーを持っている。すると人は、固定化されていた文化、パターン、倫理の呪縛から解き放たれ、みずからをより自由にする。新たな文化や倫理が生まれる。その蓄積が人類の進化をもたらす。 と著者は述べています。 ここでも、聴衆の前でデモンストレーションでロジャーズの深い傾聴で内面における社会的な束縛(定型的思考)から解放され、より自由になり、もっと自分らしくなっていく変化を眼前でみせた。深い傾聴で内側の深いところに、何か、語られたがっているもの、まだ言葉にならないけれども語られたがっている「暗黙の何か」があることに気づいて変化をしていく。その言葉は、、既存の言葉に頼ってはダメで、新しいターム(意味や使い方)をつくることが必要になる。その変化が、固定化されていた文化、パターン、倫理の呪縛から解き放たれ、みずからをより自由になり、新たな文化や倫理が生まれる。その蓄積が人類の進化をもたらす。と述べている。 私も既存概念の固定化してものを一旦、置いて、自分の中の自分と対話することで、あらたな、閃きや考えが生まれることがある。セルフ傾聴です。セルフ傾聴では、既存概念の固定化に執着しないことです。そうすると、新たなモノが生まれていきます。 人類の進化には、深い傾聴が必要だと思います。
2024.05.23
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「毎日更新」読レポ第2081カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「内側からの革命」ーロジャーズとジャンドリンが共に取り組んだ何か(2/4) しかしロジャーズの深い傾聴の持つ意味を、ジャンドリンはより本質的な次元でとらえていた。それは、カウンセリングや心理療法といった狭い文脈に限定されるものではない。次の文章も「序文」(Gendlin,2002)のきわめて重要な箇所である。 私たちの研究グループは、ロジャーズが心理療法と社会の基本理念をいかに深く変革したかを十分に認識していなかった。彼は多くの書物にこのことを書いたが、言葉は効果的とは言えなかった。人々の見方を変革するのは、実践なのである。 彼の示すやり方で耳を傾けられると、どの人も内面から広がり体験する。目の前にいる人が、複雑で熟慮するようになり、美しくなるのがわかる。わずかな間でも解釈したりまとめたりすると、妨げになってしまう。内側から生じてくるプロセスを止めてしまうのである。 深い傾聴は、人間の特性が社会に規定されるものではないことを示している。人間は、一歩一歩相互に受容し合っていると外に現れるようになる深い内面的な豊かさを有している。生きる世界で自分が求めているものや自分らいし倫理性、自分のできる仕事を新たに見出して創造的に展開していく。このことを人間の特性の一部として表現するためには、どう話せばいいのだろう。 ロジャーズはすべてのことを語っていたが、伝わらなかった。一般的な仮説の形を取ったが、信じてもらえなかった。ロジャーズの実践がもたらしたものを社会の側が発見しえなかったのだ。 伝えるためには、新しいターム(意味や使い方)が必要である。社会は、experiencing(エクリンピング:経験する)からターム(意味や使い方)を生み出していくプロセス(the process(プロセース) of generating(ジャネリング:生成する) terms(ターミス:条項) from experieriencing(エクリンピング:経験する))を必要としている。だから私は新しいターム(意味や使い方)をつくり続けてきた。 さまざまな文化や個人を超えて共通する普遍的な内容など存在していない。相互作用する中で、私たちはお互いに交差(cross(クロス))し、新しい意味を創造していく。私たちが何かを語るとき、experiencing(エクリンピング:経験する)は”前進的に展開する(carried forward)”のである。 ロジャーズの「傾聴」が持つこの世界での大きな意味は、決して理解されなかったし、今も理解されていない。ロジャーズの言葉は届かなかった。ロジャーズは多くの書物を書き講演したが、その実践の本質的な意味は理解されなかった。と著者は述べています。 ロジャーズは、深い傾聴をもとに多くの書物を書いたが、言葉は効果的とは言えなかった。人々の見方を変革はすることは、伝わらなかったが。その変革には、実践を積み重ねる事であったようだ。 ロジャーズは、目の前にいる人を深く傾聴すると、その本人が、複雑で熟慮するようになり、美しくなり、生きる世界で自分が求めているものや自分らいし倫理性、自分のできる仕事を新たに見出して創造的に展開していく。深く傾聴を伝えるためには、私たちは、実践を通して新しいターム(意味や使い方)をつくり続けて社会を変革することだと述べているようだ。 確かに、私も理論も大切ですが、頭でっかちではなく、行動での実践で一歩一歩の前に進み、挑戦し続けることで、新しいモノが生み出されると思う。正直言って、いくら言葉で伝えても、理解の壁が高いのを感じている。実践していく事で伝えわることが多いです。実践が無いと、なかなか、信じてもらえないのが現実です。
2024.05.22
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「毎日更新」読レポ第2080カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「内側からの革命」ーロジャーズとジャンドリンが共に取り組んだ何か(1/4) ロジャーズの傾聴する姿に、ジャンドリンがいかに強く惹かれているかを示す言葉がある。「彼〔ロジャーズ〕の示すやり方に耳を傾けられると、どの人も内面からの広がりを体験する。目の前にいる人が、複雑で熟慮するようになり、美しくなるのがわかる」(Gendlin,2002) ジャンドリンは、深い傾聴が持つ力を強く信じていた。ある意味では、ロジャーズ以上に傾聴を重視していると取れる面もある。たとえばある箇所でジャンドリンはこう言う。「セラピィで、第1に重要なものは関係(その中にいる人)であり、第2が傾聴で、ようやく3番目にくるのがフォーカシングの教示である。関係の上で問題が生じたら、できるだけすばやく、たのことはさておき、それに対処しなくてはならない。また、傾聴は他の人の気持ちにほんとに触れ続けるため必須である」(Gendlin,1996)と著者は述べています。 ここでは、ジャントリンはロジャーズ以上に傾聴を重視していると取れる面もあり、セラピィで、第1に重要なものは関係(その中にいる人)であり、第2が傾聴で、ようやく3番目にくるのがフォーカシングの教示である。関係の上で問題が生じたら、できるだけすばやく、たのことはさておき、それに対処しなくてはならない。また、傾聴は他の人の気持ちにほんとに触れ続けるため必須である」と述べている。 確かに私もセラピィでの関係性の信頼が必要で、その信頼があれば、本当の傾聴されていることが相手に感じられて、フォーカシング(自分自身のからだの反応や兆候を汲み取り、そこに密かにあらわれているこころの求めを発見し、理解してあげること)つながっていく。しっかり、まずは相手との関係での信頼が必要です。家で言えば、基礎に当たるとおもう。信頼がなければ、何も相手に傾聴されていることが伝わらない。 まずは、相手との関係性での信頼感が必要です。
2024.05.21
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「毎日更新」読レポ第2079カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ジャンドリン宅での 短い会話(2/2) ジャンドリンの宅にうかがって、彼の哲学に関する対話の時間をとってもらえたとき、私は、せっかくのジャンドリンと真剣勝負できるチャンスなのだから、いわいる「質問」ではなく、自分自身の考えをぶつけてみようと思った。その時がやってきた。 私は言った。「ocurring (アキャーレ:発生している)と implying(インパーエン:暗示) の関係が時間を生成する、というあなたの考えに私はとても魅かれています」 ジャンドリン(ニコリと笑い)「そう、すべての出事は未来(implying(インパーエン:暗示))へと起こるのだ」 その後私は、「呼びかける時間」「挑発する時間」というその時の最大のテーマについてたずねた。このテーマは数年来、私の最大の関心事となっている。時間が呼びかける。時間が挑発してくる。この時間の呼びかけ、挑発にどう応えるか。そこに人生の最も重要な鍵がある。人生の充実や心の成熟、特に中高年の心理的成長の鍵がある。私はそう考えていた。けれどこの問題はうまく展開しない。私は思考の停止(ストッペイジ)を余儀なくされていた。 「時間が……呼びかけてくる……」と私がほんとうの関心を口にしたとき、ジャンドリンのお宅のリビングは、数分間、「思考の道場」になった。それは、関節技の解き方がわからず悶々としている若手の格闘家に、その道のマスターがやってきて、思いも寄らなかったヒントを与えてくれているようなものだった。 ジャンドリンは私に、「普通の言葉を使って、新しことを語るのは無理だ」と言った。「時間が呼びかけるとは普通は考えられない。でもその言葉で、あなたが何か新しいことを語ろうとしていることは、わかる。しかし、その新しい何かを伝えるには、それにふさわしい新しい言葉をつくる必要があるのではないか」。「え……新しい言葉……?」と戸惑いつつ、「でも、そんなやり方では誰にも理解してもらえない」と私が言うと、ジャンドリンは言った。「誤解されることに比べれば、理解されないほうがずっといい。理解できないものは、問いとして、人のなかに残る。探究を引き出す。そのためには、既存の言葉に頼らずに、新しい言葉をつくったほうがいい」「う……ん」(沈黙)。ジャンドリンと私の数分間のスパーリングはここで終わった。真剣勝負に出た私を、ジャンドリンはたしかにしっかりと受け止めてくれた。傍でこのやりとりを見ていた村里忠之さんは、「あれは諸富さんにTAEのガイドをしていたんだよ」と言った。私を「エッジでの思考」に導てくれた具体的例の一つとみなしてもいいだろう。「時間についての新しい見方を提示しようとするのなら、あなたの言葉をリポジショニング(市場にすでに存在する自社商品を、その特長が生かせるように市場空間内で位置づけ直すこと)する工夫がもう一つ必要だね」と教えてくれたわけだ。 いかがだろうか。TAEの特質が少しは具体的に伝わっただろうか。それは単に「からだの感じに耳を澄ます」ことにとどまるものではない。それは、私たち現代人がまだ十分に育っていない内的な力をきたえ、新たな生き方と思考の仕方を切りひらいていくのを手助けしてくれる。ジャンドリンの哲学の主著『プロセスモデル』は、人類の内的な進化・成長の課題を示す鍛錬の書であり、私たちのこれからの方向を指し示す道しるべの書でもあると言えるだろう。と著者は述べています。 ジャンドリンは私に「時間が呼びかけるとは普通は考えられない。でもその言葉で、あなたが何か新しいことを語ろうとしていることは、わかる。しかし、その新しい何かを伝えるには、それにふさわしい新しい言葉をつくる必要があるのではないか」。ジャントリンは言った。「誤解されることに比べれば、理解されないほうがずっといい。理解できないものは、問いとして、人のなかに残る。探究を引き出す。そのためには、既存の言葉に頼らずに、新しい言葉をつくったほうがいい」「時間についての新しい見方を提示しようとするのなら、あなたの言葉をリポジショニング(市場にすでに存在する自社商品を、その特長が生かせるように市場空間内で位置づけ直すこと)する工夫がもう一つ必要だね」とジャンドリンが教えてくれた。という内容でした。 私も誤解されることに比べれば、理解されないされなくても何度も言葉を探したほうがずっといい。何度も、自分の中で浮かんだ言葉を書いてリストアップしアップして、質より量を書いているうちに、自分にしっくりくる言葉が見つかってくる。それには、自分自身の中に居る自分に対して、問いとして、自分の中を探究して引き出すトレーニングをすることだと思う。 それの習慣化につながり、自分の内的な進化・成長につながっていくと思う。
2024.05.20
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「毎日更新」読レポ第2078カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ジャンドリン宅での 短い会話(1/2) ここで筆者は、かつてニューヨークのジェンドリン宅に招かれた際、次のような会話をしたことを思い出す。 私「私はすでに200冊ほどの著作を出していますが、自分のほんとうに言わんとしていることが読者に伝わらないのが、一番の悩みです。私のなかには、たしかに、言葉にされたがっているもの、まだ誰も言葉にしていなくて、多くの人に伝えられたがっている「何か」がある。それは、たしかな感じなんです。ですから、なんとかわかってもらおうと、わかりやすく書いているのですが、そうすることで私の考えがありきたりな、一般的な考えのうちに解消されてしまっているような気がして……」 ジャンドリン「それがよくないのだ。わかってもらおうとするから……」 私「ん?なるほど。では、どうすればいいんでしょうか?」 ジャンドリン「あなただけの、新しい言葉、新しいターム(意味や使い方)をつくることだ。まだ誰も使っていない言葉をつくるのだ。すでにある言葉を使うと、あなたのユニークな考えは、すでにある既存の考えになぞられて理解されてしまう。誰からも簡単には理解されない言葉、あなただけの新しい言葉をつくるのだ。よく理解できない新しいターム(意味や使い方)と出会うことで、読者は立ち止まり、そこでこの著者はこれまでにない新しいことを言わんとしているということに注意を向けるだろう」 誰も理解できない「新しい言葉」をつくりなさい。そうすれば、読者は、あなたが他の人とは違う新しいことを言っているのに気づくだろう。この時、ジャンドリンは筆者に、「TAEをしながら本を執筆しなさい」と誘ってくれていたのだ。そんな課題に少しは取り組むことができているであろうか。 フォーカシングにおいても、TAEにおいても。自分独自の方法で言語を開発して使用できるようにすることで、通常の仮定にとらわれることがなくなる。定義された概念の制約から解放される。新しく生成されたフレーズは、他の方法では定式化できない経験の側面を示す可能性がある。 この本では私は、既存の方法を疑う。私たちが普通の仕方で語ることができるよりも、より以上のことについて知ることのできるエッジと、哲学は私たちを導いてくれる。私たちが語ることができるもの辺緑において、言葉以上の知(MORE-THAN-VERBASL KNOWING)からさらに思考を進めていくために、普通の習慣的な概念や単位を解体していく必要がある。そうすることで新しい概念や単位が立ち現れてくるのだ。 エッジから出発して、新しい仕方で語る方法を考案するためにも、もちろん私たちは。これまでと同じ古い言葉を、これまで使われていたのと同じ言葉を使わないわけにはいかない。 哲学はこれまでと同じ古い言葉を使う。けれども哲学は、その同じ言葉に、より以上の何かを意味したりかたらせたりしうる。新しい哲学はいずれも、その哲学の主要な言葉を新たに位置づけし直す(repostion)のである。(Gendlin,1998)と著者は述べています。ここでは、過去に著者がジャンドリン宅に招かれて、ジャンドリンから「あなただけの、新しい言葉、新しいターム(意味や使い方)をつくることだ。まだ誰も使っていない言葉をつくるのだ。すでにある言葉を使うと、あなたのユニークな考えは、すでにある既存の考えになぞられて理解されてしまう。誰からも簡単には理解されない言葉、あなただけの新しい言葉をつくるのだ。よく理解できない新しいターム(意味や使い方)と出会うことで、読者は立ち止まり、そこでこの著者はこれまでにない新しいことを言わんとしているということに注意を向けるだろう」。ジャンドリンから「TAEをしながら本を執筆しなさい」と誘われた。 言葉以上の知からさらに思考を進めていくために、普通の習慣的な概念や単位を解体していく必要があり、そうすることで新しい概念や単位が立ち現れてくるのだとジャンドリンが述べてくれた。哲学はこれまでと同じ古い言葉を使うが、けれども哲学は、その同じ言葉に、より以上の何かを意味したがり、新しい哲学はいずれも、その哲学の主要な言葉を新たに位置づけし直すのである。 確かに同じ言葉でも、時代が進むにつれて、その言葉の位置づけが変わっている。例えば、「忖度」などは、本来の意味は「相手の気持ちを考慮する」ことで、どちらかというとポジティブなイメージの言葉です。 広辞苑には「他人の心中をおしはかること」とあるが、近年は、目上の人の顔色をうかがうようなネガティブな意味で使われるようになってきている。 新しい言葉を生み出す一つには、既存の言葉の位置づけをポジティブな位置づけにする方法がある。心理学でのフレームチェンジである。 ネガティブな言葉を否定するのではなく、肯定的に受容することで、時間は遙かにかかるが、ポジティブな言葉の位置づけに変わってくると、この項の最後の哲学を読んで、言い方は新しくないが、位置づけにが変われば、新しい言葉となりうるであろう。 また、日本語は、和製英語を生み出しますから、自分の漠然とした感じを言葉化するために自分の中の自分と対話することでも、新しい言葉を生み出すこともできます。その一つが、ロジャーズの「カウンセリング」である。 新しい言葉を生み出すには、自分の中の自分と対話することです。
2024.05.19
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「毎日更新」読レポ第2077カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン TAE(thinkig (ティンキング:考え)at the edge(エーッジ:角)(4/4) TEAは、ただそこに立ち戻りだけではなく、自分の暗黙のうちに理解していることを既存の概念ではうまく表現でえきないと感じる時に、妥協することなくそれを表現できるように、「言葉の新鮮な使用法」を開発することを奨励してくれる。言葉を「暗黙のフェルトセンス」から浮かび上がらせ、「暗黙のフェルトセンス」に照らし合わせてチェックする。そうすることで、妥協することなく、自分のほんとに言いたいこと、いわんとしていることに真にふさわし言葉をみつけることができるのである(https://focusing.org/felt-sense/thinking-ede-tae)。 TEAは、私たちが時折感じる「大切なことにあって、それを自分は知っている。わかっている。けれどもうまく言葉にできない。どう言ったらいいかわからない」時、その暗黙知を「言葉にする」方法である。私たちが内側で抱いている暗黙知(ロジャーズ流に言えば、内臓感覚知)を明らかにしていく方法である。 英語圏ではTAE(thinking(ティンキング:考え) at the edge(エージ:角))「エッジで思考する」と呼ばれているが、ドイツ語圏では、”Wo noch Wore fehlen"「未だ言葉の欠けるところ」ろ名づけられている。後者のほうがダイレクトに中身が伝わりやすいかもしれない。 日本のTAEの普及に尽力している得丸さちと子氏は、次のように説明する。「自分ではわかっていることなのだけれど、言葉にならない。これを伝えたいというのがあるのだけれど、うまく言えない。”自分のことば”で書きたいけれど、なんだか借り物みたいという経験は、あるませんか?うまく言葉にできないのは、ほんとにわかっていないからだと思ったり、”正しい言葉”の呪文に囚われたりしていませんか?わかっていること、伝えたいこと、いいたいことには、独特の感覚(フェルトセンス)があります。言葉にしたい、”なにか”は、その人だけが知っている、たったひとつのユニークなものです。TAEは、その言いたい「何か」から感じられるフェルトセンス(からだの感じ)に触れながら言葉にしていく、ひつようなら理論にまでしていくことのできる独特の方法です」と著者は述べています。 TEAは、「自分ではわかっていることなのだけれど、言葉にならない。これを伝えたいというのがあるのだけれど、うまく言えない。”自分のことば”で書きたいけれど、なんだか借り物みたいという経験は、あるませんか?うまく言葉にできないのは、ほんとにわかっていないからだと思ったり、”正しい言葉”の呪文に囚われたりしていませんか?わかっていること、伝えたいこと、いいたいことには、独特の感覚(フェルトセンス)があります。言葉にしたい、”なにか”は、その人だけが知っている」と述べている。 確かに、自分の中の感覚的は、ぼんやりだけどなかなか言葉にならないことがある。そこには、自分の中に”正しい言葉”で言わないとの無意識的なものが、潜んでいるのかも知れない。そんな時は、自分の中の自分に対話して、何を言いたいかを問い、”正しい言葉”を手放して、浮かんだ言葉を書いて、書いて、正しい言葉でなくてOKなので、書いているうちに自分にピッタリのしっくり来る言葉が湧いてくることがある。自分の中に書いて見る事で、書いて見ることを繰り返して行くことで、自分の言いたい表現が見えて来て、ぼんやりしていたことが、少しずつ見えてくる。 この読書レポートも同じように、私の中のぼんやりした言葉にならないことが、書く事でぼんやりしたものが、少しずつ見えてきています。”正しい言葉”を手放していくことで私の中のぼんやりした言葉にならないことが、、少しずつ見えてきています。
2024.05.18
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「毎日更新」読レポ第2076カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン TAE(thinkig (ティンキング:考え)at the edge(エーッジ:角)(3/4) 私たちは、この社会や人生で重要な問題に直面した時に、自分の何か大切なことまで言葉にならない仕方で知っているとわかることがある。それは語られたがってはいるけども、それについて「語りうる言葉が、まだ存在していない」。たとえば、「ある重要なことを自分はつかんでおり、それがまだ誰にも言っていないことである」と漠然と感じていることがある。誰かと話をしたり、そのテーマについて書籍や論文を読んでいても、その分野ですでに用いられている言葉では「自分の暗黙のうちに知っていること(IU)には、適合しない」と感じることがある。自分のユニークな体験とそこにおける「暗黙の理解(IU)」を言葉にして説明しようとしても、既存のコンセプトではうまくいかないことに気づくのだ。 一般に人がものを書いたり、学問をしたりしようとする一つの動機はここにあるのであるのではないだろうか。自分の中に「語られたがっているもの」がある。でも、それで「語る言葉」がない。それを探すために、学問をするのではないだろうか。 しかし学問をするうちに多くの人は、自分の中の言葉にならない「語られたがっているもの(IU)」から離れてしまい、既成のターム(意味や使い方)でそれを語ってしまう。まだ私が正しくわかっていないからだ、正しい言葉を使わなくては、と思って、既存のタームに(意味や使い方)なじみ切ってしまう。その時、IUは死ぬのである。既存の網の中に埋没してしまう。何ために学問をしているか、実感としてわからなくなり、学問から離れてしまう人が多いのは、こうして「正しいことを、正しい言葉で言わなくては」と既存のターム(意味や使い方)に習熱しようとしているうちに、自分の中のIU、「語られたがっているもの」から離れてしまうことに一因があるのではないか。そんな時役立つのが、ロジャーズの深い傾聴によって、自分の内側の内臓感覚的体験に立ち戻ることであり、フォーカシングやTAEである。と著者は述べています。 ここでは、「人生で重要な問題に直面した時に、自分の何か大切なことまで言葉にならない仕方で知っているとわかることがあるが、重要なことを自分はつかんでおり、それがまだ誰にも言っていないことである」と漠然と感じて、学問をするが、自分の中の言葉にならない「語られたがっているもの(IU)」から離れてしまい、既成のターム(意味や使い方)でそれを語ってしまう。まだ私が正しくわかっていないからだ、正しい言葉を使わなくては、と思って、既存のターム(意味や使い方)になじみ切ってしまう。多いの人は、こうして「正しいことを、正しい言葉で言わなくては」と既存のターム(意味や使い方)に習熱しようとしているうちに、自分の中のIU、「語られたがっているもの」から離れてしまうと述べたいます。 確かに、既存のターム(意味や使い方)でなければと、既存に縛られて、本当の自分のなかなか言葉にならない漠然した気持ちを言葉から離れしまうこことが、既存のターム(意味や使い方)でなければとの正しさの思い込みで多くの人は、本当の自分の語りたい気持ちから離れしまっている。正しい意味や使い方などに縛られていては、自分の気持ちを表現できないのです。既存のターム(意味や使い方)を手放して、自分の中の自分と深く対話を傾聴することだとおもう。既存のターム(意味や使い方)は、時代によって変化してくるのですから、既存のターム(意味や使い方)を手放すことです。
2024.05.17
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「毎日更新」読レポ第2075カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン TAE(thinkig (ティンキング:考え)at the edge(エーッジ:角)(2/4) この身体的な感覚、フェルトセンスは「インプリシット・アンダースタンディング implicitunderstanding:IU)」ともよばれている(Gendlin,2009)。私たちはある問いについて、身体感覚的にはぼんやりと把握できているけれども、明確な言葉や論理によってはまだ語ることができないことが、しばしばある。この「身体感覚レベルでの、暗黙の理解」のことをジャンドリンは、「インプリシット・アンダースタンディング(IU)」と呼ぶのである。 この暗黙の理解(IU)は、フェルトセンスというぼんやりとした身体感覚として私たちに与えられている。TAEは、この身体感覚レベルの暗黙の理解(IU)をもとに、上述のようなステップにより手続きを踏んでいくことで、言葉化・理論化していく方法である(末武・得丸 2012) TAEは現在、心理学、社会学、教育学、看護学などで用いらる「質的研究法」の一つとして認められ、この方法を用いて多くの学術論文が執筆されている(末武・得丸・村里 2016) その背景にあるのは、個人の理論は「普遍的なものが今ここで具体化した一つの実例である」という考えであり、ジャンドリンのIOFI(insstance(インサット:実例) of itself(イツサルー:自体))原理である。IOFIとは、いかなるものも「それ自体(普遍性)の一つの実例」である、という考えである。 得丸が言うように、TAEの原理に基づいている(得丸 2010)。第1に、ある研究対象者の主観的な体験のうちに、ある領域のうちに存在する普遍性が見出される。第二に研究者が示すリサーチ・クエスチョンに応じて立ち上がってくるものから普遍的なものを取り出そうとする。第三に、立ち上がってくるものを言語化すると、可能な言語化の一つの事例となる。それは「真実の事例の一つ」なのである。 TAEは、データを読み込んだ直後の状態で、未分化の意味の塊であるダイレクト・レファレントを形成させ、その意味感覚を分析の中心におくことにより、恣意的解釈は抑制される。深く内省したり、他の研究者と協力したりして、個人のからだのうちに暗在する「うまく言葉にできないけども知っている感じ」を言葉化することで、ある種の普遍性に近づきうるのである。と著者は述べています。 ここでも再度、TAEとは、何か言葉にしようとするのだが最初はぼんやりしていたが、身体的な感覚から浮かんでくるものを明確な言葉や論理によってはまだ語ることができないことが、しばしばあるが。第1に、ある研究対象者の主観的な体験のうちに、ある領域のうちに存在する普遍性が見出される。第二に研究者が示すリサーチ・クエスチョンに応じて立ち上がってくるものから普遍的なものを取り出そうとする。第三に、立ち上がってくるものを言語化する、可能な言語化することがあると述べている。 まずは、私的には何か言葉にしようとするが最初はぼんやりしているが、身体的な感覚から浮かんでいるときは、まずは、いったん立ち止まり、自分を俯瞰して見るて、自分の中の自分に対して対話して行くうちの繰り返しで、言語化へと近ずいていくと思います。 自分の答えは、自分の中にあると思います。カウンセラー等はその自分の中の自分に対して対話して行くように促進していく役割だと思う。
2024.05.16
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「毎日更新」読レポ第2074カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン TAE(thinkig (ティンキング:考え)at the edge(エーッジ:角)(1/4) TAE(thinkig (ティンキング:考え)at the edge(エーッジ:角)は、2004年にジャンドリとメアリー・ヘンドリクスがステップ化した概念形成(concept(コンセプト)-formation(フォーメーション)と理論構築(theory(ティリー)-constrction(ケインテラクション))のための方法である(Gendin & Hendricks、2004)ジェンドリンの暗黙の哲学(philosphy(テリスピー:哲学) of the implicit(エンプレセ:暗黙))を背景に持つ。まだ言葉にはなっていないけれど、たしかにわかっているもの(フェルトセンス)を手がかりにした概念形成と理論構築の方法である。 それは、次の3つのパートと14のステップからなる。パートⅠ:フェルトセンスから語る①フェルトセンスを確かめる。②フェルトセンスの中に論理以上のものを見つける。③通常の語義を言いたいのではないことに気づく。④これからの語に自分が言わせたかったことを表現する文ないしは新鮮な語句を書く。⑤自分がそれぞれの語りに言わせたかったことを、言語学的には普通ではない新しい語句を書くことによって、再度拡張する。パートⅡ:側面(具体例)から型(パターン)を見つめる⑥側面(具体例)を集める。⑦各側面(具体例)が詳細な構造を与えるようにする。⑧各側面(具体例)を交差させる。⑨自由に書く。パートⅢ:理論形成⑩3つの用語を選び、それを連携する。⑪各用語の間の本来的な関係を問う。⑫最終的な用語を選び、それらを相互に関連づける。⑬自分の理論を自分の分野の外に適用する。⑭自分の理論をその分野で拡張し、応用する。 TAEは、もともと、ジャントリンがシカゴ大学大学院の「理論構築」の授業で用いていた方法を。2004年に妻のヘンドリクスと共にステップ化したものである。 TAEとは、何か言葉にしようとするのだが最初はぼんやりとした。身体的な感覚(bodily (バドウィ―:肉体的) sense(センス)。としてだけ浮かんでくるものを新しい用語を用いてはっきりと表すための系統立って方法である。(Gendlin,2004)と著者は述べています。 ここでは、ジャントリンとその妻のヘンドリクスと共に3つのパートと14化した、TAEを述べている。TAEとは、何か言葉にしようとするのだが最初はぼんやりしていたが、身体的な感覚から浮かんでくるものを新しい用語を用いてはっきりと表すための系統立って方法のステップアップする方法のようだ。 この一部は、私の知っているファシリテーションでの話し合いで、よく用いる「KJ法」にでも、参加者が話し合いでの自分の考えや思いなどがぼんやりしているモノを、各自で自分の中で考えて、考えて(ここでは、本来的な関係を問う)、浮かんで来た事を言葉化して付箋に書いていく(ここでは、相互に関連づける)ことと、大まかには似ている。 最初の話し合いでは、参加者の中では、ぼんやりしていたものが、自分自身の中の自分に問うことで、ぼんやりしていたモノが次第に言葉化へと変化していく。もちろん、すべてでは、無いが。ぼんやりしていたものが、自分自身の中の自分に問うことで、ぼんやりしていたモノが次第に言葉化へと変化していく。私が話し合いのファシリティターしていた時にそのようなことが起きていた。ぼんやりしていたものが、自分自身の中の自分に問うことで、ぼんやりしていたモノが次第に言葉化のカガク反応と言ってもいいのではないだろうか。
2024.05.15
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「毎日更新」読レポ第2073カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシングのステップ(7/7) ⑨そして再び始める時、また、①に戻る。 フォーカシングでは、自分自身に対してこういった姿勢を取り続けていく。これを繰り返していく。そうすることで、自分の内側の声を聴いていく、自分の内側に響かせ響かせしながら、内面を探索していき、さまざまな気づきを得るのである。 これは、一言でいうと「自分自身への、静かで、深い傾聴」である。表層的なスピーディーな時間の流れにストップをかけて、内側の深いところとつながっていく時間(深層の時間)を持つ体験、と言っていいかもしれない。 フォーカシングをする、とは、一人、自分の内側に耳を傾ける時間を持つことである。自分の内側の声に、静かに、ていねいに耳を傾けていくこと。自分自身を静かに、深く、ていねいに聴いていくこと。これが、フォーカシングである。 フォーカシング指向カウンセリングでは、クライアントがこのような「モード」に入っていくことができるように援助していく。と著者は述べています。 ここでは、前項のフォーカシングと同じように、「自分自身への、静かで、深い傾聴」して。表層的なスピーディーな時間の流れにストップをかけて、内側の深いところとつながっていく時間(深層の時間)を持つ体験、自分自身に対してこういった姿勢を取り続けて、繰り返して、表層的なスピーディーな時間の流れにストップをかけて、内側の深いところとつながっていく時間(深層の時間)を持つ体験し、内面を探索していき、さまざまな気づきを得ることと述べている。 確かに、、ついついスピーディーに表層的なことに囚われてぎみになり、自分自身の内側の深いところに対話しないで、感情に囚われてしまい、理性がない、行動や発言しがちになりがちです。 たとえば、「怒り」などは、理性を失い、怒りの感情に囚われがちになる。怒りの感情がでたら、6秒ぐらいでもいいので一度立ち止まり、内側の深いところにある理性が湧いてくるのを待ち、理性を加えて、怒るか怒らないかを判断することが必要です。感情と理性の両方で判断することが、後悔しない行動・発言ができます。 一時的な感情に振り回されないようにするためにも、一時的(6秒)でもいいのでストップをかけて、内側の深いところとつながって時間(深層の時間)を持つことが大切です。、感情に振り回さないようにするためにもフォーカシングは効果あり、気づきを得をえることができると思う。
2024.05.14
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「毎日更新」読レポ第2072カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン「毎日更新」読レポ第2072カール・ロジャーズ ⑦内側の暗黙のフェルトセンスに響かせる。 自分の内側から出てきた言葉、イメージ、動き、メロディなどえを自分の内側に「響かせる」(resonate)出てきた言葉やイメージなどを自分の内側「響かせ響かせながら」よりしっくり、びったりくる言葉やイメージなどを探していく。 たとえば「光が丸く輪を描きながら、上昇していく。ファーと。このイメージで、ぴったりかな」「もっとぴったり、しっくりくるものはないかな」などと内側に問いかける。内側に響かせて、「よりしっくりくる」ものを探索していく。そこで新たに出てくるものは、どんなものであれ、そのまま受け止めて、また再度、内側に響かせてむる。何度も、何度も、これを繰り返しながら、「あぁ、これだ!」というものを探していく。十分にやられた、という納得感が得られるまで続けていく、これからの内的行為を順不同で繰り返し続けながら、内的な自己探索をおこなっていくのが、フォカシングである。 ⑧満足のいくところまでやれたら、いったん終わりにする。 ある程度のところまでやれれたら、いったんそこでおしまいにする。たどり着いたところにぴったりの言葉やイメージ(例「青い炎」など)の目印をつけて、終わりにする。と著者は述べています。 前項での「間」の「スペース」ができると、主体性が育ち、育ったら、静かに、やさしく自分自身に問いかけたあとに、ありのままに自分自身から湧き上がった言葉やイメージを否定せずに、ただ自己受容する。その自分自身から湧き上がった言葉やイメージなどを自分の内側に響かせて、響かせて、しっくりくるものを納得するまで繰り返し響かせていく。それに納得したら、例ば「青い炎」などの目印をつけて、終わりにすると述べている。 確かに、自分から湧き上がった言葉やイメージなどに対してしっくりしたものを私も自分の中にインプットしているな。しっくりしてない、納得感がないとインプットしても直ぐに消えて忘れてしまいます。 繰り返し、自分の中に問いかけることが必要だと思う。スモールステップでもいいので繰り返しが大切です。
2024.05.13
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「毎日更新」読レポ第2071カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシングのステップ(5/7) ⑤内側から何かがくるのを「待つ」。 やさしく問いかけたら、内側から「何か」が出てくるのを「待つ」。いじったり、詮索したり、急かしたりせず、ただ、「待つ」。「何がが言いたいの?」などとけしかけずに、内側から何かが出てくるのを「待つ」。 ⑥そのまま、受け取る。 自分の内側から、何か出てきたら、それがどんなものであれ、それをそのまま「受け取る」。どんな言葉やイメージが出てきても、それをただそのまま、「受け取る」。 「そうなんだね、わかったよ」というように。と著者は述べています。 ここでは、フォーカシングでの前項での「間」の「スペース」ができると、主体性が育ち、育ったら、静かに、やさしく自分自身に問いかけたあとに。 その問に対して、いじったり、詮索したり、急かしたりせず、ただ、「待つ」ち、「何がが言いたいの?」などとけしかけずに、内側から何かが出てくるのを「待つ」。 自分の内側から、何か出てきたら、そのまま「受け取る」。どんな言葉やイメージが出てきても、それをただそのまま、「受け取る」り 「そうなんだね、わかったよ」というようになどと、ありのままに自分自身から湧き上た言葉やイメージを否定せずに、自己受容することだと述べている。 私的にも自分から湧き出する言葉やイメージを否定せずに、自己受容することだと思う。自己受容とは、ありのままに肯定して受け取ることだ思う。悪いとか悪くないなどの分析など必要ない。ありのま、自分の中で湧いていたものを受け止めるところです。
2024.05.12
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「毎日更新」読レポ第2070カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシングのステップ(4/7) ③クリアリング・ア・スペース(間が取れる)。 自分の中から出てくるすべてのものに「何が出てきても、認める。眺める」姿勢を取り続けていると、自分の内側におのずと「間」ができる。「スペース」が生じる。「間」「スペース」ができると、自分の内側におのずと「間」ができる。「スペース」が生じる。「間」「スペース」ができると、自分が主体である、という感覚を保つことができる。 ④自分の内側の深いところ、暗黙のフェルトセンスに直接、触れる。やさしく、といかける。 自分の内側との間に「間」が取れたら、内側の、なまの体験の流れ=フェルトセンスに直接意識を向ける(ダイレクト・リファー)。そして、自分自身にやさしく問いかける。「このこと(例:今年の身の振り方)について、どういう気持ちでいるかな」「どんな感じでいるのかな」「私にとって、今、一番必要なものは何かな」。静かに、自分自身に問いかける。臆病な子どもにやさしく問いかけるように。と著者は述べています。 ここでは、前項の「何か出てきても、ただそのまま、認め」ることで「間」「スペース」ができることで、自分が主体になり感覚がたもてるようになります。それができると「自分の内側にやさしく、問いかける」るようになり、自分の中の自分との対話ができるようになる状態になると述べている。 つまり、私的には、自分を俯瞰して、もう一人の自分の中の自分と対話できる状態になる。自分と対話をやさしく問いかけることで、自分自身が主体的になって行くと思う。自分が自分に問いかけられて行くから、他人事ではなく、自分事になるから、主体的になるのだとおもう。自分を俯瞰して見ることです。
2024.05.11
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「毎日更新」読レポ第2069カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシングのステップ(3/7)②何か出てきても、ただそのまま、認める。眺める。 自分自身をがんじがらめにしていたパターン化された思考に「ストップ(一時停止)」をかけることができたら、次におこなうべきことは、「自分の中から、何が出てきても、ただそのまま、認める。眺める」という姿勢を保つことである。 たとえば「こんな私、何やってもダメ」という感じが出たら、それをただ、そのまま、認める。眺める。「こんな私、生ごみでしかない。存在そのものが無駄だ」という感じが出てきても、それをただそのまま、認める。眺める。自分でも意外な「あれっ」と思うような違和感がうまれてきたら、それもただ、認める。眺める。この「何が出てきても、そのまま、認める。眺める。」という姿勢を自分自身に対して取りとり続けることが、フォーカシングにおいて最も重要である。 何が出てきても、「あぁ、そういう感じ、ここにあるんだね」という姿勢で「ただそのまま、認める。眺める」を繰り返していく。すると、自分と自分の内側の感じ(フェルトセンス)との間におのずと「間」が取れていく。自分の内側から何かが出てきても、ただそのまま「認める。眺める」という姿勢を取り続けていると、自分の内側の間に「スペース」ができてくる。「一定の距離」を自分自身との間に、取ることができるようになっていく。これが、フォーカシンの第2フェーズである。と著者は述べています。 ここでは、フォーカシンの第2フェーズである「②何か出てきても、ただそのまま、認める。眺める」を具体的な例として述べている。 たとえば「こんな私、何やってもダメ」という感じが出たら、それをただ、そのまま、認める。眺める。そうすると、自分の内側の間に「スペース」ができてくる。「一定の距離」を自分自身との間に、取ることができるようになっていくと述べている。 これは、私的は、「スペース」は余白をつくることではないかと思う。その余白がないと、自分が陥っている思考の悪循環に囚われている狭い自分の思考から抜けて、俯瞰して見る、感じることはできないと思う。俯瞰して見れなければ、狭い一つのことに囚われ、別の選択が見れないからだ。別な広い選択を探索するためには、「スペース」の余白をつくり俯瞰して見る、感じることだと思う。 その俯瞰して見えてくる、感じたことを否定せずにただそのまま「認める。眺める」という姿勢を取り続けていると、自己受容することだと思う。 それがフォーカシンの第2フェーズであると理解することができる。 悪循環に囚われている人は、心を落ち着かせた後は、つぎは、自分の中に「スペース」の余白をつくることです。
2024.05.10
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「毎日更新」読レポ第2068カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシングのステップ(2/7) ①自分が陥っている思考の悪循環に「停止をかける(ストップする)」→呼吸に意識を向けて、「内側の深いところ」に入っていくためのこころの構えを整える。 考えても仕方ないと思うことを頭で考え続ける「ぐるぐるした堂々めぐり」に陥っている。「私なんかダメ。うまれてこなければよかった」と「自分へダメ出し」をおこない続ける。知的な分析を頭でし続ける。感所的怒ったり、自分を憐れで泣き続ける……。自分自身に対するかかわり方がこうした固定パターンにはまってしまっているうちは、意味のある気づきや変化の芽は生まれてこない。パターン化した「自分へのダメ出し」や「なぜ自分は幸せになれないのか、その理由を探し続ける自己分析」に対して、「ストップ!」をかけること。自分自身のパターン化した思考を、「一時停止」すること。「治療的な停止」を自分自身にかけること。そして、呼吸に意識を向けて、自分の「深いところ」に入っていくこころの構えを整えること。これがフォーカシングの第1フェーズである。と著者は述べています。 ここでは、フォーカシンの第一段階の「①自分が陥っている思考の悪循環に「停止をかける(ストップする)」→呼吸に意識を向けて、「内側の深いところ」に入っていくためのこころの構えを整える。」ことを具体的に陥るパターン化を述べて、呼吸に意識を向けること整えることを述べている。 これは、認知行動療法でも深くゆっくりと深呼吸をすることをすすめている。これは、メンタルヘルスに通じるようです。深呼吸は、片手をお腹に触れて、もう一つの手は胸に触れて、ゆっくりと3秒程度はくと、心も落ち着きます。 深呼吸は、心を落ち着かせます。
2024.05.09
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「毎日更新」読レポ第2067カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシングのステップ(1/7) フォーカシングとは、「みずからのうちなる体験の流れ(experiencing(エクリンピング:経験する))直接のレファラント(参照体)に注意を向ける時、それに続いて生じるすべての過程」のことである。これが、フォーカシングの正式な定義である。フォーカシングとは、したがって、元来「一つの心理技法」ではない。フォーカシングとは、カウンセリングが成功に至る「決定的な、変化の瞬間」に、クライアントがおこなっている「内的な体験」のことである。また、多くのクリエイティブな人がその内面でおこなっている「内的行為」である(「現象としてのフォーカシング」「体験としてのフォーカシング」)。 しかし、なかなかそうできない人がいる。そうしたクライアントは、知的な自己分析をおこない続けたり、ノンストップ・スピーカーになって、堂々巡りの話しに終始したりしてしまう。そこでこの「決定的に重要な体験」を教えようとして「体験としてのフォーカシング」からとりだされたのが、「心理技法としてのフォーカシング」である。 フォーカシングのことを、ただ「心理技法」として紹介してある心理技法の解説書や辞典の類が多いことが、大変に残念である。そのことによって、それが、カウンセリングや心理療法のみならず、人間の内面的な生活が豊かになり、人類が内面的により豊かな存在に進化・成長していく上で「決定的に重要なもの」であることが見過ごされてしまうからである。多くの人にとって、フォーカシングはまだ「発見されていない」ものである。 「心理技法としてのフォーカシング」は、次の5つの姿勢を自分に対して繰り返していくことである(世界的に著名なフォーカシング・ティーチャー・アン・ワイザー・コーネルによる説明をもとに筆者が変更を加えた)。①何が出てきても、ただそのまま、認める。眺める。②「間」が取れる。「スペース」が生まれる。③自分の内側にやさしく、問いかける。「今の私にとって必要なものって、何かな」「私はどんな方向に向かっていけばいいのかな」④内側から何が出てきても、そのまま、受け止める。「そうなんだね、わかったよ」というのに。⑤出てきたもの(言葉、イメージ、音楽、動作など)を何度も何度も自分の内側に戻して響かせる。よりしっくり、ぴったりなものが出てくるまで、何度もつづけていく。内側の暗黙のフェルトセンスに響かせ響かせしながら、進めていく。ある程度、納得のいくところまでやられたら、いったん終わりにする。⑥また始める時は、「何が出てきても、ただそのまま、認める。眺める」という基本姿勢に常に立ち返る。より実践的には、次のようなフェイズで進めていくのがいいと私は説明している。と著者は述べています。 ここでは、ロジャーズのフォーカシングのステップ5つについて概要をのべている。「①何が出てきても、ただそのまま、認める。眺める。②「間」が取れる。「スペース」が生まれる。③自分の内側にやさしく、問いかける。④内側から何が出てきても、そのまま、受け止める。⑤出てきたもの(言葉、イメージ、音楽、動作など)を何度も何度も自分の内側に戻して響かせる。よりしっくり、ぴったりなものが出てくるまで、何度もつづけていく。」と言うのがフォーカシングのステップ5つであると述べている。 このフォーカシングがなかなかできない人は、、知的な自己分析をおこない続けたり、ノンストップ・スピーカーになって、堂々巡りの話しに終始したりするからとも述べている。 確かに、「①何が出てきても、ただそのまま、認める。眺める。」は、自己受容感になる。「②「間」が取れる。「スペース」が生まれる。」は、余白になる。「③自分の内側にやさしく、問いかける。」は、自分の中との対話になる。「④内側から何が出てきても、そのまま、受け止める」は、自己信頼感になる。「⑤出てきたもの(言葉、イメージ、音楽、動作など)を何度も何度も自分の内側に戻して響かせる。よりしっくり、ぴったりなものが出てくるまで、何度もつづけていく。」は、自分の中との対話になると思う。言葉は違うが私が思っていたことと似通っている。
2024.05.08
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「毎日更新」読レポ第2066カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン フォーカシング、フォーカシング指向心理療法 フォーカシングとは、一言で言えば「自分の内側と深くつながる方法」である。自分の内側に意識を向けて、ていねいに時間をかけて自分の内側とつながっていると、ふと新たな言葉やイメージや考えが思い浮かんできて、人生における大切な気づきにつながることがしばしばある。これを自覚的体系的におこなっていくのがフォーカシングである。原理的には一人でおこなうこともできるが、リスナー(聴き手)が側にいておこなうと、より深く、自分の中に入っていくことができやすい。 カウンセリングや心理療法において、クライアントがまさに変化の瞬間を迎える時に、多くのクライアントは、どこか上滑り気味に高い声で速いスピードで語っていたのが止まり、だんだん沈黙しがちになる。自分の内側に意識をとどめて、しっくりくる言葉やイメージなどを探っていくようになる。早いクライアントであれば2回目の面接あたりから、そうでなくても4回目、5回目の面接ぐらいから、こうした深い自己探索の時間がしばしば出現する。 フォーカシングはこのように本来、「成功するカウンセリングにおいてクライアントがその内側で体験している体験のプロセス」のことである。そのプロセスにおいてクライアントはしばしば、内側で響かせ響かせしながら、よりフィットする言葉やイメージを探しながら語っていく。これが、成功するカウンセリングに共通する体験である。 ジャンドリンは、成功するカウンセリングに共通するこの内的な体験のプロセスを、次の「4つ位相(four phases(フェーズ) of focusing(フォーカシング:焦点を合わせる)」として記した(現象としてのフォーカシング)(Gendlin,1964)①直接のレファレンス(direct(ダイレクト:直接) reference(リファレツ:参照)フォーカシングの位相Ⅰ)―概念的にはおぼろげだが、体験する感じとしてははっきりしている「感じられた意味」に直接リファーする②ひらけ(unfolding(アンフォーディング:展開する)フォーカシングの位相Ⅱ)―いくつかの局面のひらけと象徴化。③全面的な適用(global(グローバル) application(アプリケーション:応用)(フォーカシングの位相Ⅲ)―全面的適用がどっと押し寄せてる。④レファレンスの変化(referent(レファレント:指示対象) movement(ムーブメント:動き) フォーカシングの位相Ⅳ)―はじめてにか感じられていたレファラント変化し、過程は再び位相Ⅰから始まる。 成功するクライアントは、このように変化を体験する。一方で、なかなかそうならないクライアントもいる。ずっと上滑りな話ばかりを続けたり、観念的で抽象的な話ばかりを続けたり、怒りや悲しみなどの感情をぶちまけ続けているクライアントである。そうしたクライアントにフォーカシングという体験のプロセスを「教示を与える」という仕方で体験させることもできるのではないか。ジャンドリンらはそう考えた。成功するカウンセリングにおいてクライアントが自分の内側で体験している内的な体験のプロセスを、どの人にも体験してもらうことが可能な形で技法化したものが「技法としてのフォーカシング」である。そしてフォーカシングの視点を組み入れた心理療法をフォーカシング指向心理療法と呼ぶ。 フォーカシングは、カウンセリングや心理療法においてのみ有効なものではない。新たな発見をもたらすキャリア・コンサルティングやコーチングにおいても、クライアントは自分を語りながら内側に触れて、しっくりくる言葉やイメージや動作などを探究していく。新たな気づきや発見があるキャリア・コンサルティングやコーチングにおいても。フォーカシングは必ずと言っていいほど、その一部となっている。自覚的にそれが用いられていないだけである。 フォーカシングはまた、新たなアイディアやコンセプトを必用とするクリエイティブな仕事すべてにおいても有益である。クリエイティブな仕事に取り組む人は、しばしば、行き詰まりに陥る。既存のパターンにとらわれてしまい、それ以上進むことができない「行き詰まり」に襲われる。その時ふと立ち止まり、内側に深く意識を向ける静かな時間を持つこと。く内側にていねいに触れていくことに時間を十分にかけること。自分の内側につながりながら、よりしっくりぴったりくる言葉やイメージなどを内側に響かせ響かせしながら探していこと。つまり、内臓感覚的に思考すること。こうした体験のプロセスにおいて、既存のアイディアやイメージのパターンと私たちの内側の暗黙のinner experiencing(エクリンピング:経験する)とは激しく相互作用を起こす。そこから新たな「何か」が生まれる。そこで生まれた新たな「何か」が多くの人々の間で共振し、相互作用を起こして広がっていく時に、新たな文化が生まれてくるのである。 このように、フォーカシングはクリエイティブな仕事や活動をするすべての人に有益な体験である。一人一人が「フォーカシングという体験の仕方」を獲得することは、この社会全体がクリエイティブで刺激に満ちたものになり、相互に影響し合いながら発展していくことへとつながっていく。フォーカシングは、この社会の文化全体のさらなる発展を活性化させうる力を秘めているのである。と著者は述べています。 ジャンドリンの提唱しているフォーカシングとは、一言で言えば「自分の内側と深くつながる方法」である。自分の内側に意識を向けて、ていねいに時間をかけて自分の内側とつながっていると、ふと新たな言葉やイメージや考えが思い浮かんできて、人生における大切な気づきにつながることがしばしばある。 それは、カウンセリングだけでなく、クリエイティブな仕事や活動をするすべての人に有益な体験になり、新しいものを生み出すことがある。 ジャンドリンのフォーカシングに、なかなかそうならないクライアントもいる。ずっと上滑りな話ばかりを続けたり、観念的で抽象的な話ばかりを続けたり、怒りや悲しみなどの感情をぶちまけ続けているクライアントがいるが。ジャンドリンは、クライアントにフォーカシングという体験のプロセスを「教示を与える」という仕方で体験させるフォーカシングの視点を組み入れた心理療法を、フォーカシング指向心理療法をあみ出したのであると述べている。ここでは、具体的なことは述べていない。 確かに、私も多少は環境学習のプログラムでクリエイティブな活動をしているが、しばしば、行き詰まりに陥る。既存のパターンにとらわれてしまい、それ以上進むことができない「行き詰まり」に襲われる事がある。その時は、場を変えたり、違うことをして、一旦そのことから離れてから、再度考えて行くと、自分の内側から湧いてくるアイディアが生まれることが、よくある。一旦そのことから離れとは、立ち止まると意味的は同じような気がする。 ジャンドリンの「フォーカシングはクリエイティブな仕事や活動をするすべての人に有益な体験である。」は、まさしく私の中でも起きている。
2024.05.07
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「毎日更新」読レポ第2065カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ジャンドリンのそのご(2/2) また、なかなか深まらないクライアントに対しては、セラピストが積極的に深まるように働きかけ、つまり、自分の内側のinner experiencing(エクリンピング:経験する)に意識を向けれていくように促し働きかけていくセラピィを、体験的心理療法(experiential (エクセペリアンンショウ:経験てきな)psychotherapy(セイコセラビィ:心理療法))と命名して展開していった。これは後に「フ―ォカシング指向心理療法(focusing(フォーカシング:焦点を合わせる) oriented (オリエンティド:指向性のある)psychotherapy(セイコセラビィ:心理療法))と呼ばれるようになる。 これらの方法の最大の利点は、いわゆる「頭でっかちで、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」をストップさせることにある。「治療的停止」である。カウンセリングを受けてもなかなかうまくいかない、自分を深く見つめることができないクライアントに共通するには、「頭でっかちで、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」に陥ってしまっていることである。いつもああでもない、こうでもないと、同じパターンでぐるぐる考え続けている。そしてその堂々巡りの悪循環からなかなか抜け出すことができないので、「私はいつまでも変われないのかも」と自己否定的になっている。 得てして人柄のいい方で、責任感も強い。頭もいい。だからもったいないのだが、この「頭でっかち、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」から人は、なかなか抜け出すことができない。「もっとできるはずの自分」から見て、「今の私はまだダメだ」とつねに自分にダメ出しをして、自己否定し続けている方も少なくない。この「頭でっかち、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」をストップさせること。「一時停止ボタン」を押すことが、なにより重要である。それができれば、こころの中で人はで、「間」ができる。「スペース(空間」)出来る。この「スペース」「空間」の中で人は、自分の内側の深いところに直接、意識を向けることができる。すると、こころが動き始めるのである。 自分の内側の、なまの体験の流れ、experiencing(エクリンピング:経験する)に直接意識を向けると、そこで体験のプロセスが展開し始める。人が、自分の内側のなまの体験の流れ、experiencing(エクリンピング:経験する)に直接意識を向けると展開していくプロセスがフォーカシングである。 こころのことに関心があったり、カウンセリングやワークショップに自分が参加するような人の多くは、「深い傾聴」をしていると、おのずと、自分の深いところに意識を向け始め、そこからものを考え、語るようになる。「うーん……どう言ったらいいんだろう……」と内側深いところから言葉を探し、絞り出していく。しかし世の中、そんな人ばかりではない。心理学の勉強をしても「何それ、宗教みたい」「変なの」で終わってしまう人もいる。そんな人が人生の問題にぶつかってカウンセリングに来ても、浅い、表面的な話しに終始するばかりで、なかなか深まらないし、展開していかない。こんな事態を打開するために開発されたのが、技法としてのフォーカシングである。自分の内側の深いところに触れることがなかなか難しいクライアントがいるならば、内側に触れるとはどういうことか、教えればいい。内側の深いところに触れながらものを考えたり語ったりすることは、どのようにすればできるようになるのか。それをインストラクションして、できるようにしてあげればいい、というわけである。シカゴ大学で教鞭をとるようになったジェンドリンは、どのようにすればフォーカシングが教えらるか、具体的な教示を仲間たちと一緒に探索していった。と著者は述べています。 ジャンドリンは、 セラピストが積極的に深まるように働きかけ、つまり、自分の内側のinner experiencing(エクリンピング:経験する)に意識を向けれていくように促し働きかけていくセラピィを、体験的心理療法と命名した。 だが、そのようなセラピーでのカウンセリングを受けてもなかなかうまくいかなく、自分を深く見つめることができないクライアントがいます。共通するには、「頭でっかちで、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」に陥ってしまっていることである。 そのような人に対してジャンドリン達は、フォーカシングと技法でクライアントに働きかけた。それには、「一時停止ボタン」を押すことが、なにより重要である。それができれば、こころの中で人はで、「間」ができる。「スペース(空間」)出来る。この「スペース」「空間」の中で人は、自分の内側の深いところに直接、意識を向けることができる。すると、こころが動き始めるのであるのである。 どうもその方法は次項のようです。ここでは、その方法で重要なのは、こころの中で人はで、「間」ができる。「スペース(空間」)出来ることが、なかなか、自分を深く見つめることができないクライアントには重要と述べている。 私もなかなか表面的で深まらないのは、クライアントは、「頭でっかちで、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」に陥って「スペース(空間」)出来ていないのだと、この項で知った。「頭でっかちで、考えすぎな、堂々巡りの悪循環」に陥ってしまっているクライアントには余白が必要なようです。
2024.05.06
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【毎日更新】読レポ第2064カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ジャンドリンのそのご(1/2) さて、ウィスコンシン大学での「チーム・ロジャーズ」の研究主任の大役を果たした実績を評価されてか、シャンドリンは1963年に母校であるシカゴ大学に戻って、教鞭をとることになる。華々しい活躍を見せたジェンドリンでするが、その主軸は、experiencing(エクリンピング:経験する)論を中心に据えて、恩師ロジャーズのやり残した「クライアントの変化過程」という課題を継いて探究することだった。「まさにこの瞬間にクライアントの変化する、その瞬間に何が起きているのか」を探究することであった。その成果が名著「人格変化の一理論」である(Gendiln,1964)。 この力作においてジャンドリンは「内容モデル」と「過程モデル」を区別し、フロイトをはじめてとする従来の心理療法の理論は「内容モデル」であり、それは、人間がなゆえ変化できないかを説明するの適した理論ではあるけれども、変化を説明するには不向きな理論になっているとして、みずからのexperiencing(エクリンピング:経験する)概念を核として、クライアントの変化を鮮明する理論の構築を探究していったのである。その説明は鮮やかであり、「人格変化の一論理」の鮮烈さに惹かれてジャンドリンの世界に引き込まれていった人間は少なくない。今の50代、60代の心理療法家の少なからずにとって、この論文の日本語訳が収録された紫色の表紙の、村瀬孝雄訳『体験過程と心理療法』は長い間「バイブル」であった。 ジャンドリンはその後、ではどうすれば自分の内側深くに触れるようになるか、それを「教える」ことはいかにすれば可能かという課題に取り組んだ。多くの弟子たちに恵まれ「教示」法が開発された。これが「技法としてのフォーカシング」である。と著者は述べています。 ここでは、ジャントリンが名著「人格変化の一理論」や、その後の「技法としてのフォーカシング」を生み出した概要を説明している。 ジャントリンがウィスコンシン大学で「チーム・ロジャーズ」の研究主任の大役を果たして、母校のシカゴ大学に戻って、恩師ロジャーズのやり残した「クライアントの変化過程」という課題を継いて探究し続けてて、experiencing(エクリンピング:経験する)概念を核としてのジャントリンの名著「人格変化の一理論」を生み出した。ジャンドリンは「内容モデル」と「過程モデル」を区別し、フロイトをはじめてとする従来の心理療法の理論は「内容モデル」であり、それは、人間がなゆえ変化できないかを説明するの適した理論ではあるけれども、変化を説明するには不向きな理論になっているとして、みずからのexperiencing(エクリンピング:経験する)概念を核として、クライアントの変化を鮮明する理論の構築を探究していったのである。 その後「人格変化の一理論」を教える教示法の開発を探究して「技法としてのフォーカシング」を生み出したのであると述べている。 今の日本の50代、60代の心理療法家の少なからず「技法としてのフォーカシング」が長い間のバイブルであったようだ。 私の師匠の一人も「フォーカス・チェンジ」と言う言葉で、自分の内側に意識を向けることを何度も繰り返し言っている。答えは、自分の内側と対話することで選択することで、その答えには、いいとか、悪いとかはない。自分自身の中から答えを選択することを進めている。
2024.05.05
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読レポ第2063カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ジャンドリンの「原体験」-ナチスに追われる父の姿 では、ジェンドリンはなぜ、人が変化する瞬間に意識を向けるこのexperiencing(エクリンピング:経験する)というもに(もちろんそのように概念化するのは後になってのことだとしても)、大きな関心を向けるようになったのであろうか。修士論文のドイツ人哲学者ディルタイ研究でそれははじめて学問的に探索された。ではそもそも、ジャントリンがディルタイ研究をしようと思った動機はどこにあったのか。また、ディルタイのErleben(ドイツ語エレーブ)(「生」「体験」)という概念に何を感じたからあの概念を、そのような角度から探究しようとしたのか。つまり、それらの背景にあるものは何であるのか。 その最大のものはおそらく、ユダヤ人である彼がまだ少年だった戦時の体験である。ジェンドリンの口述自伝にそれが記されている。ユダヤ人であるジェンドリンの家族は、ナチスに追われた。次の場面は、ナチスから逃走するジェンドリンの家族の様子をジャンドリン自身が回想した箇所である。 ケルンで父は、私を連れて「ある住所」に行った。それは、貧しい陰鬱な通りのユダヤ人居住区にあった。そこにはユダヤ人が淡々と住み続けて、まる何事も起こっていなかったかのような不思議な感覚を私たちにもたらした。ここのドイツ人はオーストリア人ほど粗暴ではなかった。1933年からすでにユダヤ人たちは自らそこに住み続けていた。他方ウィーンにおいては、差し迫った命の危険があり、すべてのユダヤ人はすぐにでもウィーンを離れたがっていた。私もちょうどその住所にあたる建物を見つけた。それはその建物の上階にある住居だった。そこで父は、ある男とともに部屋に入った。 私はたぶん15分ほど外で待っていた。父が部屋から出てきたとき、青ざめた顔で「行こう」と言った。外に出てから父は、あの男は信用できないと私に説明した。自分のフィーリング(feeligs)が自分に「ノー」と言うのだ、と言った。 私はすでに、父が「私は自分のフィーリングに従う」というのを何度も聞いていた。けれどこの時はまだ、父が言う自分のフィーリングを信じるということについて私は理解できなかった。私たちは見慣れぬ街の中で、何の出口も見出せずにいたのだ。私たちの希望のすべては、この「住所」にかかっていた。にもかかわらず、この希望は打ち砕かれてしまったのだ。父がただそう「感じた」という理由だけで。 私はそのとき大変驚いたので、後になって、自らに語りかけてくるフィーリングというものが一体どのようなものなのか、何度も自問した。時折私は、自分自身の内側に、そのようなフィーリングを見つけようと試みたが、見つけられなかった。 けれど、私がそのフィーリングについて探求し始めたことが、結果的に実を結ぶこととなった。40年後、フォーカシングをどのように発見したのかたずねられたとき、私は、この少年の日を思い出したのである。(Korbei,1994) ナチスに追われるジャンドリンの家族。計画通り逃げる中で、ジャンドリンの父親は「違和感」を感じた。そこで立ち止まり、内側に意識を向けた。「あの男は信用できない、自分のフィーリングが自分に『ノー』と言うのだ」。そこで判断を変えたことで家族は生きながらえることができたのだ。この時ジェンドリンは、人がフォーカシングしている姿をはじめてみたのである。 いのちのかかった切迫した場面で、私たちは濃密な「フェルトセンス」を感じる。父親は、自分の深いところから、何か大切な知らせが届いていることに気づき、そこに意識を向けた。そして判断を変えたのである。ジャンドリンはみずからフォーカシングの「原体験」として、少年時代のこの場面をあげるのである。 余談であるが、ユダヤ人、ナチスと聞くと、『夜と霧』のヴィクトール ・フランクルを思い起こす方もいるだろう。フランクルもジャンドリンも、「意味」に焦点を当てたユダヤ人心理療法家である。そして、フランクルもジャンドリンの父親同様に、「内側の実感」に従うことで強制収容所の中で生きながらえている。ジャンドリンは、「意味志向心理療法」に大きな貢献をなした一人として、2008年にヴィクトール・フランクル家財団によるヴィクトール・フランクル賞(Viktor Frankl prize)を受賞している。二人とも、オーストリアで生まれ育ったユダヤ人なのである。と著者は述べています。 ここで、ジャンドリンがフォーカシングにたどり着いたかを述べている。 ジャンドリンはユダヤ人で少年時代は戦時中で家族は、ナチスに追われていた。そんな時に家族とある男とある住所の住居にいったが、ジャンドリンの父親は「違和感」を感じた。そこで立ち止まり、内側に意識を向けた。「あの男は信用できない、自分のフィーリングが自分に『ノー』と言うのだ」と言う場面を体験した。その父親の「自分のフィーリングが自分に『ノー』と言うのだ」という判断で逃げることができた。 そのような父親の行動の体験を何度か見てきた。それがジャントリンが父親の内側に意識を向け、「あの男は信用できない、自分のフィーリングが自分に『ノー』と言うのだ」と言う場面から、探求していった結果に、ジャンドリンがフォーカシングにたどり着いたのである。少年時代に父親の姿からジェンドリンがフォーカシングにたどり着いたのである。
2024.05.04
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読レポ第2062カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(6/6) あるいは、そのような特別な人ではない一般の人が、ある文章をブログに書いてみて、ちょと「ここは、違うな」と違和感を覚え、立ち止まり、よりしっくりくる言葉がないか探すために、みずからの内側のまだ言葉にならない何か、なまのexperiencing(エクリンピング:経験する)に直接意識を向け、触れながら、よりしっくりくる音を探して「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を重ねた時に「あ、こうか」「そうそうそう……」という言葉がみつかった時に、自分の内側で何かが動く。曖昧だったものが明らかになっていく。内側で何かが動き進展していく、そんな感じがある。日常の中で誰でも、ごくふうに体験しているこのようなプロセスのことを「体験としてのフォーカシング」「現象としてのフォーカシング」と呼ぶのである。 これこそが、人がまさに「変化する瞬間」に起こっていること、である。より自分らしく生きようとする時には、その人の中に起こっていることの「核心」である。だからこそロジャーズは、ジェンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)概念(最初は1955年に学術発表で提示された)に大きく刺激を受け、さっそく翌1956年に、ロジャーズ自身の学会発表(「心理学療法の本質―変化の瞬間―」)において、クライアント(オーク夫人)の「変化の瞬間(moment(モンメント:瞬間) of movement(ムーブメント:動き))」について、「この瞬間、クライアントは、an experiencing(エクリンピング:経験する)となっている」(Rogers,1956b)という表現を使うなど、すぐに大きな刺激を受けている。みずからの研究の新な方向性の中心にこの概念を据えている。それによりロジャーズ理論は旧モデル(自己理論モデル)から新モデル(体験様式モデル)に刷新され、本書第2章で見た「クライアントの変容過程の研究」や主著『オン・ピカミング・ア・パーソン』の執筆へとつながっていくのである。 すべては、ロジャーズとジャンドリンの相互交流のなかから生まれた。『オン・ビカミング・ア・パーソン』も、フォーカシングも、本質的には両者の「合作」と言ってもいいめんがあると言いたくなるほどである。 と著者は述べています。 ここでは、一般の人でも日常の中で、「体験としてのフォーカシング」「現象としてのフォーカシング」のプロセスが起こることを語っている。 私も、この読書レポートを書いていて、「ここは、違うな」と違和感を覚え、立ち止まり、よりしっくりくる言葉がないか探すために、みずからの内側のまだ言葉にならない何か、なまのexperiencing(エクリンピング:経験する)に直接意識を向け、触れながら、よりしっくりくる音を探して「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を重ねた時に「あ、こうか」「そうそうそう……」という言葉がみつかった時に、自分の内側で何かが動いて行く瞬間がある。 この「体験としてのフォーカシング」「現象としてのフォーカシング」のプロセスは、誰でも、ごくふうに体験するのではないかと思う。 このジャンドリンの「フォーカシング」やロジャーズの主著『オン・ピカミング・ア・パーソン』は、二人の交流での対話から生まれた「合作」と言っても、私はいいのではないかと思う。 まさしく、対話での交流がこの 『フォーカシング』や『オン・ピカミング・ア・パーソン』を生んだのです。
2024.05.03
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読レポ第2061カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(5/6) 人が、自分の深いところにあるなまの体験の流れ(experiencing(エクリンピング:経験する))に直接意識を向ける(ダイレクト・リファー direct refer)時に展開していく体験のプロセスのことを、ジャンドリンは「フォーカシング(focusginng)」命名した。つまりフォーカシングとは、よく各種テキストや心理学辞典、解説書などで紹介されているような「心理技法」のことでは、本来ない。カウンセラーに深く傾聴されているうちに、クライアントがおのずと、内側の深いところに意識を向け、そこに触れながらものを考えたり語ったりし始める。その時展開していく体験のプロセスのことである。成功したり治癒や成長が見られるカウンセリングの中で必ずといていいほど生じる、このような「みずからの内側の(xperiencing(エクリンピング:経験する)なまの体験の流れに直接意識を向けた時、そこに展開される内的な体験のプロセスのもの」を指した言葉である。 この本来の意味のフォーカシング、内的な体験のプロセスは、成功するカウンセリングにおいてのみ見られる特殊な現象ではない。たとえば、創造性の高い作家が文学作品を書いている最中で、立ち止まり、「うーん、ここはちょっと違うな。違和感がある。これは何と言ったらいいのか。うーん……」と、自分の思考プロセスを一時的に停止させ、スペース(間)をつくり、内側のなまの、何か、まだうまく言葉にならないけどもそこにあって表現されようとしている「暗黙の何か」に直接触れながら、そこから言葉を探りだそうとしていく。その時に展開されるプロセス。これも「体験のプロセスとしてのフォーカシング」である。 あるいは、ダンサーやミュージシャンが自分の踊りや曲に違和感を覚え、立ち止まり、間をつくって、「うーん、ちょっと違う、どうしよう……」と言葉にならない違和感に直接触れながら、そこからよりしっくりくる音や動きを探していく。「ああでもない、こうでもない、こうかな」と試行錯誤していくプロセス。それが「体験としてのフォーカシング(現象としてのフォーカシング)」である。と著者は述べています。 ここでは、ジャンドリンの「フォーカシング(focusginng)」を説明している。人が、自分の深いところにあるなまの体験の流れ(experiencing(エクリンピング:経験する))に直接意識を向ける(ダイレクト・リファー direct refer)時に展開していく体験のプロセスであることを「フォーカシング(focusginng)」と命名した。 この「フォーカシング(focusginng)」は、成功したり治癒や成長が見られるカウンセリング時のクライアントにみられる。また、この「フォーカシング(focusginng)」は、カウンセリング時だけでなく、創造性の高い作家やダンサー、ミュージシャンなどでも起きているプロセスでもあると言っている。 私も環境学習のプログラムを作ているときに、たまに、違和感を感じて立ち止まり、「うーん、ちょっと違う、どうしよう……」と言葉にならない違和感に直接触れながら、しくりくる内容を頭の中で試行錯誤考えるときがあり、新たな企画が生まれたりする。バージョンアップの企画が生まれる。 フォーカシングは、カウンセリング時だけでなく、人の創造性が生まれるときにも発生する。
2024.05.02
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読レポ第2060カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(4/6) つまり、クライアントが自分の内側の深いところ、experiencing(エクリンピング:経験する)に触れながらもの考えたり語ったりする時に変化が生じている、とういう発見は、何もウィスコンシン大学での統合失調症研究から生まれたものではない。20代前半のジャンドリンがディルタイ(ドイツの哲学者)研究の中で、人間の生の最も重要な働きとしてとらえ、ロジャーズののカウンセリングではきっとそんなことが起ているはずだからそのことを確かめなくては、と思って、勇気を振り絞ってロジャーズのもとを訪ねた理由となった、そのことがあった。そしてカウンセリングの実習生となってクライアント役を買って出た時に、これこそセラピィの核心だとますます確信を持つに至った、そのことがあた。つまり、人は自分の内側の深いところ、experiencing(エクリンピング:経験する)にダイレクトに触れながら、そこに意識を向けてものを考えたり語ったりする時に変化するのだ、ということ、そのことこそがやはりセラピィの核心であり、それができているクライアントは変化し、できていないクライアントは変化していない、という、きわめてシンプルな真実であったのだ。そして、ロジャーズの「受容、共感、一致が伴った深い傾聴」は、それがクライアントの中にこの動き、つまり深く聴かれることでクライアントも内側の深いところに触れながらものを考えたり語ったりすることにつながる時に大きな意味があり変化につながるけれども、それが通じなクライアントも時折いる、という真実であった。と著者は述べています。 ここで、ジェンドリンが、ロジャーズのもとを訪れた動機が語られている。ディルタイ(ドイツの哲学者)研究でクライアントが自分の内側の深いところ、experiencing(エクリンピング:経験する)に触れながらもの考えたり語ったりする時に変化が生じてのでは、ないかと思い、ロジャーズの元へと勇気を絞り訪ねた。 まさしく、ジェンドリンは、ロジャーズの「受容、共感、一致が伴った深い傾聴」がクライアントの内側の深いところに触れながらものを考えたり語ったりすることにつながる時に大きな意味があり変化につながる核心を得たのである。ただし、クライアントが自分の内側の深いところ、experiencing(エクリンピング:経験する)に触れることができないクライアントは変化しない。 確かに、「受容、共感、一致が伴った深い傾聴」をクライアントにしても、変化しないクライアントもいます。おそらく、カウンセラーの「受容、共感、一致が伴った深い傾聴」を受け取れる受け皿がまだ無いのか、カウンセラー自身の「受容、共感、一致が伴った深い傾聴」が、まだ足りないのかも知れません。また、クライアントがカウンセラーに依存していれば、自己変容は起きないので、クライアントには変化は生じることは、少ないでしょう。自ら変わりたいという気持ちがないとならないと思います。カウンセラーは、そのような人に対しては、まず自己肯定感を高めることから始めなければならないと思う。
2024.05.01
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読レポ第2059カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(3/6) 一方、はなの内容が、過去に観た映画のことだとしよう。もしあるクライアントが、映画の内容の説明を淡々と続けて、それに終始する場合には、この人に変化は生じない。しかし、もしこの人が映画の主人公について説明しながら、その途中で「なんて言ったら、いいんでしょう……。あの主人公をみていると、なんていうか、なんだか、よくわからないですけど『滝に飛び込め。人生は、一瞬だ』という言葉が、浮かんでくるんです……。なんででしょう……・うーん(沈黙、5分。クライアントは、目をつむって、自分の内側の何かをまさぐっているかのような表情、手は、胸のあたりをさわって、何かを、内側で探しているような雰囲気が伝わってくる)。そうか、あの人の発するあの雰囲気は、今の自分に一番、欠けている、というか……ん……そうじゃないですね……えっと……『自分にももともとは、あるけども、今は、見失っているもの……それは、人生の流れの中に飛び込むことだ、と言われているような、そんな感じがするんです。……迷うな、飛び込め、……そんなふうに、あの主人公から、言われているような気がする』というか……」。 こんなふうに話しているならば、たとえ、話の内容は、自分のことや自分のかかえている問題についてほとんど語られていなくても、変化は生じる。クライアントは少しずつ、着実に、生き生きとした自分を取り戻すことができていく、そこには、「深さ」があるから、である。クライアントが、自分の内側の深いところに触れて、その内側の深いところに直接意識を向けながら、そこからものを考えたり、語ったりすることができる。すると「変化」が生じ始めるのである。そしてその、内側の深いところの「何か」こそが、ジャンドリンが、修士論文でディルタイのErleben(エアレーベン)(「生」「体験」)の訳語として当てたexperiencing(エクリンピング:経験する)という概念、そしてまだ哲学の大学院生だった時にロジャーズの研究室をはじめて訪ねた理由、「私は、セラピィにおいて、クライアントは、experiencing(エクリンピング:経験する)というインターフェイスからものを語っているに違いない、と考えた。私はそのことを確かめるために、実際に見に行く必要があったのだ」と語っている、まさにそれであったのだ!と著者は述べています。 面接でクライアントは映画の話しを雑談と思っていたが、その映画からクライアントは、自分の内側の深いところに触れる変化を示してきた。映画の主人公から人生の流れの中に飛び込むことだ、と言われているような、そんな感じをうけて、自分の内側の深いところに触れていき「変化」が生じ始めるのたのである。 ジャンドリンは内側の深いところの「何か」とあるとロジャーズの研究室に訪れて、「私は、セラピィにおいて、クライアントは、experiencing(エクリンピング:経験する)というインターフェイスからものを語っているに違いない、と考えた。私はそのことを確かめるために、実際に見に行く必要があったのだ」と語っている、まさにそれであったのだのである。 私もこの項を読んで、クライアントは映画の話しを雑談と思い込まないようにしないとならないと、思った。しっかり、クライアントに心の耳を傾けないとな。沈黙も。
2024.04.30
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読レポ第2058カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(2/6) 一方。「通常のクライアント」の中にも、いくらカウンセラーが「受容、共感、一致による深い傾聴」をしても、なかなか自分の内側に入っていかない人がいる。そうした人は。「深い傾聴」が通用しない。回数を重ねても、よくならない。しかもそのことが、面接の2回目・3回目のその人の様子、特に「話し方の深まらなさ」でわかってしまう。このことに着目したのが、カートナーの研究であった。 しかしこれは、自分の申し込みでカウンセリングセンターに来る人に限定した話しである。カウンセリングセンターの外に出れば、カウンセリングやこころのことにまったく関心がない人はたくさんいる。むしろそういった人が大半である。そうした人に「深い傾聴」をしても、ただ雑談して「あー、すっきした」となって、それで終わりである。精神科に長期入院してボーッとして過ごしている人も、いくら「深い傾聴」をされても、あまり深まらない、セラピィは成功しないのである。 では、どうすればよいのか。何をすることができるのか。 カウンセリングで自己探索が深まらない人は、「深さが欠如」していた。自分の内側の深いところに触れて、その深いところからのものを考えたり語ったりすることができずにいた。浅い表面的な話を続けていた。だとするならば、とジェンドリンは考えた。 鍵はクライアントの「話し方」にある。クライアントが「話す内容」は、それほど重要ではない。現在のことについて語ろうが、過去のことについて語ろうが、自分のことについて語ろうが、映画のことについて語ろうが、あまり関係ない。 鍵は「話し方」にある。たとえば、今の自分のことについて「そうですね。今の私は、なんてダメなんですよ。えっと、こういうことがあってですね……」と、50分間ノンストップで話すクライアントは少なくない。そして、それだけで返っていくのである。これだけでは、クライアントに「変化」は生じない。たくさん喋って、スッキリするかもしれない。カタルシスはなるかもしれない。けれども、それだけ、なのである。と著者は述べています。 ここでは、「深いところから話さないクライアント」として、カウンセリングやこころのことにまったく関心がなくて、たくさん喋って、スッキリしたいクライアントも多くいる。そのようなクライアントは、カウンセラーが「受容、共感、一致による深い傾聴」をしても浅い表面的な話をするばかりであり、自分の気持ちさをスッキリするだけで終わってしまう。「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されるだけのカタルシスで終わり、クライアントには「変化」は生じない。一時的にスッキリするだけです。また心の中に澱(おり)のような感情が溜まっての繰り返しが続いている。 そんな、散々喋って、「スッキリしたと言う表情」の人に私も出会う。まあ、それでも、本人が「スッキリ」したなら良いと思うが、クライアントのコンフォートゾーンの自己成長しないし、変化しないです。再び、散々喋って、「スッキリ」の繰り返しを続けてしまう。 それから抜け出すためには、カウンセラーがクライアントの言葉の背後にあるモノを感じて、クライアントへ心の変化を促す働きかけをすることだと思う。カウンセラーは、どんな事がクライアントの本質課題を意識して、クライアントの自己変容を促すことだと思います。
2024.04.29
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読レポ第2057カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(1/6) 1956年に「いいかい。大切なのは、ここからどう進むでいくのかだ、君は、それを発見していく人間の一人だ」とロジャーズから未来を託されたジェンドリはその後、どのような道を歩んだのか、ジェンドリ自身、次のように述懐している。 ロジャーズがウィスコンシン大学に招かれた時、私は研究主任として同行した。ほどなく、相談室に入ろうとしない「統合失調症」の患者と並んでホールに立っている自分がいた。患者は何についても深く話すことはなかったし、このことは精神科の入院患者に共通していた。私たちは対照群として近所の農家から「正常な」人々を募集した。雨水を溜めるために水平に農耕することや、親類総出で数日間で刈り取れるだけのタバコを植え付けることなどを彼らから学んだ。これらの「正常な」クライアントもセラピィに関連するような話はしなかった。 この深さの欠如(lack(ラックー:足りない) of deqth(ダッ:死))は、シカゴ大学で会っていた通常のクライアントに認められるものだった。カートナーは、カウンセリングの最初の2、3回でクライアントが自分の内側での体験を語っていないことがわかったら、そのクライアントは、長期間のカウンセリング面接をおこなってもうまくいかないことが予測されることを示していた。私は1963年にシカゴ大学に戻った。そしてこの問題に取り組んだ。多くの学生が忍耐強く、クライアントが自分の直接のexperiencing(エクリンピング:経験する)を見出すことができるようになるための「インストラクション(他者に物事を教え示すこと)」を記述した実験したりして協力をしてくれた。私たちはそれをセラピィの時間外で試み、多くの研究が生まれた。私たちはセラピィにとって決定的に重要な一つの変数(one crucial (クション:重要な)therapeutic (ベラキュデ:治療) variable(ベリヤボー:変数))を見いだすことに成功し、またそれを教えることもできるようになった。私たちは、あるケースの失敗が予測された場合に、それを逆転させることができるようになったのである。(Gendlin,2022) ジャンドリンは勝利した!つまりは、こういうことである。傾聴は、何のためにするのか。それはただ、「わかってもらうため」でも、話したいことを話してすっきりするため(カタルシス効果)でもない。本書第4章で示したように、人は他者から、深く聴いてもらっていると、本人自身も、自分自身の内側を深く聴くようになる。自分の内側に意識を向けていなかった人が、自分の内側に意識を向けるようになる。内面探索を始めるようになる。つまり、深く傾聴されることで人は、自分の内側を深く探索するようになる。それが、大きな自己発見や、今の自分がどうすればいいのかを発見することにつながる。と著者は述べています。 ジャンドリンは、1955年のカートナーの修士論文でのロジャーズへの異論をしめした「カウンセリングの最初の2、3回でクライアントが自分の内側での体験を語っていないことがわかったら、そのクライアントは、長期間のカウンセリング面接をおこなってもうまくいかないことが予測される」と言っていたことに対して、それを覆す発見した。 人は他者から、深く聴いてもらっていると、本人自身も、自分自身の内側を深く聴くようになる。自分の内側に意識を向けていなかった人が、自分の内側に意識を向けるようになる。内面探索を始めるようになる。つまり、深く傾聴されることで人は、自分の内側を深く探索するようになる。と述べていることに、私も同感です。 それには、私流に言うとたゆまなく心のベクトルをクライアントに注ぎ続けることだと思います。クライアントに深く傾聴の心のベクトルに耳を傾けることだと思います。
2024.04.28
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読レポ第2056カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1950年代後半ロジャーズ論文におけるexperiencing(エクリンピング:経験する)概念(2/2) ではロジャーが、ジャンドリンの言うexperiencing(エクリンピング:経験する)のdirect referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての特質をまったく軽視していたのかというと、そうではない、微妙な揺れが感じられるのが、第6段階についての記述である。第6段階のクライアントについてロジャーズは、「それについて感じるのではなく、体験の中に主観的に生きている」と言い、クライアントの発した「ワアーッ!これも変だ!」と言葉を引きながら、この言葉は「彼の中で進行し、彼がその中で生きている!experiencing(エクリンピング:経験する)」を表したものだ、と言うのである。ここでもやはり、experiencing(エクリンピング:経験する)は、クライアントがその体験そのものになって生きる、という実存的ニュアンスが濃厚であり、direct referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての性質は希薄である。しかしその後、同じ第6段階の説明として次のようにものべられている。 十分に体験するその瞬間の体験の流れ(the moment(モンメント:一瞬) of full experiencning(エクリンピング:経験する))は、明瞭にして明白な参照体となる。前の例で、このような瞬間に自分に突然生じたものがなんであるか、クライアントはしばしばあまりはっきりとは気づいていないことがわかるだろう。しかし、そのことはそれほど重要ではない。というのは、この事象(event(アベント:イベント)は、それについてもっと多くのもを見出すために、必要ならばたびたび引き返していることのできる実体であり、参照体だからである。これらの例に表れている懇願や、「自分を愛する」感情は、正確なものではないと後でわかるかもしれない。しかし、それらが何であるかについて、クライアントが満足のいくまで引き返していくことのできる、確固たる参照体(point(ポイント:ポイント) of reference(レフリーズ:参照)なのである。おそらくそれは、意識生活の下層であり、はっきりした生理的な事象を構成しているのもあり、クライアントが探索的な目的でそこへ引き返していくことができるものである。ジェンドリンはexperiencing(エクリンピング:経験する)の持つ参照体としてのこの重要な特質に、私の注意を向けてくれた。彼はこれを基盤とした心理学理論を展開しようとしている。(Rogers,1958) おそらくこのように理解していいのではないだろうか。1956年から1957年にかけてロジャーズは、心理療法の過程に関する自身の考えをまとめることに没頭した。1年間。録音された心理療法の面接の記録を聴くのに何時間もかけ、できるだけ無心に聞き入っていた。心理療法の過程に関して、またクライアントの変化について、どの要因が重要かについて、とらえるすべての手がかりに身を浸した。その結果、「自らのその瞬間その瞬間の体験そのものになりきって生きる」という実存的なニュアンスの強いイメージがゴールとして設定された。そしてそこに向けて、クライアントの変化過程を7段階に区分けし、ジャンドリンをはじめとした当時の共同研究者の提示したさまざまな概念をその過程の中にちりばめていった。experiencing(エクリンピング:経験する)概念はそこに取り入れられた概念の中に最も重要なものであるけども、まず先に設定されたロジャーズ自身のクライアントの変化過程に関するイメージが先行し、そこに組み込まれていく作業の中で、ジャンドリンがこの概念に込めた意味合いと若干ずれた使われ方がされたところもあるだろう。 筆者は、『オン・ビカミング・パーソン』(Rogers,1961a)(邦訳『自己実現の道』)の翻訳の中心的な作業を担当したが、その際、最も訳し分けに苦労し困惑したのが、「心理療法の過程概念」においてロジャーズが使うexperiencing(エクリンピング:経験する)の訳し分けであった。direct referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての性質が明確で、ジャンドリンに忠実にexperiencing(エクリンピング:経験する)の語を使っており、したがって「体験過程」と訳していいと思われた箇所と、たとえば先に引用した「十分に体験するその瞬間の体験の流れ(the moment(モウメント:一瞬) of full experiencing(エクリンピング:経験する))」といった表現のように、experiencing(エクリンピング:経験する)でも「体験過程」とは訳しづらい箇所(そう訳してしまうと、the moment(モウメント:一瞬) of full experiencing(エクリンピング:経験する)は、十分に体験過程の瞬間、となって、意味が取れなくなってしまうが至るところで混在していたからである。と著者は述べています。 ここでもロジャーズは、ジャンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)より、クライアントの変化過程に関するイメージが先行して、ジャンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)も混在していることを著者は、語っている。著者は、このロジャーズとジャンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)をどう訳すか苦労し困惑したようです。 私は、ロジャーズのクライアントの変化過程をよく見て、観察して、クライアントの変化の瞬間をつかむことに心ベクトルを向けて、クライアントが言葉を鏡になって、別な言葉で反射したりしながら、クライアントの自己変容を促すことに働きかけたい。 誰かの指示よりもクライアント自身が自己変容しなければ、成長はしていかないと思う。
2024.04.27
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読レポ第2055カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1950年代後半ロジャーズ論文におけるexperiencing(エクリンピング:経験する)概念(1/2) 1955年以降のロジャーズ理論は旧モデルと新モデルの「混合体」であると述べた。また特に50年代後半から60年代のロジャーズ理論には、キルゴールの影響から「変化の流れの渦へと、危険を冒して我が身を投げ入れる」といった実存的なニュアンスが濃厚である、と指摘した。このことは、この時期のロジャーズの論文におけるexperiencing(エクリンピング:経験する)概念が、ジェンドリのそれとは若干異なるニュアンスで用いられていることに見て取れる。この時期のロジャーズの論文を改めて読み直してむると、論文中でexperiencing(エクリンピング:経験する)概念が援用される時、そこに、direct referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての意味が幾分か希薄であることがわかる。この傾向は、3年後の「心理療法の過程概念」(Rogers,158)においても引き継がれている。 この論文は、心理療法におけるクライアントの変容過程を7段階に分けて論じたものである。第1段階の特徴として、experiencing(エクリンピング:経験する)が固定されており、それから隔絶されえていることがあげられている。階段が上がるにつれてexperiencing(エクリンピング:経験する)の固定性が解消されて流動的になり、隔絶や遅延がなくなっていく、とされている。 第5段階では、そのことが「生命体的な事象とそれを主観的に十分生きることとの間にほとんど遅れがない」と説明されている。少なくてもこの時期に書かれた論文に限って見れば、ロジャーズの用いるexperiencing(エクリンピング:経験する)という語は、クライアントが自分のある感情についてそれと隔絶されている感じることができなかったり、あるいはだいぶ遅れて感じたり、といった状態から脱して、自分の内側である感情が生じた時、たとえば怒りなら怒り、驚きなら驚きといった感情そのものに即座になりきり、といった実在的なニュアンスが濃厚である。そこではdirect referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての意味合いはどちらかと言えば希薄である。と著者は述べています。 ここでロジャーズの1955年頃から、旧モデルと新モデルの「混合体」になっていることを表している。旧モデルでのexperiencing(エクリンピング:経験する)が固定されており、それから隔絶されえているが、階段を登っていくように面接を繰り返していくと、クライアントはxperiencing(エクリンピング:経験する)することで、クライアントが自分のある感情についてそれと隔絶されている感じることができなかったり、あるいはだいぶ遅れて感じたり、といった状態から脱して、自分の内側である感情が生じた時、たとえば怒りなら怒り、驚きなら驚きといった感情そのものに即座になりきり、といった実存的なニュアンスになっていくと述べているということは、まさしく、「混合体」ということでしょう。 1955年のカートナーの修士論文でのロジャーズへの異論はロジャーズの進化の役に立っているだろう。人は変化してくるものですね。自己成長していくものですから、ロジャーズも当然自己成長して行っています。その自己成長には、肯定的受容があると思います。肯定的受容が自己成長につながると私は思います。
2024.04.26
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読レポ第2054カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 旧モデル・新モデルの「混合体」として世に残されたロジャーズ理論 では、ロジャーズ理論は、1955年のあの出来事をきっかけに、すっかりモデル・チェンジを果たしたのか、すっかり理論を変更したのか。いや、していない。 では、どのようになったか。新モデルと旧モデルが混然一体となった「混合体」として、世に残されたのである。(ロジャーズ理論が一見シンプルに思えて意外理解が難しいのは、ロジャーズ理論の中に、このような、新モデルと旧モデル、といった方向性の相矛盾する要素が混然一体となったまま提示されているからである)。 ロジャーズは、頑固である。1956年にあのような「事件」があったにもかかわらず、翌年1957年に公刊されたロジャーズの代表的な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」においては、やはりそれは「必要十分条件である」という姿勢を崩していない。また、第3章でみたように、その「補足」として「クライアントのタイプが違えば、別の条件が必要であるとは述べられていない」と示している。すなわち、「ここに述べたことは、どのクライアントにも、どんなタイプのクライアントにも有効である」という「強気一辺倒」の姿勢をまったく崩していない。これは、不誠実なのか。ロジャーズは、インチキなのか。 私はこれでよかったと思う。カウンセラーが相手を評価したりアドバイスしたりせず、相手をその内側から深く、深く理解していくこと。そして真実の自分として、そこにあること。「受容、共感、一致」は、クライアントがそんなカウンセラーの姿勢に守られ、安心して自分の内側に入っていくことにおいて、きわめて重要な意味を持っているからである。それはいくら強調してもしすぎないほど、重要で大きな意味を持っている。したがって、その後の研究や実践を通じて批判的に吟味、修正されていくことを前提としながらも、それはいったんは、「必要十分条件」として言い切られる必要があった。「この3つさえあればそれでいい」「すべてのタイプのクライアントに必要だ」「これに例外はない」と、いったん「見得をきられる」必要があってのである(その意味でいうと、1957年論文の正式な刊行前に出されたカートナーの修士論文は、「ほんの1,2年だけ、早すぎだ」と言ってもいいかもしれない。得てして、歴史とはそういうものであろうが)。と著者は述べています。 1955年のカートナーの修士論文でロジャーズに異議を言っていらい、ロジャーズも批判的なこと受容して、吟味、修正されていき、大きくロジャーズは変化していたが、ロジャーズの理論の「必要十分条件である」という姿勢と「受容、共感、一致」はjの姿勢は貫いていた。 「受容、共感、一致」は、クライアントがそんなカウンセラーの姿勢に守られ、安心して自分の内側に入っていくことにおいて、きわめて重要な意味を持っているからかれと言っている。 私もカウセリングなどでは、クライアントへの安心感が一番重要だと思います。安心感がなければ、クライアントは、遠慮して本当の事を喋らなくなり、自己変容へとならないと思います。なりよりも、カウンセラーは、「受容、共感、一致」の姿勢を貫くことだと思う。
2024.04.25
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読レポ第2053カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1956年学会発表―「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」への没頭(2/2) ここから代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』の刊行、そして同じ年に刊行された「心理療法の過程方程式」(Rogers,1961d)執筆の1961年あたりまで、筆者から見た、心理療法の研究者としての「ロジャーズは全盛期」である。54歳から59歳くらいまで―これが、セラピストとして、研究者としてのロジャーズのピークである。それを境に、ロジャーズの活動はエンカウンター・グループや平和活動、教育革命、結婚革命といった「社会的な広がり」を見せていく。その一方で、50代前半に撮影されたミス・マンとの面接におけるような精緻さ、引き締まった美しさは失われていく。60代の時のグロリアの面接は幾分雑になったかのように感じられるのは、致し方ないことであろう。 いずれにせよ、1956年のあの出来事を境に、ロジャーズ自身も変化をとげていく、その後、7、8年、ロジャーズは「クライアントが、まさに変化するこの瞬間」「それに引き続いて起きてくるプロセス」の解明に心血を注ぐ。固定された考えから離れ、より自由になり、この瞬間瞬間に自らを賭しているかのように生きる。そんな変化の方向性を丹念に追っていくことに専念するのである。その成果が本書第2章で見たロジャーズの「自己生成論」である。と著者は述べています。 ここでも、1955年のカートナーが修士論文ころからのロジャーズは変化して固定された考えから離れ、より自由になり、この瞬間瞬間に自らを賭しているかのように生きていることが書かれている。 他者からの自分の異論をロジャーズは、肯定的受容して、自分の固定された考えから離れて、より広い視点になり、「クライアントが、まさに変化するこの瞬間」「それに引き続いて起きてくるプロセス」などの新ない広い視点の論文を生んできた。 人は、他者からの刺激により、自由になれることがここで書かれている。肯定的受容がロジャーズの新たな変化を起こしたのです。まさしく、ロジャーズは、「自己生成論」を自ら示していた生き方をしていったのである。
2024.04.24
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読レポ第2052カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1956年学会発表―「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」への没頭(1/2) あの出来事以降、ロジャーズに最初に生じた変化はどのようなものであったのか。1957年論文、1959年論文といった有名どころに目を向けているとわかりにくいが、ロジャーズ自身の繊細な変化は、1956年の学会発表の抄録に示されている。最初の変化の兆しを感じることができるのが、1956年に学会発表の抄録として配布された小論文The Essence of Psycherapy:Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)(「心理療法の本質―変化の瞬間―」)(Rogers,1956b)である。この小さな論文においてロジャーズは、クライアントの変化の瞬間の体験について、「これはほとんど身体的なものなんです」と語ったあるクライアント(オーク夫人)の面接の逐語をとりあげている。興味深いのは、その後で、ここに描かれているのは「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」であり、「しかもこの瞬間、クライアントは一つの統合された体験そのものであって、何の障壁も禁止も伴わない an experienccing(エクシピリアリング:経験する)となっている」と指摘している点である(Rogers,1956b) 筆者がこの論文をはじめて手にしてその重要性に目を引かれたのは、たしか2000年に英国イーンスト・アングリア大学に日本人数名が訪問する形で開催された「英国ロジャーズ派カウセリング学習ツアー」いった際、キャンベル・バートンが講義の資料としてこの論文を配布した時のことである。筆者はまだこの時は、「あれ、身体的なものだ、とか、experienccing(エクシピリアリング:経験する)とか、ロジャーズが何だかジェンドリンみたいなことを言っているが、まだ1956年だ。ジェンドリンの哲学の博士論文さえ執筆される前のはず。ロジャーズがそんなに早くジェンドリンのから大きな影響を受けているわけはないし、何だろう……」と「不思議な違和感」を抱いていたのであるが、何のことはない。単なる筆者の調査不足、資料収集不足であった。 田中(2018)をはじめとした一連の論文のおかげで、ようやく謎が解けた。ロジャーズとジェンドリンは哲学の修士論文作成中にすでに親交を持っており、その後、1955年という、ロジャーズ、ジェンドリン、そしてチーム・ロジャーズにとって最も重要な一年を迎えていた。その影響をもろに受けて、ロジャーズが「新たな一歩」を踏み出したのが、この1956年の学会発表だったのである。と著者は述べています。 ここでも、1955年のカートナーが修士論文ころからのロジャーズのフルモデルチェンジ的な変化について、述べているようだ。 この1955から1956年頃にロジャーズは、大きく変わっていった。「心理療法の本質―変化の瞬間―」という論文から見られるように、ロジャーズは、「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」であり、「しかもこの瞬間、クライアントは一つの統合された体験そのものであって、何の障壁も禁止も伴わない an experienccing(エクシピリアリング:経験する)となっている」と唱え始めた。 今までは、ロジャーズは、「必要十分条件」が満たされることに注目していたが、クライアントの変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)に着目するように大きく変化していた。その要因は、カートナーの修士論も刺激になったが、弟子のジェンドリとの出会いからの影響が大きくロジャースを変化させたのではないかとおもう。それは、ジェンドリンの哲学の修士論文から見えてくるようだ。
2024.04.23
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読レポ第2051カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「旧モデル(自己理論モデル)」から「新モデル(体験様式モデル)」へ では、この1955年から56年の出来事をきっかけに、ロジャーズはどう変わったか。もし、あの、1955年の出来事がなければ、ロジャーズはどうなっていたか。ロジャーズの主著『オン・ピカミング・ア・パーソン』は、(少なくともあのような形では)書かれることがなかったであろう。 1955年の出来事をきっかけに、ロジャーズの主たる関心テーマは、(セラピストの態度条件への関心以上に)「クライアントの変化過程」へ移った。もちろん、それ以前からもロジャーズの関心はクライアントの変化に注がれていた。セラピィによって、クライアントの何がどう変化するのか注目していた。その一つが自己概念の変化であり、この、言わば旧モデル(自己理論モデル)に基づく研究の集大成が1954年の『心理療法と人格変化』である。 1955年の出来事、そしてチーム・ロジャーズのメンバーとの相互交流によって、ロジャーズ自身も生まれ変わった。「旧モデル(自己理論モデル)」から脱皮して「新モデル(体験様式モデル」へと展開していった。「カウンセリングの前と後でクライアントの自己概念はどう変わったか」という旧モデルから、「クライアントが今まさにこの瞬間に変化している、その変化の瞬間におけるクライアントの内側ではどのようなことが起きているのか」という新モデルへと、ロジャーズ自身の関心も大きくシフトしていった。 1955年を境としたロジャーズのモデル・チェンジはもっと注目されてよい、大きなものだ。これをきっかけに、ロジャーズは、「人間はこのように変化しうるのだ」というセラピィの可能性、セラピィという持つ人間変容のパワーに目覚め、「クライアントの変容過程」の探究に没頭していく。そしてそれに加えて、ロジャーズが執筆時に愛読していたキルケゴール(著者も一時記キルケゴールを読むためにデンマーク語を多少学ぶほどキルケゴールにはまっていた時期がある)、特に『死に至る病』(1849年)自己生成論や『哲学的断片への結びとしての非学問的なあとがき』(1846年)などの影響もあって、ロジャーズの主著『オン・ピカミング・ア・パーソン』は書かれたのであろう。逆に言うと、もしも1955年のあの出来事がなければ、ロジャーズのモデル・チェンジは本格的には生じず、代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』もあのような形では、書かれなかったであろう。すると、ロジャーズがフロイトやユングと並ぶ「ビッグネーム」となることもなかったであろう。と著者は述べています。 ここでも、1955年の出来事をきっかけに、ロジャーズの主たる関心テーマは、(セラピストの態度条件への関心以上に)「クライアントの変化過程」へ移ったて、ロジャーズは、本格的にモデル・チェンジのきっかけになり、代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』を生み、フロイトやユングと並ぶ「ビッグネーム」となったのであるようだ。 1955年のカートナーが修士論文でロジャーズの今までの理論に対して異議を唱えた論文に対しての出来事で、ロジャーズが肯定的に受容して、チーム・ロジャーズたちとの対話の議論によって、ロジャーズは代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』を生みたのです。 いかに、肯定的受容が新しい変化を生むかがここでも解る。肯定的受容がいかに大事かを私も感じる。私もミーティングファシリテーターをしているときに、新しい視点が参加者の対話から生まれる場に立ち会っている。 肯定的受容からの対話の議論がいかに大事かを感じる。
2024.04.22
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読レポ第2050カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(6/6) 興味深いのは、チーム・ロジャーズのメンバーたち、そしてロジャーズやジェンドリンがこの「事件」に対して示した反応である。カートナーが修士論文を提出した翌年、カートナーの研究を一部紹介したディスカッション・ペーパー(Cartwright,1956)がカウンセリングセンターのスタッフのもとに届いた。1956年のことである。この研究結果が配布されたとき、カウンセリングセンターのスタッフは一同激怒した、という(ジェンドリンの回想により)。とても信じられなかったのだ。この研究の結果によれば、自分たちが会っているクライアントには、成果が上がらないとあらかじめわかっている人たちがいるということになってしまう。しかも、カウンセリングの面接が始まってほんの数回で、このケースが失敗するかどうか、おおよその見当がついてしまうという。「きっと何か間違いではないか。間違いに違いない、と私たちは口々に言った」(Gendlin,2002)。自分たちは、面接を続けても結果は変わらないことがあらかじめわかっているクライアントに会っている。それはやはり、ショッキングであったことは間違いない。ジェンドリンはこのリサーチに加わっていなかったので、カートナーの結果は予期していないものであった。この場面で、ロジャーズはどうしたのか。ほかのたくさんの弟子がいるなかで、一人の弟子から、「あなたの理論は間違っています」「これが十分条件である、などと大胆なことは言えません」と、研究データを付けられたのである。 ジェンドリンは、その様子をこう言う。 ただ、そんな中で、ひとりロジャーズだけがじっと黙っていた。そしてこう言ったのである。「事実はいつだって味方だよ」(Gendlin,2002) 部屋に戻ったロジャーズのあとをジェンドリンは追った。ジェンドリンは、カートナーの研究のことでロジャーズに喰ってかかろうとした、という。その時、ロジャーズはこう言ったのである。「今回の研究結果が、きっと次の研究への足がかりになると思うよ」。ロジャーズはカートナーの研究に真実が表現されていることをわかっていたに違いない。 別れ際にドアのところで、ロジャーズは私の方にしっかり手を置きこう言った。 「いいか。大切なのは、ここからどう進んでいくかだ。君はそれを発見していく人間の一人だ」。ロジャーズはただ例として、私のことを出したのかもしれない。しかし私は、ロジャーズのこの言葉を深いところで受け取った(Gendlin,2002) この時何かが、ロジャーズからジェンドリンに手渡された。そうしてこうした出来事があった1955年から1956年を一つの区切りとして、それぞれは、やはりこの「出来事」なくしてはそちらの方向には向かわなかったであろうような「その後の展開」を迎えていく。 共通する一本の柱は「クライアントが変化する、とは、どういうことかであるか」というテーマである。クライアントが変化するとは、どのようなことであり、それはどのようにして生じるのか、というテーマであった。その鍵となったのがジェンドリンのexperiencing(エクスピング: 経験する)概念である。と著者は述べています。 ここでは、カートナーが修士論文でロジャーズの今までの理論に対して異議を唱えた論文に対して、ジェンドリンやそのチーム・ロジャーズのカウンセリングセンターのスタッフ達が、カートナーが修士論文に対して、一同激怒していた様子が見えてくる。異議を唱えられた本人、ロジャーズは、「今回の研究結果が、きっと次の研究への足がかりになると思うよ」 「いいか。大切なのは、ここからどう進んでいくかだ。君(ジェンドリン)はそれを発見していく人間の一人だ」と、まさしくロジャーズの人間性が現れていると私は思います。 ロジャーズは、まさしく、カートナーが修士論文からカウンセリングで唱えている「(肯定的)受容」 している。そして、ロジャーズは、カウセリングの本質での「クライアントが変化する、とは、どういうことかであるか」という、カウセリングのテーマをジェンドリンに問いをなげかけた。それが、後のジェンドリンのexperiencing(エクスピング: 経験する)概念を生み出したのだと思う。 このロジャーズのカウンセリングの「(肯定的)受容」 は、コミュニケーションには、重要であると思う。人は、話し手が受け止めてもえない非受容や否定的であると、コミュニケーションは、上手く働かないことが多いのです。コミュニケーションを上手く交わすには、お互いに肯定的に受容して否定的に受容しないことです。 やりがちですが、人の脳は、「自分の考えや感情を否定されると、反発する」癖があります。そのへんをロジャーズは、知っていたのかもしれません。
2024.04.21
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読レポ第2049カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(5/6) 田中(2018)は、カートナーのこの論文の「尺度Ⅳ」に着目する。尺度Ⅳは「能力感:状態に十分に対処できるという感じから、状況に対処する内的資源の無力感と欠如まで」である (Kirtner & Cartwright,1958)。セラピィで成功するグループは「感じられた不安の原因や解決を自己の内部に求める」(同前)傾向があるという結果が示されていた。平たく言うと、こういうことである。カウンセリングの中で、自分を深く見つめ、内面を探索していく傾向が見れた人は治っていった。逆にそうした傾向がなく、「運が悪かったんです」「ま、そういう時もありますよね」「あの人が問題なんです」と「外」に原因や解決を求めた人は治らなかった、というものである。よくわかる話である。 しかし、これはたいへんな衝撃であった。ロジャーズの理論が一応の完成を見せたまさにその同年に、ロジャーズ自身の門下生から、しかも修士論文という形で、ロジャーズ理論を覆す論文、すなわち、ロジャーズの言う「必要十分条件」が満たされていても成功しないクライアントがいること、したがって、ロジャーズの提示している「受容、共感、一致」は、「必要十分条件」と言っても「十分条件」とは言えない、ということ指摘した論文が提出されたのであるから、騒然としたにも当然である。と著者は述べています。 カートナーは、ロジャーズの提示している「受容、共感、一致」は、「必要十分条件」と言っても「十分条件」と言うことに対して、カウンセリングの中で、クライアントが自分を深く見つめ、内面を探索していく傾向が見れた人は治っていくが、クライアントが「外」に原因や解決を求めた人は治らなかった、と指摘している。 私としても、カートナーのクライアントが「外」に原因や解決を求めた人は治らない傾向があると思う。そのためにも、カウンセラーはクライアント自身が自分を深く見つめ、内面を探索していく傾向を促すように働きかけることだと思う。 ロジャーズの提示を完璧主義思考で考えないことだと思う。すべてが、ロジャーズの「受容、共感、一致」の理論の前に、クライアントへの下記の働きかけが必要です。 それには、カウンセラー等がクライアントが「安心感」を抱く環境づくりをしていき、ロジャーズの「受容、共感、一致」の意識した姿勢を続けることだと思う。 そのようにしても、治らない人もいます。完璧主義思考を手放して、完成主義思考でいることです。また、カウンセラーとのクライアントの相性もあります。
2024.04.20
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読レポ第2048カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(4/6)しかし、何かが上昇の道を上り詰め、そのピークに達する時、同時にそれはすでに、下降への道を内包している。暗黙のうちに、インプライしている。ロジャーズはの理論が一応の完成を見せ、刊行から65年ほど経っいまも「カウンセリング」の分野で最も有名な論文として繰り返し読まれ続けている1957年論文(必要十分条件)及び1959年論文(その包括バージョン)の2論文の原型となる論文が学内紀要に掲載された、よりによてその同年に、ロジャーズ理論をある意味で正面から否定する破壊生を秘めた論文が、しかもチーム・ロジャーズの一員である大学院生から修士論文として提出されたのである。それが、ウィリアム・カートナーが1955年に提出した修士論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」(Kirtner,1955)である。 カートナーのこの修士論文は、カウンセラーがどれほど相手を受容し共感していようと、よくならないクライアントはよくならない。治らないし、成長しない。そんな、言われてみれば当たり前の真実を、よりよってロジャーズ理論が完成に至る同ねんに突き付けたものであった。しかし、当時53歳と学者としても臨床家としても全盛期にある自分の恩師(ロジャーズ)の研究を正面から否定する修士論文を提出できる、というのは、この研究チームに、真実だけが奨励される真に自由で活気に満ちた雰囲気があったから可能になったことであろう。まさに「いい意味で非常識でクレイジーな集団」であり、そんな雰囲気があったからこそ、ロジャーズはみずから主宰する研究会に「クレイジー・アイディア」という名称を付けていたのだろう。 カートナーのこの修士論文、そしてそれをもとにした論文で明らかになったのは、「セラピィの期間と結果は、治療開始時におけるクライアントのパーソナリティ構造と関連している。最も顕著な差異は、こうした尺度上に見出される成功グループと失敗グループ間の差異であったから」 (Kirtner & Cartwright,1958)というものである。つまり、セラピィの開始の時点ですでに、クライアントのパーソナリティ構造の違いによって、受容や共感をベースにしたセラピィが通用するかどうかはほぼ決まっている、というものである。セラピィの上手い、下手ではなく、クライアントがどんな人であるかによって、カウンセリングが成功するか失敗するかは最初からほぼ決まっている、というのである。身も蓋も無い話と言えばそうであるが、ある程度経験を積んだカウンセラーであれば、誰でも思い当たる節のある話ではないだろうか。「あの人は、カウンセリングが効く人だよね」「あの人は、カウンセリングが効かないタイプだ」という話は、カウンセラー同士が、スタッフルームで時折話題にする会話である。またそれが偽らざる実感であろう。 どんな天才的なセラピストであっても、どんな専門家集団で尊敬されているセラピストであっても、「あの人だったら、どんな人でも治る」ということは、まずない。それは、その人をカリスマ扱いしたい集団内での、ただの幻想である。逆に、それほど上手くないカウンセラーであっても、安心感の雰囲気を毎回提供しこころを込めて聴いていれば、おのずと治っていく人は、治る。そんなクライアントは一定数いる。ガチャガチャと邪魔することさえしなければ、底力のあるクライアントは治癒と成長の道を歩むことが多いものだ。カートナーの修士論文は、おそらく当時から多くの臨床家が感じていたこのような素朴な実感を仮説として検証したものと言っていいだろう。そこには否定しがたい真実が示されており、そうした研究をきっかけに学問も実践も発展してくるものだ。と著者は述べています。 ここでも、ロジャーズの人間性が現れている。ロジャーズの研究会が「クレイジー・アイディア」という名称をつけた事の意味が解る。ロジャーズは、年齢も経験も、知識も関係なく、グループ間での言いたい事が言える、まさしく肯定的に受容している姿勢が解る。 ロジャーズに対する否定的なウィリアム・カートナーの論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」に対しても、肯定的に受容して、その論文の指摘を受けて、さらなる変化でのアップデートをロジャーズはしている。 まさしく、カウンセラーでの「受容」を普段からカウンセリング以外でおこなっている。相手を「受容」する習慣をつけると自分の自己成長へと私もつながっていくと思う。 また、「それほど上手くないカウンセラーであっても、安心感の雰囲気を毎回提供しこころを込めて聴いていれば、おのずと治っていく人は、治る。そんなクライアントは一定数いる。ガチャガチャと邪魔することさえしなければ、底力のあるクライアントは治癒と成長の道を歩むことが多いものだ」と言うことは、私もそう思う。 いままでも私も述べているが、カウンセラーは、クライアントにまずは、安心感を持ってもらうことが役割である。最終的には、クライアントの自己治癒力を引き出してあげることだと思います。何よりも、カウンセラーは、「安心感」をあげることです。
2024.04.19
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読レポ第2047カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(3/6) ③カートナー 修士論文において「必要十分条件」説を否定するデータを公表(1955年) そんな中、チーム・ロジャーズのその後の命運を大きく左右することになるもう1つの論文が世に出された。ウィリアム・カートナーが1955年に提出した修士論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」(Kirtner,1955)である。この修士論文の主要部分は3年後、共同研究者デズモンド・カートライトとの共著で公刊されている(Kirtner & Cartwright,1958) カートナーはこの修士論文で「ある種のクライアントたちはロジャーズ派のセラピィで失敗が予測される」ことをしめしたのである。なんと大胆な!先述のように、1955年というのはこのチームにおける絶対的な存在であったはずのロジャーズがその公式理論を学内紀要で公刊した年である(Rogers,1955)。当然のことながら、この論文は、チームの中でもしばしば話題になったはずである。そしてそれをもとに翌年の1956年には、ロジャーズの最も著名な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」論文が学内紀要に掲載されている。「必要にして、十分なる条件」である。それさえあれば、何もいらない、というわけである。第2章で見たように、ロジャーズは、セラピストの態度という「左辺」があるならば、それに伴ってクライアントの変化という「右辺」が必然的に生じるという「方程式」を想定していた。Aという条件が満たされているならば、Bという結果が生じる、という形の素朴な仮説を立てていた。それは「受容」「共感」「一致」という条件がみたされるならばその時必ず肯定的な変化が生じるはずだ、という人間に対する希望に満ちた理論であった。他者からほんとうに理解され受け入れられた人間は、しかもそれが相手の真実の姿だと思われたならば、生命としての力を活性化させ、困難から立ち直り、おのずと成長していくはずだ。必ずそうなるはずだ。ロジャーズの「必要十分条件」は、一見化学方程式のような装いをとりながら、人間に対する、そして、人を理解して援助するということに対する、絶対的な信頼に裏打ちされたものであった。 これはたしかに、「人間についての、普遍的な真実を突いている」と私は思う。人は、他者にその内側からほんとうにわかってもらえた時、ただそのままを受け入れてもらえた時、しかもそれを本心からそうしてもらえていると思えた時、生命の力を活性化させていく。生きる力がよみがえって、困難を乗り越えようとする力を獲得できる。これは間違いなく真実であり、ロジャーズの理論はこの真実に、科学的な装いを与えたものであった。それは、「人間という弱き存在にとってのかすかな希望」と言ってもいいものである。と著者は述べています。 ロジャーズたちは、ウィリアム・カートナーが1955年に提出した修士論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」の中かで、「ある種のクライアントたちはロジャーズ派のセラピィで失敗が予測される」ことをしめたのです。その論文の刺激から、ロジャーズは、最も著名な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」論文が生まれたようである。 その内容は、、他者からほんとうに理解され受け入れられた人間は、しかもそれが相手の真実の姿だと思われたならば、生命としての力を活性化させ、困難から立ち直り、おのずと成長していくはずであると言っている。 私流に言えば、前回と同じように述べたように、ひたすら、クライアントに心のベクトルを向けてクライアントの変化に焦点を当てることだと思う。クライアントの言葉にならないことを感じるには、心のベクトルをクライアントに注ぎつづけることだと思う。そうすると、クライアントの暗黙の世界を感じることができるようになると思う。その暗黙の世界に寄り添うことができることで、クライアントは自ら自己変容して行くのだと思う。
2024.04.18
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読レポ第2046カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(2/6) ②ジャンドリン 心理療法におけるクライアントの変化の鍵として「体験過程(experiencing:(エクスピング: 経験する))」概念を提示(1955年) そんななか、同じ1955年に出された二つめの刺激的な論文が、ジャンドリンが「体験過程(experiencing(エクスピング: 経験する))という概念を(哲学のディルタイ研究の文脈においてでなく)心理療法におけるクライアントの「変化」を説明する概念として、はじめて用いていたexperiencing(エクスピング: 経験する)という概念をはじめて心理学の概念として世に出したのである。 ところで、ロジャーズから臨床実習生になることを許可され、トレーニングを積んだジェンドリンは、なかなか優秀だったようである。「ある時、ロジャーズは、自分の門下生たちに、『私がカウンセリングを受けるなら○○さんに受けます』『友人がカウンセリングを受けるとすれば、○○さんを推薦します』という質問紙調査をおこなった。相談相手のカウンセラーを、セミナー出席メンバーから選ぶ想定でおこないました。ジェンドリンがトップになりました」(Rogers & Russell,2002)。今これをしたらハラスメントになるのではないか、とちょっと心配になるエピソードである。実際、この時の雰囲気についてロジャーズは次のように語っている。「反撃のような雰囲気が生じました。「ちくしょう!仲間を評価されるなんて!僕たちは平等主義で、力を合わせているんだ。それなのに、あなたは私たちをランクづけさせた』というわけです。全体の空気が険悪になり、二度とやりませんでした」(Rogers & Russell,2002)。ロジャーズにはこうした「いたずら心」が旺盛であったようだ。この時、仲間からの投票で一位に選ばれたのが、ジェンドリンであった。大学の仲間たちからも「あいつは、心理学出身ではないけども、臨床が一番できる」と一目置かれた存在であったようだ。 1952年からは、ロジャーズのもとで仕事をさせてもらえるようになった。そんななか、先に述べたように、みずから「クライアント体験」をするなかで生まれたテーマ―カウンセリングは、クライアントは自分の「感情」「気持ち」を語りセラピストがそこに応答することが大事だとれているが、正確に言えば、そうではないのではないか。実際に起こっていることは、そうではなく、怒りや悲しみといった気持ちの背景にある、まだ言葉にならない、生々しい、微細で複雑な暗黙の何かに触れながら、そこから語るということであり、セラピストはそこから何かがうまれてくるのを持っている。するとそこから「もっと深い何か」が生まれるのではないか、という疑問―に、修士論文の哲学論文で使っていたexperiencing(エクスピング: 経験する)という概念を使って取り組み始めたのである。ロジャーズのもとでカウンセリングの実践をしているうちに、ジャンドリンは「その場で起こっていることに哲学の考え方を適用できる」(Gendlin & Lietaer,1983)のではないか、と考え始めたのである。 まず、1954にジャンドリンは、フレッド・ツィムリングとともに、ロジャーズが主宰する「グレイジー・アイディア」という研究会において、experiencing(エクスピング: 経験する)概念について、心理療法研究の鍵概念として最初に発表している(田中 2018)。「グレイジー・アイディア」とロジャーズ主宰の研究会の名前からは、一見奇妙なもののように思えても、自分の中から生まれてきた考えであればどんどん発表してみよう、という、実に自由でチャレンジングな雰囲気が伝わってくる。この研究会で、おそらく1954年に発表がなされ、1955年にカウンセリングセンターのディスカッション・ペーパーに寄稿されている(田中 2018) 40代からの研究成果を1955年、53歳の時に「自己理論」としていったん体系化してまとめてロジャーズであったが、ジャンドリンのこのexperiencing(Gendiin & Zimring,1955(エクスピング: 経験する))という独創的な概念に刺激を受けて、一段と新たなステージにみずからの理論を展開させていくことになる。ロジャーズのそれまでの理論は、「自己理論」を主軸としたものであった。「自己概念」や「自己構造」に焦点を当て、その変化を研究するものであった。しかしそれは、いくら細分化して細かに研究しても、変化の「前」と「後」を比較する研究しかできない。自己概念がこのように変わった、という研究しかできない。いくら単位を細分化し、たとえば50分の面接中に5分ごとの変化を追っていったとしても、それは「5分前」と「5分後」の「結果」の比較であって、「変化するということ自体」に焦点を当てたものではない。ジャンドリンのexperiencing(エクスピング: 経験する)概念は、ロジャーズの研究を(とうようより、チーム・ロジャーズの研究の方向性を)「まさにこの瞬間にクライアントが変化している、その瞬間に起きていること」に焦点を当てる方向へと転換させたのである。 1956年にジャンドリンらが「患者たちが何を話すかという点に違いはない。違いは患者たちがいかに話すかという点にある」という報告をした学会発表(Gendlin,Jenney & Shlien,1960)をおこなったことで、話の「内容」にではなく、どのような体験し、どのように話しているか。という「体験の様式」に焦点を当てる方向性が加速化していく。本書第2章でみたような、クライアントの変容過程についての生々しい記述、そしてそれを柱としたロジャーズの代表作『オン・ピカミング・ア・パーソン』も、ロジャースとジェンドリンの出会い、そして二人を要とした展開していくチーム・ロジャーズの協働作業なくしてはとうてい不可能であったように思われる。つまり、ロジャーズのセラピィ論の到達点である1950年代後半から1960年前半の論文や著作そのものが、ロジャーズ一人がなした仕事、というよりも、ロジャーズとジェンドリン、そして二人を要としたチーム・ロジャーズの「合作」としてはじめて可能になったところがある。その元も大きな原動力となったのが、ほんの数年前まで若き哲学の大学院生であったジェンドリンであった. ジェンドリンによって提示されたexperiencing(エクスピング: 経験する)という概念だったのである。と著者は述べています。 ここでも、ロジャースはジェンドリンと二人が要のチーム・ロジャーズがあってこそ、ロジャーズの代表作の『オン・ピカミング・ア・パーソン』が生まれた。特にジェンドリンの、いくら細分化して細かに研究しても、変化の「前」と「後」を比較する研究しかできないとの指摘であったようだ。、たとえば50分の面接中に5分ごとの変化を追っていったとしても、それは「5分前」と「5分後」の「結果」の比較であって、「変化するということ自体」に焦点を当てたものではない。「まさにこの瞬間にクライアントが変化している、その瞬間に起きていること」に焦点を当てる方向へと転換させたのである。 それが、ロジャーズの「自己理論」を主軸としたものであったものを変えることになり、代表作の『オン・ピカミング・ア・パーソン』が生まれたようです。 カウンセリングでは、「前」と「後」を比較するのではなく、クライアントが変化している、その瞬間に焦点を当ててのカウンセリングではないかと思う。 私流に言うと、ひたすら、クライアントに心のベクトルを向けてクライアントの変化に焦点を当てることだと思う。クライアントの言葉にならないことを感じるには、心のベクトルをクライアントに注ぎつづけることだと思う。そうすると、クライアントの暗黙の世界を感じることができるようになると思う。その暗黙の世界に寄り添うことができると思う。
2024.04.17
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読レポ第2045カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(1/6) ロジャーズとジャンドリン、そして、チーム・ロジャーズにとって決定的な瞬間が、1995年に訪れる。田中(2018)を読んで知ったのであるが、この同じ年にきわめて重要な論文が3つ、書かれている。 ①ロジャーズ、最も公式的な論文「セラピィ・パーソナリティ及び対人関係の理論」の元論文を学内紀要で公刊(1955年) ロジャーズの生涯で最も有名な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」(Rogers,1957a)の元論文(Rogers,1956a)が、1957年の学会誌での掲載に先だって、学内紀要論文として刊行されている。一般的には、1957年の論文「治療的人格変化の十分条件」(Rogers,1957a)が有名であり、その内容を含んだより完成された1959年の論文「クライアント中心療法の枠組みにおいて発展したセラピィ、パーソナリティ及び対人関係の理論」(Rogeras,1959)がロジャーズ理論の一応の完成体とみなされている。しかし実際には後者が先に書かれており、この論文の元論文が、まず学内紀要として、1955年に刊行されている(Rogers,1955)「必要十分条件」論文の元論文(Rogers,1956a)はその翌年、1956年に学内紀要として公刊されているのである。 53歳、学者としても心理療法家としても、全盛期にあったロジャーズ。その周りには、慕って集まってきた若き優秀な研究者や臨床家がたくさんいた。その中の一人が、当時29歳のジェンドリンである。そんな環境のなか、ロジャーズがみずからの公式見解となる理論をいったん完成させ、学内紀要において公刊したのである。当然ながら、この刺激的な環境は、そこに集まっていた多くの研究者を刺激し、思考を活性化させていくことになる。と著者は述べています。 ロジャースの中で最も有名な論文「セラピィ・パーソナリティ及び対人関係の理論」などは、ロジャーズを慕って集まってきた多様な若き優秀な研究者や臨床家などの刺激によって活性化した論文であるようだ。 私は、このロジャーズは、若き優秀な研究者や臨床家などとの対話によって、ロジャーズ自身の中で生まれて来た論文だと思う。相手を否定せず肯定的に受容したロジャーズの対話の力を改めて感じる。
2024.04.16
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読レポ第2044カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 二人の出合い(5/5) 私たちが真剣にもの考える時、ただの概念を超えて、自分の内側の「暗黙の何か」に触れている。「うーん、ここは、どう考えればいいか……」。内側の、暗黙の、体験の流れ、experiencing(エクスピング: 経験する)に直接触れている。そうしてしれを言葉にすることができれば、体験のほうが変化していく。私たちが何かを創作しようとしている時、ただの概念を超えた、内側の、なまの体験の中の流れexperiencing(エクスピング: 経験する)に直接触れる。それは何かの形にすることができれば、表現されようとしていた体験自体が変化する。このような、内側の、なまも体験の流れということがexperiencing(エクスピング: 経験する)に直接触れる、ということが、セラピィでも決定的に重要な役割を果たしているのではないか。ジャンドリンはそのことをクライアント体験する中で明確に意識するようになった。 しかし、実習生のジャントリンがクライアント体験をする中で理解したこのセラピィの核心は、当時の文献では記されていなかった。1950年代初頭のクライアント中心療法では、セラピストは、クライアントの怒りや悲しみといった「感情」「気持ち」に応答していると考えられていた。けれど実際に重要な役割を果たしていたのは、クライアントが「感情」「気持ち」を語りセラピストがそこに応答することではない。そうではなく、実際にクライアントが暗黙の、微細で複雑な何かに触れながら語ることであり、セラピストと共にそこから何かが生まれてくるのを待つことである。「正確に聴いてもらていると、もっと深い何かが、暗黙の複雑な何か(インプリシット・イントルカシー(the implict intricacy)から生まれてくるのである」(Gendlin,2002) その原因の一つは、experiencing(エクスピング: 経験する)に相当する概念が存在しなかったことにある。ジャンドリンは言う。 ふさわしい用語にめぐまれなかったがために、現在の体験(experience)こそ大切なのだ、というロジャーズの見解は、あちらこちらで誤解されてきた。クライアントは過去の体験に取り込む必要などないのだ、という意味にとらえられてきたのである。ロジャーズの考えをそのように受け取ると、ロジャーズの言う現在とは、概念的な内容のころを示すのだということになってしまう。ロジャーズは誤解され、クライアントは現在の生活の内容にだけ取り組めばいいのであって、幼い頃の体験に取り組む必要などない、といたかったかのように受け取られてしまっている。だが、ロジャーズがいいたかったのは、取り組む概念的な内容が過去のものであろうと、現在のものであろうと、クライアントは現在のexperiencing(エクスピング: 経験する)を通してだけ、うまい具合に問題に取り組むことができる、ということなのである。(Gendlin,1962)(田中 2018の訳を参照) しかしこのことが認識されていなかった。ここからexperiencing(エクスピング: 経験する)概念の研究が始まり、ロジャーズ理論もそれに刺激されて変化していく。と著者は述べています。 この項で、ロジャーズのクライアント中心療法で誤解されていることを、述べている。ロジャーズは、クライアントは過去の体験に取り込む必要などないのだ、という意味にとらえられてきたのであったが、ロジャーズは、、取り組む概念的な内容が過去のものであろうと、現在のものであろうと、クライアントは現在のexperiencing(エクスピング: 経験する)を通してだけ、うまい具合に問題に取り組むことができればいいと言っている。 そして、クライアント中心療法は、クライアントが「感情」「気持ち」を語りセラピストがそこに応答することではなく、実際にクライアントが暗黙の、微細で複雑な何かに触れながら語ることであり、セラピストと共にそこから何かが生まれてくるのを待つことである。 確かにクライアントの語りに対してではなく、その語りの中の暗黙の、微細で複雑な何かに触れながら鏡となり語ることのようだ。ついつい、クライアントの語りに対して応答してしまいがちです。巷のカウンセリングでもそのように書いている書籍が溢れている。その語りの微細で複雑な何かに触れられるようになるには、量稽古が必要な気がする。 正直言って、私には習得はできていないかもしれない。experiencing(エクスピング: 経験する)の量稽古がつねに、そのような姿勢が必要だと思います。
2024.04.15
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