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依存が快適であると同時に、恐怖をも育むのです。あなたの依存するものがどれほど不滅に思えようと、どのような形の心理的依存も必ず恐怖を生み出すことを、はっきり理解しなければなりません。<あるがままのもの>から逃げることが恐怖なのです。恐怖は何かから逃げ出そうとすることです。<あるがままのもの>は恐怖ではありません。恐怖とは逃げ出そうとすることなのです。測定と比較から、空虚さや虚無感の巨大な空洞ができるのです。そして、この空洞から逃げ出すことが恐怖なのです。(中略)比較と測定とは、まさに依存の本質でもあるのです。あなたの生活のすべてにおいて、(中略)心理的な比較なしに生きるということが何を意味するかがわかりますか。(中略)それは、依存がなく、満足もなく、追求もなく、要求もないことを意味します。それゆえ、それは愛を意味するのです。愛にはどんな比較もなく、また愛にはいかなる恐怖もありません。愛は自らが愛であることにも気づきません。引用:自己の変容 恐怖著者:クリシュナムルティ訳:松本恵一※( )を除く記載は、本書を引用したもの。※( )は、当方、解釈・所見・補助・省略等、編集を加えたもの。※太字強調は、本書にはなされてはなく、当方、独自編集(強調)です。
2008.01.31
今週は、日常業務を本日まで、ほぼ、お休みさせて頂いて、経理業務。確定申告へ向けての伝票整理。昨年までの申告時期は、毎年期限ギリギリだけど、今年は、ちょいと違うぞ。笑
2008.01.31
クリシュナムルティ氏の『自己の変容』を読んでいるが、これは、(日本における)「禅」の解説書だな。(一般的に呼ばれるところの)「日常」に切り込んでの禅の解説。呼び名は違えど、 瞑想 ≒ (坐)禅 か。瞑想に目的あらず。瞑想は、ただ瞑想。坐禅に目的あらず。坐禅は、ただ坐禅。坐ろうが、立っていようが、歩いていようが、横になっていようが、・・・瞑想は瞑想。(坐)禅は(坐)禅。あ、いかん、いかん、言葉で意味づけ・思考をしては・・・
2008.01.31
「神」という言葉については、それがさし示すものがありません。そこで、ひとりひとりが、対応するものがないそのイメージを独自につくり出すことができます。(中略)言葉は私たちを幻想に導くだけで、けっして神の方向へは導きません。神とは、私たちが崇拝する幻想なのです。(以上、言葉の「神」について)<あるがままのもの>がもっとも神聖なのです。<あるがままのもの>がもっとも神聖であるのは、幻想がないときだけです。幻想がないとき、<あるがままのもの>が神なのです。(氏の語る「神」という言葉自体には、意味はないようです。神聖であるということ。その意で、ひとつの表現として「神」という言葉を用いているようです。)所見:頭(思考・分析)で理解した、<あるがままのもの>は<あるがままのもの>ではない。それを氏は、ここで、幻想と表現しているのでしょう。<あるがままのもの>は<あるがままのもの>、知覚という行為なしの知覚。氏の語る、「自分が気づいていることにすら気づかない気づき」と言えるかもしれない。「神」(神聖でも、名づけは、なんでもいいが)は、偶像ではなく、実在である。引用:自己の変容 神の存在著者:クリシュナムルティ訳:松本恵一※( )を除く記載は、本書を引用したもの。※( )は、当方、解釈・所見・補助等、加えたもの。
2008.01.31
直覚は、心が静まった瞬間に自然に現れる魂の導きである。引用:あるヨギの自叙伝 第十五章 カリフラワー泥棒 より著者:パラマハンサ・ヨガナンダ
2008.01.30
この<私>とは、過去の記憶や経験が、関係のなかで起こす反応なのです。どのような事実を見る場合にも<私>はありません。<私>があるか、それとも見ているかのどちらかです。それらは共存できません。<私>とは見ていない状態なのです。<私>は見ることができず、気づくことができません。過去が<私>なのです。現在に<私>はありません。観察者が、強いられたのではなく完全に沈黙するとき、そのとき起こる気づきは明らかに異質なものではないでしょうか。(中略)この心には異質の、異次元の気づきがあります。この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません。引用:自己の変容 気づき著者:クリシュナムルティ訳:松本恵一
2008.01.30
釈尊、「一切衆生悉有仏性」 と説く。斉安、「一切衆生有仏性」 と説く。大円、「一切衆生無仏性」 と説く。参考:正法眼蔵 第三 仏性著者:道元禅師(所見)釈尊と斉安は、ほぼ近い意であるが、一見すると、大円は、逆の意で説いているようにみえる。が、これは衆生は衆生、仏性は仏性であり、分けることもないと言っているのだろう。まあ、わからないでもないけれど、ちょっと意地悪だなぁ。笑しかし、大円の説法のおかげで、釈尊と斉安の説法も奥深まるものだ。
2008.01.30
現象にプラス・マイナスはありませんから、現象を肯定的に捉えるのも、現象を否定的に捉えるのも、心のくせによるものですね。個人的体験からは、短絡的表現ですが、肯定的は楽しい、否定的はつまらないと感じます。肯定も否定もない真ん中も、なぜだろうと感じるのですが、これまた、楽しいですね。個人的指針としては、『楽しい道を進め』ですから、肯定か中立かのどちらかの道を選べばOKということになります。
2008.01.30
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。引用:正法眼蔵 第一 現成公案著者:道元禅師自己のほかに、あれこれと識得して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実は総て自己の体験として証せられるとき、それが悟りである。参考文献:全訳 正法眼蔵 巻一訳:中村宗一氏
2008.01.29
白黒つけるのは欲である。白黒つける必要のないときは、グレーのままがいい。
2008.01.28
自由とは、自ら(みずから)に由る(拠る)こと。自らを拠りどころとすること。であるから、自由でいると決めるだけで、いつも自由である。そう決めるのも自由だから。
2008.01.28
こころは、あるけど、ない。こころは、ないけど、ある。不思議だなぁ。そのとき、そのとき、感じるままでいよう。
2008.01.23
愛は、出すまでもなく、出るもの。愛は自ずから出てきます。愛を出すという行為はいらない。愛が出るのは、愛にあふれたとき。愛はあふれ出るもの。では、いつ、愛にあふれるのだろう。実は、もう愛にあふれているんだよね。これまでも、これからも、ずっとだよ。もちろん今もそう。出す愛は、自己があっての愛。自己があると、事故が起こる。・・・こともある。出る愛は、愛そのもの。出る愛に、自己はない。もちろん事故もね。^^出る愛は、生粋、100%愛だもんね。
2008.01.23
矛盾は、どちらも(そのとき)正しいで、よしとする。個人的定義。
2008.01.22
どっちがいいは、自己中心。自己を立てなければ、右も左もなく、上下もない。自己という中心がなければ、すべてがあるがままの一元世界。自然に、そのままでいい。変化は自然におまかせ、自ずから、然るべきときにおまかせ。自然に、そのままがいい。
2008.01.22
感謝しているときは、幸せ。ああ、ありがたいなぁ。日常生活に、感謝、幸せが満ち溢れていますね。感謝しております。ありがとうございます。
2008.01.22
自信をつける方法。と言っても、ごくふつうのことです。自信とは、自分を信じる(信じている)こと。信じるということは、信用するということ。信用は約束を守るところから生まれます。約束をひとつ守ることで、信用の紙を一枚ゲット。信用が厚いとは、この信用の紙の束が厚いということなんですね。まずは、自分との約束を守る。いつまでに、何をするという約束。この約束を目標と言います。それをひとつずつ。小さなことをコツコツと。他者との約束も、自分との約束です。約束を守ると信用が生まれます。自分への信用が、自信。自分を一番信じることができるのは、まず、自分自身です。久しぶりの成功哲学もどきでした。なんだか、新鮮だなぁ。笑
2008.01.22
食事処で、メニューを見て、どれにしようかと、頭で、考えると、もう迷いの世界へ突入です。^^;そんなときは、おいしいのはどれかな?ともちろん、予算内でおいしいのはどれかな?と選んでもいいでしょう。直感を素直に聞く。あとはメニューを閉じて終わり。
2008.01.22
趙州真際大師に、ある僧とふ、狗子還有仏性也無。この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。引用:正法眼蔵 第三 仏性著者:道元***以下、個人的解釈**********趙州真際大師に、ある僧が問う。「犬に仏性がありますか。」この問の意味を明らかにすべきである。狗子とは犬である。犬に仏性があるなきなど問うまでもない。趙州は、この問いに、「無」と答えるわけだが、この「無」は「有り無し」の「無」ではなく、問うまでもなくということであろう。仏性はことごとく有る。一切衆生に、ことごとく、仏性がある。(一切衆生、悉有仏性。)
2008.01.20
わからなくても、困らない。※個人的なことでした。
2008.01.19
本当と嘘って、そもそもあるの?う~ん、わからない。※個人的なことでした。
2008.01.19
本当か嘘かこの分別が、本当か嘘か。これも、わからない。本当と嘘って何なのか。ただ、誰かが定義したものにすぎない。本当か嘘かで迷うだけ無駄である。※個人的なことでした。
2008.01.19
聞くこと、見ること、本当か嘘かわからない。でも、本当か嘘かなんてどうでもいいんだよね。信じてみる。信じたほうが、面白いから。※個人的なことでした。
2008.01.18
ん?何か言った?『それでいいんだ。』そうだよね。ありがとう。
2008.01.17
言葉によって、心・思いを、そのまま伝えることはできない。だからこそ、言葉は大切に、丁寧に使う。言葉でしかできない心の交流もあるのだから。※禅語に触れて、感じたままに記しております。
2008.01.16
人は見たものを信じ、体験したことを確信しています。そしてその体験は、実は自分の確信が生み出した経験であることを私たちは知りませんでした。異次元からこの物理世界を眺めてみれば、「あなたは、あなたの信じたものを見ている」というのが事実だというのです。引用:多くの人が、この本で変わった。 津留晃一コンセプトノート所見:私自身、この言葉を信じ、そのとおり体験しているので、確信しているわけです。人それぞれ、信じたものを体験し、確信していく。まったそのとおりだ。という(個人的な)確信。まいったなぁ。^^
2008.01.16
この書き込みが、ブログ1000件目ということですので、ブログについて書いてみます。私とブログとの縁は、2005年5月から。何かの本で、ブログというものがあることを知ってからスタート。それからは、様々な目的を持って書いてきました。今は、ただ、書こうかなと感じたら書く。このために、という明確な目的はないです。書きたくなったら書く。休みたくなったら休む。そういう意味では、ただ書くが目的ですね。お気軽なスタンスでいます。日々の記録、日記は書くことは、好きではないので、あ、いいなと感じたことや、気づいたことくらいの書き込みです。ブログの手軽さは、重宝しています。ありがとうございます。そして、お時間割いて、読んでくださっている皆様にも、感謝しております。いつもありがとうございます。それと、ほとんどの内容は書いたら終わり。書いていることに、強い思い入れはないので、書いた内容を常に意識して行動しているわけでもありません。まあ、好きなようにやっているだけです。メッセージ性の強い内容は、あ、自分に言っているんだねと、思って頂いて、聞き流してくだされば嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします。
2008.01.15
斎藤一人さんのことばを3つばかり。あなたの人生は、あなたが主役。正しい、正しくないじゃないんだよ。楽しいか、楽しくないかなんだよ。あんまり人のことは言わないでさ、自分が楽しく生きられる努力をしようよ。ありがとうございます。^^
2008.01.15
真理の実践の場は、『日常生活』という。ただ、やる。ひたすら、やる。ただ、やっているだけ。只管。これが『修行』と呼ばれることもある。
2008.01.15
真理を探してもみつからない。否、真理を探すまでもない。もともと真理そのものなのだから。
2008.01.14
この世界には、単純な法則があります。この法則を知っている人、実践されている人は、きっと、笑顔の多い日常を送られているでしょう。愛さなければ、愛されない。愛せば、愛される。否定すれば、否定される。受け入れれば、受け入れられる。感謝すれば、感謝される。笑顔でいれば、笑顔を見る。世界はまるで、鏡のようですね。とても、わかりやすく、しかも実践も簡単な法則です。あなたは、世界に何を投げますか?最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。
2008.01.14
ここにきて、自他を超えて、大きな葛藤を見た。もろもろの条件が積み重なった、特別な状況で。自他の反応の流れから、異なるアプローチの在り方に深くふれることとなった。どっちが素晴らしいかとか、優劣とか、そんな比較をはるかに超えている。今の私のアプローチとは合致しないが、必要と感じたから、そして自他の意向もあって、分析してみた。分析することからの、気づきはほとんど、実感できない。わかったような、そうでないような、もやもや感。私が今、分析できる範囲を外れれば、それは想像しかできない。分析が学びという見方もあるが、それを、否定する意思もないが、今の私は、分析アプローチからは、離れているので。ただ、異なる道を選択しているということ。それだけにすぎない。アプローチはさまざまで、問題ない。そして比べることに意味を感じない。また、多様に、変わることもあるのだろうけど、そのときは、そのとき、今はこのままで。自分を信じているから。ゆるぎない自信。
2008.01.14
花を花と認識したうえで、見ると、綺麗だとか、美しいという言葉が浮ぶ。美しさにフォーカスし、美しさだけを見るようになる。花を認識なしに見ると、そこには命の堂々とした表現がせまってくる。ただ、驚くばかりである。
2008.01.13
AはBですか? 答えは「否」 AはCですか? 答えは「否」 AはDですか? 答えは「否」 Aは何かと問われれば、「A」としか答えようがない。 それ以外の答えは、ぜんぶ嘘である。 自分で探すしか本当の答えはみつからない。 けれど、探すまでもなく、問題即答えである。
2008.01.13
『自のものさし』で、『他のものさし』ははかれない。 目盛りが違うのだから。はかろうとすることを「比較」という。 『真実のものさし』には目盛りがない。 はかることがないから。
2008.01.13
知性で未知を知れるか。 知性で知れることは、未知が既知に写る影。 未知そのものではないのではないか。 知性を離れてみよ。 さすれば、未知を知ることができる。
2008.01.13
『それ』が何かと知性(思考分析)を持ち込まずとも、 『それ』は『それ』である。
2008.01.13
今は、思考を離れた感性を大切にしたい。 これは、私だけのほのかな欲求。
2008.01.13
まぁ、なんでもいいけど、楽しくいこうかなぁ。^^単純明快に。感じるままに。
2008.01.12
思考は今、起こっているが、思考には、思考している対象(ターゲット)がある。我思う。は、何を思うか。その『何』とは記憶(過去データ)ではないか。未来を思ったとしても、それは過去のデータから構築された未来像ではないか。今を思うのは不可能。思った「今」は既に過去の「今」。だから、たった「今」しかないというわけで、今どうあるかが、すべてである。(言葉ではなく)すべてである。(概念ではなく)すべてである。瞬間の今、今、今が現れて、消える。一般に、これを積み重ねたものを時間と呼んでいるのだが、今という時間が流れているのでなく、今があるだけで、今以外の過去や未来はすべて断片の記憶ではないか。記憶に連続性は感じられない。2つの記憶の断片があったとき、その2つの記憶の前後がわかるだろうか。3日前の記憶と、4日前の記憶、時計・カレンダーというデータなしに、その前後がわかるだろうか。時の前後、過去・未来は記憶にすぎないのではないか。あるのは「今」だけである。だから、今どうあるかがすべてである。今というこの時をどう生きるか、これがすべてである。これは、思考を否定しているのではない。今が、思考すべきときであるなら、思考すればよい。思考すべきでないときの思考はいらない。この文章は、今と思考について思考を使って、構築したものである。そして、もうすでに過去の概念である。今どうあるかがすべてである。※諸事情により、本日記へのコメントは恒久に非公開とさせて頂きました。
2008.01.12
真実は、今ここにひろがっている。頭の中で繰り広げられる思考の世界。頭の中、思考で求める真実は、どこまで追求しても、みつからない。頭の中で、真実の追求を始めると、真実がみつかったと思っても、次いで起こる思考に崩される。頭の中では、永遠に真実にたどりつくことはできない。しかし、真実は、今ここにひろがっている。真実: ほんとうのこと※諸事情により、本日記へのコメントは恒久に非公開とさせて頂きました。
2008.01.10
惜しからず 物蓄えず 欲しがらず着のみ着のまま これが極楽引用:詠み人:一休禅師私見:うーん、まさに極楽ですね。参りました。
2008.01.09
愛は無条件。こうしたら愛する。こうだから愛している。というのは、条件つきの愛。条件つきの愛は、愛情。愛は、そのまま、このまま。全肯定。そのままでいい。このままでいい。あるがまま。愛に理屈はない。愛情には、はじまりとおわりがあり、移ろいますが、愛は、はじまりもおわりもなく、決して変わることはない。
2008.01.08
仏道をならうとは、自己をならうことである。自己をならうとは、自己を忘れることである。自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。よろずのことどもに教えられるとは、自己の身心をも他己の身心をも脱ぎ捨てることである。引用:著書:正法眼蔵(一) 講談社学術文庫全訳注:増谷文雄氏現成公案より
2008.01.08
統合させようとすると、分離が起こる。そのまま、あるがままで、統合。
2008.01.07
知性が持つ本当の働きとは、一見全く関連がないかのように見える出来事のあいだに共通の法則なり、秩序を見い出し、それらを統合する概念を創出することにある。引用:著書:シリウス革命著者:半田広宣氏第1章(P30)より私見:認識を細分化していくと、全てがひとつの法則に出会うのかもしれないなぁ。 細分化は(言葉のイメージからみると)統合とは逆方向に向いているように思うけど、 統合への一つの道(手順)でもありそうだ。
2008.01.07
「一切はそのように[真実]である」、また「一切はそのように[真実]ではない」。「一切はそのように[真実で]あり、またそのように[真実]ではない」。「一切はそのように[真実で]あるのではないし、またそのように[真実]ではないのではない」これがもろもろのブッダの教えである。引用:著書:龍樹 講談社学術文庫著者:中村元氏『中論』第18章アートマンの考察 8 より私見: こ、これは、・・・。見事。
2008.01.05
婆さま「そもそも規則ってなんのためにあるんかねぇ?」爺さま「規則なんてものは、あっても、なくても、ええもんじゃないかのう。」婆さま「規則がなかったら、たいへんなことになるんじゃないかい?」爺さま「婆さんの言うとる、たいへんなこととは、犯罪とかのことじゃろ?」婆さま「まあ、そうですじゃ。」爺さま「犯罪が先か、規則が先か、考えると面白いもんじゃて、 規則でがんじがらめになっとるから、ストレスで犯罪が起こるとも言えるじゃろし、 その犯罪を抑えるために規則を作っているとも言えるのではないかのう。 はたして、どっちが先なんじゃろか。」婆さま「ほほう。そういうことですかい。 なるほど、規則がなければ、縛られないから、自由で楽しい。 楽しいときには優しくしたくなるのが人情ってもんですもんねぇ。」爺さま「そうじゃ。 規則は、社会運営ゲームのための手段みたいなもんじゃないかのう。」婆さま「ゲームですかい?」爺さま「そうじゃ、スポーツ、たとえば、サッカーで球ころを手でさわっちゃいかん。 かごに球ころを入れたら、得点が入るって規則・ルールで、ゲームを楽しんでおるわけじゃ。 社会もスポーツと似ておると思わんかい?」婆さま「たしかに、似ておりますのう。 ルールで社会が成り立っている。 そうかい、ルールってやつがあるから、人の世は楽しいってもんなのかもしれませんな。」爺さま「そうじゃな。 そもそも、平和のためじゃとか、秩序を守るためじゃとか、 色々な理屈はあるじゃろが、規則はしょせん、自由を奪うもんじゃ。 規則があることで、好都合・不都合どちらもあることも理解せんといかん。 一度こしらえてしまった規則は外すことは、ままならんが、 みなが仲良く楽しく暮らせる社会ができればええ、 規則は、そのための一つの手段にすぎんのじゃ。」婆さま「爺さま、大胆ですなぁ。」爺さま「婆さま、それはまあいいとして、茶~、しにいかんかい?」婆さま「はいはい。じゃあ、隣町のベローチェでも行きますかねぇ。」爺さま「ベローチェかい。楽しみじゃのう。あそこはかわいい娘っこがおるからのう。」婆さま「爺さま、そういうことばかり言ってると、規則で裁かれますよ。」爺さま「婆さま、新年早々、厳しいのう。」
2008.01.04
人生の目的は、「ああ、このままでいいんだ。」と気づくこと。そして、気づいていること。これは、個人的な目的。目的などなんでもいいのであーる。
2008.01.04
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