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みなさん、こんにちは。13年半の幸せな沖縄生活にいったんお別れをして、2022年6月、信州諏訪、岡谷市に移転してまいりました。2009年、東京から沖縄への移住は、荷物もほとんどすべて手放し、夫と身ふたつで空を渡りました。そして今度は、沖縄は知念村の藪で2匹を子育てしていた琉球犬のミックス、その名もおかあさんを連れて、2000キロの旅の末、なんとか信州に着地できました。日本のどまんなかに近い諏訪の地で、真理の探究と癒しへの専心を携え、魂の友人たちと出会っていきたい所存です。今後ともどうかよろしくお願いいたします。トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]公式サイト鍼灸整体治療院 https://harikyu-suwa.jimdosite.com心のセラピー https://kokoro-iyasuwa.jimdosite.com 鍼灸師・ヒーラー風間真吾の「あなたに合った治療法」 https://ruahari.ti-da.net/心のセラピストAZUの「AZU WORLD」https://azworld.hateblo.jp/ご予約・お問い合わせ✆ 0266-75-2179✉ ruach@live.jp所在地 長野県岡谷市神明町1-2-9ご連絡をお待ちしています。感謝とともにAZU拝
2022.09.28
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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄公式サイトが新しくなりました。https://harikyu-okinawa.jimdosite.com/ 鍼灸整体治療院https://kokoro-iyasi.jimdosite.com/ 心のセラピー ご登録などいただけましたら幸いです。サロンは通常通り営業中です。定休日は月曜・木曜です。ご予約・お問合せをお待ちしております。
2019.10.18
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2017.10.19
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2016.03.08
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知覚過敏?ブログ更新しています。AZU WORLDはwww.azu-worldcomへ
2015.11.10
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こちらをクリックしてください。公式サイトへ移動します。
2015.09.22
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2015.08.28
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初めての試みですが、来週金曜日 5月1日の午前10時30分より一斉ヒーリングをさせていただきます。普段お仕事で遠隔ヒーリングをさせていただいていますが この一斉ヒーリングは私からの地球と地球の仲間のみなさんへの感謝とご奉仕の思いを込めて、無料で行わせていただきます。お受け取りくださる方を募らせていただきます。ヒーリングをご存知の方も初めての方も私のセッションをお受けいただいたことのある方も まったく初めての方も またプロのヒーラーの方もそうでない方も悩んでいる方もそうでない方も自己と世界のしあわせを願うすべての方に お受け取りいただけたらと思います。年齢だけ制限させてください。 18歳以上の方とさせていただきます。やってみようと思われた方は メールにてメッセージをください。・お名前・生年月日・ご自身のテーマ(改善したい点やこうなりたいなどのご希望、肉体的、物質的、精神的、霊的、どんな次元でもかまいません)・世界に対する希望(祈り)もしくはご家族に対する希望(願い)以上4点を簡単で構いませんのでご明記ください。当日はお時間になりましたらリラックスした姿勢になり「私は今からAZU(アズ)さんの一斉ヒーリングを受けます」と心で宣言なさりあとは楽にお過ごしください。 30分ほど行いますが、ご自身のご都合で終了はお決めください。ゆっくりお時間が取れる場合は30分からさらに10~30分ほどリラックスしてお過ごしいただけると エネルギーの吸収が速やかになります。また、ヒーリング後は必ずではありませんが好転反応が出る場合があります。また浄化を助けるために、普段より多めにこまめにお水をお飲みください。詳しくはRUACH公式サイトのこちらのページをご参照ください。http://ru-o.jimdo.com/対面ヒーリング/こちらからの個別のご報告などはいたしませんが、ご感想などのご報告は大歓迎です。また当日のお時間が合わせられないけれど受け取りたいというご希望がある場合は その旨メールにお書き添えください。ゴールデンウイーク中ですが たくさんの皆さんとワークできればと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。(ヒーリングはご希望通りのかたちで結果を出すとは限りませんが波動レベルでエネルギーに変化をもたらしますので願いや願望をより高い次元で後押ししてくれます。)E-mailは ruach@live.jp まで
2015.04.24
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ご訪問ありがとうございます。こちらをクリックしてご覧ください。 ↓http://azu-world.com/
2015.01.14
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まとめての更新となりました。今年もよろしくお願いいたします。こちらをクリックしてごらんください⇒ http://www.azu-world.com
2015.01.06
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まとめてになりますが、ブログ更新しています。こちらをクリックしてお読みください。→AZU WORLD.com父へのお悔やみ、ありがとうございます。心から感謝しております。
2014.08.25
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こちらをクリックしてご覧ください→ AZU WORLD
2014.07.30
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2014.06.04
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恐れ入りますがこちらをクリックしてお読みください↓ AZU WORLD
2014.05.21
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2014.05.08
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2014.05.05
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記事はこちらになります。
2014.04.29
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ブロク更新しました。こちらをクリックしてご覧ください。
2014.04.03
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2014.04.01
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ブログ更新しました!恐れ入りますがこちらをクリックしてください。公式ブログへ移動します。
2014.03.28
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夫が往診に通っているおばあちゃんの恋話(こいばな)を聞いた。相手は、先の戦争で、内地から来ていた兵隊さんだったそう。しかも埼玉の人だったって。もちろん亡くなってしまったけれど。周りにもそんな女の子はいたよ、って。その話が聞けて嬉しかった。主人も私の気持ちがわかって嬉しそうに教えてくれた。私の祖父は沖縄戦で戦死している。演劇人だったけれど最後の最後に徴兵されあっという間に戦死してしまったと母と祖母から聞いている。沖縄では悪名高い日本陸軍。兵隊さんは戦地でとても横暴だった。国民を助けに来たわけではなくて、国民を犠牲にしてでも敵と戦うことが目的だったから。このことは今の日本でも勘違いしている人が多いようなのでよく知っておいた方がいいと思う。軍が戦争で市民を守るなんてあり得ない。敵を殺すことが目的で、そのための犠牲はいとわないのが戦争だ。「イラクでは、子どもも敵だと思わなくてはならなかった」と帰還したアメリカ兵の記事を読んだ。なんて辛い。でもそういうものだと思う。それでも、うちのおじいちゃんだってどしろうとのにわか軍人だったから、奥さんと小さい4名の子どもと、自分の未来を思って、きっと恐くて悲しかったはずよ、と、心の中でいつも思う。祖父は満州で劇団をやっていて、本を書いたりもしていて、とてももてたとおばあちゃんは言っていた。「李香蘭とできとった・・・」と、生前静かに悔しそうにおばあちゃんが言っていたけど。「美緒ちゃんだけは知っておいて」とでも言いたげに。できとったって、あの李香蘭ですよ。もう書いちゃいますけど。兵士として沖縄へ来て、最期はどんなだったのだろうと何度も思った。もし、もし、心を失って非情なことをしていても、私は許す、と、ある時思った。海軍豪を見に行ったあとだ。守衛のおじさんが、吐き捨てるように「海軍さんは立派よ。でも日本陸軍は最低だよ。人間じゃない」と言ったあとのことだ。戦争は人を狂わせる。狂って当たり前だ。それからひめゆりの塔で手を合わせた時に、なんだかわからない愛に似た感情が伝わってきて胸がいっぱいになり涙が出た。不思議だった。その後母と妹が来た時、一緒に再びひめゆりの塔に参ったら、母と妹に同じことが起こった。普段、さーだかんまったりしない(霊感など感じない)母と妹なのに、「これは・・・ただならぬほど、お世話になったみたい」「他人ごとじゃない、ここは、私たちと深い関係がある」と口々に言って手を合わせて涙をこぼした。それからは、きっとすてきなおじいちゃん(当時は33歳の美青年)のことだから、沖縄でもすてきな人に大切にしてもらったのだと、素直に思うことにした。あまりに深い悲しみは憎しみをつくる。絶望を、不信を、心の中に分断の壁を作る。私たちはその果を背負いながら今をつくる。深い悲しみの根っこを癒やすことさえできたら、私たちは壁越しではなく、ただあるがままを、心を、自分を、他人を感じることができるのに。切り裂くような悲しみの中で愛を失わない人は周囲を救う。そういう人というのは強い人でも特別な人でもなく、ただ、自分を癒し、赦した人なのだと思う。人間の歴史は悲しい。長いサバイバルを乗り越えてきたから。この世のすべての人が心に持つ分断の壁をこつこつ自分から取り払って生きていこうと思う。
2014.02.05
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昨日のことでしたが、いいしょうがちでーびる。旧正月が明けました。祝福のように美しいお天気で、奥武島の漁港の船に旗が瞬くように光っていました。私は日常の多くを、人間について考えながら過ごしています。今であればやはり、311以降とても大きな問題が噴出している日本という国全体の今と行方のことが心にずっと在るというのが正直なことです。少し前から日本には戦争に近づこうという動きがあります。戦争が終わる度に、もうゴメンだと何度となく人間が心に刻んできたはずなのになかなかそれは消滅しません。以前は21世紀こそは平和な世界になるだろうと漠然と望んでいました。しかし21世紀の幕開けはNYのツインタワーの爆撃でした。それ以降もイラクとアメリカの戦争と、日本の派兵があり世界では相変わらず紛争が絶えることなく起こっています。しかし、それでも私は人間は確実に着実に進化していると感じています。そしてその進化は無限に続くと確信しています。いろいろな毒出しが起こり、潜在的に隠れていた不調和は、潜む事ができずに浮上してきています。どんどん明らかにし、情報を共有し、そして古い習慣を手放して新しくより崇高なものに対して個々が自己を開いて行くことだけが重要だと感じます。私は十数年にわたり、潜在意識に変容をもたらすセラピーを行ってきました。この体験を文字にするのは本当にもどかしいものです。あまりに形而上過ぎて言葉に降ろすと情報量が多く複雑すぎるのです。私は数多くの奇跡的な体験をしています。奇跡というのは偶然で稀有な産物のことではなく、人間の過去の集積から来る知恵では計り知れない超越的な進化の顕現のことで、神の愛が地に降りたものとも言えます。神の日常は人間には奇跡なのです。人間は、さっきまで『あれ』を信じ、『あれ』でなくてはならないと思い込み、『あれ』以外に解決策はない、と疑わず、『あれ』が最も価値の高いものだと感じてやまなかったというのに、一瞬にしてその『あれ』を手放してしまうことも可能なのです。そして、『あれ』を手放すことでより自由で満ち足りた自己を体験することができます。これは自己が拡大された結果です。そして霊的な成長というのはこの連続です。人間はこの連続を体験してきています。時に目に見えて現れなかったり長いスパンでしかそのイベントが起こらないと、まるで後退したり、或いは同じ所をグルグル廻っているように感じられることもあります。生命というものが肉体のことだけだと信じてしまうと、進歩しない人生というものあるかもしれません。しかし、魂として不滅の生命を生きているのが人間なのだと仮定してみると、私たちは勇敢に全身し続けています。賢くなり、賢さ故にエゴの罠にはまり、そのカルマを経てまたそれを解脱していきます。途方もない小さな一歩の繰り返しにより私たちは今ここまで来ています。人間のこの姿を目の当たりにする私は、人間って素晴らしいと思ってます。いい面ばかりという意味でも、いいところばかり見ているわけでもありませんが、それでも素晴らしいと言えるのはこの人間の意識の仕組みすべてがあまりに広大無辺であり精密であり神すぎるという真実においてです。未だ多くの人がこの仕組をほとんど或いはまったく知らずに、知識や文明だけに酔いしれながら生きているかと思うと本当にもったいない、と感じます。それぞれの人の中に神のシステムがあり、そのシステムによって生かされていることを多くの人が知るようになればどんなにすごいことになるでしょうか。恐らく第一には、多くの人が自分を尊ぶということがどんなことなのかわかるようになるでしょう。自分を尊ぶ、他者が尊いものであるように。そうなると、自分と他者を比較して自分や他者の価値を決めるというようなことが無意味だということがわかると思います。人間は神の前で平等だなどと言われますが、その意味は平等な権利があるというよりは、神の前に並んだら人間の個々の差なんてどんぐりの背比べくらいに些細だという意味だと思います。どんぐり同志であれこれ批判したり他のどんぐりと自分を比べて自分を裁く暇があったら、神だけを見てあんなふうになろう、と努力するほうがはるかに無駄がありません。神の目線から自分を眺めてみたら小さすぎて点にしか見えません。そしてどの人を見ても同じくらいの点にしか見えないわけです。良い面も悪い面も、どっちも大差ないのです。しかし、最初は点であれ「よし、神というお手本を見て、自己意識お掃除して世界を拡大する努力をするぞ」と決意した人というのは圧倒的な変容を遂げ、またその恩恵を受け取ることになります。恩恵とは、拡大されることによって、より愛することができる存在になれることです。神は無限に愛します。その神の資質を自己の中に有することができるように、近づいて行くことができます。愛以上に強い原理、法則がないという真実を、人は人生の中で体験していくことになります。よく「もっと愛されるあなたになる」などというスピリチュアルビジネスのキャッチフレーズがありますが、もし自己を拡大した体験がある人なら、誰があなたを愛するかは問題じゃない、自分が愛するかどうかだ、というふうに思うはずです。愛しているという状態こそが魂のあるがままの姿なのです。
2014.02.01
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昨日のブログの補足です。小泉さんが総理だった時代にしたことでとても重要なことを書き忘れていました。それは、自衛隊のイラク派兵です。イラクが大量破壊兵器を保有しているとしてアメリカが攻撃しましたが、今では「イラクに大量破壊兵器はなかった」と公に認められています。どうであろうと戦争には近づきたくありません。日本を限りなく戦争へ近づけた総理は過去には小泉さん、今は安倍さん。戦争にはスポンサーが必要であり、その巨大スポンサーは常に、どっちが勝っても儲かるように投資していると言われています。小泉さん、安倍さん、どっちが勝ってもどっちも負けないのではないかしら、と思えてきます。「取り引き」のにおいを感じてしまうのです。宇都宮さんは前回都知事選で大差ながら2位でした。山本太郎さんも2回めで当選しました。もしかしたら、宇都宮さん封じの当て馬なのかも、と、ふと思いました。そうなんです。自分がマイノリティなので、宇都宮さんに人気があるのをつい忘れていました。でも今日母と電話で話したら普通に「宇都宮さんしかいないんじゃない」と言われ、そうかと思いだした次第です。以下、リンクを貼っておきます。yahooのニュースなので数日でリンク切れになるかもしれません。私は小泉さんがもし本気で脱原発、本気で細川さんを応援するならこの点に触れ、改心を語るのが一番効果がある気がするのですが。そうしない限りは他意がある疑いを拭えないと思えます。とても聞きたいところです。喉から手が出るほど結果がほしい脱原発。だからこそ、丁寧に本当を紡いでいきたいものです。次世代の誰が見ても明らかであるように。より崇高な選択をみんなでしていけるように。
2014.01.29
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私は社会の中ではとってもおかしな位置で生きてるおかしな人なんですが、周囲にはすてきな人ばかりです。現在日本国民が死活問題として抱えている原発。選挙の度に大きく揺れます。今東京都知事選があって、どれくらいの人が関心を持っているのかわからないけれど、私はとても関心を持っています。沖縄は名護が基地にノーという結果を出しだばかり。もちろん手放しにそれが嬉しいわけではありません。それで当面生活がいい方に向かわない人もたくさんいて、きっと困っているでしょう。でもそういうこともまたみんなで助け合える社会に向かっていければと思う。なにしろ沖縄の人は、戦争がすべてをぶち壊すということを身にしみて知っているから。原発は戦争の道具、というのが私の知っていること。発電の問題にするのはすり替えだと思ってまったく信用していません。発電をどうするんだ、というのは詭弁です。戦争したい人が、別の発電を発展させなかっただけで、人類は別の方法をたくさん持っています。やればできます。現に今、原発は一基も稼働していません。都知事選で細川さんが小泉さんの応援で脱原発を言った時、脱原発を望む人の反応は二手に分かれたように見えました。歓迎とノー。私はというと、あまり信用しないほうがいい、と感じている一人です。それに関してお怒りやお叱りの意見を目にするので、自分の思いを何度も何度も見直しています。ちなみに多くのお友達やこれまで思いを共有してきた女性の多くは宇都宮健児さんを支持しているようです。多くが主婦。小さな子どもさんを持っていて、育児や食べ物や環境や、人間のエゴやスピリチュアリティ(愛)に感心を持って努力なさっている方たちだと思います。そして少なくても共産主義、とか、正義、とかドグマ、ではなく、愛を探求なさっている方々だと思う。私もそのひとりだという認識です。細川さんが脱原発を主張なさるのを歓迎しないわけではない。もちろん脱原発の人が増える事は歓迎に決まっている。しかし政治と政治家はおっかない。市民が表面を見てああだこうだと言うことを見透かした上でいろいろ戦略をこうじる。私たちはずっと長いことほとんどなにも知らずにコントロールされてきています。これは特に東京で暮らして来た私の感覚。細川さんご本人はいい方のように見えます。でも私は小泉さんがこわいです。彼はとても人気のある総理でしたが、後になって勉強してみると、最悪な総理のひとりで日本の弱者を痛めつける構造を確立してしまった人。アメリカとの関係、またもっと裏の関係にも通じ大きな役割をし、力のある人だと私は認識しています。もし私が悪の親玉だったとしたら、まず小泉さんと取引をします。彼は目的のためなら取引に応ずる人だと思います。プロですから。小泉さんに魅力を感じている人たちはそこがいいと思っているかもしれない。彼を利用するんだ、脱原発のために、と思っているかもしれない。ですが、いったい彼を誰が利用できるんでしょう。利用されて来たのは被権力者です。これは本当に私の感覚でしかありません。しろうと感覚です。でももし、生命をかけた選択が迫ってきたとしたら、私は小泉さんの旗に近寄りません。家族にも、行かないで、と言うと思います。今のところ、そうです。脱原発をエサにさらに支配が深まるような取引をされたら、私たちはますます光から遠のいてしまいます。秘密保護法や改憲さえ通ってしまえば、原発なんていう隠れ蓑なしに、燃料商売、武器商売がもっと堂々とできるのです。小泉さんが反自民、反安倍政権だという認識は本当なのでしょうか。反原発であっても秘密歓迎、改憲歓迎、戦争歓迎であれば、原発をなくして核兵器を保有となったら、と思うと恐ろしい限りです。私のクエスチョンはその点に尽きます。細川さんが都知事選で脱原発以外を殆ど語らないのは本当にうまい戦略だと思います。ですが、本来それは都知事の仕事ではないです。確かに東京都は東京電力の大株主ですからスポンサーではありますが、どの程度力を行使できるのでしょう。私が悪の親玉で、「勝つ」ことだけを目的とするならそうします。でも誠実に仕事をしようとするなら、他の本来の重要な政策を語らなければと思います。選挙は勝たなきゃ意味が無いというのも、詭弁だと私は思います。だって、ずっと負けてきたじゃないですか。大事なのは、多くの人が目覚めることです。そうしたら負けようがなくなります。そして今そうなりつつあります。これは、沖縄というお手本を見てください。勝ち負けじゃなく、結果に囚われずにずっと声をあげて来た人々のおかげです。どのような意見でも、声をあげてきた人がい続けたおかげです。被権力は権力を監視することが重要です。ここに勝ち負けはありません。人類の進歩は一見負けの積み重ねによってなされてきています。長い戦いをして来た人にとってこれまでにない大物がこちらに微笑んでいるのは魅力だと思いますから反対はできません。ただ、また騙されちゃうんじゃないかと心配です。そして、勝つにはこれしかない、これがわからないなんてバカだ、偽善者だ、非国民だ、という考えは痛々しいです。それだけがすべてだと思ってしまうと、世界は暗黒になります。脱暗黒。脱戦争。そして、前向きな友愛と建設的な思考にはなんであれ神が後押ししてくれます。本当の勝利はどの道ずじを通ってやってくるか、人間にはなかなかわかりません。だから、いつ奇跡が来てもいいように、私たちはそこに向かって自己を開いているべきだと私は思うのです。思想がなんであれ、人類に貢献している人は世界に大勢います。どんな小さなことでも。その思いのすべてが宇宙と地球と私たちを生かす神とともに働いています。
2014.01.29
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ノンジャッジメント。価値判断を手放す。ニューエイジ思想などでよく聞く言葉です。私たちは日常ありとあらゆる判断をしています。人生は毎瞬が選択の連続です。選択をするためには意識的にも無意識的にも判断をしなくてはなりません。ですからこの言葉の字面の意味だけで解釈してこれを実践してみようと思うととても大変なことになります。「勝手な思い込みによる判断をしない」などという注釈もあるようですが、ではどこまでが勝手な思い込みでどこまでが公正なのでしょう。実際人間の潜在意識は思い込みの領域です。本気で取り組むほど謎は深まります。実際の取り組みにおいて、価値判断をやめよう、やめよう、というふうに力んでしまうのは人間なら当然のことだと思います。例えば正邪の裁きから離れるというのは、ただ離れようとする気持ちだけでは決してなしえないことです。離れていない自分を更に裁くことにもつながってしまいます。実際はそれに代わる更に高次の指針、基準が必要になります。そうすると、無条件の愛、という標榜が出てきます。無条件の愛をあなたに送ります、などという言葉の虚しさ空々しさ。無条件の愛は念のように送れるものなのでしょうか。実際無条件の愛を実感することとはどんなものなのでしょう。無条件の愛は、神の愛、高次元の愛です。神はジャッジしない。神は正邪の判断をくださない。あるがままのすべてである。無限で無条件ですべてでひとつです。私たちはそれを限りなく偏見や既成の観念を捨て去った眼で観じて、想像するしかありません。それを体験しようと取り組むのが瞑想することでもあります。そして、神がもし人間という限りのある肉体を持って神のような性質を活かして生きるならどんなものになるのか、それはそれぞれの人が探求し行ってみて見つけるしかないのです。それを私たちは人間として想像し得る限りの霊的な理想として求めるしかありません。価値判断を手放すには、霊的成長を前提とすることが当然のことながら必須です。神のように(神をお手本にして)生きてみようとする、つまりスピリチュアルに生きようと決めること以外、始めることができません。そうでなくて価値判断を手放すというのなら、無法者、破綻者になることと区別ができません。しかし今の日本には神無きスピリチュアルが横行しています。スピリチュアルをなんとなく癒し系のようなものとして扱うもの、或いは霊的な指針やお手本なしになんとなく豊かに幸せになりたいという願望を叶えようとする都合のいいレクリエーションやビジネスの手段がたくさんあります。本質という核を持たずに、道標のないまま「より良さ」を追いかけることは、実は価値判断を助長することになりえます。目的地を告げずにタクシーに乗って走ってください、というようなもの。時間とエネルギーの浪費ばかりか環境(全体)に対する悪影響もあります。ここでの価値判断における価値というのは、人間が生きてきたこの社会を合理化するために便宜上設けてきた良し悪しの価値観全体のことです。当然ある視点においてそれらはその時々で役に立ってきました。またよりおしゃれに、よりかっこよく、より洗練された、より豪華に、より美味しくなどの趣向における価値もあります。ですからそれら自体のすべてが否定されるべきものでも間違ったものでもありません。しかし、その価値観を、愛という観点からもう一度見なおしてみるとどうでしょう。美味しさを追求する中に、愛情や、思いやりを込めることもできますし、利益や人々の賞賛を求めることもできます。また途中までは愛情と思いやりによって構築されたものがある時点でそれを失い、名声と利益だけがひとり歩きすることは往々にして起こります。その限度や臨界点を人間が常に点検し認識することは通常とても難しいことです。更に、それを追随する者は、最初からその名声と成功という点に惹かれることもよくよくあります。選ぶ側も、それを見分けて選ぶことは難しく、いつもその観点から観ることをしていなければその物や結果だけで判断しがちです。それは私たちが社会的規範や集合的無意識から来る価値から基準を設け、他者や物や自分自身を常に判断していることが原因です。そしてこの価値基準は、丁寧に見直されない限りは非常に曖昧で大雑把でありながら、すべての人、すべてのものごとをとても狭い枠の中に押し込めてしまいます。「世の中は不公平だ。」「世の中は欺瞞に満ちている。」「世の中は危険で暴力的だ。」「世の中は何一つままならない。」そして私はそんな世の中に心底疲れている。「私は普通のことが普通にできない。」「私は多くの人が普通にやり過ごすことをやり過ごすことができない。」「私は誰にも正しく理解されない。」そして私はそんな自分に心底疲れている。以前の私の心の声です。正邪や普通という基準に照らされ縛られた非常に窮屈な価値観です。私たち人間は確かに未知をたくさん抱え、多くの誤解をし、無知な側面を持ち、手探りです。単なる心のつぶやきですら、私たちは人間社会の規範に基いて何かを裁いています。しかしそれでも希望を持ち、勇気に溢れ、立ち向かい創造することもできます。そして希望、勇気、創造は肉体保存の本能を超えた、人間の中にある神の資質のひとつです。神という規範、高次の愛という観点から人間を眺めた時、私たちは悪ではなく無知なのであり罪ではなく誤りをしており劣るのではなく未だ知らない者です。そのような観方を内なる世界=自己と、外なる世界=その投影に対してするとき、私たちは価値判断から自由になっていると言えます。つまり、社会の規範を自己のものとして受け入れ採用しながら同時にノンジャッジメントであるということは(無法者、破綻者でない限り)厳密には不可能なのです。社会の規範という既存の世界を手放し霊的な本質を世界の軸であると受け入れること、選ぶことで初めて私たちは無条件の愛の片鱗にも触れているのです。
2014.01.29
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昨年の春から豆乳ヨーグルトを自分で作って食べていて続いています。ほぼ毎日欠かさないどころか1日2、3回食べます。これはからだのためはもちろんですが、美味しくて、というのが半分以上かもしれない。元々ヨーグルトが好きでしたが、牛乳のヨーグルトを食べて体調が改善したと感じたことはありませんでした。特におなか。特に便秘傾向には。豆乳ヨーグルトを食べていきなり激変したわけではありません。初秋から、ラジオ体操と、和食の粗食を始めました。あと、お祈り。すると、激変が起こりました。特にお腹。特に便秘傾向。あまり詳しくは書きませんが激変しました。47年生きてきてこの激変^^ポイントと思えることを書きます。まず、植物乳酸菌。これは植物の世界をちょっと覗くと世界観が激変します。はっぱ、木の実、などには元々乳酸菌が生きているのだそう。実験なさった方のお話では、コーヒー豆、きなこ、小麦粉をはじめ、いろーんなものが乳酸菌発酵するそう。ちなみに私は摘んできた月桃のはっぱ、よもぎで発酵液作りました。これははっきり言って楽しいです。なにせ子供の頃から科学が好き。植物乳酸菌は動物性よりも強い生命力を持つらしい。なぜかというと、植物にはフラボノイドのような抗菌作用を持つ物質が多いため、それらに殺されない耐性があるそう。理屈はともあれ、作ってみると実感できます。次に、世界遺産にもなった和食。一汁二、三菜です。私は子供の頃は偏食で、ごはんはほとんど食べないおかずっくいでパンが好き。お味噌汁も嫌いでした。和食とか定食のようなものが好きになったのは大人になってから。今では和食にしみじみ幸せを感じます。沖縄へ来てから、新鮮野菜が手に入るようになって嬉しくて野菜と果物たくさん摂っていました。酵素も摂りたいので生物も多かった。それから暑いので、半年間続く夏は冷たいもの、ごはんもサラダ中心と麺などが多くなっていた。結果、私は体重が増え(歩く量が減り、ステージで歌わなくなったのも大きかったけれど)だんなさんは冷えに拍車がかかったように見えました。で、思い立って食を転換しました。この秋からなのでまだ本当に数ヶ月ですが。がんこにごはんと味噌汁がメイン。おかずは飾り、というイメージ。時には飾りが多くなったりもしますが。でも主役はごはんと味噌汁。と、私が強くイメージ。これは、お料理も楽になって、心身とお財布にも優しくていいことばかりです。無駄な外食も減りました。思うに、植物乳酸菌とごはんと味噌汁の相性は抜群なのでは。植物乳酸菌の最適なエサになっている気がします。味噌汁が楽しくなったので、味噌を三種類くらい日替わりに使ったり或いは合わせたり。沖縄はお味噌が豊富で、JAの直売所や道の駅で手作りのお味噌が買えたりします。今まで全部ヒットです^^うるま市の海中道路にある道の駅に行ったら玄米味噌、オススメです。さて、ラジオ体操。はぁ?今さらラジオ体操?ヨガじゃないの?って感じですよね。私もそう思います。ヨガもストレッチもこれまで散々やりましたが、毎日、こまめに、短時間で気軽に、などのキーワードを統合し、効果を合わせてみると、ラジオ体操抜群の成果をあげてます。これは私の体質にも合っていると思います。基本超低血圧で、パワーが足りなく、油断するとウツ傾向にダウンし、肺活量が少なくて呼吸が浅く、臆病で緊張しやすい。顔が青白い感じ。中医学で言うと肺虚の傾向にあるようです。これは長年のあれこれで大分バランスされてきたので今は極端に出ることはありません。低血圧と頻脈だけはあまり変わりませんが。ラジオ体操を採用してみたのは、実はパラマハンサ・ヨガナンダジの教えている心身活性と瞑想を深めるための体操が、ハタヨガではなくてラジオ体操と演劇の訓練(野口体操みたいな)に似ていたからです。静めるというより活性し、緩めるイメージです。ヨガナンダ先生の体操がなかなか覚えられなかったので、ラジオ体操を、神に捧げるイメージでやることにしました。そうすると、わずか五分前後で明らかにエネルギーが全身に巡りパワーアップとバランス効果を感じました。ストンと力が抜けしかもセンタリングしている気持ちのいい感覚です。やり方は色々やってみています。例えば意識を集中して、とか、呼吸を意識して、とか、ゆっくりと勢いなしで、とか。時に面倒な時は完全に気を抜いて適当に、など。でもどれでもあまり違いない効果を感じます。その点でもラジオ体操すごいです。さて、プレ瞑想としてのラジオ体操も素晴らしかったので、瞑想と祈りをすることにしました。そう、どうしてこれまで具体的に祈らなかったのだろうとその時気づきました。効果がなくてがっかりしたくなかったのかもしれません。それで思い立って(よく思い立つのです。これが気づきと内なる導きなんですね)最高次元の根源なる神に、「私の便通を完璧にしてください」と祈りました。あからさまですみません。しかし、神はどのような祈りにも即座に応えてくれました。翌朝から完璧に改善されてしまったのです。その後、もしかしたら一時的なものかと見守っていますが、素晴らしい改善は順調に日常になっています。ラジオ体操は気分転換、リフレッシュ、活性、鎮静、また筋肉バランスなど色々な効用があるようです。余談ですが、レイキのアチューメントを受けただけで、慢性のお腹の不調が毒出しと共に劇的に改善されたというご報告も立て続けにいただいています。自律神経に宿る神の仕業は私たちのカルマの解消とともに姿を見せてくれることがよくあります。エドガーケイシーは「私たちのからだは日々の思いと食べ物でできている」と言い「食べ物には二種類ある。身体をきれいにするものと汚すものだ」とも言っています。栄養価なども大事ではありますが、それよりも、身体の内なる働きを邪魔するものはなるべく入れない。摂るなら助けるものをというのが私の基本姿勢です。また嗜好品はとびきりの感謝とともにいただきます。私たちがあらゆる固定観念から自由になり内なる神と同調できるようになれば、食物は生命を生かすのに不要になると言われています。まさに人間はパンのみにて生きるにあらずです。炭素を媒体とせず光から生命力をいただく。神から直接生命をいただくわけですね。まずは心の毒の排泄をスムーズにすれば、からだに入れたい食物の選択もとてもしやすくなります。身体の前に意識ありです。忘れていました。植物性乳酸菌の豆乳ヨーグルトの作り方です。最近はもち米で作る味が気に入っています。私は500CC弱入るジップロックのスクリューキャップのタッパを使います。これを最初に煮沸消毒。ここにもち米を大さじ2~3杯。黒糖(私はてんさい糖)を小さじ1。海塩ひとつまみ。豆乳(私はスジャータのおからまるごと豆乳)いっぱいに入れます。米は気になる人はざっと一回洗ってください。私はそのままいっちゃってます。あと保温します。夏場は置いておくだけですが、冬は発泡スチロールの箱に熱めのお風呂くらいのお湯をはって一緒に入れます。アンカや湯たんぽでもいいです。最近はヨーグルターを一緒に入れちゃってます。アンカ代わりに。なんて雑な。沖縄では暖房をあまり使わないのですが、内地だったらストーブのそばに置いておくだけでも大丈夫だと思います。ひと晩から丸1日でできます。発酵してパンパンになるので飛び散り注意です。
2014.01.27
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「旅と放浪の違いはなにか知っているか」という映画のセリフがあった。旅には帰る場所があるけれど放浪には帰るところがない、だったかな、なんかそういう答えだった気がする。その本当の意味を考えているうちに、その違いや答えはどうでもいいという気になる。どっちにしろ、帰るべき場所を見つけることだけが人生の目的だからだ。人生が旅に喩えられるのは、だからかもしれない。しかし実際の旅をしようが放浪をしようが、帰る場所を探さない限りそれを見つけることはできない。そして旅しようが放浪していようが帰る場所を見つけることは可能だ。人生の目的としての帰るべき場所は、外側の世界にはなく、ただあなたのうち側に存在している。しかしそのことを知っていようがわかっていようが、それは真剣に探さないと見つからない。本当に真剣に、求め、探さないと。探求しないと。なぜなのか。それはあまりに真実すぎて、嘘がなさすぎて、単純な真理すぎて、複雑な頭を持った人間には受け入れることができないから。信じられないから人間は見て見ないふりをする。だから、他のところを可能な限り探しまわってひっくりかえして、そこらにはないことを確かめるまで、探すべきところは探さない。すぐに見つかってしまったら困ると信じて。旅の最後までとっておきたいと願う。それが見つかったらどうすればいいのだろう。答えは簡単。そこで幸福に生きればいいだけだ。
2014.01.16
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今月も半分が過ぎようとしています。早い早い。時間をいーっぱい使い切りたいものです。時間を使い切るにはどうすれば一番いいかというと、私はエネルギーの整理整頓だと思います。そうすると時間は増えます。時間を有効に使うことを、予定をびっちり入れたり、たくさんこなすことだと解釈し、それを目標にしてしまうことはありませんか。私は以前はそうだったと思います。そうしていると一時期は気分がよかったり達成感があったりしますが、何かの折に、全く以前と変わっていない自分に気づきます。それは人間性を試され、感じ方、受け止め方、対処の仕方が問われるような出来事です。成長した自分として対処しようと奮闘するのですが、格闘の挙句、結果は似たようなものになったり或いは終わった後の気分が敗北だったり、成長していなかった自分と出会うことになります。エネルギーの整理整頓には、エネルギー漏れチェックが必須です。漏れチェックのためには1、ベクトル確認と、2、要不要確認があり、これらができるとかなりすっきりし、結果として時間の無駄遣いや回り道がぐんと減ります。これは正確に言えば、意識のなかで心はなにをしているかを観るということです。まさしく瞑想ですね。心は意識のあるあいだじゅう、動きまわり、何か仕事をしていますがその仕事が建設的か、或いは破壊的かによって生まれるエネルギーが変わってきます。建設的な仕事とは実際には「囚われなく柔軟で自由な流れ」をしていることです。魂は前進し、成長します。これが自然の姿だからです。破壊的な仕事とは反対に「囚われ硬直し膠着した」状態であることです。前者では心は自然な反応と適切な対処をします。そして必要があったり考えたいことに意識を向けられる状態です。後者ではなにをしようとしてもなにかが心に引っかかっているのでなにをしても充分でない感覚が残ります。晴れない、すっきりしない、もやっとする、という状態です。後者の状態をそのままにしておくと意識はこのひっかかる異物をなんとかしなくてはと反応し始めます。危機がある、敵が近くにいる、バイキンが入った、というような認識をし、それに対処します。対処法というのが戦うか逃げるかというやり方です。攻防戦です。見えない相手なので、その攻防は脳のなかで起こり、思考を使ってなんとか撃退しようとしたり(理屈で勝ることで負かすとか理論で決着をつけようと)したり、五感で不快を感じないように麻痺させようと(お酒やタバコや娯楽や恋愛などの快楽に没頭することを選ぶのも方法のひとつ)したりします。ピリピリして怒りっぽくなることも、無気力で無感覚な状態になることもあるでしょう。この身体の対処法は緊急避難的なやり方です。その間になにか糸口が見つかって気づき、ほぐれ、手放すことができれば問題は去り緊急体制は解除されます。しかし緊急避難によって解決したと思い込んでしまうと、私たちはこの緊急避難を常用するようになります。そうなってしまうと異物は核を手放すことなく保留され奥に刺が刺さったまま周りを塗る固めることになり、治癒は遅れてしまいます。この状態が何日かつづくことがあれば何十年と続くことがあります。特に子どもの時に作られた核は、存在さえ忘れ去られます。これが幼少期のトラウマなどと言われるものの正体で、この核を中心に大人になっても何度も上書きされたり、似たような核を作っては緊急避難を繰り返したり、或いは緊急避難対処をすることが日課であったり目的のようになっていたりもします。これくらい古くなった核を癒やすには適切なやり方が必要になります。簡単に言えば感じきることですが、これは一人では容易ではないでしょう。ポイントを絞った瞑想であるヒプノセラピーや高次元波動のヒーリング、的確な問いかけなどが最良だと私は思います。いったんそのお掃除が済んだ後は、エネルギーの整理整頓がとてもしやすくなり、また整理整頓の効果もぐっとあがります。そうするとベクトル確認=私の心は今なにをしていますか?充電=愛することでしょうか、漏れ=破壊行為でしょうか、というこの意味がわかりやすくなります。そして、破壊行為であれば、それは必要でしょうか、不要でしょうか、と問いかければ、無駄なことをしているかどうかがはっきりとわかります。この作業で内面を解決、解放し、エネルギーの整理ができ、ロスが減って、魂と歩調を合わせて歩くことがしやすくなるでしょう。文章で伝えるのは本当に難しいのですが、セッションを受けてくださるとわかりやすいと感じていただけるのではと思います。やはりご自身の実際に則した実践には個人セッションが一番の早道なのです。大勢の方に一度に伝えたいと以前は考えていたのですが、本当の実践と実感を個人セッションでご体験いただくことが実は着実な前進なのだと最近は納得しています。
2014.01.14
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『自分自身を変えると決意しなさい。そうすれば、あなたは運命を自分の意志に従わせることが出来るようになります。』 ―パラマハンサ・ヨガナンダ私は人生の前半、常に運命から逃げまわり、運命に追いつかれないように連続でダッシュし続けていたように思います。ゆっくりしていると次から次へと困難と苦しみが押し寄せてきて、人生が問題の対処に追われて終わってしまうように感じられました。逃げまわるほど悪いことをした覚えはないのにやってくるのは考えるのも恐ろしいようなことばかりでした。そしてそんな状態から想定する未来はろくでもないものばかりです。そんな未来と出会わないために必死で別の未来を探していました。そして「これさえ手に入れば」「これを変えることができたら」といつももがいていました。そんなみじめな状態であると同時に頭の中では「自分は本当はこんな人生を送るはずではなかった」「自分はもっとできるはずなのにやれることをやっていない」という焦りでいっぱいでした。常に全力でダッシュしているのですから、それ以上がんばろうとすると心の糸は張り詰めすぎていてすぐにぷっつりと切れてダウンしてしまい、またそんな自分を責めていました。なんてがんばりが効かないんだ、なんて弱いんだ、なんて怠け者なんだ、というふうに。また、家族に精神病を患う人がいたために、自分もいつそちら側へ行ってしまうのだろうかと内心いつも恐れていました。そして、そんな自分になってしまった原因を探し回りました。スピリチュアルについて少しずつ学び始めてみても「今の良くない状態を作った理由」ばかり探しては見つけるだけで、長いこと解決にも繋がりませんでした。そんな私を知っているのは目の前で見ているほんのわずかな友人と、やや遠巻きに感じていた家族だけです。とても危うい不安定な自分のことは社会や仕事場では極力隠さなくてはなりません。時には自分にさえも隠していたかもしれません。ところが恋愛となると内側にいる自分の素顔が否応なく出てきます。いつも恐れ、ビクビクし、未来を思うだけで疲れ、自分の欠点が気になり、愛されるのは表向きのいい顔をしている自分だけだと信じていた自分。相手を必要だと思うほどにこの内側の自分の気持ちが出てきて、どうしても愛され続けることは不可能だと自分に信じさせます。ですからどんなに楽しい華やかな日を過ごしても1日の終わりには孤独な気持ちに襲われ、きっと人生の結末はこんな気持で終わるのだろうと思えるのでした。真理を表す言葉の中に「自分が与えたものが自分に返ってくる」という教えがあります。私は幼い頃から心に理想を持ち、人生を意識的に生きようと努力していました。10歳になったときはっきりと意識してそう思いました。そして「優しい人でありたい。そのためには強くならなくては」とも思っていました。ところがおとなになる頃にはすでに人生との格闘に疲れていて「元気?」と聞かれて「元気」と心から答えられたことはありませんでした。そしてとてもじゃないけれど自分が与えたものが自分に返ってきているとは思えませんでした。ですからこの世でなにを信じていいかも見失っていました。この言葉の意味がわかったのは30歳少し前です。言葉もこの通りではありません。本当は「自分が【自分に】与えたものが自分に返ってくる」です。こう考えてみると、これは確かにそうなっていると納得がいきます。私は自分に対してダメ出しばかりしていて、自分の中にいて居心地がいいと感じたことがありません。芝居を始めてからは唯一芝居の稽古をしているときと舞台に立っているときにそれを感じましたがそれもごく限られた条件の下においてのみだとだんだんわかりました。同じような思いで芝居を創る人たちと一体になったときだけです。それはプロとして演技をする上においてなかなか簡単に巡り会える条件ではありませんでした。当時は自己愛が強いように見られましたが、その愛はとても未熟で幼い愛でした。気に入っているところは愛せるけれど殆どの部分は早く切り捨ててしまいたいと思っていました。つまり自分の殆どの部分は気に入りませんでした。そしてこういう思いこそが「私が自分自身に与えていたもの」です。そのように自分の内面を見なおしてみると、私は自分にろくなものを与えていませんでした。他人に褒められて初めて自分を認めることができ、その褒められる部分というのはなにか格別に他者より秀でた部分だけです。ですから私は自分の中の殆どの部分を認めていない上にその認める基準も自分ではなく、他人の賞賛によるものでした。このことに気づいてから私は自分の中身を徹底的に洗いなおす作業を始めました。自分が自分の内面でなにを与えているのか。常にチェックをし始めました。生活のためにしていたアルバイトの最中は格好のチェック機構でした。自分が自分に与えた思いが即座に周囲の反応として返ってくるのを実感しました。私はまず、日常をつつがなく送るために全力で自分に対する思いを変えていきました。そうしてみると、実際周囲が自分に対してとる姿勢というのは、自分が周囲になにをしたかではなく、自分が自分をどう扱ったかに同調していました。つまり「自分を尊重すれば周囲からは尊重され、自分を可愛がれば周囲から可愛がられ」ました。この法則は真実です。なぜそんなにも真実なのか、それはこの法則が更に深い真理に基づいているからだということが後になってはっきりとわかりました。それが「世界は外側にはない」という真理です。内面(意識界)が真実で、外側(物質界)はそれを映し出す鏡であり、スクリーンに映し出された映像に過ぎないということです。ここまでは概念として理解していましたが、当時は外側を整えたいがために内面を変えていく、というのが私のやり方でした。ですから当時の私は仕組みはわかっているつもりでもまだ外側は在ると認識していたのだと今ではわかります。本当に世界が完全にひっくり返ったのを体験したのは沖縄へ来てからです。その間にももちろん進化はしてきていましたし、一歩ずつ内面を変えることで世界は変わりつつありました。そうでなければどんでん返しを体験することはなかったと思います。36歳くらいまでに私は古いカルマの片付けをコツコツとやっていたのだと思います。意識の仕組みを知り真剣に実践し始めたのが27歳の誕生日からでしたがらまる9年経ってのことでした。取り組みの中で最も重要で大きく浄化を進めてくれたのは瞑想です。そして36歳の誕生日に朝から何度も、私は内なる声が「ああ間に合った、間に合った」と言うのを聞きました。それがなんのことを言っているのかは当時なんとなくしかわかりませんでした。古いカルマを手放す準備ができて、なんとか今世の目的を果たすための下準備が間に合ったのだと今では言うことができます。世界がひっくり返ったのは、おぼろげにも目的だと思っていたものが無かったこと、そしてこれまで原因だと思っていたものも幻想だったこと、そして世界は自分の中にだけあるということが当たり前になったこと、その世界には神と私だけが存在していることがわかったことによってです。ここまできて、私はクリアになりました。同時に世界がクリアになりました。みなさんがもし、このクリアというものに惹かれるのであれば、瞑想以外に近道はないと思います。瞑想が自然に出来る状態になるためにはヒプノ、レイキなどの潜在意識への働きかけが役立つと思います。そして自分で出来るワークの手立てとしてはACIM『奇跡のコース』が、その前段階として『神の使者』が役立つと思います。私の個人的な体験としてこのクリアな世界へのガイドでありティーチャーとなってくださったのが、マスター、パラマハンサ・ヨガナンダでした。私はアメリカ発のスピリチュアリティーの著作を数えきれないほど読み実践してきましたが、その源泉を東洋のインドからアメリカへ実際に伝えたのがヨガナンダジです。実際あらゆるスピリチュアルの叡智の本質と全体がヨガナンダジの教えの中で見つかりました。ヨガナンダジの教えが真理だとすればその他の多くのスピリチュアルの教えは、長い鼻はゾウである、太い足はゾウである、と言っているようなものでした。ゾウそのものを見たことがない人の言葉のようです。ヨガナンダジはゾウをゾウだと、あるがままに教えてくれます。私は彼の言葉に出会ったとき、これまで自分がして来た旅の答えはここにあると感じました。そして彼に心から「帰依します」と、初めてこの言葉を人生で使いました。すると私の瞑想の質が激変しました。そして光として高次元のエネルギーや存在を目で見るようになりました。彼の導きや愛を実在感とともに感じることができます。ヨガナンダジは私がこの人生で見つけた最初で最後の完全な師です。彼の肉体は今この世にありませんが、私の内側で私は師の声をとても近く聴くことができます。ひとたび本を開くとその言葉が声となって響くのです。今となっては私の人生がどのような運命であったか、というのは全く問題ではありません。運命というのは、カルマに縛られている間だけ、重みを持ち存在しました。しかし苦しみの中にいるときこそ、私たちは自分を変えるという選択肢を差し出されます。その差し出された選択肢をその手で掴むことさえできたら、本当の自分に還る道を歩むことができます。
2014.01.04
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平成26年、2014年、あけましておめでとうございます。沖縄はお正月、素晴らしいお天気に恵まれました。渡沖からあと6日でまる5年になります。なかなか沖縄ビギナーの気持ちが抜けませんが(それほどに奥が深く学ぶことが多いから)少しずつうちなーのちむぐくるに寄り添えるようになっているのも感じるこの頃です。主人とともに、沖縄へ来てくれてありがとう、と言っていただけることに深い感謝を感じます。本当に、来てよかった。ありがとう、沖縄とうちなーんちゅのみなさん。知念具志堅に住んで初めてのお正月です。除夜の鐘は聞こえなかったけれど、花火の音で新年を知りました。あれは糸満の観光農園だったのでしょうか。今年はまだイルミネーション見ていません。今日までですね。このイルミネーションは、平和への祈りが込められているそうです。すべてのイルミネーションがそうであればいいと思います。美しいものを見て心動かされるのは、人間の心が美しいものだという証です。心が内なる神を思い出しているからそうなるのです。この世のあらゆる美しいものはそういう役割を持っています。音を聞いて窓から花火を探しましたが見えませんでした。でも音で充分。それから夫とふたり、ヨガマットの上で正座で(笑)向かい合って新年の挨拶と抱負を互いに言葉にしてから、瞑想しました。根源なる神とすべての聖なる存在、それから家族全員、私と御縁のある人すべてに感謝を伝えていると、あっというまに30分以上が過ぎていました。途中、自分のからだのことを思い出そうとしましたが、よく思い出せませんでした。意識(スピリット)の次元にちゃんと行けているんだなーと、あとで思いました。でも意識では、ただ、感謝を伝えているだけです。そうしていると、感謝が拡大していって、世界が感謝だけになってしまいます。瞑想って、とても楽しいですよ。あれが現実世界で、こっち(物質界)が幻想世界なんです。瞑想するってことは現実世界に戻ることなんです。現実世界に戻る道と癖をつけてくれるのが瞑想です。そのクセづけができてくると、祈りは神との直接対話になります。翌日元旦は首里末吉町の末吉宮へ初詣。神社仏閣巡り大好きな風間家二名は、普天間宮以外の沖縄八社にはすべて詣でています。そして金武以外すべてを自転車で廻ったことがあります。しかしこちらへ来た当初は初詣ひとつとっても沖縄の歴史を学ばずには通れない道がありました。神社とは。信仰とは。歴史とともにそれらの出来事に対する思いがわからないと、習慣の違いを理解することも困難です。末吉宮と、社がある末吉公園も、戦火に焼かれたそうですが、今は本当に美しい場所です。ダイナミックな自然の様相も、人びとの思いによって守られています。元旦でありながら、行列も混雑もないところも私たちには魅力なのですが、それでもさすが元旦の日中で、人がいるね、と何度も小さく驚いてしまいます。帰ってきて心の中に楽しい記憶として残っているものを探ってみると、それは道々、すれ違う人と交わした挨拶でした。「こんにちは」「おめでとうございます」。実は、人を元気にするのはこういうことかもしれない。主人から全く同じ感想が出てきたのも印象的です。10年以上前になりますが、NYに歌を歌いに何度か行って、心から魅力を感じたあの町の思い出も実はそんなところです。あれだけ人が多く文明が進化した町で、目が合うと挨拶したり、後からくる人のためにドアを開けて待っていてくれたり、電車で隣り合った時間だけ、身の上話をしたり、ちょっと肩が触れただけでも目を見てごめんね、と言ったり。そういうことが普通にできる町って、歩くだけで元気になるのです。10年以上経っているのに、そういう言葉を交わしたシーンをはっきり思い出せるから不思議です。NYでやっているのだから、東京でもできるのではないかと思うのですが。最近の東京はそうなっているかしら。だったらとてもステキだけど。私自身もとても警戒心の強い怖がりさんで、そうそうオープンにできない心情にも共感します。本当に必要な場面もたくさんありますし、それによって、予め避けることのできる困難がたくさんあります。NYなどという場所は、そういうことをきちんとしていないとひどい目に合う可能性は東京の何倍も大きい。もしかしたら、そういう暗黙の了解(自己責任)の認識を共有できているからこそ示すことができる友愛なのかもしれません。今年も、みなさんの意識とともに、世界をともに創っていきます。ますます意図的に、意識的に。どうぞよろしくお願いします。
2014.01.03
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今日で年内のセッションは終了しました。今年も本当にありがとうございました。本当にありがとうございました、という言葉では表現しきれないほどの感謝でいっぱいです。今日もセッション後に瞑想しましたが、感謝以外のものがなにも出てきませんでした。自分が提供できるもののかたちについていつも模索してはいますが、かたちが変わるときは本当に自然に『出た』『引き出された』というふうに、変わっていきます。かたちを探している間はそれは出ることがありません。不思議ですが、先にエネルギーがある、というのがこのことだと思います。世の中では資格とか、学校を出たとかいうことが評価や仕事へのパスポートのように扱われますが、俳優と同じくらいかそれ以上に、学校を出たことや資格を持っていることがあてにならないのがセラピーやヒーリング、カウンセリングの仕事だな、と思います。なぜなら技量がどうこうではなしに、人、その人の持つ、或いは成す、エネルギーが作用するのがこの世界だからです。歯医者さんに行けば同じ歯の治療が一律になされるというイメージがあります。違いは最新の機械を使うか、或いは手が器用かちょっと雑かな、という感じで。でも実際はそうではありませんよね。ヒーラーには同じ波長を持ったクライアントさんが引き寄せられます。ヒーラー、セラピストは自分を正しく癒し自分を正しくケアすることで、この引き寄せを精密にすることができます。発信機を磨いておくようなイメージです。すると自分がちゃんとお役に立つことができるクライアントさんに来ていただけるようになります。そうすればセッションは互いにとって幸せなものになります。誇大な広告を出して、自分の中身と違う宣伝をしたら、大勢の人が来てくれるかもしれませんが、実際は苦境に立たされるでしょう。霊界では良い評判はたちません。(ええ、これはたとえですけれど)でも、私がこのお仕事を続けていられるのはひとえに、私が祈って発信し、それを受信し捉えてくださる方がいらしてくださること、そしてその仲立ちをしてくださるエネルギー界、神のちからがあるからです。神頼みと言いますが、神に祈るには祈り方があります。そして神に祈るには修行は要りませんが心構えがあります。なぜかというと、神を誤解したままで、祈りの応えが思うように得られないと人間は傷つくからです。がっかりして祈るのがいやになります。そして神から離れてしまいます。更に、神に見捨てられたと思ってしまいます。人間の感じ方はそうです。実際は誤解したのも離れたのも自分のほうなのですが。レイキは、神への祈り方を正しく誰もができるように、ちゃんと的確に届けられ叶えられるように、悟りのなかから道を示し儀式化してくれたものです。いらしてくださったみなさんが「ありがとう」と私に言ってくださるたびに、いいえ、私をみつけて、そして、選んでくださってありがとう、と心から思います。そして引きあわせてくださった高次元の存在、神に心から感謝します。神への感謝を与えてくださったみなさんにさらにさらに感謝します。ご縁のあるおひとりおひとりの幸せを心から願わせてくださりありがとうございます。今とそして今から起こる毎瞬の中に、おひとりおひとりのなかの神の微笑みがともにありますように。
2013.12.29
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辺野古埋め立ての要請が行われました。17年を経て今だそうです。私は、人間の進化の証として、愛と、平和の象徴として、この世界から戦争が消滅するというビジョンを持っています。これは、今の私たち人類にとって共有し得るビジョンではないでしょうか。ただ、これまでやってきた悪習をやめるだけのことなのですから。愛と平和の社会というとよく、お金のいらない世界だとか、共同体を作るとか、今と全く違うシステムに変わるというビジョンが提案されています。『スライブ』という映画では、エネルギーのシステムが変われば共存ができる、という提案がされています。私もスライブは素晴らしいと思います。だけど、その前に、です。新しいものを生み出すには、或いは受け入れるには、古いものを手放さなくてはなりません。長い間人間を支配してきたサバイバルという本能の権化が戦争という人間のからだに巣食っているおできです。過去にはこのサバイバルが人間が生き抜くために必須だった時代もあると思います。しかし今ではそれは中身のない儀式のように形骸化され、それを一部の人間によってビジネスとして利用され続けています。重要なのは、利用する側は地球上のごく一握りの人たちで、利用されているのが大多数であるということです。そしてこともあろうに、利用されている人は、自らの意識の中でそれを選んでいるというとことです。利用されている人は自由意志でこう言います。「戦争は人間の本能だよ。」「戦争はなくならないよ。」「戦争があるのはしかたないことだよ。」これらの信念というのは、ほとんどまったくもって、問い直しがなされていない、ごく幼い、人間として未熟な段階で身につけている信念だと言うことができます。「だってみんなけんかするじゃん。」「男同士ってのは競い合う性なんだよ。」「食べ物が足りなきゃ取り合うだろ。」これは、人間の特性と言うよりは、もっと知性の低い動物の特性です。主語を「猿とは」に置き換えてみてください。・・・当てはまりますよね。しかし猿とて、優しく育てられれば思いやりや共感という心すら育ちます。古くは人間も猿に近かったのかもしれません。その頃の記憶が潜在意識に刻まれていて、あたかも「生き抜くためとなればそのように振る舞わなければならない」と無意識に思わされているのかもしれません。おそらくそうです。意識の世界を探求し実践している私が言わなくてはならないこと。それは「潜在意識などというものは人間の本性ではない」ということです。多くの人が誤解しているのです。本能というのは、と置き換えてもいいかもしれません。もう一度言います。「本能などというものは人間の本性ではありません。それは単に「習慣」です。」刷り込みであり、思い込みです。そしてその刷り込みがあって、確かに身を守ることができます。火を見たら、その中に飛び込んではいけない、というのが動物の本能です。虫にはそこまでの記憶の貯蔵領域がないので火を見たらつい飛び込んでしまうのです。それより少し進化して、動物はそうしないのです。敵と思えるものが近づいたら攻撃か防御をする、というのも動物のサバイバル能力です。しかし動物は食べるため、そしてそのための縄張り意識以上に富を得ようとはしません。人間はそれ以上に考える、そして想像し、創造するという能力を与えられました。この能力は無限のものです。それをどこまでもいかしていいという自由が与えられています。でも肝心なのは「何のために」それを使うか、です。今人間が立っている岐路があります。私たちが神に似た性質、「創造と無限」の能力をどこへ持って行くのか、という問いへの応えです。それについて考えなければ私たちは選びようがありません。漠然とした感覚意識である本能のままにいたのでは、動物として生きるしかありません。いったん問い直しさえすれば答えは難しくありません。神の性質をどこへ向けて持っていくのか、それは、神のところへ持っていくのが自然です。では、人間が神を目指して生きるというのはどういうことか。これも、神について考えたことがなければ「わからない」でしょう。でもいったん考え始めれば、答えはあります。わからないと思っている人は、考えるのを、或いは追求することをやめてしまうからわからないのです。でもやり続ければ誰でもわかります。なぜならその答えを持っているのが人間だからです。私は日々、自分の意識と向き合う決意をしてやってきてくださる方々と向き合っています。そして一緒に探求することでいつも必ず奇跡に立ち会います。奇跡というのは、人間が持っている限界だろうと予測できる壁を突破することです。しかし、やればできるのです。やり方やコツは、やってみた人にしかわかりません。だから、やってみた私と一緒なら短時間で突破できます。そして私はその奇跡をいつも自分の胸に刻みながら、人間という存在のものすごさを目の当たりにさせられ続けます。人間って本当にすごい、すばらしい、と毎日思わされます。こんなにすごい生き物が寄り集まって、その能力をわざわざ動物のまね事に使うなんて絶対にあり得ないとことだと思います。動物が低級だというのではなく、動物はベストを尽くしてそのやり方なのです。人間がベストを尽くしたら、違う現実、違う道、違う可能性が、無限に約束されているというのに。つまり地球の生き物すべてはベストを尽くしているのに人間だけが怠けることを覚えてそこに甘んじている可能性があるということです。さて、言いたいことは山ほどあります。人間が戦争をやめたら、世界は今のままではいられません。殺しあうことではなく、また、騙したり騙されたり、利用したり利用されたりすることをやめて助け合う次元に人間はアセンションします。(アセンションって現実なんですよ。誤解しないでください。)習慣の奴隷になることをやめてみる。ただ、やめるということが重要です。だって本当にそれだけでいいのです。世界を大きく変えるには、新しいことをやらなければと悩む必要はなくて、ただ、もういらないものを断捨離(あえてこの言葉で言いますが)するだけでいいのです。「私は戦争を選ぶことをやめます。そのために、利用されることをやめます。戦争を容認することを、動物の本能のせいにすることをやめます。戦争を容認したり養護することをやめます。そのやり方が人間らしいやり方だなどという考えを受け入れることをやめます。」ただ本気でやめると「イマジン」してみてくだい。実際戦争が終われば次には具体的な変化が来ます。まずはエネルギーが大きく余るようになるでしょう。不足だから戦争が起こったのではありません。戦争が不足を引き起こしていたのです。貧困がなくなるでしょう。貧困は戦争が引き起こしてきました。過剰な富や支配権を本気で欲しがっているのなんて、まして手に入れてきた人なんて、本当にごくごく一部です。多くは自分と家族や身近な人の幸せを願っています。その願いが満たされることで私たちはその幸せをもっと広げたい、多くの人がそれを味わう人生を送ってほしい、と願うことができるようになります。地球上のすべてがそうあってほしい、という祈りは地球と宇宙の神々の望みと一致し即座に叶えられるでしょう。それでも人間は欲望を追いかけるものだよ、平和になれば欲望がまた出てくるさ、と思う人もいるでしょう。その、あなたは、どうなんでしょう。本当は、人間って所詮こうなんだよ、というのは自分を正当化するための言い訳です。自分から出てきて止まない欲望を恐れているから、人間の本能のせいにしたいのです。欲望は出てきます。でもその時あなた自身、私自身が、なにを優先するか、どちらに価値があるか、と、選ぶだけなのです。恐れにからめとられて全体を貶めるか、それとも自分にとって本当に価値がある方を選ぶか、だけです。さて、戦争が身近でないかりそめの平和の中にいた日本人は、戦争を宗教のせいだと思っている人も多いでしょう。このことについては次回書きます。
2013.12.27
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この世に広まってほしいもの、と考えると、瞑想、カウンセリング(セルフカウンセリングというものがあるのですが、これは本当にすばらしいです)、ヒプノセラピー、レイキ、鍼灸と、手前味噌のようになってしまいます。でも本当にそう思うので仕方がありません。逆に言えば、自分の人生にとって決定的に重要だったものを仕事にしているから結果的にそう思うので仕方ありません。鍼灸は主人の専門ですが、私は主人と出会う前から鍼灸を普通に頼りにしていました。風邪をひいても鍼灸院に行っていましたし、扁桃腺が腫れて、ライブの前日、このままでは薬で抑えても歌えないと思い、鍼灸院の前まで行って電話して、予約いっぱいの鍼灸院で無理やり診てもらったもらったこともあります。高円寺のうめちゃんという先生で、私は全く別の3人の人からすばらしいという話を聞いて行きました。なが~い鍼を首から喉に向けて5本刺されました。それも「治るか、もっとひどくなるか、どっちかだな~」と言われながら。私は迷いなく受けましたが。数十年自分の身体と付き合った感触で、他に良くなる見込みがまったく浮かばなかったからです。結果、翌日は奇跡のように普段以上に声が出てライブも成功しました。もっと言えば、そのライブから主人と親しくなったというおまけ(本筋?)がつきます。主人はまだその時、鍼灸の学校の受験生でしたが。さらに、それからもう10年以上経っているのに、以前はしょっちゅうだった扁桃腺の腫れは起こっていません。子供の頃から風邪と扁桃腺と高熱がセットで、この世の恐怖のひとつだったのに、あれ以来起こりません。もっとも、主人と付き合うようになって、鍼の練習台として予防的にいつも鍼を受けられるようになったことで体質が変わったというのもあると思います。内面も強くなったり変わったところもあります。しかし鍼灸の素晴らしさは、根本的に変えてくれる力を持つところです。鍼灸のなかでも中医学と言って、中国の伝統医学に基いて弁証をして治療してくれる鍼灸師さんは少ないと思いますが、それをしてもらうというのは「ただ単に元通りに修復する」のではなく「体質そのもの、生命力そのものを活性し、全体を高める行為になる」ところが素晴らしいのです。中医学ではさらに、感情の働きと内なるエネルギーの繋がりを捉えることができていて、それをバランスするという治療もできます。私はこの点をさらに深く理解し探求し、治療してくれる鍼灸師さんがいっぱいいてくれたらな~と願っていましたが、時を経て結婚したこの人がそうなってくれました。こうして振り返ると私は心のそこからこうなるといいな、と願ったことはたいてい時間をかけてもかなっているように思います。決して棚ぼた的な幸運は多くはないのですが。振り返ると、自分のなかで研究して検証してこうだと思った理論などもしばらくすると世に出てくることはとても多いです。例えば健康法とかダイエットとか、断捨離のようなものとか。むかーしからコツコツと一人でやっていたことです。ダイエットは究極、我慢の習慣が余分な脂肪になるのでストレスを無くすと自然な体重になります。多くの人が、我慢していることにさえ気づいていないので、内側の制限をみつけて取り外すことで、不要な習慣が必要なくなるのです。自然な体重以下にしたい場合は別のコミットメントが必要になります。こういうのもある時雑誌などに出てきたりして、やっぱり、内面と外側は繋がっているんだな~と思いました。結果すべてはスピリチュアルの法則通りです。当たり前なのですが。社会問題は今私の心に負担をかけて悩ませてくれていますが、諦めることなく向き合っていればおそらく「やっぱりね」という、すっきりとする結果がやってくることと思います。私のセラピーのようなものは、まず多くの人が、ネガティブなことを正常に戻すためのものだというふうに理解されているのではないでしょうか。インナーチャイルド、という本を開いてみると、理論や書いてあることは正しいのですが、心の傷が要になり傷を与えた人と受けた人というくくりがやはり私には気になります。私は自分の人生をかけて内面の探求をしてきて、また多くの人の内面に向きあわせていただいてきて、時間と体験を経なければ絶対にわからなかった大事なことを発見しました。鍼灸治療が最終的には人間の持つ本来の生命力と出会うためのツールであるように、心の探求もそうだということです。私たちは内面の、一見問題に見える壁に当たることで、自分のなかに存在している制限と出会います。その問題に取り組むということは、その問題を解決して、人並み、正常範囲、社会的強者や優等生になるということが目的では断じてありません。私たちはその問題と向き合い取り組むことで、人間の内面、心、意識のエネルギーがなにをしているか、その仕組を知り、人間とは何かを知り、その制限を超えた本来の自分になることを目指しています。制限のない無限の領域が自己の中心にあって、それと出会う旅を、ずっとしているのです。私たちが差し迫った問題に出くわすところから、もうすでに内なる神の導きは始まっています。あるいはその問題をどんなものにして、どんなふうに出会うか、どんなタイミングでぶつかって転ぶか、そんなことまで計画しているのがハイヤーセルフ(内なる高次元の意識)です。ですから私たちはやってくることに向き合い、自分を知り、仕組みを知り、無駄な抵抗をやめて内なるパワーを使って生きることを始めればいいのです。沖縄に来て、目の前の大きな壁を乗り越えた後も、コツコツと通ってくださる方が多いことに感動しています。きっと多くの方が、起こった問題に感謝することができるほどの境地に進まれているからだと思います。ワークはネガティブやポジティブを超えた、真実というギフトを与え、またそのギフトとともに生きる素晴らしさをサポートします。地球という星に生きるすべての人に私はみつけてほしいと願います。内なる自己と、その自己に出会うチャンスを得てやってきたすべての人に。
2013.12.23
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やちむん市に行ってきました。夜までやっているので平日行けました。お茶碗ふたつとコーヒーカップとソーサーがうちの子になりました。読谷村に行くといただくのが、もずくコロッケバーガー。なんと150円。寒かったのでスープセットにしたら250円。2人文で500円。スープは紅芋のポタージュ。どちらも野菜たっぷり。とっても美味しくて大好きです。近くにあったら通ってしまいそう。読谷ファーマーズマーケットにあります。もう一つ、読谷村といえば、(わたし的には)今年オープンしたこのギャラリー。画家の中川せいいちろうさんのギャラリーです。せいいちろうくんは東京にいたころからのだんなさんの友人で、私たちの少し後に沖縄へ移住されて読谷村に在住してます。全然宣伝していないので道沿いで気になっていらっしゃる方も多いのでは。トリイステーションのある通りで、サンエーの並びですぐ近くです。(すごいローカルな説明^^)ギャラリーにはとっても優しくてひとなつっこいせいいちろうくんがいると思います。(写真はせいいちろうくんではなくうちの夫です。)コーヒー飲ませてください、って言うときっと飲ませてくれると思います。できたら絵も積極的に買ってください(笑)。うちの治療院に飾ってあるくがにのラクダはせいいちろう作です。読谷村は移住する前から気になっていた場所。行くたびにいいな~と思います。(南城市は最高ですけど。)私は南城市知念の具志堅という集落に住んでいます。五十数世帯の小さな部落ですが、先日南城市の陸上競技会で具志堅地区が男子の部で優勝。その祝勝会に出席しました。私は都下と言われる東京多摩地区の育ち。父母ともに郷里から上京してきた移民二世です。子どものころはそういう友達は大勢いて、それが普通という感覚で育ちました。具志堅育ちの男性に話を聞くと、「同学年の友達の家は全部行ける。」「近所のおうちの冷蔵庫は普通に開けられる。」「友達のお父さんと、友達抜きで家飲みする。」などドラマみたいな(北の国からみたい。)お話が山ほど聞けて、おもしろくて仕方ありません。考えることもいくらでも出てきます。沖縄は相変わらず刺激的ですてきです。たまにはこういうことも書きます。
2013.12.22
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潜在意識というとなにか特別な感じがしますが、ここには幼少期のとても吸収力のある時期にインプットされた記憶の貯蔵庫のようなものだと書きました。もう一つ非常に繰り返されたことにより刷り込まれた記憶もここに入ります。職人や技術者、芸能芸術家などの鍛錬によってからだが覚えることも、ここに入ると言えると思います。才能の領域もここです。出来事から心に強くショックを受けて、その感じ方の経路が習慣になっていることをトラウマと言います。また、行動すること、行為の結果を恐れることから特定の行為を無意識的に避けるような習慣をブロックと呼んだりします。これはトラウマの後遺症のように捉えることもできます。いずれも習慣です。自分を幸せにする習慣をポジティブエネルギーと呼び、幸せにする行為や思考がブロックされていて停滞していることをネガティブエネルギーと言ってもいいかもしれません。人はひとりでなんでもできるようになる必要もないですし、みんなが何に於いても優秀だったり及第レベルだったりする必要もないと私は思います。私自身、できないことだらけな人間ですし、そうであることを自分に許して許しまくっています。ポジティブとネガティブというのも表裏一体で、一般に言われるポジティブシンキング自体には大した威力はないと思います。ですが、真の幸せに近づくか遠ざかるか、という点においては普遍の原則原理が存在しています。ではネガティブな習慣の元はなにかと言えば、恐れに反射する習慣です。ですから私が日常気をつけていることと題して2つの項目を上げましたが、この2つは根っこはひとつのことを指していると言えます。恐れに支配されていないか、その恐れの反射から無意識的に身についている習慣はどれか、という問いかけ、見直しが要点です。不幸な習慣は恐れの発展形だということです。さて、私たちの内面は日常過ごす時間にどのような意識のエネルギーにとらわれているか。家事やら仕事やら家族だんらんやらの時間、意識はなにをしているのか。多くの人が攻撃と防御をしていると知ったらどうでしょう。何のためにそんなことをするのか。それが、恐れに対処している状態だということです。この恐れは肉体を持って生きている限りつきまとう本能です。放っておけば、外界からの刺激に対して習慣的に攻防し、意図的にそれをやめなければ攻防戦は激化していきます。そうでなくて、もっと人間らしく生きるにはどうすればいいのか。自分の内面を見張るのです。意識し、なにをしているのか観察し、自分に話しかけ、問いかけ、気づくのです。瞑想というのは最も意識を濃厚に意識して過ごすことです。そして、外側の意識に囚われずに、ずっと奥にある真の自己を発見し、親しみ、ひとつになるのです。そしてこの瞑想を、日常に持ち帰ります。するとそれまでの自己の行い、行為、内面のエネルギーが何をしていたかわかります。どれだけ習慣と思い込みにコントロールされていたか、恐れに条件づけられたロボットのように生きていたか、心が硬く不自由で特定の反射のなかで生きていたかが見えます。習慣はただ頭で見張ってもそこから自由になることはできません。私たちを習慣から自由にし、魂という無限の領域へ連れ戻してくれるのが瞑想です。なんとか3話でここまで進めることができました。おつきあいいただきありがとうございます。
2013.12.20
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前回の続きを書くつもりだったのですが、おやすみします。社会問題も気がかりですし、言いたいこともあるのですが、今日は映画のこと。元々は役者をしてましたし両親も芸能関係の芸能一家で映画は好きとか言うレベルではないほど好きでしたが、意識の探求をするにつれて尋常じゃないレベルからは離れました。それでも映画は週に数本見ます。いい映画にもちょいちょい当たります。一番最近では『ゆれる』という西川美和監督の映画は抜群でした。2006年作品。主演がオダギリジョーさんということで敬遠するところですが、その他のキャストが面白すぎだったので選びました。オダギリジョーさんはいい映画に出ているんだけど毎回いまいちな物足りなさを残すので。ですが今回は初めて及第点。手足の長いスタイリッシュな男の武器のだめな使い方というのが見事に出ていてよかったです。悪口みたいですけどそうではないです。自分の持ち物に頼って或いは無視して演技している間は持ち物の良さを結局は使いこなせないのですが、それを客観的に理解できるとそれを使いこなせると思います。この映画ではそれがうまく機能していたように思います。香川さんと絡んでいてきっと、気づいたところも多かったのではないかと推測します。圧巻は香川照之さんのいちいち絶妙な演技で、こんなにも一言一言に緊張する作品は久々でした。久々にこういう映画の見方をさせられました。昔、子供の頃はこの緊張感を味わいたくて映画を見たものです。ひとつのセリフをこのトーンで言うか否かで、その人物像がどう刻まれるか決まります。そういうふうに役作りをみんなしなくなっていて面白くないのですが、本当にビタイチ聞き逃したくないと思わせてくれる演技で、後から、あの時その人物がなにを思ってそのように言ったのか、どの心情でそんな風に言ったのか、走馬灯のように遡ることができるような見事な芸術になっています。映画は娯楽ですが、人間の心、エゴの探求にはもってこいの教材です。というか、教材になり得るようにしっかりと人間を観察して作ってくれたら映画全体がぐっと面白くなると思うのですが。こういう撮り方をする西川美和さんという監督はきっと、こういう映画の楽しみ方が好きなのではないかと勝手に共感します。ストーリーがサスペンスだと、火曜サスペンスか土曜ワイド劇場でよかったんじゃないかと思えてしまう日本映画が多いのですが、こんな風に作ってくれたら映画って素晴らしいと思えます。見終わってから、『ディア・ドクター』を撮った監督だと知ったのですが、あれよりもこちらのほうが傑作に感じました。他の作品も楽しみです。この少し前にとっても良かったのは『屋根裏部屋のマリアたち』という映画。フランスが舞台でフランス人とスペイン人が主役。最近ハリウッド以外の良い映画を観て、もしハリウッドだったら、とイメージしてみます。優れたハリウッド映画って、映画の見方、観客の視線も全部決められていて、本当に何にも考えず、想像せずに見ることができます。それ以外の良い映画は全く違っていて、捉えにくかったり、知識や背景に対する興味が必要だったりして、ちょっとずつ紡がれていって気がつくとハートの中で世界が熟して感動しているような感じ。ハリウッドには好きな役者さんがたくさんいますが、ヨーロッパの映画では「この人本当に役者なの?」「こんな普通な感じの役者さん、よく見つけてくるよ」というような役者の層の厚さを感じます。調べると舞台をやり脚本も書いている、なんていう役者さんがごっそり出ていたりして、そうだよな、そうでないとな、と思わされます。日本の役者さんがタレントさんになってしまって年月が経ち、年配の修行を積まれた役者さんがどんどん亡くなっていくのはとてもさびしいものです。人間が人間として普通に豊かに生きることをちゃんとやるには人間としての探求や訓練が必要です。そうでないと人間は人間にもなれない。私は語弊を恐れずそう思う。役者というのはそのスペシャリストでもあってほしいものです。そうでない役者はおもちゃです。日本がおもちゃの国にならないように、本物の人間が作る、神が微笑む集合体であってほしいと心から願います。
2013.12.20
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さて、習慣と一口に言いますが、私たち人間は幼少期のとても吸収力のある、成長率の高い時期にあらゆる体感、五感を使ってその感触を記憶しています。これがインナーチャイルドです。歯磨きが好きか嫌いか、ということひとつとっても、この歯磨きという行為に様々な思い出のような記憶がくっついています。幼い時にお母さんと楽しく歯磨きをして、とても褒められて、気持よくなって、きれいな歯になって、学校に行ってもみんなに褒められた、というような体験があれば「私は歯磨きが好き。歯磨きが得意。歯磨きってとっても重要で、良いこと。」というふうに認識されます。そして一生続く歯磨きという行為は自分に幸運をもたらしてくれる行為となり、毎日費やすその時間はポジティブなエネルギーを帯びる時間になります。毎晩歯磨きの時間になるとお父さんが不機嫌に帰ってきて、お母さんが緊張したり忙しくなってイライラしたり怖がったり、というようなことが繰り返し起こるとすれば、歯磨きは不吉な予感とセットで記憶されます。そのうちお父さんが酔っ払ってお母さんに大きな声で文句を言い始め、お母さんのつらそうな顔を見ながら心配な心持ちでお布団に入ることが続けば、夜眠ることは心配と不安とセットで記憶されます。おとなになってこういった環境から脱出できても、歯磨きやお布団に入るという日課はこういった記憶を感覚的に呼び覚ますスイッチになります。そうすると、歯磨きは気が重い、お布団に入るとき心配事や不安がよぎり、眠れない、考え始める、などという現象が起こります。あるがままを楽しむことへのストッパーがかかります。しかしその原因がまさか、幼少期の歯磨きの記憶だなどというふうには気づきませんから、なにかきっと現在の生活や人生や自分の中に問題があるはずだ、というふうに、少し突っ込んで考える方なら思うでしょう。そして問題探しが始まります。現在のだんなさん、子ども、仕事、会社の人間関係、何かを変えれば問題が解決する、或いは自分の心の中に悪いところがあって、ポジティブになれない。性格を直さなくては、というように考えるようになります。もしくは意識の仕組みを勉強なさった方であれば幼少期のトラウマが原因で今の自分のようになってしまった、と思うかもしれません。しかし、トラウマが原因、というより、その記憶の仕方自体が誤解なわけですから、大事なのは自分自身の誤解を解いてあげることとなります。これがヒプノセラピー、インナーチャイルドワークです。小さい頃の私はものごとを精密に捉える事ができずに、お布団恐い、歯磨き恐い、というふうに誤解をそのまま受け入れて信じ続けてきた、というのが正確です。しかもその誤解は人間誰もがして当然で、誰もがそのことに気づかない限り今でもその平然と誤解の上で様々な認識や判断をし続けていることになります。人間関係、コミュニケーションが難しいことの原因もこの点にあります。私が私自身を誤解していることに気づかないまま、他者を理解するのは至難の業です。誤解を解く、というのは気づきのことに他なりません。自分が思い込んで信じてきたことが本当はそうではなかった、だとしたらその道すがら信じていたことを前提に判断してきたことは意味がなかったし間違いだらけだった、と認めるのはショッキングなことです。ですがこのショックこそが古い概念の崩壊の音色です。そして崩壊のあとには風が流れ光が射します。習慣を見直すというのは古い自己意識の概念、信念を問い直し、誤解に気づき、返上し、過去の自分の誤ちを(真の自己に)赦してもらうことです。このプロセスが癒しです。さらに続きます。
2013.12.13
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日常生活の中で気をつけていること。1,習慣によって決めていないか。2,恐れに縛られていないか。大きくこの2点だと思う。習慣と恐れ、というと別のカテゴリーに属するように見えますが、どちらもエゴ(肉体意識)の特性です。エゴは習慣が好きです。おかげで良い習慣に慣れている人はそれによって助けられます。ご飯食べるとか歯を磨くとか、お風呂の時間とか。しかし幼少期に恐れ(ストレス)が多いとこういう当たり前のことをするのにいちいち忍耐や抵抗が伴い、それ以上の仕事、子育て、または勉強などをするのがとてもしんどくなります。大人になるにつれて動けない、行動できない、やる気がない、しんどい、疲れる、おっくうだ、という風になっていくことがあります。私は主人と結婚して、彼には良い習慣がたくさん身についていることに驚きました。でも習慣化するのが上手な反面、見直すことを忘れがちにもなっていました。新しい良い習慣を導入するのですが、どんどん儀式が増えてしまうのです。そこで手放すことが重要になってきます。見直して手放すこと。内面も同じです。私には億劫な心の習慣が身についていたので、恐れを癒やすことが重要でした。具体的にはネガティブなレッテルと剥がしていくことです。食卓=楽しい、美味しい、嬉しい、好き、というイメージが幼少期に付いている人と、食卓=暗い、緊張、恐い、苦痛というイメージがある人ではご飯の意味が当然違います。ご飯に付いているレッテルに気づいて、解除すると、ご飯にまつわる行動がスムーズになります。安心で自由であると身体は素直に新しい習慣を受け入れ覚えてくれます。続きは後ほど書きます。
2013.12.13
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お引っ越ししたブログですが、二本立てで復活してみようと思います。相変わらずこちらへアクセスしてくださる方が多いためです。おやすみしていた一年半分は、公式AZU WORLDをご覧ください。よろしくお願いいたします。
2013.12.13
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みなさんがとても大切に読んでくださったこのブログうっかり消えてしまったりするのはやはり嫌だなと考えこのたびお引越しをしておりました。2006年から6年半、綴ってきた楽天ブログのAZU WORLD。新しいアドレスは www.azu-world.com です。私の人生のワークの中でもこうして自分の言葉を自由に綴ることはもっとも大きな人生の喜びの一つでもあります。ますます真摯に、ますます豊かに、言葉を綴っていきたいと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。AZU拝
2012.06.05
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お知らせです。ルーア・旧ホームページが閉鎖となりました。新ホームページは3つになります。心のセラピーhttp://ru-o.jimdo.com/鍼灸整体治療院http://ru-a.jimdo.com/在宅訪問の鍼灸リハビリhttp://ru-h.jimdo.com/また、6月より料金を一部改定させていただきます。6月1日のお申し込みより適用させていただきます。また、メールセッションは遠隔ヒーリングに統合させていただこうと考えております。近々にHPの改定をさせていただく予定となっています。メールでのセッションがご希望の方は遠隔ヒーリングとしてお申し込みくださり、ご相談の内容をメールで詳しくお書きくださればご返答いたします。ヒーリングセッションを加えたほうが圧倒的に明確に変容をもたらすことが可能なことと、メールの回数を制限せずにサポートさせていただくことができます。ヒーリングに関してはこれまではお試しにどうぞ、という気持ちで非常に低価格に設定してきましたが、内容の濃さなどの手ごたえを考慮し、バランスのために調整させていただきました。現設定は、対面のほうが遠隔よりも低価格にさせていただいていますが、これは、対面のほうを引き続き沖縄感謝価格とさせていただいているためです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。感謝とともにAZU拝
2012.05.30
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ちょっと気を抜けば、世の中の混乱に巻き込まれそうな気持ちになる。それは感覚、思考が発達した人であるほどにそうだろうと思う。私は瞑想でそれをなだめようとか、幻想だから見なくていいなんて思っていません。瞑想は私たちをより広がった高い意識の視野へといざないその全体性をあるがままに見せてくれ、受け入れる勇気を与えてくれます。それは、決して私たちが無力で一人ぼっちでこのサバイバルの世界を生き抜くために人生があるわけではないことをあらゆる面からあらゆる方法であらゆる道筋を通して教え導いてくれます。その、導き手である圧倒的な超越した光を神といいます。瞑想は、その神に出会い、その愛に気づき、私たちの持てる愛を引き出してくれるものです。霊的に目覚めているというのは、この神と自分がともにあるという自覚です。この神を忘れて違うことを信じているとき、私たちは眠っています。目覚めながら世の中を観るとあるのはただの現実。混乱は、それを見たときに反応している心のほうにあります。混乱した心で世界を見て、反応のままにアクションするとその混乱を現実化します。ですから、混乱した人は混乱を創造します。目覚めて行動する人は、世界をあるがままに見てよりクリアさを実現していきます。起こっていることに対して、クリア、というレスポンスを返していけるのです。クリアであると、迷妄という誘惑から自由です。ですから、自由を創造できます。どうぞ、多くの人が、心をクリアにすることに向き合われその自由さとともに、愛の世界を創造されますよう。そのための一助として今日も働けますことに感謝します。≫THRIVE正しいかどうか、という議論を抜きにして一度は見てみる価値があると思う映画。今無料で見ることができます。
2012.05.27
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意外にも多くの皆さんがご自身のインナーチャイルドと重ね合わせて読んでくださった私の小学校6年4組のクラス会、その後の物語です。物語は私が何度も何度も繰り返し見る同級生の二人の親友の夢から始まりました。そこへ転校生だった男の子からのメール。担任のいわちゃんの退任のお祝いをするためみんなで集まりませんか?という誘いです。そのアイディアを共有るすのは転校生の彼と私だけ。それから、二人で見えない糸をみつけ、つないでいく作業が始まりとうとう13人と、いわちゃんを囲む会で33年ぶりの再会を果たします。青春ドラマですかっ?!今日は転校生だった男の子から私へ贈ってくれたある問いかけについての話。その子はとっくん(仮名)です。とっくんが私たちと一緒に過ごしたのは一年足らずだったかな。とっくんは私とサミちゃん(仮名)が歌って踊っていたビンクレディーのレパートリーをなかなか気に入って覚えてくれたようです。その他にも、細かいいろんな出来事、いわちゃんからもらったたくさんのメッセージと愛をたくさん記憶していました。会のあと、彼は私にこう問いかけてくれました。「オミ(私)はどうして6年生でそんな子になれたんだと思う?」クラス会で、先生や仲間がオミについてみんなのために、みんなが幸せでいるように、いっつも考えて行動してたねと話してくれたことについて彼はいわちゃんだけでなく、オミもあのクラスに影響していたんだ、と思ったそうです。あのクラスのあの空気は、もちろんみんなの心でできていました。でも確かに私はみんなのことをいつもとても真剣に、大切に思っていました。「いつかこのことについてゆっくり話を聞いてみたい。ブログに書いてくれてもいいよ」ととっくんは言いました。それで私はまたゆっくりと、オミのことについて考えることができました。考えるほどに、それは私のすべてのせいだとしか思えませんでした。お母さんのおなかに宿ってからのすべてと魂と、それから前世の記憶と家族全員と、出会った人全部と、そんなすべての影響。ただ、とっくんはそのことをすばらしいな、どうしたらそんな子に育つのかな、と思ったかもしれませんがそれはいい面だけでは決してありませんでした。例えば、私は典型的なアダルトチルドレンの苦しみを味わいました。私はとっても精神力の進んだ女の子で早くに大人の役をやることに生きがいを感じていました。2歳からの記憶があり、3歳ですでに自分を大人だと思っていたのを覚えています。2歳下の弟は生まれつき顔と全身に青いあざのある子で弟を守るのは私の役目だと思っていました。お父さんは、弟がそのように生まれたことを苦にしたのを発端に10年近く酒びたりでお酒をやめた後も極度な躁鬱病はひどくなるばかりで攻撃的か破滅的かどちらかの顔しかほとんど見せることはなく恐怖そのものという存在でした。お父さんはちょっと有名人だったので、誰にもそんなことは言えないと思っていましたし勇気を振り絞って告白しても大人は誰も信じてくれなかったと記憶しています。だから私は世間の誰からも信用されるようなまともな大人になって誰が正しくて誰が狂っているのかをちゃんと証明できるような人になる必要があると信じていました。そうしてお母さんや弟や妹を守れるようにならなくてはと思っていたのです。だから、11歳ですでにみんなの幸せ、なんて考えていたのは私がアダルトチルドレンだったから、と言ったって過言ではないのです。高校生になると私は自分で自分に課した重荷に耐えられなくなっていました。実際に強くて優しい人になるのはそんなに簡単ではありませんでした。みんなを幸せにするどころか、自分が普通に社会生活を送ることすら危ぶまれる心身の状態に陥りやがて長い年月をかけて全部投げ出すしかない状態まで追い込まれていきました。全部というのは本当は真実ではありませんが子供のころに描いた自分や、あのまま進んでいけば可能だと思い描くことのできた領域からは大きくドロップアウトしていきました。大人になるころには、弟が精神病を発病していることがわかりました。とても優しくて私とは仲が良く、似ているところもたくさんあった弟ですのできっと私もそうなる、と思っていました。あのころはなにもかもがしんどすぎてこの世は地獄のようにしか思えなかったので何が辛いのかも自分でよくわからないほど混乱していました。今思うと、自分は正気でいたいのに、いつか狂うだろう、という思いはとてもとても大きかった気がします。それで、母から「あんたたちは」とひとくくりにされると発狂しました。そして、ほら、やっぱりね、私はもうだめだ、と心底絶望したものです。このことは私が今、父と母と弟と妹を完全に愛し愛されているとわかるので初めて書くことができました。こういった苦しみから逃れるために私は人間の心について必死で学びました。心は意識となり、神と宇宙と脳の仕組み、病気、人間のエゴ、真理、またスピリチュアルのセラピーやワークにはなんでも真剣に、というか必死に取り組み、その取り組みはあらかた成功にたどり着きました。その成功とは、なにかを成し遂げるとか得るとか達成することではありませんでした。それは人間を深く知るということです。あらゆる理とそこに流れる真理に触れ、それを信頼ながらに生きることです。そのことで私は自分を縛っている制限、苦からある程度自由になることに成功したのです。このことを私は幸せと呼んでいます。先日のクラス会で、私は12歳のオミにリアルに出会うことができました。それは私の脳みそではなく、仲間たちがその意識に保存してくれていました。私の記憶の中では、エゴをとことん解体した段階で小さいオミはすごかったけど、でもほとんどはエゴの思い込みが原動力だったんだしそれらは解体された時点でパワー自体も縮小されたように見えました。ところがユキちゃん(仮名)がそのエゴの奥に潜んでいた一番重要な動機についてのキーワードを私に渡してくれて私は本当に大事なものを思い出しました。前に書いた「わたしがいるじゃない」と幼稚園のときに私がユキちゃんに言ったという言葉です。私は「わたしがいるじゃない」と、誰かに言える自分になると決めていたのだと思います。それで、意気揚々としていた私も思春期には神経過敏になり人間力を身につけなければならない時期には無力でどんくさい(スマートじゃない)人になったりして底力を身につけなければなりませんでした。さらにエゴに気づいていく過程では真実にうんざりする時期もありました。そしてなんとか鎧を脱ぎ捨て本当の自分に戻りつつあるこの頃になって最初の設定の意味がようやくわかりました。それは魂が選んだ指針です。11歳のオミがああいった女の子だったのはアダルトチルドレンだったから、というのは一つの側面です。もう一つの側面は、私は自分の魂の指針に沿って、一生懸命に生きていたから、です。6年4組は今になってはっきりとわかるのですが本当に色の濃い子たちが集まっていたようです。言い換えると魂のままに生きていた感じです。そんな彼らだから、あんな私を、okと記憶していてくれたんだと思います。not okな子もいっぱいいると思うけどね。だって当の私が本当に投げ出そうかと思っていたくらいなのですから。とっくんがクラス会のときに全員分コピーしてくれていた卒業アルバムの写真は今もこのパソコンの隣りに置いてあります。みんなとの交流はメーリングリストで続いています。リストは「6-4の教室」と名づけられ、教室はわいわいしています。昨日は先生が割って入って「おいおいおいおい、お前たち!仕事はちゃんとやってるのか?」なんて注意されました。あのころとおんなじ。今みんなは闘病中の友達のお見舞いに行く計画を立てています。その子は記憶が保てないという症状があるそうなのですが6-4のことは覚えているとお母さんから聞きました。私はその子にとても会いたいな~と思っています。自分にはなんにもできないかもしれないのだけど会えたら私が幸せだと思うので、きっとその幸せは伝えられるのではと思っています。早くに私の魂の指針に気づいてくれた仲間。私は魂の仲間たちと、こんなに早くにまとまって出会っていたんだ、と驚かずにはいられませんでした。しかも33年経ってそれに気づくなんて。こうやってみると、私の出会いは精妙に、功名に、すべてが美しく仕組まれているように見えます。この人はソウルメイトかしら、否かなんて、愚問です。すべてはソウルメイト。その人を大切にこころを開いてハートでつながれるのかどうかだけが課題です。それができるようになるレッスンにみんながつきあってくれているのですね。
2012.05.24
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沖縄の日本返還40周年にあたり沖縄公文書館で行われている日本復帰40周年記念特別展を見てきました。沖縄公文書館 http://www.archives.pref.okinawa.jp/琉球王国が日本に統治され、アメリカに統治され、日本に戻ってくる歴史の年賦があります。すごく参考になったことの一つ目は、アメリカ国家の世界支配戦略にはものすごく歴史があって、進んでいる、ということです。人の心理をちゃんと計算して広い視野で卓越した策略を立てて実行しているので、目の前のことに気をとられていたらあっという間に取り込まれてしまうなぁと思いました。日本が戦争に負けて天皇という神を喪失し、食べ物と戦っている間に、とても上手に沖縄やその他の島や必要なものを着々と手に入れていったのがよくわかりました。日本に対してだけではなく世界全体に触手を伸ばし今もずっと、ちゃーんと続いてるよ、と思い知りました。二つ目。沖縄の人はこの間本当によくアメリカの動向を監視し、市民運動などを活発に行い、とうとう沖縄を日本に返還させた、ということ。これは、私にとっては目からうろこでした。知ってはいた気がしてたけどわかってなかったことです。私は市民運動が勝利した事実を目の当たりにしたことがなかった気がします。沖縄では誰もが諸手を振って日本への返還を願ったわけではなかったことは承知ですが、それでもアメリカが沖縄を占領し戦争のために土地を支配し基地を配し続けることにNOと言った背景をおぼろげにも感じることができました。主人が鍼灸の訪問をしているあるおばあちゃんの言葉。「基地返還に失敗したのは鳩山のせいじゃないよ。誰がやっても一緒。難しいよ。とってもできないことよ。だけど、私たちは叫び続けないといけない。孫の世代のためにね。私たちのためには無理だけど」多くのおじいおばあは、基地に反対とはなかなか言いません。難しいよー。変わらんよーと言います。このおばあちゃんもそう言っていたのです。でもそれは、賛成と言っていたわけでも無関心なわけでもなかったんだと初めて知りました。反対、と口にするのは簡単。でも本気で言い続けることはとても難しいということを彼らは知っている。きっと簡単に口にしても伝わらないことなのです。丁寧に、勇気や思いやりや根気や忍耐や理解や継続や行動という人生にとって大切ないろいろなことを駆使して伝える努力が必要なのでしょう。何よりも言い続けるということは、愛なしには不可能なのでは、と思い当たりました。反対すること、怒ることは一瞬なら爆発しますがぶつけるのではなく、本当に伝わることを願って相互理解を求めて伝え続けるには愛を原動力にしないことには持続可能な自然エネルギーになりえないと感じました。反対運動がなかなか功を奏さなかったのは持続可能な自然エネルギーじゃないことが要因になっているかもしれません。私は脱原発や脱基地支配を含めて、人類の脱戦争を強く願います。そのためにも持続可能な自然エネルギーを使いたいと思います。
2012.05.22
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「誰も知らない基地のこと」 http://kichimondai.com/ネタばれしますけど書きます。沖縄のことがたくさん出てきます。というか、この映画の主人公は、島袋さんだと思いました。沖縄では、基地についてとても切実な意見が聞かれます。東京ではやはり遠い地のことだったし、本当に毎日の生活に追われてしまっていました。基地は、日本が敗戦国で、まだ見えない占領を受けていることを示しています。まだどころか、見えざる支配の計画は加速し成長し続けています。沖縄では簡単に基地反対とは言えません。その理由は主に実質的な経済の問題です。基地に土地を貸してお金を得ている人がたくさんいます。それから基地には仕事があります。沖縄ではとても貴重です。軍人さんと家族を作っている人もいます。沖縄では親戚一同が助け合いながらたくさんの子供を育てています。親類にこうして収入を得ている人がいればきっと、なにか被害を直接受けない限りはなかなか反対とは言えないのでは、と推察します。そんなこともあり私は以前、基地の土地がみんな返還されたら、農場にできたらいいな!と思いました。土を浄化する必要があると思いますが、沖縄の美味しい野菜をたくさん作って日本の必要な人に届けられたら素敵だと思いました。きっと賛成してくれる人は少ないかいないだろうと思いながらも、イメージすればするほど胸が膨らむアイディアだと思いました。冒頭の映画で主人公の島袋さんが基地のフェンスの前で基地の中を指してこう言いました。あそこが僕の土地なの。もし土地が還ってきたら、僕はあそこに大根を植えようと思っている。二列植えただけでも120万本ができる。そしたらその大根を沖縄の人みんなに配ろうと思ってるの。私はそこで思わず号泣しました。島袋さんは、自分たちの土地が、人殺しのために使われるのは嫌だと言いました。料理するから包丁貸してと言われたら貸すけど、人殺しするからと言われたら貸したくない、と言いました。何十年、ずっと言い続けてこられたんだろうと思いました。そのためなのか、争いというオーラは島袋さんには影すら見えず、ただ正直にほんとのことを、まっすぐに言うことへの決意のようなものだけが見えました。それがどれほどのことか、どれほどたくさんの思いを乗り越えてこられたのか、と感じました。原発の事故があって、世の中ではもう、本当のことをみんなが知らないことには次への成長進化は起こりえないというような大きなうねりがあります。私たちは長いこと平和を望んできました。その答えが今、手に取ることができるほど目の前にあります。平和とは、私たちが自己という存在の真実を知ることに他なりません。私たちの内なる宇宙の中心は愛というカクからなっておりそのエネルギーを完全に封じることは不可能です。その本質を妨げるものは恐れとしてこの世に不自然な搾取や支配という幻想を投影します。私は今世で、島袋さんの畑で育った大根を食べられるでしょうか。その時の、みずみずしいしゃきっとした沖縄の赤土のついた大根の味を鮮明にイメージすることができます。沖縄じゅうの人がそれを口にしたとき、不可能だと思いこんでいたことは、幻想だったと多くの人が目覚めるはずです。でもできたら、食べる前に目覚めて、その準備を手伝いたいとは思いませんか?私はそれができたらそれは大根を生きている間に食べることよりも価値があると感じます。実際にみんなが食べるのはもっと先のことだったとしてもその畑を耕す、つまり、世界観を変えることがそれです。
2012.05.17
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原発の問題を思うにつけ、沖縄の基地問題と違い無いことに行き当たる。これは沖縄に住んだから直結することで東京にいたころは、良くないとは思うけど、どうなんだろう、というくらいの考えしかなかった。原発の問題も同じようなものだった。でも、戦争については心底嫌だと思っていた。今は、原発も基地問題も戦争なんだ、とよくわかる。東京にいると、目の前の景色はどんどん移り変わり多くの人が先を先をと一生懸命目を凝らしている。置いていかれる、という言葉をよく耳にした。もはや戦後ではない、という言葉は、私が生まれるずっと以前に言われた言葉だったはず。沖縄に来たら、日本は戦争に負けたんだ、ということがよくわかった。そして敗戦後の占領が形を変えてずっと続いている。ただそれだけのことだ。だから治外法権が認められる。基地は戦争の準備をするところだが戦争が起こるから基地があるわけではない。基地があるから戦争が起こる。これは先日見た「誰も知らない基地のこと」という映画の冒頭の言葉。この言葉はいろいろと使える。「武器商人がいるから戦争が起こる」とかね。つまり戦争は国家ぐるみの合法的な人命を賭けた商売だということだ。原発は核燃料の倉庫で、核燃料は戦争の道具だ。(今、核という文字が変換されなくてびっくりした。核爆弾とか核燃料と打たないと出てこない。以前はそんなことなかったけど。)エリートのおじさんがきっと考えたんだろう。日本が何とかして強くなるための苦肉の策を。中国からの攻撃から、日本を、アメリカ軍が守ってくれるなんてことを本気で信じている人がいるんだろうか。基地の目的の中にそんなものはない。彼らは決められた目的のために的確にものごとを遂行するよう訓練されたプロだ。目的に反することはしない。彼らは喜んで中国と戦争するかもしれないけれど日本や日本人を守ったりはしない。戦争に心から賛成、という人に反論はできない。でももし、なにか理由をつけて、してもいいんじゃない、とかしょうがないんじゃない、と、知ったような気がしてそう思っている人がいたら本当のことを少し一生懸命知ろうとしてもいいんじゃないかと思う。もし、知らないほうが楽だから、と思っているのなら、そんなことはないと伝えたい。どんなときも、真実はあなたに優しいから。真実を知ることは、それ以上疑心暗鬼に脅かされる地獄からあなたを救う。私たちは何者からも侵略や支配される必要は無い。戦争に負けたから仕方ないんだ、というところまで思考が届けばじゃあその戦争ってなに?という考えに至る。戦争は世界と世界に生きる人の意識の暗闇に付け込んだ商売。そうだと気づけば目覚めは始まる。私たちは目覚め始めている。真実と、真実である自己存在について。
2012.05.17
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みなさんこんにちは。沖縄は最高にお天気に恵まれたすばらしいゴールデンウィークでした。そしてスーパームーンに多くの人が心の深い部分から天へ、平和の祈りを捧げられたこと、しっかりと届けられたように感じました。意識はこうしている間にも気づき続け開き続けています。私の子供でもおかしくない世代の方がセッションにいらしてくれる時代になりましたと先日も書きましたが、彼らに触れるたびに意識の進化について実感させていただいています。彼らは間違いなく、平和をもたらすために生まれてきた魂だと感じます。とても進化しているので、本質的であればあるほど即座に理解してしまう方が多いのです。時々尋ねられます。「どんな人が受けにくるの?」病気の人、苦しんでいる人、悩んでいる人、確かにいろいろな方がみえます。でも私に言わせれば、きわめて正常な心を持っている人、敏感で正直で、向上心のある人、感受性の強い人、頭がいい人、などが多いと感じられます。まじめで優しい方も多いです。多くの人は社会における規範を人間のスタンダードなラインと考えます。それに外れてしまうことは、能力が足りないか、異常か、病気と考えられています。でも、本当は、社会の規範は時代やある側に立つ人々にとって都合のいいように人間が決めたものです。それにはまらないからと言って、無能か異常か病気のどれかというレッテルを貼られなければいけないわけではありません。では、真実はどこにあるのか。人間とはなんなのか。私自身はそのようなところから、意識の探求を始めました。「こんなこと、みんなわかりますか?!知りたいと思うんでしょうか?!」とセッションの時おっしゃった方がいます。私たちが現実だと思っていることと実際が余りに違っている、という気づきに心地いい衝撃を受けながらおっしゃった言葉だと感じました。私のお返事は「はい。私はそう思います。人間はより真実を知りたいからです」でした。真実というのは一瞬は衝撃的であっても、本当は人に優しいのです。それは愛という源泉からやってくるものだからです。アダルトチルドレンをご存知の方は多いと思います。ヒプノセラピーがこの、アダルトチャイルドの状態に対して非常に有効なセラピーだということをご存知の方も多いでしょう。先日は、そのことをご自身で突き止めて、セラピーに臨んでくださった方がみえました。なんて聡明なんだろうと感銘を受けます。アダルトチャイルドのことを「大人になりきれない大人」という風に理解している人がなにか意見している記事を読んだことがあります。でもそれは違います。アダルトチャイルドは、早くに大人になりすぎた子供を指します。なんらかの形で機能不全家族に育って、不在である父親や母親の精神的な役割を、子供が肩代わりしたために起こります。子供は生まれながらに無条件に父母を愛するのですがその愛ゆえに子供は子供らしく愛情を受け取る時期と立場をはしょって与えたり役割を背負うことを知らず知らずに買って出るのです。大人になってみて、与えたい愛を自分は充分に持っていないことに気づきます。過去に自分が親から充分に受け取りそこなったことに気づきます。自分の恋愛や人間関係がうまく行かずに、手遅れかと周囲を恨む気持ちさえわいてきます。でも、それは、自分で取り戻すことができるのです。そのボタンの掛け違いは、間違いなく自らが選んで生まれてきた、かけがえのない両親への愛から出発しているからです。一人の力では難しいことでも、手伝ってもらってそれをすることは真実を知ることにかけては大きなギフトとなります。私はそれを人生を通して見つけたと思っています。方法はちゃんと準備されている。それはあなたの魂のため。深遠な意識の世界の冒険と探求のためです。苦しいが「おもしろ~い!」に変わるのです。
2012.05.07
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今朝目が覚めると同時にいきなりワークが始まりました。「わたしがいるじゃない!」という言葉がぱっと浮かびます。スピリチュアルなみなさんにはもうおわかりだと思いますがこの言葉は、私自身のための言葉です。言った私が忘れていたにもかかわらず、Yちゃんは幼稚園のときにこの言葉を私から受け取りその後40年間(幼稚園からなので、さらに時間が遡りました)も大事に預かってくれそして忘れることなく完璧なタイミングで私に投げ返してくれました。小さいオミはこの言葉の完全な意味を自分で学び本当の意味でそれを言える人になれるように人生のねじを巻いたのです。(エゴではなく、愛で言える自分になるために)その言葉は忘れていても、私はそういう人生を選んであたかも体験させられるかのように体験してきました。Yちゃんがいつも泣いているのを見てYちゃんの気持ちをわかりたいととても強く思ったのを覚えています。そして自分がYちゃんのような気持ちだったとしたら私は誰かになんて言われたいだろう、と考えた末にきっとあの言葉が出たのだろうと思います。そうなのです。これがワークです。あの言葉は、私がもっとも求めていた言葉でもあるはずです。人はあの人のために、良かれと思って、と考えていますが本当は自分が喜ぶためにそれをしています。だから、それをできただけで万々歳なのです。でも真実を隠す壁が心を隔てているうちはそのことに気づかずにその結果が返ってくることを期待しています。喜んでもらえるか、とか、評価されるかどうか、とかです。喜んでもらえるのは嬉しいことですがそれはそれを自分が望んでいるからに他なりません。でも結果というのはそういうものではありません。投げると同時に本当はもう受け取っています。自己を愛することで自己が満たされるのだという真実を知るまでは人は誰かに、なにかに満たされようとしてしれを探し求め続けます。でも、自分は自己によって満たされます。自分と内なる(神である)自己によって。さて、ワークの話。私は「わたしがいるじゃない!」という言葉を自分に贈ってみました。そうだったのか。私にとっての「存在理由」や「愛の表現」と言えるものがこれだったんだ、とわかりました。これまで生きてきて、その言葉を誰かに言われたことがあったけ?と考えたところではぁっ!としました。それを私に言った人が一人いたことを思い出したのです。9年前、つきあい始めて間もなかったころの私の主人です。高円寺の商店街を二人で歩きながらふと「ここ(地上)に私の居場所あるのかなぁって、思う。」と言うと「なにいってんの!おれがいるじゃない!おこるよ!」と若干ムキになって言ったのが彼です。まったくもって期待していた言葉ではなかったはずなのに、なぜか、そうだったのか、という風に納得して信じられちゃったのが不思議でした。彼としてはその言葉の重みなんて全然わかっちゃいなかったと思うのですが。私たちはあれこれと心配し、いろいろなことを考えて理由を見つけようとします。でも、ほとんどのことは見当が外れています。それでいて、本当に大切なことはちゃんと体験していて本当に人生に必要な鍵はちゃんと持っているんだと改めて思います。だから、人生を開くには起こっていることを受け入れることが大事なんですね。無いものや別のなにかではなく、自分にちゃんと与えられているものを。鍵を握り締めすぎて持っているのも忘れて探し回るのが人生のようなものです。でも、生きているうちにこのからくりに気づいて目の前の扉を喜んで開き、受け入れ味わい向き合うことができたら、しあわせですよね。そういう世界が、アセンションした世界だと私は思うのです。
2012.05.04
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さて、今回起こったファイル6-4の件について少し総括しておこうかと思います。今回ほどわかりやすくしかも感動的に意識と魂の仕組みをほらね、と紐解いてくれる実演はそうないので書かなくちゃ、という気になります。それにしても手が込んでいます。みんなに会う前の記事で、みんなひとつで繋がっていたんだ、と書きました。そのことは、たとえ話でもおとぎ話でも希望的観測としてでもなく集まったみんなの胸に切々と響いていたのではないかと思います。何人かの口から「記憶が連鎖的にどんどん出てくる」「脳の引き出しがどんどん開かれて記憶があふれてくる」「こんなに感情を出したのは6年生以来」という言葉が出ました。それから「先生の最初のあいさつをきっかけに鳥肌状態になり、完全に小学校6年の感覚を思い出すことができた」と表現していた人もいました。これって、あれです。潜在意識のふた、あるいは膜と言われるクリティカルファクターが開いた状態そのもの。それで、みんな半トランス状態で次から次に記憶を思い出していきました。そこに感情や感覚、感動がともなっていてものすごい興奮状態でした。先生も、翌朝も目が覚めて涙が止まらないと言っていました。私も何度も思い出し泣きしています。これって、心のセラピー的な観点から言うと恐るべき浄化作用と、セルフ・エンパワメント(自分への権限を与えること)に繋がります。このこと自体もすごいのですが、何と言っても私がすごいと思ったのは魂の記憶には「愛」しか残らない、という説を確信したことです。この世は私の意識の投影ですので、私と神しかいません。みんなは時に私の潜在意識のエゴの記憶を映して見せてくれたり付き合って遊んでくれたりします。それから宿題の中でも一人でやらなくてはならないところ、また家族と一緒に取り組まなくてはならないところがあります。私がそこに取り組んでいたとき、彼らの姿は私からは見えなくなりました。でも宿題のおっきなテーマがなんとか片付いてきたらそのおっきな教材が消えてその向こうにみんなの笑顔が見えました。途中で「あれ、なんかわかりあえない」とか「これは手伝ってくれないんだ」とかそんな時期があったことなど、本当に幻のまた幻です。それで、みんなが「やあ、オミ、とうとうそのトンネル掘りきったんだね、ばんざい」と大きく手を広げて待っていました。私は「あれ?一人で掘ってたと思ってたけど、違ったんだ」と気づきます。本当はみんなあちこちでもっと大きな迷路を作ったり途中でちょっとだけ交わったり、落とし穴を掘ってみたりお化け屋敷やお花畑を作ったりして自分のエリアでがんばっていました。それで私が一人で掘ったと思ってやっと出てきたトンネルを振り返ると一人では到底できっこないような壮大なテーマパークがあらかた全貌を見せています。「みんなでやったんだよ」と誰かが言います。それを見たとたん、途中の苦労や孤独は吹っ飛んでしまいました。なんだ、これをみんなでやってたんだ、ということのほうが真実だということが一目瞭然だったからです。そして、その時に胸に残っているのはみんなのことが愛おしくて仕方ない、という、愛の記憶ばかりでした。数多くの魂の転生の中で私たちは潜在意識に多くの記憶を刻みます。その多くはエゴによる思い込みの想念となって私たちに制限という枠組みを作ります。でもその枠組みを今度は丁寧にはずしていくと私たちは自己の魂に触れ、その記憶に触れることができます。魂が記憶するのは愛だけ。潜在意識をお掃除して、魂の記憶を思い出すことができれば私たちは神に抱かれこの世で魂の仲間と戯れている小さき神の子だという実感がわくでしょう。私がこの肉体を離れ、魂のふるさとに戻るときに何を持って帰るのかがはっきりとわかってきました。そのときがくるまで、私は一生懸命トンネルを掘り続けようと思います。でももう、二度と一人ぼっちだと思うことはないでしょう。この壁の反対側で今日も一緒に掘っている仲間の存在を感じながら楽しんでそれをすることができます。この世に一人ぼっちで恐ろしい暗闇の中を手探りで掘っていると思っている人、またあまりのこわさに堀る手が固まって動けない人にそうではない、本当のことを、私は伝えたいと思います。私がいるじゃない!って、この世にいる限り言い続けたいと思うのです。
2012.05.03
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以前に書きました、狛江6小6年4組の謝恩会が実現し、東京へ行ってきました。以前の日記「この世で最もシュールでリアルな夢」全員見つかる、という奇跡は起こりませんでしたがそれに勝るとも劣らないミラクルと最上級のギフトを、てんこ盛りでいただきました。まず、夜な夜な夢で会っていた二人の親友に32年ぶりに再会することができました。これが奇跡その一。担任の岩ちゃんは、33年を経て、全然変わっていませんでした。そんなばかな。私たち11歳、岩ちゃん26歳で出会ったわけで今は私たち45歳、岩ちゃん60歳なわけで。それが奇跡その二。でも今日は、私の中の小さな私、当時のオミ(私の小学校から大学までのニックネーム。)に最大級の感謝とねぎらいを込めて彼女への思いを書くことにします。私はオミのことをなんとなくいい子だとは思っていたけどそこまですごいやつだとは思ってなかったよ。思えば高校生になったころからどうしても自分が自分の思うように動けなくなってきて自分のことに精一杯になってこんなはずじゃない、こんなはずじゃない、と思いながらその後長い年月を過ごした。その間に私はこころのどこかで、あのころのオミに対して恥ずかしいという気持ちを持っていたよ。だってあの時のオミって、どこまで輝いてたんだろう。本当に自分がいいと思うことは、どんなことだってできたじゃない。毎日が本当に全力全開で、感じたことをすべて受け入れて幸せなこと、楽しいこと、みんなが喜ぶことが大好きだった。でもその後の、思うように行かない人生が長くて長くてその間に段々と、あの時のことは一時的に起こった人生の儚い炎の燃焼だったんだ、くらいに捉えることにして、何とか自分をこれ以上嫌にならないよう人生を心底嫌いにならないようにがんばっていたんだ。それからいろんな思いをどんどん手放して心をいつも空にして人生がまた、明るく清らかになってきた今突然にあの時の仲間に会えるっていうご褒美がやって来てとっても嬉しかったけど、それ以上に、想像どころじゃないくらいにあのあとそっと閉じておいた扉をどんどん開けてもらえたんだ。そうしたら、オミがいたよ。私が気づけないくらい、たくさんの宝物を私はもらっていたんだね。岩ちゃんがなにを言い出すのかと思ったら「ぼくは長い教師生活の中で、オミみたいな子には二度と出会わなかったね。彼女が6年の前期に児童会の会長をしていたとき、・・(みんなに)してたのね。その時、朝礼でしゃべるんだ。普通の子はね、会議で決まったことを紙に書いて読むでしょ。あの子はね、みんなの前に立って、ねえ、みんな、聞いてぇ!って話かけるんだよ。」その言葉を聞いたとき、耳を疑うというか、現実が遠ざかるというかなんだかいろんな記憶の壁が崩れ落ちるような気がした。そうだったんだよ。岩ちゃん覚えてたんだ。放課後に岩ちゃんと、クラスのみんなが幸せになるために、しょっちゅう話し合っていたこと。「だって、みんなかわいくてしょうがなかったんだもん。」って岩ちゃんの言葉を聞いたとき、それだったんだ、ってわかった。なにものにも代えがたい、この宝物の正体。「私はね、岩ちゃんに愛を教えてもらったと思ってるの。」と言うと岩ちゃんは、あははは、ってずっこけて笑ったけどその時に両隣にいた男の子2人が、「そうだよ」って言ってくれた。「あの時はそれが愛だとはわからなかったけど、大人になって、子供が生まれて、育てていたら、わかったんだよね。あれが、そうだったんだって。」45歳と46歳になった男の子と女の子がやかましすぎるほどに大声をあげて笑って泣いた。小さいオミは先生とこの子たちのことが本当に本当に大好きだったんだね。今わかる。この子たちの底知れない優しさ。みんなそこにいない子の分まで、たくさん思い出そうとしていた。そこにいない、私たちを育ててくれたお父さんお母さんのこともみんなで口にした。誰かのうちで食べさせてもらったプリン、たこ焼き、クッキーのこと。作ってくれたかーちゃんの名前。感謝合戦みたいにみんなが口にする。叫ぶように。できるだけみんなに届くように。「本当にすごい子たちが集まってくれたから。」と岩ちゃんが言った。男の子も「本当にすごかったよ。」と言った。そうだったのか。幻じゃなかったんだ。トトロのさつきちゃんとめいちゃんの気分。「ゆめだけど♪ ゆめじゃなかった♪ ゆめだけど♪ ゆめじゃなかった♪」帰りの電車でも最後の一人になるまでしゃべり続けた。でも時間は全然足りなかった。ひとりの女の子が「ねえ、これ、奇跡だよね?絶対に、こんなの奇跡だよね?」と言った。その子から次の日に届いたみんなへのメールは「私の人生で結婚と出産に並ぶほどの感動でした。」だった。何人かの女の子が、オミ、あのときありがとうって言ってくれたね。幼稚園のときオミが言った言葉だって。その子がいっつも幼稚園で泣いているのをとっても不思議で、どんな気持ちなんだろうってたくさん考えたの覚えてる。オミは「どうして泣いてるの?わたしがいるじゃない!」って言ったんだって。あの時は幼稚園がこわくてしょうがなかったんだけど、でも、うれしかったんだ、って。その子は4組になったときはうそみたいに笑顔で元気だったよね。今ではスクールカウンセラーになってるって、なんだかものすごく嬉しかった。きっとたくさん乗り越えて、全部栄養にするくらいがんばって生きていてくれたんだと思うから。それにしても、シモとサミに会えたね。まるで村上春樹の小説で、月が二つある世界から戻ってきたみたいな気分だよ。なんだか胸がいっぱいすぎて二人とも全然話せなかったけど二人に本当にたくさんの宝物をもらっていたことのお礼をこれからちゃんと言わないとね。本当に、こんなにも大好きな友達でいてくれてちゃんと元気でいてくれてすてきでしあわせでいてくれてなんて言っていいかわからないくらいだよ。ありがとう。大好き。みんなありがとう。大好き。みんなのことがかわいくてしかたありませんでした。大好きでしかたありませんでした。みんながあまりにやさしくてすてきでした。おもしろくてゆかいすぎて、かっこよすぎでした。会ってみたら輪をかけてそうでした。岩ちゃんとみんなで仕掛けたタイムカプセルは土に埋めるよりもすごかった。時空に仕掛けられてみんなの魂で開けました。みんなほんとにすごいな。やったね。またやろうね。
2012.05.01
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