1
さて、この数日の日記では連続で、『海辺のカフカ』を読んで、感じたこと、考えたことを書いてみようと思う。すでに数日前の日記(10月29日)で、途中経過としての感想を書いたが、そこでの感想は大枠ではほとんど変更はない。あの時点でヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」を引用したが、その後、読み続けてみると実際、『海辺のカフカ』の文中にも似たような言葉がみつかる。「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにできないものだから」「そういうことだ」とサダさんは言う。「そのとおりだ。それで、ことばで説明しても正しくは伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」「たとえ自分に対しても?」と僕は言う。「そうだ。自分に対してもだ」とサダさんは言う。「自分に対しても、たぶんなにも説明しないほうがいい」これは『海辺のカフカ』の後半部で、主人公の少年「僕」と、彼がお世話になった図書館員の大島さんの兄のサダさんと交わす台詞である。もちろん、これを、言葉では何も説明できないから言葉は無力だなどと捉えるのは早計だ。なぜなら、なによりもそれは言葉で書かれた小説に書かれた言葉なのだから。わざわざそんなことを表現するために、長編の小説を書き記すほど、村上春樹という小説家はやわではない。そのことをあらかじめ証明するかのように、この小説には、言葉、文字、文章、本といったものに対して、それぞれ特長を持った登場人物たちが登場してくる。●僕(自称、田村カフカ) まず、主人公の「僕」は、本を読むのが好きな15歳の少年である。 休み時間になるといつも学校の図書館に行って、むさぼるように本を読んだ。 彼は中野区の自宅から家出して、四国の高松に赴き、私立の図書館を訪れる。 そして、そこで出会った大島という図書館の職員の計らいで その図書館に住ませてもらうことになる。 彼は図書館で来る日も来る日も本を読み、 一時的に図書館を離れて身を隠すことになる高知の山奥にある 大島さんの兄の所有する小屋でもたくさんの本を読む。●ナカタさん 一方、もうひとりの主人公である 中野区に住む60歳を超えた老人、ナカタさんは字が読めない。 字が読めないので切符が買えず、電車に乗れない。 ショウガイ者とくぺつパスで都バスには乗れるが、中野区からは一歩も出たことがない。 とうぜん、本も読めない。このように2つの同時進行する物語のそれぞれの主人公2人がまず、文字、文章というものにおいて対照的な設定をされている。●大島さん 家出中の「僕」の手助けをする大島さんは、図書館勤めをしている設定だけあり、 「僕」との会話の中でも様々な本からの引用を行なうほどの読書家である。 クラシック音楽や映画など他の芸術に関する知識ももっている。●星野さん ある事件のあと、中野区を出て、四国に向かうナカタさんを助けることになる 長距離トラックの運転手である星野さんは、 高校生の頃は不良で、その後、自衛隊に入隊をした過去をもち、 そういった設定を反映するかのように、週刊誌くらいしか読まない20代の青年である。 ただ、ナカタさんを助ける目的で図書館に赴き、 そこで本を読む楽しさを知ることにもなる。●佐伯さん 「僕」がお世話になる図書館の館長である佐伯さんは、 過去に落雷に関する本を書いた過去を持ち、現在では図書館の居室にこもり、 「なにか」書き物をしている。●猫たち そして、前半部分での重要な登場人物(?)である猫たち。 彼(彼女)らはとうぜん字も読めなければ本を読むこともない。以上のように、それぞれの登場人物たちにとって、言葉は彼(彼女)たちの人生にとって、非常に重要なものであったり、そうでなかったりする。そして、それらがすべて小説の言葉で表現されている以上、「僕」が口にする「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから」という言葉をそのまま村上春樹の主張として捉えることは、大きな誤解だろう。別のシーンで、「僕」と佐伯さんが交わす言葉に以下のようなものがある。「そして私はそれには答えられないって言った。イエスでもノオでもなく」「そうです」「だから仮設は仮説としてまだ機能している」僕はぼう一度うなずく。「機能しています」佐伯さんは「僕」にある仮設を投げかけられ、それに対して「答えられない」と答えた。それは彼女が言うとおり「イエスでもノオでもない」答えだ。だが、それは「答えられない」という答えである。なにも答えなかったわけではない。彼女は「答えられない」という言葉で答えている。ここでは言葉の無力性などが問題などではない。彼女は言葉で答えているし、その答えはなにか別の問題が別にあることを示している。そもそも先に引用した箇所でも、「僕」もサダさんも言葉が一般的に説明に不向きだと言っているわけではない。2人だけが見た「そこにあるもの」について「正しく伝えることはできない」と言っているのに過ぎない。「僕」が「そこにあるもの」と言っているものこそ、ヴィトゲンシュタインの言う「語り得ぬもの」に相対するものだ。逆に言えば、語り得るものについては沈黙する必要はない。すくなくとも、語り得るものに関しては言葉という意味では沈黙を強いる問題など何もない。むしろ、語り得るものに関しては積極的に語るべきだと思う。たとえ、それが「答えられない」という言葉であるにしても、それは語るべきだ。村上春樹が前提にしているのはそういうことだと思う。<明日につづく>
2002年11月05日
閲覧総数 420