私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

2024年12月03日
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カテゴリ: 認識の歩み


慶長三年(一五九八)、
豊臣秀吉が六十二歳で病死すると、
秀吉が臨終のときに成立した
五大老と五奉行を主体とする豊臣政権も
次第に動揺しました。

五大老の筆頭である徳川家康が、
秀吉の遺令に違背し、
婚姻その他の方法で徒党を組み、
徳川勢力の拡大を図ろうとしたからです。


五奉行の一人の石田三成が中心になって、
家康の遺背を指摘し、
その横暴を咎めたが、
家康は、徐々に、
秀吉恩顧の武功派の諸大名を味方につけ、
石田に味方する大老や奉行たちに
圧力をかけました。

そのため、秀吉の死後一年もたたないうちに、
秀吉の世嗣豊臣秀頼を守る
豊臣政権は分裂しました。

もちろん、前田利家の病死も、


徳川政権の強化を策し、
反徳川派の動きに注目していた
家康にとって、絶好のチャンスとなったのは、
やはり、五大老の一人の上杉景勝が
領国の会津若松に帰り、


家康は、慶長五年(一六≡)の七月、
武功派の諸大名を率いて、会津遠征を企てました。

しかし、上杉を討つのが目的ではありません。

会津遠征の虚をついて石田三成に
大坂で挙兵させるのが、本当の目的でした。

果たして、
家康の会津遠征を見てとった石田三成は、
頃あいを計って兵を挙げ、
毛利輝元ら西国の諸大名を味方にし、
伏見城その他、徳川氏の拠点や、
三成の挙に応じない諸大名の居城を攻めました。

家康に従って会津に出陣した武功派の諸大名の
妻子を大坂城内に移し、
これを人質にしようと策したが、
この人質政策は、
細川忠輿の妻ガラシャの死によって
失敗に帰しました。

下野小山の陣営で
三成の挙兵を知った家康は、
武功派の大名を先鋒として西上させ、
自らは江戸城まで引きあげ、
両面作戦に備えたが、
やがて、武功派の大名福島正則らが、
美濃に進出し、岐阜城を抜いたのを知ると、
旗本の精鋭を率いて、
岡崎の本陣に到着しました。

三成は、毛利軍のほか、
字喜多秀家、小西行長らを主隊として
大垣城に拠ったが、
家康が大垣を素通りにして西進すると知り、
急いで関ケ原に陣し、
徳川方の軍勢を迎え撃としました。

九月十五日、関ケ原を中心に
両軍の決戟が行われたが、
毛利軍は南宮山にあって戦況を観望して動かず、
松尾山に陣した小早川秀秋は、
戦いの最中、急に石田方を裏切り、
徳川に味方したため、
石田方は惨敗し、徳川方が大勝しました。

家康は、石田・小西らを捕らえて処刑し、
毛利・上拒の諸氏を減封に処し、
徳川政権の確立に成功しました。
か、字喜
多秀家、小西行長らを主隊として大垣城に拠
ったが、家康が大垣を素通りにして西進する
と知り、急いで関ケ原に陣し、徳川方の軍勢
を迎え撃とうと策した。
 かく、九月十五日、関ケ原を中心に両軍の
決戟が行われたが、毛利軍は南宮山にあって
戦況を観望して動かず、松尾山に陣した小早
川秀秋は、戦いの最中、急に石田方を裏切り、
徳川に味方したため、石田方は惨敗し、徳川
方の大勝に帰した。家康は、石田・小西らを
捕らえて処刑し、毛利・上拒の諸氏を減封に
処し、徳川政権の確立に成功した。





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最終更新日  2024年12月03日 05時10分07秒
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