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日本は列強の帝国主義からの自衛上、やむなく日清・日露戦争を行なったのです。ロシアは露清の撤兵条約にもかかわらず満州からの撤兵を渋ります。列強環視の中、日英同盟に対して露仏同盟をもって対抗したのです。日本の戦運は予想以上によく正確な戦略的判断により、陸の奉天大会戦、海の日本海海戦の勝利によって日露の戦は終りました。日露戦争の真の意義は唯単に日本が勝利したことにあるのではありません。日本史的に言えば、この戦によって日本は独立国家としてのゆるぎない地歩を世界に認めさせた。アジア史的に言えば、欧米支配下にあったアジアの被圧迫民族に独立解放への自信と勇気を与えたのです。更に世界史的に言えば、近代に於て有色人種が白色人種に自己主張を行い、見事にこれを貫徹した最初のケースであった。人類史的に言えば、人種の色による差別撤廃への第一歩でした。この歴史的な大きなうねりは、日本の若者の鮮血によってあがなわれたのです。露満国境を画する黒竜江の線に於て、支那が断乎ロシヤの南下を拒否しませんでした。鴨線江の線に於て朝鮮民族がロシヤの南下拒否に決然身を挺することもありません。残念ながら彼等は一歩も動かなかった。流されたのは日本の若者の血であり、日本の若者の死を決した営為は歴史を動かす大きなうねりとなったのです。
2026年04月24日
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北清事変における北京の籠城戦での芝中佐の防御計画、戦闘指導によって南城壁、イギリス公使館、ドイツ公使館は危急を救われ全籠城軍の最も頼りとする守りの主柱でした。柴五郎は日本だけでなくイギリス、ロシア、フランス、オーストリア、ドイツ、イタリア、ベルギー、スペインなど多くの国の政府から勲章の授与があいつぎました。これを機会に、駐日公使のマグドナルドは日英同盟の原案を示しました。
2026年04月22日
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一九〇九年四月、米国は英独仏による湖広鉄道借款計画を知りました。タフト政権はこれを重視し英国と清国に計画への参画を要求しましたが、一九〇九年六月英国がこれを拒否し、清国も無視しました。日本もこの計画に関心を強めました。北清事変後にロシアの南下に直面した日本は、日露共商か日英同盟かのいずれかを選ばねばなりません。孤立を誇った英国もロシアの南下を防ぐのに日本と結ぶ必要に駆られて日本と同盟を結ぶに至ります。同盟締結には北清事変における柴中佐の活躍も大きな影響を与えました。
2026年04月21日
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北清事変の危機にあたって北京にあった各国外交団は、義和団の包囲の危機に対し連合軍を組織し、日本もこれに出兵し北京を陥れました。清国は翌年、議定書を結び1・責任者の処罰、2・賠償金の支払い、3・各国公使館への守備兵の常置、4・通商航海条約の改訂を約束しました。これにより支那の植民地化は決定的になりました。
2026年04月20日
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五月末になると、形勢いよいよ急迫したので、列国は天津に停泊中の軍艦から、居留民保護のためそれぞれ水兵を北京に送りました。その数は各国合わせて士官・水兵四百数十名です。六月に入ると北京・天津間の鉄道が破壊され、北京の外国人は包囲のなかに孤立した。日英露独などの連合海兵二千は、英国司令官シーモアを指揮官として太沽を発し、北京救援に向かったが、義和団は銃弾の雨の中をものともせず、弾があたっても死なないと信じて猛進し、大胆な突撃をおこなって陸戦隊を立往生させました。この間に天津居留民も義和団の包囲にあいました。北京でも各国の護衛兵と義和団との衝突が見られるようになるが、清国官兵はこれを傍観しているだけでした。ところが六月中旬、業をにやした外国軍艦が天津の清国砲台を砲撃し、日本兵が先頭にたってこれを占髄すると、清朝の態度は急速に硬化しました。義和団を積極的に利用し、国民を鼓舞し、国を挙げて侵略諸外国と戦う決意を固め、突然、開戦の詔を発したのです。
2026年04月10日
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義和団がいよいよ北京に迫った五月の末、北京公使団は大括沖合に停泊中の各国艦隊に救援軍の派遣を求めました。五月三十一日、各国艦隊は第一回援軍約四百名を北京に送りこんだ。続いて、第二回増援軍二千五十五名を、英国極東艦隊司令長官E・シーモア中将の指揮下に編成し、六月十一日、天津から列車で北京に向けて出発させることにしました。その報告に接した各国公使館は、増援軍は途中、鉄道破壊の個所だけは歩いてくるのだろうとの見込みをつけ、十一日早朝、北京城外の馬家舗駅に出迎えを出しました。しかし、四時間待っても着かなかったので、一同は諦めて引き揚げました。日本からは軍艦・笠置の陸戦兵が四百名乗る予定になっていました。この日の午後三時、西は再び杉山を迎えに出したが、他の公使館は二度目の迎えはもう出さなかった。杉山は清国人のお伴を一人つれて馬車で出かけ、途中、永定門を出たところで、百名くらいの清国騎馬兵がたむろしているのに出会った。不運な出会いでした。通り過ぎて行く杉山を馬で追いかけてきた清国兵数名が彼を馬車から引きずり下し、引き立てていって斬り殺したのです。
2026年04月09日
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一九〇〇年北京の空気は異様に熟していた。山東省の一画で蜂起した義和団が、北京に刻々と迫っていたからです。六月十一日(月)モリソンは北京外人クラブにいた。ロシア公使館のクルペンスキーが興奮して入って来て……「日本人が殺された」といった……急いで外にとび出した私は、ジャン・ルノードにぶつかった。ルノードは「外国人が一人、永定門で首を半分切り落されて倒れている」といった。モリソンはアメリ公使館に急いだ。そこへ杉山に同行した馬丁が、息を切らせて駆けこんできた。西門から命からがら逃げ戻ってきたという。永定門は閉ざされたとのこと。このニュースは楢原(陳政二等書記官)が確認した。殺されたのは杉山彬。四十歳の日本公使館員で、通訳をするため使いに出されていたのだ。私は今朝、彼が出て行くところを見た。山高帽に燕尾服というまるでパリを訪問する時のようないでたちだったので、からかってやったことが頭をかすめる。日本の公使(西徳二郎)は遺体収容をしなかった。先ほどの報告によると、遺体は切断され、心臓はえぐり出されて董福祥のもとに送られたとのこと。私の清国人ボーイは「死体が半分むき出しになっていて、子供たちが棒でつついているのを見た」といった。
2026年04月08日
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アメリカは立ちおくれてではあったが、一八九九(明治三二)年太平洋の拠点となるハワイを合併し、翌年九月には国務長官ジョン=ヘイが清国の領土保全・門戸開放・機会均等主義の名のもとに門戸開放主義を各国に宣言してアメリカ独自の立場をたてた。かくて三国干渉の後わずか三年足らずの問に清国の要所は事実上列強に分割されてしまったのである。この列強の侵略に対して清国の民族的な反抗が急激に高まって、同年山東省の一角に起った義和拳(義和団)の暴発は「扶持城洋」のスローガンのもとに熱狂的な排外運動を起して、翌年春には直隷から天津・北京附近に迫り、ついに北清事変の勃発となったのです。
2026年04月07日
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すでにイギリスは幕末以来清国の一角に根拠地を獲得し、またロシアは北方から南下しつつあった。日清戦争後の三国干渉を契機に列強の清国分割に対する活動は熾烈化して、ロシアは一八九六(明治二九)年日本と議定書を交わしながら(この年山縣有朋がロシアにおもむいてロシア外相ロバノフと朝鮮問題について協商を遂げた)、一方、清国に迫って霹清密約を結んで、東シ鉄道の南満支線敷設権を得たが、これは要するに日本に対する攻守同盟であった。ついで日本に代って旅順-大連を租借している。ドイツは、膠州湾の租借権その他を、フランスは広州湾の租借権その他を、またイギリスはロシアの南下を防ぐ名目で威海衛・九竜の租借権を得ました。
2026年04月06日
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桂内閣の出現は藩閥政府の更生であった(明治三四年六月成立)。しかしその翌年には、日英同盟を締結して外交上の功績をたて、議会対策には、政友会と妥協を策して海軍拡張のために第二次山縣内閣の五カ年期限付の地租増徴の延期をはかった。これは桂内閣の死命を制する問題であったが、はたして伊藤は大隈と共同戦線を張って政友・憲政本党両党が反対の旗色を明らかにしたので、政府は窮地におちいり、桂は解散を行ったが、結局伊藤との妥協がなって、地租増徴継続案を撤回して、海軍拡張の財源は行政整理と公債政策にもとめることに変更し、かろうじて議会を切りぬけた。しかし桂は、伊藤が元老と党首の両刀を用いたことに苦しんでついに辞表を提出し、そのあげく伊藤は政友会総裁を西園寺公望にゆずって枢密院議長となった。政友会はこの更迭によって陣容を改めたが、各政党も多年の政争に疲労していたところに日露戦争が勃発して、一時政治的休戦の時期に入った。
2026年04月03日
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多くの支那人の目には、外国に対して利権を譲渡する政府の行為は国益を裏切るものとうつった。こうして満州王朝清の転覆と、純粋に支那人からなる愛国的な政府の樹立をめざした秘密結社が、ことに学生やその他の青年グループのあいだで急速に拡がりはじめた。一八九八年に皇帝が短期間ながら試みた急進的な改革が、みずからの特権的地位を失うことを恐れた満人廷臣らの妨害によって失敗におわったとき、この革命的なナショナリズムの理念は新たなはずみをつけた。支那という国の無力さに対して、もうひとつ別の形での激しい対応が生まれた。それは極端に排外主義的な半秘密結社義和団による暴動という形をとった。そのメンバーは西側の人々から「ボクサー」と呼ばれたが、理由は彼らが拳法を修得し、それを武器にしていたからであった。義和団が宣教師をはじめとする憎むべき外国人たちをつぎつぎと襲撃するに及んで、西欧列強諸国は連合軍を組織して北京を占領し(一九〇〇年)、くわえられた損害に対する賠償金の支払いを支那側に認めさせました。
2026年04月02日
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一八九六年以降、朝鮮はロシアと日本の出先機関のあいだの争点となり、ともに帝国主義的進出をめざしていたこの二国は激しく対立して、一九〇四年には戦争が勃発しました。ここでも日本がロシアを巧みに打ち破ったことは、世界中を驚かせました。講和条約が締結され、朝鮮に対する日本の独占的優越権が認められました。朝鮮の民族主義的運動がさかんになると、日本はその鎮圧を口実にして最後の朝鮮王を廃位し、朝鮮半島を併合しました(一九一〇年)。日本がわずか一世代のあいだに、支那やロシアの軍事力とは段ちがいな陸海軍を装備できたという事実をみせつけられて、いかに保守的な清朝の役人といえども激しいショックを受けました。しかし、国の弱さに取り組もうとする努力も、効果をあげることはできなかった。その理由のひとつは、競い合うヨーロッパ列強諸国と日本の出先機関が支那政府に群がり、特別利権の譲渡をはじめとするさまざまな利益を要求しはじめたからでした。
2026年03月31日
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西欧列強によって味わわされた屈辱よりも、この清国の誇りを大きく傷つけたのは、朝鮮で日本軍に敗れたこと(一八九四-九五年)でした。支那にとって属国のひとつであった朝鮮は、地理的に支那の首都に近いため、とくに重要な地域とみなされていました。だが一八七〇年代に日本が朝鮮に関心を抱きはじめ、ついには日本の傀儡政権を成立させたため、これに支那が介入しょうとして、結局は日本軍によって壊滅的敗北をこうむりました。勝った日本の陸海軍にしても、最新の西欧の兵器や軍隊組織に適応する時間的余裕があまりなかったのは、支那と同じでした。平和条約によって、支那は朝鮮からの完全撤退を余儀なくされ、台湾のほか、支那沿岸沖のいくつかの島を日本に割譲することになりました。さらに日本は支那本土にも領土(遼東半島)を確保したほか、賠償金も手に入れました。こうして日本は、ヨーロッパの帝国主義列強とならんで支那を苦しめる立場に立ったが、それとともに太平洋地域で独自の帝国主義的進出をはじめました。
2026年03月30日
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日露戦争は「それまで二百年の長きにわたってアジア・アフリカを統治してきた西洋人は、無敵で神のような存在と信じられてきたが、実際はそうではないことを日本人は全人類の面前で証明してしまった」とトインビーに言わせました。それはまさに歴史的業績でした。大東亜戦争後、日本経済は驚異的な成長を遂げ先進国としての地位を獲得しました。日本の近代化は終焉を迎え、貧しさによる悲しみは少なくなりました。反面、国民が一丸となって一つの目標に向かうというイデオロギー信奉の楽しみも去りました。不幸の質が変わりました。貧しさによる悲しみの代わりに豊かさによる楽しさを得た半面、国民的な国家目標の実現という楽しさを失い、目標の喪失という寂しさに変わったのです。先進国の悲哀を味わっているのです。成熟社会では従来の「国家権力対反権力」という単純な図式は成り立ちません。かわりの「パン(利益)とサーカス(楽しみ)」を先進国の人々は求めています。
2026年03月27日
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この時代の発端は、帝国主義のイギリスとロシアの戦いで、戦争の時代だったのです。イギリスが支那にアヘン戦争をしかけ、香港を植民地にしました。それ以後、イギリスは北に向かってアジアでの侵攻を進めたのです。一方、ロシアは南に不凍港を求めて侵略しようとしていたのです。一八九一年、シベリア鉄道建設に着手したのも、その一環であったといえます。接している国は中国ばかりでなく、朝鮮や日本だったのです。それに対抗するため、明治二十七(一八九四)年、日英通商条約を結んだのです。支那の支配力が強かった朝鮮は、しばしば日本と対立し、場合によっては日本が危うい立場にならないとも限りませんでした。朝鮮にも親支那と親日本の勢力があり、お互いに争っていました。それが一八八一年と八四年に朝鮮で起きた事変で、清が支配権を強め、日本を脅かす存在となりました。朝鮮王朝は一八九四年に南部で農民が戦争(甲午農民戦争、東学党の乱)を起こしたときに、その鎮圧のために清に出兵を求めました。日本はそれを危険と判断して、朝鮮に出兵し、日清戦争がはじまったのです。
2026年03月24日
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遼束半島は三国干渉で支那にかえされたが、朝鮮は独立国となり、支那はもはや宗主権を主張できなくなりました。「眠れる獅子」の威力を秘めているかにみえた支那もとくに日清戦争でその弱体をさらけ出した。列強はこれまで支那を商品市場・原料供給地としてみてきたが、いまや資本投下地として注目し、鉄道鉱山などの利権獲得に狂奔した。さらにあらそって支那沿岸の要衝に軍事的経済的基地を租借して自国の勢力範囲ときめた。アメリカは一八九九年支那の領土保全・門戸開放・機会均等の原則を列強に提議し、アメリカなりに列強の独占を打披して支那進出の途を見い出そうとしていました。
2026年03月23日
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この大反乱の指導者太平天国の天王、洪秀全(こうしゆうぜん)は南京城内で自殺し、西欧諸国は支那周辺を蚕食(さんしょく)します。まずロシアは一八五八年塁里江以北の地を、六〇年ウスリー江以東の地を奪いました。ついで中央アジアに進出し、ポハラ(六八年)、ヒヴァ(七三年)コーカンド(七六年)の三国をあわせました。イギリスは八六年にビルマをあわせてインドの一州にしました。これらの地はもと支那の属領または朝貢国だったところですが支那はあまり意に介しませんでした。ところが安南や朝鮮となると話は別です。ここはずっと忠実な朝寅国であったし、より重要な国防上の要衝です。だからフランスや日本がこれをとろうとすると、支那も黙っていません。清仏戦争(一八八四~五年)日清戦争(一八九四~五年)がおこりました。清仏戦争の結果、安南はフランスの植民地となりました。日清戦争の結果、台湾・澎湖島・遼東半島は日本に割譲しました。
2026年03月19日
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清朝による支那支配は、康熙・乾隆の絢爛豪華を誇った盛時をさかいに急速におとろえました。一九世紀をつうじて、内憂外患こもごもいたり、中華の誇りもその実をともなわなくなりました。アヘン戦争・アロー号事件・太平天国の乱がそれです。アヘン戦争に勝ったイギリスは南京条約をむすんで(一八四二年)、香港を獲得し、広州・上海などの五港を開かせました。またアロー号事件で遠征軍を送ったイギリスとフランスはロシアの調停で北京条約をむすび(一八六〇年)、対等の国交と貿易の自由を確認させるとともに、公使の北京駐在、開港場の増加、キリスト教布教の自由を承認させ、イギリスは別に香港対岸の九竜を割譲させました。アヘン戦争による多額の出費と賠償は銀価の高騰となって支那の一般人民を苦しめ、さらに当時あいついでおこった天災によって民衆はいっそう窮乏しました。その結果流民、匪賊となるものがふえ、地方の治安は乱れたが、こうした状態はやがて太平天国の乱となって爆発しました。太平天国の乱は事をおこして三年、ようやく一八六四年に終わったのです。
2026年03月18日
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「(貴国は)国内の安寧を維持する兵備に欠乏せる所ありて其勢、此に至るものと判定せざるを得ず。我帝国は貴国と一衣帯水(いちいたいすい)を隔てて相隣接し、随って政治及貿易上の関係浅からざれば、貴国に於ける変乱はわが帝国の利益に影響する」「貴国に勧めて独立国に適当なる政治を確立せしめんと欲す。依て茲(ここ)に本公使に訓令して改革方案五条を提出せしむ」日本が朝鮮に提示したのは次の五条です。すべて朝鮮が独立国の体面を保持するために必要な改革を示したもので、それぞれの提案に加えて具体的な取り組みの方策についても書かれていました。一、中央政府の制度並びに地方制度を改正し、 並びに優れた人材を採用すること二、財政を整理し富源を開発すること三、法律を整頓し、裁判法を改正すること四、国内の民乱を鎮定し安寧を保持するに 必要なる兵備を設けること五、教育の制度を確立すること大鳥は日本政府のこの考え方を国王に伝えるように要請しました。
2026年03月17日
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イギリスは他の欧米四ヵ国に、あるメッセージを伝えていました。ロシア、フランス、ドイツ、アメリカに対して、日本の撤兵を条件とせずに、日本との協議に応ずるよう清国に共同で促したい、と伝えていたのです。このことは、英国外務大臣が青木駐英公使に内密で漏らし、この情報は青木から陸奥外務大臣に伝えられました(七月十二日ロンドン発公電)。この提案は欧米各国に、イギリスが日本の行動に理解を見せていると気づかせるには十分な効果がありました。フランス駐清公使は、精兵七千五百が平壌(ピョンヤン)に派遣される可能性があること、日清の衝突は好ましくはないと考えているが、フランスの朝鮮における関心事はただ一つ、宣教師の安全である、と小村に伝えました。一八六六年のフランス人宣教師虐殺の記憶はフランス外交官にとっては生々しいものでした。要するにフランスは、日清開戦となったら、同国宣教師の安全だけは確保してほしい、と日本に伝えたのです。漢城では大鳥公使が朝鮮政府に日本政府の内政改革案を提示していました(七月三日)。
2026年03月16日
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日本はこの干渉には慎重に反駁しました。ロシアの軍事介入の有無の判断が難しかったのです。しかし七月十日には、西徳二郎(とくじろう)駐露公使が、ロシアの武力干渉はないだろうと伝えてきました。イギリスも周旋に入りました。ラルフ・ページェント駐日代理公使から日清同時撤兵と両国共同による朝鮮内政改革案が提示されました。しかし清国は、日本との協議は日本の撤兵が前提だとの考えを小村寿太郎駐清公使に告げた(七月九日)。この日、米国国務長官からも和平勧告があったが、両国への回答はロシアへのものと同じでした。
2026年03月13日
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「朝鮮政府は同国の内乱は鎮定したことを、同国駐箚(ちゅうさつ)の各国公使に公然と告げた。また、清国兵幷(ならび)に日本兵を撤回させることに付き、各国使臣等の援助を要請した。よって本官の君主である皇帝陛下の政府は本官に命じ、日本帝国政府に向って朝鮮の請求を容れられんことを勧告し、且つ、日本が清国政府と同時に在朝鮮の兵を撤回することに付き、異議あることを申し立てられるに於ては、重大なる責任が生じることを忠告するものである」
2026年03月12日
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日本軍の退去を要請する朝鮮政府に対し、大鳥は次のように日本の意向を伝えました。「(東学党の反乱は静まったとはいえ)内に内政が衰えて到底独立統治する実力がない。常に朋党が軋轢(あつれき)し、暴動が相次いで起こりほとんど安まる時がない。だからこの際大いに批政(ひせい:実の詰まっていない穀物のごとき中身のない政治)を改めて独立の基礎を固め、以って将来変乱が起こらないようにしなければならない」朝鮮の内政改革を要求する日本に対し、朝鮮政府はひたすら撤兵要求を繰り返すばかりです。案の定、日本政府が予期したように、ロシアとイギリスからの干渉工作があった。ロシア駐日公使ミハイル・ヒトロヴオが日清同時撤兵を要求する文書を提示した(六月三十日)。
2026年03月11日
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日本政府は過去二回の経験から、陸戦隊だけでは大鳥の安全を守れないことはわかっていました。新編成の混成旅団(旅団長大島義昌少将)は借り上げた汽船を利用して続々と仁川に入りました。旅団本部は漢城と仁川の中間点に置かれた。海軍も伊東祐亨(すけゆき)中将を司令官とし、筑紫、赤城、鳥海(ちょうかい)など九艦を仁川に集結させました。この艦隊は清国が牙山に派遣済みの清兵を仁川に移動させることを阻む任務も持っていたのです。一八八四年の甲申事変で、竹添(たけぞえ)公使一行を危険に晒し、日本公使館を襲ったのは清国の駐留軍で、同じ轍(てつ)を踏んではならなかった。
2026年03月10日
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戦前の史書が、「僅か十日に足らぬ日数を以って、斯(か)くも迅速に、斯くも堂々と、陸海の兵がぴたぴたと部署に就いた行動を見て、清韓両国は意外の目を瞠(みは)り、鉾(ほこ)を交えずして既に士気を呑まれて戦慄した」と書いていますが、あながち誇張ではありません。大鳥公使は、漢城入京の報告書(陸奥宗光外務大臣宛、六月十一日付)の中で、「朝鮮政府は本官の帯兵進京を聞いて大いに恐懼(きようく)し、ひたすらこれを防止せんことに力を極めた」と書いた。大鳥の、護衛兵を帯同しての入京は、甲申事変後に締結された済物浦条約第五款(条)に認められた公使館警護の兵であったから、朝鮮王朝はもとより他国にも干渉の口実を与えるものではありません。
2026年03月09日
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「(大鳥は)密命を受けて翌六月五日出発します。発するに臨んで血痕班々たる腹帯を纏いました。之実は圭介が維新の変、幕軍に将として官兵と闘い、東西に転戦して終に箱館五稜郭に降を請う時まで、身を放さざりしものです。今や韓山の風雲急なるに際し、之を纏い赴任するは心大に決するのところあればなり」大鳥一行は、九日午後三時に仁川(インチヨン)に到着しました。そこには赤城(あかぎ)、大和(やまと:初代)、筑紫(ちくし)の三艦が待っていました。これに松島(まつしま)、千代田(ちよだ)が合流した。大鳥を護衛する陸戦隊四百二十人が組織されたのは、この夜のことです。翌朝午前五時、大鳥は陸戦隊を率いて漢城に向かった。
2026年03月06日
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東学党の乱が起こった頃、大鳥は休暇で大磯にいました。明治政府は一八九四年六月二日に第六回議会解散の奏講をし、同時に済物浦(さいもっぽ)条約第三款に基づく朝鮮出兵も天皇に奏講しました。裁可を受けて、八千強の混成一個旅団の編成が決まります。急ぎ陸戦隊を率いて漢城(かんじよう)に向かうよう命令された大鳥は軍艦八重山(やえやま)で朝鮮に向かいます(六月五日)。陸戦隊の護衛があったとしても、漢城での交渉(内政改革要求)が危険であることは大鳥にはわかっていた。朝鮮事変(一八八二年)でも、甲申事変(一八八四年)でも公使館が襲われ、二人の公使は無事だったとはいえ、危機一髪でした。今回の交渉も難しいものになることは大鳥にもわかっており覚悟ができていました。五稜郭の戦いで身に着けていた腹帯を纏(まと)って朝鮮に向かったのです。
2026年03月05日
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1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章とのあいだで下関条約を締結しました(条約5月8日発行)。その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、③賠償金2億両(テール)を日本に支払い、④新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くことなどで日本側に有利な条約を結ぶことができました。ただし、ここでもインテリジェンス戦が貢献しました。交渉は下関で行われたため、李鴻章は暗号通信により、本国の意向を確かめながら条約交渉を行わなければならず、日本はこの暗号通信を完全に傍受して交渉に臨んだのです。たとえば、わが国は賠償金は当初3億両を要求していたが、清国から李鴻章のもとに1億両ならば交渉に応じても良いとの連絡が届いていることを承知し、2億両というぎりぎりの駆け引きに出た。また、日本の提示した講和条件の一部が清国から都合のよいように全世界に伝えられる状況を事前に探知した日本は、清国の機先を制して、自ら英・米・仏・露・独・伊に対して講和条件の全文を通告した。これにより、イギリスの支持を得ることになり、交渉を有利に進めることができたのです。
2026年03月04日
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日清戦争のさなか、インテリジェンスのもう一つの局面としての条約改正への取り組みも無視できません。この最大の立役者が陸奥宗光です。明治政府にとって、江戸幕府が結んだ不平等条約、特に関税自主権なしと領事裁判権なしの撤廃は重大な課題です。条約改正交渉は紆余曲折を経たが、最大の難関であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東アジア進出を図るロシアを警戒して日本に対して好意的になっていました。陸奥は日清戦争の前年、ついに領事裁判権なしと、関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功しまし。この背後には陸奥の戦局眼と脅しともいえる外交交渉が功を奏したのです。陸奥は、「日本は清国と戦争するにあたって文明国として国際法を守り、イギリス人の生命・財産を守るつもりでいる。だから条約を改正してほしい。もし日本が文明国でないというならば、日本は文明国が定めている国際法を守る義務はない」と発言した。当時、イギリスは多くの英国人を清国に租界させていたので陸奥の理論的で、しかも脅しもいえる交渉をイギリスは飲まないわけにはいかなかったのです。
2026年03月03日
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1894年8月、日本が清国に宣戦し日清戦争が勃発し戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移った。戦局は、軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。日本軍は清国軍を朝鮮半島から駆逐し、遼東半島を占領し、清国の北洋艦隊を黄海海戦で撃破し、根拠地の威海衛を占領とした。かくして、わずか9か月で日本が戦争に勝利した。こうした大勝利の陰で、軍民一体の情報活動が陸軍の作戦活動を支えていた。ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取引などを通じて大陸深くに情報基盤を展開した。これに応じる荒尾精、根津一らの参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った。また、ドイツ式の近代化した陸軍を創設した川上操六の貢献も大であった。日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は参謀本部を改編し、国外に派遣されている公使館附武官を参謀本部の所管とした。公使館附武官は情報網の先端になったのです。また1893年、川上は田村怡与造(中佐)及び情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)を帯同して清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国しました。このように、作戦とインテリジェンスが調和され、わが国は勝つべくして勝ったのです。
2026年03月02日
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その九月一五日が平壌総攻撃の日でした。包囲に気づいた清国軍は戦意がなく、その日のうちに白旗をかかげたので日本軍は翌一六日、やすやすと入城、占領します。その翌日、九月一七日、黄海海戟が行われました。日本の連合艦隊が清国の誇る北洋艦隊に正面から戦をいどみ、艦を撃沈し、定遠、鎮遠などの精鋭艦にも大損害を与えました。平壌占領と黄海海戟で、日本有利の体制ができあがると、これ以後戟争は、朝鮮を離れて清国領に入っていきます。第一軍は一〇月下旬に鴨緑江を越え、同じころ、新たに編成された大山巌大将の第二軍は、遼東半島の花園口に上陸し、一一月六日には金州を、一日には旅順口を占領しました。はじめての本格的な対外戦争とうち続く勝利に、国民は狂喜した。「シナ」が軽蔑の意味をこめて使われるようになるのはこのときに始まります。
2026年02月27日
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実際の戟争は、海の方で一足先に始まりました。七月二五日の朝、仁川に向かう日本軍艦と清国増援兵輸送の護衛に向う清国軍艦とが豊島沖で遭遇し、砲撃を交したからです。それに続いて七月二九日、陸軍が成歓を占領、続いて三〇日に牙山を占領しました。八月一日の宣戦布告のあとは、陸軍の戦線は北へ向います。清国が一万余の増援兵を北から送りこみ、平壌を占拠して保塁を築いたので、日本は山県有朋を司令官とする第一軍を編成し、平壌をめざして進撃させました。そのかたわら、九月八日には、大本営を広島に移すことを決定し、九月一五日には、天皇も広島に到着します。
2026年02月26日
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1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵しました。わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵しました。東学党の乱を鎮圧するため清国軍隊の派遣を要請した朝鮮政府は、一〇年前の日清間の天津条約のことまでは思いが及ばなかったのです。日本の派兵を聞いてびっくりし、清国軍に注文をつけて日本軍を牽制しました。開戟を強く望んでいた日本は、朝鮮政府に次々に難題をふっかけました。なにしろ六月五日、戟争のための大本営を設けてしまっているのです。本国からの強い指示で、出先機関と軍隊は、とうとう七月二三日、王宮を占領、大院君を引っばりだして親日政権をつくります。その政権に清国軍撤退命令を出させ、それを口実に清国軍との戦争を始めようという作戟です。大院君は、七月二五日、清との宗属関係破棄を宣言し、牙山の清国軍を撤退させるよう日本の大鳥公使に依頼しました。これで戦争の口実はできました。
2026年02月24日
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現在の戦略を考えた場合に、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はありません。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきなのです。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れません。我々は心の中で、東アジアの悪友を謝絶すべきす。
2026年02月23日
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例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されてしまうのです。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものです。その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきです。
2026年02月20日
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支那・朝鮮の二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・朝鮮の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那・朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の朝鮮で、わが日本を判断するということもありえます。
2026年02月17日
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日本の国土はアジアの東端に位置しますが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っています。しかし不幸なのは、支那、朝鮮という隣国があることです。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異なりません。だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本と異なり支那・韓国はよほど似ています。この二国は、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知りません。交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、その見聞は心を動かすことにならず、古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじです。現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、真理や原則をわきまえません。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念を持ちません。
2026年02月16日
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近代西洋文明が日本に入ったのは、嘉永の開国が発端です。国民はそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府がありました。幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができません。なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからです。だからといって、文明をふせいでその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できません。世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからです。ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てました。政府も民間も区別なく、国中が万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではありません。アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜にあります。
2026年02月13日
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世界中の現状を観察し、文明の東漸への抵抗が不可能なことを知る者は、世の移りにあわせ、共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのです。文明とは全く、麻疹はしかの流行のようなものです。目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようです。この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、その手段はありません。有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できません。いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらです。これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませるのが知識人の課題です。
2026年02月12日
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1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、清国・朝鮮に対しては武力をもって対処すべきこと、を主張しました。これにより日本と清国との間は次第に緊張が高まることになりました。世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためです。ゆえに最近、東洋に国がある民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよいと思えます。
2026年02月06日
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冷戦終焉後のこのような周辺諸国の日本に対する敵対的な行動を眺めて、日本は国家概念覚醒の時代に入るかと思いきや、事態は逆の方向に進んでいます。「ポストモダニズム」という蒙昧なる思想が日本の知識人の頑に棲み着いてしまったのです。現代はヒト、モノ、カネ、情報、技術が国境なきがごとくに行き交うグローバリゼーションの時代です。旧来の国民国家という空間(領土)も国民国家が紡いできた時間(歴史)もその意味を失いつつあり、つまりは空間的、時間的な「境界」概念が希薄化してきました。問題は、ポストモダニストがこの事実を「善きもの」と捉え、覇権国家体制や国民国家体系の「無効化」が新しいアイデンティティの確立にとって不可欠だと考えていることにあります。
2026年02月05日
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完全な平和を維持できた理由の一部は偶然ですが、理由の大半は日本が日米同盟の一方的な受益者であったことです。六〇年余の平和の中で日本は再び国家概念を希薄化させました。皮肉なことに、冷戦終焉は日本を「敵対国」とする周辺諸国の攻勢をにわかに活発化させました。中国の「歴史認識問題」による対日糾弾、潜水艦の領海侵犯、日中中間線近傍のガス田開発での挑戦的行動は誰の目にも明らかです。中国は空前の軍事力増強の真っ直中にあり、日本国内の米軍基地や大都市を標的とする弾道ミサイルはすでに数十基に及び、空母の南シナ海配備もされました。韓国における「親日・反民族行為真相糾明特別法」の成立と施行、竹島問題をめぐる対日非難、その一方での北朝鮮融和姿勢はいかにも異様です。この状況の中で韓国では半島有事の際の軍事指揮権が米軍から韓国軍に移管されました。米韓同盟の脆弱化です。北朝鮮のミサイル連続発射実験、核実験の敢行。現在の極東アジア地政学は開国維新から日清・日露戦争開戦前夜の明治のあの頃に「先祖返り」したかと思わせるほどに酷似してきました。
2026年02月04日
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日本は巨大なユーラシア大陸の東端に位置し、波高い対馬海流に守られ、古来、中華帝国、ロシア帝国の侵略を受けることの少ない「海洋の共同体」でした。日本において国家概念が希薄なのは、孤立した島国の中で長らく平和を維持してきたという、はるか遠い昔から刷り込まれてきた民族遺伝子のなせるわざです。日本が国家たりえたのは古代律令国家と明治国家の二つだけでした。律令国家は唐・新羅連合軍との本土決戦を想定して建設され、明治国家は日清・日露戦争にいたる緊迫の極東アジア地政学の中から生まれました。開国維新の時代に淵源をもつ国家の観念は第二次世界大戦の敗戦にいたるまで持続しました。第二次大戦の後、日米同盟が結ばれました。自衛隊という大兵力を擁しながら海外への軍事出動はなく、日本の兵士を一人たりとも失わず、外国の兵士を一人たりとも殺害することのなかったほどの完全な平和を六〇年余にわたり享受しえた国が日本以外のどこかにあったでしょう。
2026年02月03日
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新警察制度創設の中心人物の川路利良は、明治五年九月、欧州に旅行して各国の警察制度を調査し、六年九月、帰国して意見書を政府にだしたが、その冒頭にいわく「夫レ警察ハ国家平常ノ治療ナリ、人ノ養生ニ於ケルガ如シ。是ヲ以テ能ク良民ヲ保護シ内国ノ気力ヲ養ウ者ナリ。故ニ古ヨリ帝権ヲ盛ンニシ版図ヲ広メント欲スルモノハ、必ズ先ズココニ注意セリ。一世『ナポレオン』是ナリ。方今『プロイセン』ノ四方ヲ切り従ユ威武ヲ世界ニ蹄カセシモ、警察ヲ以テ能ク内外ヲ治メ、常ニヨク外国ノ事情ヲ探レリ。故ニ『フランス』ノ我国モ終ニ破ラレタリ。然レバ国ヲ強クシ海外二接スル必ズ先ズ此ノ設ケナカルべカラズ」と。かれは欧州各国の例にならい、司法と行政の両種を分かち、内務省を設け、内務卿が全国の行政警察の長となり、首都の警察は内務省直轄とし、各府県の警察は府県長官の指揮下に置き、司法警察は司法卿が全国の長となり、その指揮のもとに各裁判所の検事が管内の司法警察権を行なうようにすべきであるとしました。
2026年02月02日
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警察制度は、明治五年、司法省に警保寮がもうけられ、中央集権の全国画一の警察制度の第一歩がふみだされていましたが、当時はなお司法警察が主でした。その警保寮が新設の内務省に移管されるとともに、警察は犯人の逮捕など司法警察にとどまらず、政府に反対する人民の動きを日常不断に探偵することから、産業奨励、各人衛生にかんする注意にいたるまで、国民生活のすみずみまで介入する行政警察も行ない、かつそれを重点とするようになりました。
2026年01月28日
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大久保は新設の内務省の充実を急ぎました。明治七年(一八七四)一月十日公布した職制によれば、「内務省ハ国内ノ安寧、人民保障ノ事務ヲ管理スル所」とし、課を勧業寮・警保寮(以上一等寮)・戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理寮(以上二等寮)および測量司(八月三十日廃止)の六寮一司に分かち、内務卿は、「全国人民ノ安寧ヲ謀り、戸籍人口ノ調査、人民ノ産業ノ勧奨、地方ノ警備、其他土木・地理・駅遮.測量等」所管の事務について大臣の拒示のもとに専決する権利をもち、「而シテ其事務ヲ調理スルニ於テハ、天皇陛下二対シテ担保ノ責二任ズ」と、諸省卿よりは格段に重い天皇への直接の責任を規定し、諸省卿よりも一段高い権威を与え、「特旨解赦恩典ノコト」も、内務卿が勅旨を奉じて行なうこととしました。内務省の二大任務は、全国の警察権を一手に掌握することと、大久保が欧米を巡回してその必要を痛感した殖産興業、つまり資本主義産業を急速に育成することでした。
2026年01月27日
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国内では、それまでしばしば対立・抗争を続けていた政府と政党が一致協力の態勢をとり、議会では巨額の軍事予算も満場一致で可決されるなど、清国との戦争を遂行するため挙国一致の動きが進められました。日本側が明治維新以来、強い対外危機意識のもとで国内の改革を進めて立憲政治を実現し、国をあげて十分な準備を整え、よく訓練され近代的に組織化された軍隊をもっていたのに対し、清国側は国内の改革に立ち遅れ、西太后(せいたいごう)派(后党)と光緒帝(こうしょてい)派(帝党)問の政治的対立も激しく、専制政治のもとで国力を十分に発揮できません。そのため戦争は日本の優勢のうちに進められ、日本海軍は黄海海戦で清国艦隊を撃破し、陸軍は清国軍を朝鮮から一掃し、さらに遼東(りょうとう)半島・山東(さんとう)半島の一部などをも制圧しました。こうして、約2億円余りの戦費と約10万人の兵力を動員した戦争は、約8カ月で日本の勝利に終わりました。戦争における日本軍の死者は約1万7000人で、その約7割が戦病死です。
2026年01月26日
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1894(明治27)年5月、朝鮮で民族主義的な東学(とうがく)を中心に、減税と排日を要求する大規模な農民の反抗がおこりました(甲午(こうご)農民戦争、東学の乱)。朝鮮政府は鎮圧のために清国に派兵を要請し、同年6月、清国は軍隊を送りました。日本もこれに対抗してただちに出兵しました。両国の出兵もあり、農民の反抗は収まったが、日本は日清両国で朝鮮の内政改革にあたることを提案した。しかし、清国政府はこれを拒否したので交渉はついに決裂しました。ちょうどそのころ、日英通商航海条約が締結され、イギリスが日本に好意的な態度を示したので、日本政府(第2次伊藤内閣、陸奥宗光外相)も開戦を決意し、7月には豊島沖(ほうとうおき)の海戦によって日清戦争が始められ、8月には正式に対清国宣戦が布告されました。
2026年01月23日
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1876年、日本は日朝修好条規により朝鮮を開国させました。以来、朝鮮国内では、親日派が台頭していった。しかし、1882年、日本への接近を進める閔氏一族に対し、大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。これに呼応して、民衆が日本公使館を包囲した(壬午事変)。これ以後、閔氏一族は日本から離れて清国に依存し始めた。これに対し、金玉均(きんぎょくきん1851~94)が率いる親日改革派(独立派)は1884年、日本公使館の援助を受けてクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した(庚申事変)。この関係で悪化した日清関係を打破するため、1885年、政府は伊藤博文を派遣し、清国全権・李鴻章(1823~1901)との間に天津条約を結んだ。これにより、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後同国に出兵する場合には、たがいに事前通告することになり、当面の両国衝突は回避されました。
2026年01月22日
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江戸時代末期に日本人はアジアにたいしてどのような考えをもち、そして明治政府は当初どのような対外政策をもっていたのでしょうか。西洋の東洋進出にたいして、支那と日本がおなじ利害でむすばれており、アジア人は協力して西洋を撃退しなければならないという考えは、幕末に根づよくあらわれていました。幕末の代表的な志士・横井小楠は「支那と日本とは唇歯(くちびると歯のように密接な関係でむすばれたあいだがらの国)である。支那の衰退を目前に見ながら、座視すべきではない」といっています(一八六○年の『国是三論』より)。いっぽう、新しい明治政府のアジア外交の最初の重要な成果は、一八七一年(明治四年)に清国とむすんだ日清修好条規です。この条約は、日清両国がおたがいに治外法権制度をみとめ、またたがいに同一の関税をもうけようという対等なものでした。日清両国はたがいにたすけあい、なかよくすべきだと明示してあり、アジアは連帯して西洋列強のアジア進出に対抗しようというものです。
2026年01月21日
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