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大航海時代の西欧の侵略に対する第三の疑問、異教徒の土地を武力占拠し、原住民を奴隷化してもよいという正当性の根拠ですが、ポルトガルのジョアン三世が一五三〇年より前の時点で、異教徒に対して戟争しうる条件について法学者に「いかなる理由で異教徒に対して正当戟争を行うことができるか」と諮問したのに、次のように答えています。①イスラーム教徒やトルコ人はキリスト教徒の国土を不当に占拠し領有しているから、彼らに対して行う戦争は正当である。②東洋各地やブラジルなどについては救世主が末信徒を改宗させ、霊魂の救済を行うように命じ、宣教師を派遣したので、彼らの言に耳を傾けなかったり彼らを迫害したりした者に対する戦争は正当である。③アメリカ大陸の原住民については布教事業を妨害も圧迫もしない人々だが、重大な罪を犯すような野蛮な悪習を守り、やめよぅともしない。こういう者の土地を占拠し、武力で彼らを服従させる戦争は正当である。これは人類が神の名において別の地域の人類を支配し、奴隷化することが許されているという独善的思想です。
2024年11月29日
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第一の疑問ですが高瀬弘一郎は『キリシタン時代の研究』という本で、従来の教会版キリシタン史を排し、ポルトガル人とスペイン人の国家意識を暴き、アジアの状況の全貌を明らかにしました。大航海時代の西欧の侵略に対する第一の疑問にも、この本で述べています。ポルトガル人やスペイン人が、日本と支那の武力征服を企てたが支那の方が征服しやすく、日本は手ごわいとみていたのです。ポルトガルは東半球のデマルカシオン(境界画定)がサラゴサ条約――モルツカ諸島の東十七度の線――に基づくことを主張しました。これによると線は日本列島の東を縦断し、日本も支那も全域がポルトガル領に入ります。しかしスペイン側はあらためてデマルカシオンはマラッカ(クアラルンプールの南)の上を通ると主張しました。これによると日本列島はもとより、支那の大半までがスペイン領ということになります。この点で両者は譲りませんでした。
2024年11月28日
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大航海時代の西欧の侵略に対する第二の疑問の日本が植民地化されなかった理由について言えば、原住民の文化と歴史の厚みの差、宗教発展段階の違い、日本や支那における宗教に対する政治の優位、西欧に届いていた東アジア文明優越の情報、インドから東南アジアへかけてのイスラーム勢力の壁、などなどいろいろ考えられますが、決め手となる答えは軍事的抵抗力です。日本・支那・朝鮮は十九世紀初頭まで西洋を寄せつけなかった理由は多様ですが、最大の理由は、他の地域と異なり西洋に優越しうる軍事的伝統を持っていたことです。青銅や鉄で鋳造された銃砲はまず支那で完成の域に達しそれから西進して、西洋諸国にひろがったという歴史的いきさつがあるのです。
2024年11月27日
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日本人であるわれわれは大航海時代の西欧の侵略に対して、ごく自然に、次のような三つの疑問に思いが及ぶのを禁じえません。第一に、ポルトガルとスペインの取り決めたデマルカシオン(境界画定)によれば、日本はどちらの征服予定地に入っていたのか。第二に、インド、支那、日本などは彼らに寄港地や居留地を許した程度であるのに、なぜアフリカ大陸、南北アメリカ大陸、フィリピンなどはさしたる抵抗もなく武力制圧され、完全支配を許したのか。第三に、ローマ教皇の文書には非常にしばしば異教徒の原住民に対する残忍な措置を許す内容が認められるが、キリスト教徒にとって正当戦争の思想上の根拠は何であるか、以上の三点です。
2024年11月26日
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一五二九年にポルトガル、スペイン両国はサラゴサに会し、条約を結びました。第一に、スペイン国王はモルツカ諸島に関するすべての権利を黄金三十五万ドゥカドでポルトガル国王に売り渡す。ただしこれは、返済すれば全権利は再びスペイン国王に戻ることとする。第二に、モルツカ諸島の十七度東、すなわち赤道上の一度を十七・五レグワ(一レグワは約五・六キロ)として、同諸島から二百九十七・五レグワのところに北極から南極までの線を引く。こうして東半球にもデマルカシオン(境界画定)を示す線が引かれました。一歩出遅れたスペインが金銭的妥協を図ったようにみえますが、条約中にはモルツカ諸島の権利をスペインが買い戻す自由が謳われていて、両国にらみ合いの原因を残しました。
2024年11月25日
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ポルトガル人でありながら、スペイン王朝のために働いたマゼランの世界一周航海は、一五一九年に始まり、グアムやサイパンといった、日本人に身近なマリアナ諸島にまで足跡をとどめ、一五二一年フィリピンで戦死しました。マゼランの航海は、乗組員二百六十五人のうち十八人がスペインに戻ったにすぎませんが、モルツカ諸島の帰属をめぐってあらためて、ポルトガルとスペインの間で激しい論争が起こりました。モルツカ諸島は、胡椴・香辛料の生産地です。西欧人がこの物産に目の色を変えて執着したのはペストという恐るべき疫病のはやった時代の唯一の医薬であったことが最大の理由ですが、肉食生活の西欧人にとって食肉の保存のための防腐剤と脱臭剤という目的もありました。冷凍法のない時代には大変な貴重品で、いくら高くても売れた物産であり輸入すれば莫大な金になります。
2024年11月21日
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ポルトガルはインドのゴアをアジア進出の中心地に定めました。そこにルネサンス様式の壮大な寺院や宮殿を建設し、さらに東進し、マラッカ(マレーシアの首都クアラルンプールの少し南)を占領し、モルツカ諸島を支配下におきました。モルツカ諸島こそ胡椴・香辛料の一大生産地で、西欧人が最大の犠牲を払ってでも手に入れたい島々でした。ポルトガルはここを拠点に展開し、十六世紀中葉には日本と支那に進出しました。一五四九年にはザビエルが日本に渡来し、ポルトガル人が香港の少し西の襖門(マカオ)居住権を得たのは一五五七年です。ポルトガルは、ブラジルに進出し、ここを世界一のサトウキビ生産地とし、大量の奴隷をアフリカから入れて働かせました。南米で主にブラジルだけが今もポルトガル語圏に属する理由はこの時に始まります。一方、スペインによる中南米の破壊と攻略の物語はあまりに過酷です。ピサロによるインカ帝国の征服は一五三三年で、そこから得た富によるスペイン黄金時代、文学や宮廷美術の全盛期は一五五〇年から一六八〇年までの長きに及びました。
2024年11月20日
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ポルトガル、スペイン両国が一四九四年にトルデシリヤス条約を結んだ後の東回りと西回りの地球争奪競争は有名です。一四九七年にリスボンを出たポルトガルのヴアスコ・ダ・ガマ遠征隊は、アフリカ南端の喜望峰を一気にめぐり、インド洋を渡り、一四九八年にはインド西南のカリカットに入港しました。彼らはカリカットの豊かさと商業活動を牛耳っているのがイスラーム教徒であるという情勢に強い印象を受けました。キリスト教徒である彼らは先に、地球に幾何学的領土分割線を引いてローマ教皇の認可と称して異邦に住む人も文化も富も領土も海域も全部自分のものだと勝手に決めました。しかし、いざ実際に異文化にぶつかると、そう簡単でないことに気がつきます。にもかかわらず、自分による「発見」はすなわち「占有」であるという観念を宣教師も探検家も決して変えません。ここにキリスト教という宗教の最大の謎と問題があります。
2024年11月19日
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一六八〇年代前後からイギリスで近代民主主義の原型が確立され、西欧人はアジアにたいする侵攻をすすめます。それ以前の西欧人のアジア進出は、どちらかといえは、貿易と略奪がおもだったのですが、一七世紀末から領土拡大の政策へ転換しているのです。西欧人がアジアにたいしてもっともはやく進攻した地域は、東南アジアですが、東南アジアにたいしてさえも、本格的な侵略は、一七世紀末以後です。従来の世界史では、西欧人の列強が大航海以後まもなく、一六世紀ごろから東南アジアを征服したような印象をあたえていますが、西欧人が東南アジアを征服するのは(長い歴史からみれば一時的ではありますが)一八世紀はじめ以後のことです。ジャワ・モルツカ諸島・フィリピンなどはほんの特殊な例で、そのはかでの西欧人の進出は、東南アジアの植民地化というべきものではありません。東洋と西洋とは意外なほど対等な立場でふれあい、文字どおりギブ・アンド・テェイクの取りひきをしたのです。
2024年11月18日
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このようにすべての人間は平等であり、生命・自由・財産の権利を主張した近代西欧人が、その後、アジアにたいして積極的な侵略にのりだしてきたことは注目すべきです。その最大の原因は、西欧の民主主義が、新興プルジョアによって確立され、先導されたからです。かれら商工業者は、自分たちがつくった製品を売りさばくために、「神の前ではすべての人が平等」という教えをわすれ、他の地域への侵略にのりだしたのです。いや、「わすれた」というよりも、自分たちの利益のために、「西欧人の優位と権利」を正当化しようと考えました。そのもっとも典型的なものは、一九世紀半ばにあらわれた「優勝劣敗」の思想です。元来これは生物学においてダーウィンがとなえた学説ですが、それを西欧人は人頬社会にも利用したのです。西欧の人びとは、みずからを優秀であると勝手にきめ、人種差別や侵略を正当化させたのです。
2024年11月15日
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イギリスにおける「近代科学と近代民主主義の確立」を可能にさせたのはイギリスの初期資本主義の確立(経済の発展)ということができます。市民革命にもっとも貢献したのは、マニュファクチャーの資本家たち(ブルジョアとよばれます)でした。ブルジョアが資本主義の進展によって財力をたくわえたからこそ、国王や貴族、僧侶といった旧勢力に対抗して、勝利をおさめることができたのです。イギリスの市民革命をささえた精神的背景であるジョン=ロックは「すべての人は全能な神によって創造されたもので、したがってすべての人は平等である」と主張しています。また「人間は神によってつくられているから、理性と良心をもっている」ともいっています。このような認識のもとに、ロックは生命・自由・財産を人間の三大権利と主張しています。そして政府は人民の三大権利をまもるためにつくられたもので、もし政府がこのような契約(人民の三大権利をまもるおきて)に違反するなら、すなわち人民をうらぎるなら、人びとは遠慮なく革命をおこして政府をたおすべきだとのべています。ここにおいて、近代西欧の民主主義の原型が確立されたのです。ロックの理論は、以後、市民革命の強力な武器となり、歴史に大きな影響をおよぼしました。とくに、アメリカの独立戦争とフランス革命、日本の明治維新への波及が注目されます。アメリカの独立宣言の最初の部分や福沢諭吉の学問ノススメは、ロックの言葉をほとんどそのままうつしたものです。
2024年11月14日
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一七世紀は、近代科学の発達、近代民主主義の確立とあわせて、イギリスに資本主義が誕生した時期でもあります。本格的な資本主義の発展は産業革命以後ですが、このころの資本主義は「初期資本主義」ということができます。その生産様式は、ふつう「マニュファクチャー」とよばれています。マニユファクチャーは、「資本家が生産道具を用意し、原料をしいれて、労働者をやとい(あつめて)、労働させ、労働者に賃金をはらう」という生産の様式をさしています。これはあきらかに一種の資本主義の生産様式です。マニュファクチャーは、一七世紀ごろのイギリスでさかんになり、一八世紀半ごろの日本にもあらわれています。
2024年11月13日
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当時の西欧はまだジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどという、こんにちの西洋料理につきものの野菜を知らず、レモンや砂糖の使用も稀で、コーヒーや紅茶もないという有様だったので、富裕な階級が食味の変化を香辛料に求めたのは当然のことです。しかし香料の用途は食用肉の貯蔵の方が一層重要でした。当時の西欧では冬の間家畜を養う方法が未発達だったために、秋に家畜を大量義に解体して食肉化せねばならなりません。塩漬肉や魚の干物の味の単調さを消し、殺菌力を増すために胡椒やスパイスは不可欠です。この用途に関する需要はかならずしも上流階級のみに限られず、また必要とする分量もかなりのものです。このようにインドネシアの特産物が東西交通に占める役割は極めて大きかったのです。
2024年11月12日
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オランダ東インド会社は香辛料の独占を目的に、セイロンに進出しました。チョウジはモルツカのテルナテ、ティドーレ、マキアン、モティ、バチャンの五つの島を主産地とし、この諸島以外には世界中のどこにも産しません。木は六メートルから九メートルに達し、木全体が芳香を放ち、とくに花のつぼみ、花、果実、花梗などがよく匂い、これを乾燥したものは釘のような形をしているので丁香とか丁子とか呼ぶのです。モルツカ諸島以外では栽培がむずかしく、十九世紀以後でも極めて限られた地域(東アフリカのペンバ島、マダガスカルの一部など)にしか育ちません。この香味を求めて、中世以来の西欧とアジアの食指がモルツカ諸島に動いたのも当然です。
2024年11月11日
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イギリス木綿は印度のオリジナル製品に対するコピー製品でした。コピーには必ずオリジナルがあります。イギリスは印度製オリジナルのコピーをつくるのに優に一世紀を要し、産業革命をまって初めてオリジナルを凌ぐコピーの生産に成功しました。イギリス産業革命は自生的といわれていますが、むしろ産業革命――その定義上、経済と社会の根本的革命をともなう――を必要とするほどにオリジナル製品のもたらした外圧は強烈であったのです。日本産業革命の国際的条件はウェスタン・インパクト(西洋の衝撃)であったといわれますが、イギリス産業革命の国際的条件はインディアン・インパクト(印度の衝撃)――あるいはアジアの衝撃――であったのです。
2024年11月08日
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インドは棉の原産地で、綿織物の生産は紀元前二十五世紀頃から行なわれていまし。とくにべンガル、ビハール、グジェラート、タミールのものが有名です。十九世紀初めにイギリスの機械織りの綿布が手織りのインド綿布を圧倒し去るまで、インド綿布はアジア各地のみならず、西欧にも大量に送られていました。英語のコットンという単語がアラビア語のクトウンに由来することは、その径路と運び手とを物語るものです。香料の方は、香辛料と言えばまず胡椒を連想する人は意外に多いが、西欧においてはしばしば貨幣的用途に用いられていました。
2024年11月07日
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ジャワのマジャパイト王国の王位継承の争いにまき込まれた、パレンバン出身の一王子パラメーシュヴァラが、シンガプーラ(現在のシンガポール)その他の各地に逃れて転々とした後、およそ一四〇〇年頃に、やや北方に移ってマラッカ附近に定着したのが、マラッカ王国の始まりです。王室自体はそれ程貿易に積極的であったわけではなく、マラッカの人々も、東西貿易のを担うほどの財力や能力を持ちあわせず、マラッカの繁栄はもっぱら外国商人達の手に握られていました。船籍も、入港の時期もさまざまでした。三月にはインド方面から船が到着し、五月末に出帆します。ジャワからの船は五月から九月にかけて現われ、一月頃帰っていきます。支那の船は年の替り日頃に来航し六月末頃立ち去ります。一年中船はの絶える時がありません。これらの貿易商人のうちで、最も活躍したのは西方のグジェラート商人と、東方のインドネシア商人です。それは西から東へ動くインド産の綿織物、東から西へ運ばれるインドネシアの香料類という、二つの商品の流れに対応しています。
2024年11月06日
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ポルトガル・スペインについでオランダが東インド会社をつくって、アジア進出をはたしました。一六一九年にバタヴィア(現ジャカルタ)に要塞を築き、その後はインドネシア全域を植民地としました。同じく東インド会社を仕立てたイギリスは十七世紀に入ってアジア進出を敢行し、まずインドに点々と植民地を確保したのち、一八二四年にマレー半島を領有すると、続いて中国にアヘン戦争を仕掛け、一八八六年にはビルマを英領インドに併合しました。フランスはインド支配をめぐってしばらくイギリスと戦ったのち(プラッシーの戦い)、ベンガル湾から南シナ海のほうへ進出すると、メコンデルタ地域を支配し、そこをインドシナと名付けました。インドとシナの間の地域だからです。ついで一八七三年にベトナムのハノイを占領すると、八四年にはグエン王朝を支配下におきました。
2024年11月05日
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アジアが欧米の支配下におかれはじめたのは約五〇〇年前からです。西欧はインド洋へ、東南アジア諸島へ、東シナ海とアジア大陸へ、南アジアからポリネシアへ、アメリカ大陸へ大航海時代の先頭を切って海外進出をします。アジア進出に先んじたのはポルトガルとスペインで、両国はイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復(レコンキスタ)を達成すると、ポルトガルは一四九八年のヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到着を皮切りに、インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが一五一一年にマラッカを征服して以降、東南アジア沿岸部に拠点を築いていきます。スペインは一五二一年にマゼランの艦隊がフィリピンに到達して、一五七一年にはマニラを含むフィリピン諸島を征服しました。やがてこれらすべてが植民地化されていきます。日本も蚕食される危機を迎えていたのですが、襲うには航海地理上では遠く、信長や秀吉も警戒を強めて早めにキリシタン禁制にとりくみ、鎖国(海禁)に踏み切ったので植民地化を免れました。
2024年11月01日
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聖書の原典はギリシャ語で書かれていましたが、15~16世紀にはもはやギリシャ語を知る人もなく、原典復元のためエラスムスはギリシャ語教師を探して南欧の果てまで放浪しました。西欧には古代に根源的不安があるのです。日本も仏教は漢訳仏典を唯一の頼りにしたので、原語サンスクリットは明治になってやっと知ったのです。ユーラシアの東西の端にあった西欧と日本にとって、この不安の克服こそが「近代」なのです。西欧人には大航海時代の冒険とともに人文主義の歴史があり、ギリシャ・ローマをアラビア人に学んで自分の歴史に奪い取るルネサンスがあって、やっと「近代」の戸口に立ったのです。
2024年10月31日
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西欧はイスラーム世界から、また日本は支那大陸(半島はその一部)から長い期間、制縛されていました。そこからの「解放」がいわば「近代」です。「解放」は古代像の先取り争いであり、奪い合いです。つまり、西欧も日本も強大なイスラーム文明や中華文明から解放されて近代の進歩と自由を獲得し、歴史の第一線に躍り出たのです。自分の方が優越していると信じていたイスラームと支那はこの逆転が許せません。今まで下に見ていた相手の優勢を認めたくない。それがしつこい歴史戦になり、過激テロになっています。彼らはいま「近代」を踏みつぶしゼロに戻そうとしています。一方、西欧はももともと「近代」に本当の自信を持っていなません。西欧には古代がないのです。西欧の歴史は12~13世紀の中世から始まるのです。それ以前はアラビア世界にも属しており、ギリシャ・ローマはまっすぐに彼らにつながる歴史とはいえません。
2024年10月30日
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科学革命の名にふさわしい宇宙観の根本的変革は地動説です。しかし地動説の樹立にいたる天文学の発展には、社会での実際的問題も関係しています。それは航海において方位を知るために惑星の位置を予測して記載した惑星表が必要であり、遠方への航海がさかんになるにしたがい正確な惑星表が要求されるようになったのです。15世紀にレギオモンタヌス(Regiomontanus1436-1476ドイツ)が当時の惑星表にいろいろの誤りを発見したことは、やがてコペルニクスの地動説を出現させる伏線となりました。コペルニクスは若いとき、学術の中心であったイタリアに留学し、そこで古代のアリスタルコスの地動説を知りました。コペルニクスは、それに示唆をえて、中世をつうじて権威づけられてきたプトレマイオスの宇宙系において、いわば地球と太陽をいれかえ、太陽を宇宙の中心とし地球を太陽の衛星にしたのです。
2024年10月29日
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科学革命の名にふさわしい宇宙観の根本的変革は地動説です。しかし地動説の樹立にいたらしめた天文学の発展には、社会での実際的問題も関係しています。それは航海において方位を知るために惑星の位置を予測して記載した惑星表が必要であり、遠方への航海がさかんになるにしたがい正確な惑星表が要求されるようになったのです。15世紀にレギオモンタヌス(Regiomontanus1436-1476ドイツ)が当時の惑星表にいろいろの誤りを発見したことは、やがてコペルニクスの地動説を出現させる伏線となりました。コペルニクスは若いとき、学術の中心であったイタリアに留学し、そこで古代のアリスタルコスの地動説を知りました。コペルニクスは、それに動機をえて、中世をつうじて権威づけられてきたプトレマイオスの宇宙系において、いわば地球と太陽をいれかえ、太陽を宇宙の中心とし地球を太陽の衛星にしたのです。
2024年10月28日
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科学革命における天体の幾何学の大きな礎石は、コペルニクス(N.COpernicus1473-1543ポーランド)の地動説によってすえられました。ケプラー(J.Kepler1571―1630ドイツ)およびガリレオ(GalileoGalilei1564-1642イタリア)がそれを発展させました。ガリレオは、他方で物体の運動の力学つまり動力学を創始しましたが、それは地上の物体の運動を扱うにとどまります。ただしガリレオはその力学研究で、個々の自然現象を研究する方法の原則を確立しました。ニュートン(p.38)は、それらの学者のあとをうけて動力学を天体に適用して発展させ、地上の物体と天体と、この自然界のすべてのものが統一的な力学の法則にしたがうことを明らかにしました。ここにおいて、古代からの天界と地界の区別は完全に消去されました。科学の方法という面では、ガリレオが示した研究の原則をさらにしあげ、加えて科学の1分野(力学など)の知識を統一的な体系にまとめました――なお、実験が科学研究の方法として定着することにかんしても、ガリレオとニュートンは重要な役割を果たしました。
2024年10月25日
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近代科学の時代区分の(1)、いわゆる科学革命の時代において近代科学の方法と体系の基盤がすえられたのです。では、その経過の中軸となったのはどの科学分野だったのでしょう。科学革命の中軸を「天体の幾何学から天体の力学へ」という言葉でいいあらわすことがあります。それは天文学ですが、その天文学は最初は天体がどういう原因で、つまりどういう力の作用で運動するのかという問題までは進みませんでした。天体の運動がどんな図形をえがくかというような、つまり天体の幾何学だったのです。しかし、科学革命が天文学ではじまったということには、重要な意味があります。その1つは、天文学は人間の世界観の柱をなす宇宙像を与えるものだということです。もう1つは、天文観測は古代からなされてきて、数値を扱い、自然現象を数量的に研究する学問の代表であったということです。近代科学は自然現象の数量的な取扱いを重要な柱としており、天文学はその科学の先導者となる資格をそなえていたのです。
2024年10月24日
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(5)1940年ごろ、すなわち第2次世界大戦(1939-1945)にはいる前後から、技術および科学はさらに目ざましく発展をとげました。技術にかんしては、技術革新という言葉でよばれる飛躍的な発展がおこり、その技術を中心とした産業形態の変化は、ときに第3次産業革命の名でよばれています。その時代から現代まで、諸科学の発展はますます加速されてきているのです。これは、私たちが眼前にしている、近代科学の大きな山です。
2024年10月23日
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(4)19世紀の第4四半世紀にはいるころは、科学の歴史における重大な転機です。科学の発展自体が、科学の本質についてのむずかしい問題を投じました。それまで絶対の真理だと信じられてきたニュートン力学が、絶対的に正しいのではないかもしれない、という疑問です。ニュートン力学は諸科学の土台におかれてきたものですだから、これは容易ならぬ問題です――科学上の真理とは何かについて、考えなおさねばならなくなった――それで、科学の本質や方法についての哲学的議論も、おこりました。しかしこの時期は産業的技術の新たな発展期でもあって、それによる産業形態の変化は第2次産業革命とよばれており、それと関係し、あるいは並行して、科学のいっそうの発展がおこりました。たとえば物理学では、量子論や相対性理論が提唱されるようになり、やがて第1次世界大戦(1914-1918)の時代となり、大戦は技術の進歩のためには大きな意味をもちました。戦後、1920年代は、また科学の新たな飛躍的発展の時代であった。ふたたび物理学についていうと、量子力学が成り立ったなどである。この時期は、科学哲学にかんしても重大な発展期であった。これはだいたい20世紀第1四半世紀の終りです。そのころを中心に新たな山ができていると見ることもできるが、19世紀最後の四半世紀から継続しているという見かたも成り立つ――少なくとも、あいだを区切らずに説明するほうが分りよいから、その見かたをとっておくことにします。
2024年10月22日
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(3)いまのべたように(2)の山に含めてもよいが、それと切り離すほうが分りやすいでしょ。(2)の山に区切りをつけたその時期から、19世紀の終り近くまでです。この場合にも、19世紀の第3四半世紀と第4四半世紀の境を目安にとると、簡明になります。この(3)の時代は、確定された軌道のうえでの発展と見ることができます。その点では、18世紀前半などと同様に山とはいえませんが、しかし科学が巨大な発展をとげ、19世紀の人たちに自分たちの時代が科学の世紀であると確信させるにいたった点では、やはり山です。
2024年10月18日
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つぎの山は18世紀の第3四半世紀と第4四半世紀の境(1775年)あたりから生じているのです。1775年という年が大きな意味をもっているわけではなく、1世紀を四半世紀で区切るのは時代区分を簡明にするのに役だつので、そうするだけです――その前後の時期という意味です。以後の世紀の時代区分も、同じ考えかたにしたがいます。18世紀のはじめの3つの四半世紀ほどは、ニュートン力学の展開を中心にした発展の時代と見ることができます。この時期、あるいはその少しまえから、とくにイギリスではじまった産業革命を背景として、科学は新たに大きな発展をとげるようになり――それから19世紀のかなりの期間までをこの2番目の山に含めます。しかし19世紀の最初の四半世紀の終りあるいは1830年ごろで、いちおう区切ることも可能ではあります。
2024年10月17日
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近代科学の歴史において、大きく時代を分ける山として、5つの時代をあげることができます。近代科学の成立の時代の第一の山は、その方法および知識(学問)体系の基盤がつくられた時代です。中世科学から革命的な変化を経て成り立ったという意味で近代科学の基盤ができるその過程は、しばしば科学革命とよばれています。科学革命の時代は、近代科学の皮切りから17世紀末までで、だいたいルネサンス後期と見ることもできます。なお17世紀後半はニュートン(Ⅰ.Newton1643-1727イギリス)の時代であり、まさにかれによって近代科学の基礎が完成され確立されたのです。
2024年10月16日
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現在の宗教学は一神教の枠組みから脱却できていません。山川草木に仏性の宿りをみる日本人の宗教観は当然にアニミズムとされます。「死後の永世を信じてもいないのに墓参りだけは行う」「仏教の教理はわからなくとも仏壇を拝む」などの行動はフェティシズムの一種で、欧米人の目にはそれは無宗教か、低級な信仰のようにみえたのです。日本人の宗教心を一言で言い表せば確かに「自然宗教」といえます。しかしそれは外的な流動性、本居宣長に倣えば「なる」ことを軸とする感性と論理に基づいているのです。これを宗教でないとか、程度の低いものと捉(とら)えるのは不当です。翻って、キリスト教自身はいかにも宗教を定義できているようにみえますが、実は「宗教とは何か」に答えていません。どんなに言葉を尽くした定義を案出しても、宗教には本質的な規定不能性が残るのです。そうである以上、他の宗教をあるがままに理解するためには「類比的、共感的」な姿勢を採るしかありません。
2024年10月15日
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欧米のクリスチャンが「君の宗教は何か」と問わずにはいられないのは、キリスト教が歴史的に孕(はら)んだ固有の問題性に深く根差しているからです。彼等はまず、自らの都合のよいように宗教と宗教ならざるものとを区別しました。初期における最大のライバルである、ギリシャ思想を「哲学」として封じたのです。ギリシャ思想の本来の宗教性をギリシャ哲学ということで、キリスト教にとって脅威となる牙を抜き去ったのです。そのやり口は、大航海時代以降、世界各地でキリスト教などの一神教ヘブライズムのかたちとはかけ離れた信仰形態を見出(みいだ)したときにも「適用」されました。欧米は、それらを俗信や風習に過ぎず、キリスト教のような上等な宗教と同列には扱えないと裁断しました。そこで用いられたのが、アニミズムやフェティシズムといった「理解」の枠組です。彼等はそれらを原始的な信仰形態と決めつけました。
2024年10月11日
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鉄鋼軍艦が大坂湾にはいれば、本願寺の危機です。本願寺方はこれを湾内にはいる前に撃沈しょうと、雑賀から無数の小舟を出し、矢・鉄砲を乱射して四方から攻めたてましたが、大鉄砲のいっせい射撃で小舟はうちくずされ、そばへも寄せられません。ついに海上権は織田信長のものになり、戦艦は七月からずっと木津川口にあり、本願寺に対して海上封鎖をおこないました。十一月には毛利の軍船六百余艘が、兵糧を積んで木津に着いたが、たちまち撃滅されました。風前のともしびとなった本願寺の命をつないだものは、一五七八(天正六)年十月の荒木村重の挙兵です。村重は摂津の池田勝政に従っていた郷衆でしたが、伊丹城を奪って居城とし、有岡と改め、摂津きっての武将となりました。彼が播磨三木城の別所長治に応じて信長にそむくと、同じ摂津の高槻城主高山右近・茨木城主中川清秀も義理を重んじて荒木に味方しました。石山本願寺を包囲している背後で、摂津と播磨が、とつぜん敵にまわったのです。信長はまたも朝廷をうごかして本願寺と講和しようとし、顕如は毛利氏とともに講和すると返答しました。
2024年10月10日
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本願寺の旗色はしだいに悪くなってきました。一五七八(天正六)年三月十三日、上杉謙信も脳出血でなくなりました。信長は、大坂湾・紀伊水道・瀬戸内海の制海権を奪うため、伊勢の九鬼嘉隆・滝川一益に命じて戦艦六隻をつくらせました。この戦艦は大艦巨砲主義でつくられ、五千人ほども乗れる鉄船です。鉄砲の弾丸をはね返す装備もほどこされ、大鉄砲をたくさんすえつけてありました。これが七月、堺の港に雄姿を現わしたときのことを、キリシタン宣教師オルガンチノはつぎのようにしるしました。「信長が伊勢で建造させた、日本国で最大の、そしてまた華麗なものであって、わがポルトガル王国の船に似ている。予は港にでかけて見物したが、日本でこんなものができるということに驚いた。」
2024年10月09日
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四月一日からは天守台の石垣が築きはじめられました。高さは十二間(約二十二メートル)、その上に近江平野と大潮をみはるかす天守閣をたてるのです。天守閣とはなんでしょうか。安土城の天守の七層の天井には、三皇五帝、孔子の十高弟、七賢らがえがかれていたので、あきらかに儒教的世界観による「天」をあらわすものです。つまり天主とは天下の中心なのです。安土は京都から一日でいける距離で、北陸・東海から京都にはいる要点にあります。このころ敵対関係にはいった上杉謙信に備える意味もあります。そのころ安土にいた外人宣教師は、「信長は壮麗堅固な城を築いて、栄華を誇り示そうとした。」「最上の一層は内面全部金でぬられ、屋上には厚い金の冠を置いた。窓も金でかざられたため、朝夕の日がこれにあたると、さんぜんと光華(こうげ)を発した。」といっています。信長は「天下布武」の象徴として、領国の中心である城を、新しい姿で実現しょうとしたのです。
2024年10月08日
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越前一揆を平定し、岐阜から京都にのぼってきた信長は、はればれとした心で、新しい瀬田橋(せたばし)をわたりました。この橋は、かれが越前出兵の直前の七月に着手したものです。信長の軍政下にある地域について目立つことは、道がつくられ、橋がかけられ、関所が廃止されて、交通の便がはかられていることです。道や橋をこわして敵を防ぐのはもはや時代おくれで、軍隊の機動力や物資の輸送力が戦局を決定することに気づいていたのです。嫡男信忠に一月二十八日、家督をゆずり、岐阜城を明けわたして佐久間信盛の邸宅に移った信長の胸中には、近江安土に新しい城と都市を建設する構想がありました。一五七六(天正四)年正月のなかばごろから、琵琶湖のほとりの安土山に、大規模な築城工事がはじめられました。総監督は丹羽長秀、二月二十三日には信長も安土にやってきました。東海・北陸・近畿の武士・人夫・職人が召され、莫大な石材が集められ、昼夜山も谷も動くばかりの大動員で仕事が進められました。
2024年10月07日
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武田方は、1575年五月二十日早朝、長篠の囲みを解き、織田・徳川軍と七町はかりをへだてて陣をとりました。その夜の雨は、翌二十一日の明けがたにはすっかりあがっていました。戦闘は午前五時ごろ始まりました。いままでの合戦とはまるでようすがちがっていました。まっしぐらに織田軍に向かった武田の騎馬隊は、木柵にはばまれ、鉄砲に悩まされ、ばたばたたおれ、甲州の騎馬隊はその真価を発揮するまもなく、突撃のたびに名ある武将が戦死しました。晴れた空の下で、鉄砲は思う存分に威力を発揮しました。それは、著名の古い騎馬・長槍部隊と、無名兵士集団の新しい技術との戦いで、甲州勢は総くずれしました。奥平定昌も城門を開いて甲州の敗兵を追撃し、甲州軍は川にはばまれ谷に落ちて甚大な損害をうけました。無事本国へ帰りついたものは、わずかに三千ばかり、武田の戦力はここで急低下しました。
2024年10月04日
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山国の甲斐では、山のふもとに牧場が設けられ、良馬が多かった。そこで精鋭をほこる武田軍は、騎馬隊を中心に、長槍隊が敵陣をつきくずすという戦法をとりました。信長はこの長槍・騎馬隊と正面衝突することを避け、密集部隊を鉄砲でいっせいに射撃するという戦術を採用しました。このため陣地の前面に、二十余町の間に二重三重の空堀を掘り、土手を築き、木柵を 三重にはりめぐらし、甲州勢の突進を阻止しようとしました。もともと鉄砲をいちばん早く手に入れたのは武田信玄ですが、かれは、火縄銃は雨の日には使用できないし、一発うってから、つぎの一発を打つまでに時間がかかる鉄砲は実戦にはあまり役に立たないと考えていました。しかし信長は、鉄砲隊を三段に配置し,第一列が発射したあとは、第二列が前に出て発射し、ついで第三列が発射し終わったときは、第一列の玉込めが完了しているという、一発目と二発目との間の時間を短縮を考えました。これには多数の鉄砲を必要ですが、国友村(滋賀県)や根来(和歌山県)のような鉄砲の産地を手に入れた信長にはそれができたのです。
2024年10月03日
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キリスト教の布教許可は、僧侶はもちろん、朝廷も不満でした。四月二十日、フロイスが信長に面会した席上には、法華宗の怪僧朝山日乗もおり、フロイスが都にいたため、前将軍義輝が暗殺された、などという理屈でフロイスの追放を求め、従者のロレンソに切ってかかったりしました。そののちも、日乗は天皇の権威をふりかざしてフロイスを圧迫したのでフロイスとロレンソは、和田惟政の紹介状をもち、小西陸佐(行長の父、堺の豪商)のせわで、岐阜にいきました。途中で頭のない石仏をたくさん見たましが、これは信長の命令で頭をとらせたのだ、とフロイスはしるしています。信長は佐久間盛政と柴田勝家に、フロイスを保護し、都から追放してはならないといい、木下秀吉のとりなしで、宮廷と幕府に対してフロイスらの保護を求める手紙を書いてフロイスにあたえています。のち日乗は和田惟政を讒言したので処罰されましたが、朝廷のあっせんで死罪をまぬがれ、一五七七(天正五)年九月になくなりました。
2024年10月02日
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松永久秀は、フロイスが信長に面会する直前に、信長に宣教師を追放するように懇願しました。しかし信長は、たったひとりのキリシタンが都にいて、それで一国が乱れるというのは、久秀の心がせまい、といって笑いました。信長はフロイスに帽子、こんペいとうをいれたガラスびん、砂時計、だちょうの卵など南蛮の珍品をおくられて喜びましたが、目覚まし時計は構造が複雑だから、手もとにおいてもむだであるといって受けとりませんでした。また、信長はフロイスとの面談で仏教僧侶らの「忌むべき生活と悪しき習慣」をながながと説き、「坊主らは金銭を得、肉体を喜ばす以外に望むものがない。」といいました。そして、その日づけでフロイスの京都居住と布教を公認する朱印状を出しました。異国への好奇心もありましたが、僧侶の堕落をにくみ、それへ対抗する役割をキリスト教に求めたのです。
2024年10月01日
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1569年年の四月八日、信長は都を追放されて堺に住んでいた、宣教師ルイス=フロイスに面会しました。フロイスはこのときの信長の印象を、つぎのようにローマに報告しています。「この尾張の王は年齢が三十七歳ぐらい、せいは高くやせていて、髭は少ない。声ははなはだ高く、武技を好み、粗野で傲慢で名誉を重んじ、正義と慈善をたのしむ。戦術にたくみで、部下の進言にはほとんど従わない。諸人から異常な畏敬をうけ、酒を飲まず、日本の他の王侯をことごとく軽蔑している。神仏その他の偶像を軽視し、卜(うらない)を信ぜず、法華宗ではあるが、主や霊魂不滅などはなく、死後はなにごとも存在しないと、きっぱりといった。」
2024年09月30日
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のちに信長と京都で会った耶蘇会士ルイス=フノロイスは、かれを評して「倣慢」「ほとんど規律に服せず。」といっています。規律に服さないとは、旧来の習慣や規格にとらわれないという意味です。信長は将軍・守護・守護代といった古い権威にあぐらをかいた姿勢では、もはや武士を支配し、領内を治めていくことができないと悟りました。信長は理性的で明断な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者です。形だけは当初法華宗に属している態度を示しましたが、権力者としての高い地位に就いて後はすべての偶像を見下げ、禅宗の見解には若干は従いましたが、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なしました。ナンセンスな習慣や、考え方をうちやぶって、奔放さを求めた前進的なところに、近代の体現者であり偶像破壊者として、「大うつけ」の真価があったのです。
2024年09月27日
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一五四三年に、ポルトガル人の乗ったジャンク船が種子島に漂着して鉄砲を日本に伝えました。船の持ち主は、倭寇の首魁(しゅかい)である明人の王直(おうちょく)です。ポルトガル商人が倭寇と一緒に、南シナ海から東シナ海へと活動の幅を広げていたのです。明人や日本人からなる倭寇は、この海域の海賊であり貿易商人でもありました。マラッカで出会った日本人に案内されて来航したポルトガル系のイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは、それから数年後の一五四九年です。一五五〇年には平戸(ひらど)にポルトガル船が入港し、領主の松浦隆信(まつらたかのぶ)がキリスト教を保護したので、五年後には信徒が五〇〇人を超え、六一年には九〇人のポルトガル人がいました。一方、スペイン人が日本にやってきたのは一五八四年のことです。そこからマニラを拠点にした対日交易が始まり、やがてスペイン系のフランシスコ会宣教師たちもマニラから渡航し、日本布教に取り組みはじめました。日本布教をめぐって、イエズス会系とフランシスコ会系の争いを生み出したのは、まさしくサラゴサ条約ライン上の争いです。
2024年09月26日
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われわれは知るところが少ないにもかかわらず、大洋を航海する船が、病原菌を広めた全体的な結果について、知ることはできます。第一に、それまで孤立して暮らしていた住民たちが、致命的な人命損失を被りました。例えば、結果として新世界のスペイン帝国の中に組み入れられたアメリカ原住民の諸地域の人口は、一五〇〇年には五千万人位であったが、それが一六五〇年ごろまでにたった四百万人にまで減少しました。しかもこれはスペインの移住者を勘定に入れての話です。同様に甚大な人口減少は、太平洋の小さな島々およびその他の地方でもおこりました。これは新しい病気が、人口桐密な、それまでは孤立して病気に対する抵抗をもたなかった住民を襲ったときにはいつでもおこりました。しかし、文明化した世界の人口は、ひじょうに多くの種類の病気に長い間さらされてきているので無傷です。
2024年09月25日
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西欧の船は、多くの疫病――その中には黄熱病やマラリアのような命にかかわる病が明らかに含まれていました――をアフリカから新世界に運び、そこで蚊の媒介によって中央アメリカおよび南アメリカの各地方を、ほとんど人が住めない状況にしてしまいました。西欧の人々の間に昔から定着していた病気が、一度アメリカの原住民を襲うと、致命的な結果となりました。彼らは、天然痘、はしか、チフスのような伝染病に免疫をもっていなかったのです。逆にアメリカの原住民は、梅毒を旧世界に伝えました。
2024年09月24日
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病気は、価格の変様と同様、人間の意思とは無関係に、まったく理解されることなしに、広まりました。病気の拡大に伴う事情ははっきりとはしません。その理由は、アメリカにおける原住民の間であれ、西欧のどこかの都市であれ、伝染病の流行の記録はひじょうに不正確で、医学的診断をつけようもないからです。しかし一般的にいって、船が大洋を航海するようになったため、港から港へ商品と同様、細菌も運ばれたことは明らかです。アメリカの原住民にとって、このことは重要な結果をもたらしました。
2024年09月20日
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アメリカ産の栽培植物の発見は、各地域の食橿供給を増大させ、それに伴う人口増加を引きおこしました。このことは確実に支那南部におこりました。またアフリカ、特に西アフリカにおける人口の劇的な増大させました。この西アフリカからは、十七、十人世紀に新世界のプランテーションで働いた何百万人もの奴隷として拉致されたのです。アメリカ大陸の食用作物の移植の詳細は、あまりよくわかっていません。新しい作物の大きな影響は、一六五〇年より後に現れた可能性が強いのです。西欧についてはたしかにこのことが言え、無学な農民や、伝統に縛られた農夫たちが、新しい穀物の利益を知り、それを栽培する方法を学ぶには時間がかかったのです。
2024年09月19日
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アメリカの栽培植物は、植物学的に、旧世界で知られているものとはまったくちがっていました。西欧、アジアおよびアフリカの農民たちがそれまで知っていたものを補うきわめて価値ある作物でした。例えばアメリカ大陸のトウモロコシは、支那南西部、アフリカ、西欧南東部に速やかに広がりました。支那では、ジャガイモは、植物学的にそれとは無関係なサツマイモより重要度が低かったが、サツマイモは、米の作れない丘陵地、その他それ以前は荒野として放置されていた地帯で、大量に生産されました。西欧ではこの関係が逆となって現れました。それは気候が寒かったため、アンデス高地で生まれたジャガイモが適当であったのに対し、西欧の夏はサツマイモを成熟させるほど暖かくはなかったのです。
2024年09月18日
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伝統的な社会・経済的諸関係によって定められていた、確たる日常生活の中のすべての安定性は、一五〇〇年と一六五〇年の間に西欧におこった激しい物価変動のためついえ去りました。各政府は、それまでの収入源では足りなくなり、歳入をあげる新しい方法を見出しなければなりません。市場でわずかな卵を売る貧乏な農民や、最も貧しい職人ですらも、価格革命の力を実感しました。もちろんだれも銀の供給の増大と価格の上昇の間の関係を理解していません。しかしあらゆる社会が影響を受け、ある者たちが栄えるのに対し多くの者が富を奪われ、そして金持ちも貧乏人もこぞって未来に対する不安に脅かされたとき、多くの人々は、それまでの時代にあったものよりもっと大きな食欲と邪悪が世間に放たれた、と結論しました。こうした確信が、この時代の西欧史をその前後から分かつ、きわめて激しい宗教的、政治的な論争を生んだのです。
2024年09月17日
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コルテスは翌二一年、大軍を率いてふたたび来襲し、四カ月かけてメキシコを完全に征服しました。つづいて、フランシスコ・ピサロは、南米のペルーを中心とするインカ帝国の首都クスコに入城し、ペルー、チリをスペイン領へ編入しました。一五四五年、ペルーのポトシ銀山が開発され、大量の貴金属が本国へ輸送されると、以後西欧の銀の保有量は高まり、西欧の物価がいっせいに上がり商工業の発展が促されました。これが価格革命と呼ばれるもので、一世紀内のうちに、スペインにおける物価は、約四倍にも上がりました。ヨーロッパの他の地域での物価の上昇はこれほどでもありませんが、どこでもこの変化が、伝統的な経済諸関係を深く揺さぶるに充分な力をもっていました。一定の収入をもつ人々も、深刻な購買力不足に陥り、一方事業に携わる人々は商品の価格が上昇したので大金を儲けました。
2024年09月13日
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