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「ツォンカパ チベットの密教ヨーガ」『深い道であるナーローの六法の点から導く次第、三信具足』ツルティム・ケサン、山田 哲也訳1999/11 文栄堂書店 単行本 252pVol.2 No.347 ★★★☆☆ ツォンカパ関連の本も探してみればいろいろある。図書館によってはかなり揃えているところもある。宗喀巴大師と書いているものもあって、これもツォンカパだ。それらを研究資料的書物を当ブログで読み進めることはできないが、その存在を確認することは一定の意義を感じてはいる。 さて、この「チベットの密教ヨーガ」というタイトルの本は、ツォンカパ著とはなっているが、素材は、ナーローの六法だ。つまり、インドのナロパが、チベットからやってきたマルパへ伝えたとする奥伝だ。そのマルパのもとで、かのチベットの詩聖ミラレパは大悟した。さらにはミラレパの弟子であるガンポパにも伝わったはずだし、その流れからツォンカパもこの法を伝授されたはずだ。 このナーローの六法については、各書であちこち散見されるが、いまいちまとまったイメージとしてはまだ理解していない。 「ナーローの六法」の数え方は、(1)チャンダリーの火と(2)幻身と(3)光明と(4)遷移(ポワ)と(5)入街(トンジュク)と(6)中有という六つの口訣を数えるのである。 p97 この言葉だけで言えば、ひとつひとつイメージできないわけではない。(1)のチャンダリーの火とは、瞑想中に感じる得る内なるキウンダリーニに類するものだろう。(2)の幻身とは、(1)に伴なって感知しうる微細な身体のことで、こまかく分類はできるが、まずは、すくなくともこの生物的物理的物質としての体のことではない。 (3)においては、さらに慎重に取り扱わなければならないが、瞑想者が体感し得る、ある種のピーク体験のことだ。光明とは表現されてはいるが、かならずしもまばゆく輝く光ということではなく、かぎりなく透明な融通無礙な境涯のことであろう。 (4)遷移は、さらに人生最大のできごとされる生死を超える次元についての取組みのことであり、(5)入街、(6)中有などに至っては、一連の「チベットの死者の書」などでも扱われている、深い深い存在で感得しうる玄妙な世界についてのとらえ方のことであろう。 本書は、左のページにチベット語が書かれ、右のページには対訳としての日本語が書かれている。ネットで検索してもこの本についての情報は多くない。つまり、一般向けににだされた本でもないし、一般人がいきなり読んでもその本質をすぐに理解できるような本ではない。しかし、関連の中で紐とかれるなら、その資料性や重要性において、貴重な存在であるに違いない。 読んでみて決して読みにくい本ではないし、テーマがカギュー派に関連のある話なので、当ブログとしては、他のツォンカパ本に比較するれば、かなり取組みやすい本、というイメージを持った。再読するチャンスがあることを期待する。<2>につづく
2008.10.26
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「ネットは新聞を殺すのか」変貌するマスメディア 青木日照 /湯川鶴章 2003/09 NTT出版 227p ★★☆☆☆ 「サイバージャーナリズム論」07歌川版関連で読んでみた。湯川鶴章が共著者として名前を連ねている。この本はすでに発行後4年が経過しているので、情報もかなり古いものになっている。しかし、そのことを差しひいたとしても、タイトルが示しているように、「新聞」側の人間が危機感を感じて書いている本ということだろう。「ネット」そのものは「新聞」をどうのこうのしようとしているとは必ずしもいえないだろう。 自動車が発達すれば、馬車は減る。ケータイが発達すれば、固定電話は減る。ネットが発達すれば、旧来メディアになんらかの変化がでるのは当然のことだが、自動車は馬車を殺すために登場したのでもないし、ケータイは固定電話を殺すために登場したのでもない。それぞれに必要があり必然があって登場してきただけなのだ。別に何かを「殺す」意思を持ってきたのではないはずだ。いわゆる旧来の「新聞」人たちが危機感を持っているのはわかるが、「ネット」を凶悪な殺人者のごとくに表現するのだけはやめてほしい。表現者として卑劣だ。 昨日もNHKで関連のスペシャル番組を放映していた。私も強い関心をもって見た。しかし、視点は、あくまで旧来の「新聞」側にあって、「ネット」側にない。まだまだ、この話題は続くだろうし、本質的に大きく変貌をとげる時がくるような感じがする。
2007.07.30
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく<29>よりつづく「私が愛した本」 <30> OSHOのお薦め本ベスト10(私家版) この本には168冊の本について紹介されており、それらすべてに目を通して見る価値はあるのだろうが、そのコメントの中にも、おおいに気になる部分がある。個人的に気になった部分を集めて、仮にランク付けしてみると、次のようになる。☆01 「聞け小人物よ!」 W・ライヒ 私のサニヤシンたちがすべて瞑想すべき本だ。p234☆02 「人間の未来の心理学」 P・D・ウスペンスキ サニヤシンすべてにとっての必須の研究対象にならなければならない。p150☆03 「サイコシンセシス」 ロベルト・アサジョーリ サニヤシンが全員読むべきものだ。p208☆04 「宇宙の新モデル」 P・D・ウスペンスキー 詩的な本だが、私のヴィジョンにきわめて近い。p106☆05 「手放し」 ユベール・ブノア これはあらゆる瞑想者の本棚にあるべき本だ。p48☆06 「ハシディズムの話」 マルティン・ブーバー 真実の探究者すべてが読むべき本だ。p164☆07 「スーフィーたち」 イドリース・シャー この人の本はすべて勧める。p128☆08 「父と子」 ツルゲーネフ あらゆる人に読まれるべき本だ p190☆09 「詩学」 アリストテレス 私はこの本を推薦する。p236☆10 「アウトサイダー」 コリン・ウィルソン この本は読むに値する。ただ読むだけだがね。p152 次 点 「資本論」 カール・マルクス それを読まないように。p167 Oshoは自分用に特別に一冊取っている。 追 補 「精神分析と無意識」 D・H・ロレンス もし私が再び本を読むことがあったら、これが、私が読む最初の本となるだろう。OSHO p192<31>につづく
2009.01.17
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「維摩経」 <1>長尾 雅人 1973/10 中央公論社 文庫本 186pVol.2 No.512 ★★★★☆ 維摩経、というと、まず母方の祖父を思い出す。いちばん最初にこの経典について聞いたのは彼からだった。80を悠に超す長寿を全うし、最後には、菩提寺から「雲を耕し、月を釣る」という意味の法名を贈られた彼だったが、僧籍にある人物でもなかったし、風月を愛でる趣味人でもなかった。一介の実業人にすぎず、若い時分から刻苦勉励の人ではあったが、大家族の長子に生まれ、質素な生活のなかで、近隣から慕う人も多かった。 特段に経典を持ち出すでもないが、燃料会社から毎年もらうカレンダーを背にかけて、その中にある、時々の「禅語」をひきあいに出しては、来客へのもてなしとした。若い時分から近くの寺の座禅会に参加したというし、寺の総代のような世話人もしたりしたが、たまには若い住職などに苦言を呈したりしていたようだ。 10代にから20代にかけて、彼の家を尋ねると、きまって、彼流の禅問答がでてくることになり、ちょっぴり辟易ということもないでもなかったが、あの当時の、あの薫陶があればこそ、自らを振り返らんという機運が植え付けられたのかもしれないと、今はとてもありがたく思う。 そんな彼が、得意としていたのは、達磨と慧可の出会いである断臂の話であり、在家の在家たる維摩詰(ヴィマーラキルティ)の「活躍」の話だった。特に晩年は、高齢に伴う身心の変化にともなって、同じ話を毎回毎回、初めて話すような口調でなんども聞かされたものだった。 祖父が学んだ維摩経は、奈良朝以来、わが国で愛されてきた鳩摩羅什訳であっただろうが、この本は、唯識やチベット密教研究の第一人者だった長尾雅人が、チベット経典から直接和訳したものである。だから、よりインドにあっただろうとされる仏典に近いとも思われるが、依拠すべき文献の小さな差異など、祖父と私の間を隔てるものにはなり様がない。ただただ、ひたすら、ひとは、菩薩を目指すべきであり、ひとは、在家にあっても菩薩でありうる、ということの確認、再確認でしかなった。いや、祖父の説によれば、在家であればこそ、菩薩であることの意味がますます高まるのであった。 最晩年の祖父に、聞いたことがある。人生でいちばん大切なことはなんですか。 なんだ、そんなことも分からんのか? と笑いながら、彼は、傍らの紙切れに「自未得渡先渡他」と書いた。 あるいは、彼がなくなった後に、叔父たちの話によれば、普段身につけていた手帳には、「施無畏」と、処世訓のように書いてあったという。 「維摩経」は、考えようによっては、議論につぐ議論であり、哲学の書、と言えないこともない。しかし、私は、これらのひとつひとつを議論の材料とはすることはできない。それはひとつのできあがった物語であり、それ以上、付け加えたり、削除したりして楽しむ経典ではないよう思う。 あるいは、宇宙のかなたまで飛ばされてしまううようなファンタジーと読むこともできないではない。しかし、やはり、かえってくるのは、いまここ、ありのままの自分というところだった。20代以来、まったく同じ本を何度かめくってみたが、毎回感じる味わいが違っている。どの本においてもそうなのだろうが、とくにこの本は、最初から身近でありながら、最後まで身近に感じられる不思議な本だ。あまりにも、この維摩詰(ヴィマーラキルティ)が魅力的であるからだろうか。 もちろん、維摩詰が実在した人間だったとは言い難いし、経典の成立にともなって幾重にも装飾が繰り返されてきたことは、多いに察することができる。しかし、それであればこそなお、仏教というものの魅力、あるいは、それを支えてきた人間存在の魅力に圧倒されることになる。 法はアーラヤではありません。アーラヤを喜ぶ者は、法を求めているのではなく、アーラヤを求めているのです。法は無相であってむなしい。相に従って識知する者は、法を求めるのではなく、相をもとめているのです。法は、それと共住しうるようなものではない。法とともに住しようとする者は、法を求めているのではなく、(法と)住することを求めているのです。法は、見たり、聞いたり、判断したり、知ったりさえるものではない。見・聞・覚・知を行なうものは、見・聞・覚・知を求めているのであって、法を求めているのではありません。大徳シャーリプトラよ、法は有為でもなく無為でもない。有為を対象とするものは、法を求めるのではなく、彼らは有為をとらえようと求めているのです。それゆえに、シャーリプトラよ、法を求めようとするならば、あなたはいかなる法も求めてはならないのです。 p81<2>につづく
2009.01.12
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