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潅木の薮の通り抜けた所にその家はあった。
前庭はかなり広かったが、来客が多いためか車でいっぱいである。
玄関の所にはドアの前に犬が一匹座っていて、私たちは其の犬をまたいで家に入った。すると今度は大きなラブラドルレトリバーに飛びつかれた。
どうにかこうにか其の犬をかわして、家の中を進むが、家人は誰も案内に出て来ない。
家はしゃれたコテージふうの作り。似たような扉が幾つもある。
「多分このドアだわ。」
そう言ってJanが開けた部屋は薄暗く、最初は部屋の様子が分からなかった。
暗さに目が慣れるに従い、奥の方のテラスの所にベッドがあり、男性が一人横になっているのが分かった。
その側には中学生ぐらいの女の子が車椅子に座っている。
『まだ若い。それに非常なハンサムだ。健康な時にはすごく魅力的だったろうな。』
ベッドの上には小型の犬が横になっている。
ベッドの横では、多分彼の娘が、車椅子に座ってアイスクリームをなめている。
今日数多くの患者を目撃してきたが、其のどれもがなんと日常的に進行している事だろう。
知らない人が見ても、もう2週間で彼の命が尽きようとしているなどととても想像できないだろう。
「日本からの医学生なのよ。今日は彼女と一緒に廻っているのよ。あなたのために急性の病棟に行って、強力な薬を手に入れてきたわ。朝と午後に半錠ずつ、夜寝る前には一錠ね。」
その説明の最中に彼の妻が入ってきた。
彼が私に尋ねた。
「○○、どれくらいイギリスにいるのかね。」
「今で6週間。この後Cornwallで2週間、カンブリアで1週間、バースで1週間。其の後出来ればドイツとデンマークで3週間。」
「彼女は非常に勇敢なのよ。ドイツ語もデンマーク語も話せないのに、渡ろうとしているのだから。私達が何をしているか見るためにここに来たと言うわけ。」
「○○、日本のどこから来たのかね。」
「京都ですよ。行かれた事はありますか。」
「東京へは行った事があるが、非常に混み合った街で好きになれなかった。京都は写真で見た事がある。」
「○○、日本には専門医がいるのかね。例えば、lymphoma(リンパ腫)のような。」
例えばと言う言葉を口にしてから、
lymphomaと言う言葉を口にするまでにどれほどの間があった事だろう。
その言葉を口にする彼の心に幾ばくかの緊張が走った、と感じたのは私の思い過ごしだろうか。
その間に彼の胸に去来した思いはいったい何だったのだろう。
もう2週間先に自分の死を控え、彼も十二分に其の事実を知り尽くしているという。
それでも尚、私にlymphomaの、自分自身の病気の、専門医が日本にいるかと尋ねる彼の言葉に込められた思いはいったい何だったのだろうか。
諦めようとして諦める事の出来ない人生に対する思いだったのか。
この時ほど真実を告げる事の残酷さを思い知らされた事はなかった。
「いますよ。特に私の学校は日本では上位に立つ大学病院なのでドクターは全て専門医です。でもね、私は人間を全体として眺める事の出来る医者になりたいのですよ。そのためにイギリスに来たのですよ。」
隣にいる娘はきょとんとした顔をしていたが、彼は
「GPのようにだね。」
と私の言おうとした事を即座に理解した。
その間にJanは彼の妻に新しい薬の説明をしていたが、其の会話が全くかみ合っていないことが私にでさえ分かった。
この妻は若干日本人の血をくんでいるという。
残念ながら日本語を話すことは全く出来ないが。
彼女を初めて見たときから、その顔貌、髪の色から日本人とまでは思い浮かばなかったが、アジア人の血を流れていることは想像していたのだが。
彼女が自分の言葉を十分に理解できていないと判断したJanは、タンスの引き出しから薬の容器を出し、薬の小分けを始めた。するとベッドからそれを見ていた彼は
「大丈夫だ。ぼくが分かっているから。」
と声を掛けた。
本当にこの家で一番しっかりしているのは彼病人自身だと言う印象を受けた。
Janが彼の枕元に戻り腰を下ろすと、Tシャツを見てくれと彼が声を掛けた。
彼が身を起こすのを助け、彼の背中に目をやると
『Never Fear(決して怖がらない)』
の文字。
このTシャツは空軍のパイロット達が身に着けるものだという。
どうしてその背にNever Fearの文字がなければならないのか。
そして今そのシャツを彼が身に着けている意味は一体何なのか。
その文字を私達に示す事で何を伝えたかったのか
。私に答えが見つけられよう筈もなく、すべては謎のままに終わった。
再び横になった彼はクッションの位置が悪かったのか、苦痛に顔をゆがめた。
すぐさまJanがクッションを直す。
やや上半身を起こし気味に位置を直し、彼は満足だという意思表示をした。
私に飛行機の操縦かんを握る真似をして、ウインクをした。
人生の操縦かんの自分で握りしめたまま彼はどこに旅立とうとしているのか。
Janが
「また明日、薬の具合をお聞きするために来ますから。
明日は看護学生と一緒に来ますから。」
「O.K.」
彼のベッドに歩み寄り、握手をした。
「○○。医者としての人生の成功を祈っているよ。
会えて嬉しかった。良い旅を続けてくれ。」
「Thank you」
それだけしか言えなかった。
自分の思いが少しでも彼に伝わるようにとの思いで、じっと彼の目を見つめた。
しかしこの時の私の心の中にどれほどの思いがあったことだろう。
何も言えなかった。
何を言おうとも傍観者の冷酷さ以上のものでありうるはずがない。
涙をこらえるのが精一杯であった。
涙を流す資格も私にはない。思いを込めて手を握りしめた。
奇しくも彼と私は同じ年。
どれほどやりたい事があっただろう。どれほどの心残りがあるだろう。
彼の妻、彼の娘。
彼の窓からは広い彼の牧場が見える。
彼の馬が、羊が草をはみ、犬たちが走り回っているのが見える。
それら全てを残して彼は旅立たねばならない。
『がんばって。』などと言う言葉は口に出来ない。
とき今に至り、何をがんばるというのだ。
そして涙は彼の人生を、闘っている彼を冒涜する事になるやもしれない......。
彼の訪問がこの日の最後だった。重い日だった。
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