Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年06月23日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-449
 定理五四 後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。むしろある行為を後悔する者は二重に不幸あるいは無能力である。
 証明 この定理の始めの部分は前定理と同様(*人間が自己自身を真の理性によって認識する限り、彼は自己の本質を、言いかえれば(第三部定理七により)自己の能力を認識するものと想定される。だからもし人間が自己自身を観想するにあたり自己のある無能力を知覚するとしたら、それは彼が自己を真に認識することから来るのではなくて、むしろ、彼の活動能力が阻害されることから来るのである。しかしもし、人間が自分より有力なある物を認識しその認識から自己の活動能力を正しく限定しこれによって自己の無能力を考えるという場合を我々が仮定するとしたら、それは人間が自己自身を明瞭に認識する場合、すなわち、彼の活動能力が促進される場合を考えているのにほかならない。此の故に、後悔をすなわち人間が自己の無能力を観想することから生ずる悲しみは、真の観想あるいは理性からは生じない。それは徳ではなくて受動である。)にして証明される。あとの部分は単にこの感情の定義(第三部付録:感情の諸定義二七 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲しみである。を見よ)のみから明らかである。なぜなら、後悔する人間は最初に悪しき欲望によって、次には悲しみによって、征服される者だからである。
 備考 人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつかあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。なぜなら、もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されえようか。民衆は恐れを知らない時に恐るべきものである。ゆえに少数者の利益ではなく社会全体の利益を考慮した予言者たちが謙遜、後悔および恭順をいたく推奨したのは怪しむに足りない。また実際に、これらの感情に支配される人々は他の人々よりもはるかに容易に、ついには理性の導きに従って生活するように、言いかえれば自由になって幸福な生活を享受するように導かれることができるのである。  (参考:民衆、恐るべきもの、コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus,/55年頃 - 120年頃))ローマ帝政期の属州のベルギカ(現ベルギー)に生まれと伝えられるが、 著「ゲルマニア」「歴史」「年代記」などを残す。ラテン語が学術書等に高等公用言語の用いられる代表格。)



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最終更新日  2022年06月23日 06時10分06秒
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