私の沼

私の沼

悪い夢を何度も見たい



 彼女との出会いは唐突だった。
 僕が、夜の波止場でぼんやりと海を見ていたら、少し離れたところに女の人影が見えた。
 夜になると、人なんか普段は誰もいない、さびしい場所だったので、僕は珍しいと感じた。
 それで、なんとなく彼女を眺めていた。
 彼女は、ゆらゆらふらふらと歩きながら辺りを見回していて、僕は、ちょっと不思議に思った。
 観光地でもあるし、それほど治安が悪い場所ではないとは思うけれど、こんな夜更けに、人気の無い波止場を女の人がひとりで歩いているなんてことは、あまり無いことだからだ。僕は、彼女の辺りを見回す仕草から、
(もしかして、道に迷っているんだろうか)
 と思った。
 ここはちょっと寂れてはいるけれど観光地ではあるし、僕のようにふらりと余所から訪れることもあるだろう。
 彼女はもしかしたら、ホテルに帰る道がわからなくなってしまった旅行者かもしれないと僕は思った。
 僕はゆっくりと、彼女に近づいていった。
 もしも道に迷っていたらわかる範囲で教えてあげてもいいし、それに、どうせ僕もそろそろ、宿のほうへ帰ろうかと思っていたので、途中まで送ってあげてもいいと思った。
 月の明るい、波の穏やかな、暑くない寒くない、素敵な夜だった。
 彼女の方も、僕がいることに気がついたようだった。そしてなぜか、ふらつきながらも急ぎ足で、僕のほうへと歩いてきた。
 近くまで来ると、やっと彼女の姿がはっきり見えた。
 彼女は白っぽいベージュ色のサマードレスに、こげ茶色の、踵の高いサンダルを履いていた。
 そして、夏だと言うのに、透けるように肌の色が白く見え、髪は長く黒かった。それに、なんだかとても小さかった。
 男としては小さいほうの僕よりも背が低く、体も見るからにほっそりとしていた。けれど、そんな体の割には、胸のあたりはその体から考えたら不自然なほど豊かに膨らんでいるように見えた。
 彼女が僕を見た。僕も彼女を見た。目が合ってしまった。僕は、彼女の顔をみて、一目でなんてきれいなんだろうと思った。
 うりざね顔、と言うのだろうか。絵画で言ったらモジリアニ風とでもいうか。面長で、古典的ですっきりとした美貌だった。
 けれど僕は、すぐに、彼女に対する、何か違和感のようなものを感じた。
 なぜかというと、彼女の目の焦点が、きちんと合っていなかったからだ。
 それに足取りもおぼつかない。でも、見たところ、病気とか、具合が悪いとか、そういうわけではなさそうだった。
 彼女は、どうも酒に酔っているように見えた。
 (なんだ、酔っぱらいだったのか。仕方ないなあ)
 そう思って、僕が、彼女をさりげなく避けて通り過ぎてしまおうとしたとき、彼女が、何かをつぶやきながら僕に近づいてきて、いきなり、よろけるように僕の方へ倒れ込んで来た。
(あっ)
 僕は慌てて彼女を支えた。
 そうして、とっさには何も思わなかったのに、僕は久しぶりに女特有のぐにゃりとした体の感触を感じて、少々頭が白くなった。
 が、しかし、だからと言って、どうにかするわけにも行かない。何しろ全く知らない女の人なのだから。当たり前のことだけど。
「大丈夫ですか」
 声をかけても、彼女の返事は無かった。
(困ったなあ)
 このまま放り投げて行く訳にもいかない。しかし、この海辺は僕にとっては旅先だから、知っている場所も無い。
「あの、大丈夫ですか。返事してください」
 僕がちょっと戸惑いながら問いかけると、
「大丈夫ですよお」
 と、案外のんびりした調子の返事が返って来た。
 とりあえず顔を覗き込むと、彼女は何がおかしいのかニヤニヤ笑っていたけれど、良く見ると目尻に涙が滲んでいた。
 僕はとりあえず、彼女の返事があったことにほっとした。そして続けて問いかけた。
「この近くの方ですか?それとも、ホテルかなんかに宿泊している方ですか?」
「どっちでもありませえん」
「どっちでもないって....ええ?」
僕は困ってしまい、頭を抱えた。
「彼とお.....はぐれちゃったの.....」
 そう言いながら、彼女は顔を上げた。どこも見ていない虚ろな目だった。
「はぐれちゃった....って言われても....」
 僕は辺りを見回し、どこかに男の人影が無いかと探した。けれど周囲は、波の音がするばかりで、人の気配など無かった。
 するとまた、彼女がのんびりした調子で言った。
「嘘よう。ほんとはねえ、彼は、奥さんのところに帰っちゃったのお」
(そんなこと、僕に言われたって)
 僕はほとほと困ってしまった。すると、不意に、彼女の手と顔が近づいて来て、僕の顔を両手で挟み、あっという間にキスされてしまった。
(な、なんだ、なんだ)
 僕は焦りながらも、なんだか逃げることもできなくなって、じっとしていた。頭の中は正に真っ白で、何も考えられなくなってしまった。
 わりと長いキスだった、のは気のせいだろうか。彼女は平然として、ゆっくりと唇を話すと、
「あなた、いい人のような気がする。今わかった」
 と言って、にっこりと笑った。
 そうして、少し前よりは、多少落ち着いた感じで、
「もう、大丈夫」
 と言った。
 夏といえど、シーズン終わりかけの夜風は少し涼しく感じた。ノースリーブのワンピースの、むき出しの彼女の肩が、僕には少し寒そうに見えた。  
 彼女も落ち着いて来たようだし、いつまでもここにいても、仕方がないように思えた。僕は彼女に、自分の宿泊先を教え、何かあったらそこへくるように話した。
 彼女は、黙って頷いていた。
 立ち上がらせ、一緒に歩き出すと、彼女は最初に見たときと同じ、ぼんやりと焦点の定まっていないような、虚ろな目をしていた。
 僕は彼女を近くのタクシー乗り場まで送り、運転手に少し多めに金を渡すと、彼女を乗せた。
 どこから来たのか知らないが、そう遠くから来たわけでもないのだろう。
 とりあえず今は、これが一番いい方法のような気がした。
 走って行くタクシーを見送って、僕も宿へと戻ろうと、歩き始めた。

 僕は大学生で、22歳になる。けれど、留年しているので、まだ3年生だ。
 なぜ留年したのかというと、2年生のとき、半年くらい入院していたからだ。入院先は、精神病院の閉鎖病棟だった。
 おかしくなったのは、はじめてではなかったのだけれど、そのときのはちょっときつかった。
 唯一の家族だった祖父が死んで、それから僕は少しずつ壊れかけていたらしい。
 僕にはもともと、父も母もいない。
 祖父が僕に、折りに触れてポツポツと語ってくれた話を統合すると、僕の母は幼い頃から「少しおかしい」ところがあったが入院するほどではなかった、らしい。
 父親に関しては一切わからない。おそらく母親自身もわかっていなかったのだろうと祖父は言っていた。
 その母は僕のお産を終えるとすぐにまた家出をして、それ以降居場所がわからなくなったそうだ。祖父はそれ以上語ろうとしなかったし、実際に母の行方は未だにわからないようだった。
 その、かなりおかしくなったときの僕は、ふと気がついたら入院していたという有様で、僕は、そのときの記憶がほとんど抜け落ちている。
 退院してから、回りの友人や知り合いに事情を聞いたところによると、僕はある日、住んでいたアパートの3階の窓から、部屋中の何もかもを投げたのだという。
 本、電話、テレビ、ラジカセ、電子レンジ、鍋、皿、靴、鏡、時計、写真立て、などなど。ほとんど全部。
 そして挙句の果てに、どんな怪力が出ていたのかわからないが、冷蔵庫、洗濯機まで窓の外に放り投げたらしい。
 そして当然ながら、近所の人の通報で警察がやってきて、僕はそのまま逮捕された、ということだった。
 なんでも、僕が投げたラジカセが当たって、頭に怪我をした人がいるというのだ。大きな怪我ではなかったのが不幸中の幸いだったと今も思う。おそらく、誰かが死んでいたとしてもちっともおかしくない状況だったようなのだから。
 そしてそのとき僕の部屋の中では、そのとき一緒に暮らしていた彼女が、泣きながら座り込んでいたのだと言う。
 でも、その彼女のことを、なぜか僕は全く覚えていない。写真も見たが、誰なのかわからなかった。今もわからない。そして記憶のないまま、僕は彼女の両親の代理人に、今後一切彼女に関わらないよう、念書を書かされている。
 でもきっと、その彼女のことを覚えていないことは、僕にとって良いことなんだろうと思う。
 まあそんなわけで、僕は立派に前科もちだし、病気だって治ったわけではない。今はとりあえず大学生だけれど、この先、大学を出たところで、一般の就職はどうもできないらしいし、頼れそうな身内もいない。
 それほど多くはなかった祖父の遺産を学費にあて、アルバイトもしながら、僕は今のところなんとか生活している。
 大学を卒業することは、育ててくれた祖父の望みでもあったので、そこまではなんとかやっていこうと思っている。でも、そのあとのことは、よくわからない。 
 ゆっくり歩きながら、宿に戻ると、僕は自分の部屋に戻り、電気もつけずに、布団に潜り込むと、そのまま眠った。疲れていたせいか、すぐに眠れた。

 その次の日の夕方。
 宿の食堂で夕食を食べながら雑誌を読んでいると、目の前に昨日の彼女が現れた。
 あまりにも唐突だったので、僕は食べていたものを吹き出しそうになってしまった。
 「こんばんは」
 彼女はにっこりと笑った。
 「あ、どうも」
 彼女は昨日と違う水色のサマードレスを着て、小さな白いかごバッグを持っていた。
 回りの宿泊客や、宿の女主人が、みんな耳をそばだてて僕と彼女の会話を聞いているのがわかった。
 ここはそもそも、長期滞在の客専用の安宿で、商用の人も多いのか、基本的に男ばかり。女の一人客など存在しない場所だ。老夫婦なら泊まることもあるだろうけれど、若いカップルなどは来ない。
 そういう小さな民宿だ。 
 彼女は僕の目の前の椅子に腰掛け、にこにこしていたけれど、自分から話し出す様子はなかった。まぁでもこんな、みんなが聞き耳を立てているようなところでは何も話せないのかもしれない。僕は雑誌を置き腰を上げた。
 「外に出ましょうか?」
 彼女は頷いた。
 僕が先に立って歩いていくと、彼女は黙ったままついてきた。
 そうして、宿から少し離れた、海がよく見えるコンクリート製の土手に腰掛けると、彼女は隣に座った。
 「あの、何か?」
 何を話したらいいかわからないまま、僕は尋ねた。
 彼女は、足をぶらぶらさせながら、のんびりと言った。
 「昨日の夜、あそこに泊まってるって教えてくれたじゃない。だから来てみたの」
 「それだけ?」
 「うん。他に行くところもなかったし」
 彼女を明るいところでよく見ると、僕よりは年上だろうと言うことがわかった。27、8歳くらいだろうか。
 彼女も改めて僕を見て、思っていたよりも若い男だとでも感じたのだろうか。しげしげと僕の顔を見ていた。
 「行くところがないって、どうして?」
 「昨日ね、一緒にいた人に逃げられちゃったから」
 「ああ、彼氏なんだろ」
 「ほんとは彼氏ってわけでもないけど。家に帰っちゃったみたい」
 「君も家に帰ったらいいさ」
 僕はそう言った。すると女の顔が曇った。
 「わたし、帰るところなんてないのよ」
 「それはどうして?そんなわけないだろう」
 いい加減かなぁと思いながら、僕は適当に言った。どちらにしろ、そんなことは僕にはどうしようもない問題なのだと思った。
 「そういうことだってあるのよ。わたし、あなたのところに泊めてもらおうと思って来てみたの。でも、もういいわ」
 彼女はそう言うと、立ち上がった。そして、そのまますたすたと行ってしまおうとするので、僕はあわてて追いかけた。
 彼女はなんだか、ムリをしているように見えた。
 「ごめん。気を悪くしたのなら、謝るよ」
 「別に気を悪くしてなんかいないわよ」
 「あのさ、怒らないで。話はわかったよ、行くところがないんだろ。だったら、今夜は一緒に泊まろう。僕のところに来ればいいよ。もう夕方だもんな」
 彼女は立ち止まって、僕を見た。不安気な表情だった。僕の方を見ているのに、どこか遠くを眺めているような気もした。
 そのとき、僕は、なぜか、つらい気持ちになった。それでつい、彼女を抱きしめてしまった。
 僕は彼女を連れて、宿に帰った。恐る恐る、女主人に女の子を泊めたいと言うと、嫌な顔をされたけど、まあなんとか僕の部屋に泊めることは了承してくれた。

 宿の僕の部屋は、6畳あるかないかの狭い部屋だ。
 風呂を済ませて部屋に戻ると、彼女はもうすでに布団を敷いて横になっていて、疲れた表情で目を閉じていた。
 僕も、そっと隣の布団へ潜り込み、さっさと眠ろうとした。
 彼女がこの先、どうするつもりなのかしらないけれど、明日になればまた何か考えるつもりなのだろう。
 家出少女、という年齢にも見えないし、どういう事情かはわからないけれど、あまり口出しをしても仕方がないように思えた。
 僕は眠ろうとしたけれど、当然のことながら、なかなか寝付けなかった。
 僕だって一応、心はともかく体は健康な若い男なのだ。美人が隣に寝ていて何とも思わないわけがない。それに彼女が酔っぱらっていたとはいえ、昨夜のキスのことがどうしても頭に浮かんでしまった。
 仕方なく僕は目を開けて、ふと隣を見た。すると、宿の浴衣の前が少し開いているせいか、彼女の白い胸元が見えた。
(だめだ、見るのやめよう)
 そう思って、目を逸らそうとすると、不意に彼女がぱっちりと目を開けた。
 そうして、そのままそっと、彼女は無言のまま、僕の布団の中に入って来た。
 僕は薄暗い部屋の中で、彼女の体のすべての場所を見た。
 想像通りの細くしなやかな体、くびれた腰。そして不自然なほど大きくて柔らかい乳房。うりざね顔のきれいな顔が、僕が夢中になって愛撫を与える手に反応して、かすかに歪んだ。
 服を着ているときよりも、裸になったときの方が、彼女は何倍もいい女に見えた。それはもう、残酷なくらいにきれいなのだった。
(いったいなんで、僕はこんなきれいな女とこんなことになっているんだろうな?)
 僕はふと思った。そうして、なぜだかわからないけれど、ちょっと怖くなった。でも、もう、遅いのかもしれなかった。
 彼女はあっという間に僕を飲み込んでしまった。僕は彼女の泉に沈んで、あっという間に、自分で自分が見えなくなってしまった。 

 次の朝。
 民宿の朝食の時間に、僕と彼女は起きることができなかった。何しろ明け方近くまで、何度も繰り返し、同じことをしていたのだから。
 昼近くに目を覚まして、連れ立って食堂へ行くと、宿の女主人が待っていた。
 「すみません、朝食の時間に起きてこられなくて」
 僕が軽く頭を下げると、女主人は渋い顔をして、待ち構えていたように話を始めた。
 「そんなことはいいんですよ。でも、昨晩のことで、お隣の部屋の方から苦情が来ましてね。この通り、壁の薄い宿だし、どういうことかお分かりですよね」
 「すみません」
 もちろん心当たりはある。大有りだ。謝るしかないので、謝った。
 彼女も黙ったまま僕の隣で頭を下げていた。
 「それでね、今夜からは、ちょっとお断りしたいんですよ。お一人ならいいんですけどね、申し訳ないけど、うちはそういう宿じゃないから」
 まるで吐き出すように宿の女主人は言い捨てた。  

 僕と彼女は宿を出ると、しばらくのあいだ無言で歩き続けて、人気のない砂浜へ降りた。
 後ろには国道が通っているので、車がたまに通る他は、何の音もしない静かな浜辺だった。
 波の音だけが聞こえる。
 今はちょうど、シーズンが完全に終わる寸前といったところで、泳ぐ人など誰もいない。
 水も冷たい。
 「あなたまで、あの宿を出てくることはなかったんじゃないのかしら」
 彼女が言った。
 「そうかもしれないけど、どうせ居づらくなっただろうから、いいよ。それに、どうせそろそろ東京に帰ろうかと思ってたんだ」
 「ここへは、旅行で来たの?」
 「そうだよ。今回は二週間くらい滞在してたかな」
 「ずいぶん長いのね。何も無いところなのに。どうして?」
 「一年に一度くらい、海のそばで過ごしたくて。毎年夏休みになると、そういうところばかり回ってるんだ。海の近くで育ったからさ」
 「ふうん」
 「君は、どうしてここに?」
 「男の人とこの近くのホテルに宿泊してたの」
 「その男はどうしたのさ」
 「さあ、だから帰ったんじゃない、おうちに」
 「彼は家庭があるの?」
 「たぶんね」
 「じゃ、しょうがないじゃん」
 「そうね」
 彼女はため息をついた。
 彼女を見ていたら、ふとキスがしたくなって、僕は彼女の肩を抱き寄せてキスした。
 キスが終わると、なんだかおかしくなって二人で笑ってしまった。
 「ねえ、わたしお腹空いたな。ね、ごちそうしてくれる?」
 彼女は伸びをしながら言った。
 気がついたら、僕もお腹が空いていた。
 「そういえばお腹空いたね。わかりました、ごちそうします」
 「ありがとう」
 彼女は笑った。

 国道沿いの寂れたレストランで、僕と彼女は、誰でも作れそうな伸びたラーメンを二人ですすった。
 けれど、お腹が空いていたせいか、それでもおいしく感じた。
 客は自分たちの他に、誰もいない。
 安っぽい傾いたテーブルに、使い込んだらしいビニールのテーブルクロス。赤い合皮が張ってある錆びのついた椅子。やたらと広々としてはいるけど、廃れた雰囲気の店内。
 ところで、彼女がラーメンどんぶりに顔を突っ込んでいる光景はなかなかの見ものだった。飢えた動物が何かを食べている様子というのは、ある種の清々しさがあるように僕は感じた。
 汁を全部飲み終わると、彼女はやっと顔を上げた。
 「あー、おいしかったぁ」
 「ずいぶん、お腹がすいてたんだね」
 「うん。だって昨日から何も食べてないんだもの」
 「どうして?」
 「一緒にいた人と別れてから、一度も食事してないの」
 「だから、どうして」
 「お財布が無くなってたのよね」
 「え?あのさ、まさか」
 「うん。たぶんそのまさか。彼が持っていったみたい」
 彼女は淡々と言った。
 僕はため息をついた。
 「それ、洒落にならないだろ。なんだよそいつ、ふざけんな。で、警察には行った?」
 「えっ嫌よ、警察なんて。警察嫌い、大嫌い」
 彼女はほんとうに怯えた様子で、顔を顰めながら言った。
 僕は頭が痛くなってきた。
 「そうか。でも困ったな。実は僕もあまりお金ないんだ。二週間の滞在で使い切ってしまったからさ。ラーメンくらいはごちそうできるけど......今夜二人でどこかに泊まれるほどには、持っていないんだよ。帰りの電車賃のこと考えると」
 彼女は、僕の顔をぼんやりと見ていたのだけれど、ふと気がついたように、
 「ねえ、今いくらあるの?」
 と聞いてきた。
 僕は、ちょっと戸惑いながらも正直に答えた。
 「一万五千円」
 「あ、そう。じゃ、二千円貸して。それくらいなら平気でしょ」
 「どうするんだよ?」
 「だいじょうぶ、まかせといて」

 レストランを出ると、彼女が向かった場所は、国道沿いにある、場末感の漂うパチンコ屋だった。
 こんなところ出ないんじゃないか、と僕は思ったのだが、彼女は迷わずそのパチンコ屋に入ると、一台一台じっくり見て回っていた。その間三十分。
 そして、彼女は千円分のカードを買い、ひとつの台に座ると、五百円分の玉を出しゲームを始めた。
 僕は彼女の隣に腰掛けて、彼女を眺めていた。
 彼女が打ち始めると、その台は信じられないほど良く回った。
 五百円分の玉がなくなると、彼女は冷静な手つきでもう一回五百円分の玉を出した。
 そしてまもなく、彼女の台は大当たりを出した。そこからはいわゆる連チャン状態で、結局千円は、四万円になった。外にある換金所の前で、彼女がそれをそのまま僕に渡そうとするので、僕は慌てて、
 「いいよ、君が儲けたお金だろう」
 と断ったのだけれど、彼女は、
 「だってわたし財布もってないもん」
 と面倒くさそうに言った。僕は仕方なくうなずいて、お金を預かることにした。 

 僕と彼女は、パチンコ屋を出ると、ぼんやりと歩き始めた。
 夏の終わりの空は高く、きれいに澄んでいた。
 歩いていると、不意に彼女が僕の手を握ってきた。僕も握り返した。
 「これから、どこへ行こうか」
 僕はつぶやいた。
 「駅でしょ」
 と、呆気なく彼女が言った。
 「駅?」
 「うん。だって、あなた、帰るんでしょ、東京に」
 「いや、でも」
 「大丈夫だよ、わたしは」
 彼女が明るく言った。
 「ほんとに?」
 「大人だもん、平気です。なんだか色々迷惑かけちゃってごめんね」
 彼女は笑って、僕の目を覗き込んだ。
 僕はいくらか、ほっとしたような顔をしていたに違いない。

 駅までは、途中からバスに乗った。彼女は踵の高いサンダルを履いていたので、足に豆ができてしまい、歩けなくなったのだ。
 海岸の町の小さな駅は、シーズンが終わりかけているせいか人が少なく、まばらだった。
 「足、だいじょうぶ?」
 「うん」
 彼女がぼんやりと答える。
 まるで、心がここに無いみたいだった。
 「そこの薬局で、絆創膏でも買おうよ。足、痛いだろう」
 「いらない。それよりも、電車の時間は?」
 「あと、30分近くあるよ」
 「そう。帰り気をつけてね」
 「ところで、君はどうするの、これから」
 僕がそう言うと、ぼんやりしていた彼女が急に、夢から覚めたように、ぱち、と瞬きした。
 「じゃーね、それじゃバイバイ。楽しかったわ」
 彼女はいきなりそう言うと、僕に手を振り、スカートの裾の埃をパンパンと手で払い、豆のできた足を軽く引きずりながら、歩いて行ってしまった。
 僕は少し呆然として、彼女を見送った。
 そして。
 彼女が、通りの角を曲がって、見えなくなった瞬間、僕の中で何かが切れた。
 すると今度は僕が、ぱちん、と音を立てて、夢から覚めたような気がした。
(何をやってるんだ?僕は)
 僕は、慌てて走り出した。追いかけなきゃいけない。彼女は、お金を持ってない。一円も。僕が預かったままだ。それに、彼女に行くところなんてあるわけないんだ。最初からそう言ってたじゃないか。
 通りの角を曲がったところには、もうすでに彼女はいなかった。寂れた田舎の駅の周辺は、細い道が入り組んでいて、わかりにくかった。一体彼女はこの網目のような街のどこにいるのだろうか。
 僕は必死に走った。まだ遠くへ行ったわけがない。彼女は歩いて行ったのだから。
 (でも、どこだ?)
 あせっているせいか、頭が混乱した。
 古い床屋の店先を曲がると、何でも屋のような雑貨店があって、その先には食堂があって、そこを抜けると、衣料品店。
どこもかしこも、煤けたような色をしていて、通りの雰囲気が似通っている上に、一本奥の通りへ入ると、迷路のように中がぐるぐると回っているのだった。
 赤いカンナが毒々しく咲き誇る板塀の家の庭先を通り過ぎるとき、僕は彼女の匂いを微かに感じたような気がした。でもそれは一瞬のうちに潮の匂いでかき消されてしまい、僕は彼女をもう見つけられないような気がして、立ち止まった。気がついたら、いつの間にか涙が流れてきていて、僕は自分で自分に驚いた。

 どのくらいの時間が過ぎたのかわからない。彼女はどうしても見つからなかった。
 僕は仕方なく、駅へ戻った。
 すると。
 「あ」
 僕は思わずつぶやいた。
 そして息を呑んだ。彼女が駅前の小さなロータリーの脇に立っていたのだ。
 「ねえ、どこへ行ってたの?」
 彼女が言った。
 「どこ、って」
 「もう、電車行っちゃったよ」
 彼女は線路のほうを指差した。
 「君こそ、なんでここにいるんだよ」
 僕は安堵のあまり、怒った調子で言った。
 「なんで、って・・・。やっぱり電車が出るまでお見送りしようかと思ったの。それだけよ。あなたこそ、一体どうしたの?そんなに汗かいて」
 僕は何も言いたくなくなって、とりあえず彼女を引っ張って歩き出した。そして駅舎の影に入り、彼女を抱きしめてキスをすると、少し気持ちが落ち着いた。 
 「喉が渇いた」
 彼女が不意にそう言った。僕は彼女を放した。
 「なんか飲む?」
 「うん」
 僕と彼女は駅前の自動販売機で冷たいウーロン茶を二本買い、ベンチに座って飲んだ。
 「君はこれからどうするの」
 「あなたは?」
 「わからない」
 「東京に帰ったほうがいいんじゃないの?」
 「いやだ」
 「じゃあどうするの」
 「わからない」
 気がつくと、日が傾きかけていた。もう夕方なのだ。
 飲み終わった缶をゴミ箱に捨て、僕は彼女の手を握り歩き出した。
 「どこ行くの?」
 「ホテル」
 「ほんとに大丈夫なの?帰らなくて」
 「いいんだよ、そんなことは」

 海岸沿いをしばらく歩くと、何軒かリゾートホテルがあった。
 僕にはあまり縁が無かったけれど、この町にはそういう場所もあるのだ。
 そして、その中のひとつのホテルに僕と彼女はチェックインすることができた。
 季節も終わって静かになっている時期なので、いきなり行ったのに、そう嫌な顔もされずに済んだ。きっと部屋がたくさん空いていたんだろう。 
 部屋にはダブルベッドが置いてあって、ひろびろとしてゆったりした作りだった。窓からは海が見えた。
 僕と彼女は、展望レストランへ行った。人は少なめで、静かだった。二人で、ワインを一本頼んで、ゆっくりと食事をした。
 「きれいね」
 暗く広がる海を眺めながら、彼女がつぶやいた。
 初めて会った晩と同じ、月がきれいな夜だった。 
 部屋に戻ると、僕は彼女をそっと抱きしめた。
 そうして、僕は、ふと、不思議な気持ちになった。なんだか、彼女と、初めて抱き合ったような気がした。
 「好きだよ」
 自分でも戸惑いながら、僕がそう口すると、彼女は少し微笑んで、
 「情が移ったのよ」
 と、冷静な声で言った。
 「そんなことないよ」
 彼女にあまりにもあっさりと否定されて、僕は少し落ち込んだ。
 彼女は僕を慰めるようにキスをして、そしてこう言った。
 「それじゃ、今夜、わたしと一緒に死んでくれる?」
 「え?」
 「今夜一緒に死んでよ。わたしと」
 僕は頭がクラクラしてきた。
 思考回路のどこかが詰まっているように感じた。何もかも冷静に考えられない。何かを考えようとしても、すべてが行き止まりになり思考が完結しないのだ。どうしてなのかはわからない。これはたぶん悪い夢だ。夢なんだ、と思った。でも、それならば、ここで死んでもいいのじゃないのか。だって夢なんだとしたら。
 「だいじょうぶよ、怖くないから。あなたに怖い思いなんか、させないから」
 彼女が優しい声で言う。海には、優しい声で船乗りを誘う女の化け物がたくさんいるという。その声を聞いてしまった船乗りはけして生きて帰って来ることは無い。でもだからなんだって言うんだ?
 そういえば、ここはどこなんだろう。思考が詰まる。
 「お願い、今夜わたしと一緒に死んで」
 彼女はまるで呪文のように同じ言葉を繰り返す。僕の体に口付けをしながら。
 僕は気が遠くなりそうになった。
 「いいよ。わかった。それでもいいような気がしてきたよ」
 とうとう、僕はそう答えた。
 月明かりの下、彼女の体は透き通るように妖しい光を纏っていた。
 「ねえ、わたしうれしい。とても幸せよ」
 彼女はため息をつくようにそう言った。
 そして彼女はそのまま僕の首に手を回し、僕に再びキスをしてきた。
 そのとき、彼女の口から、僕の口に何かが運び込まれた。薬のカプセルのようだった。
 僕は彼女と舌をからめあうようにしてそれを受け取り、そのままそのカプセルを飲み込んだ。
 少しすると、僕は体中の力を失い、気が遠くなっていった。彼女が僕の頭を優しく撫でてくれているのを、ぼんやりと感じた。  

 僕は波の音で目を覚ました。明け方だった。
 目を覚ましたことが僕には不思議だったけれど、でも、どこか自分の一部が死んでしまったような気もした。
 隣で眠っているはずの彼女はなぜかいなかった。 
 僕は、あわてて、部屋中を探し回った。
 彼女のバッグも、服も、何もかも消えていた。けれど、僕の財布の中の、彼女がパチンコで稼いだはずのお金は残っていた。
 彼女はお金も持たずに出て行ったのだ。
 きっと夜のうちにいなくなったのだろう。
 嫌な予感がした。

 僕はフロントに電話し、彼女のことを話してみた。すると、驚いたことに、フロントでは彼女のことを良く知っていた。
 そして、困ったような表情を浮かべながらも、彼女がこの辺りでは有名な売春婦であることを教えてくれた。海辺で男を誘い、ホテルで商売をするのだという。組織にもちゃんと入っていて、電話で呼び出すことも可能なのだそうだ。もちろん地元ヤクザの息もかかっているという。
 要するに、僕に対して、「あの女に深入りしないように」と、ホテルのフロントの男性は親切に教えてくれたのだった。
 彼女は夜中に、ひとりでホテルを出て行ったという。もちろん、ホテルの従業員は彼女に声をかけたりはしなかった。彼女は呼び出しに応じてホテルに現れる風俗嬢なのだから、それが当たり前のことだったからだ。
 僕は驚きながらその話を黙って聞いていたけれど、どこかでいろんなことが腑に落ちたような気がした。しかしそれでも嫌な予感は消えなかった。僕はフロントの男性に、彼女がお金を持って行かなかったことを話し、自殺をほのめかしていたことも説明した。
 けれどそれでも、フロントの男は、半分笑ったような感じで、まともに僕の話に取り合ってくれる様子は無かった。

 僕は仕方なく、そのホテルでひとりで朝食を取ると、チェックアウトし、そのまま駅まで歩き、その日のうちに東京へ帰った。
 いくらか釈然とはしなかったけれど、彼女がいなくなってしまったこと、そして彼女を捜しようがないことはわかったし、ホテルの従業員の話から、彼女の行動の不可思議さが理解できたからだ。そして彼女がいないのなら、この土地にいる必要はもう無かった。

 しかし。
 その帰りの列車の中で、不思議なことが起こった。
 彼女が僕と同じ列車に乗っていたのである。
 彼女は遠くの席に、ひとりで座っていた。
 僕は驚き、喜んで、彼女のそばに行こうとした。話がしたかった。 
 しかし僕は、どうしてもそれ以上彼女に近づくことができないのだ。近づこうと、車両の中を歩き出すと、ある一定の距離になるとふっと彼女が消えてしまうのだ。彼女はにこにこしているが、もちろん話もできない。僕は、まるで自分の目が錯覚を起こし続けているように感じた。
 そうして時が過ぎ。東京に帰って一ヶ月ほどたったころ、僕は海辺の町の警察から電話を受けた。
 しばらく前に彼女の死体が発見されたのだという。
 睡眠薬を大量に飲んで、海に入って自殺したらしいということだった。
 そして一応捜査したところ、最後に一緒にいた人物として僕が浮上したらしかった。
 僕は最初の出会いの部分から、本当のことをそのまま警察に話した。
 一瞬、彼女の死について、僕が疑われているのかと思ったけれど、そうではないらしかった。
 彼女は紛れも無い自殺で、他殺の線はあり得ないのだと言う。
 警察は、ただ僕に事実を確認したかっただけらしかった。

 その後の、僕の話。
 それからの僕は、なぜか、自分で思っていたよりもいろんなことが順調に進んだ。
 自分でもそれは、不思議で仕方が無かった。
 まずは、病気が沈静化し、薬を必要としなくなった。
 そして自然に勉強に身が入るようになり、信頼できる教授に目をかけてもらうことができた。
 僕は、就職は無理だったけれど、大学院に残ることになった。
 そして順調に論文を書き、大学院を卒業すると、助手になり、講師になり、生活も安定した。
 僕の面倒を見てくれた教授は、僕が一般社会で就職が難しいことを考慮してくれ、生きて行く場を与えてくれたのだ。
 これからも、なんとか生きていくことができそうだ、生きていくことも悪くない。僕はようやくそんな風に自分の人生を考えることができるようになっていた。
 ところで、いきなりだけれど。あれからずっと、僕は彼女と暮らしている。本当だ。
 あの日、やはり彼女は僕と同じ列車に乗っていたのだ。
 東京に帰ってきてすぐの頃は、彼女は基本的に僕の夢の中だけにしか現れなかった。
 けれど、しだいに、平日の夜や、休日の昼間も、家にいてくれるようになった。
 そして今は普通に、僕の奥さんとして、いつも一緒に暮らしている。
 もちろん朝から一緒だ。
 実は、そうこうしているうちに、なんと子供も産まれた。彼女に良く似た、かわいい女の子だ。もうすぐ3歳になる。僕はこの子をめちゃめちゃ可愛がっている。
 仕事も順調だし、暖かい家庭もある。これ以上、僕には何も望むものはない。
 幼い頃から夢見ていた暖かい家庭を、僕はやっと作ることができたのだ。
 今の僕は、誰に聞かれても、「幸せだ」とはっきりと答えることができる。
 僕が望んでいたのは、きっとこんな生活だったのだ。
 でも。
 彼女と、娘の姿は、なぜか僕以外の人たちには見えない。
 そのことを僕は一応知っている。知っているので、僕はそんなことを、誰かの前で言うことは無い。もちろん病院だって行かない。薬だって飲まなくていい。僕はけして、病気なんかじゃないから。 

 日曜日の朝、僕がベッドで眠っていると、僕の体に小さくて可愛いものが乗っかってきて、ぴたぴたと顔や体を叩く。
 「パパ、パパ!早く起きて!遊んでよ!」
 甲高くよく響く、娘の声。
 都内の2DKのマンションは、家族3人で暮らすには少々狭いけど、給料が高いわけじゃないから、仕方が無い。
 「ちょっと待ってくれ、もうちょっと寝かせてくれよ」
 僕は布団を頭まで被りながら娘にそう言う。
 そして、キッチンの方で、彼女が朝食を作っている音がする。
 湯を沸かすような微かな音、コーヒーの匂い、トーストが焼ける匂い、そして今日の天気予報を告げるテレビの音。
 「ねえ、あなた、そろそろ起きたら?」
 甘く優しい、彼女の声が聞こえる。
 僕は。
 僕は、息を吐きながら、準備を整える。
 自分を整える。
 目を閉じたまま。
 この加減が大事だ。
 不用意に目を開けたりしないようにしなければならない。
 寝起きだからといって、失敗は許されない。
 それは恐ろしい結果を産む。
 おそらく、今の幸せのすべてが消えてしまうかもしれないのだ。
 「あなた、朝ごはんができたわよ」
 再び聞こえてくる、優しい、とても優しい彼女の声。
 娘が、僕のベッドを飛び降りて、彼女に纏わりつきに行く。
 「ねーねーママ、今日はパパと公園に行くんだよ!」
 「そう、それは良かったわねえ」
 僕はゆっくりと準備を整える。
 次第に、準備が整って来るのを感じる。

 この幸せが消えてしまわないように。
 この幸せを無くすことのないように。
 僕はゆっくりと目を開ける。
 そんな僕の目に彼女と娘が映る。
 誰にも見えはしない彼女と娘が。

 ああ、僕は今日も大丈夫だ。






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