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本名シルヴァーナ・サヴォレッリ(Silvana Savorelli )1946年4月30日、アフリカの旧イタリア領エリトリアのアスマラ(Asmara) 生、イタリアの歌手。1962年サンレモ音楽祭にはタニヤ(Tanya)の芸名で出場、その後 ララ・サン・ポ ー ル となる。 Tania の表記の場合もある。
イタリア人の父とエリトリア人の母の間に生まれました。歌の勉強は父の祖国イタリアのラヴェンナに戻ってから始め、好奇心も旺盛でマヘリア・ジャクソン、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングなどの「ゴスペル」や「スピリチャル」に興味がありました。彼女の音楽の先生はミラノ・スカラ座で高齢ながら現役で歌っているティナ・ブリーニ教授でした。
彼女のデビューは1960年世界自転車競技大会関連イベントの「ミラノ音楽の6日間」に参加したときです。当時は非常に珍しいソウル、ジャズ、ブルースのレパートリーを歌い評論家の注意をひき、「イタリアの歌う黒真珠」という愛称が付きました。61年レッド・レコーズと契約し芸名タニヤとして"Miracolo"でレコード・デビューします。
16歳の時に62年サンレモ音楽祭に初出場し、ウィルマ・デ・アンジェリスをパートナーに"しあわせの花 (幸福の色)"を歌いますが、レコード会社がシート(FLEX)を主力だったので目立った成績を残せませんでした。 64年クラン・チェレンターノに移籍し、「クランの娘(LA RAGAZZA DEL CLAN)」として売出してもらえる筈でした。しかし社長チェレンターノが、ドン・バッキー(DON BACKY)のガール・フレンドのミレーナ・カントゥ(MILENA CANTU')を横取りした見返りに、ミレイナを「クランの娘」にしたため、タニヤは冷や飯を食らいます。
66年彼女の歌に惹かれた小さなレコード会社のオーナーで興行師、またミルバの初期のヒット曲 "フラメンコ・ロック(FLAMENCO ROCK)"の作詞家でもあるピエール・クィント・カリアッジ(Pier Quinto Cariaggi)とめぐり会い恋に落ちました。彼のレコード会社CDIに移籍、芸名をララ・サン・ポールに変えます。カリアッジは以前からイタリアでのプロモーターとしてレコードを出していたポーランドの人気歌手アンナ・ゲルマン(ANNA GERMAN)を67年第15回ナポリ音楽祭で"あなたは望む(TE FAIE DESIDERA')"を歌わせ、そのパートナにララ・サンポールを出場させました。この曲は8位入賞し成功を収めます。
CDI-2008
CDI-2008 (1967年7月 CDI - CDI) TE FAIE DESIDERA' (あなたは望む) ANNA GERMAN/ LARA SAINT PAUL
翌68年カリアッジは恋人ララのために最大の難事業を成功させます。以前からプロモーターをしていたライオネル・ハンプトン(LIONEL HAMPTON)をサンレモ音楽祭のゲストに、"サッチモ"ルイ・アームストロング(LUIS ARMSTRONG)とサラ・ヴォーン(SARAH VAUGHM)を出場歌手に招く計画を立てます。サラはだめでアーサー・キット(EARTHA KITT)に代わりましたが、サッチモとララの歌う"歌が出る(MI VA DI CANTARE)"は見事入賞し、カリアッジもララも一躍時の人となりました。この二人は当然のことのようにその年に結婚をします。
その後サンレモ音楽祭に72年"瞳にしびれて(SE NON FOSSE FRA QUESTE MI BRACCIA LO INVENTEREI)"、73年"木枯しの家(UNA CASA GRANDE)"で3度の入賞を果たします。出場はカリアッジがCDIを70年に閉鎖したため、イタリア・フォノグラムからでした。76年第5回東京音楽祭のため来日"かもめはどこに飛ぶ(DOVE VOLANO I GABBIANI)"で銀賞を受賞しました。77年カリアッジのサポートの下、彼女は"LASAPA"( LA RA SA INT PA UL)レーベルと音楽出版社を立上げ"Saffo music(愛に捧ぐ)"というアルバムを発売しました。
70年代後半から他のカンツォーネ歌手同様「冬の時代」に入りますが、82年アメリカの女優ジェーン・フォンダ(Jane Fonda.)が始めたエアロ・ビクスをイタリアに広め"A A AA Aerobica"のシングル盤も大ヒットしました。
95年夫カリアッジが企画し、ララがレポーターとなってルチアーノ・パヴァロッティの私生活のドキュメント番組を製作しました。これが夫婦の最後の仕事でした。夫ピエール・クィント・カリアッジは彼女のために88年「ララ・サンポール功績賞(Merit of Achievement Award)」を設立し、1995年6月28日ミラノで亡くなりました。
所属レコード会社は61~62年The Red Record、65年Ciao!Ragazzi (Clan Celentano)、66~70年CDI、73年Polydor、77年Ducale、77年~ LASAPA
ララ・サン・ポ ー ルの国内盤
KW-2006 (1972年6月 RICORDI - ポリドール) 17cmCP サンレモ1972 (SAN REMO 1972)
4.瞳にしびれて (SE NON FOSSE FRA QUESTE MI BRACCIA LO INVENTEREI)
KW-2006
MW-2068
MW-2068 (1973年6月 RICORDI - ポリドール) 30cmLP サンレモ1973 (SAN REMO 1973)
14.木枯しの家 (UNA CASA GRANDE)
CM- 21 (1976年10月 SEVEN SEAS - キング) かもめはどこに飛ぶ (DOVE VOLANO I GABBIANI)/チャオ・アモーレ (CIAO AMORE)
CM- 21
アルバムにつきましては私の過去ブログ「 ララ・サン・ポール(LARA SAINT PAUL)サッチモとサンレモで歌った女 」 ( http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/3972702.html )をご覧ください。
★ ジーノ・ブラミエリ (vm) Gino Bramieri
本名ルイジ・ブラミエリ(Luigi Bramieri)、1928年6月21日~1996年6月18日ミラノ生・没、コメディアン、映画・TV俳優。

14歳で地元のイタリア商業銀行で事務員として働き始め、1948年19歳で結婚、ほぼ 40 年後に離婚します。
演劇のデビューは43年終わり ロヴェッラスカの国内避難民慰問のショーでした。彼はフランコ&チッチョ(Franco e Ciccio)、ニーノ・タラント(Nino Taranto,)、トト(Totò)など一流コメディアンと映画やTVで共演をし、人気コメディアンの一人となります。60年代に入りCGDからレコードを出し、62年サンレモ音楽祭で2曲歌い、入賞した"馬にまたがり"がヒット。
69年ミルバと共演したミュージカル"旗の天使(Angeli in bandiera)"好評でした。
所属レコード会社は61~62年CGD、70~73年Bla Bla、77年Skorpion、78年Cetra、80年Lupus、69年ミュージカル「旗の天使(Angeli in bandiera)」 (Carosello, PLP 327; con Milva)
ジーノ・ブラミエリの国内盤
IF- 7 (1962年5月25日 CGD - キング) 25cmLP 1962年サンレモ国際音楽祭 (SAN REMO 1962)
9.馬にまたがり (LUI ANDAVA A CAVALLO)
IF- 7
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