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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第七話 黄金の雷(12)
【 第七話 黄金の雷(12) 】
ところで、この時、隣国ラ・プラタ副王領に遠征していて、まだトゥパク・アマルの捕えられたことなど何も知らぬ彼の甥たる18歳の若き将アンドレスは、共にラ・プラタ副王領で反乱軍を率いるアパサの元を離れ、同副王領内のティティカカ湖東方の町ソラータに布陣していた。
ソラータは、古(いにしえ)からのインカの聖地、かのティティカカ湖畔の町プノの包囲戦で、総指揮官フロレスの副官を務めていたスワレス大佐の本拠地でもあり、当地の奪還は、アパサの、ひいてはインカ側の、以前からの悲願でもあった。
だが、アパサ自身は、ラ・プラタ副王領の要衝の地、ラ・パス(現在のボリビアの首府)への進撃で手が離せず、アンドレスを指揮官とした軍団をこのソラータへと派遣したのだった。
そんなアンドレスの元にディエゴの飛ばした早馬の使者が到着したのは、アンドレスが二万の軍勢でソラータの包囲を推し進め、まるで「籠城」のごとくに町に立て篭(こ)もるスワレス軍を次第に追い詰めつつある、そのような、戦況的に重要な局面を迎えている頃だった。
寝食もまともに取らず、幾日も休み無く馬を飛ばし続けてきたに相違ない、そのただならぬ使者の風貌に、アンドレスは不吉な事態をすぐさま直観した。
アンドレスは使者に水を勧め、「まずは、落ち着かれて…」と言いながらも、彼自身の方こそ全く落ち着かぬ様子で、使者を喰い入るように見つめている。
使者は眼を血走らせたまま、アンドレスの前に倒れこむように跪いた。
そして、「トゥパク・アマル様が……!」と、喉を詰まらせる。
アンドレスは使者の傍らに跪き、息を呑んで使者の埃で真っ黒に汚れた顔を覗き込む。
「トゥパク・アマル様が…?!
トゥパク・アマル様が、どうされたのだ?!」
使者は、地に崩れそうになる体を、その腕で懸命に支えるようにしながら、わななく声で低く言う。
「トゥパク・アマル様が…トゥンガスカの本陣での戦いの折…裏切りに合って、敵方に捕えられてしまいました…!!
その後、インカ軍は、敗走……!
途中、町々で耳にした噂では、アンドレス様の元に向かって避難されていたミカエラ様と、イポーリト様、フェルナンド様も、敵兵に捕われてしまったと…!」
搾り出すようにそう言うと、使者はそのまま地に伏して、幾度も地面を拳で叩きながら悲痛な呻き声を上げた。
一方、その傍らで、アンドレスが呆然と宙を見据えたまま、凍りついたように身動きできずに固まっている。
突如、頭が真っ白になり、何も考えられない。
激しい眩暈(めまい)と共に、己の中で、何かが急激に音を立てて崩れていくのを感じる。
時は、完全に止まっていた。
そのままどれくらい時間が過ぎただろうか。
愕然と凝固していたアンドレスの頭が、軋(きし)むような音を立てながら、僅かに動きはじめる。
(え…――?
トゥパク・アマル様が…ミカエラ様が…イポーリト様とフェルナンド様が…?
そんな…――まさか……)
アンドレスは崩れるように地に両膝を付くと、彼の脇で地に伏してわななくように肩を震わせている使者に、いきなり掴みかかった。
「嘘だ…俺は信じない…トゥパク・アマル様が、捕えられたなどと…!
あのお方が、敵に、むざむざ捕えられるなど、絶対に有り得ない!!
これは、何かの間違いだ!!
俺は、信じない!!!
こんなこと…――絶対に!!!」
アンドレスの尋常ならざる剣幕に、使者は涙のじっとりと滲んだ目元を悲痛に引きつらせ、嗚咽(おえつ)を交えながら言う。
「アンドレス様…本当のことなのでございます…。
私は、あの時、トゥパク・アマル様が連れ去られるのを見たのです。
ビルカパサ様が後を追われましたが、敵が狂ったように撃ってきて…そのまま…そのままトゥパク・アマル様は…!
トゥパク・アマル様が捕われた後は、我が軍は箍(たが)がはずれたように…なってしまって、制御のきかぬままに…スペイン軍の思う壺に……」
そこまで言うと、使者は激しく咳き込んで、喉を掻き毟(むし)るようにしながら再び地に伏した。
その脇で、アンドレスが、あの彫像のような目を見開いたまま、死人のように顔色を無くした顔面を、ヒクヒクと、遠目からもハッキリとわかるほどに引きつり痙攣(けいれん)させている。
顔面の痙攣と共に、アンドレスの歯が、ガチガチと鳴る不快な音を発する。
「う…裏切り……?」
そのわななく口元から、血を吐くように言葉を搾り出す。
「トゥパク・アマル様が、裏切りに合われたとは…どういうことだ…?
そんなこと…まさか…――」
使者は口にするのも忌まわしいとばかりに長く無言でいたが、「嘘だ…裏切りなど、ありえない…。何かの間違いだ…」と、呆然と、うわ言のように呟(つぶや)き続けるアンドレスの声に耐えかねたように、「アンドレス様…本当のことなのでございます…!」と、地に伏したまま呻いた。
そして、くぐもった震える声で使者が言う。
「フランシスコ様が…あのフランシスコ様が…!」
「!!」
アンドレスは、驚愕の目で地に伏している使者の背中を見下ろした。
そして、再び、使者の震える肩をむずと掴んで起き上がらせ、涙と汗と埃と土にまみれた使者の顔を、真正面から挑むように見据えた。
アンドレスのその目は、完全に、どこかにいってしまっている。
ただならぬアンドレスの形相に、使者は、ビクッと身を硬めた。
使者は、己の肩を掴んでいるアンドレスの指先が、とてつもない握力で肉に食い込んでくるのを感じた。
そのアンドレスの歪んだ口元から、擦(かす)れた声が漏れる。
「ま…さか…フランシスコ殿が…――そんなこと……」
もはや、常軌を逸した焦点の定まらぬ目の色のアンドレスに、使者は己の身の危険さえ覚えた。
そして、この状況から一刻もはやく逃れたいとばかりに、平伏しながら早口で応える。
「アンドレス様…信じがたいお気持ちはわかります。
ですが…これは、偽り無き事実なのでございます。
フランシスコ様は、トゥンガスカの本陣での戦闘で、敵の捕虜となり…恐らく、敵に脅されて…陰謀に加担させられたのでありましょう。
フランシスコ様は、二日目の戦闘の日の早朝、トゥパク・アマル様を騙(だま)して、敵兵が罠を張った場所へと連れ出したのでございます。
そして…そのまま、トゥパク・アマル様は、待ち伏せていた敵兵に捕えられ、拉致されてしまったのでございます…!
そして…クスコの牢獄へと……」
「!!!」
鈍器で頭を殴られたように、アンドレスの体がぐらりと傾いた。
今度は、慌てて使者が、アンドレスを支える。
アンドレスは、もはや聞き取れぬほどの消え入りそうな声で、朦朧(もうろう)と問う。
「そ…れで…?
フランシスコ殿は…?」
「トゥパク・アマル様が捕われたその場にて…フランシスコ様も、あの、スペイン軍総指揮官アレッチェに、撃ち殺されて…」
「……――なっ……」
アンドレスは激しい眩暈と共に、突き上げる強烈な嘔気に襲われ、反射的に立ち上がって草陰に走りこんだ。
そのまま、崩れるようにしゃがみこんで、激しく嘔吐する。
(そんな…フランシスコ殿まで……!!
ああ…トゥパク・アマル様――!!!)
全身の血液さえも全て吐き出してしまうのではないかと思われるほどに、アンドレスは幾度も胃液を吐き続けた。
そして、もはや何も出なくなると、そのまま、草の中に埋もれるように両手をついた。
震える指で、その手の下の草を、土ごと激しく握り締める。
彼の爪が強引に地面に食い込み、爪から血が滲み出す。
(嘘だ!!!
トゥパク・アマル様が…そんなこと――…!!)
地に伏したまま、彼は血みどろになった手で拳をつくり、幾度も幾度も大地を激しく叩き続けた。
地面に、草に、彼の拳から放たれる血飛沫が飛び散っていく。
周囲の兵たちも、また、使者のもたらした情報に、とてつもない衝撃を覚えていたが、アンドレスのその尋常ならざる様子に、誰も彼に近寄ることができずにいる。
その時だった。
アンドレスの脳裏に、ふと、懐かしい声が響いた。
≪落ち着けアンドレス。
そなたが、そのように取り乱しては、これからのインカ軍はどうなる≫
「!!」
アンドレスは、血の飛び散った泥に突っ伏したまま涙に歪めていた顔を、はじかれたように上げた。
彼の耳に届いた声…――常に変らぬ、低く、沈着で、深遠な響き――それは紛れも無く、あのトゥパク・アマルの声だった。
アンドレスは猛烈な勢いで立ち上がると、その長身の体ごと、必死で周囲を見渡した。
「トゥパク・アマル様?!
トゥパク・アマル様、おられるのですか?!」
周囲で見守る兵たちが驚いて目を見張るのも構わず、アンドレスはその名を叫ばずにはいられない。
「トゥパク・アマル様!!
どこです?!!」
アンドレスが張り裂けぬばかりに目を見開いて見回す視界の中に、不意に、風に揺れる大木の姿が飛び込んだ。
樹齢数百年と思われるその見事な常緑樹は、深緑の葉を無数に抱いた太い枝を大きく広げ、吹き抜けていく秋風に、ざわざわとゆるやかに、優美に、そして、堂々たる所作で揺れている。
≪アンドレス、案ずるな。
わたしは、まだ生きている。
そなたは囚われた我々のことよりも、インカの今後のことを考えよ。
今こそ、冷静さを失ってはならぬ。
今、何をせねばならぬのか、その判断を、決して誤ってはならぬ≫
「トゥパク・アマル様――!!」
呆然と、しかし、恍惚とした表情で大木を見つめたまま、興奮から顔を火照らせ立ち尽くしているアンドレスの傍に、部下の者が、恐る恐る近づいた。
「アンドレス様…?!」
アンドレスは、ゆっくりとそちらを振り向く。
そして、彼は部下にやっと頷き、慌てて手の甲で己の顔の涙を拭き取った。
「すまなかった…取り乱して…。
辛いのは、俺だけではないのに……」
彼は苦しげながらも感情を抑えた声で応え、先刻、いきなり己に掴みかかられた衝撃から、まだ地に膝をついて呆然としている使者の方へ、急ぎ引き返した。
アンドレスは使者を両腕で助け起こしながら、深く頭を下げる。
「このような辛い知らせを携えて、幾日も懸命に馬を飛ばしてきたであろうそなたに、このような仕打ちをして本当にすまなかった」
アンドレスの真摯な声に、使者は深く息をついた。
そして、「いえ…アンドレス様のご心中は…十分にわかっております」と、応える。
泥と涙の痕跡とで、本来の混血児らしい美麗な風貌は見る影もなく、目鼻も定かでなくなった顔もそのままに、アンドレスは改めて使者に真っ直ぐ向き直った。
「叔父上やビルカパサ殿は、どうされている?
トゥパク・アマル様を救出に向かわれたのか?」
「はい!!
ロレンソ様もご一緒に!
トゥパク・アマル様が連れ去られたクスコに攻め上りながら、敵軍と幾度も死闘を交えたと、聞き及んでおります!!
ですが…風の噂では、今は、かなり苦戦しておられるご様子……」
「そう…か…――」
アンドレスは唇を噛み締め、まだ血の滲む拳をきつく握った。
「では、まだ、囚われていないマリアノ様はどうなっておられる?
別の者と避難されているのか?」
「はい!!
マリアノ様はベルムデス様と共に、ミカエラ様たちとは別ルートで避難をされておられました。
現在も、この地に…アンドレス様のもとに、向かわれているものと…!
まだ、マリアノ様が捕えられたという話は、どこからも聞いておりませぬ!!」
使者の顔が、はじめて明るくなる。
アンドレスも、大きく瞳を輝かせた。
「では、マリアノ様はまだご無事で、こちらに向かっている可能性があるのだな?!」
「はい!!」
「そうか!!」
アンドレスは力強く頷くと、毅然と顔を上げて前方を見据え、立ち上がった。
トゥパク・アマルの元を離れて独り立ちをはじめて以来、いっそう鍛えられた長い足で、彼は真っ直ぐに大地に立ち、足底で地面をしかと踏みしめる。
このソラータの地からは、既に雪を頂いた6000メートル級の峻厳たる霊峰の数々が、とても間近に見渡せる。
その険しくも清冽な自然美から放たれるエネルギーを己の心に映し取るように、アンドレスは山々を鋭く見つめた。
それから、先程の大木に、ゆっくりと視線を動かす。
大木は先刻と変わらぬ風情で、厳かな気配を湛えながら、天頂射して真っ直ぐに伸びたその悠然たる巨体を、ゆるやかに風に揺らしている。
大木を見つめるアンドレスの脳裏に、ふっと、いつぞやのトゥパク・アマルの言葉が甦ってきた。
『――忘れるな。
いつ、いかなる時も、わたしはこのインカの地にあり、インカの民と共にある。
たとえ、その姿が見えずとも、わたしはそなたの中に宿っている。
だから、そなたの判断を信じて進め。
よいね…――』
アンドレスは、風に揺れながら葉に陽光を反射して、光輝くようなオーラを放っている大木を見つめ続けた。
そして、心の中で、己に強く呼びかける。
(トゥパク・アマル様は、今も我らと共にあり、インカの行く末を見守っておられるのだ。
しかも、まだ生きておられるではないか!!
しっかりするのだ、アンドレス…――!!)
***物語は、下記の地図(資料)の下にも続きます***
<資料:ペルー副王領について>
薄緑色の部分が、当時の「ペルー副王領」の主要部分(今のペルー界隈)。
特に、クスコ(Cuzco)から、トゥパク・アマルの領地であったティンタ郡周辺に至る南部高原一帯が、トゥパク・アマルの反乱の中心となった。
トゥパク・アマルの領地(出身地)でもあり、彼の妻ミカエラも活躍したインカ軍本陣の所在した「ティンタ郡(トゥンガスカ村)」は、クスコの少し下辺りにある。
トゥパク・アマルの反乱のスケールは壮大で、ペルー副王領南部地域のほぼ全土、隣国ラ・プラタ副王領の北東部、他にもチリのアリカ、ボリビアの高地、さらにはエクアドル、コロンビアにまで火の手が上がった。
<資料:ラ・プラタ副王領について>
薄緑色の部分が、「ペルー副王領」に隣接する「ラ・プラタ副王領」の一部で、ペルー副王領のクスコやティンタ郡周辺と並ぶ、此度の反乱の主要部分(今のボリビア界隈)。
現在、遠征中のアンドレスがいる場所「ソラータ」は地図上には記されていないが、ラ・パス(La Paz)の少し上、ティティカカ湖東岸の国境付近に位置し、両王領を結ぶ要衝の地。
ラ・プラタ副王領では、この「ソラータ(アンドレス軍が包囲中)」と「ラ・パス(アパサ軍が激戦中)」の奪還を賭けて、現在、インカ軍がスペイン軍に激突している戦況である。
---------< 物語続き >---------
こうして、トゥパク・アマルやミカエラの状況を、ついにアンドレスも知るに至ったが、その後の彼は、深い葛藤状態の中にいた。
彼は使者に食事を与え、休息を勧めると、己の天幕の中に一人戻っていった。
そして、非常に思いつめた表情のまま、夜の帳の下りた薄暗い天幕内部を照らしながら不安的に揺れる燭台の炎を、まんじりともせず見つめていた。
トゥパク・アマルが囚われたことを知った今となっては、アンドレスの心は、すぐにもトゥパク・アマル救出のために、ペルー副王領へと帰還する方向へと大きく動いていた。
ディエゴやビルカパサ、そして、ロレンソの軍が、厳しい戦況にあるとの使者からの情報も、アンドレスの心をはやらせた。
しかしながら、もしトゥパク・アマルの救出に向かうとなれば、当地ソラータの包囲を解かねばならなかった。
それは、ラ・プラタ副王領における、この後の戦(いくさ)の拠点を失うことにも等しかったのだ。
同じラ・プラタ副王領では、トゥパク・アマルの最も有力な同盟者アパサが、4万の軍勢を率いて、ラ・パス奪還を賭けた激戦を展開していたが、敏腕のスペイン軍総指揮官フロレスの大軍を前に、さしものアパサも苦戦を強いられていた。
しかも、このソラータでは、アンドレスの統率する2万の軍勢によって、敵軍に対する包囲網がついに完成し、戦況はインカ軍に好転した矢先である。
とはいえ、いくら包囲網に封じたとはいえ、ソラータの街中に堅く立て篭(こ)もったスペイン軍を叩き出すのは容易ではなく、当地の包囲戦は、いよいよ「籠城攻め」にも等しい様相を呈しており、到底、一朝一夕に方(かた)が付くものではないと見て取れた。
それこそ、数ヶ月規模の包囲期間を必要とすると予測される。
だが、いかに期間を要そうとも、当地を押さえることができれば、この後、ラ・プラタ副王領におけるインカ軍の勢力拡大の重要な拠点となり得るのだ。
トゥパク・アマルが囚われ、ペルー副王領での勢力を押さえ込まれつつあるインカ側にとって、このラ・プラタ副王領での勢力拡大は、残された最後の砦にも等しい。
当地を拠点に、再び、インカ側の勢力を高めていくことができれば、ペルー副王領での巻き返しも夢ではない。
当地ソラータの奪還は、この反乱の今後を、ひいては、インカ側の命運をも大きく左右する…――!!
それだけに、このソラータの包囲網を、今、放棄することのリスクの甚大さを、アンドレスは深く認識していたのだった。
(だけど、トゥパク・アマル様……このまま、ここにいては、あなた様をお救いすることはできない!!
このままでは、トゥパク・アマル様が…!!)
彼は、己の拳を激しく机上に叩きつけた。
蝋燭の炎が、振動で大きく揺れる。
「くそぅ……!!」
彼の口元から苦渋の呻きが漏れた。
その時、天幕の外に、馬の激しい蹄(ひづめ)の音が鳴り響いた。
そして、次の瞬間には、野獣のような風貌の男が、天幕の中に乗り込むように姿を見せた。
夜闇を貫くように現われた突然の来訪者、それは、汗と埃にまみれた、まるで魔人のごとくの形相を呈したアパサであった。
「アパサ殿!!」
アンドレスが反射的に立ち上がった勢いで、既に不安定になっていた蝋燭の炎が消える。
天幕の内部は不意に闇に包まれた。
蝋のにおいだけが立ち込める。
アパサは火の消えたことなど全く構わず、アンドレスの傍まで大股で進み来ると、アンドレスの肩を両手でガッチリと掴んだ。
アパサの強い握力が、アンドレスの肩に伝わる。
アンドレスは、息を詰めて身を固めた。
己の肩を掴むアパサの手が、わななくように小刻みに痙攣していたのだ。
「アパサ殿…――!!」
「アンドレス…」
そのアパサの苦渋に満ちた声音に、トゥパク・アマルのことをアパサも知ったのだ、と、アンドレスは瞬時に悟った。
彼は、最大限に己の心を落ち着かせようと努めながら、やっとのことで問う。
「アパサ殿、ラ・パスにおられたのではないのですか?」
「ああ。
今晩中に、すぐ、ラ・パスに戻らにゃならん。
あっちも、まだ全く手が離せぬ状態なんでね」
アパサの感情を抑えた低く硬い声に、アンドレスは、アパサの指揮するラ・パスでの戦況も、決して芳しいものではないことを察した。
アンドレスが応えるのを待たず、アパサが続ける。
「それより、アンドレス…トゥパク・アマルのこと…俺のところにも、使者が来たのだ。
まさか、こんなことに…――」
平素は傲慢なまでに自信に溢れているアパサの太い声も、今はひどく苦しげにしわがれている。
(アパサ殿……!!)
二人は暗闇の中で仁王立ちになったまま、次の言葉を継げずにいた。
次第に暗闇に慣れてきたアンドレスの目の中に、アパサが真正面から己を見据え、深く頷く姿が映る。
「アンドレス…おまえ、トゥパク・アマルの救出に向かうか?」
アンドレスは、ハッとした瞳で暗闇の向こうにボウッとその影を浮き立たせている、かつての恩師、アパサの顔を見据えた。
アパサは、その目に再び頷く。
「おまえの気持ちは分かっている。
おまえのことだ…トゥパク・アマル救出か、このソラータ攻略か、さぞ迷っていることだろう」
「…――!!」
「だが…アンドレス、おまえがトゥパクを助けにペルー副王領に戻ることが、どれほど危険なことか、そのことも忘れるな。
トゥパクやミカエラを捕えた今、スペイン役人どもが血眼になって捕えようとしている次なる標的…――それは、インカ皇帝の血筋である面々――まだ逃げ延びているトゥパクの次男マリアノ、従弟ディエゴ、そして、トゥパクの甥、つまり、おまえだ、アンドレス」
「それは…――」
分かっている…――と頷きかけるアンドレスを制するように、アパサの鋭い声がアンドレスを遮った。
「アンドレス、おまえ、本当に分かっているか?」
暗闇の中で、アパサの目が鋭く光る。
「もし、このままディエゴが戻らなければ、たとえ、マリアノが当地に無事に逃げ込んでこようとも、まだ10歳の子どもに何ができる?
この後の戦(いくさ)の指揮を誰が執(と)るのだ」
迫るように問うてくるアパサの前で、アンドレスは言葉に詰まる。
「おまえが2万そこそこの軍勢を引き連れて、トゥパク・アマルを助けにペルー副王領に戻ったとして、むこうで、果たして、どれだけのことができる?
あっちは、おまえが来ることに狙い定め、完璧な臨戦態勢を敷いていることだろう。
むしろ、おまえが早く来ないかと、罠を張り巡らせて、虎視眈々と待ち侘びているだろうよ。
それに、ディエゴら、むこうに残った奴らの兵たちとて、どれほど生き残っているか…全く、当てにはならないぞ。
ましてや、もはやトゥパク・アマルは人質にとられているも同然…そんな不利な条件ばかりが揃っている戦闘にいって、一体、おまえに何ができる?
奇跡でもない限り、勝てる見込みなぞ、まず、あるまい。
おまえは、向こうに行けば、ほぼ確実に、捕われるか、戦闘で今度こそ死ぬだろう」
「…アパサ殿……!」
「この俺だって、できることなら、今すぐにでもトゥパク・アマルを助けにいきたい。
だが、おまえがソラータ攻略を放棄して、俺がラ・パスの戦線から撤退して、そこまでして、あいつを助けにいくことを、あのトゥパクが望んでいると思うか?
ほぼ確実に、殲滅させられるに違いない、あのペルー副王領に乗り込んでまで?
俺たちが総勢上げて向こうに戻れば、手隙きになった、このラ・プラタ副王領のスペイン軍が、ペルー側のスペイン軍の援軍として雪崩れ込んでくるだろう。
そして、インカ軍は、一網打尽か?
それをトゥパクが望んでいるとでも?
ふ…ん、まさか、だろう。
あの男は、もともと自分の命と引き替えにする覚悟で、この反乱を起こしたのだ。
今だって、獄中であろうが、どう、この後の反乱を成功させるか、そのことだけを考えていることだろうよ」
「アパサ殿……」
「あのディエゴだって、もう戻らぬかもしれん。
そうなったら、誰がこの後のインカの指揮を執る?
いや、単に指揮を執るというだけではない。
トゥパク・アマルという『インカ皇帝』を失ったインカの民衆どもの精神的な支柱に、一体、誰がなるのだ?
どうなのだ?
アンドレス、誰がそれをできる?
応えてみろ」
「それは…――」
「おまえだろう。
アンドレス」
「しかし…叔父上が戻らぬはずは…!!」
「ディエゴが戻るという保証が、どこにある?
あのトゥパク・アマルさえ捕えられたというのに、今更、何が起こらないと言える?
仮にディエゴが戻ったとしても、あいつは、根はトゥパク・アマルとは、全然違う奴だ。
トゥパク・アマルは、当地生まれの白人たちの心を掴むのも上手かった。
だが、あの無骨でインカ族くさすぎるディエゴには、それは無理だ。
しかし、アンドレス、おまえは混血児。
おまえは、トゥパクに似て、白人にうけそうな雰囲気も、振る舞いも、それなりに備えている。
おまえなら上手くやれば、あいつと同様、当地生まれのスペイン人たちの心を、再び、掴むことも不可能ではないかもしれぬ。
それに、このインカの地の民衆たちにとっては、『インカ皇帝』、あるいは、その血統という存在が、まだまだ必要なのだ。
結局、民衆なんてのは、最終的には、そういう系統の者の言葉にこそ耳を傾ける。
俺のような、皇族でも何でもない一介の豪族の言葉なぞ、その影響力は、たかが知れている。
それら全体を踏まえて、おまえの存在は、トゥパク・アマルがいなくなった今となっては、非常に重要なのだ。
それをよく自覚しろ」
アパサの厳しくも真剣なその目が、暗闇の中でも、はっきりと光って見える。
アンドレスは苦渋の表情で、唇を噛み締めた。
その真紅の唇から、真赤な血が滲む。
アパサは、一度、深く息をついた。
「だが、それを全て分かった上で、それでも、どうしてもトゥパク・アマルを助けにいくというなら、俺は止めん。
このソラータは、一時、包囲を解こう」
「でも…!!
一度、包囲を解けば…!!」
「やむを得まい。
俺が、何とかラ・パスを押さえる。
だから、ここのことは案ずるな。
アンドレス…おまえが、トゥパク・アマルがこうなって、何もせずになど、いられぬことも分かっている。
ならば、おまえは当地に縛られて、悔いを残すな」
「アパサ殿……!!」
暗闇の中でアパサはもう一度深く頷くと、アンドレスの肩を押さえていた筋肉質の手を、ゆっくりと放した。
そして、その手で力強くアンドレスの肩を一発叩くと、踵(きびす)を返した。
「俺の言いたいことはそれだけだ。
では、俺は行く。
ラ・パスは、戦(いくさ)の真っ最中だからな。
明け方までには、戻らにゃならん」
「待ってください、アパサ殿!!」
アンドレスは急ぎ後を追うが、さっさと天幕を抜けたアパサは獣のように敏捷に馬に跨(またが)り、彼を外で待っていた数名の護衛官に鋭い声で出立の合図を送る。
「アパサ殿!!
俺は、どうしたら…――!」
アンドレスは、必死な面持ちでアパサを見上げている。
アパサはもう一度だけ、馬上からアンドレスを見た。
「アンドレス、おまえの判断を、俺は信じる。
どの道をとろうとも、俺はおまえを援護する。
だから、おまえの好きにしろ!!」
「アパサ殿!!」
アパサはアンドレスに瞬間的な笑みを返すと、すぐに前方に視線を定め、夜闇を貫く鋭い掛け声と共に馬を駆り出していった。
たちまち、その蹄(ひづめ)の音が遠くなる。
アンドレスはその胸に去来する様々な思いに翻弄されたまま、その後ろ姿が夜のしじまに吸い込まれて消えるまで、去り行く恩師を見つめ続けた。
アンドレスは、しかし、その後もまだ深い迷いの中にあった。
そんな彼の元にある軍団の兵たちは、18歳のアンドレス自身と同様、若い気鋭の者たちが多く、将たるアンドレスとは、まるで仲間同士のような連帯感と絆で結ばれながらも、同時に、アンドレスに対する深い敬愛と恭順の意を抱いてもいた。
それら、兵たち全員の命をあずかる身として、アンドレスは己の決断の責任の重さを、これまでになく、今、強く突き付けられていたのだった。
トゥパク・アマルの救出に向かえば、彼の軍団の兵たちの、その命の保障の可能性は、当地に残る場合に比して、著しく低くなるであろう。
だが、兵たちは、アンドレスを深く信頼し、彼の如何なる決断にも従う覚悟を見せている。
彼は、二万の兵の命をあずかる重さに激しく圧倒されながらも、表面上は、懸命に冷静さを装おうと努めた。
「我が軍の、この後の行動については、今宵、一晩だけ考えさせてほしい」
アンドレスは感情を押し殺した声で静かにそう言うと、そのまま己の天幕に入り、一晩中、今後の行動の方向性を悶々と考え続けた。
彼の率直な心は、どうしても、トゥパク・アマル救出に向けて、はやり続けていた。
しかしながら、当地ソラータを攻略することの重要性も、彼には、あまりにもよく分かっていた。
そして、アパサの言う通り、敵が虎視眈々と待ち構えるペルー副王領に戻り、もし己がスペイン側の手に落ちることになれば、トゥパク・アマルの右腕たるディエゴが無事であるのかさえ定かでない中、この後のインカ軍を、そしてインカの民を統率していく上で、少なからぬ影響の生じるであろうこと…――そのことも、今や、考えることを避けては通れぬ局面に来ているのだと察してもいた。
アンドレスは、一晩中、まんじりともせず考えながら、天幕の中に流れ込む隙間風に煽(あお)られる蝋燭の炎を見つめ続けた。
今宵は、いつになく、風が冷たく感じられる。
己の体温も下がっているのか、手足も氷のように冷え切っている。
その冷たい指先で、果たして、何本、新しい蝋燭を灯し変えたことであろうか。
気付いた時には、もう既に、夜明けを告げる鳥の鋭い声が、陣営の空高く、響きはじめている。
だが、まだ彼の中では結論を出すことができずにいた。
「ああ……!!」
彼は呻き声と共に、手足の冷たさとは全く対照的に燃えるように熱くなった頭を、両手で掻き毟(むし)るようにして、硬く瞼を閉じた。
そのまま、倒れるように、深く机上にうつ伏せる。
(こうしている間にも、トゥパク・アマル様たちが、獄中で、如何なる目に合わされていることか…!!
ああ…もう、気がへんになりそうだ…――!!)
心は激しく掻き乱され、気持ちばかりが焦り、それなのに、思考能力は完全に低下し、頭の芯が痺れるような鈍痛に苛(さいな)まれる。
目を閉じた瞼の裏は、ただただ白い霧のような世界が広がるばかりである。
その時である。
また、あの声が、アンドレスの頭の中に響いてきた。
≪…アンドレス…≫
(え…?!
トゥパク・アマル様…?!)
アンドレスは、咄嗟に身を起こしながら、ハッと目を見開いた。
見開いた先には、やはり、真白い霧の中のような情景が広がっている。
天幕の中にいたはずなのに、そこは全く見知らぬ異空間であった。
足元の感触を確かめるが、力を入れれば沈んでいきそうな、まるで雲の上にいるかのような不安定な感覚である。
アンドレスは、もう一度周囲を見回すが、視界360度、見渡す限り、白く濃い霧の立ち込めた空間が果てしなく広がるばかりである。
(ああ……俺は、夢を見ているのだな…)
あまりの過酷な現実の連続に、もはや彼の心は感情が鈍磨したように動かず、ただ、ぼんやりとその光景を眺めやっていた。
その時、不意に、またあの声がする。
≪…アンドレス…聞こえるか?…≫
(…――!!
トゥパク・アマル様!!
おられるのですか?!
どこです?!)
夢だと知りながらも、トゥパク・アマルの声がする度に、鋭く反応してしまう己の姿を、醒めたもう一人の自分が自嘲する。
彼は、心の中で、苦々しく呟(つぶや)いた。
(アンドレス…おまえは、この期に及んでも、トゥパク・アマル様の指示が無ければ何も決められぬのか。
そんなありさまだから、結局、おまえは、トゥパク・アマル様をお守りすることができなかったのだ)
だが、再び、あの声が響く。
≪アンドレス!!≫
「やはり、トゥパク・アマル様?!!」
アンドレスは、もう一人の自分の声を撥(は)ね退けて、白い霧の中に踏み出した。
今度こそ、トゥパク・アマルの声が、はっきりとその耳に聞こえたのだ。
それは、空耳とは思えぬほどの現実味を帯びていた。
「トゥパク・アマル様、どこです?!
トゥパク・アマル様!!!」
雲のような足元のモヤは、ひどく不安的で、一歩踏み込む度に底無し沼のようにズブズブと沈んでいき、非常に歩きにくい。
しかも、周囲に立ち込める霧は、まるで白い巨大な海綿の化け物のように彼を包み、その喉の中まで入り込んできて、息を詰まらせた。
アンドレスは、むせながら、それでも、必死で声のした方へと進もうとする。
それは、傍目から見ると、まるで見知らぬ土地で迷子になって、泣きながら惑っている、幼子(おさなご)のような姿であった。
「トゥパク・アマル様!!!」
アンドレスは、渾身の力を込めて叫んだ。
≪アンドレス!!≫
今度こそ、トゥパク・アマルの声が、本当にはっきりと大きく聞こえた。
「トゥパク・アマル様!!」
≪アンドレス…通じたか…!≫
トゥパク・アマルの声が、妙にリアルに、安堵を滲ませて響く。
「え…トゥパク・アマル様…!
まさか…本当に……!?」
アンドレスは、今、まさにトゥパク・アマルが、真に己に語りかけているのだと確信した。
「トゥパク・アマル様、聞こえます!!
聞こえますよ!!
トゥパク・アマル様!!」
アンドレスは、もう夢中でトゥパク・アマルに呼びかけ続ける。
≪ああ…聞こえている…アンドレス…≫
アンドレスは深く頷き、意識をトゥパク・アマルの声に完全に集中した。
そして、じっと心の眼を、耳を、研ぎ澄ます。
すると、濃い霧の中に、ぼんやりとトゥパク・アマルの姿が浮かび上がって見えてきた。
「トゥパク・アマル様…!!!」
アンドレスは息を呑む。
霧の中に浮かび上がるトゥパク・アマルは、薄暗い石牢のような中に一人いて、やはり石でできている冷たく硬そうな床の上に、直に座っていた。
そして、足には重々しい鉄の鎖がつけられ、牢の一隅にある鉄棒に繋(つな)がれている。
その肌には、恐らく敵方の役人たちによる拷問の跡なのだろう、無数の深い傷跡が刻まれ、霧の向こうに霞むように見えているにもかかわらず、酷く生々しく、今にも血が滴ってきそうな状態であった。
「…――!!!」
アンドレスは愕然と目を見張り、再び、霧が喉に詰まったように、完全に呼吸ができなくなった。
(トゥパク・アマル様…トゥパク・アマル様…!!)
アンドレスはすっかり気が動転して、思わずバランスを崩し、その不安定な雲のような足場の中に倒れこんだ。
すると、いきなり下方から何者かに足を掴まれ、そのまま体ごと雲の中に引きずり込まれていくような感覚に襲われる。
沈み込んだ雲の中は、まるで濃厚な水蒸気の塊のようになっていて、容赦無く全身を絡め取られる。
「やめろ!!
放せ!!!」
いつの間にか、彼の手には、常のサーベルが握られている。
それでも引きずり込もうとする何者かの腕に、アンドレスのサーベルは、狂ったように斬りつけていた。
「俺は死ねないのだ!!
トゥパク・アマル様をお助けするまでは!!
トゥパク・アマル様!!!」
半狂乱の叫びを上げながら、己の足に絡まっていた腕をついに切り捨てると、アンドレスは鬼のような形相で立ち上がり、先程、トゥパク・アマルの姿を見たはずの場所へと走った。
「トゥパク・アマル様!!」
トゥパク・アマルは、先程と同じ場所で、同じ姿勢で、冷たそうな牢の床に座したまま、じっとこちらのアンドレスを見つめている。
そして、その姿であっても、そこにいるトゥパク・アマルの面差しは、かつてアンドレスが彼と共にありし日々のものと、まるで変わらぬ――どこまでも沈着冷静な、深く包み込むような、精悍でありながらも研ぎ澄まされた美しさをも備えた…――全く、そのままであった。
いや、むしろ、あの頃にも増して、何か、とてつもない高みに至ってしまったような、そんな突き抜けた何かを湛えてさえいる。
アンドレスは、恍惚として息を呑んだ。
≪アンドレス、わたしのことを案ずることはない。
単に、肉体が拘束されているだけのこと。
別段、動揺することではない≫
その声も、かつてと少しも変わらぬ、深遠な、低く、穏やかな声であった。
アンドレスは、必死で、トゥパク・アマルの傍に近寄ろうと、懸命に霧の中を進もうとする。
だが、霞みの向こうに浮かび上がるトゥパク・アマルの姿は、どこまで進もうとも、決して近づいてはこない。
アンドレスの瞳から、一筋の涙が流れた。
「トゥパク・アマル様……――」
トゥパク・アマルの静かな視線が注がれる。
≪アンドレス、落ち着くのだ。
わたしは、そこにはいない。
今、クスコの牢から、そなたに語りかけている。
長くは話せない。
だから、よく聞いて、わたしの言葉を守るのだ。
よいね≫
霞みの向こうのトゥパク・アマルは、アンドレスが相変わらず涙を流しながらも、己の声に鋭く神経を研ぎ澄ませているのを見届けると、ゆっくり頷き、話しはじめた。
≪アンドレス、かつて、わたしがそなたに言った言葉を覚えているか?
その言葉を守るのだ≫
以前と変わらぬトゥパク・アマルの美しい切れ長の目が、じっとアンドレスを見つめている。
その目を見つめ返すアンドレスの脳裏に、まるでフラッシュバックするように、トゥパク・アマルと共にありし日の一場面が去来する。
それは、トゥパク・アマルが、彼にアパサの援軍としてラ・プラタ副王領への遠征を申し渡した、あの時の場面であった。
その時のトゥパク・アマルの言葉が、そして、あの時の己の言葉が、どこからともなくアンドレスの心の中に響き渡る。
あの時、トゥパク・アマルは言っていた。
『万一にも、わたしがスペイン軍の手に落ちることがあろうとも、そなたは、間違っても救出に来ようなぞと思ってはいけないよ。
わかっているね、アンドレス』
『まさか…――!!
そんな事態になって、安閑としていられようはずがありますまい!!
すぐにお助けに上がります』
そのアンドレスの言葉を鋭く制して、トゥパク・アマルは決然と言っていた。
『我々が共に一網打尽にされてはならぬのだ。
重ねて言う。
仮にわたしが捕えられても、そなたは決して、救出に来てはならぬ!
これは命令だ!!』
あの時の一連の場面が、まるで、今、ここで展開しているかのように、アンドレスは非常に生々しくその言葉を感じ取っていた。
「トゥパク・アマル様……!」
霧の向こうで、トゥパク・アマルが深く頷く。
≪あの時のわたしの言葉を守るのだ。
そなたの気持ちは、十分に分かっている。
だが、もはや、クスコ界隈は完全に敵の軍団で埋め尽くされ、蟻一匹通ることは不可能だ。
そなたが来ようものなら、確実に捕われる。
そして、殺される。
そなただけではない。
そなたの元にいる、二万の兵たちも、今度こそ確実に命を落とすであろう。
それを分かりながら、私情から、クスコへ進軍しようなどと、このわたしが許さない。
よいか、アンドレス。
そなたは、そのままソラータの包囲を続け、当地を奪還せよ。
そして、当地を拠点に反乱を展開せよ。
我々に残された、まだ可能性のある道は、それしかない≫
「だけど…トゥパク・アマル様は…?!
トゥパク・アマル様は、このままではどうなってしまうのです!!」
≪アンドレス…わたしのいる所は、外部から侵入することは絶対に不可能な場所。
わたし自身の力で、内部から監視体勢を突き崩して脱獄する以外は、ここから出る方法はありえぬ。
それに、もし、このまま処刑されるに至ったとしても、それは当初から自ずと覚悟のこと。
そうなったとて、わたしの肉体が失われるだけのことだ。
そのようなことに意識を奪われてはならぬ。
アンドレス、そなたは心の眼を研ぎ澄ませ、全体を見通し、真に守らねばならぬものを守って進め。
一つの選択も誤るな。
私情に惑わされてはならぬ。
さあ、もう、これ以上は話せない…。
…アンドレス……≫
急に、トゥパク・アマルの声が小さくなった。
アンドレスはその声を、その姿をつなぎとめようと、必死で身を乗り出した。
「トゥパク・アマル様――っ!!!」
アンドレスは己の叫び声で、ハッと目を覚ました。
「あ…!
え…?!」
うつ伏せていた机上から、ガバッと身を起こす。
彼は目を瞬かせながら、周囲を鋭く見渡した。
気付くと、そこは、己の先程の天幕の中だった。
先刻、灯したはずの蝋燭が、既に蝋が尽きて完全に消えている。
(夢……?!)
アンドレスは、呆然としたまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして、足元の床の硬い感触を確かめる。
先程の不安定な感触は、そこには無かった。
だが、ふと、頬に冷たいものを感じる。
手をやると、それは己の涙であった。
「…――!」
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第七話 黄金の雷(13)
をご覧ください。◆◇◆
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