♪Crescent Moon♪

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♪彦根城と桜♪



期間:4月3日~4月4日

感想:
桜がキレイな時期になりました♪全国でも桜前線が延びてきたころですね♪僕は彦根城に行ってきましたww仕事でいったときに、お堀の上の桜並木と天守閣の近くの桜が美しかったのを思い出して、もう一度見たいと、仕事を辞めてから改めて行ってきました♪いつ見てもきれいな彦根の桜。やはり今回もとってもキレイでした♪お天気も良かったため、人が多く朝一番にいったものの、10時くらいには天守閣に登るのに時間待ちがあったくらいです♪風も穏やか日差しが温かく、気分は上々、最高でした♪

彦根

~彦根城~
姫路城・松本城・犬山城とともに、国宝に指定され、天下の名城といわれる彦根城は、琵琶湖に近い金亀山(こんきやま)、別名彦根山の上に建つ平山城(ひらやまじろ)です。関ヶ原の合戦の後に井伊直政(いい なおまさ)が築城しようとしたのですが直政は、合戦の傷がもとで2年後に亡くなったため、その子供である直継(なおつぐ)が、父の遺志をついで1603年(慶長8年)から20年の歳月を費やして1622年に完成しました。さて、この彦根城ですが徳川家康は彦根城が京都・大坂に近く交通の要衝(ようしょう)にあったところを特に重視したそうで築城にあたって奉行を差し向けたり7カ国の12大名に協力させるほどの力を入れたそうです。使われた建築資材は豊臣氏の名残を一掃する目的もあったために、天守閣は大津城(おおつじょう)から天秤櫓(てんびんやぐら)は長浜城(ながはまじょう)から三重櫓(さんじゅうやぐら)は小谷城(おだにじょう)からというように、建物から石垣まで周辺の名城から移築したのです。彦根城の天守閣は三層三階建で24mで2階と3階には花頭窓(かとう まど)や千鳥破風(ちどり はふ)また、唐破風(から はふ)をバランスよく配置して華やかさを表しています。石垣は牛蒡積み(ごぼう づみ)と呼ばれる、石を加工しないで自然の形のままで使う野面積み(のづら づみ)で構成されています。

 *野面積みとは、石の大きな面を中にして小さな面を表に出している。一見粗雑(そざつ)に見えるのですが丈夫な積み方です。

太鼓門櫓(たいこもん やぐら)は佐和山城(さわやま じょう)の城門で昔はこの太鼓を叩いて城の中に合図していたそうです。また彦根城は琵琶湖の水を取り入れた二重の堀に囲まれています。
もともと彦根城は、築城当時で禄高(ろくだか)18万石。直継の弟である直孝(なおたか)の大坂夏の陣の功績により加増されてから以来35万石となり、明治維新まで14代300年続いたそうです。明治の初め明治天皇の特別の取りはからいで保存され現在まで続いています。国宝に指定されたのが昭和27年、昭和31年には彦根城一帯が特別史跡に指定されています。
そして平成5年から平成8年まで築城以来5回目の大改修工事が行われましたが、費用は4億1千万円。平成9年1月1日から再公開されるようになっております。

~井伊家~
彦根城といえば思い出すのが、井伊家です。幕末に桜田門外の変に倒れた井伊直弼(いい なおすけ)はあまりにも有名で、よく知られていますが彦根藩35万石の領主として、このあたり一帯を治めていたのが井伊家です。
徳川幕府は、富と権力を併せ持つことのない様にしたといいます。これはどういうことかといえば、加賀の前田氏や薩摩の島津氏などの様に外様大名(とざまだいみょう)には高禄(こうろく)を与えるのですが、中央の政治には関与させずに、一方で譜代大名(ふだいだいみょう)には中央政府の要職につけましたが、禄高は少ししか与えなかったということです。
譜代大名の中でも井伊家は例外で、彦根藩35万石という禄高も与えときながら、しかも代々大老職という幕府の最高の役職にも就けたそうです。つまり富と権力を両方与えていたのです。それほどまでに井伊家というのは徳川家の信任が厚かったのです。近江というところは交通の要衝だけではなく、豊臣方の実力者石田三成の居城もあったことから豊臣方に心を寄せる者も多く、それを抑えるためにも、最も信頼おける井伊家に広い領地を与え、備えたのです。もとは、平安時代の貴族藤原氏の子孫が遠江国(とおとうみのくに)現在の静岡県ですね、ここに、井伊谷(いいのや)に土着(どちゃく)して、井伊家を名乗ったのに始まるそうです。もとは今川氏に仕えておりましたが、今川氏真(いまがわ うじざね)から謀反(むほん)の疑いをかけられて当主の井伊直親(なおちか)は殺され、領地が没収されてしまいます。直親の子供である直政は徳川家康に仕え、旧武田の家臣をまとめて甲州の経営に尽力(じんりょく)するなどの活躍をし、上野国箕輪(こうづけのくに みのわ)12万石の藩主に取りたてられてから、関ヶ原の合戦では、武田の赤装束(あかしょうぞく)を着ることを許された井伊軍は縦横(じゅうおう)の活躍をし、「井伊の赤備え(あかぞなえ)」と呼ばれて敵方には恐れられ後世にも語り継がれています。常に先頭にたって戦った直政は、「凶賊討伐(きょうぞくとうばつ)第1の功臣(こうしん)、徳川創業の元勲(げんくん)」と家康には誉めたたえられ、酒井次(さかい ただつぐ)・本多忠勝(ほんだ ただかつ)・榊原康政(さかきばら やすまさ)とともに徳川四天王と呼ばれる武将として尊敬されるようになるのです。直政は石田三成の領地佐和山(さわやま)を与えられ、箕輪とあわせて18万石の大名になるのですが、戦さの傷がもとで、関ヶ原の合戦の2年後に亡くなりました。そして長男・直継が彦根城を築いてから彦根藩と呼ばれるのですが、直継は病弱だったため家督(かとく)は継がず弟の直孝が藩主となったのです。井伊家では直政は初代、直孝を2代としています。直孝は大坂夏の陣で大活躍したので、35万石に加増され、さらに35万石の大大名となり、幕府の執政筆頭(しっせい ひっとう)として最高責任者となったのです。その後の井伊藩主は、早くに亡くなった者以外はほとんどが大老となって幕府を動かし、あの鎖国をやめて門戸(もんこ)を開き桜田門外で散った井伊直弼は13代彦根藩主です。直弼の長男の直憲(なおのり)が14代目を継ぎ、井伊家は明治を迎えています。


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