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火曜日の担当は、坂田博昭です。
安藤勝己ジョッキー引退のニュースは、この中間から日曜日の京都競馬場での引退式にかけて、とても大きなインパクトを与えながらそれでもあっという間に駆け抜けていってしまいました。
「10年ひと区切り」
…という報道に触れ、移籍してからは10年しか経っていないという事実に、むしろ驚かされています。その10年を、何という大きな存在感を示しながら彼は活躍し続けてきたのかということを改めて思い知らされつつ、改めてその戦歴を一つひとつ確認しました。
彼が大きな活躍に導いた馬たちは十指に余るほどですが、私にとって最も印象に残っている馬は、世間的にはかなり地味なところでツルマルボーイです。
G1では善戦止まりだったツルマルボーイに念願の初タイトルをもたらしたのが、移籍翌年の2004年6月の安田記念。馬にとっての状況的にはもはや求められるのは勝利だけという状況の中で初めてこの馬の手綱を取った安藤ジョッキー。この馬らしさに輪をかけたような思い切った後方待機の騎乗で、ゴール前での追い込みからキッチリとクビ差競り勝って優勝しました。前の週にキングカメハメハでダービーを制して話題をさらった直後だったこともあり、「この馬をも勝たせてしまうのか…」とそのプレーに驚きを通り越してため息をついたことを、いまでもはっきりと憶えています。
JRAに移籍してから10年ということが強く取り上げられていますが、安藤勝己ジョッキーには皆さんご存じの通り、その前にも笠松所属ジョッキーとしてJRAのレースに挑戦してきた「そのまえのおよそ10年」の歴史があります。
1980年に交流競走をヤマニンスキーで勝ったレースというのがどのような内容のものだったのかはさすがに私もわかりませんが、交流元年と言われライデンリーダーの活躍がよく知られる1995年の前の年にすでに、名馬・トミシノポルンガとともにJRAのレースに参加し、そのトミシノポルンガのテレビ愛知オープンの勝利を含めその年10戦4勝。翌年に中央と地方の交流がルール化され、その交流の流れの中で持てる力を十分に発揮して活躍。2003年についにJRAへの移籍を果たしたときには、「中央と地方との間の壁に大きな風穴をあけた」と言われました。
1995年から始まったJRAと地方の交流の活発化は、もともとこうした形でのジョッキーの活躍と一部流動化を意図したものではなかったはずですが、それでもそうしたかすかな流れを大きなうねりにして新たな境地を切り開いたことは彼の力量によるものでしょうし、その後のあり方に大きな影響を及ぼしたことは間違いありません。
移籍前がおよそ10年。移籍した後が10年。このタイミングで安藤勝己という志を備えた名手がそこに存在し、そのタイミングでルールも含めて様々な環境の変化が生じていなければ、競馬の姿は全く異なっていたかも知れません。どれが欠けても…と思うと、それ自体歴史というものが持っている不思議さを感じます。
引退したいま、安藤ジョッキー自身はそうしたことを改めてどのようにとらえているのでしょうか。
10年前に彼がJRAと地方の壁にあけた「風穴」を通って、幾人ものジョッキーがJRAへとやってきました。岩田康誠、内田博幸と名前を挙げるまでもなく、彼らはそれぞれの活躍を遂げ、存在感も確固たるものになっています。
しかしながら、その「風穴」があいたあと、壁自体には何かの変化があったのかどうか…。昨今、地方でもJRAでも、ジョッキーをめぐる状況は厳しさを増していると聞いていますが、そのあたりを考えたときの「この10年」ということにも、今回のことを機会に改めて思いを致した次第です。
安藤勝己ジョッキー。本当にお疲れ様でした。
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