Davi's Diary

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ロックフェラーのミニ歴史


NY観光でまず行くロックフェラーセンターは、19世紀初頭はコロンビア大学の管理する植物園で、一番最初の土地の所有者がコロンビア大学の学者(Dr. David Hosack)でした。19世紀の終わり頃、初代ジョン・D・ロックフェラーは家族と共にミッドタウン West 54th Streetに居を移します。何年か後には、JDR Jr.(ロックフェラー二世)も家族と共に父の近所に引っ越してきます。しかし、1900年頃までは、この辺り5番街と46丁目界隈は売春宿や酒場の多い治安の良くない場所でした。

1920年代後半、メトロポリタン・オペラが新しいオペラ座をこのコロンビア大学の所有している土地に建設する計画を立てます。既にビジネスからリタイア同然であった高齢のJDR Jr.ですが、このプロジェクトへの参加を了承しました。彼も彼の妻もとても芸術愛好家だったからです。彼の妻、アビー・グリーンはMoMAの創始者の一人で、美術コレクターでもありました。オペラ座のみならず、一大商業コンプレックスを建設するために有名な建築デザイナー Benjamin Wister Morris が招かれ、計画は順調に進んで見えました。

ところが1929年、ニューヨークを大恐慌が襲います。メトロポリタン・オペラは資金繰りに苦しみ、結局コロンビア大学の土地でのオペラ座建設を断念します。オペラ座のために既にコロンビア大学の土地のリース契約を終えていたJDR Jr.は、年間300万ドルの損失に直面しました。彼は計画を引き継ぎ、オペラ座を除いた他の商業ビル群の計画に乗り出します。主な出資先だったメトロポリタン・オペラの変わりに、RCAというラジオ会社の出資を受け取ります。RCAグループは最新のメディア会社で、系列にNBC、RKO Motion Picturesなどがありました。「ラジオ・シティ」と名付けられた劇場は、オペラ座の穴を埋めるものでした。中心の高層ビルは、RCAの本社の入った「RCAビル(1986年にGeneral Electric社に買われ、GEビルと改名)」と名付けられました。

当初メトロポリタン・スクエアと呼ばれる予定だった場所は、ロックフェラーセンターと改名されました(後にメトロポリタン・オペラはコロンバス・サークルに安い土地を見つけ、そこに新しいオペラ座を建設しました)。建築デザイナーは計画から降りた前任のMorrisに変わり、Chicago Tribune TowerをデザインしたRaimond HoodやHervey Wiley Corbett、Wallace K. Harrisonなどを雇いました。

1931年にオープンしたロックフェラーセンターは、1939年に「最後の一鋲」のセレモニーが開かれ、完成しました。しかし大恐慌後の戦時下、テナントは思うように集まらず、一年後も1/3はまだ空室でした。リース契約のトラブルで訴訟まで起こる始末でした。戦後は近代化の波に飲まれ、エアコン施設の無かったビル全体に大金をかけてエアコン装備を施すなど、経営は困難が続きました。しかしやがて軌道に乗り始め、1950年代と60年代にロックフェラーは一家の力と富の象徴となりました。





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