テクニカル的には円売りゴーサイン

2005年08月25日
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■8.観音像の建立■

 戦争が終わり、年が変わって昭和21年。知覧飛行場で最後
の特攻機が燃やされた際、トメは近くに落ちていた棒杭を地面
に立てて、娘たちにこう言った。

 さ、これがきょうからあの人たちのお墓の代わりだよ。
たった一つしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。
それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけな
いことなんだよ。

 特攻隊を称えるだけで「軍国主義者」のレッテルを貼られる

なら壊しに来る人はいないだろう。その代わりに毎日お参りに
くるから許してくださいね、とトメと娘たちは手を合わせた。

 昭和25年、朝鮮戦争の特需で経済復興も始まり、特攻隊へ
の逆風が静まっていた。トメは毎日の棒杭参りを続けながら、
昔なじみの知覧町長のもとに通っては特攻隊員たちのための観
音像建立の請願を続けた。自分の費用で建てれば、すぐにでも
実現できたが、それでは慰霊が私的なものになってしまう。特
攻隊員たちはお国のために命を捧げたのだから、その慰霊は公
に行われなければならなかった。

 昭和30年9月28日、知覧飛行場の一角に観音像が完成し、
その除幕式の日にトメは像の前の手水鉢を寄進した。それから

んでいる子供たちを集めては、一緒の掃除をする。それから
「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言
って、ガムやキャンデーを配る。こうすることによって、自分
の死後も、この子供たちの中から、観音像をお守りしてくれる
人が育つだろうと考えていたのだ。さらにトメは観音像に至る


 昭和62年2月、特攻隊の生き残りでトメに励まされた人々
の努力によって、知覧特攻平和会館が開館した。修学旅行など
参観者は多く、たとえば平成12年には54万人にも及んだ。

■9.4月の蛍■

 平成4年4月22日夕刻、トメは90歳直前で一生を終えた。
「特攻の母、鳥浜トメ死す」のニュースは新聞やテレビに流れ、
富屋は弔問客や取材陣でごった返した。通夜の夜、ようやく遺
族が一息入れた所に、一匹の蛍が光る尾を引いてトメの柩のあ
る部屋をスーッと横断していった。

「見たか」「見た」「蛍だったよな」「そうだったよな」

 4月の下旬に蛍が飛ぶはずがない。それも部屋を横切ってい
くなんて。しかし、居合わせた人々は確かに見たのである。

 それは蛍になった宮川軍曹が「小母ちゃん」を迎えにきた姿
なのだろうか。それともトメ自身が蛍となって、息子のように
可愛がっていた大勢の特攻隊員たちのもとに飛んでいったのだ
ろうか。


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最終更新日  2005年08月25日 10時33分24秒
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