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北海道北見市という人口10万人の寒い町に小学校1年生の時から住んでいました。その町では野球が盛んで、腕白な男の子は皆、各学校で行なっている野球のスポ少に入っており、学校にそのスポ少の帽子をかぶり登校してくるのです。私は、そこのチームに憧れていました。小学校4年生のときに、各クラスに申込書の紙が配られたときには、腕白な男の子たちが大喜びで野球の話をし、私もその帽子をかぶる夢を見ていました。

クラスの何人かがスポ少に入った中、おとなしく何をするにも遅かった私は、4年生の一年間を二つ下の弟とキャッチボールをしながら過ごすことにしました。スポ少選手の夢を諦めた訳ではありませんが、自信もなく親に言い出せなかったのです。

こうして一年が過ぎ、5年生のときに同じく、各クラスに申込書の紙が配られるときが来ました。今度は迷いませんでした。申込用紙を母親に渡し、母親にスポ少に入りたい旨を小さな声で伝えると、父親と相談するからとの返事です。
母親に話したあと、少し不安があったのも事実です。いつからか日曜日の朝は父親とキャッチボールの日となっていたのですが、鈍い私は毎回父親に怒鳴られ、鼻にボールを当てては鼻血を出していたのです。鼻骨が骨折して、鼻曲がりになっていたのもこの頃からだったと思います。次の日だったかに父親に呼ばれました。一度も笑った事がなく、いつも同じ怖い顔の父親から、「お前は鈍いからダメだ!」と、一言いわれ終わりました。

小学校の頃、それでも野球が大好きでした。年下の子供を集め家の前で、毎日毎日三角ベースをしていたのです。家での代名詞は「鈍い」でした。学校で友達と遊ぶとき、何かするとき、私はいつも自信がなく、一番ビリにだけはなりたくないと思っていました。運動会がくるのが一年で一番いやでした。
私が弱い分、父親が自慢でした。バスケットの選手として活躍した父親が、実家の都合で、日体大の特待生を断った話を何度も聞かされていたからです。父親の言うことが絶対で、弱い私は愛想笑いをしながら、ただついていくのが正しいのだと、思って疑いませんでした。

中学に入っても私は変わりませんでした。ただ、両親から言われていたことは、学校の先生の言うことと、両親の言うことが絶対正しいと言う事でした。おとなしく堅物すぎる人間になるように努力しました。でも、父親の好きな詩吟と、将棋と、相撲がどうしても好きになれませんでした。

そんな私が中学校生活半年も過ぎた頃、登校帰りに、右折したワゴン車にはねられました。頭蓋骨が2枚折れて、即、意識不明の重体だったそうです。



諦めきれない父親は、あらゆる手段を使って動いたと聞いております。そして旭川医大で緊急手術をする手配が出来たそうです。八時間にも及ぶ大手術は成功に終わり、奇跡といわれました。

今、頭の中には、骨をつないだワイヤーが入っており、陥没した頭と、頭を開いた傷跡がありますが普通の人と変わらない生活が送れております。

一生懸命という言葉が何時からか大好きになりました。

格好悪くたっていいじゃない。そんなことはどうでもいいことだから。それより一生懸命じゃないか。

嫌な思いをした分があったとしたら、それは必ず自分の為になると信じています。

ずるするな。真っ直ぐにいこうよ。

自分を慕ってくれる人をめいっぱい応援したい。

熱い男になりたいと思います。





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Last updated  2006.04.05 01:34:59 コメント(2) | コメントを書く


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