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死という絶望は、最後の魂のあがき、自殺するものはその絶望の中にあって、なお救われている。彼は、圧倒的な権力化にある他者に「死刑」の宣告をうけたわけではない…精神の自由な…それでいて残念なことにそこは牢獄だった…死だ。それに比較して、「死刑」とはどんなに魂が純化され、清いものになったとしても逃れようのない、残酷な死だ。ドストエフスキーは、まだ幸せだ。謂れのない罪であったのだから当然なのだが、死刑判決を受けておきながら、最終的にはシベリア流刑8年で済んでいる。。。それに比べてアーナンダは、奈落の底だ。第一審で無期懲役を勝ち得ていながら、第二審で翻って『死刑』の刻印そんなことならば、はじめから『死刑』にしてあげて欲しかった。Eili ...
2010年12月26日
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とかく愛情を注ぐことに事欠かない人こそ、「誰か」のことを常に考え、自分なりの愛情を注ぐ人にこそ 愛情が必要とされている。そして、その人は<信念をもって>、<人生をかけて>注ぐのだろう。。。自分は与える側の人間だと…高みに立つ。無償の愛…などとほざきながら、<すり付けた愛>の成果を心のどこかで期待している。そして見返りを得られないことへの苛立ちが募る。。。この無言の圧迫が、もはや愛情とは言えない代物に代わりながらも、その人はつぶやく。「わたしは、あなたのことを、とても愛している。」とそして、僕は捨てたのだ。押し付けがましい、独りよがりの愛をそこから沈黙がはじまった。何年も何年も…そして、底なしの沈黙の中に蓄積されていく憎悪と恨みを常に感じ取っている。。。この異臭を放つ沈黙は、獄中の犯罪者が経験する加害者に対する被害者の怒りに似ている…僕は罪を犯したのだろう。ずっとずっと苛まれている。しかし、伝えておく。まがいもの…など…いらないのだ。ただ、このかたくなさが、また僕を凍りつかせた。おそらく、跪くのは、僕のほうだ。この時の相手が死んだ場合、相手は「神」以外にいなくなるのだ。Eili ...
2010年12月26日
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たぶん、たった一つの狭い世界にしか閉じ込められていないから、絶望してしまうのだろう。多数の世界に行き来していたとしたならば、多少は引き伸ばされる。ただし、その混乱が真理に到達するとは限らない。あるいは、真理など…そもそも存在しないのかもしれない。ただ世界は有様そのものであって、それ以上でもないと。。。ただし、この見解に落ち着く人間は、<怠け者>だ。少なくとも精神世界を歩むものにとって、<真理>求める気持ちをなくすことは、歩む資格すらない…ということになる。Eili ...
2010年12月26日
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僕はそうそうに自分の生きてきた証を示し、この世を去りたい。麻原さんのこと アーナンダのこと 豊田くんのこと 村井さんのこと そして母さんのこと 語り足りない… でも、もう昔のように言葉を発する気力も体力もない。そして、この哲学的テーマを語るとき、<決して>勘違いもされたくない。久しぶりに、再読したニーチェやドストエフスキーの作品を読んで思う。ツァラトゥストラは、たしかに麻原に似ているが、熟読しても思う。麻原のほうが、それを<遥かに>超えている。彼は「神は死んだ」とは言ってはいない。しかし、「神を殺した」と言ってもいい。しかも、彼は一切後悔していない。精神破綻してなお、一切のゆるぎない意志の波動を僕は感じている。アーナンダのことを想う、イワン・カラマーゾフのような激しい逆説的な信仰心を結果として示しながらも、アレクセイ・カラマーゾフのような深い深い慈悲と自愛の心が、彼に重なるのだ。僕にはどうしても。。そして、とてつもなく、どうしようもなく<神>を求めている。眩暈がするほどの帰依の姿村井さんは、ある意味、麻原さんよりも…怖い。僕にとって衝撃的な人物は確かに<麻原>だった。でももっともそばにいて、実は「とてつもなく」危険な人物は、むしろ村井さんだった。彼と話している麻原さんは、かすかな笑みがあった。唯一「話の通じる」人間に今生会う事ができたかのような、そんな印象を僕は受けていた。僕はといえば、やはり話の通じる人に、出会えない。。。僕の見てきたもの、出会ってきた人たちが、本当はどういう人たちであったかを話せる人が…いない。Eili ...
2010年12月25日
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