和訳は大切だと思います。

けれど一方で、宗旨の違いは経典の解釈の違いなので、現実の話、宗旨によって同じ経典でも、和訳が異なります。

だから、宗旨が違えば漢文の棒読みでなければ、一緒に読むことは出来ません。

そういうことを考えれば、和訳で意味を知ると同時に、漢文の経典も読めないといけないと思います。 (2012年12月15日 12時32分30秒)

そうだ坊主になろう!~ヒロ伊藤流仏弟子修行

そうだ坊主になろう!~ヒロ伊藤流仏弟子修行

2004年10月28日
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テーマ: 日常の雑談(2774)
私の言うお経とは、あの漢字だけで書かれた仏教の教典のことである。多くの日本人にとってお経を聞く機会が、お葬式だけになったのはいつ頃からだろうか。少なくとも江戸時代までは、日本人のほとんどは、どこかのお寺に属していた。お寺の檀家だったわけだ。徳川幕府のキリスト教禁止令を遵守させ、隠れキリシタンを取り締まるために、庶民の戸籍をお寺に届けさせたことによる。この戸籍のない者は、無宿人であり非人であった。盆と春秋のお彼岸は当然として、季節の歳時にお寺に行っていた。寺子屋は、その名の通り、当初は檀家の子弟が寺の坊主に読み書き算盤を習ったのが語源になっている。家庭でも年寄りは、仏壇に般若心経などをあげていたはずである。お経を聞く機会は、日常であった。

幕府と仏教界とのこの関係が、明治維新で一変し、明治政府は神仏分離令を施行して、民衆と寺を離そうとした。奈良時代以来日本宗教の伝統であった神仏を合体して考え、神と仏を同時に信仰する日本人の宗教観を否定し、代わって天皇家の祖先である天照大神を中心とする国家神道体制をつくろと企画したのである。神仏分離令後の廃仏毀釈は、貴重な文化財である寺や仏像などを破壊したり、海外に流出させる原因となった。明らかな官制文化大革命であり、信仰という極めて個人的な問題にまで踏み込んで、江戸幕府の封建体制を破壊しようとしたのである。もっともその目論見ははずれ、明治維新から百三十年以上たっても、多くの日本人は神仏を前に手を合わせている。年末年始は特に忙しいのである。

仏教にとって最大の危機だったわけだが、仏教界は従来の伝統を変えることはなかった。仏教伝来以来、延々と中国からの輸入品である漢文の教典を、ただそのまま、日本語に読み下すこともなく、唱え続けていたのである。この状況は現在も変わらない。外来語を有り難がるのは今も同じだが、日本語に翻訳された教典を布教や日常の法事に使うことはなかったのだ。

それでもまだ、江戸時代や明治時代、いや戦前くらいまでは、漢文を読む教育が徹底されており、たとえ漢文のお経でもある程度は意味を理解することができたのかもしれない。僧侶の説法や法話を聞けば、もっと理解できたのかもしれない。しかし現在では、寺に行く機会も少なく、ましてお経を聞いたり、僧侶の話を聞く機会も少ない。ほとんどの若者は漢文を読み下す能力もない。しかし、我々が日常目にするお経は、漢文のままである。仏教界の人は疑問を感じないのだろうか。日本語訳では、宗教に必要な神秘性や有り難みに欠ける? 誤解を恐れて? 中国の仏教者は、パーリ語やサンスクリット語(梵語)という古いインドの言葉で書かれていたお経を中国語に翻訳して伝えている。孫悟空で有名な玄奘三蔵も苦労して持ち帰った膨大な教典を残りの半生で中国語に翻訳している。日本語は、情を伝えるのには優れた言語だが、理を伝えるのに不向きだと? キリスト教の聖書は、世界の書物の中で一番多くの言語に翻訳されているという。普通の日本人が聖書をユダヤ語やラテン語で読むことがあるのだろうか。日本の教会で牧師や神父が、日本人を前に聖書を外国語で読み上げて、布教活動や儀式を行うのだろうか。実は仏典の研究では日本は長い歴史と蓄積があり、漢文からの翻訳や原典である梵語からの翻訳も多く出版されている。ただ僧侶が表向きにはほとんど使わないだけだ。日本の仏教だけなんか変だと思わないか。信者である一般庶民を、教えを理解できない愚者として馬鹿にしているのだろうか。

お経の日本語訳とその解説を読めば、素晴らしい『仏の智慧』が沢山載っているのに誠に残念だ。葬式仏教にしとくのはもったいない。ホントは、よく生きるための智慧なのに。





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最終更新日  2005年03月19日 14時26分46秒
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Re:お経は何故漢文なのだ?(10/28)  
ヒロ伊藤  さん
そういえばルターの宗教改革は、それまで聖職者や学者しか読めないラテン語で書かれた聖書を、ドイツ語やフランス語などに訳して広げることで西洋世界を中世の暗闇から解放したのだ。勿論、ラテン語聖書だって、古代のユダヤの言葉(ヘブライ語だったっけ)で書かれたものを、ローマ帝国に布教するなかで翻訳されたものなのだ。
古代インドの言葉(サンスクリット語やパーリ語など)から中国語へと翻訳された仏教の経典と同じだ。世界宗教になるには、必ず現地語化されている。勿論日本にも宗教改革のルターやカルビンのような高僧が出てその時代時代で新しい宗派を開宗して自分の教典解釈や考えを当時の日本語でまとめているが、平和な江戸時代に幕府と癒着してそういう力が削がれたようだ。明治時代になると国家神道が整備され、神道系の新興宗教も起こり、仏教が衰退するかに見えたが、戦前から戦後にかけては仏教系の新興教団も生まれ大きな力を持つものに育った。
しかし読教用のお経そのものは依然として漢文であり、僧侶が日本語訳の仏典を信者に奨めることもない。何故か???
(2004年11月16日 00時09分06秒)

お邪魔します  
ブロガー(志望) さん
お邪魔します。

>お経は何故漢文なのだ?

 仏様を「崇拝」する事がメインになったからではない
でしょうか。 (2005年05月13日 21時54分24秒)

お経が漢文の理由  
ヒロ伊藤  さん
ブロガー(志望)さん
>>お経は何故漢文なのだ?
> 仏様を「崇拝」する事がメインになったからではないでしょうか。
-----
なるほどね。でも仏教徒であれば仏様を崇拝するのはどこでも同じだと思います。
私の考えでは、日本人は今でも外国語の新しい用語などを日本語に訳すことなく、音をカナ表示して分かったような顔をしています。対応する立派な日本語がある場合でもあえてカタカナ英語を使ったりします。学者も役人も私のようなコンサルタントも、みんなそうです。その方が偉そうに聞こえる。有り難みが沸く。カッコイイ、等々。要するに、今も昔も精神的には、極東の田舎者で、舶来ものに弱いということではないでしょうか。他にも理由はありますが、第1番の理由はこれだと思いますが、いかがですか? (2005年05月13日 23時51分16秒)

Re:お経は何故漢文なのだ?(10/28)  
じゅん さん

Re:お経は何故漢文なのだ?(10/28)  
勝手ながら入室します。 さん
日本人でブッダが現れれば、日本語で経典が説かれることが道理だろうと思われます。日本仏教は中国仏教、中国文化の影響が強いのでは無いでしょうか。真言宗でいえば俊じょう律師が宋の時代の様式を忠実に伝えていて、当時は、宗派を超えて学びに来た僧侶が多かったといいます。泉涌寺では、現代も宋の様式の法要が存在するそうです。

聞いたお話になってしまいますが、昔の日本で、現代語訳で経典を読経しようと言う風潮が起こったことがあったそうです。しかし、どうしても馴染まなくて主流には成らなかったみたいです。真言宗で言う翻訳しない梵語の御真言による音の響きのように、漢文による響きに惹かれるところがあるのではないかと考えます。大昔の日本では、濁音は清らかでは無いと感じられた時代があったそうです。また、中国の作法は厳格でキッチリしています。その辺りも日本にウケる要因にみえました。

その一方で、自分こそが仏に成ろうと求める者には、日本語を話すブッダから直接お話が聞きたいように、ブッダの直なる言葉を現代語で触れたいと願うのは、自然なことでは無いでしょうか。ところで、現代語訳の経典を読むときは、静かに読む自分としましては、自行としては声に出して唱える必要性を感じませんでした。(出してはならないとは思っていません。)
ただ、難しいと推測しますのは、その現代語訳が正しく為されているか否かです。たとえば中国の鳩摩羅什の翻訳は、エッセンスを損なわない素晴らしい意訳が為されているという話があります。仮に完璧であっても、さらに日本語にするのは、非常にデリケートでは無いかと思ってしまいます。
ましてや、口伝によって成立した経典ならば、どの経典に行きつくか、誰の翻訳、解釈の経典に従うか、それらの微妙さは、誰も保障してくれる訳ではありませんので、自分自身だけの真剣な問題でございます。
翻訳者が頭脳の卓越した人でありましても、まだブッダで無い人ならば、限界があるハズです。気を付けていたのに本質を歪めることがあったとしても不思議では無いと思いました。
漢文を理解して、さらに言葉を理解するのは手間の大変さを感想として持ちました。失礼します。 (2015年02月04日 11時36分43秒)

Re:お経は何故漢文なのだ?(10/28)  
深谷 三津男 さん
佛経典を文語体の日本語に翻訳したのも御座います。
 しかしながら、佛教僧が横着して、佛経典を日本語に訳すと、有り難みに欠けるとかなんとか言って、自らの権威が無くなるのを恐れて、日本語に翻訳しないのでは?
 私自身は、漢語訳じゃなく、サンスクリットの原典から直に日本語に翻訳すべきと考えてます。 (2016年03月04日 20時20分33秒)

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