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February 23, 2022
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​​邪馬台国の時代から大和王権の時代への転換期を考える時には、
どうしても前方後円墳を避けては通れない。
よく、前方後円墳はどの絵を見ても方墳部が下に描かれて円墳部が上なことから、
前方後円墳じゃなくて前円後方墳が正しいのではないかと言う意見を聞く。
僕的にはそれもそうだとは思うけど、そうなった経緯が有るので仕方ない。
Wikiによれば、
江戸時代の国学者蒲生君平が著した山陵志で初めて使い、
彼は各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、
方形部分が車の前だとした。
のだそうだ。下手くそだけど絵に描いてみた。
ついでに蒲生君平が著した山陵志と対比してみた。


確かに似ている。
(絵が下手ですみません。
 また僕は方墳部が高いことに意義が有ると考えるのであえて方墳部を高くしています。
 名古屋や関東の古墳はみんな方墳部が高いので。)
でも、実はこの時代、宮車はまだなかったそうなので現代では否定されている。

<後日追記>
コメント欄で、「山陵志は上から見た形状ではなく横から見た形状なのでおかしい」と
指摘があり何故なのかを考えてみたら、
僕は牛車側に重点が有り、それを横から見た形の絵にしていたのだけど、
指摘された方は、牛車の話をしているのではなくて古墳の話をしていたらしい。
古墳の方は、横から見ると前方後円墳なのかその他の古墳なのか区別がつかないので、
あえて前方後円墳だと分かるように上から見た図にしていたのだが、
それが間違いだったらしい。誤解を与えてしまった。
もう一つは僕は円墳部が車輪をイメージしているのだと勘違いしていたが、
蒲生君平は中央のくびれ部分の左右の円丘を車輪だとイメージしたらしい。
でもくびれ部分に円丘が有る古墳は少ないと思うのだけれども、
蒲生君平がそう言うのだから仕方ない。

<さらに後日追記>
後日追記を書いて説明図を改定した後に、もう一回「山陵志」を読んで気がついた。
僕は「宮車(牛車)」をかたどったのなら横から見たのだろうと思っていたら、
もしかすると蒲生君平は上から見た形を言っているかもしれないと気がついた。
上の説明図の「訓読」を読むと分かるが、
1.上から見たとも横から見たとも書いていない。
2.左右に円丘有り-両輪のごとしと書いているが、横から見ると片方の円丘しか見えない。
3.後ろの墳部を「円」、前の墳部を「方」と書いている。この形状は横から見ても分からない。
2.と3.は明らかに上から見た場合しか分からない形状である。
もしかすると上から見た話を書いているのではないか?
そう考えて、上の説明図を、前方後円墳を上から見た場合に描き直してみた。絵は下手だけど。

うーん、絵は下手だけど、蒲生君平の文章の通りになる。
なので、本当は上から見た形を蒲生君平は表現しているのかもしれない。
だって、横から見たら「前方後円墳」なのか「前方後方墳」なのか区別がつかないし。
そして下に説明を書いたが、
蒲生君平は、
形の説明よりも「車塚と呼ばれるのは宮車を柩車としたことの名残だろう」と考えて、
そのことが前方後円墳の形の根拠だと、そう考えたのだと思う。
何かしら前方後円墳がこのかぎ穴の形になった根拠を考えた結果なんだと思う。
後日追記終わり。

魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の「塚(墓)」は径百歩の塚としか書かれていないので、
ごく平凡な円墳だと思われるが、
近畿の箸墓古墳に代表されるヤマト王権以降の古墳は特徴的な前方後円墳である。
僕はこれが理由で邪馬台国近畿説は誤りだと思っている。
もし卑弥呼の「塚」が前方後円墳ならば陳寿はそれを聞いた瞬間に書こうとするだろう。
後述する僕の前方後円墳成立仮説その1が正しければ、
中国人である陳寿は必ず「封禅」を意識して「倭国の女王は封禅を行った」と書くはずだ。

封禅とは何か?
Wikiによれば、封禅(ほうぜん)は、帝王が天と地に王の即位を知らせ、
天下が太平であることを感謝する儀式であると書かれている。
これだけならば亡くなった卑弥呼の「塚」と壱与の即位は別の話なので関係ないのであるが、
その形状が「前方後円墳」ならば、中国の知識人ならば封禅を思い浮かべるだろうからだ。
どういうことかと言うと、
「封」は ​土を盛って檀を造り​ 天をまつる儀式であり、まさに円墳部分がそうであり、
「禅」は ​地をはらって​ 山川をまつる儀式で、まさに方墳部分がその形に見えるからだ。
初めて封禅の説明を聞いた日本人でもそう思うだろう。

司馬遷の「史記」の注釈書である史記三家注によれば、(Wikiより)
正義:此泰山上築土為壇以祭天,報天之功,故曰封。此泰山下小山上除地,報地之功,故曰禪
(『史記正義』には、泰山の頂に土を築いて壇を作り天を祭り、天の功に報いるのが封で、
 その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だ、とある)」
​​
日本に​渡って来た段階で元の意味は失われており、
単に前帝が亡くなって後継が引き継ぐだけの儀式になってはいるが、
土壇である円墳部で亡くなった前帝を天に送り、
その地を治める者として方墳部で山川を祀る儀式を後継が行うと変化したなら定義通りである。
なので倭において変形した封禅だと理解するのではないだろうか?

理解しやすいように、ちょっと絵に描いてみた。


​よく方墳部は死者を祀る円墳部へ渡る(行く)部分が大きくなったものと言う説があるが、
そうであれば方墳部はあの形状である必然性は無く、
多くの古墳がそうであるように方墳部を高く盛り上げると不便なだけである。
(通路のはずなのに邪魔になっている)
なので、方墳部を広く高くする理由が必要だと思うのだが、
円墳部への「通路」では説明は無理だと思う。

「僕の
前方後円墳成立仮説その1」はこの部分を説明するために、
前方後円墳は大和王権の大王が亡くなり新たな大王が即位する際に行われた儀式の場で、
大王を助ける中国からの渡来人が、
「中国では皇帝が即位する際には封禅と言う儀式を行います。」​​と助言し、
中国から離れた日本なので「日本版封禅」として成立した儀式の場なんだと思う。
​秦の始皇帝でさえもオリジナルの封禅が分からないので、彼流の封禅を行ったが、
遠く離れた日本なんだから我流は仕方ない。

そしてこれがどうして大和王権とそれに従った地方の国々に広まったかと言うと、
一つには「世襲の儀式」として受け入れやすいと言うのが大きいと思う。
普通の家庭でも相続の時が一番大変なのだけど、王族ならばもっと大変である。
相続候補者が争うと収拾がつかない。一番良いのは他人や法令が決めるのが簡単。
地方の国々でも争った際に「天が決めた」とか「中央政府が決めた」と言うのが、
一番良い方法で、
あらかじめそれが分かっていれば2番目の候補者以降は納得できる落とし所を探す。
お前が王になるのは認めるから、俺は財務大臣をやらせろとか立ち回る。
そして民には無事にそれが決まった(引継ぎが行われた)ことを見せる
パフォーマンスが必要であり、それが前方後円墳の場なのだと思う。
なので、(死者が埋まっている円墳部とは別に)方墳部を高く広く作り、
そこで死者の葬送と大王の即位を報告する場を造ったのである。
その儀式の場として中国の封禅の理論が活用されたのだろうと思う。
一つ一つの国の儀式が違うと「あそこの国では違った」と反対者に利用されるが、
同盟国すべてが同じならば反対者の口実にはならない。
これが大和王権及びその同盟国に前方後円墳が広がった理由だと思う。

でも、僕は低レベルアマチュアなので、上に書いた理論と違う理論も持っており、
どちらが正しいのか迷っている。残念な奴だと笑われても仕方ない。
「僕の 前方後円墳成立仮説その2」は古事記や日本書紀からの思い付きである。
古事記や日本書紀では大和王権は出雲との間で「国譲り」を行い、
征服ではなく譲ってもらって平和的?に大和の地に都をおいている。
また出雲の大物主と大和のももそ姫は夫婦となり、
ももそ姫は不幸にして亡くなったが、
その墓である箸墓古墳は、昼は人(大和王権)が造り、夜は神(出雲の神々)が造り、
連立王権?がその成立時に平和的にスタートして、箸墓がその象徴になり、
全国に散らばっていた出雲グループの国々と大和王権グループの国々がそれにならった、
それが前方後円墳になったと言う仮説である。

出雲のグループの王墓の象徴的なスタイルは方墳であり、日本海側と東日本に多い。
大和王権は西日本に多い円墳がそのスタートだと思われる。
箸墓はその2つが合成されて前方後円墳の形になったものだと考えるのである。


写真の入手の都合上箸墓ではないが考え方は同じである。
この理論の面白い部分は、当初方墳部で行われていた儀式が、
儀式専用部として「造出」が造られてそこで行われるようになった経緯である。
本当ならばずーっと円墳部に死者を祀り、方墳部で儀式を行えばいいはずなのだが、
何故「造出」を造って儀式の場を移したかと考えると、
方墳部側の人々の不満が有ったからだと思う。
だって儀式の際に踏み荒らされて気持ちが良いはずは無く、
場合によっては方墳部に亡くなった人を祀る場合も(特に出雲側の人)有ると思うから。
現に大仙古墳(元仁徳天皇陵)では方墳部から見つかっているらしい。
なので、「造出」が必要になったのだと思う。

このせいかは分からないが「前方後方墳」と言う古墳の形式もある。
そしてそれは圧倒的に日本海側及び東日本、つまり元は出雲グループだった地域に多い。
やはり先祖からの葬送方式が捨てられず、かと言っても時代の流れもあるので、
折衷案として前方後円墳の円墳部を方墳に変えたのだろうと想像する。
ちなみに全国の前方後方墳の分布が分かる地図を見つけたので載せる。



前にも書いたけど、信じてもらえないかもしれないけれども、
関東では、一部神社を除いて天照大御神を祭神にした神社は無い(末社とかはある)し、
多くは素戔嗚尊や大国主命及び大山祇神を祀る神社と八幡神なんだよね。
まぁ、鎌倉幕府以降の話、八幡神が多くなったのは何となくわかるけど。

まぁいずれにしても前方後円墳があの形状になったのは上の2つの理由だと思うし、
もしそうならば、
1つ目の理由ならば中国人の陳寿ならばすぐに気がついて魏志倭人伝に書くはずだし、
2つ目の理由ならば卑弥呼の時代よりも後の話なので、
箸墓は卑弥呼の墓じゃないと思うな。

<後日追記>
この前方後円墳の説明を読むと初期大和王権の時代の倭人が、
そんなに中国の知識をもっていたのかと思うかもしれないけれど、持っていたのだと思う。
社会のインフラを先進国である中国と同じにすることは相当に難しく無理だが、
大和王権の上層部は渡来人の話から知識だけは得ていたと思う。
例えば古墳から出土する埴輪も円筒埴輪がある時期から形象埴輪になるのは、
中国の情報・知識が日本に伝わり、倭人がそれを受け入れたからだと思う。
秦の始皇帝陵及びそれ以降の中国の陵墓の知識や思想が倭国にも伝わったのではないだろうか?
そう、秦の始皇帝陵の兵馬俑などである。
陵墓の中に死者が大事にしていた物を一緒に埋葬したり、死者を守る兵や馬を祀る、
そんな考え方が日本にも伝わって来たのである。
どちらが先だと言う話はあるが、継体天皇陵(今城塚古墳)より前に造られた、
九州の磐井の古墳である岩戸山古墳には石人・石馬が飾られている。
九州の磐井は中国の陵墓の知識を持っていたのではないだろうか?
石人・石馬は地中に埋めるか地上に置くかの違いはあるが、始皇帝陵の兵馬俑に似ている。


石人・石馬は倭国版兵馬俑なんではないだろうか?
磐井の方が先に死んでいるから、
中国に近い九州では近畿の継体天皇陵の埴輪よりも先に兵馬俑が伝わっているのが分かる。

古代人侮るべからず、この時代に既に中国と変わらない知識・思想を持っていたのだと思う。

<後日追記>
「封禅」と書いたので分かりづらく、信じにくいかもしれないが、
簡単に言えば、古代の中国の宇宙観である「天円地方」である。
天は円を描き地は四方に広がる、そう言う意味で、
地が四方と言うのは東西南北から分かりやすいが、
天が円と言うのは星々が北極星を中心に円を描いて回転することからきている。
日本でもすぐに思い当たるのはキトラ古墳の壁画である。
天井には星宿、四方の壁には4つの方位を守る神獣が描かれている。
それを地面に投影したら前方後円墳になるのではないだろうかと思う。
つまり前方後円墳の時代には既に中国と密接な交流が始まっていたのだと思う。
「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」の展示はこんな感じ。


天井の「星宿」を向こう側に倒すだけで「前方後円墳」ができる。
実際の前方後円墳の「方」の部分が正方形ではないのは、遠近法を意識したのだろう。
絵画でも遠い方は狭く近い方は広く描かれる。遠近法である。

「封禅」にしても「天円地方」にしても、壁画にこれを描いたキトラ古墳の主は、
中国の先端思想を取り入れたエリートだったんだなぁ。
また、円墳や方墳は亡くなった方を土に帰す土饅頭でしかないんだけど、
前方後円墳が中国の「天円地方」の宇宙観を反映したものだったとしたら、
前方後円墳は単なる土饅頭ではなく、大和王権のシンボルだと言うのは本当かも?

<後日追記>
今日テレビを見ていて「日光東照宮」の陽明門の話を聞いて、思わず膝を叩いてしまった。
「天円地方の宇宙観」は前方後円墳で日本のものとなり、
その後仏教の伝来とともに形を変えて高松塚古墳やキトラ古墳では石室の壁画に姿を変え、
日本の歴史から姿を消したのかと思っていたら、全然そんなことは無く、
江戸時代まで続いていたことが分かった。

徳川家康はその死後、久能山東照宮に祀られたが、
その後2代将軍秀忠により日光に新たに東照宮が建てられ家康はそちらに移された。
これを担当したのはあの有名な「天海僧正」である。
もうそうしたら「日光」に建てられることに意味が無いはずは無い。
陽明門はその中心的存在である。
「逆柱」一つとってもこだわりが有り、
通常忌み嫌われる「逆柱」を逆にとって未完成故に建物の寿命を延ばそうと解釈するなど、
あちこちに宗教的ないわれやこだわりが残る。
そもそも陽明門の文字の通り太陽の方角(南)を向いているので陽明門なのだが、
これは平安京にも有った。
但し日光とは違い大内裏の東側で(南側は朱雀門)あった。
なので僕は平安京の陽明門と日光東照宮の陽明門は名前は同じだが役割が違い別物だと思う。
日光東照宮の陽明門は東の門と言うよりは、
「北の方角への入口にある門」なのではないだろうか?

何故かと言うと、この陽明門に関しては「北辰の道の起点」だと言われているからである。
「北辰」とは北斗七星のことで、テレビで知ったのは陽明門と北斗七星の関係である。
自分で撮った写真ではないがネットから見つけた写真を載せる。


ものすごく神秘的な写真である。
天界和尚が何を考えたかすぐに分かる。
神様になった(朝廷も亡くなった家康に正1位の位を授け、家康は神格を与えられている。)
家康は北斗七星の方角に居て、この門はそこに通じていると考えるのである。
(ちなみに中国では帝とは北斗七星のことであり、それ故に陽明門はこのように作られた。)
前方後円墳やキトラ古墳の星宿(天文図)の発想と同じである。
日光東照宮の陽明門は天海僧上により星宿を実際の星空に作ったのである。
とすると、天円地方の「地方」はどうなるのか?
天海僧上は鎌倉を南端とした関東平野を「地方」とみなしたのである。
地図上に書いてみた。


すごいスケールの前方後円墳である。
家康を祀る日光東照宮を通常の前方後円墳の円墳部にたとえ、
関東平野を前方後円墳の方墳部に例えている。
前方後円墳の原理である「天円地方」に基づいた天帝を祀り引継ぎを行う@「封禅」の意味、

 その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だとある。」
そのものである。
天海僧上はすごい人だなと思った。






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最終更新日  September 26, 2024 04:56:08 AM
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