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July 9, 2022
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横浜市金沢区わの会11回目のイベントは恥ずかしながら寝坊して欠席だったので、
今回は前の夜は早めに寝た。
横浜市金沢区わの会11回目のイベントは北条政子の関連の遺跡やお寺をまわったらしいので、
欠席したのは非常に残念だった。今度自分でコースをまわってみようと思う。

今回はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせたのか滅ぼされた御家人のうちの、
畠山重保と和田義盛と安達盛長関連の遺跡や神社を見て回った。
コースは以下の通り。


いつも通り鎌倉駅西口の時計台前に集合し、御成通りを通って下馬交差点に着く。


かってここから鶴岡八幡宮までは馬の乗り入れが許されず、武士はここで馬を降りた。

写真の橋は、かってここには「佐助川」と言う川が流れており橋がかかっていた。
その名残で、今は川も無いのだけど「下馬橋」と名前は残っている。
また交差点を右に曲がると琵琶橋が有る。


奥を左から右(海の方)へ流れる「滑川」の支流が、かってはこの橋の下を流れていたらしい。
今は橋があるだけ。
琵琶橋は「鎌倉十橋」の一つで、江戸時代に「新編鎌倉志」の中で選定されたそうだ。
みんな小さな橋だが、
歌の橋:金沢街道の二階堂川に架かる橋で、渋川刑部六郎兼守が謀反の罪で捕らえられたとき、
    無実を訴えるために和歌十首を詠み、将軍源実朝はその和歌を見て感動し、
    その罪を許したため、兼守は死刑を免れたことから名づけられた橋
夷堂橋:本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、

勝ノ橋:寿福寺の門前にあり、英勝寺を開基した英勝院尼お勝の方が架けたので、
    勝ノ橋と呼ばれる。
裁許橋:御成小学校近く「門柱所旧蹟」の石碑の南側、今小路を横断して流れる佐助川に架かる橋
    門柱所が近くにあり、訴訟を裁許したことから名付けられた。
逆川橋:この橋がかかる逆川は、名越から南へ流れる川筋が屈曲して北上し、

十王堂橋:昔は橋の側に閻魔など十王を祀った十王堂があったらしい。
筋違橋:金沢街道に対して橋が斜めにかけられていたことから、筋違橋と名付けられた。
針磨橋​:昔この付近に、針を磨く老婆が住んでいたことから名づけられたらしいが、
    極楽寺の塔頭に住んでいた我入道というお坊さんが針を磨いていたのが由来と言う説も。
乱橋:新田義貞の軍勢が鎌倉へ攻め入った時、幕府の防御線がこの橋のあたりで崩れて乱れ始めた
    と言う説があるが、本当は滑川の支流の氾濫が由来らしい。
琵琶橋:若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間の道筋には弁財天を祀った祠があり、
    その為に道が曲がっていたので弁財天を鶴岡八幡宮の池のそばに移し道をまっすぐに直し、
    この道を弁財天が持っていた琵琶にちなんで「琵琶小路」と呼んだ。
    そこでその道にかかるこの橋を琵琶橋と名付けた。

琵琶橋を海側に進むと右側に鎌倉教会が見える。


前にも一度別角度(多分この反対側)からの写真を載せたけど、綺麗な教会。

ここから若宮大通りを海側に進むと歩道脇に何やら丸い遺構が有る。


説明板にも有るように、かってはここに大きな鳥居が有り、一番海に近い最南端の鳥居だった。
平成2年の発掘調査でここに鳥居の柱跡が発見されたそうだ。
この鳥居は浜の大鳥居と呼ばれていたそうで、北条氏康が天文22年(1553年)に建てたらしい。
でも、ガイドさんによると実際はその前年にできたのだそうだ。

この先に一の鳥居が有る。


写真を見ると分かるけれど、海に向かっているのに少し盛り上がっている。
ガイドさんいわく砂丘なのだそうだ。
鎌倉は背後は山に囲われて守られて、海からも砂丘ですぐには攻められない天然の要塞だな。
おまけに町の中は川が縦横無尽に流れて攻めにくかっただろうと思う。
この鳥居が最初に建てられたのは1180年だそうだ。鳥居としては珍しく国の重文。
徳川秀忠夫人の崇源院は鶴岡八幡宮を信仰により子の家光を授かったことから、
乳母の春日局に度々参拝させており、ある夜八幡神の夢を見て大鳥居を石造にあらためた。
今の鳥居は関東大震災の折に倒れたので、昭和12年に建て直したもの。

鳥居の先に畠山六郎重保の墓が有る。


NHKの大河ドラマ鎌倉殿の13人では中川大志演ずる畠山重忠の息子で、
母親は北条時政の娘である。
お父さんの畠山重忠は武士の鑑とされる高潔な人で、
力持ちでドラマでは義経と一の谷を駆け降りる時に、馬にけがをさせないように背負って降りた。


畠山六郎重保はこの人の息子である。

石塔は明徳4年と刻まれているらしいが、「明」だけしか読めなかった。



石塔は室町時代のものなので後世の供養塔らしい。(明徳4年は1393年室町時代)
重保はひどい喘息持ちで、戦いの際に発作が起こり、滑川の水で喉を潤していた所を、
後ろから切られたらしい。
以来地元の人から「六郎様=咳の神様」と呼ばれて、今でも線香が絶えないそうだ。

なお、2020年12月4日のわの会のイベントで行った横浜市金沢区釜利谷南1-5の禅林寺の
境外墓地にある五輪塔にも、重保がこの地に逃れて自刃したという伝承があり、
「伝畠山重保墓」として横浜市登録地域文化財に登録されている。


どちらが本物なんだろう?

ここから脇道に入り和田塚に向かう。和田塚は江ノ電和田塚駅のそば。前に鎌倉彫の店が有る。


和田義盛と言ってもピンとこない人に紹介すると、NHKの大河ドラマ鎌倉殿の13人の中で、
髭ぼうぼうのガハハハッと笑うおっさんで、秋元才加演じる巴御前の旦那様である。
ここはもとは「無常堂塚」と呼ばれていたのだが、
明治25年に道路工事をした際に塚から「埴輪」や土器の破片と人骨が出て来た。
この人骨は和田合戦で敗れた和田義盛一族のものと言われ、
塚の上には「和田一族戦没碑」が立っているが、実は和田一族とは関係が無いらしい。
実際は「埴輪」から考えるとこの辺りに古墳群が存在し下向原古墳群の円墳の一部だったらしい。
付近には采女塚・千人塚も有ったらしいが今は無く、ここも平たく削られてしまっている。
鎌倉には200近い横穴墓が残っており古墳がたくさん有ったのだろう。
なおここには「掘ったりしてはいけない。出土したものは持ち去らない」と注意書きが有り、
この周辺で出土した遺物がここに集められているのだそうだ。

ここから進んで、由比ガ浜通りの少し手前に染屋太郎太夫時忠邸跡の碑が有る。


前にも書いたが、ここに藤原鎌足の玄孫(やしゃご:曾孫の子)が居たと言うことは、
藤原鎌足の孫の房前が681-737年なので8世紀の人である。(皇紀1380年=8世紀半ば)
上の和田塚が付近に有ることを考えると、都よりも文明的に遅れた鎌倉なので、
この人達はまだ古墳時代。和田塚の真の主はこの人達かもしれないなぁ。

江ノ電を横切って進むと甘縄神社が有る。


天縄神社は上に出て来た染屋太郎太夫時忠が和銅年間(708~715年)に建てたらしい。
ほらやっぱり。寺ではなく神社だ。
この付近はまだ仏教前の文化だったんだ。古墳が有ってもおかしくない。
鎌倉の中でも最も早く開けた場所だったらしい。
甘縄神社の「甘」は海女のことで「縄」は漁に使う縄の意味らしい。
創建後、源頼義が相模守としてこの神社にお参りした後に義家が生まれて、義家の守り神として、
この神社の御神体は源氏の守り神と言われたそうだ。
え?八幡太郎義家の守り神?じゃぁ八幡神の元祖じゃん!

昭和53年に神社の東側の土地を発掘した時に武家屋敷の板塀の基礎部分や遺構が見つかり、
安達盛長の屋敷跡だろうと言われている。
安達盛長は源頼朝が旗揚げをした当初からの重臣で、
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第25話で頼朝が落馬した時に同行していたお爺さんである。
頼朝の信頼が厚く、頼朝もここにはよくきていたようである。

神社の境内には北条時宗の産湯に使った井戸が有る。


もしかして安達盛長は北条家と縁が深いのかな?
娘は源範頼の室だし。欲が有ればのし上がれたのかもしれないけど真面目な人だったのかも?
安達家は彼により大きくなったけど、この景盛が宝治合戦を企んで三浦一族を滅ぼし、
最後には孫の泰盛が霜月騒動で自分の子の宗景が源頼朝の子孫であると主張して源氏に改姓して、
頼綱と対立して滅ぼされた。
鎌倉時代って恐ろしいな。
みんな、それぞれが対立して謀反の疑いありと讒言してつぶしあい、滅んでいったんだよな。
でも、みるとみんな争いは鎌倉近辺で少人数(千人以下)の戦いだったみたい。
仲良くすればよかったのに。
タイムマシンが発明されても行きたくはないな。






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最終更新日  July 10, 2022 10:48:45 PM
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