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August 12, 2023
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邪馬台国畿内説論者と九州北部説論者はよく三角縁神獣鏡論争をする。
でも三角縁神獣鏡は邪馬台国の位置に関係あるのだろうか?
YOU TUBEを見ていてそう思った。

個人情報的な関係で詳しくは書けないが、
このユーチューバーはものすごく勉強していて、
その知識を元に「三角縁神獣鏡の工人」の物語を動画にしている。
彼の説では卑弥呼に与えられた鏡を造った工人は「陳是」と言い、
その技術力を認められて邪馬台国に招かれて、
そこで鏡造りをし、また彼が連れて来た弟子たちと倭国の工人の卵達が技術を受け継ぎ、

中国の紀年としてはあり得ない「景初4年の鏡」と「正始元年の鏡」が同時に存在し、
卑弥呼の没後100年近く経った古墳から三角縁神獣鏡が多数出土する理由を考えて、
それを詳しく説明する動画を作ったのである。
面白いし説得力が有るのでお勧めである。

三角縁神獣鏡は近畿説の論者が力説するように近畿に多い。その次は北部九州である。
しかし「卑弥呼の鏡」にしては意外なことに4世紀に造られた古墳からの出土が多い。
卑弥呼の時代から100年を経た後世のものである。
同じ近畿でも3世紀は「画文帯神獣鏡」が多い。
三角縁神獣鏡を有名にした「黒塚古墳」では、
「画文帯神獣鏡」が被葬者の枕元に置かれ、三角縁神獣鏡はあたり一面にばらまかれ、
どう考えても大事なのは「画文帯神獣鏡」で、三角縁神獣鏡の扱いは粗末である。

なおかつ中国からは1枚も出ていない。(韓国は有り)
北部九州説の論者が笑う所以である。

そこで近畿説論者は「同笵鏡論」と「伝世鏡論」と言う理論でこれを解決しようとした。
同笵鏡とは狭義には同じ鋳型を用いて鋳造した鏡、広義には同一文様の複製鏡を含む鏡で、
伝世鏡とは製作年代から副葬年代まで大きな差がある鏡である。


これを言い出した瞬間に「卑弥呼の鏡」理論は消える。
つまり極端な言い方をすれば、鋳型さえあればどこで作っても、誰が誰の為に造っても、
同じ鏡ができるからである。
魏の皇帝が卑弥呼の為に造った鏡と同じ物が複数出てくるならば、
それをコピーした鏡を公孫氏が出雲や尾張に配ったとしてもおかしくは無い。
「魏がくれた鏡と同じだぞ」と言えば邪馬台国に対抗する国は高値で買うだろう。
つまり北部九州で出てくる三角縁神獣鏡が魏の鏡で、
近畿で出てくる三角縁神獣鏡が公孫氏や韓国の闇ブローカーの鏡かもしれないし、
あるいはその逆で、近畿で出土する三角縁神獣鏡の一部が卑弥呼の鏡で、
残りは後年近畿の工房で造られたコピーと北部九州で造られたコピーなのかもしれない。

つまり三角縁神獣鏡は同笵鏡議論が出た瞬間に、
製造場所、製造者及び造られた目的が様々なパターンが考えられるようになり、
邪馬台国論争の証拠にはなりえなくなるのである。

伝世鏡も同じで、この理論を唱えた瞬間に「卑弥呼の鏡」の証拠では無くなる。
一番わかりやすいのは「もらった人と被葬者が同じ人間ではなくてよい」と言うことである。
極端な話、もらったのは邪馬台国傘下の国々の王達だが、
戦争で負けて恭順の証拠として差し出した鏡を、邪馬台国の敵方が戦利品として手に入れ、
勝った邪馬台国の敵方の子孫が、先祖から伝わった鏡を自分の墓に埋めたと言う考え方である。
邪馬台国後しばらくは歴史から姿を消す倭の国々だが、
この間戦争が続いていたならば、卑弥呼の時代ではなく4世紀の古墳から出土するのは、
邪馬台国を滅ぼした敵方の王の子孫が自分の墓に埋めたなら100年と言う時間はちょうど良い。

いや滅ぼしたなら鏡を割るはずと言う人もいるだろうが、その考え方もある。
現に伊都国だったと言われる福岡県糸島の古墳では出土した鏡は割られている。
もし邪馬台国が負けたのであれば、邪馬台国に従属する伊都国の鏡が割られるのは当然で、
だから負けた邪馬台国は九州で、
勝った国(狗奴国の属する大きな国)が近畿に有ったと言う話になると思うが、
実はこの場合も元々近畿に邪馬台国が有った場合と、
九州に有った邪馬台国が近畿まで進出し、そこに鏡を持って行った場合も両方あり得る。
鏡を割る祭祀の意味が色々と有るからである。

鏡を宝物として扱う場合は、負けると鏡は宝物なので奪われる。この場合は割らない。
鏡を象徴として扱う場合は、負けると見せしめとして割られる。
鏡をまじないとして使う場合は、例えば鏡に映った人の魂は割った瞬間に鏡の中に囚われるので、
戦いの際に鏡を割るのは鏡の所持者の方である。
同じまじないでも鏡を「はね返すもの」として扱う場合は割らずにお棺の周りにばらまく。

つまり割るあるいは割らないと言う行為が色々なパターンが想定されて、
割れた鏡の所有者が両方考えられるので、邪馬台国の所在の証拠になりえないのである。
全てが仮定の連続では証拠にはならない。

つまり「同笵鏡論」と「伝世鏡論」理論が出た瞬間に、
製造場所、製造者及び造られた目的が様々なパターンが考えられるようになり、
これだけでは邪馬台国論争の証拠にはなりえなくなるのである。

そもそもこの議論は三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」だと言う「仮定」に基づいているが、
「卑弥呼の鏡」だと言う「仮定」が正しいとしても邪馬台国論争の証拠にはならないのだから、
仮定が正しくないのなら根底から崩れてしまう。

例えばよく言われるのは中国の年号としてあり得ない「景初4年の鏡」と、
その同じ年の紀年の入った「正始元年の鏡」である。
景初3年1月に明帝が亡くなったので景初4年は無い。
正しくは景初4年ではなく正始元年である。
そこで「景初4年の鏡」は中国から渡って来て明帝が亡くなったことを知らない魏の工人が、
日本で作ったのだと言う考えがあるのである。
つまり日本で造ったのだから魏志倭人伝に書かれた卑弥呼に与えられた鏡では無いのだ。

逆に明帝が亡くなったことを悟られないように工人には知らせなかったので、
製造されたのは中国なんだけど「景初4年の鏡」ができてしまったと言う説もある。
ただ、僕はこれは「文官」と言う公務員の性質を知らない人間の誤りだと思う。
いやしくも魏の皇帝が命じて作らせる場合、工人に直接命じたりはしない。
間に数人の文官が入る。逆に言えば製造の過程(銘文案の作成、材料の調達、鋳造、研磨等)
それぞれの段階でチェックが入る。つまり製造期間は鋳造だけではなく長期間になる。
例えば日本の紙幣は2023年に新しくなるが、もう数年前から図案はみんな知っているし、
7月から使われる予定なのに製造は3月までに終わる。
つまり今日命令して明日にはできるものではない。
どの段階で明帝が亡くなったかによるが、
少なくとも鋳造前に「明帝死亡の報」解禁が行われれば新しい紀年に修正できるし、
鋳造が「明帝死亡の報」解禁前で判断に迷う場合ならば、
頭の良い文官(公務員)なら紀年を外させる。
どうせ中国ではない倭国で使うのだから紀年は無くても良いのである。
もっと現実的に言えば「鏡は帯方郡に預けるので後日受け取るように」と言えば済むのである。
新しい紀年で造っておいて、渡すのは「明帝死亡の報」解禁後に渡せば良いのである。
つまりこの理論は文官の性質を考えれば無い。

従って「景初4年の鏡」は倭国で造られた、ものだと思う。
ただそれが「卑弥呼の鏡」どうかは別の話である。
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼に与えられた鏡ではないかもしれないが、
それを気に入った(あるいはその政治的価値に気がついた)卑弥呼が、
魏から工人を招いて造らせた「卑弥呼の鏡」かもしれないからである。
この場合は工人は明帝の死を知らず「景初4年の鏡」を造り、
そのすぐ後に明帝の死を知って「正始元年の鏡」を造っただろう。
工人の立場からすれば、ここは倭であって魏ではないので両方正しい場合があるのである。

この工人は陳是と言い、三角縁神獣鏡の銘文の中に名前が残っている。
偉い人ではないので、史書等文献には名前は見えないが、鏡の銘文により名前が残っている。
神戸埋蔵文化センターの「西求女塚古墳」の陳是作の三角縁神獣鏡を載せる。


僕は陳是のことは知らなかったので、すごく興味を持った。
しかも出土地が神戸である。
奈良でも福岡でもない。
出土地と製造場所と所持者及び製造を依頼した人間は別の話なのである。

<後日追記>
公的な機関の資料なので、タイトルから何の疑いも無く「陳是」作と解釈してしまったけれど、
これって本当は「陳」是作なんじゃないだろうか?「陳」是(これ)を作るである。
中国なので「陳」さんはありふれた名前だから、そのような気がする。
いや、この資料を書いた人もそのつもりで書いたんだよと言うならば、ちょっとひどいと思う。
この手の資料を読むのはたいていアマチュアなので、誤解を与える書き方をしてはいけない。
現に僕だけでなく冒頭で紹介したユーチューバーの方もそう(陳是と言う名前と)解釈している。
専門家がアマチュアも読むような資料でこれをやってはいけないと思う。

いや、「陳是」で良いんですよというのなら正しいが本当だろうか?
実は僕も迷った。
鏡を造る工人は陳氏や張氏及び杜氏等が知られており、銘文には「○氏作」と言う書き方が多い。
つまり陳氏の場合「陳氏作」と書くらしいのである。
すると「陳是作」は陳是さん作で正しいのかもしれない。
単なる陳だと何人もいるから、陳の中でも自分の名前を主張したかった場合である。
うーん本当はどうなんだろう?
色々と調べてみると、「是」と言うのは上古音で「氏」と同じ発音で、
学者先生達の解釈によると「陳是作鏡」と言うのは「陳氏作鏡」と同じ意味なのらしい。
景初3年(卑弥呼が魏に使者を送ったとされる年)銘で有名な、
島根県加茂町の神原古墳の報告書を見ると、

と書いている。
ただ、続く全国の陳是作鏡の比較文が手前味噌な感じなので、いまいち信用できない感じはある。
続く全国の陳是作鏡の比較文とは、
A=大阪府和泉黄金塚古墳の景初三年銘画紋帯神獣鏡、
B=大阪府安満宮山古墳の 5号鏡で紀年はないが半円方形帯同向式神獣鏡
C=神原古墳の景初三年銘画紋帯神獣鏡
D=群馬県蟹沢古墳の正始元年銘三角縁神獣鏡
E=京都府広峯15号墳 と辰馬考古資料館 (伝宮崎県持田古墳群)の同型鏡で景初四年銘盤龍鏡
と言う陳是作鏡を比較して、C鏡→A→D→Eという系列関係で理解することが可能とするのだが、
単純に地理的な条件を無視しており、
自分の町の鏡がオリジナル的な発想(加茂町教育委員会に気をつかっただけ?)が危ないと思う。

もし三角縁神獣鏡がヤマト王権の政治的な手段(従属する国の王に与える)に使われたものならば、
遠い群馬や宮崎がたった1年しか違わず、かつ紀年を間違えていることを考えれば、
群馬や宮崎の鏡の方が先に造られたもので、陳是が明帝が死んだことを知らない時に造った鏡で、
その後明帝の親だ事を知って、正しい紀年で神原遺跡の鏡が造られたと考える方が妥当だと思う。
神原古墳の出雲はともかく、(早い段階で従ったかもしれない)
群馬や宮崎はもし近畿が日本の中心だったとしたら、
ヤマト王権に従ったのは景初4年どころか景行天皇(またはヤマトタケル)以降では?
ならば三角縁神獣鏡の紀年は信頼性が無いのだと思う。
そう考えると「是」=「氏」も怪しいなと思った。

次に「景初4年の鏡」である。三角縁神獣鏡ではないが、陳是の作。


こうしてみると、陳是は明帝の死を知らなかったようなので、
近畿説の言う魏からもらった鏡と言うのは明らかに間違いで、
陳是は日本に居たことが明らかだが、
陳是が邪馬台国に居て卑弥呼に頼まれて鏡を作ったかもしれないと言う理論は残り、
逆に卑弥呼の敵方の王が陳是に鏡を造らせたと言う理論も成立するので、
結局、三角縁神獣鏡を含めた鏡は邪馬台国の位置を証明する物証にはなりえない。

なお、写真に付随する説明文は、引用元(なので字の大きさが違う)の方の書かれた文で、
この方は盤龍鏡を三角縁神獣鏡と同様とみなしているが、
三角縁神獣鏡の定義は学者毎に違い、その学者同士が議論している最中なので念の為。
ちなみに僕はその辺の細かな議論には関心が無い。
むしろその違いの原因に興味が有り、
盤龍鏡は中国で考案された鏡で三角縁神獣鏡の原点であり、
三角縁神獣鏡は陳是が日本に来てから考案したもので、
そのせいで中国からは一枚も出土していないのだと思っている。
多分それが真実だろう。

景初4年の鏡に対する「正始元年の鏡」はこれ。


これって近畿でも九州でもない。群馬じゃん!
文を読むと陳是作と書いてあるなぁ。
(拡大して見たい時には写真を右クリックして別タブで開いて拡大すれば大きな字で読めます。)
陳是は三角縁神獣鏡だけでなく色々な形の鏡を作っているし、
景初4年の鏡も正始元年の鏡も両方作っている。
やっぱり日本に居たんだなぁ。そしてしばらくして明帝の死の知らせが届いたんだ。

え?陳是が造った三角縁神獣鏡は1枚だけ?ほかに無いの?と言われそうなので、
平塚市の「真土大塚山古墳」の三角縁神獣鏡。



え?平塚?近畿でも九州でもない。関東じゃん!
これを見ると三角縁神獣鏡が威信材として配られていたことが良くわかる。
なので、邪馬台国の位置を議論する証拠には使えないが、
ヤマト王権が勢力を広げて行く上で重要な物だったんだなと言うのはよく分かる。
前方後円墳と同じだなと思う。
邪馬台国論争と無理やり結びつけようとするから変な話になるけれど、
ヤマト王権の広がって行く過程における重要な証拠としては大事だな。





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最終更新日  August 18, 2023 04:06:43 AM
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