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December 6, 2023
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僕の邪馬台国=宮崎県小林市またはえびの市説について、
いくつかの疑問を持つ方がおられたので、
それに対して回答を考えるうちに今まで不明確だった部分が明らかになって来たので、
せっかくだから書いてみることにした。

疑問として多いのは次の5点である。
1.倭国之極南界也の件
 通説ではこれを「倭奴国は倭國の極南界である」と解釈するので、
 倭國の範囲は金印と言う物証のせいで福岡だと分かっている奴国よりも北のはずだから、
 北部九州や近畿など北の方であり、南九州はありえないと言う疑問である。
2.自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳の件
3.次有斯馬國 次有巳百支國~次有奴國 此女王境界所盡の件
4.其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王の件
 2.~4.の疑問は、魏志倭人伝に斯馬國から奴国までを女王国に属する国々と書いており、
 ならば、その後に登場する狗奴国は女王国の南のはずだと考えられるので、
 狗奴国の官のクコチヒコが菊池彦ならば、狗奴国は現在の熊本県菊池郡付近だと考えられ、
 女王国は熊本よりも北側のはずだと言う疑問である。
 しかし魏志倭人伝を読むと狗奴国が女王国の南に在るとは書いていない。
 「其の南」と書いているだけなので、「其の」の読み方次第でガラッと変わってしまう。
5.自郡至女王國 萬二千餘里の件
 不彌國までは道のり距離で書いているのに、帯方郡から女王国までを直線距離とするのは
 変ではないかと言う疑問である。

それぞれ、検討してみた。
1.倭国之極南界也の件
 これはもう数百年に及ぶ通説なので、疑問に思われるのはもっともなんだけれども、
そもそもこれは後漢書の中の光武帝が奴国の王に対して「漢委奴国王」の印綬を授けた経緯について書かれた文の一部。関連する部分の原文は以下の通りです。
(原文)
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
(意訳)
建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。
使者は自ら大夫である。倭国をこれ最南端まで極めた(征服した)。
(なので倭国の支配者と認めて欲しい。)と称した。
(それを認めて)光武帝は(漢に属する倭の奴の国王と言う)印綬を賜った。
 従来は「倭國之極南界也」を「倭奴国は倭國の極南界なり」と読んでいた。
しかし僕は倭の五王の記録を読むうちにこの通説に対して疑問を持つようになり、検討した。

<後日追記>
説明が不足していると思うので追記すると、
この疑問の元になったのは「倭王武の上表文」である。
倭王武(雄略天皇に比定される)は中国の皇帝に自分の地位と称号を認めてもらう為に、
上表文を送っている。
それには以下のように書かれている。(但し和訳文)
 我国は,はるか遠いところにあって,宋そうからいえば海外の国になっている。
 私の父祖達は,自から鎧・兜に身を固かため,山や川をわたり歩いて,
 おちついて休息するひまもありませんでした。
 そのおかげで,東では蝦夷(えみし)の55か国を平らげ西では熊襲(くまそ)の66か国をおさえ,
 さらに海をわたって朝鮮半島の95か国を従えました。
つまり、倭王を唱えるには少なくとも倭国全てを征服したと言う説明が必要だし、
安東大将軍を名乗るには朝鮮半島も征服したと言う説明が必要だったのである。

なお、ここで北部九州説の方には申し訳ないが、
倭王武の上表文から倭の五王の時代にはすでに王権は大和に居たことが分かる。
何故なら、「東では蝦夷の55か国を平らげ,西では熊襲の66か国をおさえ,
さらに海をわたって朝鮮半島の95か国を従えました。」と書いているからである。
倭の五王が九州に居たならば、西では熊襲の66か国をおさえと言うのは南のはずだからである。
西では熊襲の66か国をおさえと言うのは、景行天皇の事績のことであろう。

 倭の五王の讃・珍・済は「安東将軍」の称号を授けられている。
しかるに高句麗の高璉は征東大将軍、百済の夫余腆(日本書紀では直支王と書かれている)は
鎮東将軍を与えられている。上手く称号を使い分けている。
倭王は高句麗に対して下に見られている。どうしてか?

 中国にとって、朝貢して来る中では高句麗の方が上で、倭国を東方の支配者とは認めない。
つまり冊封体制に於いて中国から与えられる称号は名誉称号ではなく、
実際の地位として厳密に評価していると言うことである。

 そのことを考えると単に「倭奴國は倭國の一番南側にある」などと言う自己紹介に近い話を
光武帝に報告しても「漢委奴国王」の称号など与えられるはずは無い。
周囲諸国を全て征服し他に脅威となる国が無くなったから奴国王は倭の王として認められたのだ。
だから「南界」を極めたと言う説明が必要だったのだろう。

 また、それは客観的な視点で証明されなければいけない。
なので、奴国の使者はこの時に倭国はこれ最南端まで極めたことを証明したのだと思う。
その為には南の端まで征服したことを証明するのが一番である。
その過程で使者は征服した国々を説明し、
生口として連れて行ったそれらの国の元の王達に説明させたのだと思う。
これならば光武帝も信じるだろう。

 今までの通説は生口は奴隷であるとか戦争の捕虜であるとして説明されてきたが、
単なる捕虜を貢物として贈られても、中国側には迷惑でしかない。
 戦争での捕虜の扱いが大変(反逆したり逃げる)なのは現代でも同じ。管理が大変なのだ。
奴国の人にとっては人質の役を果たすだろうが、中国人はもらっても何の役にも立たない。
困るだけ。

 そして恐らくその時の説明記録は(印綬を与えた理由の記録として)残されたのだ。
それを元に(あるいはそれを元に書かれた今は残っていない魏略を使い)後漢書は書かれたのだ。

 また魏志倭人伝もそれを元に女王国までの紹介文(北側の国々)として書いたのだと思う。
なので、使者の実際に行った不彌國までの行程と明らかに書き方が違い、
伝聞形式になっているのだ。

 帯方郡から不彌國までは魏の使者が実際に行った行程なので、
方角+行動記述+距離=目的地」で書かれている。例えば「東南陸行 五百里 到伊都國」。
これは実際の行動を記録として書いたのでこの形になっている。
 対して投馬國や不彌國は目的地と方角+行動記述+距離の形である。
例えば「南至投馬國 水行二十日」のように。
これは投馬國はどこに有る?と言う質問に対して答えたので、
最初に目的地が書かれてその後に行動の内容が書かれるので、この形式になるのだ。

 つまり陳寿は魏志倭人伝を書く際に根拠なく書いたのではなく、
手に入る最新のデータ、つまり使者が実際に行った記録から不彌國までを書き、
使者が実際には行ってない投馬國や邪馬台国までは、
「漢委奴国王」を与えた際の記録から書いたのだ。
 なので、基づく資料が違うので両者は書き方が全く異なり、後者は伝聞形式なのだ。
(陳寿の元にした光武帝の記録が直接的な物ではなく、
 現代には残っていない光武帝の記録に基づいた魏略等の文書で間接的な物だった可能性は有る。)

 不彌國までは魏の使者が訪れていたと言うのは現代の大使館の業務を考えると容易に分かる。
 大使館の業務は母国からの意志を相手国に的確に伝えると言うのは当然の話だが、
それ以外に当該地に来ている母国の人間の管理が有る。現地の人間の安否は大使館が管理する。
 母国から派遣された技術者や僧侶達の管理だけではなく、
自分の意志で倭国に来ている人も管理するので、
不彌國にいる母国人に会い、健康状態などを聞いて母国の親類等に伝えるのも役目なのだ。

不彌國に中国からの渡来人が居たことは魏志倭人伝の以下の文から分かる。
 伊都国などほとんどの国は国の規模を示す戸数を「戸」で書いている。
「到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸」のように。
しかし不彌國だけは、
「東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」と「家」で書いている。
これは不彌國の家が木造の高床式住居だったからだ。
ちなみに伊都国等の住居は竪穴式住居である。
近年吉野ヶ里の発掘が進み、
ここの王の住居は大きい竪穴式住居で高床式の政庁に「通勤」していたことが分かったそうだ。
 以上から「倭奴国は倭國の極南界なり」などと自己紹介をしたと言う記事を、
後漢書がわざわざ書くはずは無いと判るだろう。
金印をもらうと言うことはそんな安易なことではない。
ちゃんと奴国が周辺の国々を征服し、
倭の王としてふさわしいと認められたから金印を授けられたのだ。
従って、この文は 「倭国をこれ最南端まで極めた」と言うのが正しいと思う。
(ちなみにこの話は倭の五王の時代まで尾を引いている。
 中国に送られた使者は北や東の国々も征服したと主張している。
 つまり「後漢の時代に南界を極めたことは分かったが東にはより強い国があるのだろう?」
 と言われたのに違いない。なのでしょっぱなに東の国々まで征服したと説明したのだ。
 この頃までは卑弥呼の時代の(狗奴国との戦いの)記憶が中国側にも日本側にも残っており、
 倭の五王としては、その後にちゃんと「日本統一した」と言う説明が必要だったのだ。)

 また、これは証拠が無く感覚の問題だが、
「之」を「の」と読むのは訓読みつまり日本人の読み方である。
 中国でも「の」と言う助詞として読める使い方もするが、
それは多くの場合はこの「の」を「これ」に置き換えても通じる。
なので、「之」を「の」と読むのは間違いではないが、日本人の便宜上の読み方だと思う。

2.~4.自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳の件
 これは1.が前提条件で、
陳寿が光武帝の時代の記録を元に女王国までの北側の国々のことを書いたと考えれば、
すぐに分かる。
 女王国までは奴国が北側から順に南に向かって征服して行ったので、
その記録は奴國→女王国になっており、
女王国を中心に考えればそこまでの国は「北側の国」になるのは当然だ。
 使者が実際に行った不彌國までは別の資料つまり使者の復命書を元に書いているので、
北から順に書いているのだが、
光武帝の時の記録から書いた投馬國や邪馬台国は、
そのせいで南から北へ向かって書いているのだ。
 ここで多くの人が「女王国は狗奴国の北側では?」と考えるのは、
1.が正しい場合は成立しない。
陳寿が元にした記録は「倭国大乱前の記録」なので魏志倭人伝当時の物では無く古いからだ。
 魏志倭人伝の当該部分には、
 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
と書かれており、其南としか書かれておらず、女王国の南とは書いてない。
 倭国大乱の前には狗奴国も奴国に征服された国の一つであったとすれば、
狗奴国も女王国の北側の国の一つだったのだ。
それが魏志倭人伝の時代には分かれて女王国に従わない国になっていたのだと思う。
 僕は倭国大乱の原因は奴国の王位継承権の争いで、
女王国に対する狗奴国の王は卑弥呼の弟だったのだろうと考えている。
古事記や日本書紀に書かれている通り天照大御神と素戔嗚尊です。
 つまり陳寿は魏志倭人伝を書く際に使った光武帝時代の記録を最新のデータを考慮して、
それつまり狗奴国は今は女王国に従っていないことを考慮して、
(狗奴国も北側の国であるが)
奴国までは女王国に従っているが狗奴国は従っていないと書いているのだ。
 つまり其南の「其」は「次有奴国」の「次」と同様に前に書かれている国、
つまり奴国を指しているのだ。
ただ、狗奴国は奴国の北に位置するのではなく南に在り、
ただ女王国に従う国であるかどうかで分けているので、
「次」と書かれた国々とは違い「其南」と書いたのだ。

 よく奴国が2つ有るのはそれぞれ違う国だと解釈する人がいますが、
もしそうならば中国の辺境の防衛上また貿易上大事な情報なので、
陳寿は「奴国は2つに分かれた」とか「元々2つ有る」と素直にかくはずですが、
その様子が見られないのは奴国は1つしかなく、
同じ奴国なのだけれども記載の元になる根拠資料が2つなので2回出てくるのだと思う。
 そのことは「晋書」宣帝紀を見ても分かる。
「晋書」には正始元年(240年)春正月に「東倭重譯納貢」と書いている。
倭ではない。東倭である。
この正始元年は魏志倭人伝にも書かれているが、有名な年で、
帯方郡太守の弓遵が建中校尉梯儁等を倭国に派遣して、百枚の鏡等の返礼品を贈った年である。
魏志倭人伝の記述から分かる。
「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 
其年十二月 詔書報倭女王曰」
 景初3年(239年)に魏の明帝が亡くなり、元号は景初から正始に変わっている。
つまり魏は倭國のことを知っていたはずである。
それなのに「倭」ではなく「東倭」と断っているのですから別の国である。
そして中国側は朝貢を断っている。
 つまり奴国が2つあるのならば、中国側にとっては大事な情報なので、
何らかの形で区別するか、そのことを書くと思われるのだ。
 古事記や日本書紀に書かれた「誓約」は相当に厳しい2国間の人質の交換だったと考えている。
例えば出雲大社の大国主の命は西側を向いています。
つまり奥様の故郷であり、自身の祖先の地である宗像の方角である。
祖先の須佐之男命の娘達の居た所である。
 よく稲佐の浜を向いていると言う人達がいるが、
縄文海進で海面が高かった当時の稲佐の浜は海の底である。
 大国主の命は戦えば国を譲らなくても勝てた可能性が有るのだが、
母国である宗像の人達の指示に従って諦めたのだろう。
なので大国主の命は西を向いて座っており、
その傍らには見張り役の神々が確か5柱だと思うが、座っているのだと思う。

5.自郡至女王國 萬二千餘里の件
 これも1.が正しく、陳寿がそれを元に書いているのであれば、
現代の地球儀で計ればすぐに分かる。
1里が70~80mであれば12000里つまり900kmくらいでほとんどピッタリ。
 紀元前2世紀頃に書かれた周碑算経を見ると、
中国人は地球が丸くてその周囲の径が4万kmであったことを知っていたのが分かる。
彼らは島国の日本や山に囲まれた西洋の国々とは違い、広い大平原に居たので、
地平線に沈む遠くの景色から地球が丸いことを知っていたのだ。
 周碑算経を見ると太陽の高度と季節及び時間から、緯度や経度を算出していたようである。
なので鬼道を操る卑弥呼の弟子達に、必要な知識を与えて、
秋分の日や春分の日の太陽高度や方角(日の出や日没の位置からの角度)を計らせれば、
簡単に位置が分かったものだと思う。
現代人は古代中国人をなめているが、紀元前2世紀にそれほどの知識を持っていたのだ。
鬼道については色々な説があるが、
当時の人達にとって重要な儀式を操る宗教的なものだったようなので、
天文的な知識は持っていただろう。
 「女王国の北側の国々」の話は後漢時代の倭人の説明記録なので、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」と倭人は道里を知らないから
郡から不彌國までを里程で記したのに対して「日数で表記せざるを得なかった」が、
倭人の説明の記録は伊都国あるいは不彌國から女王国や投馬國までの範囲の話なので、
「郡から女王国までの距離」は西晋の皇帝達へのサービスとして里程を書く必要が有った。
なので、陳寿は天文学者達の力を借りて「郡より1万2千里」と書いたのだろうし、
陳寿が後漢時代の倭人の説明を根拠に書いている事情を知る皇帝たちはやむを得ず許したのだ。

 陳寿が魏志倭人伝を書いた際に、道のり距離と直線距離を混在したのは仕方ないことだと思う。
基づく根拠資料が違う物だったからである。
道のり距離で書かれた部分は派遣された使者の実際に歩いた行程の距離であり、
直線距離で書かれた部分は光武帝時代の記録で倭人の説明を聞いて書いたので距離の記録が無く、
仕方ないので(想像にすぎませんが)上に書いたような方法で推測したのであろう。
 中国の使者は女王国までは行っていない。
彼らは観光旅行ではなく大使館の人間として倭国に来ているので、
もし必要であれば卑弥呼に伊都国まで来いと言う立場だったのだと思う。
 なお、「會稽東治之東」についても書いた方が良いと思いますのでちょっと書く。
Wikiの地図を見て「會稽東治之東」は呉の領地だと思うかもしれないが、
Wikiの地図は三国が激しく戦っていた頃の地図である。
陳寿が魏志倭人伝を書いた頃には既に蜀は滅び、呉も小さくなっており、
なんと魏も西晋に禅譲して既に存在していない。
 三国志は一応西晋の忖度もあって魏に近い記述になっているが、
書かれたのは魏が無くなってから。
なおかつ陳寿は元は蜀の人間で、
そのせいで一時は三国志の編者をクビになりそうになったそうだ。
 資料が無く、想像にすぎないが以下のことが正しいのだと思う。
後漢書で言う「会稽東冶」つまり東冶県は、
永安3年(260年)以降は建安県に属するようになっており、
三国志の成立は概ね280年以降とされているので、
もし陳寿が書くならば「会稽東冶」ではなく「建安東冶」と書かれていたはずである。
「会稽東冶」は誤記であり、
後漢書の方は「後漢」にこだわった後漢書の編者が誤って「会稽東冶」と書いてしまったのだろう
と言うのが通説になっており、今では「會稽東治之東」が正しいとされている。
 その場合の「會稽東治之東」なのだが、確かに場所の確定は困難なのだが、
ここで言う「會稽」とは魏志倭人伝の当該記述の直前の「夏后少康之子封於會稽」の「會稽」を
受けていると思われる。
 この「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。」という文章は、
「史記」の「卷四十一 越王句踐世家 第十一」に登場する文章を引用している。
「越王句践。その先は禹の苗裔にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封じ、
以て禹の祀を奉守す。文身・断髪し草來を披きて邑とす。」である。
 ここで言う夏は現在の河南省商丘市夏邑県で南京から見ると少し北西なのだが、
「斷髮文身以避蛟龍之害」から海辺だと考えられるので、南京の東あたりだと考えられる。
なので、僕はおおよそ南京の東と考えたのだ。
そうすると「會稽東治之東」は會稽の東の魏の治むる所の東と読め、
地球儀を使って東へ進むと宮崎県あたりになる。

以上、邪馬台国=宮崎県小林市またはえびの市説に対する疑問の回答である。







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最終更新日  February 23, 2024 02:22:52 PM
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