日本を征服だ!

日本を征服だ!

PR

×

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ぼくとしちゃん

ぼくとしちゃん

フリーページ

January 6, 2024
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
お正月(松の内)も明日で終わり、ヒマなので気になっていることを研究した。
邪馬台国畿内説で言う「東と南を間違えた」と言うことはあり得るのか研究してみた。

なお、今回はあくまでも畿内説に関する研究であり、
僕は北部九州説にも懐疑的なので、北部九州説には触れていない。
そもそも北部九州説は、例えば博多~JR吉野ヶ里公園駅は千円以下でいけるし、
南の山門郡だって、東の飯塚だって宗像だって千円以下で行ける距離である。
魏志倭人伝に書かれた水行10日陸行1月とは全然感覚が合わない。
水行10日陸行1月を帯方郡からの距離にしたって、
そんなに近いならば伊都国や不彌国からの行程を書くはずである。

「来月にバーベキューしましょう」と卑弥呼のお誘いが有るだろうと思うから、
使者も一度くらいは女王国に行くだろう。行けば行程は書けるはず。
だから北部九州説もあり得ないのである。

邪馬台国畿内説で言う「東と南を間違えた」と言う人の根拠はだいたい次の理由である。
まぁもっとも大多数の人は偉い先生が言うからと言うのがほとんどなんだけど、
以下の根拠をあげて主張する人はまだましである。

1.纏向遺跡が考古学的に3世紀中頃らしいと言うことから考えてここは邪馬台国の都である。
 →纏向遺跡が考古学的に3世紀中頃らしいと言うことは正しい可能性があるが、
  それは「邪馬台国の都の都である証拠」とはなりえない。
  それは過去にブログに書いたので以下を参照してもらうと分かる。
逆は必ずしも真ならず
  この程度のことは中学生で習うので、誰でも知っているはずと思っていたら、
  その後調べたら、どうも今時は高校でしか教えないらしい。
  つまり文系と理系が分かれる高校で習うので文系の人はこんな簡単な理論も知らないのだ。
  何となく政治家の思惑が見えるような気がする。
  この原理は詐欺の基本で、これを知らない人は詐欺に引っかかりやすい。

  政治家もそれを応用して印象操作を行い、民衆を誤った方向に誘導するのによく使う。
  おさらいの意味で繰り返すと、
  卑弥呼が活躍していたのは3世紀中頃なので、その都は3世紀中頃に有ったはずである。
  これは正しい。
  しかし、その逆である3世紀中頃の都の遺跡は卑弥呼の都である。
  これは必ずしも正しくは無い。むしろ誤りの場合が多い。なので証拠とは言えない。
  よく邪馬台国畿内説の学者先生に、
  「邪馬台国以外に大きな国が有って、纏向はその国の都でも良いのでは?」と言われて、
  返事に困るのはそのせいである。多くの場合学者先生は顔を真っ赤にして怒るが、
  理論的には纏向が他の国の都である可能性は十分にあり得る。
  と言うかむしろ他の国の都である可能性が高い。
  その国とは「晉書(宣帝紀)」に書かれた「東倭」である。

  『晋書』宣帝紀には、
  「泰始元年春正月、東倭、譯を重ねて貢を納む。焉耆・危須の諸国、弱水より以南、
  鮮卑の明王も、皆使を遣はして来献す。
  天子美を宰輔に帰し、又 帝の封邑を増す。」
  と記載されている。
  即ち、魏の滅亡直後、泰始元年(265 年)に、東倭の女王が西晋国に遣いを送った。
  この時期は、倭女王・卑弥呼の没後約18年経った時期で、
  邪馬台国の壱与が女王であった時代に他国の女王が朝貢を行ったと考えられる。
  邪馬台国が倭ならば、わざわざ同時代に「東倭」と区別して書くはずが無い。
  つまり東倭は倭とは別の国で、倭の東側に有った国であろう。だから東倭なのである。

  しかも陳寿が魏志倭人伝を書いたのが280年頃(魏は既に滅びて西晋の時代)なので、
  陳寿はこの事実を知りながら、あえて魏志倭人伝には書いていない。
  何故か?
  これは帯方郡から卑弥呼の要請により張政が倭国に派遣されたことに関係あると思う。
  よくこのことを知らずに、
  魏は卑弥呼が助けを求めたのに「黄色の旗しかくれなかった」と言う人がいるが、
  とんでもない話で、魏は帯方郡から張政を派遣して倭の内乱調整に手を貸している。
  張政は壱与に檄をもって教え諭した。
(原文)
其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 
詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之
(意訳)
正始八年(247)、帯方郡太守の王頎が着任した。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、
檄文をつくり、これを告げて諭した。

  張政は19年くらい日本にいて壱与を助けて政治に関与したらしい。
  (これは根拠不明だが張政は帰国後帯方郡で出世したらしい。太守になったのかも?)
  張政が中国に帰る時には壱与は部下をお見送りに出している。
  ちなみに魏志倭人伝には以下のように書いている。
(原文)
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 
貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
(意訳)
壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。
因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。

  壱与はよほどうれしかったか、あるいは張政を恐れたのだろう。なので厚遇している。
  また、壱与を倭の女王と書いている。東倭の女王とは書いていない。
  ほぼ同時期なので倭の女王と東倭の女王は別人だと意識している。

  つまりそんな時代なので、倭と東倭は別の国であり、纏向は東倭の都ではと思うのである。

2.三角縁神獣鏡は邪馬台国の鏡であり、畿内で良く出土するので邪馬台国は畿内である。
 →これも上記と同じで、逆を真と思わせているので一般の人を勘違いさせる話である。
  卑弥呼は魏から100枚の鏡を送られたと言うのは事実である。
  しかしその逆である、たくさんの鏡が有るのでそれは卑弥呼の鏡であると言うのは誤り。
  その鏡が東倭の鏡であっても成立する話なので根拠にはならない。
  景初三年の三角縁神獣鏡が有ったとしても、
  それは景初三年にその鏡が造られたと言うことの証明であって、
  魏から贈られた鏡の証明にはならない。これも過去にブログを書いている。
三角縁神獣鏡とは何か?

  過去のブログにも書いたように、
  三角縁神獣鏡を有名にした纏向遺跡付近の黒塚古墳を見ると分かるように、
  亡くなった方の枕元に置かれた鏡は画文帯神獣鏡一枚であり、
  三角縁神獣鏡は辺り一面にばらまかれた状態なので、かなり粗末に扱われており、
  画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡のどちらを大事にしているかと考えれば、
  三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とは考えにくい。

3.末蘆国から見て伊都国は東南ではなく、東北なので、魏志倭人伝の方角は誤っている。
 →これはそもそも末蘆国の位置を勘違いしている場合が多い。
  末蘆国を「唐津」と考えるのは地元の状況を知らない人の場合が多い。
  現在では合併により唐津市になっているが、末蘆国は呼子である。
  呼子は神功皇后の朝鮮征伐や秀吉の朝鮮征伐の拠点になった場所で、
  湾が多く大型船が停泊できる港が(港湾土木が未熟な古代にあっても)造り易い。
  中国からの船が伊都国に直接来れないのは、中国の船が大きく喫水線が深いせいである。
  倭国の船は準構造船なので唐津や伊都国の砂浜にも接岸し停泊可能だが、
  中国の構造船は沖合に停泊して小舟に乗り換えるしかない。
  その場合周囲に風を遮る物の無い伊都国周辺は危なくて使えない。
  後世に元軍が全滅したのはそのせいである。
  なので末蘆国は湾が多く大型船が停泊でき、接岸しやすい呼子である。
  また呼子で上陸して伊都国に向かう場合、
  歩き出す方向は東南で、唐津を経由して伊都国へ向かうが唐津には用事が無く通過する。
  魏志倭人伝の書き方は、
  「行動の結果目的地に着く場合」と「目的地に行くにはどう行動する」を明確に分けており、
  末蘆国から伊都国への行程は「行動の結果目的地に着く場合」である。
  つまり「東南陸行」は行動する方向であり目的地すなわち伊都国の方角を示すものではない。
(参考)
  「行動の結果目的地に着く場合」の書き方。
  東南陸行 五百里 到伊都國
  「目的地に行くにはどう行動する」場合の書き方。
  南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
  明らかに文章構文が違う。学者先生は何故この程度のことが分からないのだろうか?

4.中国の地図の中に中国や朝鮮を上に日本を下に描いた地図があり、東と南を勘違いしている。
 →これはそもそも「地図は北が上だ」と現代の日本の地図の書き方に囚われているせいである。
  中国や韓国では、地図は目的や慣習により必ずしも上が北ではない。
  特に国同士の上位下位を意識している場合は方角よりも遠近を元に書いたり、
  自国を上に相手国を下に描いたりする。
  あるいは戦略上(地図の上で軍を進めるので)自国を手前に、相手国を上に書いたりするので、
  現代日本の地図とは感覚が違う。
  この説を唱える先生の使う地図は下の「混一彊理歴代国都之図」である。


  先生は新発見をしたつもりなのかもしれないが、よく見て欲しい。
  東南アジアが左にある。つまりこの地図は上が北ではなく、上は西である。
  なので、下は東で左は南なので、畿内は東側になっている。
  東と南を間違えているわけではない。
  実は先生が見つけられた地図は、この地図を元に李氏朝鮮で描かれた地図であり、
  台湾と東南アジア(マレー半島)を削除している。そのせいで左が南で下が東だと分からない。
  なので先生は「魏志倭人伝は東と南を勘違いしている」と言っているのである。
  この地図は朝鮮が大き過ぎる等の不正確な部分はあるが、方位は間違ってはいない。
  学者先生ならばちゃんと調べて欲しいものである。

  ちなみに日本の中央に赤い○があるが、ここには「日本国」と書いており位置は山城である。
  つまり日本が「倭」ではなく「日本」になってから書かれた地図であり、
  すでに遣隋使や遣唐使の派遣された時代以降の地図なので、方位が間違っているはずは無い。

  地図の上が北ではなかったと言うのは江戸時代の下の地図でも分かる。


  先生の理論だと江戸時代の日本人は「北と南を勘違いしている」ことになる。
  本当はそんなことはない。
  大事な部分、つまり江戸とそこから出る船の航路を上に書いただけである。

以上から、邪馬台国畿内説で東と南を勘違いしていると言う理論には根拠が無いことが分かる。
学者先生には困ったものだと思う。
学者先生も「東と南を間違えた」などと言うトンデモ理論を考えるのではなく、
ちょっと理論的に北部九州説を否定してみるのはどうだろうか?
次回「女王国の北側の国とは?」を書いてみる。

但し、卑弥呼が死んだ後の邪馬台国つまり魏志倭人伝には書かれていない邪馬台国が、
畿内に進出したことは否定しない。
それは日本書紀等に「大倭」と言う言葉が有るからである。
つまり「倭」がその東に有った「東倭」を吸収して「大倭」になったのならば、
感覚的に非常によく合うからである。ただ、証拠は無いので、現段階では妄想でしかない。

<後日追記>
今日YOUTUBEうぃ見ていたら、面白い説を見つけた。
長崎県と佐賀県にある松浦郡の位置関係がおかしいので、
それを元に「古代には方位に対する呼び方(あるいは考え方)が今とは違って90度回転して、
そのせいで魏志倭人伝では東と南が読み違えられている」と言うものである。
面白い説だと思う。
確かに東京の人がこの辺の地図を見るとそう思うかもしれない。
下に現地の地図を載せる。


確かに南松浦郡が一番西に在り、その東に北松浦郡、その東に西松浦郡、その東に東松浦郡。
方位が滅茶滅茶じゃん!そう思うかもしれない。
でも東と南を間違えたのとは違うのでは?東松浦郡はちゃんと一番東だし、
南松浦郡は一番南に在る。東と南を間違えたとは言えない。
ただ、東西南北と言うものが滅茶滅茶なのは確かにそうだ。

実はこれは歴史的な背景がある。
よく見ると、東松浦郡と西松浦郡は佐賀県に有り、(佐世保付近は微妙だけれども)
北松浦郡と南松浦郡は長崎県である。
つまり県が違う。
実は明治の廃藩置県前後に地域があっちに含まれたり、こっちに含まれたり二転三転している。
そう、つまり分捕り合戦が有ったのですね。
ちなみに1871年頃の地図を載せてみる。

おぉー!なんと「佐賀県」でさえもない。伊万里県!
つまり、大きな松浦郡と言うのがあって、
その中の東松浦郡、西松浦郡、北松浦郡及び南松浦郡と言う訳ではないのです。
伊万里県の中での東松浦郡と西松浦郡。長崎県の中での北松浦郡と南松浦郡であって、
長崎県の南松浦郡と伊万里県の東松浦郡は他県の同名の県であって、関係がないのです。
恐らくは松浦と言う名前を「自分の所が本家」と争っていて、譲らなかったのでしょう。
そしてそれが尾を引いて、自分の県の中だけで東西や南北を名乗った。
なので、東と西はお互いに関係が有り、北と南もお互いに関係が有るのですが、
東と南は関係が無いのです。
だいいち、今の若い人は「松浦」を「マツウラ」と読みますが、僕らは「マツラ」が普通だし。

かってそれを研究していた時に面白い地図を見つけました。


この地図で面白いと言うか大事なのは、
唐津(カラツ)と呼子(地図の中では名護屋(ナコヤ))や伊万里(イマリ)の関係。
今では市町村合併でまとめて「唐津」ですが、かってはこんなに独立していたんですね。
魏志倭人伝に書かれた末蘆国を唐津と言う人がいますが、実際はこの地図の名護屋つまりナコヤ。
カラツだと唐津湾をはさんで今の唐津の対岸です。
今の伊都国のすぐ隣と言うか、もしかすると伊都国付近かもです。
市町村合併は仕方ないことだけど、考古学上は混乱の元ですね。

そしてもう一つ大事なのは船の航路。
破線(点線)で表示していますが、名護屋(ナコヤ)が主要な港になっている。
そう、僕が主張するようにここは古代からの天然の良港があり、
だから魏志倭人伝に書かれたように中国の使者はここで船を降りて、
伊都国まで陸行したのです。
伊都国に港が造れるのならば、伊都国に直接船で行くはずです。
伊都国付近は砂浜で、当時の港湾土木技術では港は造れず、
砂浜なので小さな倭人の舟は接岸停泊可能ですが、
安全に日本海を渡れる中国の大型船は砂浜には接岸停泊できないので、
中国の使者は名護屋(ナコヤ)で船を降りて伊都国まで陸行したのです。
どうして学者先生はこの程度のことが分からないのだろう?





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  January 14, 2024 04:14:17 PM
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: