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January 9, 2024
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邪馬台国論争の中でちゃんと議論されていないこととして、
帯方郡から不彌國までは北から南に連続的に不彌國まで書かれているのに、
何故か「女王国の北側の国々」などと言うちょっと変わった書き方をしている事に、
誰も触れないのは何故だろうか?

邪馬台国畿内説の弱点である、
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の方向が畿内とは全然違う点について1月6日に書いたが、
今日は北部九州説の弱点である、
「邪馬台国までの距離が北部九州では魏志倭人伝の記載と違う」点について研究してみる。

畿内説が「魏志倭人伝は東と南を間違えた」などと言うトンデモ説を主張するのと同様に、

だって、北部九州説であげられている地点はみんな現在では電車で千円で行ける距離。
とても魏志倭人伝に書かれた「水行10日陸行1月」とは思えない場所ばかりである。

それを考える際に重要なのが冒頭で書いた、
帯方郡から不彌國までは北から南に連続的に不彌國まで書かれているのに、
何故か「女王国の北側の国々」などと言うちょっと変わった書き方をしていることである。

学者先生が主張するように魏志倭人伝が「斯馬國~奴国」だけが女王国の北側の国で、
狗奴国が女王国の南側に有るのならば、
帯方郡から不彌國までの行程の中に奴国は出てくるのであるから、
奴国からその南に在る女王国までにはこれこれの国々が在り、ここが女王国の範囲であり、
其の南に狗奴国があり、その官は○○と書けば良いはずである。むしろ理論的だと思う。
(注)こう書くと「奴国は2つ有る」などと言うトンデモ説を主張する人もいるが、

   それを読む中国の皇帝や貴族から聞かれるのは当然なので、
   何らかの説明を書くはずであるが、何も書いていない。
   つまり帯方郡から不彌國までの行程に出てくる奴国と女王国の北側の奴国は同じである。
   何故2回出てくるのかは後述。

何故「女王国の北側の国々」などと言う書き方をしたのであろうか?

狗奴国を指している「其の南に狗奴国あり」と書かれた「其の」は女王国ではなく奴国で、
実は「女王国の北側の国々」は女王国に属する「斯馬國~奴国」と、
女王国に属さない狗奴国の両方を指しており、その後に「郡より1万2千里」と書いているのだ。

もし学者先生の主張するように「女王国の北側の国々」が「斯馬國~奴国」だけならば、
女王国とその属国の話はいったんここで終わり、ここに「郡より1万2千里」と書くはずだ。
でも狗奴国も「女王国の北側の国々」なので、
狗奴国の話までしてから、最後に「郡より1万2千里」と書いたのだ。
その方が理論的に正しいと思う。
絵に描いてみると分かりやすく、一目瞭然なので書いてみた。

女王国の北側の国として奴国まで書かれているのだから、
もし女王国に属する国だけが「女王国の北側の国々」なのであれば、
図の赤い部分の前で話は終わっており、
女王国の帯方郡からの位置の説明である「帯方郡から女王国までは1万2千里」と言う説明は、
緑部分のすぐに下で、女王国に属さない国である狗奴国の前に書かれるはずである。
そうなっていないのは、緑はあくまでも女王国に属する国々がここまでであり、
「女王国の北側の国々」の話は終わっていないからだ。

現実の魏志倭人伝には帯方郡から1万2千里と書く前に狗奴国が書かれている。
と言う事は、女王国に属さない狗奴国も「女王国の北側の国々」の一つであり、
帯方郡からの距離1万2千里の中には狗奴国も含まれているので、
狗奴国を書いた後に帯方郡から1万2千里と書くのが論理的である。
陳寿はそう言うつもりで、ここの文章を魏志倭人伝に書いたのだろうと思う。

今までそのように読んでいなかったのは、赤い部分の先頭の「其南有狗奴国」の「其」を、
緑部分で「女王国の北側の国々」の話が終わったのだから、
「其」は女王国を指していると勝手読みしていたからであり、
もし狗奴国も「女王国の北側の国々」の一つであるならば、
「其」はその直前に書かれた奴国を指していることになる。
すると狗奴国は奴国の南で女王国の北側の国になる。
狗奴国の官の「クコチヒコ」は菊池彦で良いのではないだろうか?
奴國が福岡、狗奴国が熊本、ならばその南側に有るのは宮崎や鹿児島つまり南九州である。

ここで「クコチヒコ」が「菊池彦」として地名に残っているのに注目したい。
宮崎には「生目古墳群」と言うのが有る。
邪馬台国の官に「伊支馬」と言うのが有る。
伊都国の「伊(イ)」、一支国(魏志倭人伝では支を大と誤記)の「支(キ)」、
馬をメ(多分実際は今の母音とは違いマとメの中間の音)と考えれば「伊支馬」は「イキメ」、
宮崎は昔は「美々津(ミミツ)と呼ばれていた。
投馬國の官は「彌彌(ミミ)」と言う。「津」は港のことである。
各国の官の名前が地名として残っているのは偶然だろうか?

ここで最初の疑問である、
「女王国の北側の国々」などと言うちょっと変わった書き方をしている理由を考えてみよう。
もしかして陳寿が魏志倭人伝を書いた際に使った資料がそうなっていたから?
実は、このことについては何回か過去のブログに書いている。
例えば昨年の12月20日のブログである。
後漢書の「極南界」の解釈について

日本書紀や古事記も編纂するに際して、
朝廷は大和の豪族だけでなく日本各地に資料の提出を求めている。
古事記序文によると、
天武天皇に命ぜられた稗田阿礼がそれを誦習して太安万侶が文字にしたらしいが、
三国志も同様で、魏略等の残された資料を集めて、それをまとめたものだと思われる。
​つまり帯方郡から不彌國までと女王国の北側の国々の書き方が違うのは、
元にした資料が違い、陳寿はそれらの原典を大事にしたせいだと思われる。
つまり、帯方郡から不彌國までは、
現に伊都国に中国の使者が滞在しているので、その復命書(又は報告書)を元に書いたので、
連続式で帯方郡から順に書かれており、行動の記録と最新の地元の情報になっている。
しかるに投馬國と邪馬台国は水行10日陸行1月と、相当に遠く使者は実際には行っていないので、
陳寿の手に入れた魏略等の古い資料に基づいているので、書き方が全然違うのである。

女王国の北側の国々の部分の基になった史料つまり後漢書倭伝には、
上のリンク(後漢書の「極南界」の解釈について)に書いたように、
奴国が北側から南に向かって国々を征服して行ったので、
最終的な征服地である女王国が最南端にあり、
そこを基準に征服した国々が北側の国々として書かれていたのである。
なので、女王国の北側の国々なのだ。​
その元になっているのは倭人の言葉なので、
魏志倭人伝には「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶」と書かれている。
つまり倭人は道里を知らず日数をもって説明したのである。
もし中国の使者が実際に行って、その記録を元に書いたのならば、
行程や距離は日数ではなく距離で書かれていたはずである。

つまり日本人はあまりにも邪馬台国と卑弥呼が大事なので、これを邪馬台国までの行程と読むが、
実は陳寿は倭國の様子の一環として邪馬台国の位置を書いており、
そのせいで帯方郡から不彌國までの記述と邪馬台国の位置の記述はつながっていないのだと思う。
なんせ、元にした資料が違うのだから。
元にした資料が書かれた時代や背景が違うので「奴国が2回出てくる」のである。
つまり帯方郡から不彌國までの行程の中に出てくる奴国は陳寿の時代の奴国で、
女王国の北側の国々の中に出てくる奴国は過去恐らくは後漢時代の奴国である。
そして女王国の北側の国々の記述は後漢時代の情報を魏略がまとめていたものを、
陳寿が引用する際に現状に合わせて書き換えた物だと思う。
それが狗奴国の話になっている。

恐らく狗奴国は「倭国大乱」以前は女王国に属する女王国の北側の国々の一つだったのだ。
それが倭国大乱の際に敵国化し、その事実を知る陳寿は魏志倭人伝の執筆時に書き換えた。
そのせいで、女王国の北側の国々は、
女王国に属する奴国までの国々と、女王国に属しない狗奴国として書かれ、
最後に帯方郡から1万2千里と書かれたのだ。
そう考えるとつじつまが完全に合う。

ここからは証拠が無いので妄想だが、
邪馬台国の女王の名前である「卑弥呼」と、
狗奴国の男の王である「卑弥弓呼素」の名前が非常に似ていることから、
2人は姉と弟だったのではないかと思う。
卑弥呼が実は男だったと主張する学者先生の中には2人は同一人物だったなどと、
トンデモ説を唱える方もおられるが、
もしそうならば軍事上重要な事実なので、中国の使者は情報をつかんでいるはずだし、
そう言う情報があるならば、魏志倭人伝の中にもそれらしきことが書かれるだろう。
三国志は観光旅行のパンフレットではないのだから。

そして姉と弟が争ったと言えば天照大御神と素戔嗚命の話が思い出される。
素戔嗚命が高天原に昇ってきた際に卑弥呼は「武装」している。
今までたかが兄弟げんかに何で男でもない天照大御神が武装するのかと思っていたが、
これが神話ではなく史実の繁栄ならば理由が分かる。
素戔嗚命は単身で来たのではなく、軍隊を引き連れて来たのだ。
なので天照大御神は女神としてではなく総司令官として出陣したので武装したのだ。

じゃぁ月読命は誰なのか?
古事記の中でも影が薄いけれども、彼が伊都国の一大率であり、
姉にも弟にも味方できずに中立を保ち、
そのせいで卑弥呼は伊都国を頼りにできずに直接難升米を魏に送ったのだろう。
諸国が恐れると魏志倭人伝に書かれた一大率が、
女王国と狗奴国の戦いに出てこないのは変だから。
そして姉=女王卑弥呼は岩戸に隠れ(亡くなり)、
彼女によく似た宗女壱与が岩戸から出て来たのだろう。
その結果諸国の信用を失った素戔嗚命は追放されて新羅(の前身の国)に行き、
力を蓄えて日本に帰って来て出雲の国をつくったのに違いない。

前半は真面目に女王国の北側の国々について書いてみたけれど、
後半の「妄想」の方が面白いなぁ。





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最終更新日  January 26, 2024 02:15:04 PM
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