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ぼくとしちゃん

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July 12, 2024
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歴史学者は自分達が理解できないことは「うそ」だとか「間違い」と考えて、
ちゃんと調べたり、理解しようとはしない。

ちゃんとした資料「魏志倭人伝」が有るのに、
これを「東と南を間違った」とか「距離を間違えた」などと勝手に解釈してしまい、
そのせいで邪馬台国は日本中に散らばっており、未だに解決しない。

同様なことが古事記や日本書紀の神話に対しても言える。
「歴史とは想像力である」なんて偉い学者先生は言うけれど、
何故日本の歴史を書いた「官製の史書」に神話が書かれているのかを理解しようとはしない。
世の中の全てのことには理由が有るはずである。

書こうとすれば書ける真実を「大人の事情」からぼかす為に神話にしたのだと思っている。

例えば「 稻羽之素菟 」が良い例だと思う。
古事記では「稻羽之素菟」と書かれており、「 因幡の白兎 」とは書かれていない。
古事記では音に仮名をあてて書いているので、
因幡のように漢字に2音をあてられないので稻羽としていると言う学者がいるが、
じゃぁ素菟はどうなるのかと聞きたい。
白兎ではなく素菟としたことに意味があるのだと思う。
「菟狭津彦命( うさつひこのみこと)」である。
菟狭津彦命は、神武天皇が東征する際に 筑紫国の菟狭に上陸したとき、

菟狭川(大分県宇佐市)の川上に一柱騰宮を造営して饗応の奉仕をした。
その人のことではないかと思っている。
対する鰐(わに)は和邇氏の祖先で(神武天皇と大和に行った後は京都を根拠地にするが)
それ以前は都城付近に居たのだと思う。鰐塚山のふもとである。

大分の宇佐の人達と宮崎の都城の人達の争いが「稻羽之素菟」の神話になったのだと思う。

それは両者がどちらも天皇家の祖先に従う人達で、禍根を残したくないが、
でも天皇家の祖先の歴史に関わる一族だから歴史からは消せなかったからである。
両者はその後もたびたび戦っている。
景行天皇の九州への行幸の際にも(大分側は景行天皇に告げ口して)宮崎(熊襲)を攻め、
奈良時代に入ってからも宇佐八幡宮の神兵は隼人を攻めている。
宇佐八幡宮付近にはその際の捕虜の首を埋めた(と言う伝説が残る)首塚が残っている。

実際に見に行って来ました。
宇佐八幡宮近くの首塚

なので「稻羽之素菟」は書けない事情が有って神話になったのだろう。
ちなみに隼人は一部は大和に移って朝廷に仕え、一部は都城に残って朝廷に反発している。
後世、藤原純友の乱の際には大和の隼人が宮崎側の隼人に呼び掛けて、
宮崎側の隼人が寝返った為に藤原純友の軍勢は大混乱に陥り、大宰府の軍勢に敗れている。

想像でしかないが、恐らく大和に移った都城人が「隼人」で、
地元、都城に残った都城人が「熊襲」と呼ばれたんだと思う。
でも、「隼人」達の尽力により、都城に残った人達も、後世には「隼人」に統一され、
皇室との深い関係は明治維新まで続き、長州と土佐と薩摩は明治維新の立役者になった。
歴史って「続く」ものなんだなと思う。

天皇家の祖先に関わる「天孫降臨」は大人の事情と言うよりも古代過ぎて神話になったのだと
僕は思っている。
例えば天孫降臨の際に高千穂の峰から下界を眺めて「韓の国」が見えたのは、
地球は丸いのだから、ここから韓国が見えるはずもなく、
韓国岳から見える「えびの」のことで、
ここには中国もしくは韓国から戦火を逃れて来た人々が住んでいたのだと思っている。
つまり「えびの」は俗説に言う「えび色(すすきの色)に染まった野原」が由来ではなく、
「夷(えびす=渡来人)が住む野」が由来なんだと思っている。
そう考えれば瓊瓊杵尊のお言葉は現実のことである。

また「海幸彦と山幸彦」の話も神話ではなく、後継者争いの話で、
山幸彦は都城付近に居た和邇氏の祖先を味方につけて後継者争いに勝ったと言う話だと思う。
山幸彦は和邇氏の娘を嫁にもらい、
その軍勢の助けにより海幸彦を退けたのが鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)
の話として残ったのだと思う。
その何よりの証拠は、
山幸彦の奥さん(海幸彦の釣り針を探しに行った龍宮城のお姫様)の出産の話である。
彼女は「豊玉毘売命」と言う名前だが、姿を変えた八尋和邇(やひろわに)である。
魚類のワニ(古代日本で言うワニはワニザメつまりサメのこと)が人間の子供を産むわけがない。
天皇家の人達が自分の祖先は魚類のワニだと書いた古事記を読んで気持ちが良いはずがない。
何も言わないで世の中に古事記や日本書紀を出したのは、
魚類のワニではなく和邇氏の娘が祖先だと知っていたからである。
ただ、大和の隼人は朝廷に従ったが宮崎の隼人は従わなかったので、素直には書けず、
天皇家の祖先が和爾氏であるとは書けず、神話になったのである。

そして今日は「出雲の神話=国引き」の話である。
これは古事記や日本書紀には載っていないのだけれども、出雲国風土記に載っている神話。
当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば、
「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」
という失敗作であったという。
「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという。
そこで、八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の
余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて
「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。

最初は出雲の国が周囲の国々を征服して広くなっていった過程を神話にしたのだと思っていた。
でも「できた土地が現在の島根半島」なら小さくは無いか?

ここで重要なのは、「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったと言う部分である。
それがあちこちの土地を引っ張って来て大きくなった。
これって2024年に実際に有ったぞ!
そう能登半島の地震に伴う土地の隆起である。
地震により大きく隆起した所は10mも高くなった。
港が隆起して陸地になった写真が有る。


ものすごいと思う。元の防波堤の外側まで陸地になっている。
これがなんと90km位も細長く「陸地が増えた」らしい。それを学会で報告している。


「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったのが、
地震により隆起して幅広くなっている。
現代人だから「地震により隆起した」と科学的に理解できるが、
古代の人達ならばどう思うだろう?
多分、どこかから神様が土地を引きずって来て「島根半島になった」と考えても不思議ではない。
土地が増える前には地震で相当に揺れただろうから、
「引きずって来たので揺れた」と考えても何の不思議もない。

そう考えれば「神話には根拠が有り、ただ説明できないので神話として書いた」のではないか?
ふとそう思ってしまった。

古事記や日本書紀の神話部分ってこうしてみると、全て根拠があるのでは?
だから当時の知識人や天皇家も「神話」であることを容認したのではないだろうか?





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最終更新日  July 14, 2024 02:38:07 AM
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