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October 10, 2025
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​​​​​​​昨日は邪馬台国論の中でとても大事なんだけれども
世の中の学者先生や研究家が考えないことについて過去に書いたことの整理と
新たに推理したことを一つ例を挙げて書いた。
それにしても、例として挙げた論理学的な考え方の基礎を知らない学者先生が、
「纏向が3世紀後半の遺跡なので邪馬台国である考古学的証拠」だと考えているのは、
ちゃんと勉強していれば、高校の数学1の教科書にさえ載っていることなので、
すぐに間違いだと分かることだから、
もう少し勉強して欲しいなと思うのだけれども、
今日はその2つ目の例題。


間違った推理をしているのを見かける。
良い例が「南と東を間違えた」と言うものである。
その根拠を読んでみると、論理的に破綻したものが多く、
自説に会わないからと言うものが多い。
例えば一番ひどいのが、李氏朝鮮の地図を元に論理を展開するものである。
この李氏朝鮮の地図は、実は中国の古い地図の(朝鮮に都合が良い)一部分を切り取った物である。
下に元になった中国の古い地図を乗せる。混一彊理歴代国都之図と言い明の時代の地図である。


李氏朝鮮の地図は恐らく日本よりも朝鮮が上に在り、大きいのが気に入って使ったのだろう。
ちゃんとした知識が無い学者の場合、地図は上が北だと信じているので、
「南と東を間違えたので朝鮮に有った帯方郡から見て近畿は南になる」と考えるのだろう。

でも地図の上が北と言うルールはこの時代には無い。

例えば海南島やベトナムは、地図で上が北ならば中国の下側に在るはずなのに左に書かれている。
つまり学者先生の理論(上が北)ならば中国の西側にベトナムが有ることになる。
論理的じゃないなと思う。
これを現代の地図を90度回転したものと比較すればすぐに分かる。


日本が正確に書かれていることが分かる。

朝鮮半島が異常に大きいことを考えると、そこに理由が有って変形しているのではと思う。

うーん。日本って大きいんだなぁ。朝鮮て九州から大阪くらいしかないじゃん。
李氏朝鮮の地図を作った朝鮮人の気持ちが分かる。愛国心が有ったんだ。
でも事実を曲げるのは良くないと思う。
そもそもこの地図は明の時代の地図なので、遣隋使や遣唐使なんかが情報を与えており、
比較的正確だったはず。
例えば日本の中に赤い点が描かれており、そこには「ヤマシロ」と書かれている。
でも何で九州と四国が無いんだろう?
「ヤマシロ」と書かれていることと何か関係が有るのだろうか?

と言うことで、この地図をもって「南と東を間違えた」と言う学者先生は非論理的なのである。

南と東を間違えたと主張する学者先生にはもう一つの言い分がある。
壱岐から九州の末蘆国に着いた中国の使者が伊都国へ向かう魏志倭人伝の記述である。
原文はこう書かれている。
「東南陸行 五百里 到伊都國」
末蘆国(現在の唐津市呼子=名護屋あたり)から東南に陸行すると伊都国に着くと書かれている。
そこで地図を見ると名護屋から伊都国つまり今の糸島市はほぼ東である。
(九州の地理に疎い学者は末蘆国を唐津市と考えて東北だと考えるが、
 唐津や糸島は砂浜なので、
 古代では潮の満ち引きや風雨を避ける等を考えると大きな船は寄港できず、
 対馬海峡の潮の流れを考えると小さい丸木舟や準構造船では命がけの航海になり、
 中国の偉い使者がそんな冒険はするはずが無いので、
 海が深く周囲を島でおおわれて港を容易に造れる名護屋で降りたと考えるのが妥当である。
 現に後世の神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵も博多湾ではなく名護屋からである。
 魏志倭人伝でも倭人はちゃちな舟で航海するのでまじないをするとバカにしている。)
なので、ちゃんと漢文である魏志倭人伝を読めないと、このような誤解を招く。

でもそれは数行後の投馬國や邪馬台国への行程の記載を読めば、簡単に解決する。
ようは「方位を示す言葉」がどこにかかっているかである。
投馬國への行程はこのように書かれている。
「南至投馬國 水行二十日」
投馬國は南に在り、そこへは水行20日で行ける。

英語を中学校で習った際にはグラマー(英文法)を教えてもらったと思う。
例えばSVOC構文と言うのは、
S(Subject=主語)、V(Verb=動詞)、O(Object=目的語)及びC(Comprement=補語)である。
末蘆国から伊都国への行程の記述と、投馬國への行程の記述ではSVOCの順番が全く違う。

末蘆国から伊都国へは、
(主語を略して)方角-動詞-距離-目的地の順番である。
対して投馬國へは、
方角-目的地-動詞-距離の順番である。
それぞれについて方角はすぐ後の語にかかっている。
つまり末蘆国から伊都国の方の「東南」は「陸行」にかかっており、
投馬國の方の「南」は「投馬國」にかかっている。
なので、末蘆国から伊都国の方の「東南」は歩き出す方角であり、
投馬國の方の「南」は投馬國の有る方角を示しているのである。

そう考えると答えはすぐに分かる。
末蘆国から伊都国への行程の記述は歩き出す方向を示す記述で伊都国の方角を示すものではない。
もし伊都国への方角を示したいのならば、
書き方は「東南至伊都国 陸行五百里」と書かなければいけないのである。
そして、それが理解できれば名護屋から東南に歩き出して五百里行くと、
書かれている通りであることが分かる。
このことを誤解している学者先生は漢文(文法)をよく理解していない先生なんだと思う。

ここで今回色々と調べていて分かったことなのだけれども、
科学的にもこの時代に「南と東を間違える」ことはあり得ない。
そもそも人類が方位と言うものを認識したのはおおよそ紀元前4000年前くらいだと思う。
何故人類が「太陽神」や「北極星」を神様やあるいは神様の居る所と考えたかと言うと、
農業や航海に置いては方位と言うのは最も大事なことだからである。
農業では、太陽の昇る位置から季節を知り、田植えや麦を蒔く時期を知る。
その時期を間違えるとお米や麦は育たず、収穫できないからである。
秋にお米の種もみを蒔いても冬に枯れるだけであるし、
日本では時期を間違えると梅雨や台風で稲はダメになってしまう。

航海はそれこそ周囲には海しか無いので方位を間違えると生死に関わる。
魚釣りだけならば沿岸部分だけを航海するので、まぁ間違えても痛いだけで死なないが、
朝鮮半島まで行こうとすれば、目標になる島を見失えば死ぬ。
特に黒潮や対馬海流に飲み込まれると、方位を見失いほぼ死ぬ。
その時に頼りになるのは太陽と北極星だけだが、
太陽は時間と共に移動するので、方位に関しては正確な時間を知る必要がある。

この為に古代の人は必死に方位とその方位を知る手段を探して来た。
「山あて」と言う言葉が有って、古代の人は特徴のある山を方位の目印にしてきた。
なので、よほどのことが無ければ「中国の使者」を案内する案内人は方角を間違えないのである。

また2世紀頃に「指南魚」が開発された。
卑弥呼の時代の少し前である。
日本船舶海洋工学会のページから画像をお借りして載せる。

確かに、現代でも「指南」と言う言葉を使うじゃん!
つまり3世紀には既に「指南魚」が使われており、南と東は間違えようが無かったのである。
いやぎりぎり卑弥呼の時代には間に合っていないのでは?と言う人には、
その後の中国の古代の書が、方位に関して一切訂正していないことをもって反論できると思う。
むしろ隋書くらいからは「倭国は百済・新羅の東南3000里」と書いてあり、
もう福岡付近としか読めなくなっているくらいだから。

「南と東を間違えた」と言う事の整理がついたら、
本来の整理事項である「女王国と狗奴国の位置関係」の話を整理する。
まずは魏志倭人伝の当該部分の原文を載せる。
なお、大事な部分は太字で大きい字で書いている。
「南至 邪馬壹國  女王之所都 水行十日陸行一月 
 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
 自 女王國以北  其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國
 (途中略 斯馬國から奴国まで21国)
 ​次有 奴國  此 女王境界所盡
 ​ 其南 有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
意訳すると、
南に行くと邪馬台国に至る。女王の都とする所である。水行10日陸行1月で行ける。
​官は伊支馬と言う。その次は彌馬升と言う。その次は彌馬獲支で、その次は奴佳鞮と言う。
7万戸と言う規模である。
女王国よりも北には その戸数や道のり(行程)はだいたいの所は書けるが、
その傍国(傍らの国)はあまりに遠くて情報が無く、詳しく知ることはできない。
(傍国について名前を書けば)斯馬國が有る。(途中烏奴國まで19国略して傍国は21国)
次は奴国である。この奴国が女王の境界の尽きる所である。
其の(この其のが奴国なのか女王国なのかが議論になるが)南に狗奴国が有る。
男の王様となっている。その官は狗古智卑狗と言う。(狗奴国は)女王には属していない。
(帯方)郡から女王国に至るには1万2千里あまり有る。

ここで大事なのは狗奴国の位置を示す「 其南 有狗奴國」の「其」である。
従来学者先生と研究者たちはこれを「女王国」と考えて来た。
はたしてそうだろうか?
僕は「 自郡至女王國 萬二千餘里
もし「其」が女王国を指すならば、「 女王國以北 」​の話は奴国の所で終わっているので、
自郡至女王國 萬二千餘里 」は奴国の記述のあと、
つまり「 女王境界所盡 」の​所に書かれるはずである。
女王境界所盡 」は終わっているのだから、狗奴国は関係ないはずである。
ところが実際は「 自郡至女王國 萬二千餘里 」は狗奴国の後に書かれている。
狗奴国に関して「 女王境界所盡 」の話が終わっても、
女王國以北 」の話が終わっていない証拠である。
つまり狗奴国は女王国には属さないが女王国の北側に在るのである。
なので、狗奴国の記述のあとに「 自郡至女王國 萬二千餘里 」と書かれているのである。
これで狗奴国と女王国の位置関係の決着はついた。

ただこの話は実は学者先生と研究者が悪いのではなく、
魏志倭人伝を書いた陳寿さえも完全には理解していなかったのだと思う。
今は既に残っていない魏略にもこの辺の記載が有ったようだが、
実は魏志倭人伝ほど詳しくは無く、ちょっと変な記述になっていたらしい。
そのことは翰苑(かんえん)の当該部分を見ると分かる。

翰苑は後漢書や魏略を元に書いたらしく、少し魏志倭人伝とは違っているが、
僕でも分かる間違いだらけである。
いや、議論するような間違いではなく、単純な間違いばかり。


右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで拡大可能。

「うーん」と思うのだけれども、倭国は楽浪郡から1万2千里と書き、
女王国は帯方郡から1万2千里だと書いてある。
九州説の人は大喜びで手を叩くかもしれない。
楽浪郡は帯方郡よりも若干北側に在ったので、
それを考慮すると女王国は倭國のちょっと南側、
つまり倭国の中心を伊都国と考えると女王国は朝倉や筑後(山門)付近になるからである。
しかも女王国の南に狗奴国が有ると書いてある。
ただ、女王国を「女国」と書いているし、狗奴国の王は「女男子王」と書いている。
ちょっとケアレスミスが多くていまいち信じがたい。
何よりも「郡より1万2千里」と言う記述の位置が「何でここに書いてある?」と言う状態である。
だから翰苑の作者は、魏略や魏志倭人伝の内容をよく読んだわけではなく、
「魏略を写した」状態に近く、
魏略は魏志倭人伝と同じ古い資料を参考にしながら、自分の解釈で傍国等を省略したのだと思う。
そしてそのせいで「邪馬台国」と「女王国」の関係は分らなくなってしまい、
真実から遠く離れてしまったのだと思う。(「邪馬台国」と「女王国」の関係は後述)

しかしもう一つ大事な話が有る。
邪馬台国と女王国の関係である。
学者先生と研究者たちは、自分達には解決できない問題なので、臭いものにふたをしてきた。
でもそれでは根本的な問題である「邪馬台国はどこにあったか」や
「女王国位はどこにあったか」と言う問題は解決しないのである。
ほとんどの学者先生と研究者たちは、魏志倭人伝はいい加減だから書き間違えたとか、
気分の問題で気まぐれに書いたと、自分達の理解不足をごまかして来た。
2~3年前にNHKの特番で、邪馬台国について九州説と近畿説の人達の議論が有った。
その時に女性の学者先生が「女王国は~」と言おうとしたのに、
他の研究者にさえぎられてしまった。
彼女はこの時に「邪馬台国」と「女王国」について話したかったのかもしれない。
どの世界でもそうだが、特におじいさんたちが多い歴史の研究の世界では女性は可哀そうである。
彼女はせっかくの発表の機会を失ってしまった。
なので、代わりに僕がここに真実を書く。

世の中のおじいさん先生が考えているように「邪馬台国=女王国」ではない。
みんなが「邪馬台国はどこにあったか」と議論しているのは、
「女王国はどこにあったか」と言う議論の間違いである。
驚くべき事実だが、
魏志倭人伝の中に「邪馬台国」と言う言葉は上に書いた「南至 邪馬壹國 」だけである。
他はすべて「女王国」と書かれている。
その上に「邪馬台国」と言う言葉と次の「女王国」と言う言葉は41文字しか離れていない。
41ページではない。41行でもなく41文字である。
そんなに近い場所に「邪馬台国」と「女王国」が書かれているのだから、
魏志倭人伝の中で陳寿は「邪馬台国」と「女王国」を使い分けているとしか考えられない。
多分NHKで女性の学者はそれを主張したかったのだろう。気の毒である。

では「邪馬台国」と「女王国」を何故使い分けたかったのか?
それは「邪馬台国」は女王国と斯馬國及び奴国などの傍国すべてを含んだ連合国家だったから。
そしてそのせいで、女王国以北の話をする際にこれを邪馬台国と書くと、
邪馬台国の北側に邪馬台国が有ると言う変な文章になってしまうからである。
つまり魏志倭人伝に書かれた女王国以北の傍国は「邪馬台国の内部の国の説明」なのである。

これと同じようなことは現代でもあるし、それを現代人の僕達は何も不思議には思わない。
だから魏志倭人伝の時代でも、事情を知っている人は納得して受け入れたと思う。
現代における例とは、例えば中央高速八王子付近の道路標識である。
八王子は既に東京の中なのに「東京まで○○km」と書いている。
八王子も東京だろうと思わず突っ込んでしまうけど。
要は現実的な「東京都」と概念的な東京の違いである。

だから邪馬台国の中の「女王国」と「斯馬國」は、
東京都の中の「千代田区」と「台東区」みたいな感じで、
邪馬台国の中の説明なので「邪馬台国」と言う言葉が使えないのである。
だって邪馬台国は女王の都とする所と言うのは、
東京とは霞ヶ関の有る所で間違いないのだけれども、
霞ヶ関の有る「千代田区」と上野公園が有る「台東区」の位置関係を説明するには、
東京と言う言葉が使えないのと同じである。

そう考えると、
実は学者先生や研究者たちが悩んできた7万戸もの規模の邪馬台国はどこにあったかが解決する。
女王国以北の傍国も「邪馬台国」なのだから、
もし宮崎や鹿児島が邪馬台国だった場合には、ほぼ九州全域が邪馬台国なのである。
また邪馬台国の7万戸と言うのが対馬や壱岐や伊都国が千戸単位なのに比べて異常に大きいのも、
邪馬台国の構成国が22ヵ国以上有るので、一か国辺りは3000戸程度と計算され、
そのうちの奴国は2万戸も有るので、もっと少ない2000戸でも良いのである。
当時のお米の生産量等から考えても現実的な数字だと思う。

こう考えてみると「邪馬台国」と「女王国」の関係を知るのは大事なことだと思う。
吉野ヶ里を邪馬台国と考えるのも、朝倉付近を邪馬台国と考えるのも、
山門あたりを邪馬台国と考えるのも、みんな正しい。連合国の一部なのだから。
だから僕の「邪馬台国はどこにあったか」と言うタイトルも、
本当は「女王国はどこにあったのか」なんだなぁと思う。でも面倒くさいから変えないけれど。

<後日追記>
YOUTUBEを見ていたら、僕の推理とは逆の見方をする人がいた。
邪馬台国≠女王国と言うのは、
原文を見ると「邪馬台国」と言う言葉と「女王国」と言う言葉は41文字しか離れていないので、
あり得ないと言う立場は同じなのだが、
魏志倭人伝の中の伊都国の記述「丗有王 皆統屬女王國」と言う部分から、
また邪馬台国への行程記述の「南至邪馬壹國 女王之所都」と言う部分と合わせて、
女王国の中に伊都国や邪馬台国が有り、邪馬台国は女王の居る所と読んだようである。
一見正しいのだけれども上に書いたように女王国と女王国の傍国の位置関係が変になってしまう。
なので誤りである。
上では原文を書かなかったので信用されないかもしれないので原文を載せる。
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(以降略)」
ここで女王国を邪馬台国や伊都国等を含む連合国とすると、
女王国の一部である伊都国等の「其戸數道里可得略載」が女王国の以北に有ると言う、
とても変な文章になってしまう。
原文によれば女王国と伊都国は別の国でなければおかしいのである。
なので、連合国は「邪馬台国」であり、女王国や伊都国はその構成國なのである。
じゃあ「属する」と言うのは「含む」の意味ではないのか?
そうである。
「属する」には「含む」と言う意味意外に「ある勢力に従う(従属する)」と言う意味が有り、
例えば現代の世界情勢で言えば、
「ベルラーシ」は「ロシア」とは別の国であるが、ロシアに属すると言えるのである。
そうそう、狗奴国が良い例だと思う。
狗奴国は女王国と戦っており、
明らかに女王国(が連合国だったとすると)には含まれず別の国なので、
わざわざ「女王国に属さない」などと書く必要は無いのに、
「属さない」と書かれている。
これは女王国(が連合国だったとすると)に従わない」と言う意味だからだと思う。
そう考えると連合国の名前が「邪馬台国」であり、女王国と伊都国などはその構成国で、
伊都国は同じ邪馬台国の中で女王国に従う国だったのだと思う。





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最終更新日  December 12, 2025 01:21:53 AM
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