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October 14, 2025
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多くの学者や研究者が、邪馬台国=女王国と勘違いしているが、

他は全て「女王国」と書かれており、
極端な話をすれば、邪馬台国と言う言葉と女王国と言う言葉は15文字しか離れておらず、
そんなに近くにあるのに両者を「気まぐれ」や「誤って」混在することはあり得ず、
魏志倭人伝の編纂を行った陳寿は明らかに「邪馬台国」と「女王国」を使い分けており、
いわゆる「邪馬台国所在地論」は実は「女王国所在地論」なのだと(その2)で書いた。

邪馬台国の所在地は色々な学者や研究者が、日本中に比定しており、
いまだに決定打が無いのは何故だろうか?

北部九州説を唱える人達の根拠についてはまだ書いていないが、
近畿説も北部九州説も「原典を書き換えなければ成立しない」ひどい状況である。
学問として「原典を書き換える」のは正しいことなのだろうか?
いや本当に真実が「原典を書き換えないといけないもの」ならばそれも選択肢の一つだろうが、
近畿説や北部九州説を読むと、そうは思えない。
そう言うつもりで(その1)で近畿説を否定したのだが、北部九州説も同じだと思う。
論理的な議論が尽くされていないと思う。

何故「論理的な議論がなされていないか?」と言うと、
原典を訳した人は大勢いるが、原典を解読した人が少ないせいだと思う。
よく「魏志倭人伝は信用できない」と言う人がいるので、その根拠を読んでみると、
単に自分の説に都合が悪いからと言うのがほとんどである。


主張する人の根拠を見てみたら、
直接的に「魏の里程は1里=300~400m」と書かれた書物は無く、
大月氏国への行程の説明で使われた里程がそうだからと言う人がいるが、
これは魏の里程ではなく大月氏国の里程かもしれず、
大月氏国への行程の記録と倭国への記録は対等の立場なので、

「魏志倭人伝を読むと魏の里程は1里=70~80mであった」と言えるのではないだろうか?

また偉い先生が一寸から計算で求めたと言うのも実際は推論だけで、
別の人で紀元前2世紀に書かれた周碑算経から1里=76mと計算するひともいるので、
偉い先生だからと言って、無理やり魏志倭人伝にそれを押し付けるのは間違っていると思う。
そもそも魏志倭人伝に書かれた行程の距離は現実の地図に合っているのである。
つまり「単に難癖をつけているだけ」だと思う。

どうしてそうなっているかと言うと、上に書いたように訳しただけで解読してないからである。
ここで一つ例を挙げてみよう。
世の中の学者先生や研究者達は、帯方郡から邪馬台国への行程を、
帯方郡→狗邪韓国→対海國→一大(壱岐)國→末蘆国→伊都国→奴国→不彌國→投馬國
→邪馬台国(女王国)と考えている人が多い。
本当にそうだろうか?
実はこれが間違いで、
そのせいで近畿説は「南と東を間違えた」と原典を書き換えるし、
北部九州説は「距離を間違えた」と原典を書き換えているのではないだろうか?

世の中の学者先生や研究者達は魏志倭人伝が「切り張りが多く」、
「前後関係がつながっていない」と言う人が多く、これが魏志倭人伝がいい加減だと言う話になる。
ほんとうにそうだろうか?
僕は違うと思う。
世の中の学者先生や研究者達は漢文が読めず、
魏志倭人伝を日本語に訳してはいるが、
現代の本と同じようにスラスラとは読めていないのだと思う。

漢文の特徴は、漢字がずらずらと並び切れ目が無く、語順が日本語とは違う。
その為に日本語に訳す時には適当に切れ目を入れて、
レ点や一二点を付けて語順の補正を行って「読み下し文」を作る。
単に短い文を「訳す」だけならばこれで済む。
でも、長い分と言うか本の場合は「章」も考えるべきなのに、
魏志倭人伝を章だてした人を見たことが無い。

そのせいで、本来別の章である、
「帯方郡から不彌國まで」の行程と、「投馬國」及び「邪馬台国」への行程を一緒にしている。
「帯方郡から不彌國まで」の行程と「投馬國」及び「邪馬台国」への行程では、
文章の書き方や語順が全く違っている。
「帯方郡から不彌國まで」の行程は「里」で書いており、
文章の語順も「実際に歩いて行ける」行程になっているのに、
「投馬國」及び「邪馬台国」への行程は「日数」で書いており、
文章の語順は「誰かに聞いた場合の」行程になっている。

この事はみんな気がついているのに、それを解読していない。
どう考えてもこの二つは元になる資料が違っていると考えるべきであり、
全く異なる資料に基づいた二つの行程を何故つないでしまうのかと思う。
全く異なる資料を基に書いたのだから、別の話で有り、つないではいけないのではないかと思う。
二つをつないでしまうのは、漢文が切れ目が無い為にそのまま続けて読んでしまうからだと思う。
続けてはいけないのである。

実際の漢文(陳寿の時代の物ではなく後世の物だが、僕の主張は分かると思う。)を載せる。

では「章」が分かれているとして、どう読めるのか?
実際に魏志倭人伝を章だてしてみた。

「魏志倭人伝」
第1章 本邦使者達から聞いた倭国への道(不彌國まで)
   帯方郡から倭国の中心地までの行程と、倭国の主要国の様子及び重要人物

第2章 過去の倭人によるヒアリングに基づいた倭国周辺部の主要国(女王国や投馬國)
   あまりに遠方なので本邦使者も訪れてはいないが過去に残された資料により、
   名前だけは記載できる国々と、
   遠方だが多少は分かる投馬國、狗奴国及び邪馬台国の王が住む女王国の様子と重要人物

第3章 倭國の風俗(倭地であって邪馬台国では無いのに注意)
   食生活や装束をはじめとした風俗について、また動植物をはじめとした自然について
   気候や宗教的なこと及び家族生活並びに生産品
   大陸への渡海や鉱物等

第4章 倭國の政治・軍事及びカーストについて
   倭國の社会一般について 例えば家族構成や身分の構成と対応
   一大率の存在

第5章 最近の倭国
   卑弥呼が倭王になった経緯や狗奴国との争いの状況
   倭国以外の国の存在
   魏への朝貢の状況と魏からの返礼
   張政の派遣と卑弥呼の死そしてその後
   台与について及び張政の帰国

こんな感じになると思う。
でも漢文は切れ目が無いので、
本当にこの章だてで良いかと言うと自信はないが、まぁ間違ってはいないと思う。

で、本題に戻ってちゃんと章だてしたらどうなるかと言うと、
帯方郡から不彌國までは中国の使者が不彌國まで行った際の記録である。
対して投馬國と邪馬台国は、
古い資料恐らくは後漢の時代に渡って来た奴国の使者に聞いて書かれた記録で、
それ故に倭人にとってまた後漢にとって重要な国だけしか書かれていなかったので、
魏志倭人伝には、誰かから聞いたような書き方で残っている。
陳寿は、それに最新情報である卑弥呼と戦っている狗奴国を独自に追加したのだと思う。

と言うことは、
帯方郡→狗邪韓国→対海國→一大(壱岐)國→末蘆国→伊都国→奴国→不彌國で第1章は終わり、
そこまでと投馬國及び邪馬台国は連続しておらず、
第2章の「帯方郡→投馬國」及び「帯方郡→邪馬台国」は並列だと読めるのである。

実は過去の学者先生や研究家もうすうすは気がついていた人もいる。
古田先生達である。
ただ古田先生たちは何故「帯方郡から不彌國まで」と「邪馬台国や投馬國」は連続していないかを
上手く説明できていなかった。
「章」と言う概念を思いつかなかったからである。

そのせいで古田先生は「水行10日」だけならばともかく「陸行1月」を朝鮮半島内からにして、
無理を重ねて理論破綻してしまう。
魏志倭人伝には狗邪韓国から対海國(対馬)に渡る際に「初めて(海を)渡る」と書いている。
つまり朝鮮半島の中で陸行を始めると「初めて渡る」ことにはならないのである。

最適な理論は昔からの先生方の主張の中に有る。
昔の先生方は、
「千里と言うのは概念的なもので実際の距離ではなく1日で行ける水行距離」と主張していた。
ものすごく参考になる。
この昔の先生方の理論を参考にすると、
帯方郡から狗邪韓国へは水行7000里なので、7日の行程である。
狗邪韓国から対海國(対馬)までは1000里なので1日、
対海国から一大(壱岐)国までも1000里なので1日、
一大國から末蘆国までも1000里なので1日。
これらを合計すると10日。
つまり水行10日は帯方郡から末蘆国つまり九州に上陸するまでの距離なのである。
とすると末蘆国から陸行で1月で行ける場所が「帯方郡から水行10日陸行1月」となり、
「女王国(先生方の言う邪馬台国)」になる。
すると、帯方郡からの行程なので、
伊都国や不彌國を経由するとは限らず、(もちろん伊都国や不彌國経由でもかまわない)
伊都国や不彌國の位置に縛られることなく、
上陸地点から陸行で1月歩いて行ける場所ならどこでも良いと言うことになる。
例えば大分の宇佐でも良いし、熊本のどこかでも宮崎のどこかでも良いと言う事。

投馬國についても水行10日で末蘆国に着いて、上陸せずにそこからさらに水行10日の場所なら
合計水行20日になるので、
末蘆国付近から水行10日で行ける場所ならどこでも良いのである。
例えば出雲でも良いし、四国も大丈夫。宮崎の西都原でも良いのである。

とすると魏志倭人伝は今まで「章」と言う概念を思いつかなかったせいで読めなかったが、
ちゃんと漢文を(訳すだけでなく)解読してやれば、
結構正確に書かれた文書なのだと分かるのである。
漢文が読めてなかっただけ。

そして近畿説の人をいじめて申し訳なかったけれども、
この考えが正しいならば近畿説が復活する。

古代とは言え中国の技術力は当時既に三角測量も「指南魚」も存在しており、
「南と東を間違える」ことは考えられないが、
第2章が倭人から聞いた記録ならば、倭人にはその技術力が無かったかもしれない。
倭人なら「南と東を間違える」可能性は有るのである。
だって1万2千里もはなれた国だから。

中国の船ならば構造船なので水行1000里は1日だけれども、
倭人の舟(船ではない)ならば丸木舟か準構造船なので1日では無理。
季節や時間及び海流の様子を見ながら進むので潮待ちの時間を考慮するとずっと時間がかかり、
方位だって倭人には知る方法が無く、
地元の山ならば南と東は分かるけれども、
遠く離れた初めて見る山では方位は分らず、
方位を誤認する可能性は有るのである。
極端な話だが、上陸地点は末蘆国ではなく下関かもしれない。
そして倭人の舟だと瀬戸内海は危険なので、
広島や岡山、大阪を陸路で陸行1月かけて纏向まで行ったのかもしれない。
近畿説の復活である。

なので、第2章が後漢の時代に倭国の書者から聞いた記録だったのならば、
近畿説は復活するなと思う。
(北部九州説の古田先生の説が近畿説の復活につながるなんて皮肉だな)
近畿説の人にうらまれなくて良かったな。





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最終更新日  October 23, 2025 06:20:14 AM
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