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岸中のクラス会が頻繁に行われるようになったのは、社会人になってからでした。打ち合わせは駅前のときわ団子。会場はその2階と決まっていました(コルソ移転まで)ときわだんご=明治8年旧浦和市常盤において初代が創業し、浦和駅ができる2年前に駅前に移転。浦和コルソができて再度移転。旧浦和市とともに歩んできた。名物は米粉で作ったきな粉とこしあんでまぶしたお団子。SさんとMさんの会話。お二人は浦高と西校に進学したのですが、早稲田のキャンパスでバッタリ。「何科だよ?」「法科だよ」「ほうか! ほうか! お前は?」「商科だよ」「しょっか! しょっか!」多い時代にはクラス会は隔年に開かれ、幹事は男女二人ずつで順番に・・・私も打ち合わせにかこつけて、何度も浦和を訪れては昔話に花を咲かせ担任の先生も毎回必ず出席してくださいました。ある時の挨拶では「私の受け持ってきた中で一番のクラスです。あちこちで自慢話にしています。(当時のクラス男子30人、女子21人中それぞれ1/3が浦高・浦一女に合格した)今や皆さんは社会的には、遥かに私を越えてくれて教師冥利に尽きます」と右肩上がりの経済成長の流れに乗り、誰もがキャリアを重ねて行けた時代でした。一流企業の役員や医大教授の医学博士も。後年、病のためご入院された時も何度かお見舞いに伺わせていただきました。奥さまが「男性が見えても笑わないのですけど、女性が見えられるとニコニコなんですよ」私の浦和愛は相当重症ですね こんな浦和が変わってしまうのは私的にはなのですが経済成長で大都市に人口が集中し、近郊の街も他県からの人が移住してきて変わっていくのも仕方がないことだったのですね。でも、高級住宅や進学目当ての移住が増えて、私から浦和を遠ざけていきましたTV放映で元浦和レッズの福田正博氏が「何も無いから、レッズを招致したのかも」と色々検索して見ると、学校も商店も歴史があると感じられ、何代も住み続けられた方たちの郷土愛を感じさせられました。これが穏やかな日々を支えたのだと思いました。今、在住していらっしゃる方たちが誤ったプライドなどを持たれませんように浦高の紹介長っ!浦高=1895年、埼玉県第一尋常中学校として創設された旧制浦和中学校を前身とし戦後、新制埼玉県立浦和高等学校となった。開学以来男子校である。東京大学合格者数においては、2012年(40名)と2013年(46名)に公立校で全国1位となり、最高記録は1990年(60名)である。東京大学への平成累計合格者数は1069名で公立校で全国1位となった。全国高等学校クイズ選手権の出場常連校であり、同番組の第25回大会と第26回大会で史上初の連覇を達成している。第35回大会では3回目の優勝となり開成高校の記録と並んだ。 毎年、東京大学や京都大学をはじめとした難関大学に多くの合格者を輩出している。2019年は公立校の中では日比谷高校に次ぐ全国2位。東京大学以外では京都大学、一橋大学、東京工業大学、慶應大学、早稲田大学、旧帝国大学、国公立大医学部など。旧制浦和高等学校は1949年5月:新制埼玉大学発足にともない包括される。浦一女=浦和第一女子高等学校=学校周辺は旧浦和市の中でも高級住宅地として知られる岸町の邸宅街となっている。 戦前から現在までナンバー名称を変更しておらず国内最後のナンバースクールとなっている。埼玉県立浦和第二女子高等学校はかつて存在したが、1950年に共学化、埼玉県立浦和西高等学校に改称。現在は第一のみしか存在しない。さいたま市立岸中学校(さいたましりつ きしちゅうがっこう)は、さいたま市南区南本町二丁目にある公立中学校。文教都市浦和の中でも教育熱心な公立中学校として知られ、人気を集めている。浦和高等学校への進学率は県内トップレベルである。さいたま市立高砂小学校(さいたましりつ たかさごしょうがっこう)は、さいたま市浦和区にある公立小学校。さいたま市内最古の小学校として知られる。1871年(明治4年)3月1日浦和郷学校が玉蔵院に開校。1871年(明治4年)9月 新校舎が建てられ、浦和下宿に移転。1872年(明治5年)8月 学制発布により、北足立郡浦和第一番小学校と改称。 玉蔵院=弘法大師が開祖と伝えられる。 別所公園
2019.11.21
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前回の説明と思い出を書きます。 調宮と隣接する調宮公園は、高砂小の校庭の延長のようなもので、降雪時の体操の時間の雪合戦は何時もここでやっていました。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、月→兎で狛犬ではなく、狛ウサギがある神社として知られる。語感から『ツキ』を呼ぶとしてパワースポットになっているとか?調神社には、次の七不思議が伝わる。1鳥居が無いこと=倭姫命の命で、調物の運搬の妨げとなる鳥居を除いたという。2松が無いこと=弟神がいたが、そのうち弟神は大宮にいってしまい姉神が待っても帰ってこなかったため、姉神がもう待つことは嫌いだと言ったことに由来するという。3御手洗池(ひょうたん池、現在は消滅)池に魚を放つと=その魚は片目になること。4兎を使姫とすること。5日蓮聖人駒つなぎのケヤキ=佐渡島に流罪途中の日蓮が、当地で難産に苦しんでいた女性のためケヤキに駒を繋いで安産祈祷をしたことに由来するという。6蝿がいないこと。7蚊がいないこと.十二日まち=平日であろうとなかろうと必ず12月12日に行われるこのお祭り。神社境内ではかっこめ(熊手)市が開催され、熊手を買い求める客で混雑する。毎年露店が約1000店出店し、例年約15万人ほどの人出がある。 毎年、熊手を前年より少しずつ大きくして買い代え、ご祝儀を渡し手拍子で締める、父を見るのが楽しみでした。母が認知症になった時、同居してくれている義妹が「おばあちゃん。hacoちゃんって知ってる?」目の前に私がいるのに、認識できず「hacoちゃんは私の娘なんですけどね。学校から帰ると『お金ちょうだい。お金ちょうだい。』って、すぐに本屋さんへ行っちゃうのよ」丁寧な言葉づかいで話したのでした。本屋さんは駅東口のほぼ前にありました。そこで読みたい本に出会えなければ、メイン通りの須原屋さんに足を延ばせば、大抵、出会えることが出来ました。株式会社須原屋(すはらや)=埼玉県さいたま市浦和区仲町に本店を置く書店チェーン。江戸時代の版元須原屋茂兵衛の流れをくむ。創業約140年が経過し県都である浦和や埼玉県を代表する老舗書店として知られている。 埼玉県師範学校の教員のための書籍の出版・販売も行っていた。色文字は出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋後1回続けます。
2019.11.15
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10月12日にテレビ東京『アド街っく天国』で浦和₍現埼玉県さいたま市浦和区)ことが放映されました。かつてダサイタマと言われ、ヒット映画『翔んで埼玉』で完膚亡きまでにディスられたのに、今や埼玉の自由が丘とか鎌倉と言われているとか番組の紹介欄にも近年、浦和は「住みたい街ランキング(関東)」で毎年順位を上げ、今年は8位に。埼玉県一のセレブな住宅街と全国屈指の文教地区には移住者も増加中。かつて中山道の宿場町として栄えた面影も残し、歴史情緒もたっぷり。宿場町名物のウナギをはじめ、高水準のケーキ激戦区など、美味も溢れています。また、サポーターの熱狂ぶりは日本一とも言われる浦和レッズも登場します。私が愛する穏やかな浦和は消えてしまったようです。住むようになったのは、1940年頃と記憶しています。母の実家が4キロ離れた郊外にあったことが理由かと思います。以来、県庁所在地では国内最後に市政が施行されたとか、電車は止まっても列車は止まらないとか、マイナーな情報ばかりでした。だからこその穏やかな日々が流れていました。駅には西口・東口があり、西口に県庁や商店街があり、ここがメインの市街地です。私宅は東口から徒歩5分。駅までの道には小売店があり、日々の食料の買い物には事欠かない地域でした。町名は高砂町₍ちょう)でしたが、道の向かい側のお宅は岸町₍まち)でした。子ども心に不思議だったのは、高砂は1~4・岸は1~7丁目までは隣り合っているのに、高砂5・岸8丁目は飛び地のように離れていたことです。行政上の理由なのでしょうね。岸・高砂、更には調宮₍つき「着き」のみや)神社など水に縁のある地名が多いので、この文を書くのに検索してみました。縄文時代-大宮台地の縁まで奥東京湾が入り込み白幡貝塚や大谷場貝塚などを形成した。と。白幡・大谷場の地名は今も残っています。戸建てが並ぶ住宅地でしたが、門前の道には年齢を問わず子供たちが群れ、幼い子は『お兄ちゃん』の後について『命令だぞ』に従い駆け回り、女の子は縄跳び・ゴム段・石蹴り。 学令になれば順次、高砂小→岸中へ通い始めました。近年、この高砂小→岸中→浦高₍男子校)浦一女₍女子高が公立エリートコースと称され、その後、東大・有名私大へと進学の保障となるそうです。そう言えば70余年前、私の岸中時代にも他地区からの越境入学は幾人か有りましたっけ現在では進学目的で学区内に移住してくる家族が急増とのこと・・・そして庶民の街から高額所得者しか住めない町になってしまいました 調宮神社 昔、郊外、今団地。田島が原の自生サクラソウ (2019.11.12更新)高校ラグビー埼玉県予選決勝進出
2019.11.11
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