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がラストランを迎え、翌日にはが開通しました。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ティンコ♂は、生後一か月でロンドンを離れ10才まで、ティンパパの赴任地の香港で育ちました。住まいは山頂近くで所謂『街』は空気が悪いと、で通り抜けるだけで、トラムは見かけても1両だけだし路面を走るので、スピードは出ていないし、興味を持ったこともなく、地下鉄があることさえ知りませんでした東京に来て、豊洲駅にが滑り込んできたときにはDinosaurとでも思ったのか固まってしまいました乗っている間に何とか理解できたらしく有楽町で降りた時には、電車を見送る余裕もありました。おまけに最後尾の車掌さんがティンコ♂に微笑みながら敬礼をしてくださったので、すっかり電車ファンになってしまいました。以後いつも最後尾まで見送り敬礼を返していただくのが彼の喜びになりました。何処に行くにも「デンシャ ノル?」浅草にあったウルトラマン倶楽部に行くのに業平橋(現東京スカイツリー駅)から浅草までのたった一駅でさえ楽しみで楽しみで・・・雫石にスキーに行っていた5シーズン東京駅で、多くの新幹線を、長時間、飽きることなく眺めていました。 そんなティンコ♂を辛抱強く待っていた。パパ・ママ。じぃじ・ばぁばなのでしたそんな彼も、いまやiPhon片手に東京の路線を乗りこなしています
2015.03.16
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前回の続きです。当時私たち一家は浦和(現さいたま市)の駅から徒歩5分の住宅地に住んでいました。母の実家が4Km離れた田園地区にあり、毎夜、空襲警報が知らされると、母と5才と3才の弟たちと夜道を歩いて避難したものでした。 <自分史エッセイより>三年九ヵ月続いた戦争が終わった。身内で戦死したのは、恵(けい)伯父一人だけだった。家も焼かれず、幸運に恵まれたと思う。燈火管制をしなくてもよくなって、眠くなるまで、枕もとのスタンドを点けて、本を読めるようになった。 家の雰囲気は、戦争に負けたことを、悲しむでもなく、かと言って、戦争が終わったことを、有頂天に喜ぶでもなくそれまでと変らなかった。 父は「一億玉砕」「神州不滅」「竹槍を持って最後の一人まで闘え」などの世相に迎合しているようには子供心にも感じられなかった。当時はどこの家にも掲げられていた、昭和天皇と香淳皇后の額入り写真がなかった。「いま、日本は、苦戦していますが、最後の最後は、神風が吹いて、必ずアメリカに勝つのです」 と、学校で教えられても、何となく不安で、「ねえ。神風って本当に吹くの?」 何度訊いても、返事を返してくれない父であった。 それは、反戦思想に基づいていたのか、将来を見通す“眼”や、“勘”を、持っていたのか、他界してしまったいまでは、確かめようもないが、敗戦後、ガラリと態度を変えた他の人たちのようには、変らなかった父は、私にとって救いであった。二学期が始まった。真っ先にさせられたことは、教科書を墨で消すことだった。今まで、正しいと教えられてきたことは間違っていたと… 不適切と思われる部分を、先生の指示で、墨で塗りつぶしていった。先生は、これからは“民主主義”の時代だから、当然なのだと言う態度。戦争が終わって、まだ二週間しか経っていない。その間に何が変ってしまったのか。「今まで教わってきたことは、何だったのか」“皇民教育”から、百八十度の転換。一学期までの教育を、否定する先生たち。 国営放送も、敗戦翌年の二月から、ラジオで『英語会話教室』を放送するなど、報道の姿勢も一変した。 四年生、十才の少女は、混乱した。「今度は、アメリカ一辺倒だ。国家や、政府や、大人が言うことは、信用できない」 そして『何事も、自分で考えることが出来るようにならなければ』と思った。この考えを、私の人生の原点と位置づけた。『世間に振り回されない』→そのために『自分で考える』→『いつから、そう思うようになったか』→『敗戦を境に、変った世の中を見た時から』→と、思考を逆行させた。 以後65年。ここが原点、心の拠りどころだったと思い当たった。そして、理屈ばかり言うようになりました
2014.08.18
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自分史エッセイを40冊作ったのは4年前のことですが抜粋しました『田舎』は母の実家です。日本が負けた日その日は『田舎』にいた。祖父母と並んで、正午に、ラジオで玉音放送を聴いた。 七十五才になろうとする今までの『生きる姿勢』の原点になった日なのに、その日の記憶は、異次元に飛んでしまったのか、風化されてしまったのか、断片でしか思い出せない。 空襲は続いていた。ある夜『田舎』に避難して、そのまま居続けていたらしい。空襲が途絶えた日が、何日か続いた。「おばあちゃん。空襲ないねえ。アメリカは、逃げたのかなぁ」家の前の道で、晴れた夏空を見上げながら呟いた記憶。 早めに昼食を済ませた。東向きの家は、真夏の陽射しが、差し込むこともなく、裏の竹やぶから吹き込む風は涼しかった。 当時は、「天皇陛下」と口にするときは、初めに「畏れ多くも」と、枕詞のように言わなければならなかったし、言った人も、聞いた人も、立っていれば“気をつけ”の姿勢をとり、座っていれば、正座に直った。だから、このときも、当然のように、祖父母と並んで、ラジオに向かって正座した。 正午。甲高く、浮世離れのした口調で『玉音』が流れ始めた。聞き終わっても、何が話されたのか、どんな内容だったのか、少しも分らなかった。『堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ』だけが聞き取れたので、これからも、この状態を、続けていって欲しいと言うのだと思った。天皇陛下が、自ら国民に呼びかけたのだから、生半可な我慢では、済まされないことになったのだと思った。『太平ヲ開カムト欲ス』と、続いていたことは、あとになって知った。よく聞き取れなかったし、聞き取れていたとしても、その言葉の意味が、戦争を止めることだとは、四年生の私の理解の域を越えていた。 夕方になって、父がやってきた。祖父母は、昼間の放送は何だったのかと、真っ先に訊いた。「日本は、戦争に負けたんです。戦争は終わったんです」 父は淡々と言った。新聞は取っていないし、滅多にラジオも聴かない、祖父母の家で、私はその時まで、原爆投下も知らなかった。「広島と長崎に“新型爆弾”を落とされて、軍人もさすがに『もうアメリカには敵わない』と思ったんでしょう」 この先、どうなるのかと、尋ねる祖父母に、「日本は、まもなくアメリカに占領されるでしょう。それから先、どういうことになるのか、私にも分りません。何かあったら知らせに来ます」「アメリカ軍は、来ると思いますが、戦争をしに来る訳ではないですから、家を焼かれたり、殺されたりすることはないでしょう」 祖父母はホッと安堵の表情を浮かべた。「とにかく、もう空襲はないですから、今夜から、明るく電気をつけても大丈夫ですよ」
2014.08.16
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前回、思い出したことを少し書いたらもう少し覚えているいることがあったようで・・・でも4才未満のときのことなので、後々の両親の思い出話を覚えているだけかも知れません突き当たりの川の柵の近くが音ちゃんの家で、隣が私の家。次が直ちゃんの家で、同じ間取りの家に住み、3人は同い年でした音ちゃんの名前がオトキチで、音吉と書くのを知っているのは、多分両親の思い出話を聞いたからでしょう昭和12・3年頃です。私と直ちゃんは、洋服を着ていましたが、音ちゃんは、黒っぽい着物に白いエプロンをしていた記憶があります。音ちゃんの家の2階には、日本舞踊の稽古のための小さい舞台が設えられていて、おばあさんがお師匠さんでした。時々三味線が聞こえました。幼い3人は、自分たちだけで何処かへ行くことも出来ず、家の前の道で三輪車に乗って遊ぶのが精一杯だったと思います。大抵は、それぞれの家に上がりこんでいたようです。お稽古のお弟子さんが来ていないときは、舞台が格好の遊び場でした。直ちゃんのお父さんは築地が仕事場だったようで、私たちが浦和に越してから間もなく、歩いて通える月島に越したそうで、中2のとき、お母さんと直ちゃんが訪ねて来ましたが、お互いに照れくさくて、殆ど話ができませんでしたこれは、紛れもなく私自身の記憶です音ちゃん一家はどうなったでしょうか?戦災を免れてくれているといいのですが記憶になくてアルバムにある恥ずかしいけどUPします。勿論、今は面影を残すべくもありません。~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~たまたま観た、朝ドラ『梅ちゃん先生』の敗戦の日の話。<被いをかけずに電灯を点けてもいい>シーンで、背景の家々の窓が煌々と輝いていました。当時の庶民の家庭では、60W~最大100Wの電球が各部屋に1つあるだけで、もっともっと薄暗かった筈です。敗戦は遠い日のことになったのですね
2013.01.13
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きのう日記を書いているときに大きな雷鳴が聞こえましたビクッとしましたが、ここではこれ1回きりでした。夕方、ニュースを観て横浜では大きな雹が降っていました。私が生まれた77年前にも雹が降り晴れたらオギャァだったので、命名の由来もそこにあると父から聴いています。今も昔も5月の気候はこんなものなのですね小学校5年生の担任は東京物理学校(現 東京理科大)の出身でした。「避雷針と言うけれど、本当は落雷を呼び込んで、電流を地中に流して、被害を避けるのだ。だから正確には呼雷針と言うのが正しいかも知れない」と教えてくれました。年齢から推察すると、学徒動員されていて、戦後(前年8月に終戦)の混乱期に、取り敢えず教師になったようで1年間で退職され、本来の化学分野の会社へ就職されました。私が就職した頃、帰りの電車でしばしば一緒になり、サンケイ新聞の学術・科学部(正確な部署名は忘れました)の記者になったと話してくれましたマスコミからは「青年将校」と呼ばれ、科学技術庁長官として初入閣した、中曽根康弘氏にインタビュウしてきたことを誇らしげに語っていました。62才で他界されたと人づてに聞きました
2012.05.11
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TVワイルドライフで『シベリア タイガ』の語がタイガの上を2度最初はティンママが留学中写真の日付は1993年7月です。ロンドンに行くのにタイガの上を延々と何時間も夏のタイガは真黒に見えました大黒屋光太夫は大量の虫に悩まされながら此処を踏破して日本への帰途についたそうです2度目はティンコ♂出産の手伝いで1996年11月8日~12月8日。タイガは早くも雪に覆われていました。ロシアが飛行ルートを緩和して、少し南をするようになって、タイガの上を飛ぶことは無くなりました最初のときは、Mrs.サマンサと行きました。Mrs.サマンサはピーターラビットの大ファン。湖水地方まで足を伸ばしました。「ロンドン・ユーストン London Euston」から途中「オクセンホルム Oxenholm Lake District」で乗り換え「ウィンダミア Windermere」まで。ヴァージン・トレインで所要時間は約3時間40分。(引用)泊まったホテル。余計なサービス一切なし必要なことをタイミングよく提供してくれました。食前酒『ティオペペ』絶品でしたピーターラビットの作者、ベアトリクス ポターの家。ビクトリアス・ポターが1929年に購入し、コニストンの絶景を望むことができる一帯の場所。少し歩くと素敵な石造りの家や森林の美しさを楽しむことができます。交通は不便な場所にありますが、木々のアーチをくぐり抜けるように車で走る田舎道は、まるでイギリス童話の世界(引用)ソーリー村の小さな小さなお土産屋さん。最寄駅ウィンダミアからロンドンへの帰りの切符。しばし思い出に浸りました
2012.05.01
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今日で松の内も終り。お正月に関することは今日のうちに書かなければ母が作っていたおせちの中で市販ではお目にかかれないものが三つあります第一は日光の揚げ湯葉です。父が日光出身なので、父方の祝い方なのでしょう。毎年、暮れに日光に出かけ、お墓参りと湯葉を買ってくることが、両親の恒例となっていました茹でて油を抜き、薄味の甘辛に煮付けてありました。二つ目は氷頭なます です。父方・母方どちらの作り方か分りません鮭の頭の軟骨のコリコリした食感が好きでした母は軟骨の透明な部分だけを使っていました。三つ目は数の子です。これも父方・母方どちらの作り方か分りませんかなり調べたのですが、レシピは見当たりませんでしたするめを5mmくらいに裂き、軟らかくもどします。裂いてからもどしたのか、もどしてから裂いたのか、今では知ることはできませんがするめと数の子をみりん・醤油、そして麹を加えてに漬け込みます。しみ込んだ醤油とみりんの照りで、数の子は鼈甲色に艶々輝いて見えましたこれは何才くらいからの記憶なのでしょうか幼児期の記憶にしては鮮明すぎます小学校に入学した年には、前年の12月から戦争が始まっていたし、その後の食料事情は年々悪くなり敗戦後も暫らくは食糧難と言われ、こんな食材が手に入るはずもなく・・・私の子育て時代は、食生活も洋風化し始めて昔風のおせちは口に合わないものが多くなったようです弟が大手百貨店に就職してからは、きんとん・黒豆・伊達巻・かまぼこなどを弟が買ってくるようになり、母も年を重ねてキビキビと立ち働くことも、億劫になったようで、1から手作りのおせちは、姿を消していきました味を覚えている私が伝えるべきなのでしょうが、前にも書きましたように、我が家では、おせちは不要に近くここで途切れさせて仕舞うことになりそうです。お詫び・残念
2012.01.07
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1997年の春のことでした。前年に生まれたティンコ♂の初節句がやってきました日本の風習は、出来るだけ伝えていきたいと考えているティンママに、「嫁の実家」が贈るとされている初節句の飾り、具足を贈ることにしましたところが、ティンパパが選んだ鎧兜は、我が家の予算を大きくオーバーやむなく、輸送費8万円を負担することで決着しました。トラブルが起きました約束の期日に届けられなかったのです勿論、5月5日には間に合いませんでした。浅草橋の老舗に交渉してもラチが明きません運送会社を教えて欲しいといっても、あくまで「こちらで処理します」と秘密を固持。今では、どうして調べたかは忘れてしまいましたが、大手会社の国際貨物部門が扱ったことを突き止めました。話変って5月下旬の月曜日のこと。朝、起きてきた夫の唇が歪んで、呂律も多少まわらない感じ掛かりつけ医に行きましたが、別に異常はないとの診断で、唇も、呂律も快復したように見えました。翌々日の水曜日、私が出かけた後で、運送会社にをかけ、いざ、事情を訊こうとしたら、言葉が出てこなくて愕然としたとのこと翌日、聖路加に駆けつけ、検査の結果、脳梗塞と診断されたのでした幸い、症状は軽かったのですが、以後、通院無用と主治医の許可をいただけるまで、7年間通院を続けたのでした。具足の方は、現地の倉庫に1ヶ月間放置されたままのことが分り、運賃半額の提示をもらいました。払い戻しに、購入店に出向くと、店側には、いずれ、運送会社から払い戻され、損害はないはずなのに、店を飛び越して、運送会社と直接連絡を取ったことを延々と非難され、渋々払い戻しに応じました客へは謝罪で済ませ、払い戻される送料は、店の収益にしたいのかと疑いたくなりました日本のように、節句の時だけ飾る風習は無視され、今は一年中、ロンドンの居間に飾られています
2010.05.05
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長雨と台風で各地が洪水に見舞われています。今は、お見舞いの言葉を書くことしか出来ませんがいずれ、救助金の公募があれば少額でも私自身は、水害に合ったことはないのですが、実家が1回、勤務先で1回経験しました。被害を受けた時、実家は引っ越して半年目でした。父の仕事が思わしくなく、住み慣れた家を処分し、小さい家を購入したばかりでした床上30センチも、水が来たと父が話しました。私は、結婚していましたので、少し水が引いてから太腿まで水に浸かりながら、ダンナさんと食料の差し入れにいきました。当時は、水洗トイレが普及していなかったので、衛生面の心配もしましたが、幸い無事治まりました勤務先では、夕立での浸水でした谷中の不忍(しのばず)通りに会社はありました。不忍通りから上る坂は、「大給坂」「狸坂」「きつね坂」「むじな坂」「動坂」そして団子坂と並んでいます。これらの舗装された坂は、雨水を吸収せず、激しい夕立の雨は、一気に坂を流れ下りました下水から溢れた水は、マンホールの蓋を跳ね上げ、そのまま坂を下った雨と共に、道路沿いの家屋を浸しました「足元に水が・・・」と思ったら目に見えて量が増してゆき、最下段の引き出しの書類はびしょ濡れ上段の引き出しを机上に積み上げ、人間も机上に避難しました若い営業マンたちは帰社前で、商品の異動は出来ず、「東京営業所」の商品は100%売り物にならなくなりました台風が遠ざかったと思ったら地震でしたね。皆さまの所はいかがでしたか
2007.07.16
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メディアへの露出度はあまり多くないユーミン→荒井→松任谷由実だが、昨夜「ユーミンと歌おう」を観た聴いた彼女も、もはや五十路を過ぎたようだ放映の曲は『ルージュの伝言』『青いエアメール』『DESTINY』『卒業写真』声はあまり好きではないが、結ばれない恋を歌っても演歌のように湿っぽくなく、Richな雰囲気には魅かれたものだ詞の言葉が、新鮮だった。『バスルームに ルージュの伝言 手当たりしだい友達に たずねるかしら 私の行く先を・・・』大学生だったティンママが運転する車の助手席で聴いていた。曲の先には病床の父がいた。講義の合間に、病院へ送ってくれた時にカーステレオから流れていた曲だ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞詞の言葉が、新鮮だったのは阿木耀子の『イミテーションゴールド』『彼が冷蔵庫バタンと閉じるパックのままの牛乳かかえ』にも同じ思いが
2007.06.23
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たんぽぽの綿毛(種)を吹いて飛ばしっこする誰でも子供の頃に経験したと思う<子育て時代>にご登場いただいたKさんから聞いた話を思い出す「たんぽぽって、タネを飛ばす時は、茎がすごい早さで伸びて、より遠くへ飛ぶようにするんだって」教科書だったか、児童書だったかは(私が)忘れてしまったが、ご子息のH君の本からの知識だそうで、聞いた私は、たんぽぽの健気さに妙に感動したものだった互いに年を取り、会う事も稀になったが、影響を受けた友人だ「子供を育てる時は、貧乏の方がいい」と、マンションを購入し転居したH君が男の子なので、将来「『バイクが欲しい』などと言っても現実にローンの支払いで、お金がなければ、悩まないで、『だめだ』って言えるでしょ買ってやれる状態なら、結局押し切られるかもしれないもの」H君のお姉さんA子さんは、薬剤師になったが、大学在学中「理系は実験などで暇が無い」からとアルバイトは一切させず夏休みの旅行費用なども出してあげていた。H君の進学は文系だった。私鉄を使うと早く行けるのだが、Kさんは、JRの交通費しか与えない「文系は暇があるんだから、私鉄で通いたければ、自分で差額を稼げばいい」「ティンコ♂は、片耳が聞こえない」と話したときも「Hもそうだよ。」4年生になったH君が話すまで気が付かなかったそうだ「何てこと無いよ」(事実ティンコ♂も普通の子として育っている)頚椎症のMRI検査に池袋まで出かけた時、「お昼でも」としておいた。会って見たら、<子育て時代>の人たちに連絡してくれていて、大勢で思いがけない<ひととき>を過ごさせてくれる配慮もきっと、こう言うだろう「自分(Kさん)が会いたかっただけ」学校から帰って来るA子さんのお子さん二人をA子さんの退社時間まで預かっていたり、H君一家も近くに住んでいる人生の収支バランスがいい人だ気温急上昇で一気に
2007.05.04
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体操が終わって、職員さんが入れてくれたお茶を飲みながらIさんが「今の若い人はいいね~。私達が若い頃は、上はどんなに厚いオーバーを着ていても、下はストッキングとハイヒールだったもんね。足冷たかったぁ」と言い出した。「そうだよね~」皆頷いた体操教室では、私が一番年下だが 同感確かにパンツを穿けば、更に中にタイツを穿けるし足先も、厚手のソックスでも隠してしまえる再就職した中年期には、ロングブーツがあって、愛用したっけ夕方になると、ブーツに中で脚がパンパンに浮腫んでいた最近はチビの私でも穿ける股下65だの68cmのブーツカットのパンツもあって真夏を除いては、スカートを穿かなくなったぁ 敷地内で満開のムラサキシキブ・ヒメリンゴ・海棠点字のことを書いた日は、UPする雰囲気ではないので、日延べしていたら、数日の寒さで、今日は散りかけています
2007.04.19
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珍しく嵌ったドラマ グッジョブ Good Job NHK23:0026日から毎日。最終回まで5回毎日放映『恋のお話ではなく、仕事の話』とナレーション『すべてのOLへのバイブルともいうべきリアルな”職場コミック”』今時のオフィスの設備や、仕事のやり方を知ることが出来て、興味津々自分を振り返れば出産5ヶ月前まで、財閥系の生保本社に勤務した。外務員(今では、TVコマーシャルに取って代られた感)の給与計算だが、給与体系は成果主義だから、会社の業績がモロ分かる月の締め切り日を過ぎても、「『特認』で、追加計上してくれ」「1日でも早く、給与支給明細書を送れ」全国の支店長から檄が飛んでくる。締切日以後は、必ず20:00まで係り全員が残業だった。事務処理が、手書きから、機械化に移行し始めた時代だ。課の次長Tさんは、将来の取締役を約束されていると噂されるエリート。何故か、企画書や稟議書の清書を頼まれた(もっと達筆の人もいたのに)消しては書かれ、書かれては消されている悪筆の下書きは、読んでいくうちに思考の過程が分かって、とても面白かった「どうですか?」「私でも理解できました」係長のSさんの頼み方は「ここから、ここまでの数字を足してみてください」「ハイ」と従うものの『一体、何に使うのさ場合によっては、他の資料を使った方が、早く結果が出るかもよ』『算盤はじいているうちに、見えてきている事だってあるんだから馬鹿にしないでヨ~』再就職したのは、それから18年後。「年が年」になっていたから、事務職で働かせてくれるのは、小企業ばかりだったが、得ることは多かった。また何時か
2007.03.31
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団地を脱出したからと、子育てが終わった訳ではないが、状況はかなり変化していた経済的理由か、家庭だけの閉塞感からの脱却か個人の事情は知る由もないが、右肩上がりの経済の中で、子供がいても働ける環境は改善されてきて、多くの母親が働きに出るようになっていた。多摩に住んでいた時のPTA活動の中心は、学童保育の充実だった(鍵っ子問題)でも、私は専業主婦を続けていた仕事を始めたのは、長女が大学に進学してからだった。もはや<子育ては終了>時に差し掛かっていた。小企業の中で、フルタイムで働くと、仕事を通して、世の中が見えた気がした『(嫁に)行き遅れ』『ハイミス』が死語になり、未婚・離婚も女性の生き方のハンデキャップにはならなくなった反面、先が見えない現在だ若かったら、どんな生き方を選択するだろうか
2007.02.26
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10年が経ったお付き合いの濃淡はあったが、家同士の反目とか、疎外された家や、子供はなかったと思う子供たちが、小学校高学年になると、手狭感も強くなり、家を購入して、引っ越す人が出始めたKさんは板橋区の公団分譲へその後、民間マンションも購入した。A子ちゃんは、薬科大卒で薬剤師に。子供が2人。めんどうをKさん夫婦に託して、学業を今も生業としている弟のH君が、この公団分譲を譲り受け、子供が1人。Mさんは、子供が成人後に離婚した話を聞いたとき「あの優しいご主人の何が不満で」と思ったが、うちのダンナさんは意外にも「そうだろうな」と言った。ゴルフに行った時、1打毎に、「あ~」と必ず、愚痴や弁解が出るのだそうだ。一人で家を出たMさんは、今群馬県でお母様と暮らしている。Yさんは、46才で亡くなったと前回書いた年子の2人の男の子は19・20才位だったろうか。ご主人と「主婦って大変な仕事だったんだネ」と言い合いながらの男所帯になったが、子供たちが独立してから、ご主人は再婚された。Hさんは、長男のSちゃんは、健在だが、妹の(Mrs,サマンサと同い年)M美ちゃんは、薬科大卒で薬剤師に。結婚・出産。40才を待たずして、大腸癌で逝ってしまった。A子ちゃん・Mrs,サマンサと3人の中では、一番元気印。スポーツ万能だったのに。ご主人も今は亡き人。我が家はと言えば入居当時、家計に30%近くを占めていた家賃が、10年足らずで10%を切るような経済成長下にあって、甘んじていたら、「一生持ち家に住めない」と貯蓄出来る当ても無いのに、転勤を機に、多摩の公務員住宅に移り、定年になれば、追い出されると、尻に火を着けた。長女6年生、次女1年生の時だった。Yさんの死去も、Mさんの離婚も転居してからの出来事だ。長くなりました。次回を最後に
2007.02.25
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経済は高度成長期真っ只中それに伴って、水俣病や、少し遅れて四日市喘息など、公害病問題が発生していた私鉄の駅を挟んで、東西にそれぞれ1400戸規模の団地を抱え込んだ町は、インフラの整備に追われていた長女(現在のMrs,サマンサ)と同い年の子は入れる幼稚園がない有志が基金を出し合って新設した。小学校は、増設に次ぐ増設で、地域全体での転校があった狭い道路の通学時には、父兄が交代で誘導に当たった給食の食材の添加物問題日教組の先生は、闘争のため授業を休むことも子供を預かりっこしながらPTA活動を種々の問題を抱えながらも、誰もが「今日より明日。今年より来年」が明るいと信じてもいた私達は、結構つつましく暮らしていた。「ママ、このおズボン、何も付いてないよ」次女(現在のティンママ)が、膝を指して言う。長女と4才半空いている次女は、ご近所では年少さん。普段着は、殆どが姉や周りからのお下がりリフォームも兼ねて、膝にアップリケがあるのが常だった。珍しく新品をはかせた時の言葉だ。ベランダの君子蘭
2007.02.24
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出生率が1,3になったと報じられたが、ご近所さんはこんな状況だった 出生率2,0のようにも見えるが、一人っ子や、生まない夫婦もいたので、やはり、1,??なんだろうと思う同じ棟の4軒は(Yさん・Mさんは私と同い年)、ベタベタのオツキアイピンク家には同い年の子供がいるので、話題に事欠かないブルー家とは、時々一緒にご飯を食べるお付き合い。とにかく、それぞれの家の子供たちは、誰かが同い年だった紙オムツはなくて、毎日洗濯した洗濯機に脱水機はなく、ローラーをグルグル回して絞る。ボタンは衣服の内側に隠してから回さないと、ボロボロちぎれ落ちる周囲を麦畑に囲まれた新興団地では、一陣、春風が吹くと、洗濯物は土埃で赤茶色になり、洗い直しとなる一番先に、脱水機付きの洗濯機に買い換えたのはKさん。Yさんは、毎日脱水機を<使いに>行く。「うちの台所見て。キレイオバケが、毎日掃除して行くの」とKさん脱水をしている間、YさんがやってしまうのだYさんは、46才の或る日、リビングでお姉さんと電話中にバタリと倒れ、意識を回復することなく逝った。
2007.02.23
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専業主婦の母親になると、それまでの友人関係は、自ずと疎遠になり子供を通しての新しい交流が生まれた実家近くの医院で出産し、帰った自宅は住宅公団のテラスハウスと呼ばれた2階6畳と4・5畳、1階リビングと台所、庭付きと言う間取りだった。庭や、棟の外れに公園があったおかげで、隣近所との対話が生まれるキッカケが出来たのかも知れない公園デビュー云々の昨今だが、どの子も親が一緒だったわけではない。「まだ、洗濯物干してない」と言う人が居れば、「見てるから、干しといで」と必ず答えがあった。ただし、何時もそれを当てにすれば、陰口を言われる(言った笑)こともある誰かが、自分の家に誘えば、「誰それちゃん家に行く」と、親に断らせてから、家で遊ばせっこする。それでも「うちは、誰も連れて来ちゃだめって、お母さんが言うの」と話す子もいたりしたが昼時になり、どうせ作るんだからと、何人分かの食事を、誰かが作り始めるようになった迎えに来る母親の反応は「家でも作っちゃったから、持ってきて一緒に食べよう」「今日は、ご馳走になっとく。次は、うちで食べてね」「家で食べさせることにしているので」名残惜しそうな子供を連れて帰る人もいた
2007.02.21
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リンクさせていただいているななこさんが、1月に出産されたキャリアのななこさんも、現在は産休中で、育児日記になっている母親としては過去形の私だが新聞・テレビの情報などを、見聞きして、出産・育児に対しての意識の様変わりにOKだったり、NOだったり自分の子育て時代を振り返って見ようかな ・・・と結婚・出産まで、財閥系の生保に勤務していた。社則には、結婚・出産したら退社とは規定されてはいなかったが、大半は寿退社する。社内結婚すると、夫が、幾分昇進して、地方転勤か妻が、忙しい支社・営業所へ転勤が、会社のジョーシキ。しかし、だんだん共働きが増え始めてもいた。が、子供をもって、勤務していた人はいなかったと思う。保育所の数は、今の何十分の一だったのだろう働きたくても働けなかったと言ってしまえば、それまでだが、『母親が働く』ことへの周囲の眼は『物理的』な厳しさより厳しかったと思う私自身も「仕事したい」とは思っていなかった
2007.02.20
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