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一 心友問う。いかなるをか是〔これ〕中和とせん。 云う。いいがたし。過不及を知るところ今日の中和也 ともいえり 。中和を致して天地〔てんち〕位〔くらい〕し万物〔ばんぶつ〕育〔いく〕すというものは、徳の至り也。 一 心友問う。天地万物の始終・十二万歳の数、何を以てかこれをしるや。 云う。一昼夜即ち十二万歳に配す。陽明子云わく、夜気〔やき〕清明〔せいめい〕の時、視ることなく聞くことなく思うことなく作〔な〕すことなく、淡然平懐なるは、即ち是〔これ〕伏犠〔ふっき〕氏の世界なり。平旦(※夜明け)の時、神〔しん〕清く気〔き〕朗〔ほが〕らかにして雍々〔ようよう〕穆々〔ぼくぼく〕たり、即ち是〔これ〕堯舜〔ぎょうしゅん〕の世界也。日中以前、礼儀交会、気象秩然たるは、即ち是三代(夏・殷・周)の世界也。日中以後、神気漸く昏〔くら〕く往来〔おうらい〕雑擾〔だつじょう〕するは、即ち是春秋戦国の世界。漸々〔ぜんぜん〕昏夜〔こんや〕にして万物〔ばんぶつ〕寝息〔しんそく〕し、景象〔けいしょう〕寂寥〔せきりょう〕たるは、即ち是〔これ〕人〔ひと〕消〔しょう〕し物〔もの〕尽〔つ〕くる世界。学者良知を得て気のために乱〔みだ〕されずば、常に犠皇〔ぎこう〕已上〔いじょう〕の人ならんと。昼夜の道に通じて死生を知り、死生に通じて天地の有無を知るべし。有形のもの何ぞ常なるべき、我〔われ〕無に帰する時、即ち天地の終〔つい/おわり〕也。
2022年02月10日
一 心友問う。《風を移し俗を易〔か〕うるは、楽より善きはなし》(移風易俗、無善於楽。)今の楽を以て民俗風化に益あらんこと、心得がたし。 云う。先〔ま〕ず民俗風化の本〔もと〕たる道学興起し、上に賢君立ち給わば、今のあやつり(※人形芝居)などというも、孝子・忠臣・貞女の故事をのべて、農・工・商、家業の暇〔いとま〕に及びて、労役を休ませしめがてら、これをみることを得せしめば、風化において益あるべし。他〔か〕の良心を感激〔カンゲキ〕する事すくなからじ。糸竹〔しちく〕の雅楽〔ががく〕のごときは、道学に志す者か、又は上﨟〔じょうろう〕に生まれ付きたる人ならではおもむきがたし。道の行わるる事数年せば、いやしき心、奢りの習など去りて漸くおおむくべし。道徳を本〔もと〕として礼楽行われば、すたれたる音律歌舞の曲も漸〔ぜん〕を以て興〔おこ〕るべし。 問う。有徳の君〔きみ〕出世〔しゅっせい〕し給い道学の興起するまでの事はかたかる(難かる)べし。しからずとも、孝子・貞女・忠臣・義士等の故事〔こじ〕を以て、操〔アヤツ〕りとし能〔ノウ〕(※能楽)として、民俗の男女に見せしめば、其の本心の発見(※発現)をもよおし、善心をひらき(開き)みちびく(導く)べきか。 云う。道なくしてこれをなさば、必ず奢るべし。奢りて財を費やさば、其のながれ皆〔みな〕民間の困窮なるべし。此の能〔のう〕・あやつりのために、妻子離散し、田宅を失う者多からむ。心肝〔しんかん〕をいたましめてこれをきく(聞く)こといとう(厭う)べし。何の風化の益かあらむ。其の上、始めは故事をとるとも、十年の前後には事かわり(易わり)、風俗をそこなうようなることに成り行くべし。よからんと思う事も、本〔もと〕たたずしては皆〔みな〕害になるものなり。一向に善き事もなさで(為さで)うちおき(打ち起き)たるにはおとる(劣る)事也。あやつりなどの座の者は、凡俗の中にてもすぐれて習いあし(悪し)し。かようの者の心気風俗もかわりゆき侍(はべ)らん時ならでは、故事の善も定まり侍らじ。 問う。礼楽をしたう者あれども、ふせぎてなさしめ(為さしめ)ざる人あり。其の言に云う、絃などは世に人のしらざるを以て其の家の規模(格式)とす。俗にひろく成りては詮なき事也と。まことに、公家〔くげ〕などは、世俗のしらざる風流あるを以て、人のおもいなしもこと(異)に侍り。糸竹の楽〔がく〕、世にひろまり侍らば、公家の御為にはあしくや侍らん。 云う。楽〔がく〕の世にひろくなることは、公家の御為にはなお以てよき事に侍らん。楽をしらざる人の耳には、能拍手〔ノウハヤシ〕もつくし(筑紫)琴も、同じことにおもえり(思えり)。其の中、能はやし・つくしごとなどはおもしろし。楽には何のおもしろげもなし。少し学びてこそ、ことなるもののね(音)も聞こえ侍れ。たとえ世俗・達者に琵琶・琴をしらべ侍れども、爪音〔つまおと〕のけだかき所、公家には及び侍らず。物かきたるも手はわろけれど、公家の手跡〔しゅせき〕はいやしからず。能筆〔のうひつ〕にても平人の手跡はけだかき所なし。世々〔よよ/せぜ〕天のゆるせる位〔くらい〕ありて、居〔きょ〕は気をうつす道理也。しかれば、楽〔がく〕広く成りて、始めて公家は公家たる位〔くらい〕もしり侍りぬべし。しからざる人は、ただいらざる物ながら、そなえ(供え)物とならでは思わず。其の上、何程〔なにほど〕すすめなさむる共〔とも〕、ひろくは成り侍らじ。至理の寓する物にてあわき(淡き)声なれば、俗とおき(遠き)もの也。つくしごと(筑紫琴)・さみせん(三味線)・能拍子などのおもしろきをすてて、思いつかれぬ楽〔がく〕を好む人は、百千に一、二人也。異なる志〔こころざし〕ある人ならでは好まず。
2022年02月03日
一 心友問う。貴老、老仏は虚無をきわめ得ずとのたまえり。彼は虚無を其の道としてくわし(精し/詳し)。聖学は虚無を学とせず。何を以てしかの給うや。 云う。我が心、即ち太虚也。我が心即ち声臭形色なし。万物、無より生ず。聖学は無心にして虚無存せり。虚無の至りなり。老仏は虚無に心あり。故に真の虚無にあらず。心を用いて虚無をいう。故に其の学くわし(精し)。しかれども、為〔ため〕にする所あり。陽明子云く、聖人といえども、仙家の虚上に一毫〔いちごう〕の実を加うることあたわず。しかれども、仙家の虚は養生〔ようじょう〕の上より来たれり。仏家の無上に一毫の有を加うることあたわず。しかれども、仏家の無は生死〔しょうじ〕の苦海〔くがい〕を出離〔しゅつり〕するの上より来たれりと。告子が不動心も又似たり。心を動かさざる上より功夫を用うる也。なす所〔ところ〕義にかなわざる事あれば動くもの也。
2022年01月27日
一 学友問う。老子、慈・謙・倹を三宝とす*、其の意いかむ。 云う。慈は、仁の実也。人を愛すれば人も亦〔また〕己を愛す。人の悦ぶ心をあつめて、親を敬い子を愛す。和気身にみちていのち(命)ながし。善をよみ(嘉)して悪をにくまず。至公無我にして心ひろく体ゆるやかなり。天地万物皆己が有〔ゆう〕なり。太虚を心とすればなり。人の貧賤も己〔おの〕が貧賤のごとし。故に義に当たって財をおしまず。人の富貴も己が富貴のごとし。故に、富貴の人の、徳ありて士を教え民を安〔やす〕んずるは、己が子の、よく家を保ちて己が子を養うがごとし。不徳にして士を教えず、民を安んぜざるは、己が子の不明なるがごとし。耳に聞き目に見るべし。口にそしるべからず。教うべくして教うることあたわざるは命〔めい〕なり。謙は、虚明の徳なり。心一物なき故に、天下の益〔えき〕を来たして争うことなし。明らかなるが故に、天下の人みな己にまされる所あるを見る。故にゆづらずということなし。天下の知をあつめて用をなす。人のために苦しみをになわず、常にゆたか也。天下の谷となりて人の上〔かみ〕たらんことを欲せず。しかれども、謙は尊〔たっと〕くして光り、卑〔ひき〕くして踰〔コユ〕べからず。人にくだる者をば人〔ひと〕常に愛敬す。吉祥〔きっしょう〕、家門にあつまる。倹は、無欲の道なり。足ることを知る者は富めり。貪〔むさぼ〕らざるをたからとするの義也。事をもとめず、物を備えず、有る所に随〔したが〕いて心たりぬ。物すくなく事しげからずして静かなり。まことに慈仁にして五倫和睦し、虚明にしてくらからず、無欲にして求めなくば、これに与うるに天下を以てすともかえり見るべからず。いわんや国・郡をや。富これより大なるはなし。 *老子 六十七章 「我に三宝あり、宝としてこれを持す。 一に曰く、慈。二に曰く、謙。三に曰く、敢えて天下の先とならず。」 '... I have three precious things which I prize and hold fast. The first is gentleness; the second is economy; and the third is shrinking from taking precedence of others. ' Chinese Text Project e-Qin and Han -> Daoism -> Dao De Jing https://ctext.org/dao-de-jing
2022年01月20日
一 陽明〔ようめい〕子〔し〕云〔いわ〕く、目に体なし、万物の色を以て体となす。耳に体なし、万物の声〔おと〕を以て体とす。鼻に体なし、万物の臭〔か〕を以て体とす。口に体なし、万物の味〔あじわい〕を以て体とす。心に体なし、天地万物感応の是非を以て体とす、とはいかん。 云う。此の理〔ことわり〕明白也。唯〔ただ〕心は空を体とす。故に天地万物において感応せずということなし。ただ心のみならず、目・耳・鼻・口も同じ。目に色なきは空〔くう〕なり。故によく五色を明らかにす。耳に声なきは空なり。故によく五音をきく。鼻に臭なきは空なり。故によく好悪〔こうあく〕を知る。口に味なきは空なり。故によく五味をわかつ。これ皆心の空〔くう〕、竅〔あな〕を目・耳・鼻・口にひらくものなり。心は生々の理を以て神とす。日として生ぜずと云うことなし。是〔これ〕を性という。性は心の本然也。
2022年01月13日
一 心友問う。易経において、程子は理〔ことわり〕を主として伝をし、朱子は卜筮〔ぼくぜい〕を主として本義をせり。陽明〔ようめい〕子〔し〕云〔いわ〕く、卜筮は是〔これ〕理也。理も又〔また〕是〔これ〕卜筮也。卜筮は疑を決し吾心を神明にすることを求むるなりと。まことに発明(新解釈)なりといえども、いまだよく心よく落着〔らくちゃく〕せず。 云う。易に無卜〔むぼく〕の卜〔ぼく〕・無筮〔むぜい〕の筮〔ぜい〕あり。卜筮を用うるは末〔すえ〕也。礼・楽に玉帛〔ぎょくはく〕・鐘鼓〔しょうこ〕の有るがごとし。故に、卜筮を主としていえば、卜筮にあらずということなし。理を主としていえば、天下の理、易にもれたることなし。《初九は、潜竜なり、用うることなかれ》(初九、潜竜、勿用。)君子、潜竜の時に当りては、よく其の才知をかくしてひとり其の身をよくし、徳を養うべし。此〔かく〕の如くするときは吉なり。これに反する時は凶なり。これ卜筮を用いずして占〔せん〕明らかなり。他〔ほか〕皆これにならうべし。無筮の筮にあらずや。理を以て占い考〔かんが〕うるに、たがう(違う)事なきことは、筮〔ぜい〕を用うるに及ばず。ただ事のうたがわしきと、時の変〔へん〕に至りては、常理のいまだあらわれざる事あり。ここにおいて卜筮を用いて天に問うなり。これ又理也。神明は不測なれども、神明、理にたがうことなし。故に理の必然なる事には卜筮を用いず。
2022年01月06日
一 心友問う。古人あまた聖人の徳を形容す。其の中一人の聖人をえがき出して親切なるはいづれぞや。 云う。書経に帝堯〔ていぎょう〕の徳を記〔しる〕して云く、《欽明〔きんめい〕文思〔ぶんし〕安々〔あんあん〕なり。允〔まこと〕に恭〔うやうや〕しく克〔よ〕く譲れり。四表〔しひょう〕に光〔こう〕被〔ひ〕し、上下〔じょうげ〕に格〔いた〕れり》(欽明文思安々。允恭克譲。光被四表、格于上下)と。此〔かく〕の如く親切にして著明〔ちょめい〕なるはあらじ。欽は、本体固有の敬なり。無心自然にして存せり。維〔これ〕天之命、於〔ああ〕穆〔ぼく〕として已〔や〕まずというものなり。深遠にしてやまざるものは、常に虚霊〔きょれい〕不昧〔ふまい〕也。故に欽明という。文思は、あや(文/綾)あるおもいなり。心の官の思いのみにて、間思雑慮不常往来の妄〔もう〕なし。思うべき道理ある事のみ覚照して、不時〔ふじ〕の思索〔しさく〕なき故に、思うといえども自然なり。故に文思という。安々は応事接物・起居動静、従容として天則〔てんそく〕にあたる、自然に出〔い〕でて無事也。篤恭にして天下〔てんか〕平〔たいら〕か也。易簡にして天地の理〔ことわり〕得たる者なり。允〔いん〕は、信〔まこと〕也。恭倹にしておごりたかぶる事なきは、天・地・人三極の至徳也。天は高遠なれども、其の気くだりてえ万物を造化〔ぞうか〕す。日月は高明なれども、下土を照らして清濁をえらばず。大山〔たいざん〕、高峻〔こうしゅん〕なれども、山沢〔さんたく〕、気を通じ、潤沢、下にくだる。聖人富貴にして諸民を子とす。帝堯の恩沢、天下にあまねくして、恨み憤〔いきどお〕る者まれなる故に、諫鼓〔かんこ〕をかけて民庶〔みんしょ〕のいきどおりを直〔ぢき〕に聞こしめされしは、下〔ゲ〕す近きの至りなり。俗にげ(下)すちかきといいて、人のほむるも、恭の一端なり。又〔また〕恭には恭倹とて自然に倹の道理あり。道徳仁義を富有にして、天理の真楽〔しんらく〕ゆたかなれば、世間の願いは少しもなし。事物求めなければおのづから質素なり。心有りて倹約はいやしき所あり。無欲仁厚より無心にして倹なるは、殊勝〔しゅしょう〕に精白〔せいはく〕なる者なり。四方の物を帝土へあつめざれば、天下ゆたかにして帝土長久なるものなり。これを、財散ずる時は民あつまるというなり。克〔よ〕く譲るとは、帝堯の御心、虚明にして一物なければ、百官の諫言・天下の善言をうけいれ給いて、其の中至理に叶い、時変に達し、人情近きものをえらび用い給えり。天下の人、帝堯の聖知を忘れて、善言を奉〔たてまつ〕れり。故に、四海〔しかい〕の人情、残さず知り給いて、其の命令よく可にあたれり。みづから聖知を以て先達〔さきだち〕たまわず、天下の人の天質の美を尽さしめらるるは謙譲〔ケンジョウ〕の至り也。己〔おのれ〕を捨てて人にしたがわんと思う心はなけれども、心〔こころ〕虚〔きょ〕にして一是〔いちぜ〕を有せず、明にして人を知り、人の才知の得たる所をのこさず、天下の事を天下の人になさしめ給えり。帝堯の、天下の人の才知に主師〔しゅすい〕たる所は、人知らざる也。終〔つい〕に天下をも子に伝えずして賢にゆづり給うは、遜譲〔そんじょう〕の大なるもの也。帝堯の奇特〔きどく〕にあらず、理〔ことわり〕の当然なり。しかれ共〔ども〕、此の理の当然を行うこと、至徳にあらざれば行いがたし。四表に光被すとは、天の覆〔おお〕うところ、地の載〔の〕するところ、日月の照らす所、霜露〔そうろ〕の隊(墜)〔お〕つる所、舟車の至るところ、人力の通ずる所、凡そ血気あるものは尊親せずということなし。声名、中国に洋溢〔よういつ〕して、施〔ひ〕いて蛮貊〔バンパク〕に及び、数千歳の末の世に至り、日本の遠方の者までも心にしたがうことあり。上下に格〔いた〕るは、天地の化育を助けて、陰陽の気、至和至順なるゆえに、風雨、民の願いにしたがい、時に雨降ふり時に風ふき、枝をならさず壌〔つちくれ〕をながさず。鳥獣・魚虫・草木までも、其の沢をこうぶりて其の生をとぐるをいう。帝堯〔ていぎょう〕六尺の身、方寸の神舎、斯〔かく〕の如き広大に至れり。神明不測の妙、天下古今これにしくものあらんや。
2021年12月30日
一 心友問う。里〔り〕は仁を美と為〔な〕す*とは、孟子の、仁は人の安宅〔あんたく〕也といえる意にて、人の身を安んずる所は古郷なり、人の安楽にして常なるは仁也と、の給える義也と、いえる人あり。集註の解〔げ〕は外〔と〕ざまの事也。此の説おもしろく侍り。 云う。しばらく学者の内〔うち〕に力を付〔つ〕くるためにはよし。本解は集注の旨〔むね〕なるべし。此の語は為にする事ありての給えるか。本より古郷ならば、風俗あししとても立ちさしがたき義もあるべし。人の国には、仁里〔じんり〕ありとても、行〔ゆ〕きてすむことならざる勢もあり。一篇(※一偏)には定めがたし。好みて不仁の風俗の地に居〔お〕る者のために、知・仁ともに失える道理を教え給えるか。此の章にて仁を本心の事とせずとも事〔こと〕闕〔かく〕ることあらじ。ところによりては解くべし。 問う。不仁者の、約に居〔お〕りがたく、楽にも久しからざる事**は、何ぞや。 云う。不仁者は物を二にす。一己の私〔わたくし〕を持して世を渡るものなり。順を好み逆をにくみ、富貴を願い貧賤をいとう(厭う)。故にせわせわ(狭狭)しきはいとい(厭い)にくむ所なれば、其の地に安〔やす〕んずる事あたわず。或いはあふれ或いはやぶるるものなり。富貴を得ては大いに悦び、己一人の栄燿〔えよう〕とす。終〔つい〕には身の病苦をまねき、或いは家を亡〔ほろぼ〕すものなり。ともに久しきことあたわざる所なり。周に大いなるたま物ありて、善人これ(是)とめり(富めり)といえり。武王天下を有〔たも〕ち給いて、商の代〔よ〕につみ(積み)たくわへ(蓄え)たる財用を天下にほどこし散じ給う時、市民のたよりなき者にあたえて、余りあるをば善人をえらみ(選み)与えて富ましめ給えり。善人は人欲の私なき者なれば、天下の財用は天下の通用なる道理にまかせて、富有に成りてもみづからたから(宝)としたのしまず(楽しまず)、人にほどこすを持って楽しびとす。君子は民の父母といえるも、父母たるものたから(宝)あれば、子に分かちあたうるを以て楽しびとするがごとし。上より国・天下に財をわかちあたえむとし給いては、いかほど多くありても、あまねく(遍く)およばざる(及ばざる)ものなり。しかのみならず、あたえて却りて害となることもあり。ただ其の利を利とする様に政〔まつりごと〕をし給うばかりなり。なおももるる(漏るる)ところあれば、彼〔か〕の善人仁者これをすくえり。私〔わたくし〕にほどこすはよく当たるものなり。外より見て我にもたまうべきことと思う者なし。故に、善人を富まし給うは、もるるところなく仁政をあまねく及ぼさんがためなり。 * 『論語』里仁 「子曰く、仁に里〔お〕るを美〔よ〕しと為す。 択びて仁に処らず、焉〔いづく〕んぞ知たるを得ん。」 The Master said, "It is virtuous manners which constitute the excellence of a neighborhood. If a man in selecting a residence, do not fix on one where such prevail, how can he be wise?" ** 同 「子曰く、不仁者は、以て久しく約に処るべからず。以て長く楽に処るべし。」 The Master said, "Those who are without virtue cannot abide long either in a condition of poverty and hardship, or in a condition of enjoyment. Chinese Text Project Pre-Qin and Han -> Confucianism -> The Analects -> Li Ren 1, 2 https://ctext.org/analects/li-ren
2021年12月23日
一 心友問う。貴老の書を見て、口ではあざけりそしりながら、心にはひそかに取り得てみづからのまどいをわきまえ、我心より出〔い〕でたるように人にも教〔おし〕うる者侍り。書をあらわし侍るにも、貴老の書の筆法発見多し。しらざる者はいづれをさきともわきまえ侍らじ。貴老は秘して出だし給わず、とり用うる者の書は出で侍れば、かえりて末〔すえ〕や本〔もと〕に成り侍らむ。 云う。いにしえより実徳ある人にはにせがたし。予、不徳にて、言語のみなる故に、人の取ることやすき也。夫〔そ〕れ有徳には、親炙〔しんしゃ〕する人、其の化をこうぶれり(蒙ぶれり)。文明の時は有徳の人なれども、言説を以て世の惑〔まど〕いをひらく功あり。予が言としられて世に益あらんも、人の言と成りて助けあらんも同じ事也。予が言はなお人の言のごとく、人の言はなお予が言のごとし。共に天の霊明より生ず。たとえ取り用うる人あしき心ありとも、聞く人はまどいを弁〔わきま〕うべし。其の言によりて吉利支丹ごときの左道にまどわざる風俗とならば幸甚なり。
2021年12月16日
一 心友問う。《子の曰〔のたまわ〕く、故〔ふる〕きを温〔たづ〕ねて新しきを知る、以て師たるべし》(子曰、温故而知新、可以為師伽矣)*とは、前に学びたることを復〔ふく〕して、ますます鍛錬〔タンレン〕し、いまだしらざることを日々たづね知るという事か。 云う。温故は古〔いにしえ〕の道を学ぶ也。知新は今に行うべき至善を知る也。いにしえの道の真〔まこと〕を得て、其の跡によらず、今の時・所・位〔くらい〕に叶〔かな〕いて、知りやすく行いやすき様に教え治むるを君・師という也。今の学者、博く古の書を見るといえども、心に不空受用をせざれば、身を行う所を知らず。書に向いて講談する時は、学者のごとし。書をはなれて日用〔にちよう〕常行〔じょうこう〕に交わる時は、平人に異なることなし。是〔これ〕を、学びて思わざる時は罔〔くら〕しと云うべし。又〔また〕昼夜〔ちゅうや〕功夫〔くふう〕受用して心思〔しんし〕をくるしめ、道を行わんとする者あれども、学せばく(狭く)して己が異見にまかするゆえに、己をあやまり人をあやまるものあり。これを、思いて学びざる時は殆〔あや〕うしというなるべし。 問う。博学とは、いかほどの書を見ることに侍るや。 云う。古〔いにしえ〕の博〔ひろ〕きというは、易・詩・書・礼・楽・弓・馬・書・数のみ。今の万巻の書はあるべき様なし。数多〔あまた〕の書にわたりても、見〔けん〕せばき者あり。博学ならずしてひろき者あり。今、吾人〔ごじん〕の、己が為に学ぶべきものは、四書を本〔もと〕にすべし。基本の経・伝は年と気力とにまかすべし。其の家に生れたる者の、其の家職をつとむる事は常の業なり。 * 『論語』為政第二 「子の曰く、故きを溫ねて新しきを知る、以て師為るべし。」 The Master said, "If a man keeps cherishing his old knowledge, so as continually to be acquiring new, he may be a teacher of others." Chinese Text Project Pre-Qin and Han -> Confucianism -> The Analects -> Wei Zheng 11 https://ctext.org/analects/wei-zheng
2021年12月09日
一 心友問う。死生の道はまどわずながら、生を好み死をにくむの心はきよくつきがたき(清く尽き難き)と見えて、年より白毛〔はくもう〕生じ身体かわりゆくを見ては、感慨の心おこりぬ。かかる凡情は変じ侍るべきや。 云う。これ学者・不学者共に人情の通情也。くらくまどいて( 凡情の)多きか、明らかにさとりてすくなきかのたがい(違い)のみ也。孔子、川のほとりにましまして、ゆくものはかくのごときか、昼夜をとどめず、の給えり*。この道体〔どうたい〕なり。川流〔せんりゅう/せんる〕の見やすきを以て道体の無声無臭を教え給えり。吾人、白髪生じ、はだ(皮膚)へなみより(波寄り)かわりゆくものは、彼〔か〕のゆくものと共にゆく川流の道理也。仁を知るものは、何をか好み、何をかにくまん。 * 『論語』子罕第九 「子〔し〕川上に在りて曰く、 逝く者は斯〔かく〕の如きか、昼夜を舎〔お〕かず。」 The Master standing by a stream, said, "It passes on just like this, not ceasing day or night!" Chinese Text Project Pre-Qin and Han -> Confucianism -> The Analects -> Zi Han 17 https://ctext.org/analects/zi-han
2021年12月02日
一 心友問う。仁は全徳の名なり。しかるに、博く施し衆を救うを以て仁よりも大也との給うは何ぞや。 云う。これ仁の用をいえり。仁は天地万物を以て一体とすといえども、用においては天地の大なるも人なおうらむる所あり。堯舜もやめる(病める)ことわり也。仁者の、己〔おのれ〕立たむと欲する所、則ち人を立つる所なり。己達せむと欲する所、則ち人を達するのことなり。思いはかりてしかするにあらず。仁者は一己の私なくて天理流行す。故に人我のへだてなし。物を利するの徳ありて、己を利する欲なし。この故に、自然にてしかり。よく親切にたとえをとるも物と二つあらず。遠くは物にとり、近くは身にとるなり。仁の体をいう時は、太虚・天地・中国・夷狄のこす(残す)物なし。子貢〔しこう〕は其の用につきていえり。故にの給えり。これ聖人天下を有〔たモ〕つの能事〔のうじ〕也。これによりて仁を求めるべからず。形あるものは必ずかくる所あり、相〔あい〕通ぜざるの勢なり。鳶〔とび〕飛び魚〔うお〕躍る、形より見れば各別なり。その飛躍する所以のものは一つなり。 * 『論語』雍也第六 「子貢の曰く、もし博く民に施して能く衆を救うあらば、いかん。 子の曰、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜もこれを病めり。 それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。 能く近く譬えを取る、仁の方を謂うべきのみ。」 Zi Gong said, "Suppose the case of a man extensively conferring benefits on the people, and able to assist all, what would you say of him? Might he be called perfectly virtuous?" The Master said, "Why speak only of virtue in connection with him? Must he not have the qualities of a sage? Even Yao and Shun were still solicitous about this. Now the man of perfect virtue, wishing to be established himself, seeks also to establish others; wishing to be enlarged himself, he seeks also to enlarge others. To be able to judge of others by what is nigh in ourselves - this may be called the art of virtue." Chinese Text Project Pre-Qin and Han -> Confucianism -> The Analects -> Yong Ye 30 https://ctext.org/analects/yong-ye
2021年11月25日
一 心友問う。知者の動き仁者は静か也*と。動静は相〔あい〕似ずといえども、共に有徳の人なるか。 云う。この二人にあらず。一気の屈伸・天の陰陽なるがごとし。一動一静互いに其の根をなせり。よく動く者はよくしづかなり。知者は、周流してことにとどこおらず物にまどわず。故にたのしむ。流水を見て嘆息す。左右其の源に遭う。知の象〔しょう〕なればなり。仁者は万物を以て一体とす。死生禍福ともに吾が有〔ゆう〕也。故に生々にして亡ばざるものは命ながし。無欲にして静か也。山の象〔しょう〕あり。徳性の動いて楽しむを知といい、静かにして寿〔いのちなが〕きを仁という。 * 『論語』雍也第六 「子曰く、知者の楽しみは水なり、仁者の楽しみは山なり。 知者は動き、仁者は静かなり。 知者は楽しみ、仁者は寿〔いのちなが〕し。」 The Master said, "The wise find pleasure in water; the virtuous find pleasure in hills. The wise are active; the virtuous are tranquil. The wise are joyful; the virtuous are long-lived." Chinese Text Project Pre-Qin and Han -> Confucianism -> The Analects -> Yong Ye 23 https://ctext.org/analects/yong-ye
2021年11月18日
一 心友問う。《これを仰げば弥〔いよいよ〕高く、これを鑽〔き〕れば弥〔いよいよ〕堅〔かた〕し。これを瞻〔み〕るに前に在るかとすれば、忽焉〔こつえん〕として後に在り。》(仰之弥高、鑽之弥堅。瞻之在前、忽焉在後。)*此の章、道の得がたき事をいえるか。顔子(顔淵)だに得がたき道ならば、後学の者いかで及び侍るべきや。 云う。しかるにはあらず。大山〔たいざん〕を高しといえども、かぎりあればのぼり尽くすべし。天を大なりといい、日月を遠しといえども、象形〔しょうけい〕ある物は数学を以てはかりしるべし。ただ道の高遠はきわまりなし。故に其の高きに付きて、之〔これ〕を仰げば弥〔いよいよ〕高くしていたりがたし。目力見解及ぶところにああず。之を鑽〔き〕れば弥〔いよいよ〕堅しとは、力を以て入〔い〕るべからず。才覚を以て得〔う〕べからず。之を瞻〔み〕るに前に在り、忽焉〔こつえん〕として後に在りとは、文章言語を以てかたどるべからず。知識の及ぶべきにあらず。ただ実義を明らかにして後〔のち〕、仰がずして高遠に及び、徳行ありて後、無窮〔ブキュウ〕の門に入〔い〕るべし。無知の知を得て後、無方の神(※神妙)に至るべし。 問う。博文〔はくぶん〕約礼〔やくれい〕はいかん。 云う。我を博〔ひろ〕むるの文は、到知〔ちち〕格物〔かくぶつ〕を以て身を修め、古今人情・時変に達して、用〔もち〕うる時は行い、舎〔すつ〕る時は隠〔かく〕るる也。我を約するの礼は、人欲きよくつきて天理流行する也。《罷〔や〕めんと欲すれども能わざる》(欲罷不能)ものは、みる所〔ところ〕明らかなる故也。今の人、志の立ちがたきことを憂うる者は、いまだ見る所明らかならざれば也。明らかなる時は、こころにやめんと欲すれ共〔ども〕やむることあたわず。才を竭〔ツク〕すとは手のとり足のゆくがごとし。天質の心知〔しんち〕を用うる也。顔子、志学〔しがく〕より善・信・美・大に至れり。其の才をつくしてつとめて及ぶところ也。《立つ所あるが如くにして卓爾〔たくじ〕たり。これに従わまく欲すといえども、由〔よ〕ることなきのみ。》(如有所立卓爾。雖欲従之、由也已。)これより後、大にして化せむとす。功夫〔くふう〕つとめの及ぶべきにあらず。聖学峻絶の地位、言語の及ばざるところ也。此の時、顔子天年終わらむとするの前になるべし。天、顔子に年をかさましかば、化して聖人となるべきこと期すべからず。 * 『論語』子罕第九 顔淵喟然歎章 「顔淵〔がんえん〕、喟然〔きぜん〕として歎〔たん〕じて曰く、 之〔これ〕を仰げば弥〔いよいよ〕高く、 之を鑚〔き〕れば弥〔いよいよ〕堅し。 之を瞻〔み〕れば前〔まえ〕に在り、 忽焉〔こつえん〕として後〔しりえ〕に在り。 夫子〔ふうし〕、循循然として善く人を誘〔いざな〕う。 我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。 罷〔や〕めんと欲すれども能わず。既に吾が才を竭〔つ〕くす。 立つ所〔ところ〕有りて卓爾〔たくじ〕たるがごとし。 之に従わまくと欲すと雖〔いえど〕も、由〔よ〕ること末〔な〕きのみ。」 Yan Yuan, in admiration of the Master's doctrines, sighed and said, "I looked up to them, and they seemed to become more high; I tried to penetrate them, and they seemed to become more firm; I looked at them before me, and suddenly they seemed to be behind. The Master, by orderly method, skillfully leads men on. He enlarged my mind with learning, and taught me the restraints of propriety. When I wish to give over the study of his doctrines, I cannot do so, and having exerted all my ability, there seems something to stand right up before me; but though I wish to follow and lay hold of it, I really find no way to do so." Chinese Text Project Pre-Qin and Han -> Confucianism -> The Analects -> Zi Han 11 https://ctext.org/analects/zi-han
2021年11月11日
一 心友問う。詩に興〔おこ〕るといえども、後学の者〔もの〕興ることあたわず。古〔いにしえ〕の、おこりし者は、いかむ。 云う。古の、文を学びしは、詩を始めとす。詩は志をいえるものなり。善悪・邪正共にみな人情の実事也。故にこれを学ぶ者は実学也。人倫日用の実事において、善心を感発し、善行を興起し、悪をこらし邪をふせぐ事をしれり。これ詩によりて志のおこるにあらずや。 問う。礼に立つものは、いかん。 云う。礼は恭倹謙遜を本〔もと〕とす。虚中に天下の益を来〔きた〕す。争わず奢らず、身にほどこせば、肌膚〔ヒフ〕の会〔カイ〕・筋骸〔キンガイ〕の束〔ツカネ〕をかたくす。事に用〔もち〕うれば節制度数の文〔あや〕あり。家・国・天下に及ぼすときは吉・凶・軍・賓〔ひん〕・嘉〔か〕の品あり。吉は祭礼也。凶は喪例也。軍は軍法也。賓は主客往来交会の礼儀也。嘉は婚姻の礼及び冠(※成人)礼をいう也。人〔ひと〕恭倹なき者は、心を喪〔うしな〕い身を失う。家・国・天下に至るまで、恭倹謙遜の教えなき時は、驕者日々に長じて争逆の事〔こと〕発す。終〔つい〕に国亡び天下乱る。故に、身より家・国・天下に至るまで、礼なければ立たず。故に、礼を知る者は、敬〔けい〕以て心を存し、倹以て身を修め、遜順以て家をととのえ、謙明以て国を治め、篤恭にして天下平らかなるに至れり。礼に立つ義〔ぎ〕明らかなり。 問う。今〔いま〕管弦の楽〔がく〕というものを見〔み〕侍〔はべ〕るに、楽によりて、正心・修身・斉家・治国・平天下の事、成就せんとも思われ侍らず。古の、楽に成りし者(※音楽にて徳を成し得た者)は、いかむ。 云う。《孔子の曰〔のたまわ〕く、その以〔す〕る所を視〔み〕、その由〔よ〕る所を観〔み〕、その安〔やす〕んずる所を察〔み〕》(孔子曰、視其所以、観其所由、察其所安)と。ここの人ありて、其の平生のなす所は何事ぞとみるに、文学・弓馬等を学びて、文武のつとめにおこたらず、其のする所はよけれ共〔ども〕、其の心のよる所、徳業を立てむがためか、名利を求めむがためかと見るに、是をなし得て、利禄を求むべきとも、名を得〔う〕べきとも思わず。文を学びては道理をわきまえ、弓馬を習いては其の業〔わざ〕をよくせんが為なれば、よるところの心もよき也。しかれ共〔ども〕、其の人の間暇〔カンカ〕無事の時、従容〔ショウヨウ〕游楽〔ユウラク〕の地において心を用うるをみるは、其の安んずるところ也。為〔ス〕るところ依るところまで、よき人はあれ共、安んずる所において正しき人まれなり。其の故は、為るところ依るところまでは、心を起こしてつとむれば也。大勇力の人ありて志〔こころざし〕篤実也といえども、楽〔ガク〕を知らざる時は、安んずる所において心を用うることあたわず。或いは怠惰、或いは厳厲〔げんれい〕なるもの也。これ正しき事にあぞぶ道をしらざれば也。正楽をもてあそびて後、心の安んずる所、遊びを楽しむ事正しくして、徳に入ること易し。夫〔そ〕れ楽に五声・十二律有り。或いは歌舞し或いは糸竹をしらべ、人の性情を養いて邪穢〔ジャエ〕を蕩滌〔トウゲキ〕(※洗い清め)し、和順にして道徳を得〔う〕るものなり。故に、風を移し俗を易〔こう〕ること楽よりよきはなし。道学の、楽に成就することわりは、問学し正楽を習いて後、初めて知るべし。文学して道理を知るといえども、楽を知らざる者は、其の風情〔ふぜい〕に通ぜず。文学・楽道かね用いても、心術をしらざれば、これを心に得て楽しむことあたわず。この故に楽に成る者すくなし。
2021年11月04日
一 心友、《道に志し、徳に拠〔よ〕り、人に依り、芸に遊ぶ》(志於道、拠於徳、依於人、遊於芸)の章を問う。 云う。他岐〔たぎ〕の惑いなく人道の正〔ただし〕きを得むと欲するは、道を志すなり。徳に拠るは、有徳の人により近付く也。自己天真の正きに本づき養いて得〔う〕る所あり。大体(※本心)にしたがうもの也。芸に游〔あそ〕ぶは、礼楽弓馬書数等の人倫日用の事において正き所にあそぶ也。六芸〔りくげい〕は至理の寓する所なり。故に、専〔もっぱ〕らにおさむる時は、末〔すえ〕の理〔ことわり〕に流れて本心の徳を失うもの也。游ぶ心を知りてなす時は、其の術を尽くしてきわむるといえ共、道徳の助けと成りて末芸にながれず、游ぶ心を知らずして上手なる者は、道徳の大なるを以て芸術のすこしきなるをなすもの也。これ其の厚〔あつ〕うするところを薄うすることわり也。其の薄うする所を厚うすれば、芸術身の害に成るもの多し。 *『論語』述而第七 六 子曰。志於道。據於德。依於仁。游於藝。
2021年10月28日
一 心友問う。人みな志〔こころざし〕ありといえ共〔ども〕、志す所たしかならず。 云う。志というは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといえども、心思のむかう所〔ところ〕正しき也。故に邪偽の惑〔まど〕いすくなし。 問う。志なけれ共、正しき人あり。志ありといえ共〔ども〕、正しからざる人あるは、何ぞや。 云う。気質よき人は、道を学びざれども、正しきものなり。気質あしきものは、道に志すといえども、俄〔にわ〕かに善人に成ることあたわず。しかれども、昨日の我〔われ〕にはまさるべし。一〔ひと〕たび道に志すものは、いまだ道を見ることたしかならざれども、志、善にむかえば、大なる不仁不義をばなさず。邪偽の左道〔さどう〕(※邪道)などにはまどうべからず。気質によりて正しき人は、行跡よしといえども、道をしらざる故、心に守りなく明らかなる所なければ、其の身は好人の様にみゆれども、事の邪正を知らずして不義をなすことあり。又左道などにまよう者あり。天の、物を生ずる、此の徳あれば此の病あり。知不足なる者は行い正し。行不正なるものは知〔ち〕明らかなり。志ある者は多くは行不足にして知明らかなる所あり。外よりみる所は、知〔ち〕くらくても行正しき人まされり。たとえば草木のごとし。今日養いを得て明日長ずる物あり。其の本〔もと〕をはからずして末〔すえ〕を同じくせば、一尺の木の養いを得て長ずるは、二尺の木の長ぜざるには俄かにはこえがたかるべし。
2021年10月21日
一 心友問う。人みな聖人たるべしといえり。迂闊〔うかつ〕なる様にもきこえ、又聖人をことあさき(淺き)様〔よう〕にも思える者もあるなり。 云う。其の全徳をいう時は、聖人は神明不測の号なれば、平人のしらざる所なり。しかれども、人の人たる実体は、聖人と異なることなし。人みな明徳あり。大人は赤子の心を失わざるもの也といえり。学は、後来の人欲を去りて元本の天理を存〔そん〕することを学ぶもの也。此の心、天理に専〔もっぱ〕らにして人欲の私なき時は、則ち聖人の心なり。 一 心友問う。心の、内〔うち〕に向うと外に向うとの模様は、いかが。 云う。いいがたし。論語に《三人行〔おこな〕うときは、必ず我が師あり》(三人行、必有我師)といえり。ここに人三人あり。其の一人は我〔われ〕也。よきを一人とし、あしきを一人とす。善人を見ては、是〔こ〕れを好〔よ〕みし、これを与〔くみ〕し、これを習うべし。不善人を見ては、或〔ある〕いは形〔かたち〕これをさけ(避け)、或いは心これをさく(避く)べし。我が身にも此〔かく〕の如き不善ありやとかえり(顧)見るべし。是〔こ〕れよき受用なれども、かくのごとくのみ見る時は、よき事はよけれ共〔ども〕、師〔し/すい〕、外にあり。心の外に向うことをまぬかれず。もし師を内に求めば、善を見て好〔よ〕みする心は我が身に善を行うの師也。不善を見て悪〔にく〕む心は則ち我が身の不善を改むる師也。心は無声無臭〔ぶせい ぶしゅう〕なれば、感応の跡〔あと〕依〔よ〕って知るべし。明師ありといえ共〔ども〕一念の微〔び〕は知りがたし。ただ我にありて善悪を知るの霊明を奉侍する時は、師我に有りて幽明のへだてなし。
2021年10月14日
一 心友問う。《天下、道あるときは、即ち庶人、議せず》(天下有道、即庶人不議)といえるは、法ありて天下・国家政道の善悪をいわしめざるか。軍中において弁者〔べんしゃ〕をして敵の美を談ぜしめざれといえると同じの事に侍るや。 云う。其の口を箝〔トヂ〕て私議せしめざるにはあらず。自然の勢いをいえる也。天下道有るときは、天子は天下の富貴を有〔たも〕ちて人にかざす。国君は一国の富貴を有ちて人にあづけず。大臣は君を助けて私の権勢なし。農は耕〔たがや〕し、工は其の職をよくし、商は有無を通じて其の利を利とするのみ。天下・国・郡〔こおり〕の材用は、自然の勢いありて、商はからず(諮らず)。何ぞ国・天下の政令を議することをせん。天下道なき時は、国君世主の驕奢〔きょうしゃ〕なる事、有道の時の十百倍すといえども、富貴の権は下にうつるもの也。故に、商人・国・天下の材用の本末を心に取り得て、国・天下の利をあみ(網)し、山沢の浅深・河海〔かかい〕の運行をたなごころの内にす。故に、商は日々に天下の事に委〔くわ〕しく、士は日々の万事にうとく(疎く)なりぬ。ただ庶人の私議するのみにあらず、財用の権、商の手にありて、心のままに成るものなり。故に、商日々に富みて、士日々に貧し、士は貧乏きわまる時は、民にとること法なし。士・民共に困窮する時は、天下の工・商、利を失いて衣食を得〔う〕べき便りなし。よき者はわずかに富商の数十人のみ也。これを四海困窮すと云う。堯〔ぎょう〕曰〔いわ〕く、四海困窮せば、天禄長く終えんと。君の禄福もながくたえて、天下やぶると也。此の時に当たりて、彼〔か〕の財用を心のままにしてさかえを極めし富商も、盗賊の奴〔やっこ〕と成りて、悲哀すとも益なかるべし。聖人の言〔ことば〕たがうことなし。
2021年10月07日
一 心友問う。伊尹〔いいん〕は聖の任〔にん〕なる人也。孔子は聖の時〔とき〕なる人なりと。しからば、孔子も任なるべき時に当りては任じ給うべし。列聖の中、何〔いづれ〕か任に当れるや。 云う。湯武〔とうぶ〕是〔これ〕也。万人の安否を以て己が任とす。故に徳に恥〔はづ〕るの悪名をかえりみず。実は天下を欲するにあらず。巣許〔そうきょ〕(※巣父と許由)が清あれ共、任重きによりて進みて辞せず、桀〔けつ〕を流放せり。若〔も〕し桀〔けつ〕改むる志ありて、湯王の教えを受けて道を行わば、必ずむかえて天下をかえし授〔さづ〕くべし。紂〔ちゅう〕若し悔ゆる心ありて武王に降〔くだ〕り、先づ悪を改めて善にうつらば、必ず助けて仁政を行わしむべし。武王は紂〔ちゅう〕をとらえて流放し置かむとおぼしきたるべきを、剛悪〔ごうあく〕勇心ありて自害せり。其の後、紂王の子を立て大国を与え、商の祭〔まつり〕をつがしめ(継がしめ)給うにて知るべし。後世、敵の子孫といえば、たづね求めて殺すとは雲泥なり。太甲〔たいこう〕無道なりしかば、伊尹これをおこしめおきたり。伊尹の幸いにて太甲先非を悔いて、伊尹の教えにしたがい給えば、むかえて位〔くらい〕をかえしたり。若し改めたまわずば、伊尹天下を有〔たも〕つべし。しからば、簒〔うば〕いたるの名あらんか。任が重き故に辞せず。 問う。しからば、天下の民の水火の中にくるしむがごとくなることは、聖賢皆あわれみ給うべし。いづれも任ずべきことならずや。 云う。天任ぜしむ時は任ず。天任ぜしめざる時に任ずるは私心なり。この故に、孔孟(※孔子・孟子)は道を任じて天下を任ぜず。孔孟の時、諸侯の強大なる者みな思えり、孔孟を助けとせば天下を一統〔いっとう〕せんと。若し孔孟の才ある人、功名のまじわりありて、時の諸侯を助けましかば、天下を一統せしめんこと、たなごころの内なるべし。又まじゆるに仁を好みて義を知らざるの異学を以てせば、みづから天下をとりて人民を安〔やす〕んぜんか。しかれども、聖賢は道をまげて天下を安んずることはせず。兵をやめ食をやめて、天下の人餓死せしむるとも、信のみ存すべき心なり。
2021年09月30日
一 心友問う。《曾子の曰〔いわ〕く、孟荘子が孝や、その父の臣と父の政〔まつりごと〕を改めざるは、これ能くし難し》(曾子曰、孟荘子之孝也、其不改父之臣与父政、是難能也)と。荘子が父、献子〔けんし〕、賢徳ありてよく人を用いたり。故に其政よし、改めざること尤もなり。何ぞこれをかたしとするや。 云う。父の献子、賢にして、子の荘子、知あり、又〔また〕孝心厚し。故に是をよくせり。古今、父にえられし(得られし)者の、子の代にあはざること二つあり。一つには、其の者よけれども、子の方〔カタ〕ずみ(方住)の者、権力をとり立身せんことを欲して、父にえられし者を年々あしざまにいいなせば、よからずとおもえり。其の上、父子、好悪〔こうお〕、別也。故に、父の臣を用いず、父の政を改むる者あり。是は、子〔こ〕不明にして孝心うすければ也。二つには、父のえられし者〔もの〕私〔わたくし〕多くよからぬ事を、年々〔としどし〕見〔み〕置〔お〕きて、これを用いず。又父の政〔まつりごと〕可〔か〕にあたらざる多かれば、改むるものなり。これは、子〔こ〕知あり、不孝ともいいがたし。父の本心は、善人を用い善政を行うことを欲す。しかるに、是に反する者は人欲これを害すればなり。親の本心にしたがいて、悪を改め善にうつり国家の長久をなして、親の先祖に不孝の罪をまぬかれしむるは、大孝〔たいこう〕也。親の好悪は一身の私〔わたくし〕也。国家は代々の守りなり。夫〔そ〕れ人〔ひと〕善にして知〔ち〕不足なる者あり、知ありて行〔こう〕不足なる者あり。善にして知不足なる者は、平生のなすところ行跡〔ぎょうせき〕正しといえども、肝要のしまりなき故に、其のよき事も、おおくはあしく(悪しく)なるものなり。行不足なれども知慧のある者は、平生のなすところ十にして七八まで礼儀にあたらずといえども、肝要のしまりある故に、其のよからぬ事も消え失せて、人情、時勢に叶うものあり。父〔ちち〕善人にしてほまれありといえども、知不足なれば人を用うることあたらず。政〔まつりごと〕、時・所・位には、父よく子よからざれども、内よりみる時は、父の代〔だい〕には国家ととのおらず、子の代にはよく治る者也。父 不賢な 篤実ならざ れども、知ありてよく人を用い、政、時・所・位に叶うものあり。子 善人なれ よきといへ 共、知なければ、終〔つい〕には不明の所より讒言〔ざんげん〕入〔い〕りて、子の代に其の功をとげず。 此の二つの者は自然の勢い也。父にえられし者 こそ よからぬ者 も有るべけれ。其の外〔ほか〕、又〔また〕国の旧功の奉行・役人多きを、子の代になりては、其の賞のさた(沙汰)なくして、何の功徳もなき小人〔しょうじん〕 共 も 方〔カタ〕ずみとて、位・禄〔ろく〕共に分〔ぶん〕に過ぐる者 多し 有り。父子相継ぐの礼にあらず。この故に、孟荘子がごとき孝少なし。
2021年09月23日
一 朋友問う。心学には碁〔ご〕・象戯〔しょうぎ〕の遊びも禁制也と申し侍り。まことなるか。 云う。心学の事は知らず。惣じて道徳仁義に志す者は、人欲を禁制する理〔ことわり〕にて侍れども、全く格〔タダ〕し去ることあたわず。何のいとま有りてか末〔すえ〕の碁〔ゴ〕・象戯〔ショウギ〕を禁じ侍らん。道学・六芸を事とする人は、日を愛してたらずとせり。碁・象戯をすすむるともせじ。文芸・武芸をも心がけず、徒〔いらづら〕に月日を送る人は、碁・象戯の遊びもせざるにはまされり。禁ずるに及ばす。かけ双六〔スゴロク〕などは博奕〔バクエキ〕の下地〔したぢ〕と成りなむか。博奕は悪事の根差しなれば、左様のきざしをば戒めても可也。本〔もと〕立つときは、末のいたづらごとは、禁ぜざれどもおのづからやむものなり。本〔もと〕立たずして末を禁ずるは、禁ぜざるにはおとれる(劣れる)ことあり。
2021年09月16日
一 心友問う。《仁者は憂えず。知者は迷わず。勇者は懼〔おそ〕れず。》(仁者不憂、知者不惑、勇者不懼)とある時は、三人のように聞こえ侍〔はべ〕り。君子の道三つとあれば、三〔み〕つながら有りて君子と云う義か。仁者・知者・勇者、いづれも君子との義か。 云う。君子の憂えざるは仁也。惑わざるは知也。懼れざるは勇也。此の三〔み〕つ、ある時は共にあり。君子の道〔みち〕広大也といえども、心の特に本〔もと〕づく時は、此の三つにすぎずと云う義也。己を成すは仁也。物を成すは知也。性の徳也。外内の合すの道也。故に三つ本一つ也。一人の人あり、子よりいえば父也、臣よりいえば君也、婦よりいえば夫と名付くるがごとし。仁・知・勇、同じ性なれども、君子の、天地・幽明、順逆、死生、禍福を以て一つにして、己にあらずと云うことなければ、憂うるところなきにつきては、仁者と名付け、君子の、陰陽・人鬼、富貴、貧賤、夷狄〔いてき〕、患難、入るとして自得せずということなく、心にとどこおりなき事流水のごとく、無事を行いて明らかなる所につきては、知者と名付け、君子の、浩然〔こうぜん〕の気天地にふさがり、剛強盛大にして万物の上にのびやかに、物欲にたわまされず(撓まされず)、威武に屈せられず、悪鬼、妖物〔ようぶつ〕、猛獣もふるることあたわざる所につきては、勇者と名付けたるなり。常人の憂うる所を憂えざるによりて、君子を知ることもあるべし。凡夫のまどうところにまどわざるによりて、君子を知ることも有るべし。世人のおそるる所をおそれざるによりて、君子を知ることも有るべし。時により、三人となして見るとも害あらじ。又〔また〕仁にして知・勇をかねず、知にして仁・勇をかねず、勇にして仁・知をかねざる者あり。これは気質に得たる者なり。気質に得たる仁者は好みて人を愛し、或いは其の身温柔寛裕なるばかり也。憂えずというには及ぶべからず。憂えざるは、知わきまえ勇たわまざるところあれば也。気質に得たる知者は、俗にいえる分別者也。しかれども、万物一体の仁なければ者を成す功なし。人間世〔にんげんせい〕の名利得失の分別のみかしこくて、幽明・死生の理〔ことわり〕を知らず。この故に、おそるる所も有り、惑わずとはいいがたし。気質に得たる勇者は、なれしりたる所にはおそれざる也。山に行きて虎狼をさけざるは猟者〔リョウシャ〕の勇也。海に入〔い〕りて蛇竜〔じゃりゅう〕を恐れざるは海士〔アマ〕の勇也。戦陣において弓矢をいとわざる(厭わざる)は武士の勇也。大森彦七(※足利高氏の家来)ほどの勇者にても、妖物に逢いては気をとり失うことあり。其の上、海に入りては海士に及ばず、山に入りては猟者に及ばず。大勇の名を得たる武士といえども、懼れずとはいいがたし。者によりておそれ(懼れ)、者によりてはおそれざるは、知〔ち〕てらさず(照らさず)、仁一体ならずして、物二つとなる故也。道学に得たる物はさあらず。勇者は仁・知をかねておそるる所なく、知者は仁・勇をかねててらさざる所なく、仁者は知・勇をかねて憂うるところなし。故に、君子の道三つとの給えり。一つもかけて(欠けて)は君子といいがたし。 問う。我よくすることなしとの給う時は、孔子だにいたり給わずにあらずや。しからば、後世の人いかでか及び侍らん。 云う。今も人あり、我よくつとむることを同志のつとめざる時は、我よくつとめ得ずといいて人をすすむ(勧む)。我よくすることは人皆しれり。其の人をすすむるという義はいわずしてさとれり。
2021年09月09日
一 心友問う。春夏秋冬かわらず、日月星辰同じ。人の形〔かたち〕異なることなし。仁義礼知の性備われり。しかるに、古昔〔いにしえ〕は道徳の人多くして今まれなることは、何ぞや。 云う。《孔子〔こうし〕曰〔のたま〕わく、古の学者は己の( 徳を修める)為にし、今の学者は人の(※己が人に知られる)為にす。》(孔子曰、古之学者為己、今之学者為人。)これ今の世に独特まれなる所也。《古の士は人を利し、今の士は己を利す。》(古之士者利人、今之士者利己。)おのれがためにすべき学は人の為にし、人を利すべき義を失いて己を利す。この故に、士〔し〕君子〔くんし〕多くは其の徳を失いて小人となれり。
2021年09月02日
一 心友問う。(蕃山)先生は、先師〔せんし〕中江(※藤樹)氏の言を用いずして、自〔ミヅカ〕らの是〔ぜ〕を立て給えるは、高慢也と、申す者あり。 云う。予が先師に受けてたがわざる(違わざる)ものは実義也。学術言行の未熟なると、時・所・位〔くらい〕に応ずるとは、日をかさねて熟し、時に当たりて変通すべし。予が後の人も、又〔また〕予が学の未熟を補い、予が言行の後の時に叶わざるをばあらたむべし。大道の実義においては、先師と予と一毛もたがう事あたわず。予が後の人も亦〔また〕同じ。其の変に通じて民人うむ(倦む)ことなきの知〔ち〕もひとし。言行の跡の同じからざるを見て同異を争うは道を知らざるなり。 問う。何をか大道の実義という。 云う。五典〔ごてん〕十義〔じゅうぎ〕是〔これ〕なり。一事の不義を行い、一人の罪かろき者を殺して、天下を得〔う〕る事もせざるの実義あり。不義をにくみ悪をはづる(恥る)の明徳を固有すれば也。此の明徳を養いて日々を明かにし、人欲の為に害せられざるを心法という。これ又心法の実義也。先師と予とたがわざるのみならず、唐〔もろこし〕・日本といえ共たがうことなし。此の実義おろそかならば、其の云う所みな先師の言にたがわずとも、先師の門人にあらじ。予が後の人も、予が言を非とし用いずとも、此の実義あらん人は予が同志也。先師〔せんし〕本〔もと〕より凡情を愛せず、君子の志を尊べり。未熟の言を用いて先師を贔屓〔ヒイキ〕するものを悦ぶの凡心有るべからず。先師〔せんし〕存生〔ぞんじょう〕の時、変ぜざるものは志ばかりにて、学術は日々〔ひび〕月々〔つきづき〕に進みて一所に固滞せざりき。其の至善を期するの志を継ぎて、日々に新たにするの徳行を受けたる人あらば、真の門人成るべし。古〔いにしえ〕より、民〔たみ〕三つに生ず、父母生じ君養い師教ゆといえり。恩ひとしき故に、共に三年の喪をつとめき。予が先師におけるも、其の恩、君・父に同じ。子よく父の家を起こし、臣よく君の徳をひろめ、門人よく師の額を新たにせば、ともに恩を報ずる也。
2021年08月26日
一 心友問う。先儒(※陸象山)いえり、周子、無極にして太極といえるは非也。聖人の言に無極の語なし。此の無の字、老仏より出〔い〕で来たると。此の説面白く侍り。 云う。これ文字になづめり。易に太極ありと、是れ聖語にあらずや。易は変易〔へんえき〕にしてきわまりなし、きわまりなきは無極にあらずや。周子初めて無極の字をいえるといえども、無極は易の字の意なり。初めていえるにあらず。夫〔そ〕れ無の字何ぞ老仏より出でむや。老仏も本〔もと〕は聖学にとれり。上天の載〔こと〕は無声〔ぶせい〕無臭〔ぶしゅう〕といえり。仏語〔ぶつご〕は本〔もと〕梵字〔ぼんじ〕とて、日本のいろはの言葉のごとし。みな中国の字書をかりていえり。中国の字、異学より出づべき様なし。
2021年08月19日
一 心友、程子〔ていし〕敬の心法を問う。 答えて云う。言論の及ぶ所にあらず。書により言によりて敬する者は、多くは、敬というもの胸中にふさがりて、心の本然を失えり。個人の心と我が心と、心同じ相〔あい〕通じて自然に得〔う〕ることあり。これ力を用うるの功なり。我〔われ〕敬の心法をう(得)るとも、吾子にかたらば、子が心の一物とならむことを恐る。《いわゆる中は天下の大本なり。喜怒哀楽未発の時、この性〔せい〕渾然〔こんぜん〕として中にあり。心、散逸することあるときは、即ちその、主たる所以を失う。》(所謂中者天下大本也。喜怒哀楽未発之時、此性渾然在中。心散逸即失其所以為主。)これ説き得てよし。無物の敬を知るべし。 問う。事々物々の上に天然の中にありというものは、何ぞや。 云う。器物其の則〔のり〕を得たる中なり。飲食其の味を得たる中也。中は天下の大本也といえ共〔とも〕、充塞〔じゅうそく〕してあらずというところなし。其の体〔たい〕を中といい、其の用を和という。人の不動を立つといい、動〔どう〕を行うというがごとし。同じく一人の人也。百尺の木、根本より枝葉に至るまで、生意〔せいい〕一貫也。根の土中にあるを大本とし、枝葉を達道とし、土中にある生意を中とし、枝葉に有るの生意を和という。されどいまだ尽くせりとせず。木の木たるゆえんのものを中とし、特に発するものを和といはば可也。土根、枝葉、生意へだてなし。唯〔ただ〕中は見るべからず。和の跡は春花秋紅の節に当たりて見るべきのみ。 問う。中と仁はいかん。 云う。中〔ちゅう〕をいえば其の中〔うち〕にあり。仁をいえば中其の中〔うち〕に有り。古〔いにしえ〕の聖王を民の君師といえり。君たる所を見れば尊し。師たる所より見れば親し。ただ一人の聖主なるがごとし。 問う。仁と愛はいかん。 云う。仁は生理也、愛は生気也。仁は性なり、愛は情也。たとえば、木の根本より枝葉まで流通する生意は、気也。春花夏緑秋紅の時、白のあらわるるは情也。みな生気の変化なり。其の変化をなすゆえんの理〔ことわり〕は仁也。唯〔ただ〕、人は此の仁を得て明徳そなわれり。明らかにする時は己が有〔ゆう〕也。万物は明徳なければ、己が物とすることあたわず。仁中に造化〔ぞうか〕せらるるのみ。
2021年08月12日
一 朋友問う。我〔われ〕甚〔はなは〕だ不才なり。かくても学問成り侍〔はべ〕るべきや。学問し侍らば何事ぞの用にも立つべきや。学によりて才知の生まるる道理あらば学びたきことなり。 云う。よく学ぶ者は元来ありつる才知もかくれて(隠れて)なきがごとし。何ぞ学問によりて才知を生ぜんや。学は己が明徳を明らかにせんと也。才知ありて徳をそこなう者は多し。徳の助けとなる者は稀〔まれ〕也。学は天真のたのしみを求めむとす。才知は己が心をわづらわしめ、己が身をくるし(苦し)ましむ。学は斉家・治国・平天下の道也。才知は家ととのおらず、国おさまらず、天下〔てんか〕平〔たいら〕かならず。故に古人云う、つたなきは吉也、たくみなるは凶なり。拙〔つたな〕きは徳なり、巧〔たく〕みなるは賊〔ぞく〕也と。不才にして拙きは徳に近し、自然の幸〔さち〕也。才知有りて巧みなるは偽〔にせ〕に近し。一つの不祥なり。吾子〔ごし〕、天然の吉を得ながら、変じて凶となすべきことをねがえるは、まどいなり。学はかくのごとき迷いを解いて自〔みづか〕ら明らかにせんとす。世人〔せじん〕皆〔みな〕夭死〔ようし〕をいといて(厭いて)いのち(命)ながらからんことを思う。不才は命ながく才は命みぢかし。人みな労をいといて安〔あん〕を願えり。才は労し不才は休す。才知ある者は、己が身の凶をまねくのみならず、人の凶事をもあづかれり。深山の木も材あるは斧斤〔フキン〕の憂〔うれ〕え有り。不材の木は斧斤の禍〔わざわ〕いなくして其の天性を全〔まった〕くす。民にして拙〔つたな〕きは、其の農事をおさめて累〔わづ〕らいなし。才ある者は、庄屋となり肝〔きも〕煎〔い〕りと成りて人の為につかわる。武士にして拙き者は、武道のたしなみをよくして国の干城〔かんじょう〕と成るのみ。無事の時は、文を学びてみづからたのしみ、よき士と成りて他の労まったく累らいなし。才知ある者は、役義を命ぜられて一生いそがわし。武士なれども武業をたしなむべきいとま〔暇〕もなし。いわんや文徳をおさめんや。一生無知にして老衰の後悔益なし。 問う。此〔かく〕の如き道学、天下にひろまり侍らば、人みな不才をたのしまん。しからば、天下・国家・誰が是を治めんや。 云う。才知かくれて人民拙き時は悪なし。治めざるに平か也。悪の源〔みなもと〕は才知より生ず。至治の世、何ぞ才知を用いむや。 問う。堯舜文武の時代、五人九人の才臣有り。孔子も才かたしとの給えり。才を用いたるにあらずや。 云う。これ天下の才知を亡ぼして悪の源を絶つの才臣也。今の才というものにあらず。今の才は堯舜にありて用うる所なし。大才は刀のごとし。よくとぎて、つかさや(柄鞘)をし、昼夜身をはなたずといえども、一生用いず。威を以て無事也。小才は刀を朝夕に用うるがごとし。人をそこない身をそこないて無事なるいとまなし。今の才は小才也。朝夕いそがわしくて国家無事ならず、終〔つい〕には国やぶれ天下乱る。驥〔き〕は其の力を称〔しょう〕せずして、其の徳を称す。力は驥の才也。世に驥の力ある馬ありといえ共〔ども〕、驥の徳なければ、平馬にもおとれり。驥は力あまり(余り)有りといえども、無為にして幼童にもあつかわる、故に善馬の名あり。況〔いわん〕や人才有りて徳なきは妖物〔ようぶつ〕なり。不才の、徳に近きが、まされるにはしかじ。 問う。今〔いま〕家領〔かりょう〕なく田地なく金銀なき者は、つかえて才知を用いずなば、何をして父母妻子を養育し侍らんや。 云う。これ炎暑〔えんしょ〕甚寒〔じんかん〕にも塩菜〔しおな〕をあきなう者のごとし。貧しきがため仕えを求めて、己が天性によりて一役をつとむべきのみ。其の職事ととのわば(調わば)可なり。
2021年08月05日
一 心友問う。《孔子の曰〔のたまわ〕く、其の身正しければ、令せざれども行わる。其の身正しからざれば、令すといえども従わず。》(孔子曰、其身正、不令而行。其身不正、雖令不従。)*又〔また〕李康子が政〔まつりごと〕を問うて対〔こたえ〕て云〔のたまわ〕く、政は正也。子〔し〕師〔ひきい〕るに正を以てせば、孰〔いづ〕れかあえて正しからざらんと。又の給わく、子が不欲ならばこれを賞すというともぬすまじと。しかるに、後世は上〔かみ〕正しけれども下〔しも〕正しからざる者あり、上〔かみ〕不欲なれ共〔ども〕士は欲あり、下々は盗をすることやまざる者あるは、何ぞや。 云う。徒善〔とぜん〕は政〔まつりごと〕をするに足らずというもの也。悪なれ共〔ども〕、君の手に権威ある時は下したがうもの也。善なれども、君に権柄〔けんぺい〕威厳なき時は下したがわず。後世、君たる人、其の身正しく不欲なれども威なきは柔善なり。しかのみならず、政をするの道をしらず。この故に、正しく不欲なるは善なれども、其の化、士にうつらず、其の沢、民に及ばず。これ、気質の美にして、道徳より出〔い〕でたるものならざれば也。道徳に得たるものは、善にして威あり。又善をほどこすの道をしれり。故に、其の徳儀、士大夫にうつり、其の徳化、民庶に及ぶものなり。故に孔子〔こうし〕曰〔のたまわ〕く、君子の徳は風也。小人の徳は草也。草に風をくわうれば必ず偃〔ふ〕すと。故に君子の治世は殺を用いず。君〔きみ〕、威なければ殺すといえどもしたがわず、おそれざるもの也。其の上、君に威なき時は必ず下に威あり。下として上の威をうばう者は、必ず不善なり。不善なれ共〔ども〕威ある所にしがたうものなり。
2021年07月29日
一 心友問う。軍陣には必ず備えあり。かねて備えなき時は敵に逢〔あ〕いてやぶるることすみやか也。治国の備えは何にて侍るや。 云う。治国の備えは政〔まつりごと〕也。政をば孔子既にのたまえり。食を足し、兵を足し、信ある之の三なり。食足らざるときは士は貪り民は盗す。争騒〔そうしょう〕やまず、刑罰たえず。上〔かみ〕奢り下〔しも〕諛〔へつら〕いて風俗いやし。盗をするもの彼が罪にあらず。これを罰するは、たとえば雪中に庭をはらい、粟〔あわ〕をまきてあつまる鳥をあみするがごとし。教えずして殺すだに不仁也。況〔いわん〕や民を死地にかりおとし入るるをや。上に立つ者用たらざれば下をむさぼる。下困窮すれば上をうらむ。これ逆乱の端〔たん〕なり。戦陣をまたずして国やぶる(破る)べし。兵を足すにいとまあらず。況や信の道をや。 問う。食を足すの道いかん。 云う。上〔かみ〕恭倹にして威厳ある時は、大夫・士むさぼらざる(貪らざる)をたからとす。民は己が力によって五穀生ず。工・商は粟〔ぞく〕にかえて食す。年貢をとること甚だすくなければ、民〔たみ〕遊楽を好みて耕作の事におこたる(怠る)ものなり。甚だ多ければ、飢寒〔きかん〕を憂えて力たらず。おこたらずうえざる時は、五穀の生ずること限りなし。食たり(足り)、士・民ゆたかにして武備なき時は又乱る。故に武芸のすぐれたる上手〔じょうず〕を招きあつめて、常に弓馬をならわし、士の筋骨をつよくし、間〔かん〕(※勘)よき馬の生ずるにし、弓うち・矢師〔やし〕・矢の根かぢ(鍛冶)・鑓刀〔やりかたな〕のかぢ・とぎ屋・具足屋・鑓屋〔やりや〕・しろがね屋・さやし(鞘師)・塗師屋〔ぬしや〕・鞍〔くら〕鐙〔あぶみ〕轡〔くつわ〕切付屋〔きりつけや〕・はりこ(張子)屋のたぐい、すべて武具の細工人を多く置きて、軍用に事かけざる様にするを、兵を足すという也。士・民共に無病にして気血すくやかなる政教をなすこと第一也。信ある之は、天道は誠也、其の誠を本心として生まれ出〔い〕でたる人なれば、其の元本の誠を思いて失わず、邪なく偽りなく、厚き風俗をなす教えなり。此の信の中に仁義礼知の性理はふくみてあり。人といえば耳目口鼻の備われるがごとし。民というはすべて位なき者の惣名〔そうみょう〕也。つかえざるの士・工・商、尤も其の中にあり。庶人だにあるに、まして庶人を教え治むる人はいうに及ばず。天下・国家の政道のことなれば、礼法の事をの給うべきことなるに、信とのみのたまいて、礼儀法度に及ばざること尤も妙也。徳のおとろうるにしたがいて礼法しげきもの也。おさえてもおこり易し。ただ立ちがたきものは誠也。誠立たざるときは、聖人の礼儀法度全く備わるとも、何の益かあらん。五典十義は誠の条理也。風(※風俗)厚く事すくなき時は五倫よく相〔あい〕親しむ。此〔かく〕の如くしてのち、くわうるに礼楽を以てすべし。「絵の事は素〔ソ〕におくれたり、礼は後か」のこころ也。天下・国家、飲食衣服備わり足りて、武具おおく武芸達者にて、誠の道明らかにしてまどいなく、君臣相和し、父子相親しみ、夫婦別あり、兄弟序あり、朋有(友)相ゆづりて訴訟なくば、乱を願うとも得べからず。 問う。信は本〔もと〕也。第一にの給わずて第三にの給うは、何ぞや。 云う。これ政〔まつりごと〕の次第也。人〔ひと〕生まれて、飲食あらざれば、長ずることあたわず。故に最初にの給えり。兵具にあらざれば、禽獣、人に交わり、強弱〔きょうじゃく〕相〔あい〕凌ぎて静かならず。知を上にし愚を下にするの備えなり。故に次にの給う。赤子、母の胎内を出でて一声なきはじむる所に、即ち天真存す。父母の赤子を養育するも、あはらずといえども遠からざるの誠によれり。信あり之は、此の天性を人欲のためにそこなわざるのみ。故に終りにの給う。故に、此の三つの大事をのぞくに至りては、已〔や〕むを得ずしてやむる時は、兵を去るべし。信ありて衆〔しゅう〕和する時は、杖を以ても堅甲利兵に勝つべき理〔ことわり〕あり。又已むを得ずして二つの大事を去るべき時は、食を絶ちてうえて死すべし。天下の人一時に死して天地やぶるるとも可也。信なく禽獣と成りて生くべき義なし。故に、順にして義に害なき時の政〔まつりごと〕は、食を足すを先とす。恒〔つね〕に産〔さん〕なくして恒の心あるものはすくなし。是〔これ〕もまた誠を立つるの備えなり。又逆にして、義に害ある時は誠のみのこり持つ。人の命ある、おのづから此の次第なり。食によりて成長し、兵を持して生を全くし、天下を警固す。信の道を立てて人の義を行う。其の老衰に及びては力つきて兵さり、食〔じき〕咽〔のど〕にくだらずして死す、亡びざるものは誠のみあり。子貢〔しこう〕にあらずば、此の問いをまうくること有るべからず。孔子にあらずば、此の答えあらじ。天下の政道、治乱得失、ただ此の三の大事の存亡によれり。一つもかけては(欠けては)国其の国にあらず、天下其の天下にあらず。易簡にして明白也。 問う。後世、豊年ありて食〔じき〕足る時は士困窮し、凶年にして食足らざる時は民〔たみ〕餓え、上下かわるがわる苦しみて、位づめに乱世と成るものあるは、何ぞや。 云う。此れそのより来〔きた〕る所〔ところ〕余多といえども、其の大本三つあり。一つには、大都・小都共に河海の進路よき地に都〔みやこ〕するときは、驕奢〔きょうしゃ〕日々に長じてふせぎがたし。商人富みて士貧しくなるものあなり。二つには、粟〔ぞく〕を以て諸物にかうる事次第にうすくなり、金銀銭を用うること専〔もっぱ〕らなる時は、諸色(※諸物)次第に高直〔こうじき〕(※高値)に成りて、天下の金銀商人の手にわたり、大身・小身共に不足するものなり。三つには、当然の式(※礼式)なき時は、事しげく物多くなるもの也。士は禄米を金銀銭にかえて諸物をかう。米粟〔べいぞく〕下直(げじき)にして諸物高直なる時は用足らず。其の上に、事しげく物多きときはますます貧乏困窮す。士〔し〕困〔こん〕ずれば民にとること倍す。故に豊年には不足し、凶年には飢寒に及べり。士・民困窮する時は、工・商の者粟にかうべき所を失う。ただ大商のみますます富有になれり。これ、財用の権、庶人の手にあればなり。夫れ国君世主はかりそめにも富貴 の権 を人にかすべからず。富貴 の権 を人にかすときは、権を失いて国亡び天下乱る。天下乱るる時は商の富みは身のあだなり。虎は皮に文〔あや〕ある故に田猟〔でんりょう〕の災いをいたし、商は金銀多きが故に盗賊の奴〔やつこ〕となり、或いは命を失えり。草木の情なきだに時ありて落葉枯槁す。物の盛衰は物の自然也。況や己が利を専らにし、衆の苦しみをなす者、何ぞ久しかるべき。
2021年07月22日
一 心友問う。顔子、仁をとえば、孔子、非礼、視聴言動せざれとの給う。少し道徳の学に志すものだに、好みて物の見聞言行することはし侍らず。顔子の大賢にして此の受用を事とするは、何ぞや。 云う。其の位々〔くらいくらい〕の非礼あり。常人分上・学者分上の非礼あり。進みて美人(*)・大人の分上の非礼あり。聖人に至りて初めて非礼なし。顔子聖人に及ばざること一等なり。故に聖人に至るべき所をの給えり。礼というは、天理流行してしばらくやまざるところなり。《易に云〔いわ〕く、天行健なり。君子、以〔もち〕いて自ら強〔つと〕めて息〔や〕まず》(易云、天行健。君子以自強不息)といえり。天行、健かなるは、礼の体(※本質)なり。君子、用いてみづからつとめてやまざるは、非礼なき也。心上はいうに及ばず、視聴言動のかろきことにも、須臾〔しばらく〕もはなるる所あるは、顔子分上の非礼也。三月仁にたがわずといえるも、四時みな三月につれてうつれり、故に三月というは年中の事也。年中たがわざればたがうことなし。しかれどもいまだに心ありてつとむる故に、三月の字あり。無心にいたらざれば、至誠の息〔や〕む無きにあらず。顔子は聖人に近し。一時化するときは則ち聖なり。これ此の語の事とする所也。 問う。聖人にも戒慎〔かいしん〕ありや。 云う。あり。 問う。しからば、無心というべからず。 云う。戒慎則ち自然に出でて、時として戒慎せずということなし。即無心也。いまだ心あれば時として須臾〔しばらく〕の息〔や〕むなきことあたわず。無心に至りて初めて息むなし。自ら強〔つと〕むは己に克つ也。息まざるは復礼也。用いて自ら強めて息まざるときは、天行健かに合す。吾が心気〔しんき〕造化と一つ也。故に、天下吾が仁内〔じんない〕にあり。春夏秋冬・日月星辰・寒暑風雷・雨露霜雪・土地山沢河海、ことごとく吾が身に備わらざるものなし。これ天下仁に帰するなり。 *『孟子』「盡心下」 《浩生不害〔こうせい ふがい〕問うて曰く、 樂正子〔がくせいし〕は何人〔なんびと〕とぞや。 孟子曰く、善人なり、信人なり。 何をか善と謂〔い〕い、何をか信と謂ふ。 曰く、欲すべき之を善と謂い、諸れを己に有する之を信と謂い、 充實する之を美と謂い、充實して光輝ある之を大と謂い、 大にして之を化する之を聖と謂い、聖にして之を知るべからざる之を神と謂ふ。 樂正子は二の中〔ちゅう〕四の下げなり。》 (浩生不害問曰 樂正子、何人也。孟子曰、善人也、信人也。 何謂善、何謂信。曰、可欲之謂善。有諸己之謂信。 充實之謂美。充實而有光輝之謂大。大而化之之謂聖。 聖而不可知之之謂神。樂正子二之中、四之下也。」 Hao Sheng Bu Hai asked, saying, 'What sort of man is Yue Zheng?'Mencius replied, 'He is a good man, a real man.''What do you mean by "A good man," "A real man?"'The reply was, 'A man who commands our liking is what is called a good man. He whose goodness is part of himself is what is called real man. He whose goodness has been filled up is what is called beautiful man. He whose completed goodness is brightly displayed is what is called a great man. When this great man exercises a transforming influence, he is what is called a sage. When the sage is beyond our knowledge, he is what is called a spirit-man. Yue Zheng is between the two first characters, and below the four last.' Pre-Qin and Han -> Confucianism -> Mengzi -> Jin Xin II, 71 https://ctext.org/mengzi/jin-xin-ii
2021年07月15日
一 心友問う。《礼の用は、和を貴〔たっと〕しと為す》(礼之用、和為貴)と。此の用は体用の用〔よう〕共〔とも〕いい、用いるところの用ともいえり。惣〔そう〕じて此の章受用に心得がたし。 云う。礼の用は礼の行わるる所也。礼いたづがわしき(煩しき)時は必ず乱〔みだ〕るといえり。和を知らざればなり。夫〔そ〕れ礼は恭倹を尊ぶ。易簡にして時・所・位〔くらい〕に応ずる時は、和ありて行い易〔ヤス〕し。天は易〔イ〕を以て知〔チ〕なり。地は簡〔カン〕を以て能〔ノウ〕なり。天地上下の位〔くらい〕定まるは礼なり。易簡の善は和なり。易なる時は知りやすく、簡なる時はしたがいやすし。知やすき時は親しみ有り。したがいやすき時は功〔こう〕あり。これ、日月のかわるがわる明らかに、四時運行してやまず、天道の悠久にして無窮なる所也。礼楽の本なり。人事、和に専らなれば流れやすし。故に礼を以て節すべし。礼節なければ和も又とげがたし。礼節過ぐる時は煩〔いたづがわ〕しくして又乱る。故に礼楽たがいに其の根をなす。陰陽動静の理〔ことわり〕なり。先王の道・天下の事、大小となくこれによらずということなし。夫れ礼は上を安んじ下を治むるの備えなり。しかれども、古今人情、事変の異成〔ことな〕る事あり。《易〔えき〕に云く、黄帝堯舜、衣裳を垂れて天下治る。その変に通じて、民をして捲きまざらしむ。》(易云、黄帝堯舜、垂衣裳天下治。通其変、使民不捲。)衣裳をたれて天下治むるは、無事の至極なり。其の変に通じて人の退屈せず、礼法にくるしまず、いとうことなき様にし給うは、よく時と人情とをつまびらかにし給えばなり。即ち是〔こ〕れ和を貴しとするの義なり。
2021年07月08日
一 心友問う。仁の理は孔子といえども一言にして説き尽し給うことあたわざるにや。門人の問いに答え給う所皆かわれり。 云う。仁は全徳の名也。門人に答え給うは、其の心の位〔くらい〕によりて徳の入るべき端〔たん〕をのたまえり。《子の曰〔のたまわ〕く、如〔も〕し王者あらば、必ず世にして而して後仁ならん》(子曰、如有王者、必世而後仁)と。是〔これ〕恩沢〔おんたく〕のあまねく天下に行わるるを以て仁政とするの義也。吾が心、太虚天地の間において通ぜざるところあるは、未〔いま〕だ仁と云うべからず。 問う。しからば、天地万物の理〔ことわり〕、事々物々にしてこれをきわむべきか。 云う。さにはあらず。時々物々の理を知るというとも、吾が心、時々物々の上において好悪〔こうお〕する所ある時は、仁にあらず。ただ天下において好悪するところなく、義と共にしたがって無心なる時、初めて仁なるべし。医書に手足のしびれなえたるを不仁という、よく形容す、といえり。気通ぜずして人のはたらきならざるところにあれば也。富貴貴賤・死生寿夭・夷狄〔いてき〕患難、入るとして自得せずということなし。天の陰陽、人生の順逆、みな吾に備われり、何の好悪をする所あらんや。わづかに好みてねがい悪〔にく〕みてさくる(抉る/刳る)心あるは、一貫ならず、義と流行せず。これ不仁なり。
2021年07月01日
一 学友問う。君子の、父母を祭祀する心、いかむ。 云う。君子は幽明、人鬼にくら(暗)からず。故に死生一貫してへだてなし。ただ明々たる心ばかりなり。この故に、孝子の心に親を死せりとせず。祭る時には何の心もなし、至誠を尽くすのみ。 一、 心友問う。和書(※『集義和書』)の前言、多くけづりすて給えり。五三年過ぎなば、又けづり度〔たく〕思い給う章、有るべきか。 云う。残る章、今も半〔なか〕ば心にみたず。しかれども、人により迷いをとくべきことあればけづらず。後世のそしりは眼前に見ゆれども、今の人の迷いをとくべき事は今日の天職なり。時、文明の運当りて、人心の闇昧〔あんまい〕をひらくは、少し天恩に報ずるなり。是〔これ〕を以て、よ(世)のそしり(誹り/謗り)をかえりみず。
2021年06月24日
一 心友問う。天下・国家の存亡長短治乱のかかる所の重きものありや。 云う。品々あり。一つをあげていいがたし。しかれども、天下・国家の興起し治平して長久なる大本〔たいほん〕一つあり。此の本〔もと〕存するときは吉なり。此の本〔もと〕亡〔ぼう〕する時は凶也。君及び執権の大臣、善を好み賢を親しむ時は、君子位にあり、小人野にあり。君子進み小人〔しょうじん〕退〔しりぞ〕かば、国家・天下亡びんこと願うとも得べからず。三皇・五帝・三王の代に興起し治平せし、其の同じき所の大本なり。礼楽法度は時によりてかわりありといえども、君子進み小人退くの治根においてはかわりなし。これにそむくものは、治平なる国・天下も亡びにおもむく事すみやかなり。徳を知らざる人は、君王・大臣といえども、みづから其の知を足れりとして善言をこのまず。随分我が才知・勇力を以て国・天下をよくせんとおもいて、賢知の者を近づけず、実義の士・有道の君子を遠ざくる時は、媚びへつらう者すすみいたりてほめあぐる故に、いよいよ予〔われ〕知ありと思う意思長じぬ。其の間に国家・天下の根本くづれて、人情そむきぬる事を知らず。すでに乱逆に及びては、おどろくといえどもかえるべからず。《孟子曰く、魯、楽正子〔がくせいし〕をして政〔まつりごと〕を為さしめんと欲す。吾これを聞きて喜びて寐〔い〕ねられずと。公孫丑〔こうそんちゅう〕が曰く、楽正子は強なるかと。[孟子]曰く、否と。[丑曰く]知慮あるかと。[孟子]曰く、否と。[丑曰く]聞識〔ぶんしき〕多きかと。[孟子]曰く、否と。[丑曰く]然らば則ちなんすれぞ喜びて寐ねられざるやと。[孟子]曰く、その人と為りや、善を好むと。[丑曰く]善を好まば足るかと。[孟子]曰く、善を好まば天下に優〔ゆとり〕あるなり。しかも況んや魯国をや。それいやしくも善を好むときは、則ち四海の内、皆、まさに千里を軽〔かろ〕しと来たりて、これを告ぐるに善を以てせんとす。それいやしくも善を好まざるときは、則ち人まさに曰わんとす、「訑々として、予すでにこれを知れり」と。訑々の声音顔色は、人の千里の外を距〔はば〕む。士、千里の外に止〔とど〕まるときは、則ち讒諂〔ざんてん〕面諛〔めんゆ〕の人至る。讒諂面諛の人と居るときは、国治まらんと欲するも得べけんやと。》(孟子曰、魯欲使楽正子為政。吾聞之喜而不寐。公孫丑曰、楽正子強乎。曰、否。有知慮乎。曰、否。多聞識乎。曰、否。然則奚為喜而不寐。曰く、其為人也好善。善好足乎。曰、好善優於天下、而況魯国乎。夫荀好善、則四海之内、皆将軽千里而来、告之以善。夫荀不好善、則人将曰、訑々予既已知之矣。訑々之声音顔色、距人於千里之外。士止於千里之外、則讒諂面諛之人至矣。与讒諂面諛之人居、国欲治、可得乎。) 魯国に孟子の弟子楽正子をあげて政〔まつりごと〕をなさしめんというをききて、孟子大いに悦びて夜もいねられぬとなり。かならずよき士〔し〕余多〔あまた〕出〔い〕で来て民安かるべしとおもい給えばなり。公孫丑これを不審して云う、楽正子は強力にしてよく事をつとむるに退屈せざる人か、知慮〔ちりょ〕分別〔ふんべつ〕ありて事の裁判をよくすべき人か、古今人情時変の来歴くわしくききしる人の多き人か。政をする才は、是等の備えなくては叶うべからず。尤も大方は此の才なくても、政にあづかれ共〔ども〕、それ故よからず。楽正子は左様の才ある者にてはなきをと、不審に思いて問うなり。孟子の答うるに此の才なしといえり。公孫丑、しからば、政をなさしむるともよくは成るまじきを、何ぞ悦びて寐ねられざるやと、おし返して問えるなり。孟子云わく、楽正子は善を好む者也。公孫丑、善を好むばかりにて大〔おお〕いに国の治まらむ事はかたがるべきとおもえり。世間のよき事ずきというものあり。世に善柔〔ぜんにゅう〕の人なり。さ様〔よう〕の類〔たぐい〕と思えり。天真・異道のわきまえなく、よき事とだにいえばこのみしたがう者あり。此〔かく〕の如きの人は、政には却って害になるものなり。事はよくても、時・所・位に叶わざれば、人情にもとりて、よき事と云うも、出でざるにはおとるものなり。楽正子の善を好むと云うは、左様の事にはあらず。凡情の我慢なき故に我是〔がぜ〕を立てず、人の善なるを悦び好〔よし〕みてそねまず。徳性を尊〔たっ〕びて問学によるの功にて、真知明らかなれば、正邪おのずからよくわかれり。事の時・所・位に叶うと叶わざると、善の天真に応ずるか跡になづむかの分別は、鏡に美悪〔びあく〕をうつすごとくわきまえしる也。えらぶ事は我が心にあれども、仁厚温和にして善を好み、人のいさめを悦ぶ故に、人、路次の遠きをも苦労とせず来たりて善を告げしらす。下々〔しもじも〕の情は、上の立つ人のあまねくしらざることなれば、思いよらぬ人情などを知りて、政令みな其の可〔か〕にあたる故に、天下の人民、政道にうむことなく、善をするにいさむなり。天下の人、善をするに進む時は、悪はおのづから亡びぬ。天理・人欲並び立たざるの気象は、訑々として声音顔色たかく、賢人知者をば千里の外にふせぎ、諌めを拒む意思あり。善人こばまれて退きかくるる時は、小人時を得て、いよいよ賢知を悪口〔あくこう〕し、うとましめ、媚〔こ〕び諂〔へつら〕う人のみ前後左右にみてり。もしいさめ(諌め)がましき事をいいて心をつくるも、上〔かみ〕の心に叶うべき所をはかりていえり。ただ目の前の間〔ま〕をわたすばかりにて、終りの治平の用には立たず。上たる人に剛悪あれば、位づめに亡ぶるなり。 問う。しからば、善を好むにも道ありや。 云う。あり。《孟子の曰く、古〔いにしえ〕の賢王は、善を好みて勢を忘る。古の賢士、なんぞ独り然らざらん、その道を楽しみて人の勢を忘る。故に、王公も敬を致し礼を尽くさざるときは、則ち亟〔しばしば〕これに見〔まみ〕ゆことを得ず。見〔まみ〕ゆることすら且つ猶お亟〔しばしば〕するを得ず、しかるを況んや得てこれを臣とすることをや。》(孟子曰、古之賢王、好善忘勢。古之賢士、何独不然、楽其道而忘人之勢。故王公不致敬尽礼、則不得亟見之。見且猶不得亟、而況得臣之乎。) 古の聖王賢者は、聖知の人あるを聞き給いては、みづからの位〔くらい〕も勢いも忘れたるごとく、へりくだりて礼をあつくしまねき給えり。執政大臣たる人も猶〔なお〕しかり。これ善を好むの道なり。みづから徳を尊び道を重んずる故なり。善を好むの至極なり。王公〔おうこう〕位〔くらい〕をさしはさみ、大臣権勢をほこりて、賢知にくだらざる時は、善人・義士・皆野にかくれてしられず。讒諂〔ざんてん〕面諛〔めんゆ〕の人は、利を好むばかりなれば、無礼をいとわず、いよいよ君臣の悪をますもの也。賢士は、道徳を楽しみて人の勢いを忘れたる者なれば、王公といえども、敬をあつくし礼を重くし給わざれば、其の知力を尽くさしむ事能わず。賢士悦ばずして知力を尽くさざる時は、ありとてもなきがごとし。後世、善を好むの君臣ありといえども、勢いを忘れ賢士を敬するにはいたらず。故に善も益なし。
2021年06月17日
一 心友問う。孔子、東山に登りて魯国を小〔すこ〕しきなりとし給い、泰山に登りて天下を小しきなりとし給う。居〔お〕るところは益〔ますます〕高きときは、其の下を見ること益〔ますます〕小しきなり。見るところ既に大なる時は、其の小しきなるもの観るに足らずといえり。学術かくのごとくならば、高慢となるべきか。 云う。高慢は、心せばく(狭く)見る所小しきが故なり。高慢の者は必ず胸中くらし。道の広大にして理〔ことわり〕の無窮なるを知るときは、自らたれり(足れり)と思うことなし。日〔ひ〕に新たに日に日に新た也。予、むかしより、国家・天下のふさがり通ぜざるを聞きては、気の毒にも笑止にもおもいて、道行われば上安く下ゆたかなるべきものと願いしを、近此〔ちかごろ〕、其の非をさとりしなり。五島・対馬の小島に生まれそだちて、小〔すこ〕し知見のある者は、其の島中のよくおさまらむことを願うべし。其の者を京・江戸に出〔い〕だしなば、日本国中の長久を思いて、五島を忘るべし。大明〔たいみん〕の臣とせば、大国の治乱を心にかけて、日本を忘るべし。死して陰陽の神となりては、普天〔ふてん〕率土〔そつど〕の造化を助けて、東夷・南蛮・西戎〔せいじゅう〕・北狄〔ほくてき〕の一方、百年の治乱のみを心とせじ。太虚に帰せば十二万九千六百歳を一歳として、天地の寿〔コトブキ〕をみじかしとせん。何ぞ、日本の小国に生まれて、わづかに五十年の命数の間に見る処を悦び憂えむや。しかれども、理に大小なし。一体の仁〔じん〕感じて惻隠の情〔じょう〕発するは已む能〔あた〕わず。然れども、しいて思うは非なり。畢竟、吾人の位を位をこえて政道のことを思うは、勢い(※権勢)を忘れざる凡情よりおこれり。《孟子の云く、古の賢王は、善を好みて勢いを忘る。古の賢人、何ぞ独り然らざらん、その道を楽しみて人の勢いを忘る。故に、王公も敬を致し礼を尽くさざるときは、即ち亟〔しばしば〕これに見〔まみ〕ゆることを得ず。見ゆることすら且つ猶お亟するを得ず、しかるを況〔いわ〕んや得てこれを臣とすることをや。》(孟子云、古之賢王、好善而忘勢。古之賢人、何独不然、楽其道而忘人之勢。故王公不致敬致礼、即不得見之。見且猶不得亟、而況得而臣之乎。》いにしえの聖王賢君は徳を尊び道を楽しび給う。故に、みづから富貴をば物ともし給わず。君子の富貴は、ひろく衆をすくい教えをほどこすに重宝なるばかり也。故に、善人を好〔よみ〕ししたい(慕い)給うに当たりては、位をも忘れて礼を重くし給えり。後世徳を尊ぶの道すたれたる時には、奇特〔きどく〕なる事の様〔よう〕に思えども、根本天下の達尊三(※爵・歯・徳)の中にても、徳は天爵なり、位〔くらい〕は人爵なり。古は、天爵を得たる人に人爵をもあたえたれば、徳は位の本〔もと〕にして二つにあらず。老(※三達尊の「歯」)を尊び養うことも、天爵・人爵かねたる賢君ありて後行なわるることなり。しかれば、三達尊も徳なければ残り二もむなし。賢王、下にある賢者を見給いては、位・威勢共に忘れて礼を重くし給うこと必然の理なり。君王の御子などの、民間におちぶれてしられざるを、見付け奉りたると同じ。天爵のある人賤しき中に居〔い〕給うをおどろき給えばなり。賢徳ある人の、民間に居て人の勢いを忘るることは、天を楽しび命〔めい〕を知るゆえなり。畎畝〔けんぽ〕の中に居て堯舜の道を楽しび、其の位に素して行ない其の外〔ほか〕を願わざるなり。一治一乱は、気化の盛衰あり、人事の得失あり。反覆〔はんぷく〕相〔あい〕尋〔つ〕ぐのは理の常なり。富貴貧賤の、上は下へうつりかわるは、寒暑の往来するがごとし。賢士これを見て何の心もなし。故に、王公も敬をいたし礼を尽くさざれば、切々〔せつせつ〕相〔あい〕見〔まみ〕えて其の言を聞くこと能わず。上より求め給うだにも召すこと能わず。いわんや我より上に求めむべけんや。何ぞ国・天下の得失を心とせんや。吾人共に少し問学ある者の、天下・国家を憂うるは、惻隠の心をえぼうし(烏帽子)に着て(※大げさに誇張して)、凡情の主たるなり。しかのみならず、みづからの性命の分を知らず、天命の勢いを知らず、わづかに古昔〔いにしえ〕の事を聞きては今を非とし、これを以て変ぜんことを思えり。甚だ非なり。其の愚を知らざる者はあやうし。
2021年06月10日
一 心友問う。冉求〔ぜんきゅう〕、季子〔きし〕が家臣と成りて、民よりとる所ますます多しといえり。孔門の高弟なれば、後世のごとく、不仁にしてせめとる事は、よもあらじと、思われ侍るに、孔子、其の罪をならしてこれを責めよと、の給〔たま〕えり。我等がごとき浅学不徳の者だに、さはあるまじき事なるを、心得がたき侍り。 云う。よき不審なり。後世の様に民をしいたげて(虐げて)とりたるにはあらず。其のはじめにすくなく出〔い〕だしたるよりも、民はゆるゆるとして、物成は多くとりたるなり。民も悦び地頭も満足する事なり。 問う。しからば、孔子何として甚だしくせめ給うや。多くとりては民の為によきことあるまじきとおもわれ侍り。 云う。不審尤もなり。凡夫は、才知かしこけれ共、欲ふかく実のくらき所あり。其の上、物の筋道をしらざる故に、財用のわき出づる道を知らず。多くは誰〔た〕がためにもならず、費〔つい〕えてすたるもの也。古〔いにしえ〕は農兵なりし故に、ゆよきという分にても、十にして二とりたり。民の得分〔とくぶん〕八の中三ほどは、中についえてすたるべし。仕置きをよくせば、其の三のすたりなく、一を上へまし二を民にますべし。故に、主人満足し民悦ぶなり。上下の為によけれども、孔子の責め給う主意は、季子、道に志あり。仁政を行わむとする者ならば、費〔つい〕ゆる物を上下にあたえて、仁政の助けとすること尤もなり。季子は仁義を知らず、ただ利をのみこのめり(好めり)。しかるに、いよいよ富まして其の利心を助け、奢りを長ずるは僻事〔ひがごと〕なり。其の上、悪を後にのこす道理あり。冉求〔ぜんきゅう〕裁判〔さいばん〕の間はよかるべし。奉行かはりなば上へましたる所は其のままにて、下についえ又むかしにかえるべし。しからば民のいたみ初めに倍すべし。これ悪をのこすなり。君子は人の悪をのこさざるものなり。故に孔子深く歎〔なげ〕き給〔たも〕う也。
2021年06月03日
一 心友問う。《孟子の曰く、政〔まつりごと〕を為すこと難〔かた〕からず、罪を巨室〔きょしつ〕に得ざれ。巨室に慕〔した〕う所は、一国これを慕う》(孟子曰く、為政不難、不得罪於巨室。巨室之所慕、一国慕之)といえり。古今、国・天下共に、王代も武家も、君をないがしろにして権威をとり、或いは国を奪いなどする者は大家〔たいけ〕なり。君たる人、知なく勇なく、うちまかせ(打ち任せ)はからわする(計らわする)時は、大臣の心に叶うべし。しかれ共〔ども〕、君の有りてなきがごとし。終〔つい〕には、国・天下を失うに至るべし。君に知勇ありて君の位〔くらい〕を持〔たも〕ち給わば、今の大家は皆〔みな〕損するに近し。しからば、大家は道ある事をにくむべし。大臣、何ぞ悦服〔えっぷく〕すべきや。 云う。徳を行わずして力と才覚とを用いなばさあるべし。古今、不徳の君、大臣の威勢をふうるをにくみ、力を用いて俄〔にわ〕かに其の位をおとさむとす。小知の小臣これをすすむる者あり。君、小臣と心をあわせて変ずる所の政〔まつりごと〕、大臣の無道なるにさのみかわらず。東に滅して西に生ずるのみ。しかのみならず、本〔もと〕よりの役人は恨みをいだき引き入り、新しき役人ときめきなどす。共に凡夫なればかわることなき中に、人のうらみを取り、損をます(増す)ことなり。其の上、人情は筋目(※家筋・家系)と位の備われることを尊ぶものなれば、同じ道なきにては、世臣〔せいしん〕(※譜代の臣)のなす事をうらみず。無理とおもう事にも、より子(寄子)の筋目・出入りの子孫などはしたがうものなり。さなき人も威勢におされて口舌〔くぜつ〕なし。今出頭〔いましゅっとう〕にはむかしよりのよしみもなく備わりもなし。却ってそねむ人々あれば、事はよくしても心服せざるものなり。ましてかわらざる事の少〔すこ〕しよきというばかりにては、人心もとりそむけり。もし君に大力量達才ありて下知〔げち〕し給わば、本〔もと〕より主君なり。大家は傍輩〔ほうばい〕なれば、おなじ事のすこしあしきにては君のしたがうことあるべし。されども君一人にして主にもなり、臣にも成りて、下知はならざるものなれば、かならずたすけの出来出頭〔できしゅっとう〕(※今出頭)あるものなり。小臣だにかくのごとし。国のあやうき事は、大家の威をとりたるも、主君みづから下知し給うも、かわる事はなきものなり。たとい今の権威をとり過ぎたる大身〔たいしん〕なりとも、俄かに威をおとし恥辱をあたうることなく、君たる人、みづからの徳を明らかにし行ないを慎みて、大臣の恥〔はじ〕恐るる様にし、君の威をうばえるは大なるあやまりなり、臣の道を尽くしてこそ名をもあぐるべきことなれと、仁愛ふかく教えみちびき、是非利害を明らかに得心させ、我が方より欲を損し徳をます様にし給わば、巨室必ず心服し向かうべし。本よりよからぬにだに、士・民ともに久しくしたがい来〔き〕たりたる大家なれば、君の徳をあうぎ(仰ぎ)、同徳(※徳を同じうし)にて助けとならば、真〔まこと〕に沛然〔はいぜん〕としてふせぐ事なかるべし。 問う。君の教えにもしたがわざる無道人ならば、いかが。 云う。さほどの悪人は、国人ともに常にうとみ(疎み)はてしものなれば、これをすてても可なり。其の上、君の道正しく仁至りて、したがわざるものならば、士・民みなにくむべし。憂うるに足らず。 問う。君は禄を与うるだに、士・民服しがたし。大家は禄もあたえざるに、士・民したがうは、何ぞや。 云う。君は遠くして尊し。故に親しからず。何事もかくれて過〔す〕ぐし易し。大臣は尊〔とおと〕けれども下に近し。少しの事もしられ易し。故に恐れはばかるものなり。しかのみならず、君臣ならざれば親しき交わりも有り。賞罰ともに大臣の取りなしにかかる所あり。故に、諸人信を取りて服するものなり。この故に、大臣賢なれば国・天下の治〔おさま〕る事すみやか也。古〔いにしえ〕の聖主といえども、賢臣を得てあまねく行〔おこな〕わるる所なり。
2021年05月27日
一 心友問う。告子〔こくし〕曰〔いわ〕く、性に善無く不善無しと。又〔また〕先儒曰く、善無く悪無きは心の体〔たい〕と。此の二説は其のかわりなきがごとし。孟子は性善なりといえり。心の本体は無声〔ぶせい〕無臭〔ぶしゅう〕といえる時は、性善ともいいがたかるべきか。三説の異なる所、性善の無声無臭に叶う処の道理、いかむ。 云う。告子が性に善無く不善無しといえる主意は、非なり。生これを性というの心と同じ。気の霊覚を見て理〔ことわり〕の霊明を知らざるが故なり。善無く悪無きは心之体といえるは、又告子が旨には異なり。心の体は虚霊〔きょれい〕不昧〔ふまい〕なるものなれば、ただ悪なきにのみにあらず、善という物も亦〔また〕なし。しかれども、性は心の本然なり。性の感通する跡を見れば、皆善にして悪なし。悪というものは人欲の私〔わたくし〕よりおこりて、性の感通にしたがわざるよりなるものなり。性のままにして、人欲の害するものなければ、其の事みな善也。孟子の性善といえる所なり。孟子も、性の本体に善という物ありといえるにはあらず。無声無臭の心の本体の、無思無為寂然不動にして、感じて天下の故〔こと〕に通ずる跡を見れば、みな善なり。其の跡の皆善にして悪なき道理を見て、性善の理を知るべし。
2021年05月20日
一 朋友問う。もろこし・日本共に、天下 世を奪う者は諸侯大名なり。あらそう者は高家〔こうけ〕の一門なり。君を殺しないがしろ(蔑ろ)にする者は大臣也。たとい暴君ありとも、乱世にはまさるべし。其の君なくては後はよかるべし。諸侯に大身〔たいしん〕なく、又ありとも、取り立ての人ばかりにし、一門に高家をおかず(置かず)、大臣に位禄なき様にせば、久しかるべきか。 云う。《孟子〔もうじ/もうし〕曰〔いわ〕く、入りては即ち法家〔ほうか〕・払士〔ひっし〕なく、出〔い〕でては即ち敵国外患なき者は、国、恒〔つね〕に亡ぶ。然る後、憂患に生じ安楽に死するを知る。》(孟子曰、入即無法家払士、出即無敵国外患者、国恒亡。然後知生於憂患而死於安楽。)法家は位禄重く作法正しく、継体〔ケイタイ〕の君、道を志す時は、師となり、無道なる時は、諌〔いさ〕む。きかざれども其の法を変ぜざるの大臣なり。代々の守りになり国と存亡する也。位禄かろくして叶うべからず。払士は君正しければ助けて善をなさしめ、君正しかざればいさめただすの賢士なり。敵国外患は必ずしも戦国の時にあらず。我おこたりあらば、其のよわみ(弱み)ついえ(費)に乗りて災いをなすべきものなり。さ様〔よう〕の者外にあれば、作法をつつしみ、政〔まつりごと〕をよくする故に、其の国長久なり。彼も其の善政に感じて帰服するはまことの心服なり。其の政よければ心服して外のまもりとなり、あしければ気遣いにしてつつしみとなる者は、我がとりたてならぬ代々の諸侯なればなり。天下の主〔しゅ〕のためにはこれほど重宝なる者はなし。凡情は、此〔かく〕の如きものをなくさば、心安くてよかるべしと思えども、君子はしからず。故に、先王、外に諸侯を立て置き給えり。秦の始皇、諸侯大臣なくば、万々歳吾が子天下の主たるべきとて、天下に諸侯一人もなくせしかども、天下を一統せし年より、二世〔にせい〕胡亥〔こがい〕三年、三世〔さんせい〕子嬰〔しえい〕四十六日にして漢の高祖に降りし年まで、わづかに十六年にして秦〔しん〕亡びたり。秦の始皇は、多くの大敵を亡ぼし、周の世をとりたるほどの大武勇・大力量の人なりしかども、外に気遣いなる者なき様にせしばかりにて、ほどなく亡びたり。高祖は、領地とては一尺の地も持〔じ〕せず、独夫の牢人〔ろうにん〕なりしかども、大秦の万々歳と期したる天下を亡ぼしたり。高祖は、賢人君子の徳もなかりしかども、外に諸侯を多く立て置き、内に大臣を備えおきて、四百年の天下を子孫に伝えたり。出でて敵国外患なき者は国恒に亡び、憂患ある者は生き、安楽なる者は死するの格言少しもたがわず。大身なるのみならず、小身といえども此の道理にはたがわざるなり。足利家の天下をとりしも、南帝おわします間は、よく慎みて家次第に盛大になり、内〔うち〕堅固なりしが、南朝を廃してより、政道におこたり驕奢生じ、一家まで心はなれて、天下の権を失いたり。もし其の時の大樹・老臣知あり学あらば、南帝をば馳走して成りともたて置き奉りなば、北朝の公家は徳を慎み給い、将軍家は政道を重〔おも〕むじて、公家も古風を失わず、足利も弥〔いよいよ〕根〔ね〕かたくなりて権を失い給わじ。しかるを南朝を亡ぼしなば気遣いなる事なく、万歳ならんと思い給いしは、無学不知の故〔ゆえ〕也。南帝も御和睦にて帰洛〔きらく〕し給わば、なきがごとくおしこめられ給うべき事は眼前なるに、同心ましまししは苦々敷〔にがにがしき〕事なり。
2021年05月13日
一 或る学者問うて云う。今の仏者は貴人の師なり。しかも出家は下〔しも〕をへ(経)て民の困苦をしれり。何ぞ貴人に説きて仏の済度〔サイド〕利生〔りしょう〕の道に叶わざるや。歳の十一月には徒杠成〔トコウナル〕。周の十一月今の九月なり、徒杠はかち(徒・徒歩)よりゆく者のわた(渡)るはし(橋・梁)なり。十二月に輿梁成〔よりょうなる〕。十二月は今の十月也、輿梁は車馬を通ずべきはし(橋・梁)也。農功すでに畢〔おわ〕りて、民力を用うべし。時もまさに寒沍〔カンゴ〕(※寒凍)ならむとす。橋梁〔きょうりょう〕あるときは、民〔たみ〕、徒〔かち〕渡〔わた〕りの憂えなし。今民間の道路には、水に橋なく舟なき所多し。遊民みづから舟・橋を作りて銭を取りて人をわたす。貧なる婦女・童子はわたることを得ず。たまたま民の自力にて橋をわたすといえども、かちの者さえわたりにあやうし。仏法の制にも過ぎたる今の堂塔の十分の一を損〔そん〕せば、天下の舟・橋時になるべし。仏法は慈悲を本〔もと〕とすといえども、古〔いにしえ〕の賢君の政道の一事にも及ばざることは、何ぞや。又〔また〕旱〔ひでり〕に当たりて雨ごいをするも、民の自力を以て多くのついえをなし、其のはて(果て)はせめと(取)られぬ。此〔かく〕の如きを貴人に申す僧だになきことは、何ぞや。 云う。雨ごいは、ふるべき道理ありていのる時はふり、其のあててする道理なければふらず。民は、其のわきまえもなく、いのり(祈り)だにすればふる事と心得て、多くの財用を損していのれども、ふらざること多し。まことに余義〔よぎ〕なき事也。古〔いにしえ〕は、旱〔ひでり〕に雨をいのり、長雨に晴〔はれ〕をいのる事は、大君・国主・郡主 国・郡の の任とし給う所なり。しかる故に、其のふるべき道を尽くしていのる事を命じ給えり。されば、むなしく民の財をついやさずして、いのれば必ずふることなり。 問う。今時〔いまどき〕、民のわけもなき雨ごいにも、時としてふることあるは、何ぞや。 云う。其のしわざは雨ふるべき道理なけれども、其の憂情〔ゆうじょう〕真実なり。又知らずして雨ふるべき所においてする者あればなり。是等〔これら〕の神裡、いかで今の僧尼〔そうに〕の知る所ならんや。其のうえ、多くは渡世のための凡僧なれば、済度利生の慈悲心もあるべき様なし。故に、貴人に近付くといえども、民のついえ(費え)いやまし(弥増し)に成りて、下をくるしむる其の一〔ひとつ〕となれる。まことに論ずるにたらず。
2021年05月06日
一 学友問う。何をか治国・平天下〔へいてんか〕の要〔よう〕とせん。 云う。国・天下の為に人を得〔う〕るを要とす。孟子すでにこれをいえり。人を分〔わか〕つに財を以てするを恵〔けい〕と云う。世人これを仁なりとし徳也とす。受〔う〕くる者大いに悦べり。人に教うるに善を以てするを忠と云う。世人これをそねみそしり、教えらるる者は悦びず、甚だしきはいかれり。人に金銀財用をあたうるは小恵なり。しかれ共、其の人悦び世のほまれ大也。人に善道を教うるは忠なれば、恵よりも大なり。しかれども、教訓せらるる者、たからの十が一も悦びず。又世俗のそしりを得る事あり。いかにしてか国・天下の為に人を得むや。人みな国の治り天下の平〔たいら〕かなることを欲せずということなしといえども、其の治・平の根〔こん〕を絶つことをしらず。基本をきわめたづねるに不仁なり。民を見ること己〔おの〕が赤子〔せきし〕を保つがごとくなるの慈心なき故なり。人々、我が子、水火の中にくる(苦)しまば、これをすく(救)わざる間は、いねても席を安むぜじ、食するとも味を甘んぜじ。多くの子ども己一人の力にして水火の難をすくうことあたわざる時は、これを助くる術を得たる人ありといわば、年来のあだかたきなりとも、必ず往〔ゆ〕きて、手をつかねひざをかがめても、我が子のすくいを求めん。況〔いわん〕や賢者はあだにあらず、みづからこれをにくみていみ(忌)へだ(隔)てるのみ。堯は舜の得ざるを以て己が憂とし、舜は禹と皐陶〔こうよう〕とを得ざるを以て己が憂とし給えり。一人の君子を求むるは、万民の苦をすくわむとなり。 問う。今も役人なければ、何国〔いづくに〕にても人をえらびたずねとわずということなし。 云う。其の同位同類においてたづぬる故に有りがたし。天地の理〔ことわり〕、物みな盛衰あり。富貴は久しくつたわらず。其の時代に位高く禄重き子孫はすでにおとろえむとす。故に、好人の生まれがたし。積善の家はしらず、大方は霊明の末おとろえて、又おこらむとする時は、微賤の中に勇知の人〔ひと〕生〔う〕まる。故に古〔いにしえ〕は賢を求むること野においてせり。 問う。たとい其の身微賤なりとも、徳すでに君子ならば、民の父母たる心あるべし。何ぞ、招き給わず共〔とも〕、進みて道をおこさざるや。 云う。其の位〔くらい〕其の任〔にん〕なければ、其の心おこらず。大舜、はじめ庶人たりし時は、ただ庶人の業〔なりわい〕を事とし給うのみにして、天下の治乱に心なし。国君〔こくくん〕は一国の民の父母也。天下に及ぶ心なし。大君は天下の民の父母なり。其の大臣は大君の心を以てこころとして、天下の民を恵むべき道を尽くすのみ。夫〔そ〕れ大舜の知は貴賤広狭をえらばず。居〔お〕るとしてあたらずということなく、ゆくとして行わずと云うことなし。大賢以下の人には、知に大小あり。才知ひろくして天下の任にあたるべき人を、一国に用いては却ってつかえとどこおりて功ならざる者あり。又天下に用いてはかなえあし(鼎足)をお(折)れども、小国に用いては可なる人あり。人を知りて有才を用うることは、君子、治国の平天下の先務なり。後世は才の用うるでき所をつまびらかにせず、人のほむる者なれば役儀を命ずるあり。士の頭(組頭)として上に置きては、ゆたかにして君子の風ある人も、役人とする時は其の事〔こと〕調〔ととの〕おらず。其の上、生れ付きたる気質の徳までむなしくなれり。故に、あたらざる事に使う時は、あたらいき人をそこなうもの也。生れ付きず多き人といえども、一器量ある者は、其の得たる事に使う時はよし。不徳の人も、使いようにて徳出で来る道理也。 問う。富貴に素〔そ〕しては富貴を行い、貧賤に素しては貧賤を行う。是〔これ〕大力量の人はよく処すべきか。大賢以上の人ならでは叶いがたかるべきか。 云う。これ才のよくする所にあらず。徳を知る人はみなよく処すべし。それ有徳の君子は、富貴も淫することあたわず、貧賤も移すことあたわず、威武も屈することあたわず。かくのごとくにして後、其の位に素して行い、其の外をねがわざるべし。徳を知る人これを行うべし。才覚ありというとも及ぶ所にあらず。
2021年04月29日
一 心友問う。孟子に斉宣王の善を為〔ス〕るにたれりといえるものは、楊氏の説を朱子も取り用いられたるごとく、「天質〔てんしつ〕朴実〔ぼくじつ〕にして、《勇を好み、貨を好み、色を好み、世俗の楽〔がく〕を好む》(好勇好貨好色好世俗之楽)といえるごとき、直〔ちょく〕を以て告げてかくさざる也。心にもあらぬ大言を為〔な〕して人を欺く者は、与〔とも〕に堯舜の道に入〔い〕るべからず」と書せる道理至極せり。しかるに、貴老、これを以て道に入〔い〕るべからざる所とし給うは、何ぞや。 云う。孟子の、宣王も善を為〔ス〕るにたれりといえるは、牛を見て羊を見ず、小を以て大にかふるの仁心を以てなり。祟〔すう〕において初めて宣王にまみえ、退きて去るべき志ありたるは、貨を好み色を好むなどといえる恥〔はぢ〕の心うすき人なるが故也。懺悔〔ザンゲ〕をよしとするは戎狄〔じゅうてき〕の風〔ふう〕(※風習)なり。戎人は仁義を知らず、ただ輪廻のみを恐れて執着〔しゅうぢゃく〕なからむことを欲す。故に、前悪を懺悔して後、寂滅〔じゃくめつ〕をねがわむとするものなり。戎狄の学にしては可なり。仁義の学において不可也。仁義の性〔せい〕明〔あきら〕かなる者は恥の心あつし。恥の心ふかき者は心に悔い悟りて非を改め、善にうつるものなり。欲悪〔よくお〕の凡心をにくみて、いわんと欲すれどもいわず、かくすにはあらず。恥の心あればなり。懺悔せざれども改めうつるを以てよしとす。懺悔する者はいさぎよきに似たれ共、其の当意ばかりにて、終に悪を改めず善にうつらざるものなり。ことわざに鈍刀〔どんとう〕骨をきらずといえるがごとし。仏者の、懺悔して悪を改め道に入る者は、輪廻という見解〔けんげ〕ある故なり。小人の刑罰を恐れて悪をなさざるがごとし。幼少の子も、物恥〔ものはぢ〕して人前に出〔い〕でかね、赤面〔せきめん〕がちなる子は、成人にしたがいて才徳長ず。かならず一器量あり。人おめせずよくものいい、人前に出づることやすき子は、人見て利発なるとほむれども、成人にしたがいて才知なし。大かた平人なるものなり。これ恥の心厚きと薄きとなり。おさなき時物はぢせざる子は、成人の後〔のち〕宣王のごとくなるものなり。庶人にしては可也。士君子となるべからず。宣王は天質朴実にして直を以て告げてかくすことなきという者にはあらず。これは又一等の人也。其の位にあらぬ大言をして、人をあざむくがあしき事はいうに及ばず。欲悪〔よくお〕ありながら蓋蔵〔がいぞう〕してよき者ぶりし驕吝〔きょうりん〕なる者は、いかで堯舜の道に入るべきや。これ又いうに足らず。
2021年04月22日
一 心友問う。大舜は、《善、人と同じくし、己〔おのれ〕を舎〔す〕てて人に従う》(善与人同、舎己従人)といえり。大舜は神聖なり。人は平人〔へいにん〕多し。舜の徳には十が一にも及ぶべからず。善も又、舜の善は大にして、人の善は小〔すこし〕きなるべし。大徳、小徳にくだり、大善をすてて小善をとるものは、何ぞや。 云う。大舜の心は空々〔くうくう〕如〔じょ〕たり、天の蒼々〔そうそう〕昭々〔しょうしょう〕たるがごとし。鏡の虚明にして一物なきが、よく万象をうつすがごとし。心中悪なきのみならず、善も又なし。小善もなく大善もなし。人に一膳あれば、一枝〔いっし〕の花の鏡のうつりたるがごとし。其の美を好〔よみ〕せずという事なし。本〔もと〕鏡中に花なき故によく花をうつす。舜の心に善を有し給わざる故に、よく人の善を受けいれ給う。天下の善を許容して、其の時・所・位にあたれるを取りて、みづからも用い、国家にも行い給えり。他より是を見れば、舜の大徳にして常人の小善をも好〔よみ〕し取り用い給うは、無我にして己をすてて人にしたがうもののごとし。自己に行うべき大善あるをすてて、人の小善にしたがい、善をすこしきにするにはあらず。舜の御心にもと一善の有せるなければ也。もし取るべき所なくて善の行うべき時あれば、胸中より発出する也。其の人にありては小善にして益すくなきも、舜の取り用い給えば大に成りて、国家・天下に益あり。たとえばこころにみがかざる玉を持ちたるがごとし。知らざるものは石のみと思えり。玉人これを取りてみがく時は、玉となりて宝となるがごとし。大善は天下の人の知るを用うるより大なるはなし。
2021年04月15日
一 心友問う。子路は曾子をもおそれし人也。又〔また〕万歳〔ばんざい〕の師なりといえり。しかるに衛の難(※衛国の内乱)に死す。死せるは可なり。事〔つか〕えたるは不可なり。孔門(※孔子の門下)の賢者には不足なるがごとし。 云う。子路は過ちある時に告げしらする人あれば、中心より実によろこべり。自己の非を知りてことを改むることをたのしめり。これ万歳の師なり。人情の多いにかたき(難き)所なり。予を始めて仁義の学に志あり、一人の不辜〔ふこ〕を殺して天下を得〔う〕ることもせじとおもえることは実なり。義に当りては一命をもかろんぜむと思えども、自己の過を聞くことを願うこと、病みて薬を求むるがごとくなるの心なし。過を告げらしらする人あれば過分なりと口にはいえども、中心より発〔おこ〕悦びにあらず。故に、人に告ぐることをたのしまず、多くは知らざるのみ。天下の通病〔つうびょう〕なり。甚しき者は、過を云うを聞きては、いかり(怒り)あだ(仇)とし或いは(※うわべを)かざれり。徳を好むこと色を好むがごとくならざる証拠也。子路は賢を賢として色にかえたる人なり。後世、道学に名を得たる人多しといえ共〔ども〕、子路の、過を聞きて喜べる心には、及がたかるべし。衛につかえたるごときの過はかろき事なり。つかえざるほどの事は、予がごとき者もつとめ行なうべし。其の難を見てのがるる心なく、大なる武勇のほまれありて後、死を安くせし事は又かたし。後世の勇者といえ共、義をかねざる者は及ぶべからず。子路の行ないし事はみなかたき事なり。過といえるは少〔すこ〕しき事也。
2021年04月08日
一 心友問う。孟子は大賢なり。徳いまだ聖人に及ばざる所ありといえども、学は已〔すで〕に至処〔ししょ〕にいたりぬ。故に道徳仁義をいえることは万歳〔ばんざい〕の師たり。聖人またおこり給う共〔とも〕かえざる所なり。しかるに、貴老、孟子の言にしたがい給わざる所あるがごとし。「伯夷〔はくい〕は隘〔アイ〕なり。柳下恵〔りゅうかけい〕は不恭〔フキョウ〕なり。隘と不恭とには君子は由〔よ〕らず」といえり。貴老は、ややもすれば、伯夷を師とし、柳下恵を学び給えり。孔子の聖の時なるをば師とし鑑〔かがみ〕とし給わざるは、何ぞや。 云う。孟子は天下万歳の師也。故に中道をかかげ出〔い〕だして人に的〔まと〕をしめし給えり。清といい和と云う。其の人にありては可なり。師としよ(寄)る時はついえ(弊)あり。故に、君子は由〔よ〕らずといえり。予も中道の的〔まと〕を願わざるにはあらず。是は終〔つい〕に帰着すべき所の地なり。しかれども、予いまだ凡情〔ぼんじょう〕をだにもまぬか(免)れずして、学のみ至極〔しごく〕を云うは、我が心において忍びす。予又後世の師たるべき者にあらず。一日も凡情をまぬかれて君子の心を得〔え〕ん事は、終身の悦びなり。君子の心地〔しんぢ〕に進まんには、予が実にうらやみしたう人を師とし友とせんにはしかじ。予が実にうらやみしたいて、其の人を心とせまほしきは伯夷なり。故に、常に心の師とす。人は人と交わるべし。木石禽獣とおるべからず。故に、ひろく衆と遊びて包荒〔ほうこう〕なるべきは、柳下恵に学ぶにしくはなし。孟子は後世の為に中行不易〔ちゅうこうふえき〕を則〔のり〕ちいえり。予は自己の徳をなさんが為に益を取るのみ。古人も、方(※基準)は汝の身にありといえり。心をみがかむが為に師をとる事は、己が位〔くらい〕によってみづからえらぶべき所なり。先覚は医師のごとし。己が病を治するに便のある人を求むるのみ。いまだ時と清・和とを思うにいとまあらず。
2021年04月01日
一 心友問う。今の武士のよきと申すは、弓馬兵法をたしなみ、昼夜これにかかり居れり。武芸も世中の用に立つことはなし。事ある時の心がけというばかり也。兵器は凶器なり。しかれば、武士も遊民ならずや。 云う。日本は小国にて金銀多し。異国よりのぞむといえども、武国故に取り得ず。武士の武芸をたしなむは国の警固なれば、遊民とはいいがたし。武士ながら武道武芸のたしなみなきは遊民なるべし。 問う。吉利支丹〔きりしたん〕あらためも異国の敵をふせぎ給う事と承〔うけたまわ〕れり。弓刀〔ゆみかたな〕もいらず、人心をなびけてとるべき謀〔はかりごと〕と申し侍ればむつかしからんか。 云う。しかり。北狄〔ほくてき〕は外邪なれば治〔じ〕し易し。吉利支丹は内病〔ないびょう〕なれば治〔じ〕しがたし。此の内病の生ずる根本は、人心のまよいと庶人の困窮によれり。迷いとけ困窮やまば根〔こん〕を絶つべし。 仏法の 後生のすすめにたよりて、それよりまさる法を作りてみちびくなれば、畢竟仏法は吉利支丹の 先達 より所 也。中夏は制禁なけれ共、すすむることあたわず。聖賢の国にてまよい なく、又農兵にて民の困窮も うすければ也。 問う。しからば、日本にも、儒道広くならば吉利支丹亡びんか。 云う。尤も、其の理にて侍れ共、今の儒 道 学 に儒宗なし。各〔おのおの〕異見を立て、流を立て、いいがち(言い勝ち)の様也。いづれの儒学も此の国の水土にあいがたく、今の時には叶いがたし。吉利支丹の亡びざるさきに、まづ他の害あるべきか。
2021年03月25日
一 心友問う。儒道おこらば仏法はほろび侍らむか。 云う。道を興〔おこ〕す人は君子ならん。君子は力を以て興廃〔こうハイ〕をなすべからず。我道おこらば、仏法もむかしにかえりてよくなり、坊主すくなく成るべし。なげかしき事は、仏者無道にして盛〔さかん〕なれば、天道乗除の理〔ことわり〕にて、乱世に逢いて大半滅ぶべきか。すくなく成りて又久かるべし。乱世の亡びはいたましき事多かるべし。しかれども、法は今よりはよかるべし。 問う。儒法には年に一度〔いちど〕忌日〔きじつ〕(※親の命日)の精進〔しょうじん〕あり。毎月精進という事は仏法より出〔い〕でたるにや。 云う。仏法に本はなき事也といえり。昔は出家の作法よかりし故に、坊主に成る者すくなくて、年に一度の精進にて僧のとき米〔まい〕(斎米・時米)た(足)れり。後世は、仏法、渡世に成りて、法すたれ戒やぶれ難行なき故に、坊主沢山に成りて時米〔ときまい〕足らず。親の事なれば毎月思い出してよかるべしなどといいて、かくなりたるといえり。其の死せる時の月日こそ終身の喪〔も〕有るべけれ。其の時にてもなきに、毎月精進すべき理なし。故に君子は用いず。しかれども、祭をせざる人は俗にした がって うも 可也。 問う。一年に一度はおろそかなりといえる者あり、いかむ。 云う。忌日は終身の喪とて、親死したる其の月其の日は、終り(※臨終)にあえるがごとくおもうなり。四時の祭りは吉礼なり。孝子の心に親を死せりとせず、い(生)ける時もてなすがごとし。しかれども、神としてまつれば、潔斎〔けっさい〕して我が身をも神明にする道理なり。神はしばしばすれば、けがるる事あれば、むかしは潔斎して祭る事は春・秋と忌日の三度なり。後世四時に成りて五度となれり。其の外五節句、朔望〔さくぼう〕の拝にては備えて祭らずとて潔斎はせず。ただ生ける時親の所へ礼に行くに同じ。或いは君のたま物、或いは遠来の珍物、或いは初物〔はつもの〕等を備え、他行のいとまごい、帰りて又告ぐるごとき事は、子の心入れ次第にて数なかるべし。年に一度の忌日の外は皆吉礼也。是〔これ〕神道の義也。毎月忌日なれば時ならず。吉凶相まじわりて、神道をけがすに近し。礼にあらず。故に君子は用いず。生けるにはつかうるに礼を以てし、死せるにもつかうるに礼を以てする義也。 問う。貴老、出家にとき米つかわし給う事は、何ぞや。 云う。坊主は在家〔ざいけ〕を頼りて居〔お〕る者なり。家々より養わずして何とすべきや。
2021年03月18日
一 学者問う。心学おこりてより儒学〔じゅがく〕実〔じつ〕におもむき、諸儒の思い入れかわりたり。ただ儒のみならず、近年禅学はやり侍ることも、心学に目をさまし教えようやく成りたる故なり。扨〔さて〕儒学は日々におとろえ、禅学はいよいよひろごり(広がり)侍り。しかれば、心学は禅のさきがけとなれり。遠き慮〔おもんばか〕りなしとそしり侍る者あり、いかん。 云う。しかるにあらず。世は自然に文明になれり。唐〔もろこし〕にても、初めは仏流わかれてひろまり、しかも、他は次第におとろえて、ただ禅学のみのこれり。日本も後はさ様〔よう〕に成り行きなん。それ人は易簡〔いかん〕なる事により易し。一向宗ほど易簡なる立法なれば、これに帰する者多し。浄土・日蓮も、後は一向の易簡に習いてひろく成りぬ。近年文明にしたがって、地獄・極楽等の説を信ずる事うすし。これより後はいよいよさあるべし。禅宗はむつかしき事なく易簡に教えて、しかも悟りとて、さのみ後生〔ごしょう〕の地獄にはかかわらず。これ文明の時にあえり。今の禅は愚夫愚婦のよらん事を欲して妙を云う。これ利心なり。祖師(※達磨)の伝来にそむけり。この事なくばいよいよ盛んになりて、他宗は皆おされつべし。 問う。貴老の学、はばかりなくして人の志に応じ給わば、今は天下にひろまり侍らむに、なげかしき事也。 云う。しからず。すみやかに成るものは堅固ならず。俄かにひろまるものは長久ならず。民、九、十月に麦をまきて、わづかに生ずれば、甚〔はなは〕だ寒におされ、雪露にうづまれ、これによりて根をふかくすれば、春雨に長じ、卯月の日に実をむすびて、豊熟するもの也。予が 学 道 も、おさえあるは麦の寒気・雪露なれば、後世におこることあらんか。ただ其の徳なき事を恥ずる也。達磨の仏心宗世にひろまる事をにくみて毒害せられしも、其の身死して道は後世ひとり盛んなり。異学といえ共〔ども〕其の徳あればなり。
2021年03月11日
一 学友問う。儒仏の弁に至りて、仏学にくわしからざる故に、彼〔かれ〕仏を知らずといえり。吾が道を明〔あか〕さんがためならば、仏をも学ぶべしや。 云う。彼と争わんがために学びば非なり。其の上、儒仏の弁を好むは道を見ること大〔だい〕ならざる故〔ゆえ〕也。《江漢〔こうかん〕以てこれを濯〔あら〕い、秋陽〔しゅうよう〕以てこれを暴〔さら〕す。 皜々乎〔こうこう こ〕として尚〔くわ〕うべからず》(江漢以濯之、秋陽以暴之。皜々乎不可尚)といえり。玉の宝たることをしらば、石を以て是〔これ〕を乱るべからずといえり。たとい仏学すること仏者にまさるとも、彼を非とせば、彼、仏を知らずとはいわん。彼、仏を知るといわば、則〔すなわ〕ち吾子仏者ならむ。仏者に儒学ひろ(博)くしたる者あれども、其の道にあらざれば、心を用うることはしからずして、理〔ことわり〕を見ることあらじ。人に説くべからず。我、仏学せざれ共〔ども〕、形容〔けいよう〕行跡〔ぎょうせき〕を見て其の心をしれり。しばらく吾子のためにこれをいわん。仏学、流〔りゅう〕多しといえども、天台と禅とすぐれたり。天台は高妙〔こうみょう〕なり。仏学はくわしき事禅にまされり。しかれども、心に惑〔まど〕いあり。禅は学あら(粗)けれども、近く心法に本〔もと〕付きて要を得たり。惑いなきがごとくなれども、実はまどえり。 問う。まどう所はいかん。 云う。仏氏の学は死を畏〔おそ〕るるによれり。故にこれを云いてや(止/已)まず。禅さとれりといえども、死を畏るるより悟りを求む。聖学の徒、死生を昼夜とす。常なれば畏るべき所なし。故に死をいわず。 問う。形跡(※形容行跡)はいかが見るべきや。 云う。心〔しん〕・迹〔せき〕は形と影のごとし、わかつべからず。仏氏髪を剃り人倫を棄〔す〕つるは、輪廻を恐るれば也。天道輪廻なし。しかるを輪廻といえるはまどえり。むかし、鬼物〔きぶつ〕を見たるという者あり。これ眼病〔げんびょう〕なり。其の後見たる者なけれ共〔ども〕、伝えて恐るるは眼病を伝うるなり。白石〔はくせき〕夜衣〔やい〕を見てばけものとし、気た(絶)えたる者あるは、此の伝えなり。其の惑いに狐狸〔ころ〕の乗ずるもあり。むかし、釈迦、輪廻を見たるは、心眼病〔しんげんびょう〕なり。後世の仏者、此の心病〔しんびょう〕を伝えて輪廻ありと思えり。白石夜衣の狐狸ありて、其の信をます事あり。故に出家してまぬかれんことを願えり。真実道心の出家、もし輪廻なき理〔ことわり〕をしらば、一日も出家に住〔じゅう〕すべからず。たまたま儒学して輪廻にまどわざる坊主ありといえども、或いは渡世のため、或いは其の家の名聞〔みょうもん〕などにひかれて、学力すくなければ、こころならず終るもありと見えたり。
2021年03月04日
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