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一一二の奥に入る 心友問う。いかなるをか士〔し〕というべき。 云う。義理を知るなり。五典十義其の中にあり。 問う。いかなるを君というべき。 云う。義理を立つる也。君の、義理に専〔もっぱ〕らなるは、臣の、忠を進むる也。人をすすむべきためにするにあらず。みづから(自ら)義理を尊ぶ也。臣下はその義に感じて心服す、服すれば忠あり。 問う。道を学ぶは義理を知るにあらずや。しかるに、今の問学する人義理を知らざるは、何ぞや。 云う。ただに経伝の上に義理を論弁し、或いは身に行〔おこな〕うと思える人も、真〔まこと〕を欣〔よろこ〕んで法(※形式)に落ちなどすれば、真の義理には通し。故に気質の美なる人の義理を知りたるにはしかざる学者多し。生まれ付き理を知るべき人も、学によって其の知〔ち〕ふさがり(塞がり)、おもむきあしく(悪しく)なりたるもあり。いにしえの人は文学なけれども、貴賤共に義理を知りたる人多し。君たる人、一人を賞して衆人〔しゅうじん〕悦〔よろこ〕ぶは、義理を以て賞すれば也。又〔また〕一人を賞して衆人そねむは、義理の賞にあらざれば也。源の義経、次信〔つぎのぶ〕(※佐藤嗣信)が志に感じて、又たぐいなかりし名馬を、合戦の最中〔さなか〕に、事かくべきをもかえりみず、引き馬にあたえられしは義理の賞也。しかる故に、人々給わりたる様に思えり。利心〔りしん〕の分別〔ふんべつ〕あらば、大将の不慮の死をすべきも馬也。十死に入〔い〕りて一生を得〔う〕べきも馬なり。二つなき名馬を死人にひきて(※与えて)すてんよりは、此の大事に臨みてみづからはなたず乗り給うか、若〔も〕したまわらば、生きて用に立つべき者に給うべきと云うは利也。利を以てあたえば衆の恨みあるべし。軍士の心そむかば、よき馬に乗り給うとも、何のかいかあるべき。故に、名将は功有りし者の子孫を取り立て、親の代に忠ありしをわすれず、筋目を尋ねてほどほどにめぐみ養う時は、衆みなたのもしき主君と思いて、己が身のみならず、子孫のためにも忠をはげますものなり。されば賞を得ざる者も得たるがごとくおもえり。義理を行いて私〔わたくし〕なければ也。孔子の春秋一経の奥旨〔おうし〕、一つの義理を立て給うなり。義を知らざるは夷狄〔いてき〕禽獣〔きんじゅう〕也。大学の理も、上〔かみ〕仁を好むときは下〔しも〕義を好むといえり。しかるに、上仁を好みて下義におこらざる(起こらざる/興らざる)者あるは、其の仁〔じん〕真〔まこと〕ならずして義なければ也。仁義は本一徳也。故に故に君子の仁は必ず義あり。 問う。今時〔いまどき〕筋目ある者を取り立て、善人をあげても、衆そねむ事あるは、何ぞや。 云う。利心のみにして弁〔わきま〕えなき者は、一旦さある(※そうである)事有り。少しの義理をもわきまえ心ある者は、しからず。ゆくゆく聞き伝えて服する者也。又にくく(憎く)そねましく思いし者の子孫にて、上よりは恩賞なくて叶わざる筋目あり、忠功あれども、其のさたなくおちぶれ居〔お〕るを見ては、かくあるまじき事とは思いながら、凡情の習いにて何ともいわざれ共〔ども〕、人々本心あれば、そこ(底)意には君のたのもしからぬ事を知るもの也。忠義の亡ぶる所〔ところ〕也。この故に、明君は、徳を賞するに位〔くらい〕を以てし、功を賞するに禄〔ろく〕を以てし、才を賞するに職を以てす。昼夜の奉公には小禄あり、当座の奉公には其の品〔しな〕の褒美あるべし。
2023年01月26日
一一二の奥に入る 旧友問う。予〔わ〕が母方に微小の親類多く侍〔はべ〕り。うとうとしければ恨み、ねんごろにすることは、余多〔あまた〕の者なれば成りがたく侍り。予が宗領(長男)によめをむかえれば、親類すくなき者をえらぶべしと思い侍り。 云う。是〔こ〕れ心を立つるの過ち也。むつかしきと思い、いとう(厭う)心を以てむかうる故に、苦労なり。むかし、大舜の君、鶏〔にわとり〕鳴きておきてつとめて善をなし給いしは、何ぞや。人倫の交わりに道ある也。貴老、微小の親類多きは、善をする事の多き也。悦ぶべく共〔とも〕うれう(憂う)べからず。若〔も〕し貴老微小にて親類富貴ならば、貴老のおとづれをいとわん事、貴老の、微小のゆかりをいとえるごとくなるべし。しからば、遠慮してひかえんより外〔ほか〕の事あらじ。何を以てか善をなし給うこと広からん。幸いに親類微小にて貴老のおとづれを喜ぶ者なれば、貴老是れをしたしみて善をする事楽しみ給え。貴老、富貴の人にあらずといえ共〔ども〕、又貧賤ならず。志〔こころざし〕次第にて、ゆかりの人々の貴老の志を悦ぶ程の事はなるべき事也。衣類・米麦・菓子・肴〔さかな/コウ〕等、もしくは金銀も、少しづつおりにふれ有るにまかせてかわるがわるあたえ(与え)、物なき時は見廻使〔みまづかい〕、言伝〔ことづて〕の音信〔いんしん〕も可〔か〕也。己〔おのれ〕を尽くして後あきたらずしてうらむる者あらば、彼が非〔ひ〕也。とがむべからず。人〔ひと〕皆〔みな〕悪名〔あくみょう〕をにくみて令名〔れいめい〕(※名声・令聞)を好めり。小善をつみて(積みて)つもらざれば令名あらわれず。小人〔しょうじん〕は、人の目に立つべき大善ならばせんと思いて、小善をば目にもかけず。君子は、日々になすべき小善を一つもすてず、大善も応ずればこれを行〔おこな〕う。求めてなすにあらず。夫〔そ〕れ大善はまれにして小善は日々に多し。大善は名に近く小善は徳に近し。大善は人あらそいて(争いて)なさんとす、名を好むが故〔ゆえ〕也。真〔まこと〕の大善は徳より大なるはなし。徳は善の淵源〔えんげん〕也。徳ある時は無心にして善かぎりなし。貴老、小親類の多きによりて懇情〔こんじょう〕の善を行い、徳をつみ給わんは、幸いに非〔あら〕ずや。求めずして令名きこゆべし、善をするの媒〔なかだち〕と思い給わばいとう心生ずべからず。かえりて其のつとめ、心の楽しみとなるべし。其の上、人の悦ぶ心をあつめれば和気家にみつ(満つ/充つ)べし。日々に無声〔ぶせい〕の楽〔ガク〕をきくならん。人心服従する時は、号令行われ礼儀立つもの也。和して且〔か〕つ礼あらば、子孫必ず多福を受くべし。易〔エキ〕に云う、積善の家には必ず余慶〔よけい〕有り(易云、積善之家必有余慶)。
2023年01月19日
一一二の奥に入る 心友問う。費の字を解して、「たからとせざる也」との給うは、何ぞや。 云う。上古は貝を以てたから(寳)とす。費の字、弗〔ふつ〕・貝〔かい〕の二字を合す。如・心を怨〔えん〕とするの類〔るい〕也。財〔ざい〕散ずる時は民あつまるといえり。散ずるはたからとせざるの義〔ぎ〕也。用の広きといえると意相近し。財の字も貝にしたがう。いにしえ貝をたからとせし故〔ゆえ〕也。いにしえのたからの貝は、いづれの貝ということをしらず。後世金銀銭を以てこれにかえたり。堯〔ぎょう〕の時、天下洪水にて五穀足らざるゆえに、銭を作りて交易の助けとなし給えり。広く天下に用うるのみ、いまだ君の蔵〔くら〕にたからとし納めたることなし。賢君のたくわえ(貯え)は民〔たみ〕のためのたくわえ也。故に、王城にあつめずして在々所々に五穀をつみ置きて、水旱〔すいかん〕饑饉〔ききん〕の備えとし給う。民みな己〔おのれ〕が用と思いて君の物とせず。君の私〔わたくし〕のたくわえなければ也。これたからとせずして用の広き也。道は天下の道にして君子の私〔わたくし〕すべき理〔ことわり〕にあらず。然〔さ〕れども、其の大本〔おおもと〕は未発にして声もなく臭いもなし。聖人といえ共〔ども〕あらわすことあたわず(能わず)。これを無といわんとすれば神明不測也。これを有といわんとすれば形色声臭なし。無欲になるがゆえによるところなし。好悪〔こうお〕なきが故に過不及なし。しばらく名をかりて中といえり。昔も今も末世も、終〔つい〕にあらわれざる物〔もの〕也。故に造化の根〔ね〕たり。寂空〔じゃくくう〕虚無〔きょむ〕もこれが名とすれば病〔やまい〕あり。ただ隠といいて、無にながれず有をのこさず、かくるると云うにつきて其の神を知る。聖人の言〔げん〕、妙なり。
2023年01月12日
一 心友問う。漆器〔シッキ〕は美なる物〔もの〕也。舜〔しゅん〕、何ぞ此〔かく〕の如き美器を始め給うや。 云う。是〔こ〕れ凡人〔ぼんにん〕の知るところに非〔あら〕ず。数千歳の後をはかり給えば也。上古飲食の器物は多くはやき(焼き)物也。朝夕〔あさゆう〕用うる物なれば、くだけやすく損じ易し。人も次第に多くなりて、天下に是れを用うる事かぎりなし。帝舜の時より五百数千歳の間には目に見えぬ事なれ共〔ども〕、数千歳へて(経て)後〔のち〕は山林あれて(荒れて)、人民の難儀天下の凶乱の根となるべき勢いあり。天下のひろきといえ共、つくるに至りては俄〔にわ〕かにすべき様〔さま〕なし。故に、山林ふかき時において、うるしをとり木地〔きぢ〕をぬり、飲食の器を始め給えり。 問う。世人、貴賤となく、我一代をはかるのみ。子の代をおもう事だにふかからず。他人の代・万歳の後を憂え給う事、何ぞ此〔かく〕の如くいたれるや。 云う。父母の子を愛するは愛の至り也。しかれ共〔ども〕、子不孝なれば、其の愛心うすくなる事あり。聖人の民を見給うこと、凶人悪人といえ共〔ども〕にくみ給わず。刑罰に落ち入るときは、政教のいたらざる事をなげきて、其の罪人をいかり給わず。悪をにくむべきは当然の理〔ことわり〕也。一人を捨て万人を助くべきが為〔ため〕也。天下のひろきも一家のごとく、万古の遠きも一日のごとし。仁愛の誠やむ時なし。是れ則ち天地生々の心なり。
2023年01月05日
一 朋友問う。仏氏は生死〔しょうじ〕という、儒者は死生〔しせい〕といえり。意ありや。生死は言順〔げんじゅん〕にて、死生は逆なるがごとし。 云う。別に心はなかるべし。しかれ共〔ども〕死生と云いて言順也。語黙〔ごもく〕は昼夜のごとく、死生は古今〔ここん〕のごとしといえり。語は昼うごくの理〔ことわり〕也。黙するは夜〔よる〕息〔そく〕するの理也。祖の死は父の古〔こ〕也。父の生は今〔こん〕也。子の生は今也。天地の造化はおりはた(織機)のたて(縦)のごとし。人の死生はよこぬき(※横糸)のごとし。死生〔しせい〕常〔つね〕の理にして二つにあらず。故に古今というのみ。 一 人、己〔おのれ〕を知らざるは、大憂〔たいゆう〕也。己を知らずして人をしらんとし外事を知ることをつとむるは、惑い也。己を知りて後〔のち〕天下の事疑いなきは、楽しみ也。
2022年12月29日
一一二の奥に入る 心友問う。世間に義理・順義〔じゅんぎ〕といえるは皆〔みな〕利也。さし当たる公界〔くがい〕の音信〔いんしん〕・往来・振舞等をいえり。是〔こ〕れをなさでは忽〔たちま〕ち世間の名利〔みょうり〕を失いて身に害あり。これをつとむるを以て義理をかかず(欠かず)と思えるはあやまれり。是れをなさでは叶わざる公役〔くやく〕のごときか。 云う。しかり。順義とはいう共〔とも〕義理とはいいがたし。義理というは、時を失いて微賤〔びせん〕に居〔お〕る者にても、筋目のあるをばすてず(捨てず)、親類の末々〔すえずえ〕なればいやしといえ共〔ども〕見はなたず(放たず)、知音〔ちいん〕の由緒〔ユイショ〕までもわすれず、家頼〔けらい〕の功ありし者の子孫を取り立つるなど、たのもしきところあるを義理という也。是れ等はさしあたる世間の利にはならず、当分、身には損ありて益はなき事なれば、今の義理・順義の人、大方此の実をば捨ててかえり見ず、却〔かえ〕りて外聞あしきなど思えり。善人の名となり利となる所は異なり。心の仁義に本〔もと〕づきて忍ばざるの本心よりなせる義理なれば、人にたのもしと思われ、仁者〔じんしゃ〕のほまれあるは、くちせぬ名なり。眼前の利にはあらざれど、天道の冥加〔みょうが〕に叶い、末〔すえ〕のさかえ久しきは、義を和するの利也。不善人の名利は、小人〔しょうじん〕と共に時めきて、飲食・衣服・器物・家屋等の上においていやしき名を悦〔よろこ〕び、時にあわせて利ありと思えり。欲心と驕奢〔きょうしゃ〕にひま(暇)なければ、材用も乏しくなり、少し心には思い出〔い〕でても、実の義理をばすることあたわず。親類・知音のある人、家頼などには見おとされ、たのもしからぬ者といわるる実の悪名をばかえり見ず、終〔つい〕には家の亡びたゆる(絶ゆる)べき利を失う事をばしらず。畢竟〔ひっきょう〕(※つまり)くらき故〔ゆえ〕也。心・身・家・国・天下共に、幸福は仁義にしくはなし。とりわき人に君たる人、義理の実〔じつ〕なければ、衆の心そむき離れ、利を好むの小人のみ近付きて、国家のほろぶる事〔こと〕日をかぞえて待つべし。
2022年12月22日
一 人〔ひと〕先〔ま〕づ実〔じつ〕あり。これをかざるに文を以てして礼あり。実すくなくして文過ぐるは 奢り 偽の端なり。実ありて文の足らざるを倹〔けん〕という。古〔いにしえ〕の人は実あまり有りて文みたず。故に礼の本〔もと〕とす。今の倹を用〔もち〕うる者は、礼を廃〔ハイ〕して倹と思えるは誤り也。 一 心友問う。和漢大勇の者あり勇においては君子の勇にひとしからんか。 云う。気質に得たる大勇も、死をかろむじ(軽むじ)物に勝つことは、まことに君子の勇に似たり。しかれども、心地〔しんぢ〕光明ならず、若〔も〕し、道に志ありて、蓋蔵〔がいぞう〕(※覆い隠すところ)なくかたらしめば、必ず恐るる所あらん。心にまどい(惑い)ある者は恐れなき事あたわず。君子は惑いなし。知・仁・勇は心の一徳也。故に君子は恐るる所なき也。小人〔しょうじん〕の勇は気に得たる故に気にいさむ。されば、死すまじき所にても死し、又〔また〕死すべき義に死せざることもあり。君子は義にいさめば、死すべき義を見ては、此の身をすつる(捨つる)ことやぶれたる(破れたる)わらぐつ(藁沓)の如し。
2022年12月15日
一 心友問う。其の背〔せなか〕に艮〔とどま〕る(艮其背)とは、如何。 云う。せなかは不動無欲の所〔ところ〕也。人の身中、目の見〔み〕・耳の聞〔きき〕・口の味〔あじわい〕・鼻の臭〔かぎ〕・腹の飲食〔のみくい〕・手の取〔とり〕・足の行〔ゆく〕、みな欲あり動あり。ただ背〔せなか〕のみ欲なく動なし。故に一身の本〔もと〕たり。一身は背の不動につきて用をなす者なり。これ我が身によりてたとえをとれり。心無欲にして身の主〔あるじ〕たるべし。欲ある時は一身に主たることあたわず。況〔いわん〕や家・国・天下をや。欲は好み悪〔にく〕みなり。好んで得むことを欲し、悪むでは去らむことを欲す。其の好悪〔こうお〕にもとる時は心うごきさわぐ。或いはいかり或いは恐れて心くらくなれり。心は霊明を以て身の主たり。霊明の真〔しん〕を失う時は主の用なし。これを放心というなり。 一 学友問う。雷〔らい〕は天のいかり(怒り)という説あり。 云う。よろこびとはいうべし。雷雨のうごくみちみてり。草木〔そうもく/くさき〕生意〔せいい〕をまし、人気〔にんき〕すずしく心地よろこばし。先王以て楽〔ガク〕を作り給えり。風来共に造化の常はよろこばし。常にこゆるはいかりとも云うべし。周公の徳をあらわさんがために大風おこり、北野の天神の忠臣の怨みを感じて甚雷〔じんらい〕ありしたぐい也。
2022年12月08日
一 心友問う。もろこし上代の詩よりも後世の上手〔じょうず〕の詩面白し。この故に、人のもてあそぶも皆後世の詩人の詩のみ也。 云う。尤〔もっと〕も詩は名を得たる詩人上手也。然れども、上古の詩の様に優柔ならず。 問う。しからば、後世というとも賢人の詩は優〔ゆう〕なるべきか。 云う。賢者といえども、後世の詩はただ其の言葉の正しきのみにて、優柔の風〔ふう〕はすくなし。賢者の心は正しきのみ。其の風は其の代〔よ〕の神気の化する所あればなり。上代の人は玉冠〔ギョクカン〕を着〔ちゃく〕せり。後世は、賢者といえども、常に着することあたわず。是〔こ〕れ神気のうつりかわれるが故〔ゆえ〕也。日本上代の人、道徳の学はしらざれども、今のしりたらん人の及ばざる所あり。世の中ゆるやかにして神気あつき故也。今の学ある人、道理をしることは古人〔いにしえびと/こじん〕よりもくわしといえども、世の中のせわしきに習いて神気うすし。故に風は古人に及びがたき所あり。其の跡の見るべきものは詩歌也。中古の歌人、学ひろく名を得しも、上古のしらずよみ(※読み人知らず)によみたる大方の人の歌も風体は及ばざるがごとし。上代の歌は優柔也。中古以来の歌は上手といえども迫切〔ハクセツ〕にして優柔ならず。これ自然に人心の感ずる所也。人心は政教風化のしからしむる也。其の世の中の習いたる人の心気、歌の本〔もと〕なれば、おのづから言にあらわるるもの也。たまさかに優柔に似たるもあれども、それをよしとして作りたるものなれば自然の風に非〔あら〕ず。いにしえは日本の国遠くしてひろく、近来は近くしてせばきがごとし。政道ゆたかなる時はひろくて、せわしき時はせばき也。しかるに、せばきを以て一面によく治〔おさま〕りたると思うはあやまり也。いにしえは人心〔じんしん〕上〔かみ〕に服せしかば、人質という事もなく、凶事なければ、早使い早馬ということもなく、礼式定まりてしげき往来もなし。この故に、諸国のおとづれも遠く、人の歩行もいそがずゆるやかなりしかば、日本ひろく東西遠かりし也。其の代〔よ〕の風、歌にあらわれてしらるる也。もろこしにては、国〔くに〕郡〔こおり〕村〔むら〕里〔さと〕の婦女の小歌をとりて、其の政〔まつりごと〕其の俗〔ぞく〕をしれりと云えり。
2022年12月01日
一 学友問う。孔子〔こうし〕曰〔のたまわ〕く、生をしらずば死をしらじと。死おのづからしらるべきか。 云う。生を知るは人の人たる所を知るなり。人の本〔もと〕を知るは即ち天を知る也。天を知るときは、人鬼・幽明・死生・眼面に明白也。人に生まれても人たる所を知らざるゆえに、人鬼・幽明二つにす。故に、目の見る所のみを知りて見ざる所を疑うゆえに、さとりの学(※仏学)あり。聖学(※儒学)には、一時の疑いはあれ共〔ども〕、一生の疑いなし。仏氏(※釈氏)は、(※出家をするので)天下国家の用なし。故に、一事の疑いを知らず、幽明・輪廻のまよいあり。これ終身のうたがい也。富貴貧賤は天命の常・造化の自然なり。此の不同なければ、人事を行ないて造化を助くることあたわず。故に、富貴にして驕〔おご〕り且つ吝〔やぶさ〕か(※ケチ)なり。貧賤にして憂〔うれ〕えかつ安〔やす〕んぜざる時は、天地鬼神の妖怪とする者也。共に終りをたもつ事あたわず。故に、富貴の道は礼をこのみ人を愛す。貧賤の道は外〔ほか〕をねがわずしてよくつとむるにあり。これを天・地・人の三才とす。
2022年11月24日
一 学友問う。先学〔せんがく〕云〔いわ〕く、人心は人欲也と、先生の解〔かい〕は異〔こと〕也。 云う。古語を解すること人々の見立てあり。古人の主意に叶うと叶わざるとありといえ共〔ども〕、叶いたるを以て必ず賢〔けん〕也とせず、叶わざるを以て賢ならずとせず。予〔われ〕思うに、人心は人欲に非〔あら〕ず。大舜〔たいしゅん〕の給〔たま〕く、人心〔じんしん〕惟〔これ〕危しと。すでに人欲なれば、危しというまでもなく悪也。人心は形気の心なり。此の形あれば此の心あり。聖・凡共に同じ。飲食・衣服・男女等の心これ也。既に形あれば欲有り、欲あれば則〔のり〕あり、則は礼儀也。人心欲ありといえども、礼儀の天則〔てんそく〕にしたがう時は道也。則にしたがわざる時は人欲となりて悪也。天則は微妙にして声もなく臭〔か〕もなし。自反〔しはん〕慎独〔しんどく〕常に存養せざれば失い易し。君子の及ぶべからざるはそれただ人の見ざる所かといえり。 一 心友問う。程子註に、朝聞道夕死可矣(朝に道を聞きて夕べに死すとも可なり)とは死得是也(死〔し〕是〔ぜ〕を得る也)といえるは、何ぞや。 云う。是〔ぜ〕の字意をふくめり。君子天年の数を尽くして無事に終るもあり、義に当たりて戦死するもあり。生も一事也、死も一事也。君子は事として正〔せい〕を出〔い〕でず、正に心ありて死に心なし。是〔これ〕死〔し〕是〔ぜ〕を得るなり。
2022年11月17日
一 心友問う。孟子、言〔げん〕を知るといえり。道学において重きことは、何ぞや。 云う。予〔われ〕は予〔わ〕が言を知るのみ、心〔こころ〕定まる時は其の言重くして舒〔ゆる〕やかなり。定らざる時は其の言軽くして疾〔と〕し(※鋭い、激しい)。 問う。事の急なる時は、いかが。 云う。心定まる時は急なりといえども変せず、只〔ただ〕其の言すみやかなり。重舒〔ちょうじょ〕変じて分明なる者也。無事の時に疾〔と〕きは心いそがわしき故也。急なる時すみやかならざるも心とどこほれば(滞れば)也。 一 心友問う。「聖人の言をおそるる」の意、いかが。 云う。聖人は万歳〔まんざい/ばんぜい〕の師なり。其の言は我に教うる也。我必ずこれを受用せんとす。故に畏〔おそ〕る。天より命じて師とす、今日の君命のごとし。 問う。「大人〔たいじん〕をおそる」と。大人は在位の人か。在位の人不徳にて、我〔われ〕道あらば、何をか恐れんや。 云う。天〔てん〕命じて貴人とし上に立たしむ。故におそる。畢竟〔ひっきょう〕「天命を畏るる」也。 問う。天何ぞ不徳の人を命じて有道の人の上に立たしむや。 云う。勢いの自然也。自然の勢いは天命也。故に、君子は自然にしたがい、小人は力を以て自然にもとり災いをまねく者也。故に云う、「小を以て天につかうるは天をおそるる者也」と。小はまことに大に敵すべからず、是〔こ〕れ自然の天命なれば也。「大を以て小につかうるは天をたのしむ者也」と。大はまことに小をしたがえ易し。しかれども、恭敬してつかうる者は義理あるを以て也。心につかうべき義理をしれば、其の義理をたのしびて、外〔ほか〕の勢いを忘るる也。将軍家の禁中につかえ給うがごとし。将軍家は天下を我〔わ〕が物として、大というにも及ばず。しかれ共〔ども〕、天照太神の皇統にて三種の神器おわしまし、天威のおされざる所あり。故に、代々の将軍家おそりかにし奉〔たてまつ〕り給う事あたわず。足利家の盛世の時は、本〔もと〕より将軍家にまかせられたる公家〔くげ〕なれば、ないがしろにしたりとて眉目〔びもく〕にもならざるに、天を楽しむの道理をしらで(知らで)、勢いにまかせ日々に公家の威をけづりたる天罰にや、足利家の威もほどなくおとろえて、四、五代は公方〔くぼう〕という名計りにて、公家のごとくなりて亡びたり。武家の強大を以て公家の微弱なるを尊敬し給いてこそ、後世のほまれ共〔とも〕成るべき事なれ。強大の人、微弱の人をおし(圧し)つけて、眉目とおもえるは、くらき事也。其の非礼を武家の例とする人あるは、あやまり也。
2022年11月10日
一 賢不肖、生まれ付きというべからず、治乱、命〔めい〕というべからず。君〔くん〕・相〔しょう〕、志を立てて賢を求め、職々〔しょくしょく〕其の任にあたるかあたらざるか、つとむるかつとめざるかを明らかに知る時は、国おのづから治るべし。天下、小人〔しょうじん〕を以てみづから安〔やす〕んぜざるは、人心の霊〔れい〕なり。君・相・志をはげまして君子の心術〔しんじゅつ〕躬行〔きゅうこう〕をなす時は、士民、これにしたがう。心はいまだ化せずといえ共〔ども〕、其の用は君子の事也。この故に、人材を成すことはかたし(難し)、変化することは易〔やす〕し、といえり。いまだ王者の徳に及ばざれ共、志立つ時は変ずべし。大いに変ずれば大いに益あり、すこしき変ずればすこしき益ありといえり。婦女の知識なき、赤子の物いわざるだに、誠あれば其の欲に応ず、あたらざれ共〔ども〕遠からず、況〔いわん〕や、男子に知識才能あり、民人のよくものをいうは、慈仁〔じじん〕の誠あらば保つこと易かるべし。 一 時にしたがって変易〔へんえき〕して道に従うは、君子の中庸也。時に随〔したが〕って変易して利に随うは、小人の中庸也。其の知の明は一つ也。只〔ただ〕主〔あるじ〕とする所〔ところ〕異〔こと〕なり。
2022年11月03日
一 学者ありて云う。孟子以後の諸君子〔しょくんし〕皆〔みな〕言〔げん〕の失〔しつ〕ありといえり。師〔し/すい〕とはしがたからんか。 答えて云う。皆師とすべし。其の志〔こころざし〕の賢なる所は後世の学者の及ぶべき所に非ず。言の失をあげて先人の非〔ひ〕をいう事は易し。其の徳を取りて見に行なう事はかたし(難し)。予が言がごときも、今の人の惑〔まど〕いに当たり、今日の受用に益〔えき〕あり共〔とも〕、時去りて後人〔こうじん〕の議論に及ばば大半非ならむ。ただ実儀あれば人の良心を感発す。善心興起する時は、聖賢を師とすべし。其の中間の奏者なり。世に博学篤行の師多しといえ共〔ども〕、人の良心を開くことあたわず。師弟共に先学の非をあげ、当世の学者を相そしれり。先人の徳を好〔よみ〕し今の人の善をあぐる事あたわず。其の議論可也といえ共〔ども〕、かえりて人の善をそこなう者也。
2022年10月27日
一 心友問う。《聖にしてこれを知るべからざすをこれ神と謂う。》(聖而不可知之謂神。)先学皆いえり。聖人の上に別に神人あるに非ずと、いかが。 云う。聖人には神明の徳あり。此の徳ある事、聖人みづから知り給わざる也。空中より物を生ずるは、鬼神の造化なり。天地ひらけていまだなき物をはじむるは、聖人の神徳〔しんとく/じんとく〕也。八卦を画〔かく〕して六十四卦〔か〕とし、天・地・人三極の道をあらわし、万事万事の理〔ことわり〕を尽くし、医薬灸針の事を作〔な〕し、律呂〔りつりょ〕管弦などを興〔おこ〕しなど、皆神明の徳なくてはならざる事也。律呂たしかにのこりてだに、ふりの絶えたる楽〔がく〕は再興することなりがたし。況〔いわん〕や跡なき事を初めて作〔さく〕するは人力に非ず。鬼神は人の作用はならず、人も鬼神の妙用をばなす(作す)ことあたわず。幽明・人鬼〔じんき〕の異〔こと〕なる也。聖人は人にして神の妙用あり、鬼神にもまされる所也。しかれ共〔ども〕、聖人は人道つとめて神妙に心なし、これ聖にしてみづから(自ら)知るべからざるの神也。又〔また〕聖人の上に神人の位なきにしもあらず。伏犠〔ふっき〕・神農・黄帝・堯・舜これ也。禹王〔うおう〕・文王・周公・孔子・神にあらずというべからず。
2022年10月20日
一 心友問う。易簡〔イカン〕と略儀と相〔あい〕近きがごとし。 云う。大いに異〔こと〕なり。聖人の教えは、易簡の善ありて略儀を示さず。人に略儀を教うる時は礼儀亡ぶ。礼儀亡ぶる時は驕奢〔きょうしゃ〕生ず。驕奢なる時は物〔もの〕文花〔ぶんか〕にして事しげし(繁し)。事しげし時は偽り生ず。物文花なる時は略儀いよいよ行わる。夫〔そ〕れ烏帽子〔えボウシ〕・直垂〔ヒタタレ〕・ちいさ刀〔がたな〕は、無位無官の士の礼服也。此の礼服、文色定まれば数を用うる事なし。ただ一つくだりありて礼儀達しぬ。下着ひとつふたつは時の寒暑にかなうのみ。数を用い美を尽くすべき様なし。ちいさがたな(小刀)は一腰〔ひとこし〕なれば、大中小の脇指刀〔わきざしがたな〕のさしかえて用うべき所なし。平生はちいさがたなひとつにて内外ともに事たれり(足れり)。軍陣に太刀〔たち〕を帯〔は〕きそゆる者也。これ礼儀備わり人道うるわしくして易簡なり。善なるに非ずや。いつほどにか、えぼうし(烏帽子)下地のままにかみ(髪)をおりわげ、ひたたれ(直垂)はかま(袴)を略して上下〔かみしも〕とす。一旦は易簡に似たれ共〔ども〕、略儀にて礼儀なければ、小袖〔こそで〕上下〔かみしも〕数を尽くしていろいろあり。其のついえ(費え)かぎりなし。ちいさがたなを脇指とし、太刀を刀として、二腰〔ふたこし〕さしたるは、かいがいしき様なれども、国容・武容まじわりて、治道長久ならず、戦陣威かろし。しかのみならず、大わきざし・中脇指・小脇指刀のさしかえに至るまで、其のついえかぎりなし。これ略によりて奢〔おご〕りにながれ、人の礼儀亡びて物多く事しげきに非ずや。事しげき時は人の精力及びがたし。正直律儀なる人といえ共〔ども〕、偽りなき事あたわず。この故に、聖人は易簡の善に配〔ハイ〕して人道の礼儀を制し、略を戒〔いまし〕めて多事をふせぎ、偽りの生ずる源をふさぎて誠を立つるものなり。
2022年10月13日
一 心友問う。より親(寄親)に与〔くみ〕し主君にそむきて出づるは、何の義ぞ。 云う。非礼の礼・非義の義、大人〔たいじん〕はせざるの類〔るい〕也。今の俗、此の非義の義を義とす。あやまりても(誤りても)せめて義と思いてなさば可也。ただ其の中間〔ちゅうげん〕の名利〔みょうり〕の情にまとわれてせんかたなき故也。盗賊は本〔もと〕より不義の者なれば、義理を思う者にあらざれども、其の中間の難を去ることあたわず。これ其の情にまとわるれば也。 一 心友問う。程子の云〔いわ〕く、誠にあらず財をおしむ者は、善をすること能〔あた〕わずと。財はおしまざれども、誠なき者あらんや。 云う。名を好みて財をほどこす者は、おしまざれ共〔ども〕誠なき也。 問う。しわき(※ケチな)者も、堂寺〔どうてら〕の仏事には金銀をおしまざるは、何ぞや。 云う。しわきも不仁も、心くらき故也。後生(※死後)の偽妄〔ギモウ〕を信ずるも、心のくらき也。くらき故にくらき所に用うると知るべし。
2022年10月06日
一 心友問う。自逝〔ジセイ〕(※辞世の言葉や詩句)は有るべき事か。 云う。自逝する者は生死に心あり。或いは名を好めるが故〔ゆえ〕也。近くしては昼夜、遠くしては生死也。夜に入〔い〕りていぬる(寝る)者、何の心あり何の名ありて自逝すべきや。死生は天地の常理也。道理にしたがいて始終する者は無心也。むかし程伊川〔テイ イセン〕病みて死なんとす、郭忠孝〔カク チュウコウ〕と云う者〔もの〕往〔ゆ〕きて見るに、伊川目をとぢて(閉ぢて)黙然たり。忠孝云う、「夫子〔ふうし〕平生の学ぶ所、此の時に用〔もち〕うべし」。伊川云う、「用うを道著〔どうちゃく〕すれば、便〔すなわち〕ち不是〔ふぜ〕(道著用、便不是)(※用うると云ってはいけない)」と。忠孝いまだ寝門を出〔い〕でざるに伊川卒す。 問う。遺言〔ユイゲン〕という事は有るべきか。 云う。死去人〔しきょにん〕のいい置くべき事は、生き残る人々の心にあり。時〔とき〕・所〔ところ〕にしたがいて子孫の位〔くらい〕に応じ、義に害なき事は勢にまかすべきのみ。死する者何をかいわん。但し遠方へゆく人の、留守居の及びまじき事をいいおくごとき事、あるまじきにあらず。子弟の教うるの言は平日の言なり。遺言に非〔あら〕ず。
2022年09月29日
一 心友問う。いにしえ、聖主賢君、史官を置きて、主君の言動を初めとして、天下の善悪を記〔き〕せしむ。おもねりてほむること能わず、いかりてそしること能わず、のこさずかさねず、ただありのままなり。後世、悪逆の主・無道の君の、時の威権につよく、其の悪を後世に伝えんことを恐れて、これを記〔しる〕す事をふせげり。しかれ共〔ども〕とどむる事あたわず。本〔もと〕よりの悪名〔あくみょう〕の上に悪声をかさぬ。人力ここに及ばざるは、何ぞや。 云う。鬼神は福善〔ふくぜん〕禍淫〔かいん〕なり。いにしえの聖主賢君は、天工〔てんこう〕にかわりて史官を立て給えり。是れ造化を助くるの道〔みち〕也。人道に史官を立てざる時は、天命の史官ありて善悪を記せり。 問う。天命の史官、其の心に知るところありや。 云う。其の心には知ることなし。ただ天然と、其の才、其の時の善悪をしり、或いは時を過ぎて生まるけども、前代の事に達するものあり。皆天道鬼神の福善禍淫也。天下の主といえども鬼神に勝つことあたわず。故に人力を以てふせぐべからず。みづから悪をなす者は、其の心くらき故に、此の理〔ことわり〕をしらず。若〔も〕し此の理をしらば、つとめて善をせんのみ。善をすることの、悪名を亡ぼすの未知なることを知らざるは、まどえる也。
2022年09月22日
一 心友問う。《孟子の云〔いわ〕く、民〔たみ〕を貴しとなす。社稷〔しゃしょく〕これに次ぐ。君を軽〔かろ〕しとなす。》(孟子云、民為貴。社稷次之。君為軽。)此の言甚だ抑揚〔よくよう〕あるに似たり。一国の為に一人の君を置きて治めしむる道理をしらで、君一人をたのしましめて一国の人民をくるしむる事の、天道にそむける義を明〔あ〕かさんが為なるべし。 云う。しかり。又〔また〕先天〔せんてん〕(※自然)の理〔ことわり〕也。天地ひらけて人あり、人の多きを民という。山川国土の神〔かみ〕、民の為に財物を生ず。是〔こ〕れ神といえ共〔ども〕民に次ぐの理也。民は基本を報じてこれを祭れり。人民の多き、これを治むるものなければ乱る。故に君を立つ。是れ又国君といえ共〔ども〕民に次ぐもの也。孟子先天の理によりていえり。後天〔こうてん〕よりいう時は、君は上に位〔くらい〕して威重〔いちょう〕あり、民は君にしたがう者也。君、民の為に社稷をたててこれを祭れり。是れ後天用をなすの時也。
2022年09月15日
一 心友問う。楽しめる君子は民の父母なり。たのしまざるは君子にたらずといえり。君子のたのしむ所は、何ぞや。 云う。程子の云〔いわ〕く、楽しみは理〔ことわり〕にしたがうを楽しみとすと。此の意味学びざれば知らず。たとえば音楽を学ぶがごとし。淫声(俗楽)は、しらざれども、聞きておもしろし。正楽〔セイガク〕(※雅楽〔ガガク〕)は、しらざる人、聞きておもしろからず、学び得て後〔のち〕面白き所あり。学びて理を照らす事明らかなれば、自然の理にしたがう事をたのしむもの也。音律耳に入〔い〕れば自然に雅楽を楽しむがごとし。凡人は、欲にしたがうを楽しみとおもいて、理にしたがうをつとめと思えり。道をしらざるが故〔ゆえ〕也。君子より見れば、欲にしたがうは皆〔みな〕苦〔く〕なり。しかるを、たのしみと思うはまどえるなり。雅楽の神気を養いてあかぬ所あるをしらずして、淫声の神気を害するものを好むがごとし。 一 心友問う。《惟〔ただ〕聖人にして然る後〔のち〕形を践〔ふ〕む》(惟聖人然後践形)とは、人道を尽くし得〔う〕る也、といえるは、いかが。 云う。人は、五行の秀気、神明の舎・天地の徳也といえり。これによくかなうを、人道を尽くし得〔う〕るというべし。聖人あらわれて、人の天地の徳たることをしれり。是〔これ〕形を践む也。
2022年09月08日
一 学友問う。《一陰一陽、これを道と謂う。これを継ぐ者は善なり。これを成す者は性なり。》(一陰一陽、謂之道。継之者善也。成之者性也。) 云う。太極〔たいきょく〕時に動いて陽生じ、時に静かにして陰生ず。動静は時也。陰陽たがいに其の根をなす。太極は特にたがわず(違わず)。太極もと無極也。故に是を道という。一陰一陽生々してやまざるを継ぐという。やまざる時は、四時〔しいじ〕行われ日月明らか也。善これより大なるはなし。造化の流行を見れば善なり。山下の出泉〔しゅっせん〕、其の始めにごれる(濁れる)ものなし。いまだ清濁をいうべからず。中間にごり(濁り)をなすものあれば本源の水の色を失う。ここにおいて清濁の名出で来ぬ。源出にたがわず、継ぎつげるものを清といわむがごとし。造物者、人を成して人の性あり。万物を成して万物の性あり。人は天地の心なるゆえに、一陰一陽の理〔ことわり〕全うして、明徳備われり。仁・義・礼・智の 性 名ありて善也。性の徳を失う時は不仁・不智・不礼・不義 にして の名ありて悪也。水の、中間、清濁の異あるがごとし。天は無心無欲也。故に、理気はなるる(離るる)事なくして、四時あやまたず。人の有心〔うしん〕有欲〔うよく〕なるが故に、 心法なきものは あやまりなり。聖人以下の人、過ちなきことあたわず。よくあらたむるを善とす。心法は天命の 徳 性にしたがう受用なり。人心、天理にしたがうを道と云う。則ち一陰一陽を道というと一致也。人、幼〔いとけな〕きより善なる者あり、幼きより悪なる者あるは、気稟〔きひん〕の自然也。幼〔いとけな〕きより悪なりといえ共〔ども〕、仁・義・礼・智の性なきことあたわず。故に、恥〔はづ〕る所有り、はばかるところあり。この故に、成長して人となれり。たえてなき者は、一日も生〔い〕くべからず。水にごるといえども、水にあらずというべからず。人の性は善也といえども、悪も又〔また〕性にあらずとはいいがたし。赤子の時いまだ善悪の名なし。後来〔こうらい〕にごる(濁る)事の多少〔いくばく〕、終〔つい〕ににごらざるものは聖人也。少〔すこ〕しくにごりて(濁りて)はやくすめる(清める)は賢人也。多くにごれども(濁れども)、力を用うる事〔こと〕勇にして敏〔びん〕なるは、数年ならずしてすみ(清み)、ゆるきは、おそくすめり。人生まれて静なる以上は説くべからず。わづかに性をとけば性にあらずといえり。
2022年09月01日
一 心法は心の向かうところを慎むべし。向かう所〔ところ〕実〔じつ〕なる者は自然にいたるものなり。孟子、性善をいえり。善は内より出づるもの也。故に邪をふせぐ時は誠おのづから存す、善といい誠という、皆〔みな〕性の徳也。一体異名也。誠は則ち善也。善は則ち誠也。今の人、心の好み向かうところ、利と欲とにあり。必ずしも利欲を主とせんと思わざれども、自然に利におもむき欲に住〔じゅう〕す。工夫、力を費やさずしてよくする者は、向かう所実なれば也。誠は天を以て根〔ね〕たり。固有の徳也といえ共〔ども〕、志〔こころざし〕の向かうところ実にあらざれば、思う時は存し、忘るる時は亡するがごとし。工夫を用い力を付〔つ〕くるといえ共、存養しがたし。若〔も〕し心〔こころ〕実に徳を好み邪をふせがば、誠自然に立ちて善〔ぜん〕行わるべし。是〔これ〕を忠信を主とすという。忠信外より求め来たりて主とするにあらず、本〔もと〕よりの主也。今は人欲主となるが故に、忠信は心を起こして存す。客来〔きゃくらい〕のごとし。故に程子云く、東に之〔ゆ〕かず、西に之かず、是〔これ〕中也と。東西にゆかざるを中というにあらず、東にゆくを必〔ひつ〕とせず、西にゆくを必とせず。義とともにしたがうときは中也。
2022年08月25日
一 理をいえば気をのこし、気をいえば理をのこす。理気ははなれざれども言〔げん〕にのこす所あり、ただ道という時はのこすことなし。理気一体の名也。其の大に付いては空虚といい、其の小に付いては隠微といい、其の妙用に付いては鬼神という。天地〔てんち〕位〔くらい〕し日月明らかに、四時〔しいじ〕行われ万物生ず。みな道よりなせり。其の真は寂然〔せきぜん〕不動〔ふどう〕、無声〔ぶせい〕無臭〔ぶしゅう〕也。これを未発の中という。天下の大本たり。道は自然にして窮〔きわま〕りなしといえ共〔ども〕、陰陽の度〔ど〕・日月の寒暑・昼夜の変、常あるは、無極にして太極の〔ことわり〕也。中庸の名ありて心法の受用すべき所也。しばらく形ある物に付いて見るべし。不発不動なる者は物の根と成り、体となれり。木の根、土中にかくれて、花実、青紅の変をなす。其の根土中より出〔い〕づる時は、其の化〔か〕やむ。人の背〔せなか〕不動にして、四肢〔しし〕作用の体〔たい〕たり。万物皆しかり。道は、寂然〔せきぜん〕として不動、隠微にして不発。この故に天下の根本也。物に体〔たい〕してのこすべからず。道の不動は形の不動のごとくならず、至神〔ししん〕至動〔しどう〕といえ共〔ども〕、無欲にしてあらわれざるをいうなり。
2022年08月18日
一 心友問う。仏氏は死を説きて生を説かず。孔子は生を言いて死を言わず。儒仏のたがう(違う)所ここにあるべきか。 云う。死生一貫也。孔子何ぞ生を言いて死をのこし給わんや。人の、死を問うは、本〔もと〕をすてて末〔すえ〕による惑〔まど〕いあるによりて、其の本に達する時は、末おのづから知るべき理〔ことわり〕を教え給う也。聖人の心に生死なき事、常人の心に昼夜なきがごとし。昼夜死生一貫にして二つにあらずといえ共〔ども〕、常人は昼夜を知りて生死を知らず。これ昼夜も亦〔また〕知らざる也。しかれ共、疑いなき者は古今惑わざるの常〔つね〕によるのみ。堯舜〔ぎょうしゅん〕の民は生死も亦かくのごとし。仏氏は、生死の理にまよいて、生死をおそるるが故に、生死を説くことやまず。聖学には、生死の惑いなければおそれ(恐れ)なし。故に死生を説かず。和漢ともに、三千年来生死に恐動〔きょうどう〕せられて、生死の夢を見てさめたる者まれ(稀)なり。異学(※仏教)は、惑いに居〔い〕て惑いを解かむとす。夢中に夢を見るがごとし。聖人の道は、日月の明らかなるがごとし。まようべきことなく、さとるべき事なし。故に《孔子の云〔のたま〕わく、予〔わ〕れ言うことなからんと欲す。天何をか言わんや。四時〔しいじ〕に行なわれ、百物生ず。》(孔子云、予欲無言。天何言哉。四時行焉、百物生焉。)顔子黙識して弁論なく愚かなるがごとくなるもの、是〔これ〕なり。
2022年08月11日
一 鳶〔とび〕飛び魚踊る。鳶魚〔えんぎょ〕は無知也。故に天機に動く。人は知あるが故に、私心、天機をふさぐ。程子の云〔い〕わく、必ず事〔こと〕とする有り、正〔あらかじめ〕すること勿〔なか〕れの意也と。必ず事とする有りとは、人は人の性命あり、性命にしたがうは必ず事とする有り也。正〔あらかじめ〕すること勿れとは、私心あるべからざる也。人性、知あり。故に深く天機に通ず。活潑々地〔かっぱつぱっち〕なり。
2022年08月04日
一 仁者は其の言を訒〔しの〕ぶ。言いて行わざるは虚〔きょ〕也。君子の恥づる所なり。仁は実理也。故に仁者は言行相かえりみて虚なし。其の言の出〔い〕づる事を難〔かた〕しとする所也。好人は言すくなし。其の行〔おこな〕うことのかたき(難き)をしれば也。故にいえり、䏰々〔ジュンジュン〕たるは其の仁也と。厚きをいう也。剛毅〔ゴウキ〕朴訥〔ボクトツ〕の、仁に近きも、質朴遅鈍にして物に屈せず、終にやまずして発する所あれば也。 一 君子の道は費〔ひ〕にして隠〔いん〕なり。費は、たからとせざる也。たからとせざるは、おさめかくさざる意也。君子の道はあまねく教えてかくす事なし。しかれ共〔ども〕、言語にのべがたき所あるは、隠也。君子かくさざれ共かくれて発せず。只入徳の人黙して知るべし。
2022年07月28日
一 学友問う。間思〔かんし〕雑慮〔ざつりょ〕はらえども(払えども)生じて制しがたし。 云う。間雑の二字を妄〔もう〕とす。思慮は絶〔た〕ゆるべからず。ただ邪なからんのみ。程子云わく、人は活物〔カツブツ〕也、動作あるべし、思慮有るべし。邪を閉〔ふ〕せぐ時は、誠おのづから存す。則ち忠信を主とす、といえり。誠は無欲也。思うこともなく、為〔す〕ることもなし。寂然〔せきぜん〕不動にして感じて天下の故〔こと〕に通ず。今の人は、一己〔いっこ〕の人欲、身の主たり。故に思うこと天理ならず、動くこと義理ならず。思〔し〕・為〔い〕共に皆妄也。 妄の主をかえずして其の末をふせぐとも、制し得〔う〕べからず。間雑をはらうの念、又心上に累〔わづら〕いをますべきなり。しかじ、有念〔うねん〕・無念〔むねん〕ともに忘れて誠を思わんには。 一 心友問う。易〔イ〕に居て命〔メイ〕を俟〔マ〕つの義、いかが。 云う。富貴〔ふうき〕・貧賤・安静・患難・死生・寿夭〔じゅよう〕みな命也。俟つは客をあえしらうがごとし。心、惑〔まど〕いなく願いなく、安易の地に居て、天命の客をあえしらう意也。死生も則ち客也。故に、朝〔あした〕に道を聞いて夕〔ゆうべ〕に死すとも可なるもの也。《正叔の云わく、吾〔わ〕れ日に安地を履〔ふ〕む、何をか労し何をか苦しまん。他の人は日に危地を践〔ふ〕む、これすなわち労苦す。》(正叔云、吾日履安地、何労何苦。他人日践危地此乃労苦。)凡人は苦を以てたのしびとす、これを惑いという。日々さかしき所をおこないて幸いを求む。命のいたる事を知らず。柔弱の者はさし当りて憂哀し、勇強の者はせまりては是非なしとして亡ぶ。ともに心くらきは一つなり。
2022年07月21日
一 いにしえ、王者の天下をたもち給える時は、王城といえども池堀〔いけほり〕なく要害〔ようがい〕せず。是〔これ〕民を保〔やすん〕じて王たり。徳治の遺風を見るべし。武家の代となりては、力を以て天下をとれり。故に力を以て有〔たも〕てり。城池をかたくして一家を守るのみ也。民を外にして保〔やすん〕ぜず。是故に力〔ちから〕衰〔おとろ〕うる時は亡べり。 一 朋友問う。関東には年貢十一(※十分の一)よりかろき(軽き)所あり。然れども、民、盗をする者多きは何ぞや。 云う。是も、徒善〔トゼン〕は政〔まつりごと〕をするに足らずというものなり。日本もむかしは農兵なりし故に、皆十一の貢〔こう〕をとれり。十一よりかろきは其の後開き(※開墾し)ましたるものなるべし。飢寒〔きかん〕に及び盗をするは凡人の常也。民のごときはにくからず。上より盗をなさしむるがごとし。政〔まつりごと〕なく教えなければ、いたづらにくらす(暮らす)者多し。この故に貢かろく地ひろしといえ共〔ども〕、末々〔すえずえ〕の子弟は盗をするにいたる者也。知行〔ちぎょう〕を取る人の子弟だに強盗を好む者あり、況〔いわん〕や民をや。此の俗〔ぞく〕長ずる時は乱世の端をひらくもの也。
2022年07月14日
一 心友問う。古人云う、《忿欲〔ふんよく〕をば忍ぶと忍ばざると、便〔すなわ〕ち徳あり徳なきを見る》(忿欲忍与不忍、便見有徳無徳)と。これ小徳の者の事なるか。 云う。有徳は見所〔けんじょ〕大なる故に、世事かろくして心かからず、故にいかりなし。心に真楽あり、故に世間の願いなし。凡人は心せばくしていかりあり。道徳の楽を知らずして欲ある者を以て見る時は、忿欲の堪忍しがたきをよくしのびすぐすと見るべし。 一 吾人〔ごじん〕、徳をなさむ事を思わば、日々善をせんのみ。一善益すときは一悪損ず。日々に善をなさば日々悪退くべし。これ陽〔ひ〕長ずる時は陰〔かげ〕消〔しょう〕するの理〔ことわり〕なり。久しくしておこたらずば、善人とならざんや。名は実の声也。又善人の名あるべし。実あり名ある、これを徳といわざらんや。人利に入〔い〕る者は、義をなみす。義を尊ぶ者は、利をいやしむ。天理・人欲ならびたたざるが故なり。
2022年07月07日
一 心友問う。「よく近くたとえをとる」と云うことは、いかが。 云う。これ、事にあらず、心にあり。人、耳目口鼻四肢を取りてたとえ(譬え/喩え)せば、甚〔はなは〕だ近しとせん。其の己に有するがため也。それ仁者は、天地を一身とし、天地の間の万物を四肢百体とす。今の人の一身を見るがごとし。外〔ほか〕により取り来たりてたとえとするにあらず。この故に、万物を取りてたとえとすれども、世人の一身の中にたとえをとるよりも、親切にして人の心に通ず。夫〔そ〕れ人、己が四肢百体を見て、爪皮〔そうひ〕にいたるまで愛せずということなし。疾痛〔しつつう〕快楽その心に切なり。ただ手足しびれなえたる人のみ、うち(撲ち)つみ(抓み)ても其の心をわづらわさず。手足我に有りて疾通あづかりしらざれば、是〔これ〕を不仁の病〔やまい〕という。人の、物我〔ぶつが〕のまよいありて、他人の困苦に其の心をうごかさざるたとえとす。聖人は至神也。故に、天地を父母とし人民を兄弟とす。不仁の人は、父母兄弟の困苦だに己が四肢のごときとならず。この故に恩を知らざる者あり。 問う。今の時、天下困苦の人多し。これを以て一々其の心〔こころ〕累〔わづら〕わさば、快楽のいとまなからむか。 云う。義は仁の時なり。天下の主は、天下の困苦を以て其の心をいたましむ。故に困苦なき仁政あり。国主・郡主しかり。士・庶人は其の一家の困苦をあずかるべし。是〔これ〕其の分〔ぶん〕によりて仁のほどこし異なるは着也。仁を好みて義を知らざる者は、国・郡〔こおり〕の主として天下をすくわんことを願い、士・庶人として国におよぼさん事を欲す。却りて倫〔りん〕をみだり(乱り)仁の累〔わずらい〕をなす者あり。これを知らざるなり。
2022年06月30日
一 心友問う。《篤恭にして天下平かなり。己を修めて以て敬あり。以て百姓を安んず》(篤恭而天下平。修己以敬。以安百姓)といえり。(※『中庸』三十二章)恭敬のみにして天下・国家を平・治するの功をなすべきことは迂遠〔ウエン〕ならずや。 云う。これただ誠のみ也。誠なる人は其の容体〔ようてい〕自然にうやうやし。上〔かみ〕たる人〔ひと〕誠の徳〔とく〕篤〔あつ〕くして、下にのぞみ給う時は、天下の人、天性の誠を鼓舞せられて、知らず識らず礼儀あつき風俗になりて、慎みうやうやし。刑法をたてておそれしむる者は、まぬかれんとして恥ずる心なし。心ありて戒慎〔かいしん〕する者は、忘るる時多し。道徳によらずしてつとむる者は、終りなし。才知を用いて令する者は、一旦利ありといえ共〔ども〕、人民もまた知謀を起こして偽り生ず。君子は、明智にして無為をもって無事也。 問う。「大人〔たいじん〕は、天地と其の徳を合わせ、日月と其の明を合わせ、鬼神と其の吉凶を合わす」(※『易経』乾卦文言)といえり。これ恭敬の徳にかなうべきか。 云う。上下恭敬に一つなる時は、気和せずということなし。天地おのづから位〔くらい〕し、万物おのづから育〔いく〕す。人民、春風和気の中に遊んで、其の利を利とし其の楽しみをたのしめり。天〔てん〕尊〔たか〕く地〔ち〕卑〔ひきく〕して乾坤定まり、四時行われ万物生ず。無為にして成る。これ篤恭にして天下平かなる至極也、天地と其の徳を合わする也。日月の道は貞明也。至誠なるものは常久にして息〔や〕まず、これ貞也。誠なる時は必ず明らか也。則〔すなわ〕ち日月と其の明を合わする也。鬼神は福善禍淫に誠也。故に怒らずして威あり。君子善を好むに誠ありて悪をにくむに実〔まこと〕也。其の信、人民の心に感通す。故に天下悪をする事を恐れて邪偽を忘れ、徳に習いて善を常とす。これ鬼神と其の吉凶を合わする也。古今、邪偽凶乱のおこる事、皆慎まざるよりなれり。故に敬は百邪に勝つともいえり。況〔いわん〕や有徳の君子〔くんし〕上〔かみ〕に在〔いま〕して、無心の恭敬行わるる時は、人心の万悪〔ばんお〕消〔しょう〕し、山川の衆邪滅〔めつ〕す。知謀・勇力のある者は、其の才を礼楽弓馬書数に用いて、天下〔てんか〕益〔ますます〕文明に武威〔ぶい〕弥〔いよいよ〕盛なり。故に云う、《古〔いにしえ〕の強にして力ある者は、将〔まさ〕に以て礼を行なわんとす。今の強にして力ある者は、将に以て乱を為さんとす》(古之強有力者、将以行礼。今之強有力者、将以為乱)と。
2022年06月23日
一 心友問う。紂〔ちゅう〕王が亡びしことは自らの大悪虐を以て也。商の天下をたもてること六百年なれば、天下皆代々の臣也。宗族外威かぎりなし。紂亡びて悪人だになくば、四方皆商の子孫を君とすべき人情あり、何ぞ同輩の周を君とせん。しかるに武王紂を亡し給いて、其の子を立て置き大国を与え給うことは、凡知の及ぶべきところにあらず。天命を知り給えば也。敵の子をたづね求めて殺すは、子孫の害を除くはかりごとなれ共〔ども〕、これによりて却〔かえ〕りて天命をそむく理〔ことわり〕をしらず。敵の子を立ておくは、心もとなき様なれど、これによりて天命にかなえば却りて長久也。まことに天命の帰するところは人力の及ぶべきにあらず。武王は聖知にてよく命〔めい〕を知り給う故なるか。 云う。尤も、この理、武王の心に明白といえども、是〔これ〕を事とし給うにはあらず。此〔かく〕の如き天命をわきまえて道を行なうは吾人の心術也。武王は天命をこうぶり、伐〔う〕つべくして伐つのみ。時の勝負を必〔ひつ〕とせず、後の利をはからず、害をさけず。故に悪人亡びて後は、紂が子は商の孫子となれば、立てて退き給うのみ。天下これを主君とせば、ともに仕え給うべし。天下武王を主君とするは、天の命ずるところ也。又辞せず。
2022年06月16日
一 心友問う。神代〔じんだい〕の神器は知・仁・勇の徳の象とうけ給わりぬ。内侍所〔ないしどころ〕(※鏡)を第一とし給うが如し。知を重んずることは何ぞや。 云う。人君の、国を治め四海をたもち給う事、知を以て主体とす。知〔ち〕明らかなれば、とりしめ(取り締め)ありて事〔こと〕可にあたる。故に、太平の時は無事にして治〔おさま〕り、事ある時は士民皆主君の下知〔げち〕を信ず。生まれ付き仁愛・勇強にして、一旦人にほめらるる人有りといえ共〔ども〕、知〔ち〕明らかならざれば、命令、可に当たらず。故に、法令〔ほうれい〕数多〔あまた〕に成りて事しげし(繁し)。人あまねく(遍く/普く)したがいがたし。しいて(強いて)立てむとすれば人をそこない乱をなす。立つることあたわざれば(能わざれば)法令〔ほうれい〕出〔い〕でてもなきがごとし。人〔ひと〕皆〔みな〕上〔かみ〕の下知〔げち〕を信ぜざれば、時ありて国やぶれ天下乱るるもの也。夫〔そ〕れ神〔かみ〕の代〔よ〕・人の代〔よ〕の其のむかしは、治体に通じ給いし故に、鏡〔かがみ〕・璽〔たま〕・剣〔けん〕を以て知・仁・勇の象とし、知を主とし給いし也。知の実は人を知るこれ也。人を知るは帝堯を以て師〔し/すい〕とすべし。
2022年06月09日
一 心友問う。怒〔いか〕りては難を思うと。利害をはかるに似たり、いかむ。 云う。怒りの火気の中には、言を過ごし行をあやまり後悔の難あるものなり。甚〔はなは〕だしきはあだを得〔う〕るに及べり。「君子は刑を懐〔おも〕う、小人は恵〔けい〕を懐う」の類なり。恵をおもうは利害の心也。刑をおもうは君子孝子の慎み也。怒りて難を思うは、深淵に臨みては落ち入らむことを慎むの道理也。小人は甚だ難を恐れさくる(避くる)といえども、愚にして火気におかされ、其の難を前に弁えず。君子は義に当てては難をさけずといえ共〔ども〕、自らまねく禍〔わざわい〕をば慎みさくるなり。火気うすき故に、心明らかにして後の難を前に知る也。故にいかれ共〔ども〕難あらず。楽しみて淫せず哀しみて傷〔やぶ〕らざるに同じ。 一 心友問う。心友問う。舜の怨慕〔えんぼ〕は、註(※朱註)に父母を怨〔うら〕むるに非ずといえり。孝子のうらみありと聞くはいかん。 云う。則ち孝子の怨みなり。常人の父母をうらむる心にてはなしといえども、父母を怨むるにあらずとはいいがたし。二、三歳の幼子の、母にうたれてなきながら、又母をしたいて跡をつき行くこころ也。
2022年06月02日
一 旧友問う。平の清盛、常盤〔ときわ〕が色に迷いて、敵の子を助けおき、子孫の憂えとなれり。其の外〔ほか〕此の如くのためし多し。よくたづね求め殺すべき事なるか。 云う。凡人より見る時はしかり。天命を知る人よりみればしからず。色にまよわずして人の根〔ね〕をたつべきよりは、色にまよいてなりとも助けたるはまされり。義朝の子を残らず殺したりとも、清盛が悪虐〔あくぎゃく〕・平家の奢〔おご〕りにては、外より敵おこりてほろぼさるべし。平氏、天命にそむきて、みづから敵を生ずるなれば、誰ということはあるまじ。迷いてなりとも助け置きて人の後をたたざる故に、平家のほろぶるにも、子孫ここかしこに落ちとまりて今にたえざる也。 一 心友問う。書簡中(*)、「忠信を主とすは本体工夫也、意を誠にすは工夫本体也」と候は、陽明子の学術、異学の病あるに似たり。如何。 云う。予も、此の語意、中和ならずと思えり。然れども、義において害なきが故に改めず。忠信は人の人たる根本の徳也。誠は天の道也、則〔すなわ〕ち本体也。誠を思うは人の道也、則ち工夫也。忠信を主とすは誠を思うの義なり。誠意の誠は意を誠にするなれば工夫也。然れども意〔い〕終〔つい〕に誠に帰するときは、誠の本体也。故に工夫本体というなり。 *『集義和書』巻四書簡之四 一、来書略。忠信を主とすの語、諸儒の説を聞き候といえども、 文義に依りて理を云う所はきこえたる様に候えども、 今日の受用にて取りてはしかと得心〔とくしん〕仕〔つかまつ〕りがたく候。 返書略。大学の伝に意ヲ誠ニスといえるは即ち忠信ヲ主トスルの工夫なり。 忠信を主とするは本体工夫なり。意を誠にするは工夫本体なり。 忠信を主とするは未発〔みはつ〕の時に誠を養うなり。 意を誠とするは已発〔いはつ〕の時に誠を存するなり。 誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。 誠を思う心真実なれば、誠すなわち主となりて、思念をからずして存せり。 是〔コレ〕忠信を主とするなり。 又先儒の説に、真心〔しんじん〕に発する、これを忠といい、 実理を尽くす、これを信というといえり。 此の解おもしろく覚え候。
2022年05月26日
一 旧友問う。今の世にかまい(構)といいて、一代奉行をおさえて先々〔さきざき〕をふせぎて困窮せしむることは、或いは死罪・流罪につぐ(次ぐ)者なれば、尤もことわり(理)とは思い侍れ共〔ども〕、君子を諸侯にしては、如何〔いかが〕はからい給うべきや。 云う。此の習い久〔ひさし〕うして深ければ論じがたし。しかれ共、君子までもなく、ちかき世に、或〔ある〕国主の仁厚寛裕なるありしが、他家ならば、切腹もさすべき罪あるものにても、我れ彼〔か〕の者になりかわりて見ば、必ずいいわけあるべし、されど主君に対していいわけは成りがたきもの也、又〔また〕死をおしむにも似たれば、黙して切腹すると見えたりとて、ゆるして扶持〔ふち〕をはなし給えり。又不届き成る事にて立ち退きたる者をも先々をばふせぎ給わず、他家に扶持せらるる時、其の主人より仔細なき者かと尋ね来ることあれば、不届きなりし者にても、重宝なる者なり、目をかけ給うべしと返答ありし也。あしきことは身におぼえのあることなれば、感涙をながし悦びに思い、それよりは古主〔こしゅ〕の言葉の相違なき様にとたしなみ、みなよき奉公人に成りぬれば、其の言もむなしからずと人のかたり侍りし。人〔ひと〕皆父母妻子あり。一家を助け立つるのみならず、不善人を善人とし給えり。それ人悪を記すは、其の役人にあらざれば無用の事也。されど、此〔かく〕の如き善人ばかりは、その姓名を聞きて記しおきたき事也。九州の郡主〔こおりぬし〕にて十万石ばかりの人とおぼえ侍り。まことに有りがたき好人也。罪の軽重を論じて、理屈を以ていわば、誰かものいう人あらん。善悪賞罰の理にしがたわんよりは、斯〔かく〕の如き大徳こそあらましく侍れ。天地の間に生まれ出〔い〕でて、数十年のつとめをなし、一家を養育すべき者を、かまいて世のすたり者となすことは、不便〔ふびん〕の事ならずや。なお孟子につまびらかなり。士に本〔もと〕より高下なし。上下は一旦の命〔めい〕なり。唐〔もろこし〕・日本とも同じ。
2022年05月19日
一 同志の人々の書を読むこと、心を用いて書を読むか、書を以て心を読むか。多くは書を本〔もと〕として心を末〔すえ〕とし、書の文義を解せんことを求めて心をわするるならん。陽明子、是〔これ〕を食にたとう。食は此の身を養うもの也。食〔しょく〕しおわりては消化すべし。若〔も〕し食〔しょく〕積みて消〔しょう〕せざれば病をなす。後世、博文多識、胸中に滞〔とどこお〕る者は食傷の病也といえり。故に、よく書を見る者は、かたはし(片端)より解せんとせず、文義にくるしまず。只〔ただ〕書によって自己の心を説き得て悦ぶところを楽しむ也。知り得れば本〔もと〕知るべきことなし。さとり得れば本さとるべきことなし。知覚は知覚なき所に至らんが為也。しかれ共〔ども〕、知らざるときは淪埋〔りんまい〕す。 問う。先言往行を識〔しる〕してたくわうる(蓄うる)といえるはいかむ。 云う。本〔もと〕立つときは、知識たすけと成るべし。末〔すえ〕によるときは、知識〔ちしき〕累〔わづら〕いをなす也。此の身を養うを以て主意とする時は、飲食みな助けとなり、味わいを好むにながるる時は、病を生ずるがごとし。
2022年05月12日
一 心友問う。操〔と〕るときは存すといえり。とるという時は、一物有るがごとし、いかが。 云う。古人云わく、欲すべき物は是〔これ〕形色の上にあり。留蔵〔りゅうぞう〕すべき物は気象の上にあり。欲すべからず、留蔵すべからざる所において、操るといい存すという。惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端の発見〔はつげん〕し著〔あらわ〕るる事多くば、操存〔そうそん〕のしるし也。忿懥〔ふんち〕・憂患・好悪・驚懼〔きょうく〕の情〔じょう〕日々に滋長するは、放舎〔ほうしゃ〕亡失〔ぼうしつ〕のしるし也。 問う。四端も亦〔また〕情ならずや。本心の無思無為・寂然不動の常体にあらず。自然の感はさもあるべし。しげきを以てよしとするは、何ぞや。 云う。天理・人欲、並び立たず、心、天理を主とする時は、人欲亡失す、是〔これ〕を操存という。心、人欲を主とする時は、天理亡失す、是を放舎と云う。天理存する時は、日夜天理の感応のみ。故に、万物一体の理〔ことわり〕感じては惻隠の情〔じょう〕発す。義の理を感じては羞悪〔しゅうお〕の情発す。礼・知も又しかり。是〔これ〕皆真実無妄の天理也。これを天理流行と云う。則〔すなわ〕ち無思無為・寂然不動の常体也。思い邪〔よこしま〕無きことを無思と云い、私己〔しこ〕の動きなきは無為と云う。天理の寂然不動は有事・無事を以て二つにせず。《陽明子云く、鐘、未〔いま〕だ扣〔たた〕かざる時、原〔もと〕これ天を驚かし地を動かす。既に扣〔たた〕く時、也〔また〕只〔ただ〕これ天を寂〔せき〕し地を寞〔ばく〕す。》(陽明子云、鐘未扣時、原是驚天動地。既扣時、也只是寂天寞地。) 問う。天理を主とし、人欲を主とす。心の外に天理・人欲と云う物あるがごとし、いかん。 云う。此の心の外〔ほか〕に天理なし。人欲も亦〔また〕外ならず。たとえば目のごとし。喜悦する時の眼色と、忿怒〔ふんど〕する時の眼色と、眼色各別也といえども、同じ目なるがごとし。ただ心のおもむきを以て天理・人欲をわかつのみ也。心〔こころ〕裏〔ウチ〕に向い、性命の本源を失わざるときは、天理を主とすると云い、心〔こころ〕表〔ホカ〕に向い、末にしたがう時は、人欲を主とすと云うなり。 問う。心、内外なし、何ぞ裏〔うち〕に向うというや。 云う。本〔もと〕より内外なし。内外に出入りするをいうにあらず、ただ心のおもむきを云うなり。 問う。七情(※喜怒哀楽愛悪欲)は聖人といえどもなきことあたわじ。放舎のしるしとは心得がたし。 云う。ただ聖人のみならず、天地といえ共〔ども〕七情あり。凡夫といえども又〔また〕四端あり。凡人の四端は、百姓日々に用いて知らずと云うもの也。聖人の七情は、形色は天性なり、ひとり聖人にしてあとよく形を践〔ふ〕むべし、と云うものなり。
2022年05月05日
一 学友問う。天は其の理〔ことわり〕に応じて無心なり。聖人は其の心万事に順〔じゅん〕にして無情也。無心無情はよきにとれり。しかるに、歌をよむ時、心あるというはよく、心なしというはあしきは、いかが。 云う。歌に心あるというは、なさけ有りというたぐい(類)にて仁愛あり、物に心得て平人ならざるをいう成るべし。心なきというは、何もしらぬ賤男〔しづのお〕賤女〔しづのめ〕に同じき者にて、なさけなき人という義〔ぎ〕成るべし。聖人に無情といえるも、情なきにはあらず。天地の四時の色のごとく、理に和して気のうごきなきをいうなり。無心と云うも至公にして私心なきの義なり。 一 或るひと問う。本体は空々〔くうくう〕寂々〔じゃくじゃく〕たり、感あるべからず。わづかに感ずるは是〔これ〕気也。惻隠の心も赤子の井〔い〕に入〔い〕るなどを見て発す。物の感ずることあれば応ずる也。感応は陰陽なり、理〔ことわり〕というべからず。仁義礼知共に気の霊覚也。本然は陰陽感応をはなれたるものにはあらずや。 云う。本体の理は、応ぜざれども時ありて感ず。太虚無一物の時、何者か来たりて感応すべきや。本理の無声〔ぶせい〕無臭〔ぶしゅう〕は寂感也。ひとり感ぜずには、天地も何よりてかひらくべきや。感の聞くべく云うべきは気也。本体の感は、見るべからず、聞くべからず、その跡によっていうのみ。わづかに感応をいえば、本体にあらず。天下の故〔こと〕に通ずる所に付きて、其の本〔もと〕を知るのみ。故に感と云う。気にわたりたる所を以ていえるは、あやまり也。又〔また〕本体に感なきと見るも、本体を知らざる也。至神は神ならず。
2022年04月28日
一 心友問う。故人のかきおきたる書を見れば、博文にして約礼を説き、人情・時変に達して甚〔はなは〕だ睿明〔えいめい〕なり。其の世にありて直談〔ぢきだん〕せし人のいえるは、書に見たる様にはなくて、あやしきがごとくなる人なり。厚勤〔こうきん〕篤実〔とくじつ〕の君子にあらずと也。疑いなきことあたわず。 云う。尤〔もっと〕もさあるべし。天の物を生ずる、二つながら全きことなし。厚勤篤実にして人の見て尊信美称する人には、睿明の才すくなし。睿明広才の者には、厚勤篤実の質有りがたし。人〔ひと〕見てあやしといえる所、則ち睿明の天質につきたる疵〔きづ〕也。小兵〔こひょう〕美男〔びなん〕の人に大勇あるがごとし。大勇のきこえありて其の人をみればあやしきがごとし。我が心を以てむかえて人を見る故なり。石にはなべて此の疵あれ共〔ども〕疵とせず。玉なるが故に疵〔キヅ〕とす。睿明の人其の疵をおおわず。君子の風をつくらざるところ、則ち君子なる事をしらず。平生よりしらずとも、歳〔とし〕寒〔さむ〕うして、松の、紅葉〔もみじ〕におくるる(後るる)ことあるべし。この故に、人をみること古〔いにしえ〕よりかたし(難し)。ただ聖人にして篤実睿明備わるべし。それだに、十一人の列聖同坐し給わば、其の気象同じかるべからず。況〔いわん〕や大賢以下の人は恭敬篤実にして、うちみるより君子とおもわるる気象の人には、天下百千歳の習惑をひきかえすほどの睿明広才はなきもの也。それほどすぐれたる英才は、必ず恭敬篤実の所足らざる也。しかれども、心の無欲清浄なる事はかわりなし。
2022年04月21日
一 心友問う。間思雑慮〔かんしざつりょ〕の妄念、はらえ共〔ども〕跡〔あと〕より生じて克〔か〕ち去ること成りがたし、いかなる工夫にてか、此の心魔〔シンマ〕を降伏〔ゴウフク〕すべきや。 云う。吾子〔ごし〕、何のために此の妄念をいとえる(厭える)や。 云う。悟道を得て惑〔まど〕いなく、心楽を得て苦〔く〕なからんことを欲す。 云う。何ぞや、吾子が悟道と云うは。闇夜の明けたるがごとく悪夢のさめたるが如くならんと思えるか。 云う。しかり。 云う。何ぞや、吾子が願える心楽というは。世間の諸々の苦痛去りて、心〔こころ〕常に快楽ならんと思えるか。 云う。しかり。 云う。その諸〔もろもろ〕の惑い・諸々の苦は、皆〔みな〕私欲より生ず。吾子、凡根〔ぼんこん〕の私欲を秘蔵して、私欲より出づるものを去るとも、終身〔しゅうしん〕功なけん。仏者の、今生〔こんじょう〕やすからざる為に後生〔ごしょう〕を願うがごとし。其の心〔こころ〕則ち地獄なることを知らざる也。貪欲を本〔もと〕として願えばにや、後生を願う者は欲ふかく悪行なる者也といえり。世間、惑いを行いて才知有りとし、苦を聚〔あつ〕めて利とする者は、終〔つい〕に道学をきかざる人也。吾子、苦惑〔くわく〕をさとれる(悟れる)ことは、平人に異なるが如くなれども、凡心の私欲利害を帯びたることは同じ。夫〔そ〕れ欲と惑いとは一病〔いちびょう〕両痛〔りょうつう〕にして、間思雑慮の源〔みなもと〕也。此の源を絶たずして此の間雑を克治〔こくち〕せむとす。凡心を以て俄かに聖人の無思無為・寂然不動感じて通ずるの位〔くらい〕を望めり。是〔こ〕れ義を以て襲いてとる(取る)というもの也。身を終るまで得〔う〕べからず。吾子、恒〔つね〕に産〔さん〕(※財産・生業)なけ共〔ども〕、恒の心あり。盗みをせざるの事においては精義〔せいぎ〕神に入〔い〕る。故に、盗みをすべき間思慮〔かんしりょ〕なし。盗みをしたる夢もなし。これ、何の工夫・何の学に得たるや。此の一事には欲惑〔よくわく〕の病〔やまい〕なければ也。故に、一分〔いちぶ〕心を尽くせば一分の明悟〔めいご〕・安楽あり。明悟・安楽ともに性の妙用也。性を尽くすに従いて生ず。明悟・安楽を求めんがために学ぶ者は私欲なり。私欲を以て道を得べきことかたし。心は活潑々地〔かっぱつぱっち〕、生々不息〔せいせいふそく〕の理〔ことわり〕也。是れ故に、心の官は思うといえり。私欲の累〔わづら〕い除きて天理流行する時は、思慮〔しりょ〕皆〔みな〕其の官を得〔う〕。これを一致〔いっち〕百慮〔ひゃくりょ〕ともいう。清水〔せいすい〕・濁水〔だくすい〕同じく一河〔いちが〕の流れなるがごとし。思慮は、たとえば水のごとし。間雑は濁りのごとし。濁りをいといて(厭いて)水をふさがむとするとも、源ある泉なればとどむべからず。心の活潑流行なれば絶つべからず。源泉ながれて息〔や〕まざるときは、まじわりたる濁りは一旦の事にて、根〔ね〕なきものなれば、終には、本源の水ばかりに成りて清〔す〕む也。学者も又〔また〕期する所なくして実〔じつ〕をつとめてやまざる時は、間慮の妄は一旦の迷いなれば、次第にのぞき去りて、心の本然〔ほんねん〕を得〔う〕べし。天理・人欲並び立たずといえり。吾子、私欲を心源〔しんげん〕として、其の心源より出づるものを去らむとするは惑いなり。天理を心源とせば、制せず共〔とも〕間慮除くべし。陽明子〔ようめいし〕云〔いわ〕く、養生は清心〔せいしん〕寡欲〔かよく〕を要〔よう〕とす。養生の二字自ら私〔ワタクシ〕し自ら利す。此の病根東に滅して生ぜん。清心寡欲終に得べからず。 又〔また〕云く、寧静〔ねいせい〕を求むと欲して念生じることなからむと欲す。これ自ら私し自ら利する意必〔いひつ〕の病〔やまい〕也。是〔ここ〕を以て念いよいよ生じて、いよいよ寧静ならずと。今、吾子、念をはらい去りて無念なる所を本体と思えるは、不可也。これ却りて、私念〔しねん〕死体也。維〔こ〕れ天之命、於〔ああ〕穆〔ぼく〕として已まずといえり。天機〔てんき〕活潑〔かっぱつ〕、しばらくもやむべからず。故に、人〔ひと〕念〔ねん〕なき時なし、ただ正しからんことを欲するのみ。思〔し〕無〔む〕邪〔じゃ〕の三字心法を尽くせり。言近くして旨遠し。故に、学者ゆるがせにして無窮の味わいをしらず。戒慎〔かいしん〕恐懼〔きょうく〕して独〔どく〕を慎むも則ち念〔ねん〕也。君子は、無欲を以て静とし、好悪〔こうお〕なきを以て無念とす。
2022年04月14日
一 旧友問う。貴老、いにしえ士官の時(※備前池田藩士官の時)、罪人あれども吟味もし給わず、殺すべき者をも助け給えり。和に過ぎたると申す者あり。 云う。野拙〔やせつ〕は、むかし風にて、当世の風にはあい侍らず。むかしの武人は人を大切におもいて、理屈をやわらげ侍れば、罪科〔ざいか〕に行うべき者をも、又よき所あるものなれば、おしみてかくし置き、我と悔いさとりて改めんことを欲せし也。世上の理屈を以ては殺すべき者なれども、其の身に成りて見ればことわり(※理由)もありながら、命〔いのち〕をおしむ様なるゆえに、黙してことわりをいわざる者有り、其の心を察して助け有り。今は世間無事なる故に、理屈を専らにして人を愛せず。罪〔つみ〕過〔とが〕をもとめ出〔い〕だし、理屈を以て穿鑿〔せんさく〕せば、直〔す〕ぐなる人は多くは侍らじ。世間さわがしく国家あやうき時は、用も立つべき者をば、何事をも見ゆるし、言葉をやわらげて頼むもの也といえり。俄かにひきかえてはみぐるしかるべき事をおもえば、かねて有事・無事一つならんことをねがい有り。
2022年04月07日
一 心友問う。世の学者の云う、人死して精神なし。父母先祖を祭るといえ共〔ども〕、其の祭りを受〔う〕くべき者なし。ただ、孝子の心の、死に事〔つか〕うること生に事〔つか〕うる如くするのみ也と。誠に我〔われ〕・人〔ひと〕共に死して何かあるべき。 云う。此〔かく〕の如く見て悟道せばまことに易き事也。ただ人身のみを見て此の見〔けん〕あり。人心は形気〔けいき〕の心也。此の形〔かたち〕なければ此の心なし。吾人の本心は理〔ことわり〕也。理は始め無く終り無し。生生〔せいせい〕して息〔や〕まず。即ち性即ち心也。君子は此の理〔ことわり〕明らかにして存〔そん〕す。死生を以て二つにせず。人心も天理を以て動くときは、形色〔けいしょく〕共に天性にして形をふむ者也。亡びざる者は常に存し、亡ぶるものは今よりなし。生死を以て有無をいう者は、道を知らざるなり。
2022年03月31日
一 心友問う。俗楽〔ぞくらく〕・真楽〔しんらく〕の分〔ぶん〕いかむ。 云う。憂苦を去りて悦楽を求むるは俗楽也。天地の理〔ことわり〕、陽〔よう〕のみにして陰〔いん〕なきことはあたわず。人生の境〔さかい〕、苦楽たがいにいたれり(至れり)。苦をいとえ(厭え)ども去ることあたわず。楽を求むれども得〔う〕るあたわず。たまたま楽を得ても楽中に苦を生ず。況〔いわん〕や、患難の来たること、冬の寒気のいたるがごとくにして、ふせぐべからず。故に、俗楽は、仏家にいえる水の泡の如く、電〔イナビカリ〕の影のごとく、幻〔マボロシ〕のごとくにして、其の有無を定めがたし。真楽は悦楽・憂患を以て二つにせず。憂〔うれ〕うべくして憂うといえども、憂え、心中、人欲のまじわりなければ、其の楽しみを改めず。悦ぶべくして悦ぶといえども、其の喜び、心中、人欲のまじわりなければ、楽しみて淫〔いん〕せず。怒るべくしていかるといえ共〔ども〕、火気〔かき〕の動きなければ、心体〔しんたい〕廓然〔カクゼン〕太公〔たいこう〕(大公)にして本体の正を失わず。たとえば外人(※他人)の相〔あい〕争い相闘う者を見るがごとし。其の非道なるは、我が心にも怒る。いかるといえども、我にあづからざれば、心動かざるがごとし。病苦といえ共、病〔やまい〕のために心体をくるしめず、常に快活の本然を失わず。此の心の動かざるところ、則〔すなわ〕ち楽しみ也。ひとり死生の理〔ことわり〕において、聖学の徒大体まどいなし。昼夜の道とひとしき理はさとれり。しかれ共、其の心、死にあたりては、日くれていぬる(寝る)と同じくおもうことかたし(難し)。ここにいたりて毫髪〔ごうはつ〕(※わづか)もいさぎよからざる所あるは、全体においてまだ融釈〔ユウエキ〕せざる所ある故也。されば、いまだ至楽にいたることあたわず。世間、死をよくする者多しといえども、或いは名により、或いは学見により、心を起こして、強いて安〔やす〕んずるなり。昼夜の道に通じて知る者すくなし。
2022年03月24日
一 心友問う。周子〔しゅう し〕、静〔せい〕を主〔しゅ〕とすといえり*。心を存すればおのづから静かなり。自然に未発の中〔ちゅう〕立つがごとし、いかむ。 云う。静によりて静を求むるは、気の静也。今の人、気を定め得て存心〔そんしん〕とおもえるは、未発の中にあらず。古人、静を主とするの功夫〔くふう〕は、平生、義にうつり理〔り〕にしたがって私なきを無欲とす。無欲なれば心自然に静にして未発の中〔ちゅう〕存す。此の未発の中は、動静を以て損益なし。静を好むは動をいとう(厭う)心あり。理にしたがうこと専〔もっぱ〕らならず。物にさへ(遮え)らるるは真の静にあらず。程子〔ていし〕定性〔テイセイ〕を言う、定〔テイ〕は心の本体也。動静は遇〔あ〕うところの時也。王(陽明)子云わく、精神・道徳・言動、大方〔おおかた〕収斂〔シュウレン〕を主とす。発散は是〔こ〕の已〔や〕むを得ざる也。天地万物みな然り。此の説主静の功〔こう〕に益あり。人〔ひと〕常に已むを得ずして応ずるときはあやまちすくなし。心無欲にして無事を行う也。 *『伝習録』中「答陸原静書(陸原静〔りくげんせい〕に答うる書)」 來書云、周子曰、主静、程子曰、動亦定、静亦定。 先生曰、定者心本體、是静静也、決非不覩不聞、無思無為之謂。 必常知常存常主於理之謂也。 夫常知常存常主於理、明是動也。已発也。 何以謂之静。何以謂之本體。豈是静定也。 又有以貫乎心之動静者耶。 來書〔らいしょ〕に云う、周子曰く、静〔せい〕を主とす、と。 程子曰く、動〔どう〕にも亦〔また〕定まり、 静〔せい〕にも亦〔また〕定まる、と。 先生曰く、定〔てい〕は心の本體〔ほんたい〕なり、と。 是〔こ〕の静定〔せいてい〕や、決して覩〔み〕ず聞かず、 思うこと無く為すこと無きの謂〔いい〕に非ず。 必ず理〔り〕を常知〔じょうち〕し常存〔じょうそん〕し 常主〔じょうしゅ〕するの謂〔いい〕ならん。 夫〔そ〕れ理〔り〕を常知し常存し常主するは、 明かに是〔こ〕れ動〔どう〕也。已発〔いはつ〕也。 何を以て之を静と謂うや。何を以て之を本體と謂うや。 豈〔あに〕是〔こ〕の静定〔せいてい〕や。 又〔また〕以て心の動静を貫く者〔もの〕有りや。 (参考・近藤泰信 著『新釈漢文大系 13 伝習録』p. 295 明治書院)
2022年03月17日
一 心友問う。下学〔かがく〕上達〔じょうたつ〕は下〔しも〕人事を学びて上〔かみ〕天理に達すといえり、いかむ。 云う。しかり。陽明子〔ようめい し〕云〔いわ〕く、教えて学ぶべく、功夫〔くふう〕を用うべき者は皆〔みな〕下学〔かがく〕也。上達は下学の裏〔うち〕にありと。耳目〔じもく〕の聡明〔そうめい〕・説解〔せっかい〕の精微〔せいび〕・心思の功夫は、人事也。此の人事の中より耳目・言説・心思の、人力の及ぶべからずして自然に得〔う〕る者あり。これ則〔すなわ〕ち上達の天理なり。下学のつとめの誠あるによって至るべき所なり。 一 心友問う。知行合一といえども、知りて行わざる者多し。知ることは易く行なうことは難〔かた〕し。されば、知行合一とはいいがたからんか。 云う。王(陽明)子云く、知は行の始めなり。行は知の成る也と。此の説〔せつ〕易簡〔いかん〕にして得たり。知るといえども行わざるは、始めあらずということなし、よく終りあることすくなし、といえるものなり。知ること実ならざるが故に成ることなき也。
2022年03月10日
一 心友問う。陽明子云く、唐虞〔とうぐ〕(※堯舜)以上の治〔ち〕は、後世〔こうせい〕復〔ふく〕すべからず。三代(※夏・殷・周)以下の治は、後世〔こうせい〕法〔のっと〕るべからず。惟〔ただ〕三代の治行う可〔べ〕し。しかれども、世の三代をいう者、其の本〔もと〕を明らかにせずして、其の末〔すえ〕を事とす。又〔また〕復すべからずと。三代の法、今の時に叶い侍るや。 云う。万世師とすべく、他方〔たほう〕法〔のっと〕るべきは堯舜の治也。礼いまだ備わらずといえども、渾然〔こんぜん〕として存〔そん〕せり。篤恭〔とくきょう〕にして天下〔てんか〕平〔たいら〕かなり。易簡〔いかん〕の善、至徳に配し、中和を致して天下位し万物を育するの至り也。子思〔しし〕云〔いわ〕く、仲尼〔ちゅうじ〕、堯舜を祖述し、文武を憲章す。孟子云く、堯舜を師としてあやまてる者はあらじと。唐虞三代共に其の本を明らかにする時は一つ也。其の末を事とする時はみな復すべからず。三代以下は道行わざれば、いうにたたず。世の三代というもの、多くは周の博文〔はくぶん〕の末を事とせり。夏商〔かしょう〕をまじえ、時に応ずるをとれる者すくなし。孔子〔こうし〕云〔のたまわ〕く、夏〔カ〕の時を行え、殷〔イン〕の輅〔ロ〕にのれ、周の冕〔ベン〕を服せよ、楽〔ガク〕は即ち韶舞〔ショウブ〕をせよ。これ、孔子の、堯舜三代の法の其の時に行うべきものを取り給う意なり。聖人の法は、春夏秋冬の時によりて、衣服飲食動作の異なるがごとし。久しければ弊〔ツイエ〕あり。故に時に因って損益すべし。又〔また〕曰〔のたまわ〕く、麻冕〔マベン〕は礼也。今、純〔イト〕は倹せり。吾〔われ〕は衆に従わんと。緇布冠〔しふかん〕(※黒い布の冠)は三十〔さんじゅう〕升〔ヨミ〕の布を用うることを礼の法也といえども、今の人の手になりがたし。故に世人これを省約〔せいやく〕す。孔子もしたがい給う也。三代の礼といえども、今の世人の人情・時勢・気力に叶いがたきものは用うべからず。万々歳といえ共〔ドモ〕、日本の他方というとも、祖述して師とすべきは唐虞の治也。孔子の云〔のたまわ〕く、無為にして治るものは其れ舜か。黄帝堯舜、衣裳を垂れて天下治る。 問う。陽明子云く、行うに太古の俗を以てせんと欲するは、老仏の学術也と。まことに朴〔バク〕に反〔カエ〕り淳に還〔カエ〕ることは、万物を放下せずば叶うべからず。専〔もっぱ〕ら無為を事とするは、三王(夏・殷・周の王)の、時に因〔より〕て治を致すが如くなること能〔あた〕わず。 云う。無為にも又〔また〕真〔しん〕あり。時に因て治を致して、近き者いとわざる(厭わざる)は即ち無為なり。俄かに太古純朴の跡をかえし行わむと欲すとも、得〔う〕べからず。勢いある人しいてなさば、大いに害あるべし。天下の大乱は、虚文勝ちて実行〔じっこう〕衰〔おとろ〕うるよるといえども、事を以て倹約朴素にかえさんとするは、ただ其のままの虚文不実にて、すておくにはおとり(劣り)て、乱いよいよすすむべし。事の多少博約にかかわらず、唯〔ただ〕心の誠を立て、天下誠を尊びば、太古無為純朴の真ならむ。風俗は漸〔ゼン〕を以て復して害あるべからず。
2022年03月03日
一 心友問う。朱子、道心〔どうしん〕常に一身の主と成りて人心〔じんしん〕毎〔つね〕に命〔めい〕をきくといえるを、陽明子、二心也といえり。程子の、人心は人欲也道心は天理也、といえるを引いて云〔いわ〕く、天理人欲並び立たず、何ぞ、天理主と成りて、人欲の、命をきくということかあらむと。程子・朱子・王(※陽明)子いづれも賢者なり。他の文義においてはみる所かわり有れ共〔ども〕、人心道心・天理人欲の所に此〔かく〕の如きたがいはあるまじき事ならずや。 云う。尤〔もっと〕も心は一つなり。人心の正を得〔う〕るものは即ち道心なり、二つあるにあらず。惣じて、語を解くこと、古人の意をむかえて見ずして、言語文章のみを以てする時は、古人の苦心かくれて見えざる故に、非をあぐることあり。今、愚、朱子の意をむかえて見るに、人心道心、二つありとするにはあらず。道心一心の主と成りて人心命をきくといえるものは、しばらくたとえをとれるなり。故に云く、心の虚霊知覚は一つのみと。性命の正に本〔もと〕づきて天理の上より知覚する時は、これを道心と云い、形気の末〔すえ〕によりて知覚する時は、これを人心と云う。尤も人心を人欲と見る所によりての文勢也。堯舜伝授の人心道心は、天理人欲をさしての給うにあらず。人欲なければ危しというまでもなく悪也。危しといえるものは、今あしきにはあらざれども、あしくなる勢いをいうなり。人心は、此の形〔かたち〕の有る間、形につきて知覚運動するものをさして云う也。寒暑をしり(知り)飲食男女を知る 所 類也。これを人欲と見るは異学(仏教)に似たり。人欲にはあらず。義理の上より知覚して、寒をふせぐべき理〔ことわり〕に叶いてふせぎ、暑をさくべき理に随〔したが〕いてすずしくし、飲食すべき理ある物を飲食し、男女も礼ありて理ありて相親しむ。これみな道也。何ぞ人心を人欲とせん。寒暑其の分〔ぶん〕をこえて温涼を求め、飲食己れに得ざる物を飲食し、男女礼をまたず理に叶わずして相〔あい〕交わるは、人欲の私〔わたくし〕なり。此の形ある間は形に付きたる生欲〔せいよく〕あり。此の生欲の好む所は実〔じつ〕にして虚ならず。求めに応ずる物も又〔また〕形色あり。物あれば則〔のり〕あり。故に、此の生欲の、節〔せつ〕に中〔あた〕るべき精霊の照しは、微妙にして声色なし。精一の工夫おろそかなれば存〔そん〕しがたし。精というは、心を神明にして、相火〔しょうか〕たかぶらず、気にごらず(濁らず)、清浄の真楽〔しんらく〕存す。故に形気のよくにながれず。一は、一団の天理のみにて、形をふむもの也。二心なく二道なし。陽明子、当世の学者の、心・理を二つにして外に向い去るの病〔やまい〕を格〔ただ〕すに急なれば、朱子の苦心を察し意をむかえて解くにいとまなく、時の幣〔ついえ〕によりていえる成るべし。又〔また〕程子の、人心を人欲といえるは、生欲の心なるべし。かろく見て可〔か〕也。
2022年02月24日
一 心友問う。聖賢君子は大いに人に異なり、しかるを、人知らざることあるは、何ぞや。 云う。君子は富士山の如くならんとおもえるか、富士高しといえども平地にしかず。万山を載せて重しとせず、河海をおさめてもらさず。広厚の徳ありといえども、平地に何の見るべきことあらん。世の中の少し学知有る者、大いに衆に異なるが如くなるは、庭前〔にわさき〕築山〔つきやま〕の如し。其のすこしきなることを知るべし。 一 心友問う。人死して、其の神〔しん〕、天に帰〔き〕すといえり。何の精神か一物と成りて天に帰すべき。魂気〔こんき〕游散〔ゆうさん〕し魄体〔はくたい〕蝉蛻〔せんぜい〕のごとし。空々〔くうくう〕寂々〔じゃくじゃく〕たり。ただ此の空のみ本来の常体ならずや。 云う。世人、形体の上より見〔けん〕を立つるが故に、生死を以て二つにす。この故に、天に帰するの説あり。吾〔われ〕本〔もと〕不来〔ふらい〕、天と吾と一つ也。何の帰するということかあらむ。吾〔わ〕が心の霊明、即ち天地の万物を造化する主宰也、即ち鬼神の吉凶〔きっきょう〕災祥〔さいしょう〕をなす精霊〔せいれい〕也。天地鬼神の精霊主宰なくば、吾が心の霊明もなからん。吾が心の霊明なくば、天地鬼神の霊所〔れいしょ〕(※はたらき)もなからん。今、死体の人は精霊游散す、死体の者の天地万物いづれの所にかあるや。故に、君子大をかたれば天下よく載〔の〕することなく、小をかたれば天下よく破ることなし。
2022年02月17日
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