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安藤忠雄 建築を語る
<安藤忠雄 建築を語る>
わりとしつこく安藤忠雄をフォローしているが・・・
独学で建築の世界に飛び込んでいったガッツが素晴らしいが、本来持っていた才能が花開いたのでしょうね。
また、安藤さんが大阪出身で関西を愛しているところが、関西人としてええでぇ♪
図書館で「安藤忠雄 建築を語る」という本を借りたので、紹介します。
【安藤忠雄 建築を語る】
安藤忠雄著、 東京大学出版会、1999年刊
<「BOOK」データベース>より
東京大学大学院における講義の集成。若い世代へ贈る熱いメッセージ、比類なき建築論。【目次】
序 発想するちから/第1講 インターナショナリズムとリージョナリズム/第2講 建築に夢をみた/第3講 抽象化と場所性のあいだで/第4講 命ある建築をめざして/第5講 プロセスのなかで思考する
<読む前の大使寸評>
わりとしつこく安藤忠雄をフォローしているが・・・
安藤さんが大阪出身で関西を愛しているところが、関西人としてええで♪となるのかも。
wikipedia
安藤忠雄
を見ると、建築設計事務所でのアルバイト経験と独学で建築士試験に合格したらしいけど…このあたりが、すごいでぇ♪
rakuten
安藤忠雄 建築を語る
安藤さんは、「1960年代が日本という国の頂点だった」と語っています。
1960年代といえば、大使が勉学に勤しんでいた頃であり・・・若者が自分の可能性を信じられる時代でしたね(今では信じられないかもしれないが)
インターネットなど無いし、情報検索など牧歌的だったのが良かったのかも(笑)
もっとも、大使の場合、能天気に60's(オールディズ)を聴いて浮かれていただけかもしれないが(笑)
<発想するちから>
よりp8~11
1960年代は世界が、そして何より日本という国が最も生命力があった時代です。明治以来、西欧の列強にいかにして追いつくかと国を挙げて疾走してきて、第二次世界大戦でいったん灰燼に帰した。そこから立ち直り、史上類をみないほどの経済発展を遂げていった時でした。そして併行するように世界のなかでの日本の地位が向上していきます。それを支えた要素としては、日本人の勤勉さと忍耐力、教育水準の高さ、そして安価であった労働力、石油資源の活用などが挙げられるでしょう。しかし安保条約の改定によって戦後日本の世界のなかでの位置を決定づけたアメリカは、1965年から本格的にヴェトナムへ軍事介入を始め、泥沼にはまり込んでいきます。この間、日本は全く苦しまなかった。それどころか、ヴェトナム特需と呼ばれたように経済はより一層潤いました。その分今、日本が苦しんでいるといえるかもしれません。
ヴェトナム戦争の激化、そして「近代という理想」が結果的にもたらした公害、抑圧、差別といったものへの不満から、1960年代末には近代の価値観、既成の価値観全体に対する異議申し立てが噴出します。「現実」が、人類の限りない発展を信仰する楽天的な技術至上主義の前にたちはだかったのです。日本においても、初めて人びとは「社会」を意識し、「近代化」という巨大な波に対する反発が生まれてきました。日大闘争や東大闘争に代表される学生運動が全国各地で激化していったのです。一人一人が「社会を変革しよう」と立ち上がったこの時、確かに日本人のなかに、「個人」が芽生えたように思います。
1960年代とは、近代という理想をひたすら目指した社会が経済的な意味において頂点を極めると同時に、初めてその「理想」に疑問がもたれ、その巨大な力に人びとが抗った20世紀の大きな節目だったのです。
(中略)
関西で生まれ育った私は、10代後半の頃から大阪近辺や、京都の角屋、飛雲閣、待庵などの茶室、高山あたりの古い民家などをよく見てまわっていました。日本古建築について、それほど知識を持ち合わせていた訳ではありませんでしたが、感覚的に趣味性に傾き過ぎた数奇屋よりも、自然の素材感を生かし装飾を排除した書院造の力強さ、美しさに惹かれました。初めて一人で日本一周した時に訪れた四国や高山の伝統的な地方の民家にもそのような抑制の美学とでもいったものを感じ、あらためて風土のなかで育まれる真の意味での普遍性に心打たれました。
日本の伝統を体で感じ取っていく過程で、無意識に日本建築のもつ本質に自分なりに近づいていこうとしていたのかもしれません。
関西の古建築を身近にしながら、町全体がものをつくるような大阪の下町で育った私は、漠然と「ものをつくる仕事がしたい」と思い始めていました。そして1958年、東京でフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルに出会い、そこでの言葉で言い表せないような空間体験を通して、「建築」の世界に強く魅せられていきました。同じ頃、古本屋でル・コルビュジェの作品集に出会うのですが、そのスケッチにすっかり心を奪われ、ひたすらトレースを繰り返しました。独学で建築の世界に飛び込んでいこうとした私にとって、正規の建築教育を受けずに、近代建築を切り拓いていったル・コルビュジェは単なる憧れを超えた存在だったのです。ル・コルビュジェは、建築家としてのスタートを切る前、20代の時に西洋建築の根源に触れる長い旅に出ており、著書のなかでいかにその旅から多くのものを得たか述べています。私にとっても「旅」こそが唯一最大の教師でした。
1965年、ヨーロッパへ船で渡りました。不安で一杯の旅立ちでしたが「西洋建築を自分の目で見たい」、そして何より「コルビュジェに会いたい」という思いが抑えきれなくなっていたのです。
60'sといえば、
Happy Birthday Sweet Sixteen Neil Sedaka (1961)
は、どないだ♪
オールディーズにしか反応しない(その2)
安藤さんは、中国建築に幻滅し、韓国建築を評価しているが…
わりと中国嫌いのところが、ええなぁ♪
<中国、韓国、そして日本>
よりp44~45
中国の代表的建築といえば北京にある紫禁城や天檀でしょう。この建物は左右対称になっていて、理性的ともいえますが、非人間的で圧倒的に巨大な力を感じさせるという意味では、むしろ権力的という感じが強い建物です。全体はしっかりできあがっていますが、部分はひどくおざなりです。平面図で見るのとは違い、現実の建築を目にすると、自分以外は建築ではないといわんばかりで、何かうんざりしないでもない。
韓国建築
韓国の建築は中国のそれとは少し違っています。ソウルの中心部に宗廟という建築があります。これは中国の建築でもないし、日本の建築とも違う。中国に最も抵抗した形の建築ということができるのではないか。建国の建築も基本的には左右対称の建築なのですが、部分的にその相称性を崩した「破格の美学」があるのです。宗廟も、全体としてみると相称的なのに、たとえば列柱の形が全部違う。前庭にピンコロ石のような四角い石が並んでいますが、これも大きさや形、色まで全部違う。歴史的に見れば朝鮮は長く中国に抑圧されてきましたから、全体としては中国的要素を取り入れても、部分では抵抗を示しているのでしょう。建築だけでなく韓国の文化には「抗う」という姿勢が強く感じられない。
韓国では特にアンバランスもしくは不均質というある種の美が「破格」という言葉で表せられますが、この美学には今もって大変興味を惹かれています。先日見たコールハースの建築でもこの「破格」が表現されていました。30本ほどは柱が並んでいるなかで、円柱に混じって時どき角柱があり、なぜかと訊いたら、彼はこう答えました。
「自分でもわからないけど、その方がリズミカルでいいんじゃないかな。日本人はすぐに全てを揃えてしまう。確かに表面的には美しいけれども、生命感がないし、本当の心が伝わってこない」
こんな視点から日本の建築を見ると、全く違ったものです。同じ東アジアに位置していても、厳しい自然のなかを生きてきた中国や韓国と違い、日本の気候風土は穏やかで、冬でも関西では零下になることなどありません。気候風土は生活様式に関わり、建築にも強く影響を与えます。
住まいの色にしても、素材への感覚にしても、気候風土や民族性が異なれば全く違います。日本では、神社や仏閣などで強烈な赤や緑色が使われることもありますが、それらは特殊な例とされ、住宅などの日常生活に深く関わる建物はたいていは自然の色に近いものが使われてきました。土や木や菅に、着色するにしても草木の汁から取った彩度の低い色を施した、自然の色の素材でつくられていました。数奇屋建築などでは基調はベージュで、一点に鮮やかな色があったりします。色の範囲を限定したなかで個性を競っている訳です。
自然の色を建築に取り入れるということは、自然とともに生きるという考え方が反映されているのであり、それにより自然の変化をより敏感に感じることができます。
環境にまで執着する安藤さんのスケールの大きさが、ええな~♪
大使も見にいったことのある淡路夢舞台の開発を見てみましょう。
<環境をつくり、建築をつくる>
よりp246~248
淡路島の一角に、35万坪の大きな空地がありました。これは関西新国際空港の埋め立て用の土を採った跡で、ちょうどゴルフ場一つ分の広さに相当します。1988年に土地の所有者が私を訪ね、ここをゴルフ場にしたいのでクラブハウスを設計してほしいと依頼されました。そこでまず敷地を見に行きましたが、なぜこれほど無計画に山を切り削るのかとあらためて憤慨しました。
淡路夢舞台
いろいろな経緯の後、1989年に兵庫県知事が、ここを国営公園にしようと発案されました。そこで私も知事や兵庫県の人たちとともに考えてここに国際会議場、ホテル、植物園、園芸学校などをつくることになりました。淡路島は気候が温暖で、もともと花の産地ですから、花の研究をする人たちが集まるような町にしようと決まったのです。そして同時に、35万坪の荒廃した敷地全域にまず植林することになりました。一般には建築をつくり完成してから木を植える訳ですが、ここでは逆転して先に高さ10cmほどの苗木を植えておく。5年経過した後に建築の工事を始めると、森のなかに建築がでえきるのではないか、そう提案したところ、それは世界にも例がなくていいということで兵庫県知事も承認してくださいました。
カナダのヴァンクーバーにあるブッチャート・ガーデンを知事も私たちも手本と考えました。そこはもとは石灰岩を採った跡でした。事業主のブッチャートは利益の1%をこの採取場を緑化するために使おうと考えました。今から約100年前のことです。10年後には、荒れた採取場跡は美しい公園になり、現在では世界でも有数の花の公園になっています。ブッチャート・ガーデンは面積5万坪くらいです。私たちは7倍の35万坪の花の公園をつくろうと考えました。
苗木を植え始めたのは1992年から1993年頃でした。その時は、これで本当に森になるのかなと不安でした。ここは岩盤で、植樹にはあまり向いていなかった。けれども知恵は世界中にありまして、イランの緑化事業は世界で最も進んでいると聞き、そこの研究資料も手に入れて、どのようにしたらうまく緑化できるか検討したりもしました。
植えて1年も経つと、高さ約30cmになりました。2年半で1mくらい、樹種にもよりますが、木は1年に約1m成長しますから、現在ではもう4-5mくらいの樹高になっています。まだ「森のなか」とはいえませんけれども、今成長していく樹木を追いかけて、ここに野外劇場をつくっています。ここは「夢舞台」という名が付けられて2000年のオープンを目指しているのですが、完成後10年くらいたつ時にはかなり立派な森になるだろうと思っています。
建築はすべからく
自然と共生する住宅
であってほしいと思う大使にとって好きな建築家を挙げると・・・・・
フンデルトヴァッサーにしろ、ブルーノ・タウトにしろ、安藤にしろ、共通項は「自然」なんですね。
安藤忠雄の世界
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