「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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137億年の物語
<137億年の物語>
この本は多元的な視点で書かれていて、どこから読んでも面白いのだが・・・・
昨今は開戦前夜のようにきな臭い中国の歴史について、アットランダムに読み進めたのです。
今では、世界の嫌われ者となった中国であるが、歴史をさかのぼれば、世界一の文明を誇っていた時期もあるわけで・・・・
どこで、どう間違ったのか?という気がするんですね。
まず、第一に取り上げるのは印刷です。
嫌いな中華であっても、最古の印刷を成し遂げた中華を評価せざるを得ないわけです。
<仏教と印刷技術>
よりp305~307
仏教がインドから中国へ広まったのは、紙の発明に匹敵する偉大な発明ともいわれる印刷技術のおかげだった。木版印刷による書物の大量生産をはじめたのも中国人である。その事実を発見したのは、ハンガリー出身の考古学者、オーレル・スタインだった。スタインは20世紀前半、馬にまたがり、あるいは徒歩で、中央アジアの荒涼たる砂漠や平原や山々を、4万キロ以上にわたって探検した。
スタインは、石窟寺院の壁の向こうにあった隠し部屋から、古い文献が大量に発見されたという噂を聞きつけて莫高窟にやってきたのだった。発見されたのは1900年のことで、道士(道教の僧侶)の王円麓がその文献を保管していた。
なかには5世紀に書かれた古い文献もあったが、中央アジアの乾燥した気候のおかげで、いずれも完全な状態を保っていた。スタインは数週間かけて王円麓を説得し、寺院の改築費用を寄付する代わりに、4万点もの文献を手に入れた。
スタインが入手した文献の中でも、いちばんの宝は、世界最古の印刷書籍である『金剛教』で、現在大英博物館に保存されている。記された年号は、西暦でいえば868年で、唐朝の末期である。白い紙に文字を印刷したものを7枚、糊で貼ってつなげて、長さ5メートル強の巻物に仕立ててある。文字や絵を彫った版の上に紙を押しつける方法(木版印刷)で印刷されていた。
金剛教の巻物
東アジアで製紙と印刷の技術を発達させたのは、中国だけではなかった。韓国では604年、日本では610年までに、紙が使われるようになった。このころ日本では大和朝廷が出現し、中国を手本として国を治めようとしていた。日本では、独自の創造神話(『古事記』『日本書紀』)が紙に書き記された。それは、シャーマニズムの色合いの濃い古代神道に則るもので、太陽を神格化した天照大神を大和朝廷の紀元と見なした。飛鳥時代には、唐の律令を手本とした大宝律令(701年)が制定され、その条文は紙に記された。中国の影響は、710年に奈良に築かれた首都にも見ることができる。この「平城京」は、唐の首都長安と同じく、縦横に走る道路によって、碁盤目状に整然と区分けされていた。
けれども、中国が真の意味で科学技術の黄金期を迎えたのは、960年に趙匡胤が建国した宗の時代においてだった。
(中略)
趙匡胤がまず手がけたのは、科挙の制度を整え、規模を拡大することだった。その統治が終わる976年には、3年に1度行われる試験に、予備試験で選抜されてきたおよそ3万人の男子が受験するようになっていた。 11世紀末までに、志願者数は8万人に増加し、1279年に宗朝が滅亡するころには40万人にまで達し、中国は巨大なインテリ集団を抱えるようになっていた。
それにともない、印刷工場は、昼夜を問わずフル稼働するようになった。なにしろ、受験者必読のテキストとして、儒教の古典である四書五経をはじめ、辞書、百科辞典、歴史書など、500冊以上の書物を、気の遠くなるような数の版木に刻み、大量に印刷しなければならなかったからだ。受験のための予備校も、中国全土に少なくとも1000校設立された。
大使の関心は印刷からさかのぼって、漢字に向かうわけです。
<殷王朝>
よりp193~194
殷(紀元前1766年~同1050年)は、たしかな考古学的証拠をはじめて残した王朝である。それ以前の歴史は魔術や伝説に彩られ、「三皇五帝」と総称される8人の帝王が支配したといわれている。
三皇五帝の物語を知ることができるのは、『竹書紀年』という古代中国の歴史書のおかげだ。この書物は、紀元前299年に没した魏の襄王の墓から発見された。この時代のことを教えてくれるもうひとつの書物は、130巻におよぶ『史記』で、紀元前109年から同91年にかけて、司馬遷がひとりで書きつづった。
(中略)
甲骨文字
中国の支配者に関する最古の証拠は、紀元前1600年ごろに誕生した殷(商)の時代のものだ。1920年代、殷王朝の遺構の発掘作業をしていた考古学者たちが、11基の王家の墓と宮殿の土台を発見した。そこからは、青銅器や、翡翠などの玉で作られた工芸品が数万個も出土した。それらの遺物からは、殷の文化が非常に高度なものであったことがわかる。彼らは、完成された文字システム(甲骨文字)を持ち、さまざまな儀式を行い、強力な武器を所有し、広い地域を支配していた。人間を生贄にすることも多かった。
(中略)
華北の王たちは、専門的で複雑な占いの儀式を、自ら執り行った。彼らは、神官やシャーマンのような呪術師を必要としなかった。天井の神々の意向をうかがうのは、王の仕事だったからだ。
その方法は奇妙で独創的なものだった。熱した金属の棒を、カメの甲羅か雄牛の骨に押し付けると、ひび割れができる。王は、手相占いのように、そのひび割れの長さと方向を見て、自分と臣民からの問いに対する神の答えを読み取ったのだ。神に問うたのは、「いつ雨が降るか」「次の戦いに勝てるか」「今年は豊作になるだろうか」といったことで、そのような問いを、象形文字(甲骨文字)で甲羅に刻むこともあった。甲骨文字は現代の漢字にとてもよく似ているので、楔形文字やエジプトのヒエログリフとは違って、ロゼッタストーンやベヒストウン碑文のようなものがなくても簡単に解読できた。そのこと自体が、中国の歴史がどれほど遠い過去に根ざしているかを示しており、また、中国で古代の文明が途切れることなく今日まで続いてきた証ともなっている。
ソフトパワーの伸張をはかるべく、中国政府は世界各国に孔子学院を建てているが、如何せん。文革で一度壊れた公徳心は、いっこうに復活しないようです。
<春秋戦国時代と諸子百家>
よりp195~197
戦国時代には、諸子百家とよばれる、さまざまな思想家や学派が次々に登場した。賢者や思想家たちは各国の宮廷を巡って、どうすれば正しく生き、賢く国を治め、国を繁栄させることができるかを、王や貴族に説いた。こうした思想家のひとりが孔子である。後にその名は西洋にも伝わり、「コンフューシャス」とよばれるようになった。言い伝えによると、孔子は、紀元前551年ごろに生まれ、同479年に没した。その教えは、今でも、中国はもとより、日本、韓国、ベトナムまで、東アジアの社会に生き続けている。
孔子は魯という国の法務大臣を務めていたが、55歳ごろにその職を辞し、徳のある生き方と国を治める最善の方法を説くために、北部諸国をめぐる旅に出た。権力争いと軍事的衝突に明け暮れる社会にあって、孔子は、社会の調和を取り戻すには、人々が目上の者にしたがい、正しく行動し、礼儀を重んじることが肝要だと考えるようになった。しして、王が臣民に手本を示せば、臣民は自ずと王にしたがうだろう、と諸国の王に説いた。もっとも、今日、孔子の教え(儒教)として伝わっているものは、必ずしも孔子自身が説いたものとは限らない。彼の弟子たち、特に孟子と荀子は、孔子の思想をより完全なものへと発展させたが、それは本来の孔子の教えとは異なっていた。
(中略)
孔子が編纂したとされる書物は多くあるものの、実際に孔子が書いたかどうかは不明である。とはいえ、2000年にわたって中国では、官僚、法律家、軍人、役人になろうとする人は、『四書五経』(そのいくつかは孔子が編纂したと伝えられている)を読むことを義務づけられた。このように、教育、賢人や思想家の教え、調和、従順を重んじる伝統は、中国社会の特徴として、今日まで脈々と受け継がれている。
孔子は、社会秩序の安定と平和を願ったが、中国ではその後も戦乱が続いた。紀元前221年、秦(Chinaの語源となった)がついに中国を統一した。秦の台頭は、血も凍りそうなほど残酷な逸話に彩られている。
世界最大の帝国を築いた始皇帝は、焚書坑儒で知られるように、圧政についても半端でなかったようです。
<始皇帝の中国統一>
よりp197~199
秦は、中国の北西の端にあった王国で、人びとは馬にまたがって狩猟をしていた。すぐれた馬を選んで交配するうちに馬は大型化し、兵士たちは扱いにくい戦車を捨て、馬の背にまたがって戦場に向かうようになった。騎馬兵を擁する王は圧倒的な優勢を誇った。
しかし秦は、軍事力だけでなく、残酷さでも群を抜いていた。白起という秦史上最強の将軍は、100万人以上の敵兵を殺し、70以上の都市を略奪した。紀元前278年、彼は秦にとって最大のライバルだった長江の南に位置する楚と戦って勝利を収めた。続いて、「長平の戦い」で、趙を倒した。この戦いでは、40万人以上の捕虜を生き埋めにしたといわれている。
(中略)
まもなく、秦はかつてない強国となり、戦国の七雄の中で頭角を現していった。第31代君主、エイ政が王座に就いたとき、その力は頂点に達した。七雄のうち最後まで残っていた斉を紀元前221年に倒すと、エイ政は、中国全土を支配する最初の君主となり、「始皇帝」(在位:紀元前221~同210年)と名乗った。
始皇帝は、宰相の李斯に助けられながら、秦を強大な中央集権国家に作りかえていった。地方の豪族を倒して新たに36の郡を設け、それぞれに民政を司る郡守と、軍事を司る郡尉、監察を司る郡監を置いた。郡守は、任地で権力基盤を築くことのないよう、数年ごとに異動させられた。これらの改革は、100年以上前に商オウがはじめた改革の流れを継ぐものだった。
紀元前213年に、始皇帝は、焚書坑儒を命じた。焚書は書物を焼くこと、坑儒は儒学者を生き埋めにすることで、思想や政治的意見を統一するために言論の自由を弾圧したのだった。無数の書物が焼かれたが、その多くは、諸子百家の思想に関するものだった。医学・占い・農業などの実用書以外は、すべて禁止された。
(中略)
始皇帝の治世の残虐さは、強い憎悪と反感を招き、皇帝の死後数年で秦は崩壊した。それでも、始皇帝は偉大な業績を残した。七雄を統合して世界最大の帝国を築いただけではなく、統治の大原則から細々とした規則まで、すべてに皇帝の意思が反映されるという、強力な中央集権体制を完成させたのである。
米と絹と鉄は、領土拡大への野望と、征服するための手段をもたらし、史上最大にして最も長続きする国家を作り出した。古代中国の人々は、自然を支配することにより強大な力を得、独創的で力強い文明を築いていった。その文明は、その後数千年にわたって続くことになる。
次は「鄭和の大遠征」ですが・・・
一時は海の覇権を握っていた明朝は、なぜこの覇権を明け渡したのか?・・・この疑問はわりと今日的なテーマでもありますね。
<鄭和の大遠征>
よりp337~339
中世の中国の君主が好んだ蓄財方法は、「育てる」か「脅して巻きあげる」だった。クビライ・ハンが1274年と1281年に試みた日本征服(元寇)が、二度とも嵐に襲われて失敗して以来、中国の王朝は、米、紙、絹の生産を増やす一方で、技術力をかさに着て、近隣諸国から用心棒代を徴収するようになった。
モンゴル人は元来、草原の遊牧民であるため、元朝が農業をないがしろにして衰退にいたったというのも、驚くには値しないだろう。1368年、農民の若者、朱元ショウが、数十万人の民衆を率いて反乱を起こした。民衆は、灌漑事業が放棄されたことや、無秩序な紙幣の増刷が招いたインフレに不満を募らせていたが、黄河の堤防修復を命じられるに至って、ついに怒りを爆発させたのだった。
反乱軍は元軍を圧倒した。朱元ショウは華南に明朝を樹立し、「洪武帝」を名乗った。洪武帝は優れた改革を行い、農業が発展する礎を築いた。まず、大地主の荘園を没収して、農民に分け与え、自足できる農業共同体を築くよう促した。また、『賦役黄冊』(戸籍台帳)と『魚鱗図冊』(土地台帳)によって行政システムを整え、公正に課税し、食べていけるだけの収入を農民たちに残した。さらに、灌漑設備と堤防を修繕し、土壌を改良し、荒地を開墾した者には、税を免除した。また、「大明律」とよばれる新たな法令を制定し、奴隷扱いされている貧農を解放した。
こうして農業が発展し地方政治も安定するにつれて、中国は豊かになってきたが、洪武帝の息子の永楽帝は、伝統的手法によって、さらに国の財政を潤していった。それは、「保護」をうたって近隣諸国から金品を巻き上げるという、ゆすりに近いものだったが、明朝ではそれを「朝貢」と称した。
永楽帝は、世界に例を見ない大艦隊を作り上げ、スーフィー派イスラーム教徒の鄭和を提督に任命した。鄭和は、反乱軍のモンゴル兵に捕らえられ、11歳のときに去勢された。彼のような宦官は、自らの王朝を築くという野望を持ちえないため、忠実な官吏として重用された。
1405年から1433年にかけて、明は7回、海軍を遠征させた。世界に強大な国力を見せつけ、皇帝への服従を誓わせ、朝貢を捧げさせるのが目的だった。艦隊が大きければ大きいほど見返りも大きいと考え、第一次航海では、62隻からなる大艦隊に総勢2万8000人の船員と兵士を乗り込ませた。中には9本のマストを備えた船もあり、それまでに世界で造られたどの船よりはるかに大きかったそうだ。
(中略)
第3次までの遠征は、東南アジア、インド、セイロンに向かった。第4次はペルシャ湾とアラビア湾まで航行し、第5、第6、第7次の遠征隊はアフリカの東海岸に到達した。遠征先では、その国の君主に、中国から運んできた絹や陶器を献上し、代わりに皇帝への土産を授かった。その内容は多彩で、黄金、スパイス、熱帯の木材、さらにはシマウマやキリンまで含まれ、それらの動物は皇帝の動物園で飼われた。第4次遠征では、320以上の国の大使が、帰国する鄭和に同行した。そして明の王宮で皇帝に拝謁し、主君からの挨拶を伝えるとともに、貢物を献上した。
鄭和が引き連れていった部隊の多くは、彼と同じく、スーフィー派のイスラーム教徒だった。そのため、イスラームの教えはインドネシアの沿岸地域に伝わった。鄭和は、ジャワ、マラヤ、フィリピンといった重要拠点に部隊を残し、スーフィー派イスラーム教徒の社会を築かせた。
鄭和は1433年に他界した。その後の経過に、西洋の歴史家たちは長年にわたって頭を悩ませてきた。というのも、次代の皇帝は、その強力な海軍を利用するどころか、それまでの外交政策を白紙に戻してしまったのだ。船の建造は中止され、造船所は取り壊され、鄭和とともに大洋を巡った巨大な艦隊は、港につながれたまま朽ちていった。せっかく築きあげた海軍力を放棄し、イスラーム勢力や日本や、ついには西洋の列強に、海の覇権と交易ルートをみすみす明け渡してしまうとは、いったいどういうわけなのだろう。
実をいえば、1445年ごろからモンゴルのオイラト族が国境を脅かすようになり、明の皇帝は万里の長城の再建に全力を注がざるを得なくなっていたのだ。新しい長城は、紀元前220年から秦の始皇帝が築いたものより南に建設された。この新しい防衛線の建造は1368年にはじまり、15世紀半ばからはさらに熱心に進められた。かくして中国の対外政策の要は、大船団から、100万人以上の兵士に守られた全長6400キロの壁に移行したのである。この人類が築いた最も長い建造物が完成するまでに、200万人もの命が失われたと推定されている。
富を手に入れる中国の伝統的な戦略が「育てる」と「脅して巻きあげる」であったことを考えれば、外交の方針が、海上支配から北方防衛に急転したのも、それほど不思議ではない。今日と同じように、当時も中国は、物(陶器や紙)を作り、作物(米やカイコ)を育てていた。彼らは元来、海の民族ではなかったのだ。そしてその中央集権的な政府は、国家の巨大な資源を最も必用とされるところに回すことによって機能していたのである。
中国憎しのドングリ史観から離れて(笑)、もっと広い視点で読み進めます。
<北アメリカへの殖民>
よりp372~373
17世紀が終わるころには、人手不足を解消する新たな方法が、イギリス、フランス、オランダの植民地で採用されるようになった。それは、ポルトガル人がマデイラ島のサトウキビ農場ではじめ、その後、スペイン人がメキシコと南米でおおいに利用した方法だった。アフリカから奴隷を連れてくるのだ。かくして、ヨーロッパの商人による「三角貿易」がはじまった。彼らは南北のアメリカ大陸で、砂糖、タバコ、毛皮、木材といった物資を積み込み、それをヨーロッパに送ってお金に換え、それを軍資金としてアフリカ西岸に船を進め、アフリカ人の族長が捕らえた敵の部族の人々を奴隷として買い、荷物のように船に押し込んで新世界のプランテーションまで運んだ。奴隷の代金は、銃や火薬で支払われたため、族長たちはさらに多くの敵を捕らえられるようになった。
アフリカ人奴隷は、アメリカでは高値で売買された。農場を広げて利益を上げるには、奴隷たちのただ働きが欠かせなかったからだ。
イングランドが1655年にスペインから奪ったジャマイカの植民地では、1713年までに、白人ひとりにつき奴隷が8人という人口構成になっていた。タバコのプランテーションは急成長し、1619年に2万2000ポンドだったロンドンへの年間輸出量は、1700年には2200万ポンドに増えていた。一方、フランス人は北米大陸の南部に植民地を築き、太陽王ルイ14世にちなんで、ルイジアナと名づけ、綿花を栽培した。フランスの植民地は、ミシシッピ川沿いに北へ広がっていった。フランスは、カリブ海のハイチ島にサトウキビ農園を築き、カナダではケベックとセントローレンス川沿いに、毛皮を交易するための入植地を開いた。今やヨーロッパの商人は、イスラーム商人を通さずに、さまざまな種類の新たな物資を独占的に取引し、母国や外国で売りさばけるようになっていた。
トウモロコシが中国に与えた功罪について触れています。
<トウモロコシとジャガイモ>
よりp383~384
南北アメリカで輸出用に栽培された作物が、現地の風景を大きく変えた一方、アメリカ原産の作物も、ヨーロッパとアジアに持ち込まれ、多大な影響を与えた。かつて中央アメリカの先住民は、数千年間をかけて野性のテオシントをトウモロコシに変えていった。またペルーでは、300種類ものジャガイモが栽培されていた。「ニュー・パンゲア」が誕生したおかげで、ヨーロッパとアジアの人々も、こうした栄養価の高い作物を食べられるようになった。
トウモロコシはスペイン人によってヨーロッパにもたらされ、じきに地中海沿岸の全域で、主に家畜の飼料として栽培されるようになった。北ヨーロッパでは、小氷期(1350年ごろ~1850年ごろ)が終わるまで根づかなかったが、中国南部では1550年ごろから盛んに栽培されるようになった。中国の人口は1400年から1770年までの間に7000万人から2億7000万人へと4倍近くも増えた。それに合わせて耕地面積も、2500万ヘクタールから6300万ヘクタールに急増し、その大部分で栄養価の高いトウモロコシが栽培された。トウモロコシは米と違って、標高の高い乾燥した土地でも栽培できたため、耕作地として開拓できる土地の面積を増やした。
しかし、その生態系への影響は大変なものだった。木を失った丘陵地は、侵食に対して無防備になり、大雨が降るたびに大きな被害を出した。
イギリスがいちばん元気で、中国がいちばん停滞していた頃のお話です。
<大量生産のはじまり>
よりp418~419
中国は何世紀にもわたって、技術と科学の発明において世界をリードしてきた。哲学者のフランシス・ベーコンをして「近代社会を形作った発明」といわしめた、印刷術、火薬、羅針盤という3大発明は、すべて東洋で生まれたものである。だが、自然の制約を克服するための発明が続々と生まれたのは、東洋ではなかった。そもそも中国人は、マルサスというイギリス人のことなど聞いたこともなかっただろう。
15世紀の半ばから、中国は西洋との接触を避けるようになった。その政府には、海外に市場を拡大するつもりはなかった。1644年に樹立された清朝の統治戦略はシンプルだった『国境の警備を固めて侵略者や外国の影響を防ぐ、近隣諸国からの貢物を途絶えさせない、そして何より、莫大な数の農民に反乱を起こさせない』この三つである。宗朝を悩ませたような外敵の圧力がなかったため、地方の貧民に対する政府のメッセージは、一貫して保守的だった『家族と国家への忠誠を説く孔子の教えを学びなさい。運良く科挙に合格すれば、巨大な官僚組織の小役人となり、かなりの収入が得られるかもしれない。それが無理なら、米作りに励みなさい』。
一方、1800年当時のイギリスの状況は、中国とはまるで違っていた。海によって守られたこの小さな島国は、海軍、市場、植民地からなる世界システムの中心にいた。アメリカの植民地を失うというような不運にも見舞われたが、すぐに新たな領土(ビルマ、マレーシア、シンガポール、オーストラリアなど)を見つけて、埋め合わせをした。造船、製鉄、ビール醸造、ガラス製造、レンガ生産、製塩などで使っていた木材が足りなくなると、石炭という代替エネルギーを見出した。1800年までに、イギリスの産業のほとんどは、その燃料を、薪や木炭から、コークスや石炭に変えた。タインサイド、ヨークシャー、ランカシャー、サウスウェールズの地下にいくらでもあると思われた黒い魔法の燃料のおかげで、エネルギー危機はひとまず解消された。
1807年に奴隷貿易が禁止されたことも、イギリス人の創造力を刺激した。彼らは知恵を絞って、奴隷の代わりとなる機械を次々に発明していった。1623年にジェームズ1世によって導入された「特許制度」はその追い風となり、新たなアイデアを思いついた人は、そのアイデアに基づく製品を、一定期間、独占的に販売できるようになった。1714年には、独占権と引き換えに設計を公表することが義務づけられ、発明家たちは、新たな技術を生み出すだけでなく、アイデアを分かち合うようになった。
そんな革新的で起業家精神に富む時代に、ボルトンの理髪師リチャード・アークライトは、世界初の水力紡績機を発明した。1771年にダービシャー州クロムフォードの村に建てられた彼の紡績工場では、これまでとはまったくちがう方法で布を織るようになった。紡績機で細かく強い糸を紡ぎ、その糸を、自動の水力織機で織るのである。アークライトが築いた機械による大量生産というシステムは大きな成功を収め、1792年に亡くなったとき、その資産はおよそ50万ポンドになっていた。貧しい理髪師だった彼が、世界有数の大富豪になったのだ。
137億年のお話に福一の事故が出てきます。
人類の扱うエネルギーとして、この本は原発の評価をまだ定めていません。
それだけ、今日的、根源的なテーマなんでしょうね。
<蒸気機関から原子力まで>
よりp424
1945年8月、広島と長崎の人々は、この自然を超えた恐ろしい力を最初に体験することになった。アメリカ軍が原爆を投下し、一瞬のうちに12万と7万の人命が奪われたのだ。その後も何年にもわたって、被爆による健康障害で多くの人が亡くなった。1951年には、このエレルギーを平和利用するための実験が、アメリカ合衆国アイダホ州の実験炉で行われ、核エネルギーは、水を蒸発させて発電する熱源として利用できることがわかった。
核分裂が生み出す、無限のエネルギーという魔法に、多くの国が飛びついた。1979年3月28日に米ペンシルバニア州、スリーマイル島の原子力発電所で恐ろしい事故が起きた後も、「クリーンな」原子力への信奉は揺るがなかった。スリーマイル島の事故では、15万リットルの放射能汚染水がサスケハナ川に放出された。さらに大規模な事故が、1986年4月26日に、ソビエト連邦(現在はウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で起きた。炉心溶融により原子炉が爆発し、きわめて高い濃度の放射性物質を大気中に大量に噴き上げ、ソ連とヨーロッパの広い範囲を汚染したのだ。この事故では、3ヶ月以内に少なくとも31人が被曝により命を落とし、およそ35万人が、汚染地域から避難せざるをえなくなった。
一方、19997年の「地球温暖化防止京都会議」で、地球温暖化に関する警告が世界に向けて発信され、原子力の利用を不可欠なものと見なす風潮が生まれた。環境保全主義者で、ガイア理論を唱えるジェームズ・ラブロックでさえ、「気候変動をもたらす化石燃料への依存をやめて、原子力に移行すべきだ」と主張した。多くの国では、地球温暖化が突きつける脅威ゆえに、原子力発電が安全かどうかという問題は無視されるようになった。
日本では、消費電力の35%以上は原子力発電に頼るまでになった――2011年3月11日の午後までは。この日、マグニチュード9.0の壊滅的な地震と、それが引き起こした巨大な津波が、東北地方の太平洋沿岸一帯を襲い、福島第一原子力発電所でレベル7の原発事故が起きた。この惨事が、これからの世界にどのような影響をおよぼすか、今はまだ何もわかっていない。
日本の発展と相前後して、中国に対する列強の侵食は容赦なかった。さらに「義和団」抗争の鎮圧、賠償で清朝政府は回復不能なまでに弱体化した。
<日本の発展と中国の停滞>
よりp452~454
ペリー提督の黒船に突然目を覚ませられた日本でも、驚くべき変化が起きた。アメリカとの通商条約を将軍が受け入れたことを不満に思った、藩士や公家たちが、1868年に王政復古を断行したのだ。新たに生まれた明治政府は、古くからのライバルであり師でもあった中国と同じような屈辱を受けることは、何としても避けたいと考えた。1868年に制定された「五箇条の御誓文」には、「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。日本政府は外国政策を180度転換して、外国から3000人もの専門家を招き、国民に西洋の法律や制度、科学技術を教授させ、その一方で、日本の研究者をヨーロッパやアメリカに派遣した。三井や三菱といった総合商社もでき、絹糸の生産を皮切りに工業化もはじまった。いわば「日本版ランカシャー」が築かれ、西欧をモデルとする「素晴らしき新世界」が極東ではじまったのである。
日本政府は、産業をおこして軍事力を高める「富国強兵」政策を掲げ、積極的に領土拡大をはかりはじめた。1894年から95年にかけて、日本軍は朝鮮半島を戦場として中国と戦った(日清戦争)。中国も、ヨーロッパ列強に屈辱をなめさせられた後、国力を増強しようと「洋務運動」を推進していたが、この戦いでは日本が勝利を収めた。今や日本は、西欧諸国によって独占されていた領土拡大ゲームに参加するようになった。中国に、韓国の独立を認めさせ、台湾を日本に割譲させ、多額な賠償金を銀で支払わせた上、沿岸地域での通商権と製造業営業権を獲得したのである。
その10年後、ロシアが太平洋岸の不凍港を手に入れようと南下してきたとき、日本はロシア軍を破って、世界を驚かせた(日露戦争)。1905年5月27日の日本海海戦では、日本海軍がロシア艦隊を壊滅させ、ついに日本が真の強国になったことを世界に示した。1910年に日本が韓国を併合したとき、列強から不満の声が上がることは、ほとんどなかった。 一方、戦争で国力がアヘン中毒の後遺症に苦しんでいた中国は、植民地を広げようとするハゲタカたちの恰好の餌食となった。フランスは中国の支配下にあったベトナムとカンボジアを攻略し、1887年にフランス領インドネシア連邦を築いた。10年後には、ドイツ軍ドイツ軍が戦略上重要な山東半島の広州湾を占領した。そのころになると、日本も韓国の支配権を確立していた。
こうした状況から中国では、1900年にふたたび破滅的な内戦が起きた。「義和団」を名乗る復古主義者の地方農民たちが、西洋とその資本主義的文化を中国から締め出そうと立ち上がったのだ。その軍隊は、1900年6月に清朝の首都、北京に攻め込み、何万人もの中国人キリスト教徒を殺戮し、数千人の外国人を人質にとった。総勢2万人の、8カ国(オーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、ロシア、アメリカ)の連合軍が救出に駆けつけ、8月には義和団を打ち破った。だがその後、第4回十字軍の暴挙を繰り返すかのように、連合軍は北京市内で略奪を行い、紫禁城に火を放った。義和団を支援していた西太后と光緒帝は西安まで落ちのびた。
(中略)
連合軍による「救出」の費用として、清朝政府は6750万ポンドに相当する銀を支払い、それを8カ国が分けた。この莫大な金額は、農民に新たな重税を課さないかぎり、とうていまかなえるものではなかった。その結果、10年もたないうちに清朝政府は回復不能なまでに弱体化し、国民からひどく憎まれるようになった。そしてついに大衆による革命が起こり、2000年間続いた君主制は廃止され、1912年1月に、「中華民国」という共和国が成立した。
しかし、「中華民国」も安定した統治権を持つことができず、その後数10年にわたって内戦と外国勢力による侵略が続いた。中国では、清朝以来の国土の荒廃を、共産主義によって解決しようとする毛沢東らが率いる勢力が台頭していくことになるが、これには、まず、ロシアにおける初の共産主義国家の誕生というおおいなる助走があった。
マルクスの予言は、資本主義が発達した欧州ではなく、まず、東洋と欧州の中間に位置する農業国家の帝政ロシアで現実のものとなった。
中国という多民族国家は、歴代の皇帝によって統治されてきたわけですが・・・
圧政に苦しむ大衆の革命や夷荻によって皇帝をすげ替えた歴史を持っています。
現在は、共産主義というデマゴギーをお題目にして、チャイナセブンを統治主体として仰いでいるが、今後どう変わるんでしょうね?
【137億年の物語】
クリストファー・ロイド著、文藝春秋、2012年刊
<「BOOK」データベース>より
137億年の歴史を42のテーマで語る。歴史を点ではなく、つながりで考える。西洋が中心ではない。アジア、南アメリカ、少数民族、イスラム、等々多元的な視点で理解する。地球的な規模で人類の文明も相対化する。豊富なイラストと写真で旅するように歴史を感じる。科学と歴史、その接点を考える。
<読む前の大使寸評>
わりと高価な本なので、こういう本を借りる時に、図書館のありがたさを感じるのです。中国に言及している部分が思ったよりあるので、楽しみです。
<読後の大使寸評>
訳者のスキルによるのかもしれないが、わりと物語風に書かれた訳文が明瞭で簡潔なことです。
著者は「自分の子どもに、この地球の歴史をどう教えたらいいか、それがヒントになってこの本が生まれた」と言うが・・・なるほど読みやすくて面白い本でした。
それから、この本の訳文では、横文字がなくても日本語になっているといるわけで・・・
つまりは漢字語彙の多彩さを物語っています。漢字文化圏の中でも日本文明の優位が証明されたわけですね(笑)
rakuten
137億年の物語
文字と印刷の源流を訪ねる旅、松根コレクション
が素晴らしい♪
NHKスペシャル「中国文明の謎」2
137億年の物語1
137億年の物語2
137億年の物語3
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