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「現地の豪族が国司に任命されるとは・・・天下の恥なり!」と憤慨したのは、従一位右大臣九条兼実であった。「城助職を越後守に補任する、北陸道鎮定のためである」と畿内惣官職平宗盛の決定であった。養和元年8月14日のことである。国司は中央から派遣されるのが通例なのだ。「武士(もののふ)どもがシャシャリ出てきて、日ノ本をどうしようというのか・・・前例無きことを次々と起こしおって・・・まさしく世も末じゃ!」公家のなかの公家、九条兼実は気も狂わんばかりに言い放った。だが、その一方で、「源氏の名など・・・聞きたくもないわ!」こう言い放ったのは、越後守に補任された城助職であった。助職はこの頃、諱(いみな)を「長茂(ながもち)」に改めていた。「都からなんと言ってこようが、わたしは動かぬぞ!」と阿賀野川から北上した小河荘赤谷にこもったまま、源氏を呪詛するのみであったのだ。城長茂が動かないという事実は、平家にとって手痛い誤算だった。というのも、後に木曾義仲の北陸道快進撃を阻む背後勢力とはなりえなかったからである。「さらに、平泉の藤原秀衡も陸奥守に任ずる」同様に平宗盛の決定である。「われらの官兵のみでは、叛乱の鎮定は困難であるゆえ、秀衡を陸奥守に任じることによって、頼朝の背後を衝かせるのだ」宗盛は、長茂同様に秀衡にも期待をかけていた。
2013.01.31
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1月末の京都は、吐く息が白くなるほど寒いです~そんな曇り空のお天気でもカフェ巡りは行きますよ~。Robinson 烏丸今月3回目ですな、四条烏丸にある大きな町屋イタリアンです。Pasta Lunch 鶏肉と小松菜のオイルソース 焼きたてパン ホットコーヒー「ふぁ~!おいしそ~!」ロビンソンの魅力は、パスタはもちろんおいしいことと、焼きたてパンをおかわりできることですな。クランベリー、シナモン、よもぎ、チーズ、ゆずなどなど、約13種類あって、どれも小ぶりのパンなのでたくさん食べることができるんですよね「おかわりはいかがですか?」とバスケットを持ったおねえさんが3~4回ほどテーブルに来てくれます。「じゃ、これこれとこれ!」とそのたびごとにおかわりしちゃうので、もうおなかいっぱいです
2013.01.30
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「都の後白河院へ密書を送らん」鎌倉大蔵御所の西釣殿から南池を望みながら、頼朝が言った。傍らには土肥次郎実平がいた。養和元年7月の中ごろのことである。「それはよきお考えにて、頃合でもあろうかと思っておりました」次郎実平が応えた。「次郎はわかっておったのか?」「は、われらがこの東国を支配下においてから、かなり時が経っておりますからな、都を揺さぶるにはちょうどよい頃でありましょう」「先を読むのに長けた男よ、次郎実平は」頼朝が考えているのは、都との政治取引のことである。その内容とは、「頼朝には謀反の意思など微塵もなく、ただ後白河院の敵を討たんとしているだけであり、昔のように源平相並んで朝廷に仕え、西国は平氏、東国は源氏がおさえるようにしてはいかがか」という和平提案であった。とはいえ、都から見れば謀反の張本(ちょうほん)は源頼朝であったのだが。だがすでに日本国の一角で実効支配を行う頼朝の余裕のなせる業であった。すでに謀反は成功しているのだ。「越後では木曾義仲が勢いを挙げておるようですが」実平が横田河原の合戦のことに言及した。「好きにさせておけばよい、力だけでは都の魑魅魍魎どもには太刀打ちできぬのだ」平治の乱以前、蔵人として朝廷に仕えていた若き頃の淡い記憶がそう言っていた。「なるほど、武を使わずに敵に畏怖を植え付ける、ということですな、此度の密書は」「そういうことだ、だがいざとなれば軍を進めるという姿勢も見せねばならぬ、わが上洛の構えも同時に進める」鎌倉から都へ上る途上の国々に、頼朝の命で仮屋の造作もなされることになったのだ。
2013.01.29
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「そなた、名は何と申す」北条時政が捕縛された不審者に問うた。場所は東北御所の庭先で、軒下には頼朝、時政、実平、藤九郎盛長がいた。不審者は両手を背後に回され、その手首には縄が巻かれていた。その右側には、行平が腰の太刀の柄に右手を添えるかたちで仁王立ちしていた。「長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)が郎党、左中太常澄(さちゅうだつねずみ)と申す」その不審者は、庭先に両膝をついた格好で答えた。「長狭六郎・・・あぁ、一年前の安房での・・・」時政が思い出したように言った。約1年前の9月3日、安房の武士長狭常伴が安房に上陸した頼朝勢を、その宿泊所に襲撃しようと試みたが、事前にその計画が頼朝側に漏れ、三浦次郎義澄によって討ち果たされたのだ。「いかにも!わが主の仇・頼朝殿を討とうとしたまでのこと」常澄は、臆面もなく言い放った。身の丈7尺の巨漢とは思えぬ澄んだ声が東北御所の庭に響いた。「この者、直垂の下に鎧をまとい、匕首(あいくち)を懐にしておりました」と行平が言上した。「ははは!わたしも命を狙われるようになったか!」これを聞いていた頼朝が、高らかに笑った。暗殺の標的にされるというのは、それほどに強大な影響力を持つようになった、ということを逆に証明することになるのだ。笑った顔が一瞬にして氷のような表情に変わった頼朝が、言った。「だが捨て置けぬ、行平、その者の首を刎ねよ!古き主に会わせてやろう!」養和元年7月21日、片瀬川の畔にて左中太常澄は、その首を刎ねられ、梟首(きょうしゅ)されたのだった。
2013.01.28
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「ギリリリィィィ・・・」鶴岡若宮の脇の木の陰で、弣(ゆづか)を左手に握り、弦に甲矢(はや)を番えた人影があった。その矢の狙う先には、武衛頼朝の姿があった。その人影が甲矢を放とうとした、その刹那、「怪しきやつ!そこを動くな!」下河辺庄司行平(しもこうべしょうじゆきひら)が叫んだ。行平は頼朝から上棟式の警護を仰せつかっていたのだ。その警護中に不審者を見つけたのだ。「チィィィッッ!」不審者は構えていた弓矢を、シャッと右脇下へ下ろすと、若宮裏手の林のほうへ走り出した。驚くべきことに、その不審者は身の丈7尺はある巨漢であった。「者ども!あやつを捕らえよ!」行平は己が郎党へ命じた。と同時に行平の左右から、バッと数人の郎党が不審者のあとを追った。
2013.01.26
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「九郎殿、浮かぬ顔をされているがいかがされたのかな?」畠山重忠が義経に語りかけた。養和元年7月20日、鶴岡八幡宝殿(若宮)上棟式でのことである。上棟式は源頼朝以下、三浦、上総、北条、梶原、土肥など名だたる武士ら臨席のもと、完成なった宝殿(若宮)の社殿前にて行われていた。この上棟式で重忠も、義経と佐貫広綱(さぬきひろつな)と共に大工に賜る馬を引いていたのだ。「はっ!そんなことはありませぬが・・・」義経は自分の頬を両手で軽く、パチンと、打った。「さては、馬を引くのがご不満なのでは?」重忠の鋭い観察眼に、義経は正直面食らった。「されば逆にお聞きしますが、畠山殿はなんとも思わぬのですか」「ははは!わたしは先の戦では、武衛殿と敵対していたのですぞ!それが今では御家人の端に加えてもらっているのです、めでたき若宮上棟式の馬引きのお役目をおおせつかることこそ有難し!」重忠は空に向かって笑った。「それに、お役目に重い軽いの別などありませぬ」若き重忠の言葉には、心にしみるような説得力があった。義経は、この若者の魅力に気づき始めていた。「なるほど、それもそうですな」「九郎殿、見てくだされこの立派な社殿を、このようなすばらしきものを造った大工の棟梁に褒美の馬を下賜して、その労をねぎらうのです、有難きお役目ではないですか」「確かにその通りですな、畠山殿」 義経は目をパチクリとして、姿勢を正して、手綱を握り返した。「九郎殿、畠山殿はやめてくだされ、次郎と呼んでくれればよい!」「そんな、とてもそのようには・・・せめて重忠殿と呼ばせてくだされ」畠山重忠は、まさに竹を割ったような、爽やかな雰囲気を持つ青年であった。男が惚れるというのは、まさにこの畠山次郎重忠のような男のことなのであろう。
2013.01.25
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「九郎、大工に賜る馬を引くのだ」元号が治承から養和に変わったその同じ日、頼朝が九郎義経に命じた。約6日後に鶴岡八幡宝殿の上棟式が控えていたのだ。「はっ?馬を・・・ですか」九郎義経は、正直すこし面食らった。「わたしが、大工に賜る馬を引くのですか」九郎は、重ねて頼朝に聞き返した。「そうだ、九郎・・・何か不満か・・・」頼朝は九郎の発言をいぶかしんだ。「・・・いえ、そうではありませぬが・・・」九郎義経の返事は歯切れの悪いものであった。「このわたしでよければ、相勤めさせていただきます」とは言ったものの、内心、(兄上の弟であるわたしが、大工に馬を引かねばならぬのか・・・)と腑に落ちぬものがあった。そこには、頼朝と義経の意識のズレがあったのだ。頼朝は九郎義経のことを、御家人のひとりとしてしか見ていない、たとえ血の分けた弟であっても。とは言っても、腹違いではあったのだが。頼朝の母は、尾張国熱田大宮司家に生まれた由良御前で義朝の正室であり、義経の母は、近衛天皇の中宮九条院の雑仕女であった常盤御前で義朝の側室であった、という事実もその背景にある。その上、「源氏の嫡流はわれただひとりでなくてはならぬ」という厳格な意識が、頼朝の頭の中にはあった。いまの東国政権を成り立たせているのは、この考え方であったのだ。「源氏嫡流の頼朝の元に、あまたの武士が馳せ従っているのだ」頼朝が東国武士の領地を安堵することによって、いまの東国政権が成ったのである。「ゆえに九郎義経は、わが家臣でなくてはならぬ」という結論が自然と出てくるのだ。一方の義経の方では、「血を分けた弟なのに・・・」という意識をぬぐい切れていないのだ。この意識のズレが、やがてこの国の王となる頼朝と戦の天才義経との間に、すでに存在していたのだった。
2013.01.24
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「天運を変えんがため、養和へ改元する」凶作が続く中での、中央の京の朝廷の決定であった。治承5年7月14日に養和元年となったのだ。その約7日後、鎌倉では、「都で元号が養和へと変更されたようですな」と安達籐九郎盛長が頼朝に言った。「昨今の国中の飢饉のありさまを見れば、当然のことでしょうが」頼朝と籐九郎は大蔵に建てた小御所にいた。「いかがなさいます、佐様」籐九郎が頼朝に問いかけた。目を閉じて聞いていた頼朝は、「わが支配の地で使うには及ばぬ」にべもなく言った。「すでにこの日ノ本の東の一角に、新しき支配権を確立したのだ、古き都に媚びる必要など、ない」頼朝は断言した。京の朝廷を正統な支配者と認めなくなっていたのだ。「おぉ、なんとも勇ましきお言葉、この籐九郎、感服いたしましてござります」「ゆえにこれまでと変わらず、治承の元号で押し通せばよい」「はっ!仰せのままに」「なにゆえ、わたしがこう考えるのか、わかるか、籐九郎」「・・・都の朝廷への対抗策・・・ですかな」これを聞き、頼朝の目が笑った。「さすがは籐九郎、察しがよい。われらが元号改元に従わぬことで、都の王家に揺さぶりをかけるのだ」「都の支配は東国には及ばぬと、知らしめるということですな」「いかにも、すでに時代は大きく動いておる」源頼朝の頭脳が、日ノ本を根底から変えようとしていた。
2013.01.23
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「海に出たぞ!」千曲川畔の横田河原で越後の城助職の軍1万を撃破した木曾義仲は、その勢いを駆って一気に日本海岸まで進軍し、越後国府に入った。「光盛殿!此度はよう働いてくれた!さぁ!ご覧あれ、この広い海を!」日本海を初めて見た義仲は興奮気味に井上光盛に語りかけた。「はっ!お褒めいただき、恐悦至極!」光盛も義仲軍に従って国府に入っていたのだ。「さても軍を7手に分けて攻めたという、敵も翻弄されたであろう」「はっ、平氏方の兵どもの狼狽振りが今でも目に浮かびますわ」「ははは!さもありなん!」義仲の笑い声が日本海の潮風に響き渡った。「殿、さればこの7手攻めの法をわれらが軍術とされてはいかがでしょう」と声をあげたのは、義仲の右手に侍していた今井四郎兼平であった。仲原兼遠を父に持ち、義仲の乳母子として幼きころから義仲とともに育った、義仲四天王のうちのひとりである。「おぉ!それはよい、縁起のよい数であるからな!」そういい放つと、義仲は視線を日本海の右手に向けた。「逃げた城助職は、阿賀野川の北にいるのであるな」その目つきは細く厳しくなっていた。その質問に四郎兼平が応えた。「はっ、されどかの地の在庁官人らの反乱に巻き込まれたようです、その支配力は目に見えて衰えているかと」「そうか、以後も北への警戒は怠るな、そして・・・」次に義仲の視線は日本海の西方へ向けられた。「この北陸道を上れば・・・都がある!」越後国府に入ることによって、中央に覇を唱える足がかりを得たのだ。「われらの時代が・・・来た!」木曾義仲は、上体をのけぞらせ両の手に拳を作って、海に向かって、叫んだ。「オォォォォォ~~~~~!!!!!」四郎兼平以下義仲軍の武者どもも、広き日本海の空に向かって雄叫びを上げた。「負ける気が、せぬ!」粗野な、荒々しき若き力が、洗練された都に近づこうとしていた。
2013.01.22
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「七手に分かれて攻め寄せよ!」井上光盛のつぎなる下知が戦場にこだました。 「赤旗から白旗へ変えると同時に抜刀!一気に蹂躙せよ!」井上光盛軍は城軍の目と鼻の先まで近づいていた。一方の、城氏の軍陣では、「おぉ!味方の平氏軍が参着したぞ!」と城氏方の武士どもは油断していた。だが目の前の状況が一変する。味方だと思っていた軍勢が一瞬にして敵方に豹変したのだ。「て!敵襲!謀られ・・・ヒャッッッ!」敵の襲撃を告げた兵は、光盛軍の放った征矢にその咽喉元を貫かれて即死した。「平氏の加勢ではなかったのか・・・おのれ!源氏ども・・・」城助職はなす術もなく越後への退却を余儀なくされた。横田河原の合戦は、木曾義仲方の圧倒的勝利に終わったのだった。
2013.01.20
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「赤旗を掲げて進軍せよ!」義仲方の井上光盛(いのうえみつもり)の下知が飛んだ。井上光盛は保科党を率いる信濃源氏の代表格であった。「義仲殿は依田城から打って出て、南方より城の軍勢に襲い掛かる!われらは逆の方角から彼奴らを攻める!」かねてから手はずは調っていたのだ。井上光盛は3千騎を従えて城氏の軍へ近づいていった。
2013.01.19
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年の初めの挨拶回りの最後のカフェです。Uji Cafe & Lunch Amuzak宇治橋の袂、宇治平等院の参道の入り口にあります。このカフェはビルの2階にあるので、宇治川と宇治橋、その奥の屏風のような山々といった景観を楽しむことができます。お抹茶カルボナーラ パン付 ドリンクセットアムザの定番メニューです。基本のカルボナーラに抹茶の香りがとてもよくマッチしたパスタです。「やっぱ、この味はアムザやな~」ご当地メニューの再確認ですな。と、カフェの中を見渡すと、今日はなにやら、「アートチョーク」なる油性クレヨン教室が開かれているようです。皆さん、思い思いに絵を描いてます。アムザのいいとこですな、このようなイベントがたびたび催されて。「今年もよろしくお願いします」
2013.01.18
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「われらが勢力は、キソ党・サコ党・上州勢合わせて3千にて」樋口兼光が義仲に言上した。キソ党は義仲直属の主兵、サコ党は滋野(しげの)氏一族の佐久党、上州勢は義仲の父・義賢(よしかた)の勢力下にあった武士団である。それらは那和・桃井・佐位・瀬下・木角氏である。「相対する越後勢およそ1万との知らせにございます」木曾義仲軍は信濃の依田城に陣を張っていた。「われらが総数の3倍か」義仲が言った。「は、されど精鋭ぞろいにて、みな殿に忠誠を誓っております」「ふはは!頼もしき者どもよ」「さよう、さらに斥候の知らせによれば、かの越後勢の大半は駆武者の寄せ集め、しかも越後からの長き行軍で疲れもたまっておる様子」「よし!城から打って出る!兼光!いざ出陣!」「仰せのままに!」治承5年6月13日、横田河原の合戦の火蓋は切って落とされた。
2013.01.16
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「越後の城氏が出張(でば)ってきたか」木曾義仲がつぶやいた。義仲は昨年治承4年12月には信濃に戻り、小県郡の依田城を拠点として軍団を組織していた。その中には信濃の有力武士の根井氏・海野氏らがいた。「越後の城助永(じょうすけなが)には、都から源氏追討の宣旨が出ているようですからな」と応えたのは、樋口兼光である。木曾四天王のひとりであった。「ですが、わが斥候の知らせによれば、すでに助永は病死した模様にて。今かの越後軍を率いているのは、弟の助職(すけもと)だそうです」「兄だろうが弟だろうが、わが進軍を阻むものは蹴散らすまでよ」もうひとつの源氏の枢軸、若き荒武者・木曾義仲は黄金造りの太刀佩いて、すっくと仁王立ちにて言い放った。
2013.01.14
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「裏切り者が出た模様にて!」河野通清の郎党が叫んだ。「兵糧を備蓄している蔵から火が出ております!城内に敵の内通者がっ!」郎党の悲鳴のような声が高縄城にこだました。「おのれっ!平氏め!通信!通信はどこにおる!」通清が叫んだ。通信は通清の嫡子であった。「はっ!父上!わたしはここに!」子の通信が父のもとに駆けはせ参じた。「おぉ!通信!もはやこの城はこれまで!そなたは裏手から落ち延びよ!」「ですが父上はいかにされるのですか!」「わたしは表門から敵陣へ打って出る!われら伊予河野の勇猛を平氏どもに知らしめてくれるわ!」この直後、気性の荒い駻馬にまたがった通清を先頭に、50騎が沼賀西寂軍のただなかに突入し、征矢の集中攻撃を受けて壮絶に討ち死にしたのだった。河野通清は、以仁王令旨など見たことがなかった。王家の後継者争いのことなど眼中になかったのだ。ただ在地武士団の間での勢力争いがその背景にあり、自己の利益追求と平氏への反発と、東国の源氏どもの挙兵が引鉄(ひきがね)となって叛乱を起こすにいたったのであった。
2013.01.13
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「今年の冬はホワイトウィンターって感じの雪が少ないですね」2013年のカフェ巡りの新年の挨拶回りはまだ続いてます。今日は、"DINING + CAFE & BAR 閏"です。冒頭の言葉は、ここに最初にいざなってくれた閏おねえさんとの会話でのヒトコマです。このカフェは西洞院御池上ルにあります。ショートパスタ コンキリエ ツナとケッパーのトマトソース Aセット パン スープ +コーヒー「今回のスープはキャベツポタージュです」閏おねえさんが教えてくれます。ホッと安心させてくれるおいしさです。ボクはここのショートパスタの大ファンで、「コンキリエは貝のおなかの中に入ったソースがジュワっとお口の中で広がるときの感覚が最高ですわ」とボクが言えば、「そう言ってくださるお客様はそうそういません、でもねらい通りです」と閏おねえさんが切り返してくれます。このようなスタッフさんとのおしゃべりも、カフェ巡りの大切な要素であり楽しみでもあり。今年もおいしいパスタをいただきま~す
2013.01.11
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「沼賀西寂の兵が3000余騎も攻めてきたのか・・・」河野通清は窮地に立たされた。沼賀西寂(ぬかさいじゃく)は平氏方の備後国の武士である。「いたしかたなし!高縄城に立て籠もる!」と通清は本拠とする高縄城に篭城せざるを得なかった。「かの城を四方より攻め立てよ!」入道西寂の激しき檄が飛ぶ。その命に従って、配下の3000余騎の馬の轡を押し並べ、平氏の武者どもの征矢が矢継早に、城に向かって引き取り指し取り散々に射られたのだった。
2013.01.10
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2013年になって、ボクの行きつけのカフェに挨拶周りしているといったところですmement mori琵琶湖疏水と東大路通りの交差点を東にちょっと行ったとこにあります。ボクにとってとっても落ちつけるここちのよいカフェです。今年のメメのファーストランチですな。ごはんプレート 豚肉のマスタードクリーム煮見るからにめちゃおいしそ~「豚肉は赤ワインにつけて臭みをとって」とカフェおねえさん。いや~、お肉やわらかでとってもおいしいです~。ごはんによく合う味付けですわ~「ごぼうのてんぷら、サクっとやわらか!意外~!」お料理と盛る小さなお皿たちも、カフェおねえさんの期待にこたえて活躍してますよ~
2013.01.10
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「坂東で源氏が挙兵したと?」河野通清(こうのみちきよ)が己が郎党に聞き返した。治承4年の半ば、ここ四国にも坂東での頼朝ら源氏の挙兵の余波が届いたのだ。河野氏は伊予の越智郡を本拠地とする武士で、伊予第一の名族で国造の末裔・越智氏の流れを汲むという。「甲斐源氏や信濃源氏もか・・・」(これは千載一遇の機会かもしれぬ)と通清は考えを巡らした。「新居(にい)のやつらは前々から気に食わなかったからな」ここ四国にも、平氏の家人となることによって幅を利かせている武士団がいたのだ。それが河野氏と競合関係にあった新居氏である。「平氏に寄り添って自分だけ甘い蜜を吸いおって・・・平氏の目が坂東に釘付けになっておるこの隙に、四国を平らげてくれるわ!」通清は源氏への加担を格好の大義名分として、平氏家人の新居氏を追い落とすため挙兵に踏み切ったのであった。治承4年8月、平維盛の目代を討ち、伊予を完全に支配下においたのだ。
2013.01.08
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「原田種直を太宰権少弐に任命する」治承5年4月10日、平宗盛の強い推挙によるものであった。「それには賛同しかねますな」公卿を代表して、右大臣九条兼実が反対の意を表明した。(さらに平家恩顧の家人を繰り出すか)他の公卿も内心はこのように思っていた。「鎮西においても、わたしにお任せあれ」この措置は、畿内惣官職としての宗盛の鎮西における権限発起であった。太宰権少弐(だざいのごんのしょうに)の地位は大宰府の現地最高責任者に相当する。原田種直(たねなお)は、天慶の乱鎮圧に活躍した大蔵春実(おおくらはるざね)の嫡流で、平家盛の娘を妻とする平家の有力家人である。その本拠地は大宰府に近い筑前国原田であった。「この措置により、菊池隆直らの叛乱は鎮圧されるであろう」畿内惣官職宗盛は、自信ありげに宣言した。だが、種直による隆直追討の動きは一向に見られず、「ええぃ!原田種直は何をしておるのだ!貞能!そなたがゆけ!」と平家譜代の有力家人・平貞能(さだよし)が追討使に任命され、8月3日に都を発したのだった。貞能の父は、平家の「一ノ郎等」と呼ばれた平家貞(いえさだ)である。
2013.01.07
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「わたし自身が下向して叛乱を鎮める所存にて」悲痛な面持ちでこう切り出したのは、公卿の藤原頼輔(ふじわらよりすけ)であった。頼輔は歌人としても知られ、豊後国を知行国としていた。治承5年2月29日、頼輔は右大臣九条兼実の館を訪れていた。2月16日に平重衡の鎮西追討使派遣が決まったものの、10日後の26日に中止され、平家が何らの対策も講じられぬ間に、鎮西での叛乱の動きは豊後国にも飛び火していたのだ。「刑部殿、まずは落ち着かれよ」と兼実は官職名で頼輔を呼び、言葉をかけた。頼輔は嘉応2年に刑部卿に叙任されていたのだ。「そうはまいりませぬ、豊後の武士らが叛乱を起こし、目代を追放したのですぞ」「それゆえに朝廷は追討使を派遣すると決定したのです」「いやいや!わたしの唯一の収入源である知行国豊後に追討使が入ったら、国が荒廃してしまいます!」「そうとは思えないが」「いいや!追討使が派遣されれば、現地での兵粮米徴収が始まりましょう!そうなれば、国中いったいどのような悲惨なことになるか・・・そうさせぬためにわたし自身が下向するのです!この件はすでに平相国清盛の了承を得ています!」「刑部殿・・・そこまでのお覚悟とは・・・」兼実は呆れかえった。その後、刑部卿頼輔は実際に豊後に下向し、叛乱に加わっていた緒方惟栄の説得に成功したのだった。
2013.01.06
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「菊池隆直の軍勢が数万に及ぶとか?」日本国の東・鎌倉で梶原景時が源頼朝に拝謁して御家人に列せられた1月11日、その同じ日にこのような風聞が都に届いたのだった。清盛により、畿内惣官職に補任された宗盛にその情報がもたらされたのだ。菊池隆直は、肥後国の武将で、通称九郎。九州一円にその強大な影響力を持つ大親分的な存在であった。前年の治承4年の末には肥後の武士である阿蘇惟安(あそこれやす)と木原盛実(きはらもりざね)らとともに大宰府を襲撃していたのだ。「この動きを抑えねばならぬ」この同じ日、朝廷で討伐の宣旨の発布が議論されてはいた。だが手をこまねいているうちに、謀反の動きはさらに激しさを増していた。「宇佐大宮司公通(うさだいぐうじきんみち)殿から書状が届いております」2月に入って、公通からさらに詳しい菊池隆直の謀反の様子が知らせれた。「もはやこれ以上、鎮西の事態を放置できませぬな」平重衡が宗盛に対してこう言った。「されば重衡、そなたを大将として追討使を派遣しようと思うがどうか」宗盛が言った。「は、わたしにお任せくだされば、たちどころに鎮めてみせましょう」「よし!さえば2月16日に都を発し、鎮西へ向かうべし!」との決定がなされた。
2013.01.04
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あけましておめでとうございます2013年初のカフェ巡りです。お正月ということで、まずは初詣に。"御金神社"「みかねじんじゃ」と読みます。西洞院御池上ルにあるんですよね。お金にまつわる神社ってことで、皆さん真剣にお参り(?)してます今日はちょっと寒さが厳しく、そんな折、ここ御金神社には焚き火がたかれてて、「ほぁ~、あったまる~」"mement mori"2013年のファーストメメントモリです。この、メメのおねえさんお手製の門松(?)がなんとも気持ちを和やかにしてくれます。ランチは5日からということで、今日はスィーツを注文。"ガトーショコラ ゆずのソース"ガトーショコラはナイフを入れたときのサクサク感、アイスにかかったゆずのソースがとってもさっぱりしてて、ショコラの濃厚さと対照的のおいしさですそしてここに来ていつも思うこと・・・ふっとゆるやかな居心地のよさは今年も変わらず、本を読んでいてもすっと目を閉じて店内を流れる音楽を聴くほうが気持ちがいい、と感じさせてくれるカフェだな、って。
2013.01.03
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「あの時なぜわたしを助けてくれたのだ」頼朝は梶原平三景時(かじわらへいざかげとき)に聞いた。治承5年1月11日のことである。頼朝の大蔵郷の新館・鎌倉屋敷においての初めての拝謁であった。実は景時は、昨年末の12月に土肥実平を通じて頼朝に降伏していたのだ。「・・・将の器を・・・見た、からですかな」「ほう、このわたしにか?」「左様、石橋山のときについていた大庭景親殿には悪いが、あの御仁にはそれがなかった」「なるほど」「もって生まれた天賦の才、といいましょうかな」そこまで言って、景時はハッとうつむいた。「どうされた、景時殿」頼朝がそう声をかけると、「いや、ぬけぬけと言っておる自分がちと恥ずかしくなりましてな」「なにゆえに」「もとより、別の理由があるからでござる、ここであなたを助ければ、もしこの先勢力が逆転したときにわが命をつなげる縁(よすが)になる、と」「あの石橋山の洞窟のなかでそのように思いを巡らしたと?」「左様、なんとなれば生き残る道を鋭い嗅覚で嗅ぎ当てるのが武士なれば」「ははは!おもしろい!そのような考え方もあるものか!」頼朝は大いに笑った。「よかろう!梶原平三景時!わが御家人に列する!われに忠誠を尽くすのだ!」これを聞いた景時は両の目を大きく見開いて、ガバっとひれ伏して言った。「ハッ!ありがたき幸せ!この命に懸けて!」
2013.01.02
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「佐様のお立場を考えねばなりませぬな」こう切り出したのは、土肥実平であった。「わたしの、立場とは?」「一軍の将としての、という意味です」実平は続ける。「佐様の許にはいまや有力な御家人があまた参じ、その動かすことのできる軍は数万をくだりませぬ、となってはそれなりの威儀というものが必要となります」「うむ、なるほどな」「よって、その権威付けの一環として寝所を警護する祗候衆(しこうしゅう)を定めようと思っております」「ははは!ようもそのように頭が働くものよ、次郎実平は」「は、恐れ入ります」「よい、して、その候補はあがっているのか」「はい、このような面々にて」実平は一枚の書面を頼朝に手渡した。そこには以下のように書かれていた。北条義時(時政の次男、北条政子の実弟、後の鎌倉幕府の第2代執権)、梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ、景時嫡男)、榛谷四郎重朝(はんがやしろうしげとも)、下河辺庄司行平、千葉太郎胤正(ちばたろうたねまさ)、小山(結城)七郎朝光、和田次郎義茂(わだじろうよしもち、義盛の弟)、宇佐美平次実政(うさみへいじさねまさ)、三浦十郎義連(みうらじゅうろうよしつら、佐原義連、三浦義明の末子)、葛西三郎清重、八田太郎知重、ら総勢11人である。治承5年4月7日のことであった。頼朝は、坂東の王としての礎を着々と固めていった。
2013.01.01
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