曹操注解 孫子の兵法

PR

Profile

曹操閣下

曹操閣下

Favorite Blog

GLORIA’S W… Gloria-Rさん
曹操閣下の食卓 曹操閣下の食卓さん
Thanking Nature*** 夏菜々+Kanana+さん
DEATHRAGER 休戦 呂布子さん
「こば爺の部屋」~… こば爺さん

Calendar

Feb 12, 2015
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

熊本大学永青文庫研究センターの歴史資料研究の活動、信長の手紙の解読と研究の過程を垣間見ることができたのは面白かった。

しかし、稲葉継陽(永青文庫研究センター長)教授の見解は非常に慎重なもので、
一次資料である信長の最後の手紙、本能寺事件の1ケ月前の文面で、
「丹後の細川藤孝は、山陰道の総大将、明智光秀の別命を待て、と信長から直接指示された」と指摘。
光秀が細川軍を指揮する立場にあったことで、信長が光秀を不当に扱ったという定説のほとんどは、
「すべて一次資料によらない伝聞に基づくもので、必ずしもそうとは言い難いのではないか」と疑いを向けられていた。

あんまり目立たない意見だが、定説に異議をつけることは、実は歴史学者としては乾坤一擲の勝負というところだろう。

さて本能寺事件の後、細川藤孝は信長の死を悼んで、ただちにチョンマゲを断ち切って、家督を長男の忠利にゆずり、その妻ガラシャ(光秀の娘)を丹後の山奥に幽閉した。



ここで細川藤孝がどんな人物だったかを再確認する必要があるだろう。
彼はまず足利義昭を奈良の興福寺から脱出させ、越前まで落ち延びたが、光秀と提携して織田信長と交渉。
ついに足利幕府の再興をなしとげた人物だ。
つまり、天皇、公家、武家のそれぞれを分権して顔を立てる役割をつけて配置する当時の中央政府機構の複雑な組織図が描ける知恵者だったということ。
この時代の公卿と公儀(将軍)が尊重したルールブックはすべて過去の先例の記録。いまでいう裁判所の判例集と同じもの。
気位の高い公卿たちは、知識豊富な細川藤孝に「これは、あなたたちの偉大なご先祖、藤原道長公も同じようになさったことですよ」と先例でダメ押しされると、不満も言えないわけ。
これは光秀にはできない。
だから光秀は藤孝が必要だった。
光秀の三日天下と言われる新体制構築の不如意と迷走は、すべて藤孝の不参加が原因。

だから秀吉は清洲会議の直後に血判状を書いて、藤孝に新体制の信任を懇願した。
藤孝は戦争しか知らない黒田官兵衛とはちがう当時最高の知恵者だったことの証明だろう。


そこには、「今回、信長を討った理由は、藤孝さん、あなたとあなたのご家族のためでもあるのですよ。そのことはわかってるでしょ」みたいな内容が書かれていた。
もう僧籍に入って引退隠居の意思表示をした藤孝に対して、
「やっぱり、あなたがいないとやっていけないよ」と光秀が本音で哀願した手紙だったのだ。

この内容の解釈について、稲葉継陽教授は「歴史にifはありませんから」と言葉を濁した。

なぜ、光秀は本能寺事件の理由を「藤孝さん、あなたのためでもあるんだから」と恩着せがましく書き込んだのだろう。




【2】につづく。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Feb 12, 2015 11:17:34 PM


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: