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父さんの思い出 第1話 「迷子」
小学校3年生の夏の終わりのある日、母から電車賃として小銭を2枚もらい、当時自宅のあった江ノ電の鵠沼駅からひとつ隣の湘南海岸公園駅の友だちの家へ1人で遊びに行った。自宅と友だちの家とは直線で1 Km ほどだったが、間に境川が流れていてどう歩いていくのか分からなかった。そこで友達が駅まで迎えに来てくれることになっていた。
その友だちの家はとても広い家で庭には境川につながる大きな池があった。その池で4~5人の友だちとフナ釣りをして遊んだ。簡単な仕掛けにえさはご飯粒。これで面白いほど良く釣れた。楽しく遊び、時間はあっという間に過ぎた。3時を過ぎた頃だろうかその家のお母さんに呼ばれ、皆おやつにフルーツポンチをご馳走になった。私は初めてフルーツポンチを食べ、その美味しさに感動した。そして、「お金持ちの家はいいなぁ」と、思った。
その後またしばらく遊んでから帰ったのだが電車で来ていたのは私だけだった。そこで友だちとお母さんが私を駅まで送ってくれた。しばらく駅のホームで、一人で電車を待っていた。そして来た電車に乗った。
ところがその電車は私の思った方向と逆の方に動き出した。私は江ノ島行きに乗ってしまったのだ。「どうしよう、どうしよう・・・」と、おろおろしたが、どうしようもなかった。
電車は江ノ島の駅に着いた。仕方なく電車を降り、駅を出た。帰り道が分からない。もう電車賃も持っていない。私はもうどうする事もできず、駅前でただ、ただ泣いていた。
すると「坊や、どうした?」と40~50代の男の人が声をかけてくれた。その人は灰色の作業着で自転車をひいていた。私が鵠沼の家に帰るのを間違って江ノ島に来てしまった事を話すと、優しい眼差しで「そうか、それじゃおじさんが送ってあげよう」そう言って、太って重い私を抱き上げ軽々と自転車の荷台に載せてくれた。
自転車は夕暮れの中、私の見知らぬ町をゆっくりと走って行った。しばらくすると、人家が少しずつ減り、田んぼの中のあぜ道を走っていた。カエルがゲロゲロ鳴いている。夕焼けが空を真っ赤に染めていた。
ふと、田んぼを見ると見覚えのあるあぜ道だ、よくザリガニやカエルなどを獲りに来る田んぼだ。おじさんの背中の左側の方から境橋が見えた。「おじさん!ここなら、僕知ってる。ここからなら一人で帰れるよ」私がそう言うと、「もう遅いからお家まで送ってあげるよ」と、優しいおじさんの声がした。
境橋を渡り鵠沼藤が谷3丁目の私の家に行くには上り坂があった。私が重かったせいか、おじさんは自転車を引いて上った。私が降りると言うと「もう少しだからいいよ」と言ってくれた。
家の前に着くとスタンドを立てて、重たい私をまた抱き下ろしてくれた。「おじさん、どうもありがとうございました」本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。「いいんだよ、でももう迷子にならないように気をつけてね。それじゃ、さようなら」笑顔でそう言うと、私に手を振り自転車に乗った。
「ありがとうございました。さようなら」もう一度頭を下げ、手を振って玄関の前まで行き振り返ると、もうおじさんはいなかった。
家に入り、母に今までの事を話すと「何でその方を中までお連れしなかったの!?」と言うなり、母はそのおじさんを捜しに外に飛び出て行った。夕焼けも、もうだいぶ暗くなってきている。しばらく母は捜したようだがあきらめて帰ってきた。そしてこう言った。「お兄ちゃん(長男の私はこう呼ばれてた。)人に親切にされた時はお礼を言うだけでなく、お父さんやお母さんからもお礼をしたいから、お名前や住所を聞くなり、家に上がってもらうなりしなさい」
子どもなりに気配りが足りなかった事を反省した。
あの時のおじさん本当にありがとうございました。
今、私はあの時のおじさんと同じくらいの年齢になった。駅前で泣いている子どもがいたらどうするだろう。もちろん声はかけるだろうが、迷子の子を自転車で送るなんて出来ない。もちろんしたくないわけではない。困っている人を見たら、助けてあげたいと思う気持ちは私も人並みに持っているつもりだ。
でも嫌な世の中になった。親切でとった行動が時に誘拐や変質者扱いされかねない。そう思うとやたらに子どもたちに声もかけられない。
私が子どもだった頃は、悪い事をすれば当たり前のように知らないおじさん、おばさんが叱ってくれたものだ。また、子どもが困っているときには知らない人が助けてくれた。それが当たり前の事だった。
そんな当たり前の社会に戻る事はできないものだろうか
平成19年6月3日

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