秋山巌の小さな美術館 ギャラリー馬美 の町田珠実です。
今日は、「館山海軍砲術学校」跡をご紹介します。
といっても、看板だけですが・・・
書いてある説明は、
館山海軍砲術学校跡
第二次世界大戦以前は、海戦における主な攻撃力は、大砲であると考えられ、明治時代以来旧海軍の砲術教育は、神奈川県横須賀で行われていました。
昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした、館山海軍砲術学校(館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は、横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開講直後は、軍医学生が海軍士官としての素養学ぶ、基礎教育の場でもありました。
昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の4,000名は、5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
訓練施設としては、広大な平砂浦演習場、東砲台、西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由は、アメリカ軍の本土上陸が想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で、教育訓練を行うことが、適当ではなくなったためといわれています。
平成18年3月 館山市・館山市教育委員会
旧館山海軍砲術学校施設略図
参考文献「館山海軍砲術学校五期学生二期生徒敢闘録 懐旧平砂浦」とあります。
道路を挟んで反対側には、こちらの看板。
館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊(真継不二夫氏撮影)
説明文
昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。
同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。
この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者は比島、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船における戦没者は次のとおりである。
大和 9、武蔵 6、山城 6、長門 5、扶桑 3、那智 3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城 各1
グアム、テニアン、パラオ、比島方面、インド洋方面、ビルマ、ビアク、ボルネオ、セレベス、ラポール、南漢島、マレー方面、スマトラ、舟山島、東シナ海、モルッカ諸島、マリアナ群島、黄海、内南洋、アンポン、ニューギニア、ペリリュー島、サイパン方面、硫黄島、東シナ海方面、台湾方面、沖縄方面、南西諸島方面、千島、内地近辺、合計229名。
この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者 若干名。法務死 若干名。
ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。
上記 ↑ の説明文は、今回とても参考になっているサイト「 殉國の碑 」 さんより、転載許可をいただき転載しております。
相馬市のお隣、原町出身の特攻の方がいることも、教えて下さいました。
第一神風特別攻撃隊敷島隊 海軍少尉中野磐雄
「殉國の碑」様、私も訪ねてみます。ありがとうございました。
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