
ギャラリー馬美 の町田珠実です。
歎異抄第三条、私にはとってもグサッときました。親鸞の言う「善人」と「悪人」は、本当に間違えないように理解しないといけないということが、少しわかってきて、「あまり深入りしないでおこう」と、もう一人の私が言っております。煩悩だらけ・・・です。
私は、自分の勉強の為に、いろいろ調べながら書いていますので、ご興味のあるかただけ読んで下さいませ。
一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり
歎異抄第五条
<本文>
親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情(うじょう)は、みなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生(じゅんししょう)に仏になりて、たすけさふらふべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を迴向(えこう)して、父母をもたすけさふらはめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生(ししょう)のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便(じんづうほうべん)をもて、まづ有縁(うえん)を度すべきなりと云々。
<意訳>
親鸞は、死んだ親の追善のために念仏を唱えたことは一度だってありません。
なぜなら、この世に生をうけたものは、みな縁つづきの「はらから」であり、あの世においてはすべて等しく救われるべきものです。
それに、念仏というものが、自分の努力でしている善行とでもいうなら、その念仏の結果を父母の報にむけて、両親を救うということも考えられるでしょうが、そういうものではないのです。
それよりも、自力という考えをまったく捨てて、他力の救いが完成したならば、その時こそ輪廻のどんな境遇にある他人でも、ふしぎな力によって縁の深いものから順々に、ことごとく救うことができるのです。
本文・意訳とも、 歎異抄入門より(昭和36年初版)
親鸞の没年齢に近づきつつある父「秋山巌」が、山頭火に取り組んだ以上の情熱で、「親鸞聖人」に取り組んでいるのが、解ってきました。
親鸞の「うちわ」 世の中安穏なれ 2009.07.29
念仏者は無碍の一道なり 2009.05.24
善人なほもて往生す いはんや悪人をや 2009.05.22
PR
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ