2014年夏・欧州遠征(ドイツ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、イタリア、バチカン)(3)
欧州レポート(9)、8月18日(月)のモンテネグロ日帰りツアーの続き。
田舎道にあるドライブインでトイレタイム。しばし周囲の景色をどうぞ。
クロアチアから来てこの先モンテネグロの東側の国、アルバニアへ続く道路なので、結構交通量が多かったです。ガイドによれば、アルバニアからは欧州諸国へ出稼ぎが多いのですが、お金を稼いだアルバニア人は国に戻るときは飛行機でなく、車を買ってそれで運転して帰るのを周囲に見せつけたいので、そのせいでアルバニアに向かう道路は結構混雑するということだそうです。
その少し先、コトル湾の対岸までが数百mしかない最も狭い海峡のようなところで撮影タイム。
ここが対岸まで最も狭いところ。ガイドは、そう遠くない将来にここに橋がかかるだろうと言っていました。確かに車で湾をぐるりと回ると相当距離があり、もう少し海側にはフェリーが運航されています(復路はフェリーでした)。
これは観光客が立ち寄ると活発になる売り子の方々。そういえば右端の車のような、キャンピングカーを昨日からの道中でたくさん見かけました。裕福な人が多いですね。モンテネグロあたりはロシア人の金持ちが海辺の家を買い占めたりとか、ロシア企業が結構この地域に投資しているとかがわかりました。
こんな場所(真ん中の一番湾が細いところの左岸)で撮影してます。目的地のコトルはぐるっと湾を回って一番奥。
湾を回りきってコトル到着。この要塞の向こうに城壁と旧市街があります。昨日のボスニアのモスタル同様、最初の30分ほど現地ガイドが同行して説明し、あとは2時間くらいのフリータイムになります。続く。。
欧州レポート(10)、18日(月)のモンテネグロの古都、コトル到着から。
コトルは古代ギリシャ時代からの歴史があり、中世ではベネチアの勢力下に入ったあと、オスマン帝国の拡大に備えてこの城壁が造られたそうです。
ここは山が迫っています。「モンテネグロ」という国名は「黒い山」という意味(ちなみに中国語で「モンテネグロ」はそのまま「黒山」)で、黒く見える山から来ています。ガイドによれば、モンテネグロは65万人という人口(広さは福島県くらい)の小国ですが、男性の平均身長は世界で第3位くらいということで、バスケット選手とかでは優秀な選出の産出地であるとか。。
市内には内戦時に廃墟になった建物がそのまま残されています。ガイドの説明では、内戦で城壁のある旧市街や外側の市街地も破壊され、一時は誰も住む者がいなくなったそうです。その後復興が進み、最近では観光地として復活。コトルの旧市街は内戦以前から世界遺産でしたが、最近は風光明媚な観光地として人気が上がっているようです。
ドブロブニクの旧市街よりさらに小ぢんまりとしていますが、ここも違った趣で良い感じ。
右下の人がローカルガイド。このあたりの人はどこに行っても英語が普通にしゃべれますね。
山に木が少なく、岩がごつごつしているというのがこのあたりの共通ですね。
ここに限った話ではないですが、Free WiFiスポットがこんな感じで至るところにありますね。
左側がモンテネグロの旗。右はコトル市の旗という説明があったような。。
レストランのメニューを写したつもり。バルカン半島の国はトルコっぽい料理がやはり多いですね。トルコのケバブはここではチェバウとか言っていたような気がします。
こちらは新しめの教会。このへんの国は正教ですね。違いがよくわかりませんが。。
ここは湧き水だそうです。緑色にみえる水の美しさに目を奪われます。
透明度が高いです。クロアチアで最近人気の観光地、プリトヴィッツェ湖群国立公園の湖もこんな感じの美しさなんでしょう。今回はコトルで代わりにそれが見られた気がします。
真ん中に廃墟も見えますが、こんなところで戦争しちゃいかんですね。。
城壁をおり、旧市街をもう一回り。続く。。
欧州レポート(11)、18日(月)モンテネグロのコトル旧市街の続き。
城壁ツアーを終え、そろそろ集合時間が近づいてきたので、外へ出ます。
ここにも豪華客船が。この時期地中海クルーズは相当たくさん出てますね。
コトルの後は、湾の外側のリゾート地、ブドヴァというところに行きます。
ここはヨットハーバーとか砂浜とかあり、関東地方でいえば葉山みたいなところでしょうか。ガイドによると、このあたりはロシアからの投資やロシア人の観光客が多いとのこと。
海辺はオープンなレストランが並びます。ロシア語でレンタルのモーターボートの客引きが多かったです。
集合時間まで少しあるので、市内を散策。ハワイに行ったことはないですが、ハワイみたいなところです。
ショッピングモールにも入ってみました。こういうのはどの国に行ってもあまり変わりませんね。グローバル化の賜物って感じ。
ブドヴァは今回回ったいろいろな都市とはちょっと違う感じのところでした。
ドブロブニクへの復路は、コトル湾を大回りせずに、ショートカットで青い点のところからバスごとフェリーに乗ります。
乗船開始。対岸までは5分程度。前に桜島~鹿児島市内で乗ったフェリーを思い出します。
フェリーからの景色。続く。。
欧州レポート(12)、18日(月)のモンテネグロからドブロブニクへの帰路。
間もなくフェリーは対岸に到着。このあとは再びクロアチア国境を越え、18時過ぎにはドブロブニクのロープウェイ乗り場に戻って来ました。前日のボスニアといい、この日のモンテネグロといい、日帰りで陸路で簡単に行ける隣国、日本では考えられないですね。あと、そんな隣国と戦争をつい20年前にしていたということも信じられないですね。
この日の晩飯はまずミニサラダ(といってもでかいですが)から。
メインディッシュはリゾットにしました。ムール貝とか入ってます。
再びプラツァ通りを通って帰ることにしました。ドブロブニク出発は二日後の早朝。翌日は何も予定を入れていなかったので何をしようかと考えながら帰路に。
いつものように東側のプロチェ門を経由してゲストハウスへ。。
さて、ここから思いもよらぬ事件の始まりです。ちょうどその門を出るあたりで左肩にかけたリュックがなんだか引っ張られたような気がしました。後ろには中学生くらいの女の子が2人歩いていましたが、特に気にせず門を出るともう1回引っ張られたような気が。。門のところでリュックをよく見てみると、3つあるファスナーの一つが全開。。もしやと思って中をみると、そこに入れていたビニールのジッパー付の袋がなくなっていましたorz
その袋には パスポート のほか、たぶん1000円以下の20枚くらいのユーロのコイン、それとEチケットや宿泊先の予約確認書等の紙が5~6枚入っていました。もともとドブロブニクの旧市街はスリが多いので最大の注意を、というのが在クロアチア日本大使館のHPにも書いてあったので、「やられた」とすぐに思いました。さっきの女の子たちにたぶんやられたんだと確信しました。周囲を少し見回しましたが、もう暗くなっていてどうしようもなく、大使館に連絡するにしてももう勤務時間外(領事館はドブロブニクにはなく、大使館は首都のザグレブに)なのでNGだと分かったので、まずは対策を考えるためにゲストハウスに戻ることにしました。ゲストハウスへの急な階段をつらい気持ちで上ったことを覚えています。知り合いにもパスポートを盗まれた人はいますが、まさか自分がそれに遭遇するとは。一瞬の油断だったので、とても悔しい気持ちでした。
部屋に戻り(WiFi環境があったので助かりましたが)、まずは首都ザグレブにある日本大使館の連絡先をネットで調べましたが、勤務時間外なので明日の朝にならないとNG。でもたまたま持って行った某旅行雑誌の後ろの方に「事件や事故のときの緊急連絡先」というのが書いてあったのでケータイから電話してみました。しかし、誰も電話に出なかったので翌日トライするしかないと思っていると、先方から大変親切なことに電話をいただきました。大使館の方からはパスポート紛失のときの対処方法として、(1)現地の警察で盗難証明書取得(2)日本から戸籍謄本取り寄せ(3)ザグレブの大使館で緊急発行(写真と手数料別途)であると教えていただきました。
まずは(1)に着手。警察と言ってもどこにあるのかわからないので、日本でもかけたことのない「110番」にあたるクロアチアの警察の番号に電話をしてみました。「英語が話せるか」と聞くと、同時通訳的な第三者も電話に出ました。事情を話し警察の場所を聞きましたが、地名がよくわからず、断片的にビル名だけなんとか聞いて、ロープウェイ乗り場前にたまたま停まっていたタクシーを捕まえドブロブニク警察署へ(ここには警察署は一か所しかなかったようです)。タクシーの運ちゃんにも同情されましたが、夜遅いので警察前で待っててもらおうかと思ったものの、あっさりドライに去っていきました。警察署の窓口(当直)の警官に事情を説明すると、「申し訳ないが英語ができる担当者は明朝来るので朝9時ごろに来てほしい」と言われ、ゲストハウスにすぐ戻る羽目になりましたが、このときタクシーがなかなか見つからず市内方向へとぼとぼ10数分歩いているときはしんどかったです。。続く。。。