GOAL通信

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2006.02.21
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カテゴリ: 教育全般



 今の時代で考えた時、これほどナンセンスな言葉はない。その道一筋の仙人みたいなオッサンならともかく、世の中の普通人がロウソクの傍らで学問を究めようとしている姿など想像しただけで笑える。ましてや勉強という言葉は、一般的に子供たちの身辺世界で多用されるものである。目の前の子供たちを見ている限り、言葉の本来の意味と現実との落差はすさまじい。

 今の子供たちは「骨を折り、勉め励む」ことをしない。何かに夢中になることもあるだろうが、それは自身の快楽に根ざした単なる「没頭」であろう。骨を折り苦労することを知らないから、表面上の軽い知識ばかり増える。軽い知識は根を下ろさず、いつの間にか消え、新しいものにすげ替えられていく。それが悪いと言っているのではない。主題は勉強との相違である。

 自分の勉強部屋があり、勉強机があり、計画表には勉強時間と書き、親は勉強、勉強とけしかける。何か違うのではないか。子供たちがなぞっているのは目の前にある“つまらない”問題であり、宿題であり、ある意味で実用的な手順であり、命題としての勉強とは大きくかけ離れている。

 一方で「学習」という言葉がある。これはうまくできたもので、「学び習うこと」らしい。学問究明が勉強なら、その過程におけるスキルを身に付けることが学習だと言う。もちろん派生する知識を吸収していくことも学習。子供たちの営みを考えた時、勉強よりもこの学習という言葉のほうが意味は近いようだ。勉強は大人になってからゆっくりと価値が見え始める作業なのだろう。

 それにしても一体いつからこの二語が混同されるようになったのか。確かに学習机とは言うが、普通、学習部屋とは言わない。親も学習、学習とけしかけたりしない。暗黙の言い伝えなのか。幼児教育から高校教育までは、未熟な自己を知り、磨き、知恵を知り、方法を模索していく過程。今の時代で考えれば「学び習うこと」のほうが明らかにしっくり来る。

 子供たちと接しながら時おり深刻に思うことは、その学習すら「学」と「習」がバラバラで、一連の作業になっていない点だ。しかも学ぶ姿勢が受け身であり、残っていくものも常に希薄なままだ。私は勉強という言葉は嫌いだが、勉強の持つ可能性は大いに認めている。学習は量で測れるが、勉強は量ではなく深さで測るもの。だからこそ学ぶ時には、深く根ざすことが大切なのだと言われるのだ。

 「学習塾」と呼ばれる仕事をしている以上、何を学ばせ、何を習わせるのか、真剣に考えてみる必要がある。与えられるものは何か。子供たちの記憶に残していくものには何があるのか。今日も明日もこれでいいのか。このままでいいのか。勉強ができないという子供たち。彼らにしてあげられることには何があるのか、もう一度列挙してみようと思う。そして、勉強などと構えずに、目前の課題をこなしていく術を教えていこうと思う。学びから生まれる知恵。そして質にこだわりながら。





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最終更新日  2006.02.22 04:16:46


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